第55話『少女は旦那になってと興奮する』
缶コーヒーを飲み終わって、俺は海野家に戻る。健太と色々と話したからか、散歩を始めたときよりも明るくなった気がする。
海野家に戻ると、玄関の近くで璃子が掃き掃除をしていた。俺のことを見つけると、璃子はにっこりと笑ってお辞儀をする。
「おはようございます! 颯人さん!」
「おはよう、璃子。朝早くから旅館のお手伝いか。偉いな」
「えへへっ、ありがとうございます」
俺が頭を優しく撫でると、璃子は嬉しそうな笑みを浮かべる。もしかしたら、健太は彼女のこういう笑顔を見て好きになったのかも。
「普段よりも早く起きたから、お母さんに玄関前の掃き掃除してねって言われちゃって。まあ、お駄賃が上がるからいいですけどね。それに、颯人さんにも会えて偉いって言われましたし」
お駄賃が上がるならやってもいいと思えるよな。いつもはやらないことをやらせるときに、お金をプラスするというのはいいことだと思う。
「颯人さんって普段から早起きするんですか?」
「ううん、休日や夏休みだとゆっくり起きるよ。昨日はバイト疲れで普段よりも早く寝たんだ。それで、今日は5時半過ぎに目が覚めたんだよ。せっかく池津の街に来たし、散歩したいと思ってさ。こんな見た目だし、人通りが少ない今の時間帯はいいと思って」
「そうなんですか。颯人さん、珍しい感じの見た目ですけど、全然恐くないですよ」
屈託のない笑みで言ってくれるので、きっと本音なのだろう。嬉しいなぁ。
「……そうかい。散歩中にベンチを見つけたから、そこで海を見ながら缶コーヒーを飲んできた」
「そうだったんですか。あぁ、颯人さん、大人っぽくてかっこいい。お母さんも颯人さんの作った料理を絶賛していましたし、将来はあたしの旦那さんになって、海野家で働いてほしいくらいです! って、何を言っているんだろう、あたし!」
きゃーっ! と、璃子は興奮している。旦那さんとか具体的なことを話すことから、紗衣や麗奈先輩以上に俺のことを好いていたりして。何にせよ、こんなところを健太に見られたら嫉妬されてしまいそうだな。
「そうだ。散歩しているときに、健太と会ったよ。彼、朝と夕方にランニングをするのが日課らしいな」
「……そうですね」
健太の話題を振ったからか、さっきまでの興奮が嘘であるかのように冷めた様子になっている。先週の喧嘩は相当なものだったことを伺わせる。
「そのときに健太が俺に昨日のことを謝ってくれた。俺はそれを許したから。彼のお父上だけじゃなくて、璃子も俺に謝るように言ってくれたらしいな」
「……昨日の健太君の態度は酷かったですから。幼なじみとして、颯人さんに謝れってメッセージを送ったんです。颯人さん達は木曜日に帰っちゃいますし。今日から彼もうちの海の家の手伝いをしてくれますから、そのときにでもって」
「なるほど。いい幼なじみがいて健太は幸せ者だな」
「……もう、颯人さんったら」
えへへっ、と璃子は照れた様子。
「璃子や彼の父親の注意もあったからかもしれないけど、昨日の今日で謝ってくれたんだ。健太も素直でいい子だよな」
俺にちゃんと謝ってくれたし、俺のことを慕ってくれているので、『兄貴』として健太のことを持ち上げる。それに俺がそう言えば、少しは関係が改善されると思って。
すると、璃子はしんみりとした笑みになって、
「……素直でいい子なのは分かってはいるんですよ。健太君から喧嘩のきっかけを聞いたかもしれませんけど、先週の健太君は本当に酷かったんですから! 他の男の子と一緒にいたのが気に食わなかったのか、昨日以上に怒って、バカとかアホとか、そいつと一緒にいるのが楽しいかよって。思い出したらまたムカついてきました」
ほうきを持つ璃子の手が震えている。どうやら、昨日、健太と会ったとき以上に璃子は怒っているようだ。自分への好意に気付いているかどうかはともかく、怒った様子で色々と言われたらムカムカしてくるのは当然か。
「そうか。その気持ちは分かる。ただ、健太は俺にも謝ることができたくらいだ。だから、璃子にもいずれは謝ってくるんじゃないか? 今回はかなりの喧嘩のようだが」
「どうでしょうねぇ」
懐疑的になっているようだな、璃子は。それだけの喧嘩をしてしまったってことか。
「……嫌なことを思い出させてすまなかったな」
「……いえいえ。こちらこそ、颯人さんの前でこんな態度を取ってしまってごめんなさい。颯人さん、今日も一緒に海の家のお仕事を頑張りましょうね!」
「ああ、頑張ろう」
俺が再び頭を撫でると、璃子はまたにっこりとした可愛らしい笑みを見せてくれる。
「じゃあ、またあとで。璃子」
「はい。またあとです」
璃子と小さく手を振り合って、俺は従業員用の出入り口へと向かう。
璃子は健太にかなり怒っていたようだった。果たして、健太が謝って璃子は許してくれるかどうか。もし、何かあったら健太のことをフォローすることにしよう。
「あっ、颯人君」
出入り口の近くで、桃色の寝間着を着た咲夜がストレッチをしていた。俺と目が合うと、咲夜はほんのりと顔を赤くする。
「おはよう、咲夜」
「お、おはよう、颯人君。池津の空気を吸うのも兼ねて、眠気覚ましにストレッチしてたの。寝間着姿を見られちゃってちょっと恥ずかしい」
「そうか。その寝間着姿、俺は可愛いと思うな」
「……あ、ありがとう。可愛いって言ってくれたから、特別に写真を撮ってもいいよ?」
そう言う咲夜の顔の赤みは更に強くなっていく。
俺は咲夜のお言葉に甘えて、スマートフォンで寝間着姿の咲夜の写真を撮る。はにかみながらピースサインをする咲夜はとても可愛らしい。
「は、颯人君も早く起きちゃった感じ?」
「ああ。昨日の夜は、温泉から出てすぐに寝ちゃったからな。5時半過ぎに起きて、散歩してたんだ。その間に健太に会ったよ」
「健太君って昨日のバイト終わりに会った子だよね。璃子ちゃんの幼なじみの。昨日の夜、お風呂で髪と体を洗っているとき、颯人君のことを話した流れで健太君の話にもなって。先週のお買い物中に喧嘩したみたいだね。あと、颯人君に謝るように注意しなきゃって璃子ちゃんが言ってた」
咲夜達は昨日の入浴中に、健太のことを聞いていたのか。
「健太には謝ってもらって、璃子にはそれを伝えておいた。喧嘩の件は健太から話されたし、ここに戻ってくる途中に玄関の掃除をしていた璃子からも聞いたよ。2人は喧嘩をよくするらしいけど、今回はかなり長引いているみたいだな」
「そうみたいだね。昨日、寝る前に紗衣ちゃんと会長さんと、2人が仲直りするために何かできることはないかなって考えていたんだけど、なかなか思い浮かばなくて。ただ、出会って間もない高校生が、そういうことをしていいのかなとも思ってて」
咲夜は苦笑いを浮かべている。
3人とも、璃子と健太が仲直りできるように考えていたんだな。優しい子達だと思う。
「そのことだが、健太が今日のお手伝いの合間か、終わった後にでも璃子に謝りたいと考えているみたいだ。だから、俺達は2人のことを見守ることにしないか? 健太にはとりあえず見守るとは言ってある」
「そうなんだ!」
咲夜はぱあっ、と明るい笑みを浮かべる。その様子を見て、昨日の夜は紗衣や麗奈先輩と仲直りすることについて真剣に考えていたことが伺える。
「それなら見守るのがいいね。じゃあ、後で紗衣ちゃんと会長さんにも伝えておくよ。さっき起きたときは、まだ2人はぐっすりと眠っていたから」
「ああ、よろしく頼む」
俺だけじゃなくて、咲夜達も見守ってくれる方が健太も安心できるだろう。そのことについて、健太にメッセージを送っておくか。
「颯人君。今日も一緒にバイトを頑張ろうね。あと、健太君が謝ることができるように陰で支えよう」
「ああ。2人が仲直りできるといいよな」
それで、健太の12歳の誕生日である今日が、2人にとっていい一日だったと思えるようになるといいな。
「昨日よりも長いけれど、一緒に頑張ろうな」
昨日は昼過ぎからのバイトだったけれど結構疲れた。今日は朝から夕方までずっとあるので、無理せずにやっていかないと。健太と璃子だけじゃなく、咲夜達のことも気にかけるようにしよう。
そんなことを考えていると、咲夜は拳にした右手を俺に差し出してくる。そんな彼女はとても爽やかな笑みを浮かべていて。
俺も右手をぎゅっと握って、咲夜の右手に軽く当てた。こういうシーン、漫画とかで見たことがあるけれど、実際にやるとちょっと照れくさくなるのであった。
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