第54話『少年は兄貴と慕う』

 7月30日、火曜日。

 昨日は普段よりも大分早く眠ったからか、今日は午前5時半過ぎに起きてしまった。ただ、それでも、8時間くらいは眠ったのでスッキリと目覚めることができ、昨日の疲れは残っていない。

 この時期だからか、この時間で既に外は明るくなっていた。7時の朝食までは時間があるので、近所を散歩してみるか。せっかく池津に来たんだし。

 スマホと小銭入れを持って、従業員用の出入り口から外へと出る。

 早朝だからか全然暑くないな。あと、潮の香りがしてくるので、俺達は海沿いの街に来たんだなと改めて実感する。

 旅館から道路に出ると、人や車が全然いないな。それもあってか、耳をすますと波の音が聞こえてくる。

 旅館から少し歩くと自販機があったので、微糖の缶コーヒーを買う。その自販機の近くには、海に向かって座ることのできるベンチがあったので、俺はそのベンチに座ってコーヒーを飲むことにした。


「……美味いな」


 早朝に海を見ながら缶コーヒーを飲む。旅などをしていなければできない贅沢の一つだな。

 海を見てみると、サーフィンをしている人がちらほらと見受けられる。昼間は海水浴客が多いから今やっているのだろうか。それとも、サーフィンをするには早朝の海が良かったりして。そんなことを考えながら、コーヒーをまた一口飲む。


「あっ」


 近くで人の声がしたので、その人の方を向いてみると、半袖のTシャツに半ズボン姿の健太と呼ばれる少年が立っていた。俺と目が合うと、少年は気まずそうな表情をする。


「お、おはようございます」

「……おはよう。朝のランニングか?」

「は、はい。日課なんで」

「そうなのか。運動する習慣があるのはいいことだと思う」


 今はあんまり運動をしていないけれど、以前はいじめてくる奴らから少しでも自衛できるようにとたくさん運動したな。ランニングもやったっけ。

 あと、昨日の夜は凄く不機嫌な様子でタメ口で話していたのに、今は敬語だな。璃子がいないから冷静になることができているのかな?


「あ、あの……神楽、さん」

「うん?」

「昨日は、その……失礼な態度を取ってすみませんでした!」


 少年は俺の目を見ながらそう言うと、俺に向かって深く頭を下げてきた。昨日の今日で謝ってくれるとは。


「顔を上げろ……健太」


 俺がそう言うと、健太はゆっくりと顔を上げて、緊張した面持ちで俺のことを見てくる。


「狼って言われるのは日常茶飯事だし、髪も白いし目つきも悪いから、何か違法薬物をやっているんじゃいかって言われたこともある。すぐに謝ってくれたし、許すよ。ただ、今後はそういうことを言わないように気を付けるんだぞ」

「は、はい!」


 俺に許してもらえたからなのか、健太はほっと胸を撫で下ろしている。


「……実は昨日、夏実おばさんから家に連絡があって。だから、父さんに叱られちゃって。璃子からも『東京に帰る日の木曜日までに颯人さんに謝れ』っていうメッセージをもらっていたんです」

「そうだったのか」


 喧嘩中なのに、俺に謝るように促すメッセージを送るとは。健太と璃子は人としてとてもいい関係を築くことができていると思う。さすがは幼なじみ。


「言ってくれる人がいるっていうのはいいことだ。大切にしろ。璃子と会ったら、健太に謝ったってもらったって言っておくから。親御さんには自分で言ってくれ。納得しないようなら、俺からも言うから」

「ありがとうございます!」


 健太、とっても嬉しそうな笑顔を浮かべてお礼を言ってくれる。親に叱られ、喧嘩中の幼なじみには俺に謝るように言われて一夜を明かしたんだ。俺に謝ることができた今、健太は解放感に包まれているのだろう。

 何かあったときのためにも、俺は健太と連絡先を交換する。また、俺に謝った証拠写真として、健太と一緒にピースサインをしながらツーショット写真を撮った。ぎこちないかもしれないが、写真に写っている俺は笑顔になっているはず。


「これで大丈夫だな。ところで、健太。近くにこの缶コーヒーを売っている自販機があるから、そこで何か好きな飲み物を1本買ってやるよ」

「えっ? どうしてです?」

「……近いうちに健太の誕生日があるんじゃないか? もしかしたら、今日かもしれないけど。俺は明後日、東京へ帰るからさ」

「誕生日は今日っすよ! 12歳になりました! どうして分かったんすか!」


 健太は目を輝かせて俺のことを見てくる。まったく、可愛い12歳である。


「昨日、あのときにお前や璃子の呟いていた言葉を聞いてな」

「へえ……スゲェ……」


 璃子が「プレゼントを買ってくるんじゃなかった」と言っていて、健太も「何でこのタイミングで……」と呟いていた。クリスマスやバレンタインデーはまだまだ先だし、プレゼントをあげる機会があるとしたら誕生日くらいしかないと思ったのだ。


「あの! お兄さんのことを師匠って呼んでいいっすか!」

「す、凄い呼び方を考えつくな。師匠って器じゃないし、他の呼び方にしてくれると助かる」

「じゃあ……兄貴で!」

「……それならいい。それじゃ、兄貴が誕生日プレゼントで飲み物を1本買おう」

「ありがとうございます!」


 しっかりとお礼を言ってくれるとは。昨日の夕暮れに会ったときには考えられないほどの変わりぶりだ。

 先ほど俺が缶コーヒーを買った自販機で、健太にスポーツドリンクを買ってあげた。

 今度は健太と隣り合う形でベンチに座り、一緒に飲むことに。


「美味いです!」

「そりゃ良かった。あと、12歳の誕生日おめでとう」

「ありがとうございます! あと、昨日は家の方で用事があって行けなかったですけど、今日はオレも海の家の手伝いをしますんで! 小学生になってから、璃子の家がやっている海の家の手伝いをしていて。料理や飲み物を運んだり、皿洗いをしたり、呼び込みしたりするのがメインですけど。だからか、父さんや璃子から、手伝いの合間にでも兄貴に謝れって言われたんです」

「そうだったのか。健太もいてくれると助かるよ。俺は料理担当だけど、咲夜達……俺と一緒にバイトをしているお姉さん達が接客担当だからさ。彼女達の力になってほしい」

「はい!」


 本当にいい返事をするな、健太は。俺のことを兄貴と慕うようなってから、その声がデカくなっている気がするが。


「兄貴に謝ることができたんで、できれば今日の手伝いの間に璃子に謝りたいなって思ってます。今日はオレの誕生日ですし。毎年、お互いの誕生日には一緒に祝って、美味しいご飯やケーキを食べるんです」

「そうなのか。あと、昨日……健太と会った後に璃子から聞いたけど、今、璃子と結構な喧嘩をしているらしいな」


 直球で言ってしまったからか、健太はしんみりとした表情になってしまう。


「……ええ。先週のことなんですけど。駅の方へ遊びに行ったんです。そうしたら、総合スーパーの前で、クラスメイトの男子と一緒に楽しそうに歩いている璃子を見つけて。そのことにムカついて、璃子に『バーカ!』とか言っちゃって」

「そんなことがあったんだな」

「……オレ、璃子のことが好きで。だから、他の男子と仲良く歩いているのを見たら凄く嫌になって……って、オレが璃子を好きだって誰にも言わないでくださいね!」


 健太は顔を真っ赤にしながら俺に言うと、スポーツドリンクをゴクゴクと飲む。

 やっぱり、健太は璃子のことが好きなんだな。だからこそ、昨日、俺と仲良くしていて、手を繋いでいる璃子に激怒したと。きっと、先週も目撃した光景に気を取られすぎたんだろうな。恋をするっていうのは、色々な方向に突き動かす強い力があるな。


「だから、せめても……仲直りはして、璃子と一緒に誕生日の夜を過ごしたくて。そのためには謝らなきゃいけないなって。小さな喧嘩はたくさんしますけど、こんなに長続きするのは初めてで。でも、いつまでも仲が悪いのは嫌だし」

「……そうか。お手伝いの合間か、終わった直後にでも謝るのが一番だろうな。とりあえずは見守るが、助けが必要になったら言ってくれ。俺にも仕事があるから、上手く手助けできるかどうか分からないけど」

「ありがとうございます! 兄貴がいると心強いっす! 見守ってくれるだけでも全然違うっすよ!」


 健太は凄くいい笑顔を見せてくれる。俺、とても気に入られたみたいだな。それだけ、誕生日を当てたことが衝撃的だったのだろうか。それとも、璃子が俺と楽しそうにしていたからだろうか。まあ、嫌悪感を向けられるよりはよっぽどマシだが。


「じゃあ、また後で! あと、スポーツドリンクありがとうございました!」

「おう、また後でな」


 健太は俺にお辞儀をすると、元気な様子で再び走り始めていった。

 今日は近くにいる少し年上の人間として、健太と璃子のことを見守ることにするか。咲夜達にもこっそりと伝えておこう。

 それから少しの間、缶コーヒーを飲みながら海をぼうっと眺めるのであった。

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