1章 3話 カードは濡れないようご用心

 あーでもないこーでもないと生産性の無い事を海辺でボーっと考えていると、一隻の大きなフェリーが目の前、だいたい数十mほどの所を通りかかった。

 真っ青な船体の横に、大きく『SANADA』と書かれている。

 観光用にしてはなんとなく派手な気がするが、あいにく船の事などまったく詳しくないので、ただ単に珍しい船だなと眺めていた。他に見るものも無かったからだ。

 すると甲板の上、船体の側面の柵が立っている所に、1組の男女が立っているのが見えた。

 遠目からだが、二人とも立派な身なりをしているようだ。きっと金持ちなのだろう。あの船で海外に行ったり、船内でパーティをしたりするんだろうな。

 リア充め。妬ましい。ああ、妬ましい。

 昔見た映画のタイタニックみたいに沈んでしまえばいいのに。

 しかし、様子が変だ。なんだか、男の方が女の人の方に迫って、嫌がられているように見える。無理矢理抱き寄せ、キスしようとしているが、女の人は体を大きく捻じって振り払おうとしているようだ。

 思わずため息が出る。ああいう男にはきっとお金にしか興味ない女の子しか寄って来ないんだろう。でも、そういう女の子がいっぱいいるから自分がモテると勘違いしていしまっているんだ。

 まったくいけすかない。ああいう男にだけはなってはいけないよな。まぁ、俺、彼女とかいたことないけど。

 ビュゥゥゥ!

その時、突然強い風が吹き、顔にモロにあたったせいで思わず目を瞑ってしまった。

 ドボンッ!

 そして、海の方から、そんな音がした。まるで、何かが船から水面に落ちたような音だ。

 見ると、船の上には、さきほどまでいた女の人が見当たらない。男の方は、海面に向って何か叫んでいる。

 それの意味する事は。

 

 「はぁ!? 落ちた!?」

 

 慌てて立ち上がって海面の方を見ると、黒い影が水しぶきを立てていた。十中八九、さっきの女の人だろう。甲高い悲鳴のような声が聞こえてくる。

しかし、様子がおかしい。

 

 「……ひょっとして、泳げないのか?」


 手足を無茶苦茶に振り回していて、明らかに泳げる人間の様子では無かった。

 あれじゃあ、いつ沈んで浮かんでこなくなってもおかしくない。

だが、男はいつまで経っても何もしようとしない。余りの事にパニックになっているのだろう。助けを呼びに行くわけでも、受け輪を投げるわけでも、飛び込むわけでもない。ただ、オロオロとしているだけだ。

 周りを見渡しても、彼女に気づいている人間はいない。

 船はどんどん女の人を置いて進んでいってしまう。

 彼女を助けられる人は、誰もいない。

 俺以外には。

 …………。

 ……………………。

 いや、冷静に考えて助ける義理なんて無い。あそこにいるのは、どこの誰かも知らない人だ。

 でも。

 でも、でも。でも。

 ……死にたい死にたい言っている程度の命だ。どうせなら人の役に立てて散らしてやろう。


 「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 腹をくくった俺は、デッキが入ったリュックを外して、叫びながら思いっきり助走して、そのまま海に飛び込んだ。

 春先とはいえ、やはり水は冷たく、泳ぐのに適しているとはいえなかった。

 そのまま全力のクロールで彼女の元に……行けたら格好良かったかもしれないが、水に濡れた服が重くてそんなに機敏に泳げなかったので、すぐに平泳ぎに切り替えた。

 服を脱げば良かったと気づいたが、後の祭りという奴だ。

 全力で泳いで、なんとか彼女の元にたどり着いた時、女の人はもがく力もほとんどなく、沈みかけていた。


 「だ、大丈夫ですか!?」


 「あっ。あっ。あっ!」


 ほとんど声になってない。パニックになっているんだろう。


 「大丈夫です! 俺が、なんとかしますから!」


 「あ、ありが……」


 そう言って俺は彼女の腕を掴み、背中に背負いこんで再び岸に向かって泳ぎだした。

 ……のだが。明らかにさっきより進むスピードが遅い。

 ただでさえ服が水を吸って重くなっているのに、それが2人分だ。俺のようなカードゲームオタクが100kgの重りをつけて泳げるか?

 無理に決まっている。必死になってもがくが、彼女だけはなんとか海面から顔を出せているものの、俺の顔はほとんど水面に出せない。このままだとまともに息を吸う事すらできない。溺れるのも時間の問題だ。

 ……格好つけようとしたけど。せめて、俺の命で誰かを救えるかと思ったけど。

 これじゃあ、ただの無駄死だ。

 ロクに息もできず、次第に足も手も動かなくなってきて、どんどん沈んで来た。

 (もう、無理だ……)

 やっぱり、俺ごときがどうにかしようとしたって、ダメだった。

 もう少しで岸だというのに、もう手も足も動かない。

 ……ここ、までか……・。

 ………。

 ………………。


 「お嬢様!! 大丈夫でございますか!?」


 その時、岸の方から誰かの声が聞こえたが、俺はそれが誰なのか確認する余裕も無かった。

 ドバンッ

 どうやら、誰かが海に飛び込んだようだ。

 そのまますごい速さで俺の傍までやってきた。

 もう力尽きそうだったが、最後の力を振り絞って腕を伸ばして、ぐったりしている背中の女性を渡した。


 「お嬢様を岸に上げたらすぐに来ますので、もう少しだけ頑張ってください」


 返事をしようとしたが、もう喋る事すらできなかった。

 女性を抱えた人は、そのまま岸に上がっていった。

 ……良かった。

 力尽きた俺は、海の底へと向かって沈んでいく。

 でも、少しだけ嬉しい自分がいた。

 ああ。ようやく、俺は死ねるんだ。

 落ちているほんの数秒の間、間違いなく俺は幸せな気持ちだった。


 ああ……でも。


 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。冷たい。冷たい。冷たい。冷たい。冷たい。


 ……俺はこれで、死ねる……。


 暗い。暗い。暗い。暗い。暗い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。


 そんな事を考える間もなく、息は、すぐに続かなくなる。

 …………。

 口や鼻の中に水が入っていく感覚があった。


 ああ、苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。


 誰か、たすけて……。


 …………。

 …………………。

 どれくらい時間が経ったかわからない。

 ドンッドンッドンッ

 ふいに、胸のあたりに、断続的に痛みが走る。

 意識があるのか無いのか、自分ではまったくわからない。

 手足はまったく動かない。

 自分は死んでしまったのだろうか。それとも生き残ってしまったのか。

 それすら、わからなかった。

 暑さも寒さも、わからない。明るさも暗さも、わからない。

 これが無というものなのだろうか。

 直に、こんな事を考えられなくなってしまうんだろうか。

 ……………。

 ふいに、唇に温かい感触があった。

 体のどこも、何の感覚も感じなかったのに、そこだけが、まるで太陽に包まれたように、温かった。

 ああ、なんていい気持ちなんだろう。

 ひょっとしたらここが天国かもしれないな。

 そんな事を思っていたら、ふいに、苦しくなった。


 「ゲホッ!! ゲホッ!!」


 咳と一緒に、体の中からしょっぱい海水を吐き出す。

 苦しいが、さっきまでとは違う。息ができた。


 「ゲホッ! ゲホッ……! はぁ、はぁ、はぁ……」


 まだ、肺に塩水が残っているような感覚があるが、だんだん呼吸が整ってきた。

 しかし、気持ち悪いし、体に力が入らない。


 「あなた様、大丈夫でございますか?」


 ふいに、そんな声がすぐ近くに聞こえて、ゆっくりと目を開けた。

 目の前には、短い髪の女の子の無表情な顔があった。

 びしょ濡れで、髪から水滴がぽたぽたと落ちて俺の顔にかかっている。

 さっき溺れていた女性ではない。別人だ。


 「……さっきの、女の人は……」


 俺は、かすれた声で尋ねた。

 女の子は、にこりともせずに……でもよく見ると、目が真っ赤で、海水では無い物が零れている。


 「無事でございます。……あなた様のおかげです」


 「……そうか……よかった……」


 安心したら、また意識が遠のきそうになった。

 必死に意識を保とうとするも、また目の前が真っ暗になっていく。

 でも良かった。あの女の人が無事で……。

 …………。

 でも……そうだ、一つだけ気になる事があった。


 「で……デッキ……大丈夫かな……」


 さっき放り投げたリュック入れてあった自分のデッキが無事かどうか、無性に心配になってしまったのだった。

 俺は、あんな負け方をしても、死にかけたとしても、やっぱりカードゲーマーなのだった。

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