第5回

 念のため探してみたが、『生物』の棚はなかった。駅構内の小さな書店だから仕方ないだろう。約束までまだ二十分ほど余裕があったので、推理小説でも立ち読みして時間を潰そうと思い立つ。

「あ」

 翻訳もののコーナーに移動する途中、入口付近にひまわりの姿を見出した。私がまだ来ていないと思っているらしい。中に入ってこようとはせず、店名の記された看板の横で立ち止まっている。

 すぐに声をかけるべきなのだろうが、変に緊張してしまった。棚の陰に隠れるようにして、呼吸を整える。平積みしてある新刊が気になった、という感じの顔をして出ていく。

「――おはよう」

 近づき、控えめに挨拶すると、彼女は大きな目をぱちくりとさせた。

「おはよ。ごめん、待たせた?」

「ううん。本を探そうと思って早く来ただけだから」

「なんの?」

「グールドの『ワンダフル・ライフ』。前に教わったやつ」

 ひまわりは表情を明るくし、

「言ってくれれば貸したのに。今度学校に持ってくよ」

 彼女はざっくりしたプルオーバーのニットにジーンズという格好だった。飾った感じのないラフな服装だが、快活そうな風貌によく似合っていた。

「それ、可愛いね」

 と微笑まれ、気恥ずかしくなって視線を伏せた。私のほうは最近気に入っているブラウスにカーディガン、スカートという組み合わせである。昨夜のうちに選んで準備しておいたものだ。

「ありがと」

 と自然に応じたかったのだが、口の中でもごもご呟いたのみに終わった。ひまわりは特に気にした様子もなく、ホームへ続く階段をとんとんと下りていった。

 ――遊びに行こう、と誘ってきたのは彼女だ。数日前の夜、連絡があった。

 壁新聞の授業以来、ひまわりはクラスで存在感を発揮している。出かけるなら何人かのグループだろうと想像していた。普段から彼女を囲んでいるいくつかの顔を思い浮かべながら、こう返信した。

〈他に誰が行くの?〉

 すぐさま返事が来た。一読して、雷に打たれたようになった。

〈ふたりだけど、駄目?〉

 どう返答したものだろう、と思い悩んだ。いや、もちろん駄目ではないのだ。そう書き送れば済むだけだ。駄目じゃないよ。どこ集合にする? 分かった、楽しみにしてるね。それだけの話なのだ。しかしすぐには行動に移せなかった。

 たぶん舞い上がっていたのだ。単なる友人どうしの外出には違いなかったが、これほど浮足立ったのは生まれて初めてだったかもしれない。

 貰ったオパビニアを左手に収めながら、その文面を読み返していると、スマートフォンが振動した。

〈夏凛に誰か誘いたい人がいれば、誘ってもいいよ〉

〈別にいない。予定どおりにしよう〉

 文章こそ平静を装ったが、送信する指先は震えた。またすぐに返事が来た。

〈ふたりでいい?〉

〈うん〉

 それからしばらく、やり取りが絶えた。手許にあった『英語Ⅰ』のテキストを広げてみたが、なにも頭になど入ってこない。ただそわそわと、机の上に置いたスマートフォンを気にしているばかりだった。

 痺れが切れ、詳細を問うふりをして連絡を入れてみようとしたとき、

〈今、なにしてる?〉

 私は間髪を入れず、

〈英語の予習〉

〈明日、英語あったっけ? 時間割変更になった?〉

 慌てた。

〈ないよ。テキストがたまたま近くにあったから〉

〈偉い〉

〈でもぜんぜん分からない。前提というか、議論の背景の時点で分かってないんだと思う〉

〈あれは難しいよ。びびった〉

〈鼓さんでも難しい?〉

 ややあって、

〈かなりむずい〉

〈少し安心した。鼓さんに難しいなら、私にできなくても仕方ないなって〉

 また少し間が開いた。返答は一語だった。

〈ひまわり〉

 途中で送信してしまったものと思い込み、私は黙って待っていた。しかししばらくしても修正の文面が送られてこないので、

〈どうしたの?〉

〈って呼べ〉

 私はすっかり狼狽して、それきり返事をしなかった――。

 電車が来た。込み具合はさほどではない。二人掛けの座席を難なく確保できた。それぞれ荷物を膝の上に抱える。

 普段のようにスマートフォンをいじる気にはなれない。せっかくの休みに遊びに来ているのに、勉強の話題というのも味気ない。なにを話そう、と考えはじめた途端に混乱した。べつだん高度なやり取りなど必要ないだろうに。

「今日、晴れてよかったね」

 けっきょく、もっとも無難かつ面白みのない切り出し方をした。

「何日か前、今日だけピンポイントで雨っていう予報を見て慌てちゃった。でも大丈夫そうだね。ふたりとも日頃の行いがいいからかな」

「私もその予報見た。ずっと祈ってたよ」

「てるてる坊主作った?」

 私はかぶりを振り、

「てるてる坊主って単語自体、久しぶりに聞いた」

「てるてる坊主とか、靴飛ばすやつ――明日天気にしておくれとか、この歳になるともうやらないじゃんか。でもなんていうのかな、日本に帰ってきて改めて、そんなのあったなあって懐かしくなった」

「言われて初めて思い出したよ。確かにてるてる坊主なんて意識しないもんね。最後に作ったの、いつだろう。小学校の遠足の前とかかな」

「遠足、どこ行ったか覚えてる?」

「修学旅行は中学が京都、小学校は鎌倉だったけど、遠足は――。なんかダムに連れていかれたような記憶がある」

「ダム?」

 とひまわりが笑い交じりに吐息する。

「ダムだったか浄水場だったか、そういう感じのとこ。子供ながらに期待してた遠足と違うなって思って、それで覚えてた」

「ダムかあ。好きな人は好きらしいよね。もしだけど、恋人がデートでダム行きたいって言いだしたらどうする? 嫌?」

「私は――」

 言いながら、ひまわりの横顔を盗み見た。

「好きな人が楽しそうにしてくれたら、それでいいかな」

 電車が停まり、ぱらぱらと何人かが乗り込んできた。車両はまだ空いている。私たちの周辺も依然としてがらがらだ。ドアが閉じる。

「ところで、今日は――」

 徳永さんたちは都合が悪かったの、と問いかけて口ごもった。代わりに、

「誘ってくれてありがとう」

 ひまわりはこちらを見て、うん、と小さく頷いてから、

「他に呼びたい人がいれば呼んでいいって言ったじゃんか。あれ嘘」

「嘘?」

「本当は誰も誘ってほしくなかった。だから――今日はよかった」

「……そう?」

 戸惑い交じりに見返した。反射的に気の利いた受け答えをする、という芸当が私にはできない。相手の真意を測りかねると、本当に当たり障りのないことしか言えなくなってしまう。

「しつこく確認したじゃん、ふたりでいいかって」

「二回はされたけど」

「二回って充分しつこくない?」

「そうでもないと思う」

 いったん会話が途切れた。ぼんやりと外の景色を眺めていると、

「ねえ、夏凛」

「ん?」

「もし、もう一回ボートに乗りたいって言ったら、一緒に乗ってくれる?」

「今度こそ足漕ぎにしようって言うかな。今日もボートなの?」

「違うけど、たとえば。でも乗ってくれるんだ。あんなに馬鹿な目に遭わせたのに」

「あれ、けっこう楽しかったもん。陸地に辿り着いたとき、感動で泣くかと思った」

 ひまわりは頬を緩めて、

「地面を踏んだ瞬間、生き残ったぞおって叫びそうになった。イクチオステガの気持ちを追体験できた感じ」

「それは何年越しぐらい?」

「三億六千五百万年くらいかな。デボン紀後期。四肢を持った最古の生き物、初めての陸上生物として有名。もっと古いのもいたって説もあるにはあるんだけど。ちなみに両生類だよ」

「魚じゃないんだ」

「うん。『イクチオ』は魚って意味なんだけどね」

「『ステガ』は?」

「鎧とか屋根。ステゴサウルスのステゴと一緒だけど、イクチオステガの場合、鎧に例えられてるのは肋骨。つまり陸上で体を支えるのに向いてたんだね」

 へえ、と頷く。ステゴサウルスなら私でもイメージできる。あちらは背中だ。

「海から陸に向かった魚っていうと――ユーステノプテロンっているよね?」

「よく一緒に名前が出てくるね。そっちはイクチオステガより一千万年ぐらい前の生き物で、まだ魚類。鰭に頑丈な骨があって、肺も持ってた。だから陸上生物の祖先だって、魚類から両生類への過渡期の生き物だって言われるんだけど、実はユーステノプテロンとイクチオステガってそこまで似てないんだよ。いわゆるミッシングリンクってやつ」

「でも進化したんでしょう? 理由は分かってるの?」

「そのへんは研究中。ティクターリクっていう中間生物が見つかって、魚類と陸生四足類の距離が縮まるんじゃないかって話になってるけど、つい最近まで謎だったんだよ。ドラえもんの映画でさ、地球を作るやつがあるじゃん。あれだと、ドラえもんとのび太がユーステノプテロンを掴まえて進化しろビームを浴びせたからだって説明になってる」

 まさにその映画がユーステノプテロンという名前を知るきっかけだったので、私は大変に驚き、

「あれってそういうことなんだ。凄いね。初めて知った」

 この手の話題に関しては知識の宝庫だ。好奇心も学習意欲も、私などとは比べ物にならない。なにより、好きなことを語る際の楽しげな様子が――。

 そうして一時間ほど電車に揺られた。乗り換えはなく、私たちは同じ席に座ったまま延々と古生物の話を続けた。目的の駅に辿り着いたのは、ちょうど三畳紀に入ったころだった。

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