第4回
週が明けても、私はまだそわついていた。態度に出さぬよう意識するのは思いのほか大変で、月曜日からやたらと疲弊することになった。鼓さんのほうは普段通りで、席が離れていることもあって積極的に言葉を交わすことはなかった。オパビニアの置き場を定めたことさえ、伝えられないままでいる。
四時間目、『英語Ⅰ』の時間だった。担当は関守教諭。
「英単語は、訳を丸暗記して一対一で対応させるだけでは無意味――とまでは言いませんが、大学入試においてはまったく不充分です。中学の頃にそういう勉強をしていた人は今ここで、改めてください。覚え方のポイントを示しましょう。一つ目は、知らない単語でも意味を類推できるようにすること。たとえば」
教諭はinterstateと板書した。
「見覚えのない単語だと思います。この語は知らなくていいですよ。覚えなくてもいい。でも推理してください。ためしにそう――分解してみましょうか。まず後半のstateの意味、ぱっと思い浮かぶもので結構です。Miss.Uchida」
真後ろの席で内田さんが立ち上がった。
「ええと……『州』。アメリカとかの」
「Great! State of New Yorkならニューヨーク州。ではそのまま前に行きましょう。頭にinterがくっついていますね。これはどういう意味でしょう。Miss.Inazawa」
はい、と返事してから起立し、
「相互の、あいだの、といった意味の接頭辞です」
「Excellent! ふたりの意見を合わせるとinterstateは州のあいだ。各州間の。訳としてはそれでいいんですが、ちょっとイメージしにくいかもしれません。どういうふうに使うのか? 名詞として見る場合、ネイティヴ、特にアメリカ人が次に思い浮かべるのはおそらくこの語です」
隣にhighwayと足された。
「Interstate Highwayというのは、州間高速道路です。州と州のあいだを行き来する高速ですね。Interstateだけでも同じ意味。現地の標識にはそう、一語で書かれます」
ああ、とあちこちから声が上がった。
「皆さんの知っている単語、たとえばinternationalとかinterpersonalと同じように考えれば、意味が推測できる。大事なのはここです。繰り返しますがinterstateという単語自体は知らなくてもいいんです。それを導き出せるかどうかが問われる。そういう力が、大学入試では求められます。いいですか? 続けてポイントその二。語の根っこにあるニュアンスを掴むこと」
たとえば、と教諭は繰り返した。口癖だ。よく生徒にものまねされている。たとえば。
「さっきのstateという語にもう一度、注目しましょう。これは『ひとりで立っている』というのが根っこの意味です。自立している、自治権があるから州、あるいは国家。動詞としては『述べる、明言する』。正々堂々、立って自分の意見を言う、という感じですね」
中学とは違う、と連呼するだけあって、関守教諭の授業はテンポが速い。情報を次々と関連させるのは、そのほうが記憶に定着しやすいからだろう。ついていくのは大変だが、私は教諭の授業が嫌いではなかった。
「もちろん『状態』という意味も重要です。たとえばstate of mindなら『心の状態』、『気持ち』ですね。間違ってもマインド州と訳さないように。採点する側のstate of mindを考慮してくださいね」
笑いが起きた。教諭は満足そうに頷いて、
「ついでに、ちょっと余談です。ビリー・ジョエルという歌手を知っていますか? 特に有名なのは『ピアノ・マン』、『オネスティ』あたりでしょうか。これも代表作なんですが、『ニューヨークの想い』という曲があります。原題は『New York State of Mind』――言葉遊びですね」
書きつけたタイトルをチョークで指し示す。
「自分の故郷への気持ちを表現した曲です。外でいろいろな経験をしてみて分かった、やっぱり故郷に帰ろう。とても美しい曲ですので、よければ聴いてみてください」
午前中の授業が終わると、普段よりもずっと空腹になっていた。今日はお弁当のない日だったので、購買にパンを買いに行くことにする。人気のメニューは昼休み開始と同時に売り切れてしまうのだが、私がよく食べているサンドウィッチは比較的残りやすい。人がごった返す中に突入する必要はない。
「稲澤さん」
財布を鞄から取り出そうとしていると、そう声をかけられた。顔を上げる。どきりとした。
「――鼓さん。その、なにか」
「こないだのぶん、返そうと思って。今いい?」
「ボートの? 別にいいのに」
「じゃあ――なんか奢るよ。今日はパンにするなら、それで」
連れ立って購買へ向かった。争奪戦と呼べるのは最初の十分か十五分で、それ以降は落ち着きを取り戻す。早くも閑散としつつある売り場で、いつものサンドウィッチと紙パックのジュースを買った。
「外で食べようよ、ね」
廊下で提案された。頷き、ポリ袋を提げたまま昇降口を出た。校庭の隅、木陰のベンチに陣取り、並んで腰かける。サッカーに興じている男子生徒たちの声が遠くに聞こえた。
「さっきの授業、鼓さんのおかげで助かった。『インターステラー』のこと、訊いといてよかった」
「役に立ったんなら私もよかったよ。関守先生の言ってた、ビリー・ジョエルだっけ? 私は名前しか知らないけど、稲澤さんは聴いたことある?」
「うん。なんなら今、これに入ってるよ」
ポケットからプレイヤーを取り出して軽く振った。鼓さんが体をこちらに滑らせてきて、
「聴きたい。イヤフォン、片方貸して」
手渡した。イヤフォンを摘まんだ指先が、そっと髪の下に差し込まれる。そのさまをじっと見つめつづけていた私に向かい、彼女は笑い交じりに吐息して、
「準備完了。再生して」
私は慌てて、もう片方のイヤフォンを自分の耳にあてがった。画面に視線を落とし、『オネスティ』を選ぶ。隣り合ったまま、私たちはジョエルの歌声に耳を傾けた。
「これかあ。聴いたことあった」
イヤフォンを返しながら鼓さんが言い、それからサビのメロディを口ずさんだ。小声だが、さすがに発音が綺麗だ。普段の元気に満ち溢れた声音とはまた違う、少し鼻にかかったような歌い方だった。
「誠実、なんて孤独な言葉。だって誰もが嘘つきだから。誠実な言葉なんて、ほとんど聞いたことがないよ」
続けて、歌詞の日本語訳をつぶやく。あの有名な、サビのフレーズだ。彼女はこちらを向き、少し首を傾けるようにして私を見据え、
「でもそれこそ、君から聞かせてほしいことなんだ」
私がなにも言えないうちに、堤さんは正面に視線を戻してしまった。膝の上に置いた袋からパンを取り出し、
「食べちゃおう。私、食べるの遅いから。昼休み終わっちゃう」
私もサンドウィッチを出した。上手く開封できず、パックの中でパンがおかしな形に歪む。
「――そういえば、オパビニアをありがとう。最初に言わなきゃいけなかったのに」
「ちょっとでも笑ってもらえただけで満足だよ。普通、あれ押し付けられたら引かない?」
「机の、よく見えるところに飾ってある。わりと可愛く見えてきたよ」
「それね、こっちの世界に足を踏み入れつつある兆し。そのへん歩いてて、化石の見つかりそうな壁に昂奮するようになってきたら重症」
「それはまだかな。でも昨日、ちょっと気にして歩いてみたよ。見つからなかったけど」
「気が付いてないだけかも。すごく近くにあって、思いっきり視界に入ってるのに、それが化石だって分からない。そういうパターンも結構あるんだ」
「宝探しだね」
「そうそう。宝探し。お父さんもよく言ってる。古生物の研究はいちばんスケールのでっかい宝探しだって」
私はジュースのパックにストローを刺しながら、
「鼓さんはさ、すごく大きい人だよね」
「どこが? 身長? 調子がいいと、なんと一・五メートルに到達することもある」
「じゃなくて――なんだろう、人間的に。小ぢんまりとしてないっていうか」
「基準がまだアメリカンだから? こっちでコーラのLを頼むとさ、これはLじゃない、樽で持ってこいって思うけど」
少し笑った。
「違う。最初は確かに、アメリカにいたから自由なのかなって思ってたけど、やっぱり違う」
「じゃあなんで」
「誰かのこと、素直に認めて尊敬できるのが凄いなって」
「それはただ――お父さんの話ばっかりしてるから、そう聞こえるだけだよ」
私は吐息を挟んで、
「私の身近にも凄い人がいる。絶対に勝ち目はない、追い縋る気力もないって自分で分かってるのに、どうしても悔しい。下手糞なのはしょうがない。でも自分よりずっと上の人を認められないのは――私が小さい人間だからだって思う」
鼓さんはまたこちらを向いた。視線が合う。
「そういうの、自然な感情じゃないかな。凄い人を凄いって受け入れられるようになるのって、時間がかかると思うよ」
「それはそうだけど」
「私の想像してる内容で合ってるかは分からないんだけど、稲澤さんは、なにもしないでただ嫉妬してるだけじゃないでしょ? 自分の力で成し遂げたことがある――よね?」
「あるといえば――ある」
「小さいことだって思う?」
「厭味ったらしく聞こえると思うけど――正直、うん、そう思う」
鼓さんはこくりと頷いた。
「比べる必要なんかないって言っても、綺麗ごとにしか聞こえないよね」
「――私、嫌な奴だね」
「そんなこと」
「自分で分かってるんだ。悩めば悩むほど、自分が嫌な人間になっていくのが。だったら最初からなにも知られないほうがいいって、周りまで嫌な気分にさせることないって、そう思ってた。失敗しちゃったけど」
沈黙。ほんのわずかな間が息苦しく、ストローを咥えて吸った。パックが乾いた音を立ててへこむ。やがて鼓さんが俯いて、
「今の私じゃ、稲澤さんのためになにができるか分からない」
「そんなの――いきなりこんな話をした私が悪いんだよ。ごめんね。引くよね、こういうの」
「引かない。私がまだ、そっちの世界に踏み込めてないだけ」
予鈴が鳴った。鼓さんが勢いよく立ち上がってこちらを振り返り、
「五限、生物だ」
食べるのが遅い、と言っていたわりに、彼女はすでに食事を済ませていた。私は慌ててサンドウィッチの残りを口に放り込み、ベンチを立った。口許を押さえて頷く。
「夏凛」
咳き込みそうになった。鼓さんはこちらを見上げるようにして、
「――で、いい? 今から」
口許を押さえたまま、また頷いた。彼女はよかった、と応じて、校舎に向けて歩いていった。生物の授業が楽しみなのだろう、軽々とした足取りだった。
私はあえて横に並ばず、何歩かあとを続いた。夏凛、というたった三文字の音声を、ひたすら脳裏で反芻しながら。
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