第3回

「こういうの、初めて乗ったかも」

「そうなんだ。なんとなくだけど、アメリカってボートが盛んなイメージがある」

「競技ボートは日本よりずっと人気だし花形だね。ボストンででっかい大会があるんだよ。観たことはないけどね」

 あまり漕ぎ方が器用ではないらしく、懸命に腕を動かしているようなのに進みは遅い。白鳥の形をした足漕ぎ式のボートが、そばをすいすいと行き来している。

「なんでこっちにしたの?」

「なんとなく。オールで漕ぐほうがボートに乗ってる感があるじゃん」

 小さく頷く。ボートは相変わらずゆったりと水面を漂うばかりで、進行方向さえ定まり切らない。鼓さんの奮闘ぶりを鑑賞するうち、だんだん愉快になってきた。

「笑わないでよ。重労働なんだぞ」

「笑ってないよ。疲れたなら交代する?」

「自分で言い出したんだから頑張る。あと何分?」

「三十分だっけ? だったらあと二十分以上残ってる」

 鼓さんは空を仰いだ。

「無理だ、死んじゃう」

「だから交代しようよ」

「限界になったら。ところで交代、どうやるの? 立って席を交換するの? 転覆しそうじゃない?」

 言われてみればそうだ。私はバランス感覚があまりないほうだし、この雰囲気だと鼓さんも似たようなものだろう。揺れるボートの上で場所を取り換える――かなりの難易度のように思えてきた。

「とりあえず岸に引き返すよ。方向転換、方向転換ってどうやるの?」

「片方のオールだけ漕ぐとか」

「そんなテクニカルなことできないって。前にすらまともに進まないのに」

 やがて鼓さんは力尽き、とうぜん交代することもできず、私たちは池の真ん中で立ち往生してしまった。ただ浮かんでいるだけになったボートで、私たちは長らく顔を見合わせて座っていた。

 生還できたのは周囲の手助けによる。漕ぎ方のアドヴァイスをくれた大学生のカップル。棒のような器具で私たちのボートを引き寄せてくれた係員。どうにか岸に降り立ったときには制限時間を大幅に過ぎていて、追加料金を支払う羽目になったのは言うまでもない。

「……ごめん」

 池を離れてからも、鼓さんはちょっと可哀相なくらいにしょげていた。私は笑い顔を作って、

「いいよ。やっぱり足漕ぎにしようとか、私も言わなかったんだし。ずっと漕がせることになっちゃったし」

「もし白鳥のにしようって言われても、やだって言い張ったと思う。私っていっつもこうだ。暴走して、周りに迷惑をかける」

「迷惑なんてことないよ。私、楽しかったもん。自分ひとりだったらボートに乗ろうとか思わなかった。誰かがなにかを始めるのを待って、便乗するだけ」

「お金、多く出してもらっちゃった。自分で乗りたいって言ったのに、足りなくて」

「ほんとにちょっとでしょ? 気にしないでいいよ」

 公園の出口に至った。私んち、こっちだから、と顔を向けて示す。互いの家が反対方向だというのはそのとき初めて知った。

「じゃあ、また学校で」

「……ちょっと待って」

 背中に声をかけられ、立ち止まる。肩越しに振り返った。鼓さんが歩み寄ってくる。

「これ見て」

 彼女の細い指から、小さなマスコットが下がっていた。キーホルダーやストラップのように着けて持ち歩くことのできる、よくあるタイプのキャラクターグッズだ――象られているのがオパビニアでなければ。

「なにそれ」

 とつい噴き出してしまった。見れば見るほど、それは奇妙な生き物だった。五つの目、長いノズルのような口、両側に鰭の生えた、ずんぐりした体。可愛らしくデフォルメされてはいるが、元の形が形なので、どうにも奇怪さを隠しきれていない。

「お父さんのいた博物館では定番のお土産なんだよ。誰かに見せたら笑ってもらえるかもしれないと思って連れてきたの。だから――稲澤さんにあげる」

「アメリカから? 大事なものなんじゃないの?」

「はるばる一緒に旅してきた相棒のひとりではあるね。だから今度は、こっちで新しい経験をしてもらおうかなって。日本で新しい友達が――こういうのに理解がありそうな友達ができたらあげようと思って、ずっと持ち歩いてたの。どうかな? この奇妙奇天烈動物、手許に置いてくれる?」

 奇妙奇天烈、という響きが可笑しく、私はまた笑った。すると鼓さんが距離を詰めてきて、

「本当にそういう呼び方をするんだってば。スティーヴン・ジェイ・グールドっていう学者が言ってるの」

「なんていう本に書いてあるの? それ」

 信じていないと思ったのだろう。伸べた私の手にオパビニアをそっと乗せながら、鼓さんは得意げに、

「『ワンダフル・ライフ』」

 そうして私はカンブリア紀の古生物と一緒に家に帰った。延々とボートに乗りつづけ、鼓さんの顔を見つめつづけていたような気がしたけれど、実際のところはそうでもなかった。普段の散歩より一時間ほど長引いただけにすぎなかったのだ。

 当然のように母はなにも言わず、私もまたいつも通りにただいま、と声をかけただけだった。劇的なことなどなにも起きていないという顔を、自室に入るまで保った。

 オパビニアを机の棚、ピアノコンクールの楯の隣に置いたとき、私はようやく咽の奥の熱っぽさを自覚した。馬鹿みたいだと思ったが抑えきれず、クッションを引っ張ってきて顔を埋めた。

 そのまま声をあげた。あとはもうなにもやる気が起こらず、ただベッドに横たわって吐息を繰り返していた。鼓さん。ひまわり。

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