第2回

 居間の扉を開けると、真っ先に目に飛び込んでくる位置にそのピアノはある。部屋のどこからでも見え、音が聴こえる。

 壁には、額に収められた賞状やメダルがどっさりと掲げられている。これでもごくごく一部だ。もっと小さな、あるいは過去の記録は、きっと家のどこかに仕舞い込まれているはずだ。

 稲澤家の輝かしい記憶。しかし称えられた名前は、ひとつとして私のものではない。

 私はピアノに近づいた。蓋には鍵がかかっている。埃をかぶった感じがないのは、母が手入れをしているからだろう。本当なら毎日弾いてやったほうがいい。鍵は、他でもない私が預かっている。

「夏凛、ピアノ練習するの?」

 キッチンのほうから、不意に母が現れた。土曜日の午前中である。私が珍しくやる気を出したものと期待しているのだろう。

 小さくかぶりを振ると、あからさまに表情を暗くしたので、

「あとで自分の部屋でやるよ。自分の楽器で」

「ここでやればいいじゃない。言われたでしょう、夏凛が弾いてていいって」

「そうだけど――慣れてるやつのほうがいいから」

「遠慮することないんだよ。ふたりのために買ったんだから。夏純と夏凛の楽器なんだよ。覚えてるでしょう、小さい頃はふたりで連弾してたの」

 私はもう一度かぶりを振って、

「とにかく、今はやらない」

 居間を出ていく。夏凛、と呼びかけられたが、振り返らなかった。自室に飛び込んで施錠する。椅子に体を沈めた。

 慣れた自分の楽器、というのは壁際にある電子ピアノだ。鍵盤のタッチもぺこぺこした感じではないし、音色も作り物めいてはいない。私はこれで充分だと思う――居間のピアノには比べるべくもないにしても。

 机に、小さな楯がぽつんと飾ってある。奨励賞、稲澤夏凛殿。

 手に取って少しだけ眺め、元の位置に戻した。私自身の名前で獲得した、ただひとつの冠。

 ベッドに身を投げ出した。枕に顔を埋めながら、薄ぼんやりと記憶が甦ってくるに任せた。

「――夏凛も出てみれば。普通に勝てると思うよ」

 事もなげに放たれた言葉を、そっくり真に受けたわけではない。しかしピアノの技術を評する目は確かだろうと思った。天才的な腕を持ちながら、他者をよく褒める人だった。今もきっと、同様の態度を貫いているのだろう。凄まじく難易度の高い試験を突破して入った、音楽大学で。

 不本意な失敗に意識が及びそうになったので、慌てて打ち消す。勢いよく体を起こして、頭部をふるふると振った。

 勉強でもしよう、と思い立つ。あとを追って音大を目指すつもりはない。普通に勉強して、普通の大学に入るのだ。できれば国立。できれば少しは名の通ったところ。

『英語Ⅰ』で使っているテキストとノートを出し、机に向かった。授業開始早々、毎週小テストを実施すると宣告されている。むろん普段の予習も欠かせない。中学時代はそれなりに得意科目だったが、高校では気を抜くとすぐさま落ちこぼれるような予感があった。

 テキストは、教科書とは別に配布されたものだ。明らかに難易度が高い。一年の時点ではや、受験を意識したカリキュラムが組まれているものと思しい。

 英単語と意味、例文が掲載されたページがしばらく続き、章末には長文読解の問題が控えている。「きちんと単語を学習していれば、すらすらと読み進められるはずです」と著者による前書きにはある。単語のページを数回往復してから、長文に挑んでみた。

 時間をかけて全体を通読する。すらすらには程遠い。語彙力や文法的な知識はもちろん、前提とされる一般常識さえ足りていないのだと痛感した。

 科学の単元だった。長文は「生命の起源」と題されている。ダーウィンや進化論の話題が扱われていることは分かるのだが、議論の具体的な内容が飲み込めない。しばらく粘ってみてから、溜息交じりに解説を参照した。

 神があらゆる生命を創造したとする創造論(Creationism)が一部の人々から疑われるようになったきっかけのひとつは、太古の生物の化石(fossil)が発見されたことでした……。

 不意に鼓さんの顔が浮かぶ。アメリカ帰りで、古生物学者の娘。このくらいの問題ならば、なんら苦戦しないに違いない。お父さんに追いついて、並走して、やがては追い越して、夢に向かっていく人なのだ――そう思った。

 私は、そうはなれない。分相応に生きたほうがいい。

 解説を読み終え、再び単語、長文と反復してから、テキストを閉じる。もう少し読み込まないと太刀打ちできそうにない。少し時間を空けて、また挑戦してみることにしよう。

「ちょっと散歩してくる」

 と母に声をかけて、家を出た。特別な目的もなく、ふらふらと歩く。財布には小銭しか入っていないので、大きな買い物はできない。

 駅前の書店で立ち読みしようかと思っていたが、なんとなく気が変わった。まったく反対方向にある公園に足を向けた。

 小さい頃はよく、夏純と公園で遊んだ。走るのは、少しだけ私のほうが速かった。三つも歳が離れている相手に勝てるというので、当時の私は有頂天だった。縄跳びも私のほうが上手かった。カブトムシを見つけるのも私のほうが得意だった。夏純は夏純、私は私で、それぞれに違うほうを向いたままでいられたなら――今さら考えても仕方のないことだけれど。

 街路樹に挟まれた遊歩道を辿っていき、途中で細いほうに折れると、質素な木製のベンチがある。公園を散歩するときは、たいがいそこで休憩をとる。いまひとつ目立たない場所にあるおかげで、それなりの確率で独り占めできるのだ。

 驚いたことに、今日は先客がいた。こういう場合の対応は決まっている。人影が見えた時点で静かに踵を返すのだ。

「稲澤さん?」

 と背後から呼びかけられ、心臓が躍り上がった。ひとりでいるときに知り合いに発見されるのが、なにより苦手なのだ。適当に挨拶して消えようと腹を括り、振り返る。

 淡い、しかし晴れやかな香りがした。鼓ひまわりが、笑顔でそこに立っていた。

「お家がこの近くなの?」

 と彼女が首を傾けて問う。私は曖昧に頷いて、

「たまたま。ちょっと散歩っていうか、運動」

「私も散歩。さっきまで勉強してたんだけど、嫌になっちゃって」

 鼓さんは読みかけらしい文庫本を持ったままだった。ついさっきまで自分の世界に没入していたのではないかと思い、

「邪魔しちゃったかな」

「ううん、もともと注意力散漫なほうだから。あっちにふらふら、こっちにふらふら。でもそのおかげで、面白いものが見つかることも多いよ」

「化石とか?」

 冗談のつもりだったのだが、彼女は驚いたように私を見返してきた。身長差のせいで、見上げられているような感じだ。首元の小ぶりな輝き。ネックレスか。

「うん。化石ってね、意外なところにあったりするんだよ。大理石の壁とか床とか、注意して見てみるとね。分かりやすいのはアンモナイト。それからべレムナイト。地下鉄の駅とかさ、普段なにげなく通るでしょ? そういう場所が実は、いい化石スポットだったりするの」

「アンモナイトは分かるけど、べレムナイトってなに? 貝なの?」

「近いのはイカだね。ただ基本的に、化石としては残るのは殻の――とんがりの部分だけだから、見つけてもイカだとは思えないかも」

 どちらともなく、並んで歩きだした。遊歩道へと戻り、それから池にかかる橋へと至った。

「オパビニアって日本にもいる?」

「オパビニアはね、珍しいんだよ。有名なのはカナダ。ロッキー山脈のカナダ側にバージェス山ってのがあって、そこで見つかったからバージェス動物群」

「地名なんだ。発見した人の名前なのかなって思ってた。バージェス博士が見つけたからバージェス動物群なんだって。アントニイ・バージェスって作家がいるから勘違いしてた」

「もう一回。なにバージェス?」

「アントニイ。有名なのは『時計じかけのオレンジ』。映画はキューブリック」

「キューブリックなら聞いたことある。観たことはないけど」

「『二〇〇一年宇宙の旅』とか」

「ああ。ちょっと前にさ、宇宙の映画あったよね。なんだっけ。移住する星を探すやつ」

「『インターステラー』かな、クリストファー・ノーランの」

「それだ。観た?」

「うん。観ておいて訊くのもなんだけど、『インターステラー』って直訳するとどうなるの?」

「惑星間の、かな。星のあいだ。インターが『互いに』とか『あいだ』って意味じゃん。ステラーは星」

「ステラって人名であるでしょ? ステラ・マッカートニーとか。それも由来は一緒?」

「一緒だと思う。星、星の光。ちなみにそれは誰?」

「ポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニーの娘」

 土曜日だからか、公園内には恋人たちの姿が目立つ。ボート乗りをしているのはたいがい男女二人組だ。何度となく訪れているというのに、思えば私は乗ったことがなかった。欄干には羽を休めている白い水鳥がいて、じっと私たちのほうを眺めている。

「稲澤さんはさ、化石に興味あるの?」

「興味っていうか――話が面白かったからかな。壁新聞のときの」

「私、面白かった?」

「断トツで面白かったと思うよ。たぶん、クラス全員がそう思ってる」

 そっかあ、と鼓さんははにかんだ。指摘されて初めて気付いた、とでもいうような反応だった。

「私はただ、知ってることを知ってるまんま喋っただけだよ。お父さんの発表の真似」

「そうだったとしても、私は驚いたよ。私はああいうふうには――人を惹きつけるようなことはできないから」

「惹きつけられた?」

「うん。ただ知識を並べるだけじゃ、ああいう発表にはならなかったと思う。どんなに正確だったとしても、やっぱり聴く人を引っ張り込めないと駄目でしょう? 鼓さんにはきっと、それがあったんだよ」

 彼女は返事をせず、歩みを速めて私を追い越した。一息にボートの停留所まで駆けて行ったかと思うと、こちらを振り返って声を張り、

「これ、乗りたい」

「ボート?」

「一緒に乗りたい。忙しくなかったら付き合って」

 追いついた。とくべつ忙しくはなかったので、いいよ、と答える。鼓さんは並んでいるボートを見渡してから、受付に入っていった。好きに選んでもらおうと思い、私は黙ってその傍らに立っていた。

 手漕ぎボートの乗り場へ案内される。鼓さんが漕ぎたいと言うので、私は了解してオールのある側の席を譲った。出航、という張り切った掛け声に合わせて、ボートが池の中央に向かっていく。

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