Interstate Love Song

下村アンダーソン

第1回

「ピアノ」という語を封印してみると、面白いくらいに書くことがなかった。

 まず名前、出身中学。そこに生年月日を足したあたりで、はや手が止まってしまった。黒のマジックを握ったまま、すかすかの模造紙を恨みがましく睨みつける。

 周囲を伺うと、小さく笑い合う声や、ペンが小気味よく紙を滑る音が聞こえた。少なくとも百人一首の暗証や因数分解よりは、みんな楽しく取り組んでいるのだろう。すでに作業を終えている子もちらほら。残り時間もそう多くないのだ。悲しいことに私は苗字が稲澤だから、次週へ持ち越しの可能性はゼロである。

 最初の週末を目の前にした金曜日、最後の二コマ。ちょっとしたご褒美、息抜きとして設定された授業に違いないと、私だって分かっている。分かってはいるが、手が動かない。

 溜息をつき、机いっぱいに広げた紙と再び対峙した。趣味、特技、頑張ったこと。このあたりはもう駄目。性格は? わりと粘り強いほうです。たとえば……これも駄目。

 なんだって高校生にもなって、壁新聞なんか作らなければならないのだろう。やるにしてもせめて、関心のある時事問題について、くらいにしてほしかった。それならばもう少し、書きようもあったはずだ。

「はい、そこまで。では発表に移ります。みんな、いいかな?」

 関守教諭の合図とほぼ同時にペンを置いた。相川くんという、長らく出席番号一番を守り通してきたに違いない男子が呼ばれて、模造紙を黒板に貼りつける。

 私は息を吐き、相川くんの発表に耳を傾けながら、二番手の自分が喋るべきことを脳内で反芻した。

 四月には必ず、こういうことをやらされる。壁新聞とまでは思っていなかったが、自己紹介の機会が設けられることは予期できた。リセットするならば、このタイミングしかありえない。新しい学校。あちこちから集まってきた見知らぬ顔。

「では稲澤さん、稲澤夏凛さん」

 病院の呼び出しみたいだと思いながら、申し訳程度に手櫛で前髪を直す。一年二組、総勢三十五名の前に立って、私はできる限り印象に残らないようなスピーチを始める。

「……以上です。一年間、よろしくお願いします」

 拍手。頭をあげると同時に、そそくさと模造紙を回収する。大失敗はしなかった。上々だ。

 自席に戻ろうとしたとき、左後方に座っている誰かが挙手しているのが見えた。教諭に指名され、その子が立ち上がる。

「うちって毎年、合唱コンクールありますよね? 私、それがすっごい楽しみなんです。だから稲澤さんと同じクラスになれてよかったなって――めちゃくちゃピアノが上手いんですよ。私のお姉ちゃんもピアノやってて、県のジュニアコンクールで年下の子に負けちゃったことがあったんですけど、それが稲澤さんで。伴奏とかやってもらえたらいいなって思うんですけど」

 教室中がざわめく。七十の瞳がこちらを凝視している。

 その場で崩れ落ちそうになった。背筋を冷たいものが伝っているのが分かる。

 悪気があって言ったわけではもちろんないだろう。もう三年も前のことをわざわざ覚えていて――誇らしい業績を忘れているよ、といった調子で指摘してくれた。謙遜して隠したものと思ったのかもしれない。稲澤夏凛、特技はピアノです。四歳の頃から毎日欠かさずに鍵盤に向かっています。中学一年のとき、県のジュニアピアノコンクールで入賞しました。弾いたのはドビュッシーのアラベスクです。高校生になっても学業とピアノを両立して……。

「はい、静かに。合唱コンクールについては、時期になったら決めましょう。とりあえず今は、自己紹介の続きを。次は――」

 ちょっとやりにくそうな顔をしながら、呼ばれた生徒が歩み出てくる。関守教諭が粛々と先に進めてくれたのがせめてもの救いだけれど――丸めた壁新聞は、手の中で汗を吸ってふにゃふにゃになっていた。

「すげえじゃん」

 と隣の席の男子が囁くように声をかけてくる。私は曖昧な笑みを返して、内田さんの発表、始まるよ、と告げた。正面を向く。

 内田さん、およびそれ以降の面々の発表は普通だった。私にも好きなアイドルグループがいればよかった。毎週観ているドラマがあればよかった。若手の俳優のことを知っておけばよかった。野球は……よく分からない。アプリのゲーム……も分からない。でもとにかく、そういった調子の話を、私もできればよかったのだ。

「じゃあ、少し中途半端ですけど、今週は次で最後にしましょう。鼓さん、鼓ひまわりさん」

 はい、と元気のいい返事があって、女の子が立ち上がった。小柄だけれど、歩き方がきびきびしているせいか手足が長く見える。緩やかなウェーブを描いた髪が揺れて、肩のあたりを撫でる。正面できちんと気をつけをして、こちらを眺め渡した。快活そうな表情。

 用紙が広がった瞬間、抽象画だ、と思った。ほとんどマーク・ロスコだ。長方形の上半分が水色、下半分が黄色に塗り分けられている、ただそれだけ。名前さえない。

「こんにちは、鼓ひまわりです。ひまわり、は漢字じゃなくて、ひらがなです。アメリカから帰ってきたばっかりで、日本の学校に通うのは三年ぶりかな? そんな感じです」

 シンプル極まりない名前、そしてアメリカという響きは、きっと全員の耳を捉えた。彼女は満足げに白い歯を見せて、私がいちばん好きだった景色を描きました、と言った。

「父に連れられて、車の窓から見た景色です。正直、これ以外の描き方を思い付けませんでした。本当に本当に、こうだったんです。ずっと。見渡す限り、どこまでも。これ、なんだか分かりますか」

 向日葵畑? という声が教室のどこかから上がる。

「大正解です。道路に沿うようにして、ずっとずっと、向日葵畑が広がっていました。私が生まれる少し前、父が同じ道をひとりで走っていて、子供の名前はひまわりにしようって決めたんだそうです。ひらがななのは――すぐに書けるようになってほしかったからかな、と思います。コロラドからカンザスへ、横断する途中のことでした。カンザスは『向日葵の州』と呼ばれているんだと、そのとき父が教えてくれました」

 マーク・ロスコ、そしてまさに太陽のような笑みにあてられて、私は少し困惑していた。この教室にだけ夏の陽光が差し入っているような気がした。

 張りのある声で、物語の続きがかたられる。

「父はアリゾナの博物館で研究員をしていました。調査のためにあちこちを飛び回っていたので、私もそれにくっ付いて、旅していました。父の研究対象がなんだったかって言うと、綺麗な景色や花だったらよかったんですけど、そうじゃなくて、へんてこな古生物です。石の中に眠っている変な虫に会うために、何百キロも車を飛ばしていたんです」

 オパビニア、って皆さん知ってますか? と鼓さんが私たちに問う。オパビニア。教室中で首を傾げる気配があった。

「カンブリア紀の海の生き物です。生物の資料集とかには載ってると思うんですけど、目が五つあって、口から鋏の付いた触手が生えてて、体の両側に櫂みたいな鰭があるんです。その遠い子孫だっていう生き物の研究を、ずっとやっていました。父が注目していた、そしてこの時期の生物にとってきわめて重要だったパーツは、目です」

 鼓さんは黒板に、聴覚、嗅覚、触覚、と書いた。

「視覚は、生命が最後に獲得した感覚なんだそうです。それによって情報量が圧倒的に増え、食べるものと食べられるものの生存競争が激化した。暗闇の中でひとりだけ目が見えたら最強じゃないですか。目の誕生は生命の歴史における一大事件で、生命が躍進する契機だったんです。彼らが目を獲得してくれたおかげで、私は素晴らしい景色を見られました。この向日葵畑を、そしてみんなの顔を」

 それはまさに物語だった。ここにいる誰も体験したことのない、遠く不思議な世界についての。私などカンザスやアリゾナはもちろん、東京にさえ行ったことがない。新幹線だって未経験。いちばんの遠出で冒険だったのは――県庁所在地だ。そういうスケールの人間だ。

「化石を見ればこの星のことが分かる、と父は口癖のように言っていました。化石というタイムマシンに乗り込んで、何億年もの時間を遡る――父は研究者であり、同時に冒険家です。今ここにいる私たちみんな、生命のルーツを辿るために冒険しています。たとえば皆さんがオパビニアの誇り高い子孫だと解明されたらどうでしょう? わくわくしますか? ちょっと嫌ですか? 不思議な、小さな生き物だった頃の私は、カンザスの向日葵畑に由来した名前を授けられることも、ここで皆さんに出会うことも、ぜんぜん想像していなかったと思います。五億年ぶりに再会した人も、もしかしたらいるかもしれませんね。覚えていても覚えていなくても、気軽に声をかけてくれると嬉しいです。これで私の話を終わります。ありがとうございました」

 鼓さんが一礼する。万雷の拍手が起きる。少しだけ照れたような表情を覗かせてはいたものの、それでも堂々と、彼女は拍手を受け取っていた。また笑っている。

 オパビニア、オパビニア、とあちこちで囁き声がしていた。さっき私に話しかけてきた男子も、生物の教科書を取り出して熱心にページをめくっている。

 このぶんだとクラスの流行語になるだろう。ピアノを打ち負かしてくれた古生物万歳。カンブリア大爆発よ、発生してくれてありがとう。

 チャイムが鳴る。締めくくりの挨拶をして、関守教諭が出ていった。入ってみて初めて知ったのだが、この高校では終業後のホームルームが原則的にない。掃除当番になっていない日は、全力疾走すればバスに間に合う。

 私は鞄を掴むと、大急ぎで教室を飛び出して階段を駆け下りた。バスに揺られながらオパビニアを画像検索してみて、自分が想像していたのがアノマロカリスだったことに気付いた。

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