最後の呪文
あの顔を見ていると、未だに胸が苦しくなる。
何度も見せられ憎悪を植えつけられようと、それでも慣れることはない。悔恨が消えることはない。
稜線を伸びる、目の前の細い道。
獣道(けものみち)とは言えまい、ただ風雨が刻んだだけでもない、誰かが歩いた跡。
この道の先に、少女が立っている。
彼女の顔が誰か、はっきりと見分けられる距離は、魔法を撃ち合うのにちょうど良い間合いでもある。
メリリャの姿に化けたあれ、月神レーリアは俺を斃そうと、いや、主神ヘレスと会わせまいと行く手に立ち塞がっている。
「俺を殺したら、おまえたちの欲しいものは手に入らないぞ」
言いながら、頭のてっぺんから爪先まで、神経の繋がりを、血流を意識する。
「おまえらは俺の“これ”を見ることも、触ることもできないんだろう? それでいいのか?」
言いながら、胸に指先を当てる。同時に、その奥に宿る五つの魔法具を意識する。
遠く近く──空間を超越したあの、五元素の神々の領域に触れた瞬間、統合された新しい魔法が発動する。
足許から、胸元から、自分の中心から新結界が広がっていく。
「イシュルよ」
メリリャは冷たい、酷薄な笑みを浮かべる。
本物の彼女なら、そんな顔は絶対にしない、できない。
「わたしと戦う前から負けた時の算段か、何と嘆かわしい。臆病者め」
「イシュル、月神の言辞に惑わされるな」
背後からリフィアの鋭い声がかかる。
「これが月神とは……。ただ、冥府の神としてはふさわしいですわね」
対してミラの落ち着いた声。小声だがなぜかはっきり聞こえる。
……ふたりは、運命神と戦うことにまったく気後れしていない。疑念を感じてもいない。
それだけ俺を信じてくれているんだ。
俺と生死をともにすることを、当然のこととして受け入れている……。
それは、どんな戦いか。
「ふん、揶揄(からか)いに嘲りを返しただけじゃないか」
イシュルも月神に向け、薄く笑みを浮かべた。
「神を名乗っているくせにその程度か。お里が知れるな、レーリア」
「ふん、人間どもに合わせてやっているだけだ。この娘の姿もそなたに合わせてやっているだけだ」
レーリアはそこで笑みをさらに深くした。顎を引き、イシュルをねめつける。
「……その魔法、なかなか面白そうではないか」
月神は言いながら、自らも魔法、神の御業を立ち上げた。
少女の足許から黒い影が周囲に広がっていく。すべての光を吸収する漆黒の影は上方へ、レーリアのからだを這うように伸び上がり立体化していく。
暗黒の空間は彼女の周りに広がっていき、その領域が拡大するにしたがい、内側に光り輝く光球を無数に無作為に出現させた。
無数の大小の光球はやがて、輝いては消える明滅を繰り返すようになり、同調し拡大し、合体しひとつになっていった。やがて彼女の結界全体が、まるで昼と夜を瞬時に繰り返すように目まぐるしく輝きくすみ、沈みこんで明滅しはじめた。
運命神の結界は彼女自身の周囲十長歩(スカル、約6.5m)ほどの範囲を保ち、より魔力の密度を高め、強度を増していく。イシュルが自身とリフィア、ミラも包むように張った新結界にはまだ接触してこない。
レーリアは冷たく無気味な笑みを浮かべたまま、その場から動こうとしない。己の結界がより強力になっていくのをあえて、見せつけているのか。
激しく明滅する結界は、強度を増すにしたがいより複雑な様相を呈し、濃霧に覆われまったく視認できなくなったり、強風により晴れ上がったのか内部のあらゆるものが輪郭を際立たせ、鮮明に見えたり、変化に富んださまざまな光景を見せるようになった。
「……!!」
イシュルは彼女の足許に視線を落とすと、驚愕に目を見開いた。
月神の周りの地面にも、異常な現象が起こっていた。まばらに生える野草は異様な早さで成長し、あるものは花を咲かせ、あるものは灌木にまで成長する。と次の瞬間には花弁を散らし萎れ、枯れ果てていく。ある時は勢いよく繁茂し、次の瞬間には一気に荒廃した岩肌だけが残る。
それが瞬きする間もなく何度も何度も繰り返されていく。まるで月神の周りの空間だけ、異様な早さで時間が流れ、あるいは巻き戻されているように見えた。
「そうか」
イシュルは短く呟いた。
ミラとリフィアも驚いているのが伝わってきた。
……あれが万物の運命を、森羅万象を司るということなのだ。
何度もやつが介入して狂わされたあの、時が止まったような現象。月神にとって都合のよい事象のみが、いつものように時を重ねていき、その間俺は何もできない……。
あれも今、目の前で起きていることと同じ部類なのだろう。
思わず全身に力が入る。硬直し震え出す四肢を、両拳を握りしめ抑え込む。
「あの結界にのまれたら終わりだ」
おそらくはあの草花のように、やつのいいように弄ばれ、生と死を、自由を、すべてを奪われるのだ。
……そうはさせない。
何度目か決意をあらたに、闘志を奮い立たせる。歯を食いしばり、双眸を見開き、対峙する運命神に集中する。
……俺にもこの結界がある。そう簡単におまえの好きにはさせないぞ。
左の拳を開いて、後ろに延ばし何度か振ってみせる。
「ミラもリフィアも心配するな。俺の結界の中にいれば安全だ」
レーリアから目を離さず、首だけ横に向けふたりに向かって叫ぶ。
「おう」
「はいっ」
リフィアとミラから、力のこもった声が返ってくる。
「ふっ」
ふたりの元気な反応に新たな勇気が湧いてくる。絶対に負けるわけにはいかない。
自らの結界全体に意志の力を、前世で得た科学、歴史、概念、そして自らの感覚を、より強く及ぼし充溢させていく。
万物の運命、それが生々流転を意味するのなら、前世と今世の「生」を併せ持つ俺は決しておまえに負けない……。
メリリャの姿をした運命神、レーリアの結界は、さらにその変化の速度を上げている。昼と夜、晴れと褻(け)、生と死、成長と老化、隆盛と衰退、変化と不変……あらゆる事象の変転が異様な速度で繰り返されている。
少女はその中心にあって薄く笑みを浮かべ、こちらを窺っている……。
対して自身の結界は見かけに変化がない。わずかに感じられる魔力と外縁を吹きまわる微風、世界が変わる兆しが、不思議な予感が心のうちを騒めかす。
互いの結界が接触すると押し合い、侵食し合い、吞み込もうとせめぎ合い、戦いがはじまる。
……メリリャ。
さまざまな感慨が胸中を去来する。
真正面から彼女を見つめ、己の魔力を上げ、より大きく出力していく。
この戦いは以前から予想していた。過去に経験がある。水神フィオアと対峙した時と同じだ。
まずは己の力、世界を成す力をぶつけ合う、鍔迫り合いからはじまる。それは、互いの力を展開した結界どうしがぶつかり合う、陣地取りのような様相になる。
「我が魔法具よ、ひとつに合し世界を成せ」
通常はいちいち唱えたりしない、新結界の呪文を唱える。おそらく、人間が使うことのできる最高の魔法、呪文だ。
……さあ、勝負だ。これからが本番だ。
「我、生きとし生けるものすべてに天命を授けん。しからばこの者には死を与えん」
メリリャの眸が、じっと俺を見つめる。
運命神も本気を出すようだ。彼女も呪文を、呪いの言葉を紡いだ。
ぎりぎり、ざらざらと不快な擦過音を立て、ふたつの結界が接触した。
無数の鋭い電光が境界面を走り、網膜を焼くような痛みが眼窩を突き抜けていく。地面を、空気を震わす振動が結界内を伝ってくる。
結界の外、遠くの空を風が舞い、光が踊り狂う。
イシュルとレーリア、互いの結界がひと回り拡大し、空高く吹き上がる。ふたりの間で互いの境界が斥力を増し、せめぎ合う。
……五つの魔法具が揃った今、自分の力はフィオアと戦った時と比較にならないほど強力になっている。だがもちろん、油断はまったくできない。相手が、太陽神である主神に次ぐ力を持つ月神だから、より強大な神だからという以前に、五元素の魔法具がこの世界由来のものであるため、そして何より自分がこの世界に生を受けた存在である以上、彼らの力の侵入を完全に拒止することができないのだ。
フィオアと互いの結界をぶつけ合った時。彼女の力の侵入を許したのはあの時、水の魔法具が欠けていて新結界が完全なものではなかったから、それだけが理由ではない。自分自身がこの世界で転生し、五つの魔法具がこの世界のものである以上、神々の干渉を完全に排除することは不可能だった。
また一方で、自分の中にある前世の記憶が神々を拒絶し、あるいは陥れることができると、それだけで慢心して戦うことも危険である。フィオアと戦った時、その過信が彼女に付け入る隙を与えたのもまた、確かなことだった。
……それではレーリアと、どう戦えばいいのか。
彼女は主神、太陽神であるヘレスと対を成す月神、運命神かつ冥府の神である。たとえ俺が世界を成す五つの元素の源である神の魔法具を持っていようと、まともな戦いになるか、それさえも不明だ。あちらは神さま、こちらは人間。所詮、もとからの地力が違う。
だが、神々にもそれぞれ個性あるが故の、苦手な、あるいは弱点とも言えるポイントがある。
主神の間で対決した精霊神アプロシウスは、その奇妙な特性からある意味、弱点を探るのも容易だったと言える。
あの神は最後の最後に、決定的な弱点をさらけ出した。俯く俺の目の前に、最後の “鏡”が一枚だけ、残されていたのだ。しかも、そこに映るものすべてを簡単に消し去ることができる状態で。
ただ滑らかな水面を搔き乱すだけで、やつの力を奪うことができた。あまりにもあっけない結末だったが、そのことに気づき、あいつの干渉に堪えるだけの魔力を使えなければ、そんな簡単なことさえできなかった。双子の精霊に拘束され、両手両足は使えなかった。
もうひとり、本格的に戦ったバルタルはどうだったろう。
バルタルは火神バルヘルの弟とされ、邪神や悪しき魔を統べる、封ずる荒神である。彼は、主神ヘレスによって滅ぼされた水神フィオアの妹、××××の欠片から生み出されたマレフィオアを討つため、自ら直接、俺に接触してきた。その際に俺の力を試すべく、無理やり戦いを仕掛けてきた。
バルタルの戦い方はその名のとおり、力任せの荒々しいものだった。ただひたすら互いの、いや俺の魔力の限界を求めてきた。
あの時、荒神は「マレフィオアは力任せでは斃せない」と言った。もしあの戦いで、俺にただ力任せではない、相手の弱点を考え見抜くような余裕があれば、そんな戦い方ができれば、どうなっていたろう。
神々の間には、互いの長所と欠点が絡み合う、三すくみのような関係性がある。
無理に難しく考える必要はないのだ。あらゆるものの運命を司るレーリアにも、何らかの弱点が存在する筈である。
「どうした、イシュル。何を考えている? そなたの力はこんなものか? まさか、出し惜しみしているわけではあるまいな」
強烈な明滅を繰り返し、変転する運命神の結界。レーリアの世界。
そこからなぜか、よくとおる声で彼女が挑発してくる。薄く笑みを浮かべて、メリリャが眼光鋭く睨んでくる。
……だが、こちらの結界を破ろうと、あるいは侵食しようとしてくるやつの結界も、まだまだ全力を出しているとは言い難い。俺と同じく、やつも相手の出方を窺っているのだ。
敵の結界の力、その感触はやはりどこか、今まで戦ってきたバルタルやフィオア、アプロシウスら神々と似たところがある。
神々の力、神々の魔法は、人間や魔物が使う魔法とは出力や規模、質の次元が当然だが、まったく違う。
蟻と象、騎馬と戦車、弓矢と大砲。何かに例えて比較すればそんな感じだろうか。俺が今、彼らと何とか互角に戦えるのも、五つの神の魔法具を有し、この世界を疑似的に、限定的に支配する力を持っているからだ。ただの人間が神々と伍することができるのも、前世の知識、進歩した科学や思想に裏打ちされた森羅万象、世界に対する概念を持ち合わせているからだ。
あらゆるものに対する感覚が、この世界の人間と比較し、時により広く深く機能するからだ。
レーリアがこちらの魔力を計っているように、俺もやつの神の力の実体を感じとり、計っている。
やつの魔力も根っこの部分、その地力の強烈なところはほかの神々とよく似ているが、互いの力、結界のせめぎ合いから伝わってくるこの感触からは、運命神ゆえの特徴が感じ取れる。
やつに打ち勝つための要諦は、風の魔法をはじめて使った時から変わらない。この世界の人間に、神々にはわからない感覚と思考、概念をもって、運命神の魔力の特性を分析、把握することだ。そして自ら独自の魔法を行使することだ。
もちろん過信は禁物だが、その戦い方が基本であることは変わらない。この世界が彼ら神々のものである以上、同じ土俵で戦っても勝てない。
要は、前世と今世の知識の平衡をどうするかだ。どう組み合わせ、融合させるかである。
「おまえこそ、そんなもんじゃないだろう。俺の何を待っているんだ?」
……やつの結界は少しずつ力を増し、半径十長歩(スカル、約6.5m)ほどだった周囲も、さらに数長歩ほど拡大している。こちらの新結界とぶつかり拮抗している正面は、激しい振動に高熱を帯び、ところどころ発火し、閃光を放っている。
その感触は、他の神々と同じ傾向の力に加え、無数の先鋭な切っ先がランダムに、多様な角度や速度で突き刺さり、切り裂き、それらが反復される、極めて不快な精神の磨耗を誘発させるものだ。
……決して、力づくでやれないことはない。
だが、もっと上手く戦うことができる筈だ。
「……」
腰の、片手剣の鞘を握っていた左手を背中にやり、人差し指と親指を伸ばして、指先を開いたり閉じたりを繰り返す。
後方に展開するミラとリフィアに手信号で、攻撃の簡単な手順を知らせる。彼女らとは、今まで数えきれないほど多くの戦いをともにしてきた。幾つかの単純な手信号や声掛けだけで、攻撃や防御などの戦闘について、ある程度の意思疎通ができるようになっている。
同時にレーリアに一歩だけ踏み込み、わずかに間合いを詰め、新結界の強度を一気に引き上げる。
思わず両肩に力が入る。そして全身に、気力が充溢していくのがわかる。
白昼、薄曇りの陽光に無色透明、無風無音だった新結界が微かに青く色づき、振動して目に映るものすべてがぶれ、震え出す。
「よしっ!」
「!!」
リフィアとミラが裂帛の気合とともに魔力を発動する。
ふたりはほぼ同時に、リフィアは足で蹴り上げた大小の石の欠片を、ミラは金の魔法で生み出した十数個の拳大の鉄塊を生み出し、自らの前方に浮揚させた。
石の欠片も鉄塊も彼女らの魔力が込められ、周りを全て切り裂くような鋭い閃光を発し、くるくると各個に自転しはじめる。
……ふう。
イシュルはかるく息を吐くと、まず土の魔法を発動し、ふたりと同じように自身の前面に無数の土塊を生み出す。
あえて急がず、ミラたちに合わせ同じ速度で土塊に魔力を込めていく……。
「ふふっ……」
メリリャがレーリアの表情で笑う。
そして何事か呟いた。唇の動きから、なぜか「そなたの力、見せてもらおうか」と囁くのが伝わってきた。
イシュルはレーリア=メリリャの好戦的で傲慢な顔を睨みつけ、さらに複数の魔法を重ね掛けしていった。眼前に、無数に展開した土塊に土の魔力を注入しながら、さらに他の系統の魔法の準備を進めた。
……行け。
それからおもむろに、後ろに回した手を握りしめ、パッと開いた。
「!!」
と同時に、リフィアとミラが猛烈な気合いを発し、目の前に展開した岩の欠片と鉄塊を前方へ撃ち放った。
イシュルの左右を、赤と金色の多数の光線が突っ切って行く。
ふたりの魔法がレーリアの結界に激突、網膜を焼くような閃光と全身を貫く爆音、地鳴りが響き渡った。
「……」
武神の魔法と金の魔法の攻撃に、だが、ただかるく笑みを浮かべるメリリャ。
その余裕の表情へ瞬間、今度はイシュルの土魔法が炸裂した。ミラたちの攻撃の間に、無数の土塊はすべて小さな砂粒ほどにまで圧縮され、一瞬で空間を跨ぐような速度に加速されレーリアの結界に突き刺さった。
「くっ」
メリリャの顔が途端に、苦し気に醜く歪む。
「……まだだ」
そこへイシュルが小声で呟くと同時、今度は青く輝く無数の光点が月神の結界に激突、高熱の魔力が表面を覆った。続いて水球の圧縮された無数の氷の塊が衝突、火魔法に反応して一斉に水蒸気爆発を起こした。
魔法と水蒸気の同時爆発は、レーリアの結界に多数の亀裂を起こし破壊した。異様な速度で明暗を繰り返し、草木を茂らせ、花を咲かせ、枯れさせ、永久に続くとも思われた万物の流転が止まり、彼女の周りはくすんだ暗闇に包まれ、山の頂はすべてが焼けた灰のような砂に覆われた。
レーリアの結界が、その運動が止まった。
「おのれ、人間風情が」
メリリャの顔の月神は眉間に深い皺を寄せ、吐き捨てるように言った。
「ふん」
イシュルは口端をわずかに歪めてレーリアの恨み言を聞き流した。
はじめに土の魔法を使い、無数の土塊を目隠しがわりに火と水の魔法を、この世界ではまだ知る者のいない知識を用いて発動し、摂氏千度以上の高温の火球を生成、水球を圧縮して氷に、結晶化した。ミラとリフィアの攻撃の間に土塊を圧縮し威力を増し、火と水魔法を発動してレーリアを欺き、攻撃して奇襲効果を狙った。
運命神の弱点を強いてあげるなら、それは同時に無数の可能性を操作し、あらゆる事象の運命を決定づけるその途方もない難しさにあるだろう。いくら運命神であろうと、あれだけ力を行使すれば、不測の事態に対応する力が限られるのではないか。つまり余力がないのだ。
そこで、前世の知識を加え強化した複数の魔法を同時に、あるいは意図的にタイミングをずらして発動、奇襲も行い多彩な攻撃を仕掛けたわけだ。“不測の事態”を連続して起こさせ、彼女の余力を奪ったのである。
月神の反応からすると、それなりの効果はあったようだが……。
「なんだ、レーリア」
イシュルはわざとらしく笑みを浮かべると、露骨に挑発するように言った。
「運命神ともあろうものが、口ほどにもない。大したことないな」
今度はイシュルが嘲り、やり返す番だった。
以前は月神の結界に囚われ、時を止められ、事象を歪められた。だが五つの魔法具を手に入れ、新しい自らの世界を仮にでも創りだすことができるようになると、レーリアの力を拒絶し退けることができるようになった。
その端緒を示したのが風の異端の精霊、ヨリクだった。この世界にない異質なものが、ともすれば神々のことわりを覆すことができることを、彼が見せてくれたのだった。
そして、推測どおり彼女の弱点もわかってきた。
「ヘレスに問う前に、おまえにも訊きたいことがあるんだが」
この南海の島に、生きる物のいない、色彩のない月面のような空間が存在している。レーリアの結界は、その機能を半ば喪失している。だが、こちらもまだ小手調べ程度で、全力の攻撃を加えたわけではない。
彼女は自らの結界を修復すべく、現在の状況を好転すべく、少しでもいいから余裕が、時間が欲しいのではないか。
それなら時間稼ぎにこちらの話に乗って、答えてくれるのではないか。
……主神のヘレスだけじゃない、俺はおまえの存念を訊きたいんだよ。
「森の魔女レーネを使嗾して、俺を殺そうとしたのはおまえか」
メリリヤの顔から、一瞬で表情が消える。
背後でリフィアとミラが息を呑み、緊張するのが伝わってきた。
彼女たちも知る、俺の家族と村の人々ら多くの命を奪い、人生を狂わせる発端となったあの出来事だ。
「ベルシュ村へブリガール男爵を差し向け、村人を虐殺するよう仕向けたのはおまえか」
イシュルは両手を握りしめ、顎を引き低い声で言った。
……これだけは、このことだけは直接、おまえから訊き出さなければならない。
「どうなんだ?」
詰問調になろうと気にしない。
答えないならかまわない、吐くまでひたすら痛めつけるだけだ。
「それはわたしの答えることではない。ヘレスに訊いてみればよかろう」
メリリヤは表情を消したまま、低い声で言った。
「わたしを斃してな」
それからほんの微かに、口端を歪めた。
「……」
何度目か、胸の底から怒りの、熱いものがこみ上げてくる。
今まで何度も俺を邪魔しておきながら、おまえはそのことを話すことさえできないのか。
イシュルは視線をメリリャから山の稜線の先、ヘレスがいるだろう小さな神殿の方へ向けた。
……レーリアを斃し、おまえとも戦わなければならないのか。
「なるほど、問答無用だな」
こいつもまさか、すべてを知らされてはいないのかもしれない……。
胸のうちを冷たいものが浸していく。怒りが、熱いものが空疎な失望に変わっていく。
イシュルは肩をすくめて言った。
「それなら、いつまでもおまえにかかずらわってられないな。さっさと決着をつけてしまおうか」
再び後ろ手に、リフィアとミラに指先で指示を出す。そしてゆっくりと両足を開き、わずかに腰を落とした。
背後でフィアとミラが目を合わせ、何事か頷き合う。それから、ふたり同時に剣を抜いた。
緊張から再び、燃え上がる闘志へ。ふたりの心の動きが手に取るようにわかる。伝わってくる。
リフィアとミラの勇気を胸に、発散する魔力にさらに気合を込めていく。
……神々は時に、人の心のうちを覗き見る。だが、俺のこの結界が生きている間は大丈夫だ。
やつの力は結界の中にまで及んでこない。
同様に、月神を斃すにはあの薄暗い無気味な結界を、完全に吹き飛ばさなければならない。
レーリアは、メリリャの顔に薄笑いを貼りつけたまま、両手を左右に伸ばした。
イシュルは右腕を引きつけ、左腕を前に伸ばした。
新結界、そして金の魔法、風の魔法……いくつもの魔法を同時に発動する。右手を懐に入れ、カレルの市場で買った投げナイフを取り出す。
一本、“風の剣”の依り代にして、月神に投げつけた。
投げられた風の剣は一直線に、青い光跡を描いてレーリアの結界に突き刺さり、火花を散らし、幾つもの雷光を走らせ突き抜け、メリリャの額に突き刺さった。
彼女が両手を横に伸ばし、発動しようとした何か──もあっけなく打ち消された。
五つの魔法具がひとつところに集まり、それによって制御の難しかった“風の剣”が容易に扱えるようになった。
そのことは実際に試すことがなくとも、はっきりと感じることができた。このことは誰にも言わず、口にせず、心のうちで考えることさえ控えてきた。
何より神々に知られることを怖れた。
何の変哲もない手投げナイフがレーリアの額に刺さり、青く輝き彼女の顔を照らしている。両目が茫然と見開かれ、あんぐり口を開けていた。
月神の結界をちりちりと細かな閃光が走り、内部の像が乱れてやがて静かに消えた。
斬れないものはない、風の剣が運命神の結界を切り裂いたのだ。
「今だっ!」
「やあああっ」
イシュルが叫ぶと同時、リフィアとミラが気合の叫声を上げて宙を飛んだ。
ふたりはぴったりタイミングを合わせ、魔力の光芒一閃、長剣をレーリアに突き刺した。そして瞬時に剣を離し、宙を回転しながら後方へ飛んだ。
「……」
ナイフと二本の長剣が刺さったメリリャは見るも無残な姿で、左肩を下げ、上半身を奇妙な角度に曲げその場に佇んだ。
イシュルはメリリャの立ち姿を見て、胸の焼けるような苦痛を覚えた。
たとえそれがレーリアでも、感じずにはいられなかった。彼女が死んだ、助けられなかったあの夜のことが思い出された。
「やったか?」
後ろでリフィアの、小さな声が聞こえる。
「うううううううっ」
ひと息おいて、あらぬ方を見ていたメリリャが突然目を剥き、兇悪な呻き声を発した。
からだに刺さった剣を抜き、投げ捨て、さらに苦痛の叫びを上げて額のナイフを抜いた。ナイフの柄を掴んだ彼女の手は細かくぶれて、消失と再生を繰り返した。ナイフを後ろに投げ捨てた後、彼女の右手は手首から先が消えたままになった。もう再生しなかった。
運命神は自らの右手と引き換えに、風の剣を消去したのだった。
「おのれ、ゆるさ……ん、冥府の門よ……」
レーリアはなぜか涙を流し、苦し気な、悲し気な、そして怒りの表情を何度も何度も繰り返しながら、はっきり聴き取れない呪詛の言葉を吐いた。
その小さなからだの背後に、くすんだ白色の輝きにぼんやりと、魔法円が浮かんだ。
輪郭の少しぼやけた、自然な輝きの今まで見たことのない、魔法陣……。
その輝きが瞬くその合間に、背景に影のように奇妙な像が浮き上がる。
その像が結ぶと……。
無数の細かな粒子が瞬き、不可思議な規則性と変則的な運動を繰り返し、何かの模様を描き、何かを形成し、消滅する。
……なんだ、あれは……。
奇妙な既視感。それはまるで前世で見た、空想した科学的な何か。粒子や波の、何かのモデル……?
それはだが、人工的なCGなどではない、自然のなかに存在するものだ。何となく、直感的にわかる。何らかの、観測機器を通して見たような……。
と、メリリャの背後に、暗黒の穴が開く。
それは冥府の門か。レーリアは冥府の神でもあるのだ。
「ぐぎゃあああああ」
少女が叫ぶと、黒い穴が一瞬で膨張し、爆発した。
「しまっ……」
最後まで、声にならなかった。
もう、新結界はなかば消失している。風の剣を投げたのだから、自分の結界も一緒に切り裂いている。
衝撃と熱、からだが震える。
「……!!」
「イシュ、ル」
ミラとリフィアの、声にならない叫び。なぜか、心の底に響いてくる。
ふたりが消えていく……。
どうして、なぜ?
……ああ、そうか。
終わりだ。
終わったのだ、一瞬で。
あの奇妙な光の運動。凝視してしまった。
あれは……。
俺も、消えていく。
そこへ何か、目の前にかぶさってきた。
すぐ目の前で、あの頃のメリリャが微笑んだ。
……良かった。あいつから、自由になれたのか。
いや、妄想か。これは走馬灯か。
いいや、確かに少し、重いものがかぶさってくる。
ただそれを、抱きとめた。
膝をつき、少女のからだを抱きしめる。一瞬ののち、彼女の肩越しに、周囲が暗く落ちたせまい視界が生み出された。かつて、メリリャだった女が座り込み、呻吟の声を上げている。
……あれはレーリアだ。はじめて見た。
傷だらけじゃないか、ざまあみろ。
相討ちか。
目を瞑ったメリリャ。さっき微笑んでくれたのに、もう死んでいる。
……メリリャ、まさか俺をかばってくれたのか。
俺のかわりに、やつの死の魔法を──盾になってくれたのか。
あの喉を焼く熱。あの爆風、呪いの風。
冥府から吹きだされた死の魔法だ。
メリリャだけじゃない。後ろもだ。
リフィアとミラ。
後ろにも、誰もいない。
……感じる。
からだが動かず、見ることはできないが肉片さえも残っていないだろう、ミラとリフィアの亡骸、のようなもの。
岩と草の間に残る痕跡。
ふたりとも、死んでしまった。
あれだけ元気だったのに、ずっと一緒に、苦楽をともにしてきたのに。
死ぬときは一瞬だ。一瞬でいなくなる。
……この凄まじい喪失感。
俺はまた、失敗したのか。
──その時だ。
久方ぶりの怒りが、哀しみがこみ上げてきた。
これは母と弟、ルーシとルセルの骸骨を、亡骸を見つけた時以来だ。
肺を、心臓を、全身を内側から抉るように吹き上がる。
「許さないぞ、レーリアっ!」
死ぬ前に、一発喰らわせてやる。
意識を、感覚の先端を天上のその先へ伸ばす。力を伸ばし、集め、固めて一本の刃と成す。
そこはおそらく神々の知らない成層圏、宇宙の淵だ。
青く輝く刃が浮いている。ただの風の剣じゃない。火を水を土を、金さえも合わせてしまおう。
「行け」
レーリアの、切り裂かれた古式ゆかしいローブ、肉体。出血はなく、無機的だ。何かの合成樹脂が切り刻まれたように見える。
苦しそうなその顔の、細かいところまではわからない。視力が落ちている。
……滅べ、レーリア。
見えないすべての拘束を、切り裂く。
瞬間、五元素の剣が落ちてきた。音速を越え、まるで光のような速さで成層圏から、運命神の頭上まで落ちてきた。
一瞬静止。そこからはむしろ、静かに突き刺す。
閃光、そして爆発。吹き飛ばされた。
……白に近い無色の空、明るく深く曇った空。
見上げるとそこに、母の黒い影が立っていた。
「××××××? ××××、×××××××××?」
静かだ。母は何を言っているのか、聞こえない。
……ああこれは。
繰り返しか。赤帝龍は、もう去って行った筈だ。
いや、違う。
俺はまだ、生きている。多分。
仰向けに、あの時の薄曇りの空を見ている。
からだは動かない。ただ重たい。もう手も足も、ないかもしれない。
「××××××? ××××、×××××××××?」
いや、何を言っているかわからないよ。
おまえはヘレスか。
くそっ、今から、こいつとも戦わなきゃならないのか。
もう、死ぬしかないのに。
……結局メリリャを、家族を、取り戻せなかった。
ミラもリフィアも、殺してしまった。
また愛を、愛しいひとを失ってしまった。
……それなのに。
俺はまた、こいつに無理やり甦えらせられるのか。
そんな馬鹿な。そんなこと、絶対に許せない。
俺はレーリアを退けたのだ。
ここで諦めてはならない。俺は自分の運命を、失われた命を取り戻すのだ。
まだ武器がひとつだけ、残されている。
何の意味もない、ただ自分本位の思いつき。
愚にもつかない妄想。
とりとめもない空想。
神々の仕込んだ、不条理な運命、つくられた因縁……。
だから、一度ならず心の中で呻き、叫び、呪文のように唱えてきた。決定的な言葉。
多分その推理は合っている。
いや、万にひとつもその可能性はないだろう。
何の当てもない、独りよがりの代物。
だが、もし合っていれば、それはたぶん呪文になる。
万にひとつ、かけてみる。
……死んでしまった、離れてしまったみんなのために。
世界を回す、自ら助(たす)く魔法になる。
これは最後の呪文だ。
……声は出るか。
掠れた小さな音が出た。
「我こそは、名もなき神なり」
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