運命の顔貌

 

 甘い囁き、歌声。柔らかな旋律。

 この現実である人の世と神の領域の狭間で、それは幻のようにほんの一瞬、目に、耳に、肌に、五感に伝わった。

 まだ少し、波が高い。

 海底に沈んだ島を海上に引き上げた。さすがに疲労感がある。

 ゆっくり、静かに、一度だけ深呼吸すると、エルリーナを振り返り合図してスループの操船を引き継ぐ。

 波のうねりに船首を立て、前方に見える小さな入り江にまっすぐ向かう。

 鈍く光る青灰色の向こう、入り江の奥に絵に描いたような砂浜が見えた。まるで誰かが、意図的にしつらえたかのような構図だ。

 ならば、目の前に広がる砂浜だけじゃない、この島すべてがそうだ。

 頭上、明るく暗い斑(まだら)の雲がむくむくと湧き上がり、四方へ遠く流れ散っていく。

 重く湿った風が吹きつけてくるが、雨が降り嵐がくるような気配はない。この辺りは間違いなく、好天に向かっている。

 もし生きて帰ることができれば、晴れた青空を拝めるかもしれない。

 入り江に入ると波が消えた。船は海面を滑るように進み、やがて船底が砂浜に乗り上げた。

 その瞬間、奇妙な感覚がイシュルを襲った。

 空間を超越した遥かな天上から、甘く柔らかい歌声のような、音の旋律が降ってきた。現実と非現実が接触する境界の奏でる何かが一瞬、全身を包み、足下に流れ落ちていったのだ。

 ……何かの錯覚、か。

 見えない壁を越え、異なる世界に踏み入る時の、不可解な感覚。だがそれは以外にも、甘美な感傷を誘うものだった。

 そう、錯覚でなければ一体、これは何の皮肉か。

 船べり越しに揺れる海面、小さな波の音。砂浜は流木や貝殻の類いも、もちろん誰かの足跡もなく、とてもきれいだ。

「……」

 ミラとリフィア、ニナは未だ茫然と周囲を見回し、無言でいる。

 魔力を使って、スループを砂浜に深く食い込むよう乗り上げ、安定させると、イシュルは船から降りてミラ、次にニナを抱き上げ砂浜の波打ち際まで運んだ。

「ありがとうございます、イシュルさま」

「あ、ありがとうございます……」

 ミラもニナも砂浜に立たせると頬を染め、恥ずかしそうに言った。

「ん」

「?」

「んっ、んっ!」

 三人でにっこり笑みを交わしていると、船の方から何か声がする。

 見るとリフィアが船上から両手を伸ばし、何事か催促している。

「なんだよ」

 イシュルは彼女と目を合わすと溜め息を吐いて言った。

「おまえならそこから飛び跳ねて、簡単にこっちまで来れるだろう」

 もちろん、リフィアが武神の矢を発動すれば、一気に何百長歩(スカル、一長歩=約0.65m)もの距離を跳躍することが可能となる。

「あら、おほほ」

 ここぞとばかりにミラが口許に手をやり、高笑いする。

「イシュルさん、リフィアさんも抱っこして運んであげた方がいいです……」

 対してニナは小声で、あくまで控え目に言う。

「んー、んー」

 リフィアはそんなふたりに構わず右目を瞑り、左目を横目にイシュルを睨んでアピールを続ける。

「はいはい、わかったよ……」

 イシュルは肩をすくめると小声で文句を言い、船べりに戻ってリフィアを抱き上げた。

 足許に沁みる海水が冷たい。

「わたしだって、ちゃんと扱ってくれないとな」

 リフィアはイシュルの首に両手を回し、耳許で囁くように言うと、少し不安な顔になって続けて言った。

「こんな凄いことして、魔力の方は大丈夫? だいぶ疲れたんじゃないか」

「いや、大丈夫だ」

 ……もちろん疲労感はあるが、思ったほどではない。

 イシュルはかるく頷き、波打ち際まで歩いてリフィアを降ろす。

 ミラもニナもにこにこして、特に何も言ってこない。

「ふう」

 そこで、彫像のように動かなかったシャルカがため息をひとつ、すっと立ち上がると音もなく宙に浮かび、そのまま空中を移動し濡れることなく砂浜に降り立った。

 シャルカが砂浜に降りると、船の周りの空中にイシュルの召喚した四精霊が次々と姿を現した。

「剣さま」

「杖さま」

「火杯さま」

「泉さま」

 フェデリカ、ウルーラ、リン、セフィーヌはそろって宙に浮いたまま跪き、各々イシュルに尊称で呼びかけた。

「わたしたちが剣さまにお供できるのはここまでです」

「ああ、そうか」

 イシュルは彼女らと一人ひとり目を合わせると、独り言のように小声で言った。

 ……ここから先は神々の領域。精霊たちはむやみに立ち入れないのかもしれない。

 だが、シャルカは平気な顔をして砂浜に下りた。もうしっかり、上陸してしまっている。

「わたしは大丈夫だ。ミラとともに行く」

 ちらっとシャルカを見ると、彼女は即座にそう答えた。

 ……ふむ、シャルカは契約精霊だからいいのか? それとも金神ヴィロドの意向か?

 フェデリカに訊いてみる。

「イヴェダの命令か、彼女はどこにいる?」

「いえ……、イヴェダさまは近くにおりません」

 フェデリカはちらっと周囲に視線を走らせると、特に隔意なくいつもの調子で答えた。

「バルヘルさまもおりません」

「ウーメオさまも」

 イシュルが訊くまでもなく、リン、ウルーラも自ら答えた。

「この島に五元素の神々はいませんわ」

 セフィーヌが微かに笑みを浮かべ、最後にそう言った。

「アプロシウス、バルタル、それにイルベズ……エリューカも来ていないようです」

 セフィーヌは島の中央、緩やかな稜線を描く山稜へ顔を向けると、少しだけ笑みを深くして言った。

 アプロシウスは精霊神、バルタルは荒神、イルベズは武神、そしてエリューカは美神、芸の

神だ。火、水、風、金、土の、五元素の神もいないのなら、残る神は二柱、だけだ。

 ……セフィーヌの何か裏のありそうな、皮肉な笑み。

「ああ、そうか。なるほどな。ふっ、ははは」

 イシュルは水精の顔を見て、たまらず声に出して笑いはじめた。

「……」

 哄笑するイシュルの横でミラとリフィア、ニナが互いに視線を交わす。

 三人とも共感や肯定、そこに相反する戸惑いや皮肉が入り混じった、複雑な表情だ。

「筋書きどおりか? ヘレス、レーリア!」

 イシュルは笑い終わると、途端に肩を怒らせ険しい顔になった。島の中央をうねる山稜の方に向かって、吠えるように叫んだ。

 残る神々は主神、太陽神のヘレスと運命神、月神のレーリアだけだ。

 ……ブリガールを滅ぼしたあの夜。エリスタールから退散する道すがら、はじめて姿を現してからずっと、事あるごとに俺を挑発し、邪魔してきたレーリア。

 最後に立ち塞がるのもやはりおまえか。

「……戦いだ。最後はやつとやり合うしかない」

 おそらくはヘレスの命を受け、五元素などほかの神々の助けは借りず、自らの力だけで俺を葬ろうと、俺から前の世界の記憶を奪おうとしているのだ。

 最初からわかっていたことだ。それならそれでいい。いくら相手が運命を司る神であろうと、退くつもりはない。やりようはある筈だ……。

「イシュル、熱くなるなよ」

「まだ月神と戦うと決まったわけではありませんわ」

 リフィアが肩を掴んで言った。ミラがすぐ横に来て手を取り言った。

「!?」

 ……えっ。

 イシュルは一瞬、呆然とした顔になってリフィアとミラの顔を見回した。

「我に返ったか、……まあ、仕方ないことなんだろうが」

 リフィアがぼそっと小声で言う。

「あ、ああ。大丈夫だ」

 息を吐いて、両肩から力を抜く。熱をさますように気を静め、心を落ち着かせる。

 いよいよ最後なんだと、我を忘れて興奮してしまった。

 ……あれから、あの時からだ。

 隠遁するレーネに呼び出され、殺されそうになり、風の魔法具を得た結果、家族を失うことになった。村の人々を殺され、故郷がなくなってしまった。

 前世で突然、大切な家族を残して死んでしまい、自分の人生を失った。何をしても消えない、重い悔恨を二度背負うことになった。

 現世でもすべてを失った後、どうしてか俺の目の前に姿を見せるようになったヘレス、そして立ち塞がってきたレーリア……。

 あれから、やっとこの時が来たのだ。

「ごめん、確かにそうだな」

 無理に笑顔をつくり、みんなに謝る。

「月神と対峙することになっても、彼女に訊きたいことがある。知っておかなければならないことがある」

 リフィアとミラ、そしてニナと視線を交わし、言葉を選んでゆっくり、静かに話す。

「俺と神々との間にはまだ、誰にも話していない大きな秘密がある……いや、それを月神に問いただし、明らかにする。俺の考えていることが正しいなら、君たちもその時に、その秘密の中身を知ることになる」

 ……俺に前の世界の記憶があり、神々がそのことに非常な興味を持っていることだ。

 何がなんだか、よくわからない説明だ。だが、まずリフィアが口端を引き上げ頷きながら言った。

「何となくわかるさ。おまえも、神々とのことも、はなから尋常ではなかった」

「わたしもそれとなく考えていました。いよいよイシュルさまの秘密の、核心を知ることになるのですね。きっとそれは、ヘレスでさえ驚愕するようなことに違いありません」

 リフィアに続き、ミラが胸の前で両手を握りしめ、うっとりするような顔をして言った。

「……」

 ニナは何も言わず、ただいつもの笑顔で大きくひとつ頷いた。

「ありがとう、その時まで俺たちが生きていればいいんだが」

 イシュルは、いつもの皮肉な笑みを一瞬だけ浮かべると、波打ち際にずっと不動で佇む精霊たちに顔を向けた。

「おまえたちはここまでだったな。……今まで、ありがとう」

 イシュルはフェデリカからウルーラ、リンドーラヌス、そしてセフィーヌへと順に視線を向け、ひと息間をおき感慨深げに感謝の言葉を口にした。

「いいえ、剣さま。わたくしこそ、差し出がましいことをして申しわけありません」

 フェデリカはイシュルに向かってうやうやしく頭を垂れると、一同を代表しあらたまった口調で言った。

「いや、いいんだ。むしろそのことも、感謝しないといけない」

 イシュルはフェデリカに微笑むと、水精のセフィーヌに顔を向け言った。

「おまえも、片手間でわざわざ呼び出したようで、すまなかった」

「いいえ泉さま、このような日に召喚いただき、光栄ですわ。ありがとうございます」

 ほかの三名の精霊よりもやや年嵩のセフィーヌは、大人な笑みを浮かべて言った。

「うん」

 イシュルが頷くと、

「それでは杖さま」

「さようなら。またお会いしましょう、火杯さま」

 ウルーラとリンも挨拶し、みな一斉に控え目な、だが美しい魔力の煌めきを放って姿を消した。

 後には砂浜に乗り上げたスループが一艘、それに絶え間ない、さざ波の繰り返しだけが残った。

「さて、シャルカ。わたしたちも準備しましょう」

 ミラは四精霊の消えた砂浜から視線を移すと、自らの契約精霊にいつにも増して明るい口調で声をかけた。

「うむ」

 シャルカは重々しく頷くとちらっと島の中心部、尾根の方を見やり、ミラの正面に移動した。

「我が精霊よ、汝が鋼(はがね)の力を我に与え給え……」

「我が神ヴィロドよ。鉄心の鎧を我とひとつに合し給え……」

 ふたりは互いに見つめ合いながら、あの変身魔法の詠唱をはじめる。

 ミラの切り札、シャルカと彼女の魔法具“鉄神の鎧”との合体だ。

 短縮された呪文詠唱が終わるとシャルカの姿が消え、かわりにディエラード公爵家の至宝、 “鉄神の鎧”が姿を現す。と、それも一瞬、鎧は真紅に発光するとぐにゃりと融けるように崩れ落ち、液体のように流れ宙に渦を巻き始めた。

 ミラは、その赤く煌めく魔力の渦に呼応するように両手を水平に広げ、目を閉じた。すると魔力の渦は強く、真っ白に発光して彼女に纏わりつき、全身を包み隠した。隠すと同時に光り輝く渦が閃光となって弾け飛び、消え去って金色の鎧を身に纏った彼女が、再び姿を現した。シャルカはその鎧と一体化し姿を消した。

「……」

 ミラは腰に吊った長剣の柄に左手を添え、胸を張るとイシュルに微笑みかけた。

「ふむ。それじゃあ行くか、イシュル」

 リフィアが島の中心、山の頂の方を見て言った。

「よしっ!」

「あ、あの……」

 イシュルがひとつ大きく頷くと、ニナが言いにくそうに声をかけてきた。

「わたしは、ここに残ります」

 彼女はだが逡巡も一瞬、真正面からイシュルの目を見てしっかりと話した。

「これから先、もし月神や太陽神と争うことになったら、わたしは完全に足手まといになってしまいます」

 ニナはそこでリフィアが見た山の方を指差し、続けて言った。

「ここからでも、何が起きているか見ることはできます。万が一の場合、急ぎ駆けつけて皆さんの手当ができるよう、ここで控えています。わたしの強みは水系統を応用した治癒魔法です。そのためにわたしはここまで来たのです」

 ニナは、じっとイシュルの目を見つめながら言った。

 微かに潤んだ彼女の眸が、細やかに揺れるのが見てとれた。

 薄曇りに透ける陽光の輝きが、眸の奥で踊っていた。

 ……ニナ。愛くるしい、小柄な少女。心やさしい水の魔法使い……。

 だから彼女は最高の、治癒魔法の使い手になったのだ。なるべくしてなったのだ。

「うん、わかった」

 イシュルはただ微笑み、頷いた。

「あ、あの」

 ニナは恥ずかしそうに頬を染め、言った。

「でも……だから、かならず帰ってきてください。どんな怪我もかならず、わたしが治してみせます。みんなで一緒に、カレルまで帰りましょう」

「ああ」

「……」

「ふふ」

 イシュルがもう一度頷くと、ミラが涙を拭いながらニナに微笑みかけ、リフィアが声に出して笑いかけた。

 ニナとミラ、リフィアは互いに視線を交わしながら、明るい顔で頷き合った。

 彼女たちは以前から、ニナがやや距離を置いた後方でイシュルたちを待ち、万が一に備えることを話し合い、決めていたようだった。

「ああ、かならず帰ってくる。ちょっとの間、待っててくれ」

 イシュルはわざと、かるい仕草でニナに手を振り、普段と変わらない笑顔で別れを告げた。

 ……ありがとう、ニナ。

 きみのおかげで、はじめて生きて帰らなきゃ、と思えたよ……。

 その感謝は本物だった。イシュルは生へ向かって、生き残ることにはじめて前向きになった。

「はいっ!」

 ニナが満面の笑みで、元気に返事した。

 彼女の背後でエルリーナが姿を見せ、同じように笑みを浮かべた。



 厳つい岩の露出した崖を跳躍し、緩やかな丘陵を島の中心部へ向かって歩いていく。

 足下の草花、踏みしめる土塊や岩肌は先ほどまで海底にあったのが信じられない、まるで何千年も、何万年も前からここにあって風雨に晒されてきたようにみえる。

 振り返ると、後ろを続くリフィアとミラの肩越しに、小さな入江の砂浜に佇むニナの姿が見えた。

 その先、視界を覆う中海の海原は、表情の乏しい深い青灰色に沈んでいる。晴れているのか曇っているのか、不分明の空は薄い暖色と寒色がぼんやりと、斑らに混ざり合い頭上、半球を塗り固めている。

「ちょっと前まで、この島が海の底に沈んでいたなんて……信じられないな」

「本当は、この島は大昔からずっとこうして、海の上に存在していたんじゃないでしょうか」

 リフィアとミラが辺りを見回し、戸惑いを口にする。

「あの海も、あの空も、半分はまやかしだ」

 イシュルは遠く、水平線の方を指差しながら言った。

「半分?」

「まやかし?」

「この島全体と周辺の海域は、ヘレスが自ら張った結界に覆われている。遠くに見える空や海は、主神の結界を介して見える現実の、俺たちのいた元の世界だ。だからまあ、現実の風景は半分くらいが本当だな。残り半分はヘレスの結界の影響を受けている」

「イシュルさまの新結界と同じですわね」

「なるほど、結界の中と外が、はっきり分かれているわけではないということか」

「うん、現実に上書きしている、って感じかな」

「上書き?」

「ああ、ごめん。現実を土台に、見た目はそれほど改変を加えずにつくられた結界、という意味だな」

 疑問の声を上げたリフィアに、イシュルは自嘲と苦笑の入り混じった笑みで返した。

 ……とは言え、この島に上陸したとき感じたあの不思議な感覚は、まさしくヘレスの張った結界の、内と外の境界を踏み越えた時のものであるのは確かだ。物理的な障害のない曖昧なものであろうとも、一方で人間の五感、そして心象に何らかの影響を及ぼす境目のようなものがあるのもまた確かなことだ。

 それとも、あれを感じたのは俺だけだろうか……。

「……」

 イシュルは笑みを消して、周囲を見回すふりをしながらリフィアとミラの顔を盗み見たが、彼女らの表情に不自然なものは感じられなかった。

 それからしばらく無言で歩くと、いつの間にか足下の幅が狭まり、丘陵から緩やかに連なる尾根の上に出た。

 山稜に立つと、来た方向と反対側、南側のベルムラ大陸の方から少し強い、海風が吹いてきた。

 暑くも寒くもない、そして潮の匂いがほとんど感じられない、少し奇妙な風だった。

 北側の海は凪いでいたが、南側は風があり海原にはわずかに白波が立っていた。

「……変な風だな」

 リフィアが誰にともなく呟くのを、イシュルもミラも無言で頷いた。

 周囲の視界が広がり、イシュルは山並みの向こう、島全体を見回した。

 一行はもう、早くも島の最も高い山頂にまっすぐ続く、尾根の上に差し掛かっていた。

 山肌は灌木もごくわずかで、くすんだ緑の下草に覆われている。所どころ、ちらちらと岩肌が露出しているのが見える。

 島の周囲は切り立った岩壁の間に、小さな砂浜が点在している。人はもちろん、海鳥や魔物の気配も感じられない。羽虫など、昆虫の存在さえも希薄だ。

「……!」

 イシュルは幾度目か、山の頂の方を見るとあっと驚き、指さして「あれを見ろ」と言った。

「えっ」

「あれは……」

 リフィアもミラも驚き、目を凝らして山頂の方を見やった。

 頂上のあたり、やや手前に小さな建物があるのが見えた。

「おかしいな、あんなものあったか?」

 リフィアが首をひねる。

「いえ、ありませんでしたわ。神殿、というか祠(ほこら)のようですわね」

 ミラが眸を凝らし、小声で言った。

 神殿というには小さい、ドーム型の屋根のお堂のような建物がいつの間にか、山頂近くに立っていた。

 ふと目を離した隙に、ほんの僅かな間に、正体不明の建物が突然現れた。人ひとり、ふたりが入れるかどうか、小さな、まさに祠のような建物だった。

「何か、感じる」

 ……微かな、以前に感じたことのある魔力のような気配。これは、ヘレスか……。

 それならきっと、あれが目的地だ。間違いない。

「行こう」

 リフィアが耳許で囁くように言った。

「ああ」

 イシュルは小さく頷くと尾根伝いに再び、山頂に向かって歩きはじめた。

 島の南岸から吹いてくる風が、微かな唸り声を上げる。

 だが波音は、まったく聞こえてこない。

 ゆっくりと、空の高いところで雲が流れはじめた。太陽はどこにあるのか、陽光は弱くはっきりしない。

 ドーム型の屋根の石造りのお堂、小さな神殿。緩やかな山稜の、あと二つ三つ頂きを越えれば到着するところまで来た時。

 またもや一瞬の間に、祠の手前の山の頂に何かの影が突然、現れた。

 人影だ。風に吹かれて佇立している。

「なっ」

「……」

 微かに声を発するリフィア。あとは誰も声を上げない。

 歩速を緩め、ゆっくり真っ直ぐ近づいていく。

 風にはためく衣服の裾、肩につくほどの長さの髪。

「ふっ、くくく」

 イシュルは立ち止まって後ろに続くリフィアとミラを制し、俯いてくぐもった笑い声を上げた。

 ……そうか、なるほどな。

 案の定、あの人影は見覚えがある。明るい色のスカートに茶色のチュニック。シンプルな皮のサンダル。

 俺が村を出た頃の、あの頃のメリリャだ。

「あれは……」

 後ろでミラの呟く声。

 リフィアが身を固くするのが伝わる。

「やはりおまえか」

 ……筋書き通りか、レーリア。

 後ろでミラとリフィアが「あれが亡くなったイシュルの幼馴染……」「──の姿をした月神ですわ」などと話している。

「行くぞ。その時になったら、後方、左右に散開して備えてくれ」

 イシュルは後ろのふたりに声をかけると、メリリャの影の方へ近づいて行った。

 山の頂、尾根に風に吹かれて佇む少女。

 どこか、いつだったか。強い既視感を覚える光景だ。

「レーリア。相変わらず、代わり映えのしないお出ましだな」

 イシュルは皮肉いっぱいに口角を歪めて言った。

「いい加減、飽きてきたんじゃないか」

 少女は横風になびく髪を押さえ言った。

「そんなことはない。この娘はそなたの罪の象徴、ほかに選ぶ術(すべ)はあるまい」

 これ以上はない憎悪のこもった、メリリャの声だった。

「くだらない」

 イシュルはぴしゃりと、鋭く言った。

「今さらだな。とてもまともなやつのやることじゃない。これ以上、死んだ者を弄るのはやめてもらおうか」

「そうはいかぬ。そなたがわたしの前に跪き、心の底から悔悛するなら、この娘の魂を自由にしてやろう」

 ……魂だと? こいつ……。

 全身が熱くなるのを、拳を握りしめ堪える。

「俺を挑発して、何が目的だ? ここまで来て、まだ続けるつもりか」

「……ふっ」

 メリリャの姿をした月神は冷たく笑った。

「わたしは運命の神だ。おまえは己(おのれ)が運命と戦い、己が罪を贖わなければならぬ」

「何を勝手なことを。何が運命か、戦うか戦わないか、それは俺が決めることだ。おまえじゃない」

「不遜な背信者め。戦う気がないなら、わたしが直接神罰を下してやろう。そこに直れ、咎人よ」

 メリリャの顔は硬く歪み、凍りついたままだ。ただ口だけが回る。

 ……何だ? この頑迷さは。あくまで筋書きどおり、ほかにやりようはないのか。

 熱くなった身体が、急速に冷えていく。不条理な、何かが……。

「奇妙だな」

 誰にも聞かれないよう、口中で呟く。

 ……おまえは、それでも神なのか。

 そこから先ははっきり、声に出して言った。

「決裂だな。おまえとは、とてもまともな話はできない」

「……!!」

 イシュルが言い終わると同時、背後でリフィアとミラが息を飲み、姿勢を前屈みに緊張するのが伝わってきた。

「あの祠にはヘレスがいるんだろう? おまえと話してもしょうがない、通してもらおうか」

 ……こいつらの筋書きどおりにいくしかないのだ。やはりレーリアと戦わなければならないのだ。

 失われた命の行方を、自らの流転を、すべてを知るには、ヘレスと直接話さなければならない……。

 何度目か、心が震えた。再び胸奥から、熱いものがこみ上げてくる。

「ふふ」

 メリリャの青白い顔に、露骨な侮蔑の笑みが浮かんだ。

「我が? どくわけがなかろう。この先には行かせぬ」

 ……予定どおりか、うれしそうじゃないか。

「結局、問答無用か」

 ……熱くなるなよ。

 息を吐いて、全身の力を抜く。

 どうせ前から、決まっていたことなのだ。

 あるいは俺と戦うことで、俺の内側を引きずり出そうとしているのか。

「運命の頸木を解いてこそ、そなたはヘレスと相対することができるのだ」

 台本どおりの、決まった科白(せりふ)。

 ことが否応なしに進んでいく。

 ……受けて立つしかない。逃げることはできないのだ。

 腹を決め、目の前に集中する。

 背後から一瞬、赤い閃光が走った。同時に黄金の魔力が吹き上がる。

 ミラが左に、リフィアが右に跳び下がった。

 ふたりとも、今までに見たことのない凄まじい闘気を発した。

「そなたの従者はやる気満々だぞ、ははははっ」

 生気のない顔で、だがメリリャは壮大に、狂気に満ちた声で笑った。

「そろそろはじめようではないか、イシュル」

 少女の姿から発せられる、低く獰猛な声。

 ほかに誰もいない、誰も知らない場所。

 まだ何も生まれていない、黎明の空。

 両手の拳を握りしめ、両足をゆっくり開き、踏み固める。

 ……神々が仕組んだ、俺の運命の終点。

 それを認められないなら、やはり戦うしかない。

 ここは争闘の場なのだ。

 

 

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