出帆 2

 


 カレルは今日も薄曇りだ。

 中海沿岸はいつも晴れて温暖な印象がある。だが、大三角州の西端に位置するこの街は曇天の日も意外に多く、そのイメージにまったくそぐわない。

 カレルは中海にあってもだいぶ東側にあり、大山塊南部を襲う低気圧の影響を受けやすいのだ。

 そんな曇りの日でも、ひとたび視線を北方、内陸の方へ目を向ければ、ディレーブ川上流は地平線の際(きわ)が明るく、遠い山並みは今日もはっきり見えて、よく晴れているのがわかる。

 今は宮廷魔導師となったピルサとピューリの姉妹が向かう、聖都の方向だ。

 別に高台や塔に登らずとも、河岸から仰ぎ見るだけでよく見える。

 カレルの河港は荒天でなければいつも盛況で、ディレーブ川に突き出た無数の船止めには多くの船が係留され、そこかしこで商人や水夫の上げる声が響き、大勢の人夫たちが船荷を抱え行き来している。

 上流とは逆の、河口の方に目を向ければ、河岸からやや離れて川船より大型の二本、三本マストのスクーナーや横帆のクリッパーのような帆船も停泊している。ただ、大型とは言っても大航海時代のガレオン船のような大仰な船型ではなく、もう少し小型で乾舷も低く実用的で、さっぱりした形をしている。古めかしいのは同じだが、キャラックやガレオンよりは洗練されている。

 ……うろ覚えだが、もっと後の時代に造られたカティ・サーク号などに近いかもしれない。

「イシュルさま。ほら、あの子たちが呼んでいますわよ」

 ミラの声に視線を戻すと、石積みのしっかりした船着き場から、川船にしては大型のスループ(一本マストの船)が舫(もやい)を解き、離岸しはじめていた。

 船上には船荷に加え、多くの人々の姿があった。聖王家の騎士や従者、宮廷魔導師たちだ。もちろん、ピルサとピューリの姿も見えた。

「おーい」

「イシュル~」

 船べりから身を乗り出し元気いっぱい、手を振っている。

 船着き場の前の方はカレスティナ伯爵と近侍の者たち、カレルに残る宮廷魔導師や聖王家騎士ら関係者でいっぱいになっている。

 イシュルたちは少し離れて後ろの方にいた。

「おー、元気でなー」

「みなさん、お元気で」

 ニナと一緒に手を振り、ピルサたちに答える。リフィアは横で腕を組みにこにこしている。

 少しずつ、ゆっくり河岸を離れていく川船。

 ……幸せにな。ピルサ、ピューリ。

 自分はこれから先、生きて戻って来れるかわからない。

 イシュルは万感を込めて双子の少女を、そして明るく輝く上流の、北の空を見やった。

 この先、生死も定かでない不分明な自分。……だが、それでも彼女たちの幸福を祈った。

 感慨に浸るイシュル。

 そこへ、リフィアが横目に睨んで訊いてきた。

「いや、それにしても羨ましい。あのふたりは聖都に帰ると、ミラ殿の双子の兄君と結婚するわけか。やはり式は一緒に挙げるのかな?」

「えっ」

「一緒に挙げるのは間違いありません。でも帰ってすぐ、というわけではありませんわ」

 戸惑うイシュルに、即座にミラがかわって答える。

 リフィアを牽制するように見て、ついでイシュルに思わせぶりな視線を向けてきた。

「うっ……」

 右からリフィア、左からミラ。左右から圧を受けてイシュルはたじたじになった。

 一方、ニナはリフィアの隣りから、白けた視線で見つめてくる。

 ……うう、まさか、こんなことになろうとは。

 船上の双子に向けていたイシュルの笑顔が、そのまま凍りつく。

「がんばれ、イシュル~」

「聖都で、待ってるね~」

 もう、お互いそこそこ離れているが、船上のピルサとピューリはイシュルとミラたちのやり取りに、イシュルの危機に気づいたようだ。

 さらに大きく手を振って、大きな声をかけてきた。

「は、はは。達者でな~」

 イシュルは硬直したまま、ぎこちない笑みで手を振り答えた。

 ……リフィアもミラも、ニナも、むしろ気を使ってくれているのだ。あの、危機を脱した双子と真逆の、今の自分たちの境遇……。

 そんなこと気にする必要ない。わたしたちも気にしてない。普段どおりに、いつもどおりにいきましょう、と。

 ミラもリフィアも、ニナも、この先の不安と、恐怖と戦っているに違いない。

 ふざけた、思わせぶりな視線じゃない、彼女たちの真心そのものが突き刺さってくる。

「……」

 心のうちを、苦く重いものが満たしていく。

 イシュルはその痛みを、引き攣った笑みの裏側に隠した。

 


 ピルサとピューリの旅立ちを見送ると、イシュルはミラたち女性陣と別れ、ロミールを連れて街の市場へ買い出しに出かけた。

 カレルの街はディレーブ川の河口に面し、港には川船と外洋船のさまざまな船舶が入港する。街の繁華街も、河岸を中心に主に城の方へ広がっている。港と城のちょうど中間にある神殿前の広場には、ほぼ毎日、市が立っていた。

 イシュルとロミールは河岸から城の方へ、目抜き通りのひとつ隣りを通る裏道に入った。港と反対側の、丘の方へ歩いていくと、神殿前の広場の西端に出る。

「……でも、残念です。ぼくも行きたかったなあ」

 イシュルの横に並んで歩くロミールが、愚痴るように言う。

 先日、カレルで合流してから、中海に船出するのはイシュルとミラ、シャルカとリフィアとニナのみ。操船はイシュルが召喚する水の精霊と、風精のフェデリカに任せ、船頭や水夫は雇わない。ルシアとロミールら従者たちはカレル、もしくはラガンに移動し現地でイシュルたちの帰りを待つ、と決めたのだった。

「ごめんな。だけど、いざその時となったら、ロミールたちの命は保障できない。俺たちもどうなるかわからない。もし帰ってこれなかったら、誰かがそのことを国に帰って報告しないといけない、それをロミールたちに──」

 もう何度目か、イシュルはロミールに繰り返し説明しようとする。

「もちろん、わかってるんですけどね」

 ロミールは不満を隠さず、イシュルの言葉を遮った。

 リフィア付きのメイド、ノクタとミラ付きのメイドのセーリア、そしてロミールの三人はラディス王家が手配した従者だが、彼らの役目はそれだけではない。イシュルたちの動向を王家に報告する、監視役も兼ねている。

 それならばイシュルの言うように、彼らは最後まで生き残って、事の次第をラディス王家に報告しなければならない。

 だがそれでも、だ。ロミールたちだってイシュルに最後まで付き従って、いまだかつて誰も目にしたことがない神々の降臨を、この世の奇跡に立ち会い、目にしたい。そのためなら自分の命を懸けてもいい、命を失うことになっても悔いはない。

 それはこの大陸に生きる人々が等しく思う、心意気のようなものだ。

 だからロミールはいつもより強気に振る舞い、主張し、イシュルは根気よく何度も説得を続ける。

「でも、仕方ないですかね。運命神は何だかイシュルさんに攻撃的みたいだし。ぼくらを連れて行って足枷になってしまったら……そんなの絶対嫌だし」

「うん……」

 と、話しながら歩いていると、神殿前の広場に行き当たった。

 石畳の広場には多数の屋台が並んでいる。大小の天幕の向こうにカレルの主神殿がちらちらと見え隠れしている。

 イシュルとロミールは、たくさんの買い物客に混じり屋台の間を行き来して、下着や手巾、大きめの牛革の巾着に油紙や火打石、薬草や炒った木の実などを買いそろえた。

「おっ、あった」

 イシュルは広場の端の方にあった露店の前で足を止めた。

「ああ、刃物屋さんですか」

 横からロミールの少し気の抜けた声。

「ああ」

 イシュルは、地面に直接敷いた布の上に並べられた様々な形の包丁やナイフ、鋏や剃刀、上から吊るされた鉈(なた)や片手剣など、ひと通りじっくりと見回した。

「あった、三つか」

 イシュルは下に並べられた刃物の中から、三本セットの投げナイフを見つけた。

 露店に並べられた商品はほとんどが使い古しの、中古品だった。その、めずらしい投げナイフのセットもかなり年季が入ったものだった。割と小さめで、イシュルの手にもいい具合におさまった。

「投げナイフなんて、めずらしいじゃないか」

 イシュルは店番をしている少年に声をかけた。

「にいさん、ちゃんとした武具が欲しいのなら工房の方へ案内するぜ」

 店番の少年はイシュルより幾つか年下の、よく陽に焼けた黒髪の男の子で、おそらくはその武具屋の徒弟だと思われた。こうした質流れ品や、下取りした中古品を露店で捌いているのだろう。

「いや、これでいい」

「銅貨三枚で、この場で研いでやるぜ」

「いや、それもいい」

 イシュルはかるく笑みを浮かべ、首を横に振った。

 やろうと思えば金の魔法で、わりと簡単に刃先を鋭利に、材質も強くできる。

「よかったですね。市で見つかって。でも、イシュルさんには今さらそんなもの、必要ないんじゃないですか」

 確かに金の魔法を使えば、いくらでも鋼の刃を生み出し強力な刺突や斬撃を繰り出すことができる。

「いや、いいんだ」

 イシュルはごまかすように笑ってロミールの疑問を流した。

 投げナイフは風の魔法具を得た頃から使ってきた。相手が相手だけに何が起きるか、どんな状況になるか予想がつかない。威力がなくても軽量でかさばらない、使い慣れた武具は持っていて損はない。最後の最後に、紙一重で役立つことだってあるかもしれない。

「それじゃ、俺は船主(廻船)組合に寄っていくんで」

 買い物が済んだら、カレスティナ伯爵に紹介してもらった船主ギルドで打ち合わせすることになっている。

 中海のどの辺りに、どんな船を用いて目的地に向かうか、それはイシュルにしか見当がつかず一任されており、また伯爵の紹介はサロモンも関わっていて、ロミールたち従者、特にラディス王国の者を同席させるのは憚られたので、はじめから船主組合にはイシュルひとりで向かうことに決まっていた。

「あ、はい。じゃあ、お先に」

 ロミールは買いそろえた品を抱え広場を、滞在先のカレル城の方へ歩いて行く。

「……」

 イシュルは反対方向の、港へ戻る方向だ。

 ロミールの背中を見て、ふと声が出た。

「ロミール」

 彼が振り返ると同時、

「ノクタとセーリアをラディス王国まで無事に、ちゃんと送り届けるんだぞ」

 思わず出た言葉だった。出てしまった。

「えっ」

 ロミールはしばし茫然として、どうにか取り繕って笑みを浮かべた。

「もちろん。でも、イシュルさんたちもです」

 ──みんなで帰りましょう、とそう言った。


  

 イシュルはひとりになるとロミールに言ったとおり、そのまま船主ギルドに向かった。

 当然といえば当然だが、組合は河港に隣接し、周囲には廻船を主とする大小の商家が蝟集している。

 イシュルは来た道とは違う、もうひと筋奥まった裏道を通り河岸に向かった。小型の馬車が一台、何とか通れるほどの路地は、往来する人も表通りと比べぐんと減り、片手で数えるほどしかいない。

 ……どうだ、怪しいやつはいるか? 異常はないか?

 そこでイシュルは、周囲の見張りについている風精のフェデリカと土精のウルーラに、心のうちから話しかけた。

 ……ありません。大丈夫です。

 ……うん、同じく。

 フェデリカ、ウルーラと順に答える。

 これから向かうギルドに何か問題でもあるのか、特にロミールと別れてから、イシュルはふたりの精霊に己の身辺を厳重に見張らせた。

 船主組合はいいが、その後に立ち寄るところは誰にも、特にミラやリフィアたちには絶対に知られたくない。

 彼女らはピルサとピューリを見送った後、滞在先の伯爵の居城、カレル城へ戻っている。帰城後はイシュルとロミールが市場で購入した、探検で必要になると思われる雑貨や食糧、衣類などを、城に商人を呼んで購入することになっている。

 今回は買うものがいささか特殊だが、貴婦人たちの買い物とはそういうものである。たとえお忍びでも、聖都のような大都市でも、無礼講の祭でもないのにミラとシャルカ、リフィアあたりが供の者を連れ市街に出て買い物をするなど、目立ち過ぎて騒ぎになり、いらぬ誤解や憶測を招くことにもなりかねない。

 彼女らには、火精のリンドーラヌスに護衛の名目で監視させ、もう城に帰っていることはわかっている。

 だが、ニナには契約精霊のエルリーナがいるし、ラディス王国や聖王国の、影の者の監視がつけられているかもしれない。イシュル自身だけでなく、万全を期すために風と土の二精霊による見張りを欠かすことはできなかった。

 裏道から河岸に出ると往来する多くの人々に紛れ、並びに立つ石造りの立派な建物、廻船ギルドに正面から入る。吹き抜けのロビーの端に立つ館員に声をかけ、奥に並ぶ客間の一室に案内してもらう。

 室内で待っているとすぐ、ギルド長が顔を出した。恰幅のよい丸顔の壮年の男。やや派手な色調の、ゆったりした袖のローブ、絹を幾重にも折り重ねた独特な意匠の帽子。聖王国より、中海沿岸諸国の商人典型の服装をしている。

「ご依頼の高速船を手配しました。ご指示どおり、三日後の朝、目の前の河岸に入港させます。二本マストの小型のスクーナーです。万が一のため、私どもの方で船員も確保させていただきます」

 ギルド長には先日、カレスティナ伯爵に直接交渉し、便宜を図ってもらっている。伯爵家の秘書役に同行してもらい、レネオ直筆の紹介状を提出している。大柄、太鼓腹のギルド長は揉み手に満面の笑みだ。

「ありがとうございます」

 イシュルも微笑を浮かべ礼を言った。

 こちらはただ形だけの、虚ろな笑みだった。

「……では、ご案内しましょうか。どうぞこちらへ」

 面会はその報告だけで、あっという間に終わった。

 ギルド長はすべてわかっているのか、顔いっぱいの笑みはそのまま、イシュルをさらに奥の部屋に案内した。客間の並ぶ廊下に出ると、入って来た方とは逆の方、館員の事務室のさらに奥の、物置のような部屋へ移動した。

 古い家具や置物が乱雑に置かれた澱んだ空気の部屋に入ると、ギルド長はされでも笑顔を貼り付けたまま、その場で恭しくお辞儀をして右手を前に、室内の奥の扉を指して言った。

「そこから例の路地に出ることができます。どうぞ今後ともご贔屓に、よろしくお願いいたします」

 扉を開けるとその奥も廊下が続いていた。薄暗く狭い、絶対に客が通ることのない通路だ。突き当りは横から外光が注ぎ、そこからこの館の裏側に出るのだとわかる。

「……」

 イシュルはギルド長と扉の前で別れると、その裏口から館を出て、細い路地を大小の建物の入り組んだ、さらに奥の方へと歩いて行った。

 裏道は細く、荷馬車や馬は入ってこれない。通行人もいない。白や灰色の塗り壁と堅く閉まった扉が適当な間隔で続いている。

 イシュルはしばらくそのまま奥へ進むと、その並んだ扉のひとつ、何の変哲もない粗末な木の扉の前で突然立ち止まり、訪いも入れずにいきなり開くとそのまま中へ入っていった。

「これはこれは」

 屋内は薄暗く、奥の暗がりから男がひとり、立ち上がった。

「うまい具合に、お客さまのご注文どおり手配できました。地元の漁師から言い値で買い取りましたよ。まだ新しい、小型のスループ(一本マストの船)です」

 挨拶もそこそこに男は説明をはじめた。彼の話では手配した船は、船主を含む三人で漁に出ていたという。船腹を考えれば天候次第で十分、中海を横断できる大きさだが、他国との交易に使えるほどではない。中海で小型の船、というと商船より漁船の方が圧倒的に数が多い。

 イシュルが二軒目に立ち寄った先は、密貿易や密入国を斡旋するような裏の廻船問屋だった。

先日レネオに秘密裏に依頼し、ギルド長を通じて紹介されたのがこの店だった。

「それは良かった。で、明後日の朝までに用意できるかな?」

「はい、そちらの方も間に合わせます。明後日の、日の出前にギルド前の桟橋に着けます」

 廻船組合に依頼したスクーナーはリフィアたちを騙すためのダミーで、実際に使う船はこちらの方だ。スクーナーの一日前、まだ港が空いている時間に、おそらく同じ桟橋に横づけされる。

 店の主人らしき男の姿が、わずかに漏れる外光に照らされ暗闇から浮き上って見える。先ほどのギルド長とは対照的に、痩身で顔の下半分が濃い髭に覆われていた。

 イシュルも先ほどとは全く違う、酷薄な笑みを浮かべて満足気にひとつ、頷いた。



 秘密の出帆までの二日間は、あっという間に過ぎた。イシュルたちは昼間は近郊へ馬乗りに出かけ、あるいは河港に遊びに行き、ディレーブ川河口の先に広がる中海を、往来する船ぶねを悠然と眺めた。

 中海に乗り出した後のこと、神々の島に辿り着いた後のことも話し合われたが、イシュルはもちろん、誰もはっきりと詳細までわかる者はおらず、具体的な対策や作戦など立てようもなかった。

 出発の夜、皆が深い眠りに落ちる頃、イシュルは目くらましの新結界を薄く張り、カレル城を出て河港に向かった。

 月明かりの陰になった屋根上や路地裏をジグザグに移動し、船主ギルドの建物の上に降り立った。

 時刻は日の出まで半刻を切り、東の空はわずかに白みはじめている。薄曇りで風は弱く、波音も聞こえてこない。

 問題の小型のスループは指定の桟橋の先の方に停まっている。人影はない。

「……」

 イシュルは続いて、館の屋根上から南方の、中海の沖合に目をやり、風や水の魔力の感覚を伸張していった。

 気圧や風向に気になる様子はなく、行く手に大きな雨雲もない。目的の海域まで、天候を気にする必要はなさそうだった。

 イシュルは冷たい海風に髪をかき上げ、かるく息を吐くと目を瞑り、おもむろに呪文を唱えはじめた。四人目の精霊、水の精霊を召喚するのだ。

「フィオアよ、我(わ)に汝(な)が水の精霊を遣わしまえ、この長(とこしえ)のひとの世にその力を示したまえ」

 まるで海風をなぞるように一瞬、青い光彩が走り、人型に像を結ぶ。

「御前(おんまえ)に、泉さま」

 二十代半ばくらいか、妙齢の女性の精霊だ。古めかしい、ゆったりしたローブを着てベールを被っている。

 ……やはり女か。今までフェデリカ、ウルーラ、リンとみな女だった。年齢は彼女たちより少し上だが。

「名は? 名前はなんと言う?」

 イシュルは小さくひとつ頷くと、水の精霊に言った。 

「はい、セフィーヌシカ・アルグールクヴィストと申します」

「ああ、なるほど」

 ……長い、面倒な名前は格の高い精霊の印だ。し、仕方ない。

 イシュルはいつものごとく困惑すると、すぐに立ち直って言った。

「じゃあ、セフィーヌでいいな。よろしく」

「はい、こちらこそよろしくお願いいたします。泉さま」

 セフィーヌは慎み深く一礼すると、歌うようなやさしい声で言った。

「フェデリカ、ウルーラ、リン」

 イシュルは続いて周りを見渡すと、すでに召喚した風、土、火の精霊を呼び寄せた。

「はっ」

「はい」

「こちらに」

 三体の精霊はイシュルの前、セフィーヌの背後に、片膝を立て座り、深く腰を落とし頭を下げ、思い思いの格好で姿を現した。

「予定どおり、目的地には水精のセフィーヌだけを連れていく。彼女に操船を一任するつもりだ。君たちはこの港町に残って、リフィアやミラ、ニナたちを足止めしてもらう。仲間は誰ひとり、連れていかない。死なせるわけにはいかない。よろしく頼む」

「はっ」

 三精霊は揃って返事をして畏まった。

 このことはフェデリカたちには以前から話してあった。

 イシュルはセフィーヌにこれまでの事情を簡単に説明し、さらに出航後のことに関して、細かい指示を出した。

 彼女は、イシュルがいよいよ五つの神の魔法具をもって、ヘレスらに請願することを説明しても、特に驚きを示さずイシュルの命令に淡々と従った。このことは異界にいる精霊たちにとっても一大事なのか、セフィーヌはすでに委細承知しているようだった。

 イシュルは精霊たちに指示を出すと、ギルドの館から飛び降り、スループが横づけする桟橋に向かって一直線に歩いて行った。

 桟橋の端まで行くと舫(もやい)を解き、ひとり船に乗る。

 もうかなり明るくなっている南の方、河口の先の中海へ目をやった。

「いよいよだ」

 思わず唾を飲み込み一瞬、全身に緊張をあらわにすると首を横に向け、セフィーヌを呼ぼうとした。

 その時、河岸に並ぶ大小の建物、にわかに増えはじめた往来する商人や船夫たちの間から複数の、ただならぬ気配が起こった。

「イシュルっ!」

 河岸から、建物の屋根の上から、リフィア、ミラとシャルカ、ニナ、それにルシアとロミールたちまで全員が、姿を現した。

「イシュルさま、酷いですわ。わたしたちに黙って行くなんて」

「イシュルさん、わたしも最後までついて行きます。絶対に」

「おまえの考えることなど先刻お見通しだ。勝手に一人でなんか、行かせるものか」

 ミラ、ニナ、リフィアが声を張り上げ、イシュルに訴えてくる。

 気合の入った、強い声音だ。

 ロミールたちも、厳しい顔つきに背を伸ばし拳を握って、まるで舞台に立った役者のように堂々としていた。河岸を行き来する人も足を止め、何事かと見ている。周りは厳しく張り詰めた、重い空気が充満していた。

 ……なんで……。

 イシュルは、彼女らの勇ましい登場にしばし茫然としたが、ぐっと動揺を抑え思考を巡らした。

 ……リフィアの言うように、前もってバレていたのはあり得ることかもしれない。だが、なぜ彼女たちは俺を先回りして、気配も察知されずにこんな待ち伏せができたんだ?

「とにかく」

 イシュルは固い声で短く呟くと、彼女らに対峙するように拳を握り、声を張り上げ言った。

「きみたちを連れていくわけにはいかない。もう誰も、死なすわけにはいかないんだ。……もう、たくさんだ」

 イシュルは最後は吐き捨てるように言うと、配下の精霊たちを声に出して呼んだ。

「フェデリカ、ウルーラ、リン、彼女らを拘束しろ。シャルカとニナの精霊、エルリーナの自由も奪え」

 言い終わると同時、三体の精霊が河岸側、リフィアたちの上空に姿を現す。

「半日ほど自由を奪えばよい。頼んだぞ」

 イシュルは空中に浮かぶフェデリカたちに叫ぶと桟橋を蹴り、船を川の方へ押し出した。

 そしてセフィーヌを呼ぶ。

「船を河口に向けろ。出発だ」

「……」

 背後に水精の気配が起こったが、返事がない。船も動かない。

「ん?」

「泉さま、あれを」

 振り向いてセフィーヌを見上げると、彼女は河岸の方を指している。

「!!」

 イシュルが指差す方を見ると、その目を離した一瞬の隙に状況が大きく変わっていた。

 フェデリカとウルーラ、リンは揃ってリフィアやミラたちの前に移動し、彼女たちを抑えるどころか、むしろイシュルと対決するように対峙した。

「な、なに?」

 イシュルは愕然として精霊たちを見回した。

 ……何が起こった?

 胸の奥底を熱いものがのたうち、うねりはじめる。一瞬で喉がからからに乾き、ひりついた。

「イシュル、おまえの好きにはさせないぞ」

「こちらの精霊さまは私たちの味方ですわ」

 リフィアとミラが緊迫した声で言った。

「な、なんだと」

 確かに、フェデリカたちはイシュルの命令を無視し、リフィアたちの叫びを聞いても否定するような素振りを見せない。

 風、土、火の三精霊は明らかに、向こう側にいる。

 何の表情も見せず、何も言ってこない。

 ……ど、どういうことだ?

 イシュルは湧き立つような不審と動揺に、全身が総毛立つ思いでひとり、船べりに佇んだ。


 

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