出帆 1
塔上の窓から色のない空が見える。色のない陽光が差し込んでくる。
白い空、白い光だ。
窓の外は奇妙なほど静かだ。先ほどまでの激しい戦闘が本当にあったのか、首をかしげたくなるほどの静けさだ。
屋内に佇む人々はみな茫然として声もなく、イシュルたちを見ている。
絶体絶命の窮地が瞬く間に消し飛び、生き延びることができたことをまだ、実感できないでいるのだ。
ピルサとピューリは感極まって、ずっと抱きついたままだ。
「ふたりとも大丈夫か? 怪我は?」
イシュルは腰を落としてしゃがむと、ふたりの頭に手をおき、顔を覗き込むようにして言った。
「……」
双子は一瞬、幼子のようにはにかむと顔を左右に振り、やっとのことで返事をした。
「びっくりした」
「どうして、イシュルがここにいるの?」
「でも凄い。まさかイシュルが助けに来てくれるなんて」
「ありがとう、危なかった」
ふたりは話しはじめると止まらなくなった。
「はは」
……当たり前だが、だいぶ興奮してるな。
さて、どこから説明するか。この部屋にはピルサとピューリだけじゃない、魔導師や騎士ら、生き残ったひとたちがいる。
「外にいたのはミラさま」
「それにラディス王国の武神の矢、リフィアさん?」
「三人で助けに来てくれたの?」
「……」
イシュルは少しひきつった笑みを浮かべ、頷いた。
「ああ。まあ、そうだな」
……この子らの質問に答えていれば、それで説明になるか。
「あ、あの、此度は力添えいただき──」
と、戸惑いもあらわに壮年の男の魔導師が横から割って入ってきた。
「──御礼申し上げる。一同、あやうく命を落とすところでした。ところで貴公は……」
「窓から失礼いたしますわ。皆さん、ご無事かしら」
イシュルとピルサ、ピューリもその男に顔を向けると今度は、外郭の曲輪側に向いた窓からシャルカの肩に乗ったミラが入ってきた。
「おっと」
ほとんど同時に、塔内の階段を昇ってきたリフィアもイシュルの入ってきた扉から顔を出した。
「無事、すべて片づいたようだな」
目を丸くしてミラとシャルカ、そしてリフィアを見るピルサとピューリ。ほかの魔導師や騎士らもみな同じ顔をして、茫然とミラやリフィアたちを見ている。
「ふむ」
……ことの顛末は、すべてミラに説明してもらおう。
聖王国に仕える者でミラ・ディエラードの名を知らぬ者はいない。彼女の話なら、みな畏まって何の疑いもなく聞くだろう。
イシュルはにやりと笑って、ミラとリフィアの顔を回し見た。
遠い夜空の三日月は霞がかかり、星々の光も滲んで見える。
日没後も騒然としていた辺境の砦も今は物音ひとつなく、静寂に包まれている。
「……」
イシュルは首を横にふると夜だというのに眸を細め、南の果ての水平線をじっと見つめた。
……微かな潮の香り。だが海岸はまだ遠く、波の音までは聞こえない。
監獄城の内郭南側、鋸壁の上に座り中海の果て、未だ誰も見たことのない孤島の島影を追う。
「本当に海が近いんだな」
傍に座るリフィアがぽつりと言う。
「楽しみだ。海を見るのははじめてだから」
彼女も潮の匂いがわかるのだろう。
「ふふ、わたしもですわ」
ミラが口許に手をやり、少し眠たそうな顔をして言った。
「明日の夕方には、カレルからの援軍が到着します。そうしたら入れ替わりに、わたしたちも監獄城からカレルに向かうことになります。カレルに着けば中海はもう、すぐそこですわ」
イシュルたちは囚人たちの反乱を鎮圧した後、尖塔のピルサたちとは別に、城内内郭の南側に陣取り抵抗を続けていた生き残りの城兵らを見つけ、無事合流し、風の精霊フェデリカに手紙を持たせカレルの領主、カレスティナ伯爵のもとへ向かわせた。
途中、フェデリカは、カレルからフラーガ砦へ進軍する同伯爵の援軍を見つけ、その部隊長に伯爵宛の手紙を渡し、状況を説明した。手紙の差出人はミラとイシュルの連名で、彼女が言ったカレルからの援軍とは、その部隊のことを示していた。
カレスティナ伯爵の出した援軍が監獄城に到着次第、イシュルたちやピルサら宮廷魔導師と護衛の騎士、負傷者らが入れ替わりにカレルへ帰還することに決まり、その間ひと晩だけ、同城に滞在することになったのだった。
反乱を起こした囚人らは、主導した貴族の政治犯や元宮廷魔導師や騎士、尖晶聖堂の影働きらが倒され、あるいはミラとシャルカ、リフィアの武力に圧倒され瞬く間に戦意を失い、イシュルが城塔の最上階でピルサとピューリと再会を果たした頃には、完全に鎮圧され沈静化していた。
その後は生き残りの城兵らにより囚人たちは元の獄舎に収容され、一部の負傷者は手当を受け助かり、重傷者の多くはその後命を落とす結果となった。
「それで、わたしとミラ殿をこんな時間、こんなところに呼び出したのはなぜだ? ただおしゃべりするだけではあるまい」
真夜中の城塞はまばらに篝火が焚かれ、見張りをする城兵の影も見える。だが、イシュルの傍にはミラとリフィアしかいない。シャルカは城内にいる。フェデリカたちも砦の内外を見張っているが、イシュルからは距離をとっている。
「南方の海とはいえ、この時期になると夜は冷たい風が吹きますわね」
ミラがリフィアに続いてつられるように言った。
本来、海風は昼間に吹くものだが、内陸側で曇りの地域でもあるのか、夜間であっても中海の方が気温が低く、この時間になっても海風が吹きつけてくる。
「ああ、中海の“島”かな? そこでもし神々と対峙するようなことがあっても、彼らにはなるべく主導権を渡したくないんだ。こちらの土俵でやりたい」
「……土俵?」
「あー、うん。その島は彼らのいわば、“縄張り”みたいなものだろう。だけど、だからといって彼らの好き勝手にやらせるわけにはいかない。こちらもいざとなったら、やりたいようにやらせてもらおう、って感じかな」
「ふむ」
リフィアは顎に手をやり、少し考えるような仕草をした。
「イシュルさまは、万が一神々と言い争うようなことになっても、不利な立場には立ちたくないとおっしゃっているのですわ」
ミラはちらっと横目にリフィアを見ると、すぐイシュルに視線を戻して意味あり気に言った。
「そうか。イシュルの言う神々──特に月神レーリアとは、敵対する可能性もあるんだったか。運命神は幾度となく邪魔してきたと、言っていたものな」
リフィアも実は最初からすべてわかっていたのか、含みのある口調で言った。
「あれだ」
「五元素魔法の融合による新魔法、新結界のことでしょうか」
「特に、主神や月神と対等に話し合おうというのなら、こちらもその裏付けとなる“力”が必要になる」
「ふふ」
イシュルはリフィアとミラを見てかるく笑みを浮かべた。
「それでだ、きみたちには俺の創世結界を直接、間近で体験して欲しいんだ」
そしてかるく手を上げ、肩をすくめてみせた。
「俺も自分の結界の真ん中、すぐ傍で、ふたりの存在を確かめておきたいんだ」
「ほう」
「それは素晴らしいですわ……」
「つまり、神々と衝突するようなことになったら、俺は新魔法を使って対抗する」
イシュルは顔を上げふたりを、そして南の海の方へ目を向けた。
「この新しい魔法にはレーリアはもちろん、主神ヘレスでさえ、その全能とされる力を完全に及ぼすことができない」
遠い地平。雲の多い、だがそれでも星々の明かりをわずかに照り返す海原に、南の空が微かに青く色づいて見える。
しかしこの新魔法は一方で、この世界の既存の魔法──いや神々の持つ力と、奇妙に共鳴し合う部分があることを、イシュルは話さなかった。
それは、新魔法が神々と対抗できる力を持つと同時に、その一部が彼らと同化し奪われてしまいかねない、脆さをも内包していることだった。
水神フィオアと対峙した時、彼(か)の神はまだ未完成ではあったが、風、金、土、火の四つの元素を編んだ創世魔法、新魔法にただ対抗するだけでなく、逆にその魔法を受け入れ、同化するように水の御業を流し込んできたのである。イシュルの考案した創世魔法は、それを防ぐことができなかった。
なるほど確かに、世界を織り成す五元素に唯一欠けた最後の元素が、水の元素であるのだから、同化することも当然のごとく可能であったのかもしれない。
いくらイシュル自身に前世の異世界の記憶、概念、要素が含まれていようと、神の魔法具自体は今世の、この世界の存在であり、神々の力と通底する部分がるのは当然のことなのかもしれない。
それでも、五つの神の魔法具を持つ存在がこの世にあらざるものであるのなら、また、それらを拒絶する力を持つことも自明の理と言えるのではないか。
……この危惧はミラにもリフィアにも、誰にも話せない。この難点を見極めることが、俺の罪科(つみとが)を、俺という存在を神々に問う、それを成す起点になるのかもしれない。
概して弱点、矛盾点、盲点といった類いのものは、その対象を明らかにする端緒となる場合があるのだ……。
「新魔法を彼らに使い創世結界に閉じ込めたときに、君らにも悪い影響が及ばないよう、試しておきたいんだ」
「ふーむ」
リフィアが胸の前で腕を組み、また少し考える仕草をした。
彼女らはみな、離れたところからならばイシュルが新魔法をふるうのを見ている。リフィアが何事か考える様子をみせたのは、例えば「今さら?」というような、疑問を感じたからだろう。
「ではイシュルさま、どうしましょう?」
対してミラは何の不審もおぼえず、イシュルに先を促してきた。
「うん、じゃあさっそくはじめよう。そのまま動かず、何もしなくていいよ」
イシュルはミラに答え、リフィアに目を合わせ頷き指示を出した。
「そのまま?」
「ああ」
ほんの微かに、不審の色を残したリフィアの問いに短く答え、新魔法を発動する。
……適当に範囲を決め、握り拳を開くほどの気分で創世結界を張る。
「!!」
色も匂いも、明るさも変わらない。音もしない、何も動かない。
霞のかかった月。地平の先まで広がる夜空、果てのない空間。遠浅に佇む、孤城の一角。何も変わらない。
だが、ふたりは驚愕に両目を見開き、顔を引き攣らせた。
「……何?」
「あれ……」
「ふふ」
イシュルはふたりの反応を見て、小さく笑みを浮かべた。
……周りの空気が、空間が、ある時は音もなく瞬時に、ある時はバチンと音を立てて乱暴に切り替わるあの時の感覚。
それは、何度も巻き込まれた月神レーリアや主神ヘレスの降臨、彼の神々の介入の時に感じたものと同じものだ。
「何も変わらないのに、何かがおかしい……」
「この感じ……」
未だ半信半疑のリフィアとミラ。だがやがてふたりは何かに気づいたようだ。
「魔法の結界とは少し違う──」
「これはクレンベルの太陽神の座や、大聖堂の主神の間で感じたあの時と、似ている感じがします」
「ああ、ビオナートと対決した時か。確かに、風神が降臨した時の周りの感じと似ている……」
「ふふ。そうだな。わかりやすく、色でもつけてみようか」
イシュルは今度ははっきり声に出して笑うと、片手をほんの少しだけ持ち上げた。
ミラとリフィア、そしてイシュルの三人の外側を円形に、風や水の魔力のように薄く輝く青色の光彩が包んだ。青い光は水の流れのように上から下へ、そして下から上へ、緩やかに流動し循環しているように見える。
「ああ……あの時の、風神イヴェダの魔力とそっくりだ」
「何ということでしょう。素晴らしい結界ですわ。これこそは神の御業……」
リフィアは両手を広げ、ミラは胸の前で両手を握りしめ、感嘆の声を上げた。
「……」
イシュルは笑みを浮かべたまま、ミラとリフィアの様子を観察した。
「ふたりとも、かるく魔法を使ってみてくれないか」
「おお、よし」
「わかりましたわ」
ふたりは快諾しておのおの、自身の魔力を立ち上げた。
ミラは手のひらの上に、鉄球が実体化する寸前まで金の魔力を練り上げ、リフィアは右の拳を握りしめ、胸の前にかざした。彼女の双眸に微かに赤く、武神の魔力が灯った。
「……問題なさそうだ。イシュルの結界は干渉しない」
「わたしもですわ」
ふたりはしばらく自分の魔力の具合を確かめると、明るい声で言った。その声音には、驚きと感動の気持ちが込められていた。
「俺の方も、特に気になる感じはないな」
イシュルもふたりに、しっかり頷いてみせた。
……この結果はまったくの予想通り。実は、わざわざ試す必要などなかった。一応、念のため確認しておいたのと、彼女らが実戦で不安を感じるようなことがないようにしておく、それだけだ。
もともとこの結界は、俺自身が“神”のような万能の力を得るための、“神”のような存在になるための仮の空間だ。俺自身がふたりの使う魔法を不快に、危険だと思わなければ何の問題もなくそれは発動する。もしそうでなければ、発動しない。彼女たちにより強力な魔力を付与する、そんなことも可能な仮の世界だ。俺の前世の記憶、知識が反映された独自の世界だ。
「じゃあ、もっと強い力を流してみよう」
わかりやすく“着色”し、“発光”させた視覚上の効果はそのまま、周りを覆う半球形の結界にさらに強力な魔力を流す。赤帝龍と戦った時のように集中し、全身に込めた力を“外”へ、発散していくような心象を思い浮かべる。
わずかだが空気が重く、息苦しいというよりは肺を通し呼吸する感覚が、より強い実感を伴っていく奇妙な変化に当惑する。
青白く輝く魔力は眼球を焼くように強烈に発光し、球体の結界を上から下へ流動し、脈動するように循環しはじめる。
「す、凄い……」
「なんてきれいな……」
青白く瞬く光の明滅が、リフィアとミラの驚愕の表情を浮かび上がらせる。
「大丈夫だな。いいだろう」
イシュルは呟くように言うと、自らの新魔法を止め結界を消した。
星明りにぼんやりくすんだ夜闇に、まるでネオンサインのように強烈な光を発した創世結界は音もなく、一瞬で消滅した。
内郭の同じ曲輪の端の方に、変わらず篝火が灯っている。見張りの城兵の、ぼんやりした人影も見える。
気づくと海にほど近い遠浅の、砂上の城の常の夜に戻っていた。
「素晴らしかったですわ、イシュルさま」
「これで準備も整った、ということかな」
ミラとリフィアは、夜目にもはっきりとわかる笑顔、明るい声で言った。ふたりともこれ以上はない機嫌の良さだった。
ピルサとピューリを無事、救うことができた。中海に船出して神々を召喚する日も近い。前途に大きな問題はもう、何もない筈だ。……だから、ミラとリフィアはあえて、健気に明るく振る舞ってくれているのかもしれなかった。
──それなのに。
俺は何を考えているんだ?
心とは裏腹に、イシュルも満面の笑顔をつくってふたりに頷いてみせた。
……名もない、地図にない島。今、同行しているミラとリフィアとニナ。この三人は最後まで、神々と対峙するまで一緒に来てもらおうと考えていた。
だが、いよいよその時が迫ってくると、それを躊躇する気持ちがより重く、心のうちを抉ってくる。
いくら有史以来、誰も成しえなかった稀有のこととはいえ、その場に臨むことができるとはいえ、彼女らの命を奪うことだってあるだろうに。勝手にそんなこと、できる筈ないじゃないか。
たとえミラたちが望んだことであっても、そんな権利、俺にはない……。
裏切り者と罵られ、彼女たちの信頼を失うようなことになっても、彼女らの命を失うよりははるかにましだ。
目の前の、ミラとリフィアの無垢な笑顔。
……彼女たちは、俺を信じている。でも俺は……。
間近で創世結界を見せ、試し、あるかもしれない戦いのすり合わせを行っている。
俺はこんなことまでして、まだ迷っている。
土壇場でみなを置き去りにして、ひとり未知の島に向かおうと考えている。
その時はすぐ、間近に迫っている。
翌夕、カレスティナ伯爵の援軍が到着すると、イシュルたちはあくる日の早朝フラーガ砦を出発、徒歩でカレルへ向かった。
ミラとシャルカ、リフィアのほか、一行にはピルサとピューリら双子に同じ宮廷魔導師や聖王家騎士団の生き残り、彼らの従者たちが従った。
遠浅の広大な砂浜は出発時は干潮で、やや北方向へそれるルートをとり、満潮時にはディレーブ川河口より上流の、カレルの河港近くにまで達した。
思いのほか到着が早かったのは、イシュルの土の精霊、ウルーラが一行の進む足許の砂を固め、快適に歩けるよう手助けしたのが大きかった。また、特に魔物に遭遇することもなく、一行はディレーブ川を挟んだカレルの街の対岸にある出城に入り、しばらく休憩した後、伯爵軍差し回しの川船で渡河し無事市街に入った。
カレルの河港では、もう住民らにも監獄城の反乱の噂が広まっていたのか、複数名の魔導師や騎士、兵士らを伴ったイシュル一行は少なからず注目を浴びたが、カレスティナ伯爵家の者をはじめ、ピルサたち宮廷魔導師らももう慣れているのかまったく意に介さず、港から伯爵の居城へ向かう一本道を堂々と行進し、多くの見物人の見守るなかいつもと同じ、普段どおりに入城した。
カレスティナ城で、イシュルたちは伯爵からひとかたならぬ歓待を受けた。いや、正確には城内の反乱を治め無事生還を果たしたピルサとピューリら、聖都から派遣された宮廷魔導師や騎士たちの活躍をたたえ、市内の有力者や周辺の領主たちを招いた盛大な祝賀会が催された。
実際に反乱を鎮圧したイシュルたちは何故か、ピルサたちの介添え役のような扱いで、当の宴に参席はしたものの、伯爵はもちろん誰とも歓談することなく、早々に退席することになった。それは五公家のミラ・ディエラードも同様であった。
イシュルとミラ(とシャルカ)、リフィアは、一日遅れて到着したニナやロミールら一行とともに、祝賀会の翌夕、伯爵個人の晩餐に招かれた。
この一連の処置は、ルシアが先行してカレスティナ伯爵に届けたミラ自筆の書簡によるものだった。
イシュルは今回も目立つのを嫌い、カレスティナ伯爵に派手な歓待は控えるよう、ミラに彼女の名前で手紙を出してもらっていた。それはフラーガ砦で囚人たちの反乱が起こる前のことだったが、このような事態になって先に手配していたことが折よく、イシュルたちにとって非常に都合よく働くことになった。
伯爵はイシュルたちを祝賀会に同席させたが、他の参席者に紹介することはしなかった。おそらく皆、反乱鎮圧に携わった魔導師や騎士たちの従者や、あるいは親類、知人など関係者とみなしたようだった。
それで伯爵は、公(おおやけ)の祝典が終わった後に内々で、ごく限られた者たちのみで晩餐会を開きイシュルたちをもてなした。
「ほんとうに良かったですわ。聖都に着きましたらお兄さまたちによろしくお伝えくださいな」
ミラはにこにこと、ピルサとピューリに特別な親しみを感じさせる、暖かい声で言った。
「はい」
「うん、わかりました」
ピルサとピューリも少し大人びたか、柔らかい顔、声だ。以前とは違う表情を見せるようになった。
「ルフィッツオさんとロメオさんによろしくな」
イシュルも双子に笑顔で言った。
「うん」
「うん」
イシュルには、ピルサとピューリは昔の顔に戻ってふたりそろって頷いた。
晩餐会が終わると参席者は隣の談話室(サロン)に移動し、酒を片手に歓談を続けた。
「ふたりとも、エミリアたちの分まで幸せになるんだぞ」
イシュルは双子に、かつて同じ影働きの仲間だった、聖石鉱山で失われた姉妹の名を上げた。
未だ、エミリアの面影は心のうちにいつでも思い出すことができた。
「うん」
「……」
今度は神妙な顔になって頷くピルサとピューリ。少し寂しげな微笑みを浮かべるミラ。
「ベルシュさま」
そこで背後から、低い男の声がした。
「わが主(あるじ)がお会いしたいとの仰せで。いかがでしょうか、これからお越しいただけますでしょうか」
伯爵家の、初老の執事が腰を屈め頭を垂れて立っていた。
「ああ」
イシュルは小さく頷くと、ミラに「伯爵に国王の手紙を渡してくる」と耳打ちして、リフィアたちやシャルカ、それにめずらしくルシアやロミールら従者たちも同席し一同、楽しそうに会話の弾む談話室から壁際を隠れるようにして退室した。
「伯爵さまは執務室にてお待ちです」
廊下に出ると執事はひと言、そう言って、コの字型の城館を一階上がった東側の部屋に案内した。談話室から離れると夜の城館は人気(ひとけ)がなく、照明も最小限で暗く寂寥感さえ漂っていた。
「どうぞ」
執事に促され室内に入ると、中はさらに暗く、重厚な室内装飾、書棚や机などが重々しい雰囲気を醸し出していた。
室内には男がふたり、いた。正面奥の机に座っている男、その右側にやや離れて直立する黒いローブの男。
机の男がカレスティナ伯爵、ローブの男は彼の魔導師であろう。そこへ、伯爵の正面に立つイシュルの左側、真横に執事が立った。
「歓談の最中にお呼び立て申しわけない」
執事の簡単な口上の後、伯爵は椅子から立ち上がって言った。
「そちらへおかけください」
そして自ら部屋の中央にある小卓と椅子の方を指し、案内した。
「サロモンさまから託された書簡は、こちらになります」
イシュルは伯爵と向かい合わせに座ると、懐から小型の巻紙(スクロール)を取り出し直接手渡した。
「ほう」
伯爵は卓上の燭台を引き寄せると眸を細め、サロモン直筆の手紙に目を落とした。
「……」
イシュルは、眉間に深い皺を寄せ手紙を読む初老の男を何度目か、間近で観察した。伯爵は名をレネオといい、年齢は五十代後半、ベルムラの血が少し混じっているのか、よく日に焼けた赤銅色の肌に灰色の短髪の、がっしりした体格の男だった。
その鍛えられた体躯はおそらく、陸(おか)の上で長年兵馬を率いて培われたというより、若い頃は自ら船を操り、水軍を率いて得られたもののように思われた。
「陛下のこのような手紙、はじめて目にしました、イシュル殿」
「はあ」
伯爵は声も野太くしわがれ、その本領が何辺にあったかが偲ばれた。
イシュルはカレスティナ伯爵、レネオとは何度か顔を合わせ言葉を交わす機会があった。もう紹介もすんでいる。だがサロモンの書簡を見せるのは、大事になった監獄城の反乱の事後処理を終え、ひと段落した後にしようと考えていた。
サロモンの伯爵宛書簡には、派手な歓待を控えることのほかに、滞在中および出国に関しイシュルの意に十分に沿うよう、書かれている。
イシュルはカレル城に入城後すぐ、このタイミングでの会見を伯爵に伝えていた。レネオがサロモンの書簡に目を通した直後にお願いしたい、急いで、内密に実行したいことがあったからだ。
「……で、わたしに頼みたいことというのは何かな?」
レネオは機転を利かし、小面倒なやり取りをすべて跳び越え斬り込んできた。
「……」
イシュルはまったく表情を変えず、だがひと呼吸おいて答えた。
「できるだけ早く、小型のスループ(一本マストの帆船)を一艘、用意して欲しいのです」
「スループを? 川船ではないな?」
「はい。もしあるのなら、一人乗りの小舟でもかまいませんよ。船員はいりません。……ごく内々に、誰にも知られず、一日でも早く用意していただきたいのです」
暗い、静かな室内の燭台の灯が微かに揺らめく。
そう言いながら不意に、イシュルの顔に薄く笑みが広がった。
……最後の最後に、仲間を裏切るのだ。何と罵られようと、どんなにか哀しませようとかまわない。ひとりで中海に乗り出す。
俺以外誰ひとり、もう死ぬことはないのだ。
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