監獄城 1


「イシュル君」

 ルフィッツオとロメオは、階段を降りるとイシュルに小声で呼びかけ、ランタンを足許に置くとずいと身を寄せてきた。

「今晩は」

 イシュルも小声で挨拶すると、ほぼ同時に川舟が一艘、滑るように入って来た。荷物をディレーブ川の船着き場に運ぶ舟だった。さっそくロミールの指示で、屋敷の使用人と川舟の人夫らが舟に荷物を積みはじめた。

 揺れる川面に映り込んだ松明やランタンの灯りが、きらきらと瞬きせわしなく揺れ動いている。

 真夜中の運河に、荷を運ぶ男たちの気合の入った掛け声が時おり響く。

 イシュルたちはしばらく無言で、その様子を眺めていた。

「実はきみに、お願いしたいことがあってね」

 とロメオがおもむろに、低い声で口を開いた。

「何ですか」

  イシュルは表情を緩め、薄く笑みを浮かべて言った。

 ……こんな時間にこんなところへ、ふたり揃ってやって来るんだから、何もないなんてありえない。妹のミラにも聞かれたくないことなんだろう。

「うむ、特にミラには内緒にして欲しいんだが……」

 とこれはルフィッツオ。

 ……ほら、予想通り。わかりやすい──ん?

 続きを言いづらそうにして、少し間が空いたと思ったら、

「ピューリのことなんだが」

「ピルサのことなんだが」

 と、ふたり揃ってせき込むようにして言ってきた。

「うっ」

 ……ち、近い。

 ルフィッツオとロミオの顔が、目の前に迫ってくる。

 足許に置かれたランタンに下から照らされ迫力満点、鬼気迫る怖ろしさだ。

 イシュルは思わず後ろへ仰け反った。

「ふたりが新任魔導師として、南方に派遣されているのは知っていると思うが」

「早ければ来月にも帰ってくる予定なんだが、ちょっと気がかりなことがあってね」

「ああ、ええ。聞いてますよ」

 イシュルは上半身を後ろへ反らしたまま、ぎこちない笑みで頷いた。

「今年の秋は南山塊の方で雨が多くてね」

「大三角州の上流辺りでは大小の洪水も起きているらしい」

 ふたりは素晴らしいチームワークでまくし立ててくる。

「な、なるほど」

 ……つまりディレーブ川をはじめ、三角州下流の河川の水量が増えて危険なので、現地のピルサとピューリの様子を見て来て欲しいとか、そんなところだろう。

 大陸の東側は、無数の山脈の連なる大山塊だが、南部は中海東端を断続的に北上する低気圧がぶつかり、降水量の多い地域だ。特に秋の雨期には雨が多く、大三角州の上流域から中流にかけては洪水が多発することもある。

 中海の東端から先は、単に南洋と呼ばれる未知の大海で、熱帯低気圧の巣になっている。南洋で発生した台風の一部は大山塊南部に向け北上し、周辺一帯に大雨を降らす。これが大三角州の主要な水源となっている。また、中海から東方への海洋進出が進まないのも、南洋のこの厄介な気候が主な原因となっている。大山塊の北部が寒冷で霧の多い大湿原、南部の海路は台風の巣、ではなるほど、いつまでたっても大山塊奥地への進出が捗らない筈である。

「ディレーブ川下流域の水量には注意しておきましょう。現地に着いたらピルサとピューリの所在も調べ、なるべく常時把握するようにします。何かあればすぐ救出します」

「いや、確かに三角州の水量は増えるだろうが、ぼくたちは洪水よりもほかに心配していることがあってね」

 イシュルが先回りして、自らピルサとピューリの保護を申し出ると、ロミオが少し戸惑ったような顔をして言った。

「あの辺りで雨量が多いと、蜥蜴人(リザードマン)の大群がな」

 と、かわってルフィッツオが続けた。

「やつらは、夏の間は三角州北部の山塊の麓で過し、冬になると南下して三角州の河口近くに居を移す。通常は群れごとに適度に間を取って移動しはじめるんだが、雨期に大雨が降ると、洪水を怖れてか、みな一斉に移動し始めるんだ」

「ああ、それは……」

 以前、ミラが言っていたことだ。

 確か彼女が宮廷魔導師になり立てのころ、南方の湿地帯に派遣されたが、その時運悪くリザードマンの大群に遭遇して、所属した魔導師隊に大きな被害が出たと言っていた。

「うむ」

 ルフィッオが真剣な顔つきで頷いた。

「きみもミラから聞いていると思うが、彼女が南方に派遣された時も雨が多くてね。向こうで蜥蜴人の大集団に遭遇して、同行していた他の新任魔導師や護衛の騎士らに多数の死傷者が出たんだ。ミラとシャルカはまあ、怪我もなくやり過ごせたんだが」

「だが、ピルサとピューリはミラのように強くはない。護衛の魔導師や騎士らの人選には気を配ったが、ミラのような実力者は同行していない」

 と、続いてロメオ。

「あれだけの力を持つ魔導師は、聖王国にも数えるほどしかいない。我々でも手配できなかったんだ」

「そこで、ちょうど中海に行くことになったきみに、お願いしようと思ってね」

 顔を並べて同時に、にんまりと笑みを浮かべた。

 話の流れも息ぴったり、的確な説明だった。

「な、なるほど」

 イシュルは気圧されるように、ぎこちなく頷いた。

 ……なるほど、なるほどと、何度も言わされているような気がする。

「それは心配ですね。向こうに着いたらさっそく、彼女たちの無事を確認しましょう。何かあったら、かならず助けるようにします」

 イシュルは引きつった笑みを浮かべ、だがしっかり、満点の回答を口にした。

「おお、ありがとう! イシュル君」

「ほんとうにきみだけが頼りだ。よろしく頼む」

 ルフィッツオとロミオはイシュルの手を取り、ぶんぶんと何度も上下に振った。

「は、はは」

 イシュルは声に出して笑った。辛かった。

「と、ところでピルサたちは今、どこらへんにいるんですか?」

「ああ、うむ。今時分だと、ラバーニあたりかな」

 ラバーニとは、ドナート川がディレーブ川と合流する辺りにある河港の街だ。目的地であるカレスティナ伯爵領の港町カレスの手前、上流に位置する。確かディエラード家以外の五公家の、いずれかの領地だった筈だ。

「でなければ、もうカレスにいるか……。あるいはフラーガ砦かな」

 ルフィッツオが途中言葉に詰まり、眉間に皺を寄せ難しい顔をした。

「フラーガ砦?」

 初耳だ。いや、以前どこかで耳にしたことがあるような……。カレスの出城みたいなものか。

「うん。カレスより東、三角州の海よりにある孤城、だね」

 ロミオも顔色を曇らせ言った。

「別名、監獄城と呼ばれている」



 カレスへ向かう川船は運河の南側、ディレーブ川沿いの河港から出る。ロミールは先に船に運び入れておく積み荷の運搬に付き添い、公爵邸の船着き場からそのまま小舟に乗って河港に向かった。

 イシュルはルフィッツオらと別れた後、ひとりで中庭の東屋に歩いていった。夜も遅く、当然周囲に人の気配はない。ビオナートの偽書検分が終わってからは、屋敷を監視しようとする不届き者もぱったり、見かけなくなった。

「剣さま」

「杖さま」

 イシュルが東屋の前まで来ると、そのすぐ手前に胸に手を当て腰をかがめた風と土の精霊が姿を現した。

 フェデリカとウルーラが仲良く横に並んで畏まっている。

「火杯さま、御前に」

 そして、彼女らにほんの少し遅れ、やや離れて火精のリンが姿を現す。

「ふむ」

 ……本当にこの子たちは素晴らしい。

 精霊神と相まみえ、検分会も終わった。ニッツアとの取引きも終了した。ちょうどひと区切りついたところで、彼女たちは俺から何か話があるだろうと、こうしてこちらから声をかける前に、三人揃って姿を見せたのだ。

 しかし五つの魔法具を揃えてから、精霊たちの態度がより慇懃になったような気がする。

「まあ、みんな、もうちょっと楽にしてくれ」

「はっ」

 フェデリカが声に出して答えると、三人同時に立ち上がった。

「きみらも考えていたと思うが、ちょうど一区切りついたところなので、精霊界の方に帰ってもらおうと思ったんだが」

 イシュルはそこで口許に握り拳を当て、こほんとやった。

「ちょっと状況が変わって、もう少し俺に付き合ってもらうことにした。……いいかな?」

「もちろんです。剣さま」

「了解、杖さま」

「火杯さま、よろこんで」

「うん、すまない。みんな、ありがとう」

 ……まあ、いやとは言えないよな。

 契約精霊と違い、召喚精霊をそんなに長く引き留め、使役するのは良くないとされている。契約した精霊よりもより魔力を消費するとか、こちらの世界、現界との結びつきが弱く、不安定であると考えられているのだ。

 ただ、彼女らは大精霊であるし、呼んだ方も神の魔法具持ちだ。特にそういったことを気にする必要はないわけだが……。

「これから俺は南へ向かい、中海に着いたら船出して、ヘレス召喚を目指すことになる」

 ちらっと三人の表情をうかがう。

 みな、特に変化はない。じっとひたむきな目で見つめてくる。

「中海に船出する時にまず、水の精霊を召喚するとして、それまではリンにだけ残ってもらおうと考えていたんだが」

 火精のリンドーラヌスを召喚したのは聖都に到着し、旧国王派残党の妨害が明らかになってからだ。フェデリカとウルーラを召喚したのはまだ、アルサールにいた頃である。

「それがさっき、あまりよろしくない話を耳にしてね」

 リンだけを残すと聞いて、フェデリカとウルーラが何か言いたそうな複雑な顔をしているが、かまわず続ける。

「今年の秋は大山塊の南方で、例年よりだいぶ雨が多く降ったらしい。そういう時は周囲の河川で氾濫が起こりやすくなる。そうなると蜥蜴人(リザードマン)の群れの南下が早めに、一斉に行われるらしい。ディレーブ川沿いに南下する俺たちもだが、大三角州の方には知り合いもいてね。蜥蜴人の大群に行き当たるようなことになると、大変なことになる。それで、フェデリカとウルーラにはもう少しこちらに残って、助けてもらおうかと思って」

「わかりました!」

「やった!」

 と、ふたりの反応は上々でとてもうれしそうだ。ウルーラの「やった!」というのはちょっとひっかかるが。

「水辺の移動だから水の精霊がいた方がいいんだが、同行するニナの精霊、エルリーナもいるので何とかなるだろう。ということで、とりあえず目的地のカレスまで、引き続き助力を頼む」

 水辺だが大小の河川や湿地が主で、大海のど真ん中というわけではなし、土精のウルーラでもそれほど力を削がれることはないだろう。

「はいっ」

「はい」

「……」

 フェデリカとウルーラは変わらず元気いっぱいに、リンは余裕を見せて恭しく頭を下げ、腰を折ってみせた。

「うん」

 イシュルは小さく頷くと視線を彼女らからそらし、遠く夜空を見やった。

 ヘレスら神々を召喚する目的地、ラガン南方百里(スカール、約65km)の海上まで行く場合、必ずしもラガンから出航する必要はない。少し遠くなるが、その東方にあるカレスから中海を南西方向に行けば、同じ目的地に到着するだろう。

 ……その時は、俺ひとりで行くことになるだろう。リフィアやミラたちを土壇場で裏切ることになるが、彼女たちに死なれては困る。それは仕方がないことだ。

 イシュルは視線をフェデリカたち、三人の精霊に戻した。

 ……この子らの明るい、やる気のある顔。

 その時は彼女たちに、リフィアたちを足止めしてもらわねばならない。

 イシュルは穏やかな笑みの裏側にひっそりと、その心のうちを隠した。



 空が広い。

 曇っているが妙に明るい空だ。薄い雲が上から太陽に照らされ、おぼろに光り輝いているのだ。

 周りからは、さまざまな音が聞こえてくる。

 船夫たちの上げる掛け声、桟橋を渡る音。波の音、木と木が当たり、縄や帆布が擦れる音。

 岸壁には無数の大小の川舟やはしけの類いが接岸し、多くの人々が集い、立ち働いている。

 イシュルは視線を川向うの対岸にやった。

 空より幾分暗い川面の向こうに、同じような聖都の街並みが延々と続いている。

 ディレーブ川はここ聖都エストフォルにあって、すでに川幅が優に百長歩(スカル、60m以上)を超えている。大山塊を抜け平野部に出たこの辺りは、まだやっと中流域に達したくらいだ。

「確かに、例年より水量が多いようだ」

 イシュルはひとり、声に出して言った。

 眼下に広がる川面の流れが速い。河岸を見ると水量も普段より多いのがわかる。

 ルフィッツオとロミオが危惧していたこと、しっかり気にとめておいた方がいいかもしれない。おざなりにすれば痛い目に会うかもしれない……。

「イシュル、どうしたんだい? 怖い顔して」

 後ろからサロモンの声が聞こえた。振り向くといつもと様子が違う。深紅のマントに派手な羽飾りの帽子を被り、聖都の街中で時おり見かける貴族の、いかにもな優男風の恰好をしている。

 彼の隣には晴れやかな笑顔のミラがいる。そしてミラの隣にはリフィアとニナ、ふたりも明るい、柔らかな笑みを湛えている。

 ミラは聖堂教会の聖職者を示す白のフード付きマントに、くすんだワインレッドのワンピース、ニナは黒のマントに茶のチュニック、リフィアは濃いグレーのマントの下に白のブラウスとこげ茶のトラウザーズに黒のブーツと、下級貴族や領主など一般的な富裕層の典型的な旅装だ。

 彼女らから少し離れて、ふたりの侍女らしき女が河岸に立ってイシュルたちの方を見ている。

ミラ付きのメイド、セーリアとリフィア付きのメイド、ノクタだ。ふたりはメイド服の上に薄茶のマントを羽織っている。

 セーリアとノクタは先ほどから頬を染め、落ち着かない様子でイシュル──の隣に立つ、サロモンを見つめていた。

「……」

 イシュルはにこにこと上機嫌のサロモンの肩越しに、セーリアとノクタのその姿を見て深くひとつ、溜め息を吐いた。

 ……台無しだ。これから向かう先の心配をしている自分がバカみたいだ。

 あのふたりも何度かサロモンの顔を見ている筈なのに、こんな近くで目にするのははじめてだからか、それともお忍びの恰好をしてきた美貌の国王の、滅多に見れない新鮮な姿にやられたか……いや、すべては先日にきちんと暇乞いもすませたというのに、今日もわざわざ見送りに出向いてきたこのひと、サロモンのせいだ。女の子たちの妙に楽し気な様子はすべて、このひとのせいだ。

 変装してなお、きらきら輝いている王様の毒気に当てられていないのは、ロミールくらいのものだ。彼は帆やロープ類など船具の点検をしている船夫に混じって、船荷の確認をしている。

 いや、もうひとりいた。船尾に立って河上の方をぼんやりと眺めているシャルカだ。ちなみにルシアは今日はまだ、姿を見せていない。

「ふむ、これはやはりわたしのせいかな? わたしたちはほかの船より、少し目立ち過ぎているようだ」

 サロモンは抜け抜けと、そんなことを言う。

 確かに河岸に集うほかの人々、前後に並ぶ船の船夫や商人、見送りの人々もみな、ちらちらとこちらに視線を向けているようだ。見送りの人々に混じって、彼の侍従のビシュ―や護衛のマグダ・ペリーノの変装した姿も見える……。

「うっ」

 むすっとするイシュル。

 そこへミラが割って入ってきた。

「まあ、ほほ。そんなことはありませんわ」

 剣呑になりそうな空気を、さっと切り替えにかかる。

「わたくしたちもこうして、旅に出る神官や貴族の子女を装っておりますが、これだけの人数になるとどうしても多くの者の注目を集めてしまいます。陛下だけの責任ではありませんわ」

「そうだぞ、イシュル。このような大きな街でも、貴族や富商が船旅に出るとなればそれなりに目立つ。あまり人目につきたくないのはわかるが、こればかりはしょうがない。あきらめろ」

 リフィアまで乗っかってきた。

「あきらめろってのは、何だよ」

 イシュルは口の中でもぐもぐと、文句を言った。

「旦那、そろそろ船の方、出せますぜ」

 気を利かせてか、船頭が声をかけてきた。

「おう、じゃあ早速」

 イシュルが返事する前に、リフィアが河岸から船に飛び移り、ニナに片手を差し出した。

「……」

 リフィアはニナに続いてミラを、そしてメイドのセーリアとノクタにまで手を貸した。

「ふふ」

 横で小さく笑うサロモン。これで河岸に残るのはイシュルだけになった。

「それでは俺も、これで。今日はわざわざありがとうございました」

 ……別にありがたくも何ともないが、この国一番のお偉いさんだし、しょうがない。

 イシュルが最後にかるく頭を下げると、サロモンは笑みを消し、声音を落として言った。

「かならず帰ってこい、なんて先日言ったのは本心ではないんだ」

 言いながら、じっと見つめてくる。

「生死などどうでもよい。本当は、たとえ果てようとも最後まで力を尽くせと、そしてそなたに永遠の光あらんことをと、伝えたかった」

 彼の青い眸に、イシュルの顔が映り込む。

「いや、生きとし生けるすべての者に、永遠の光あらんことを」

 祈るように、サロモンの目は閉じられた。



 相変わらず空が広い。

 均一な明灰色に染まった半球形の壁面が、透き通るように輝きどこまでも広がっている。

 船が河岸を離れ、ディレーブ川を下りはじめてからもずっと、手を振るサロモンの姿が見えた。

 イシュルは、船尾から動かず今も上流の方を見つめるシャルカの横に立った。

「ずっと山の方を見ているな。何か気になることでもあるのか」

「……気になるのが何か」

 シャルカがイシュルに視線を移し、見下ろして言った。

「それがはっきりしない。わからない」

「ふむ」

 イシュルは腕を組んでシャルカの見ていた上流、東の地平線に目をやった。

 緩やかに蛇行するディレーブ川の先、遥か遠くに靄(もや)のかかった大山塊の山並みが、淡く霞んで見える。

 ……さすがにシャルカは何か、感じるものがあるのか。だが俺は特に何も感じないし、遠目の利くフェデリカやウルーラは何も言ってこない。

 彼女たちに命令すれば遠方でも見てきてくれるだろうが、さすがにあの距離では負担が大きい。ゆっくり日数をかければ大丈夫だろうが、手元に置いておきたいのに何日も不在になるのでは、何のために召喚したのかという話になる。蜥蜴人の大移動は脅威だが、それが確定したわけでもないし、あまり力を入れて探っても、それで解決できるわけではない。ピルサとピューリが今どこにいるかもわからない。

「まあ、それは目的地のカレスが近づいたら、ルシアに先行して探ってもらえばいいんだが」

 今はまだ、カレスまで距離がある。もう少し近づいてからでないと、連絡に間が空く分、ピルサとピューリの所在が不正確になる。彼女たちも周辺を移動しているだろうからだ。

 ……だが、シャルカが気にしていることは、やはり気に留めておいた方がいいだろう。ルフィッツオとロミオの危惧を甘く見るのは危険だ。

「どうしましたの、イシュルさま」

 そこへミラが寄ってきた。

「もう、聖都も街外れ。あんなに目立っていたサロモンさまのお姿も、完全に見えなくなってしまいましたわね」

「えっ、ああ」

 ミラは、シャルカにはちらっと目をやっただけで、イシュルにサロモンの話を振ってきた。

「別れ際に陛下と、何事かお話ししていましたわね。何を話していたんですの?」

 ……なるほど、そのことか。

 イシュルは一瞬視線を彷徨わすと、何とも言えない笑みを浮かべて言った。

「悔いの残らないようにやれ、と言われた」

 己の生死のことは考えるな、との言葉は飲み込んで口に出さず、続けた。

「それで最後に、この地上に生きるすべての者の幸福を祈っていた。生きとし生けるすべての者に、永遠の光あらんことを、ってね」

 ……俺にこの世界の運命を託した、そんな口ぶりだったな。

「まあ、それはなんて素晴らしい」

 ミラは胸の前で両手を合わせ、イシュルに花のような笑みを浮かべた。

「さすがはサロモンさま。イシュルさまが神々の降臨を果たし、請願するということはやはり、この大陸のすべての人々の運命と大きな関わりがあると、そのようにお考えなのでしょう。わたくしどもも、それとなく考えていたことですわ」

「うん、なるほど……」

 ……そうだろうか。

 イシュルは曖昧に微笑を浮かべ、言葉を濁した。

「ふふ。ミラ殿の言うとおりだぞ、イシュル」

 リフィアが船べりを器用に、跳ねるように伝って近寄ってくる。

「イシュルさんは、自分を卑下しすぎだと思います。もっとこう……、とても大きくて気高いことをしようとしているんだと、考えるようにした方がいいと思います」

 ニナは安全に、船荷の間の船腹の真ん中を歩いてきた。

「うーん」

 ……みんな、集まって来てしまった。

 ロミールたち、船夫たちもこちらの方を見ている。

「それはどうかな。神々というのは、わりと勝手な連中だから」

「まあ、イシュルさまったら。そんな罰当たりなこと言ってはいけませんわ。ほほほ」

 イシュルが誤魔化すように言うと、ミラが口許に手を当て笑った。

 彼女はイシュルに合わせて場をうやむやに、重い話にならないよう気を使ってくれたようだった。

 ……今も、心のうちに浮かぶ家族の顔、ベルシュ村の人々の姿。

 確かにこれはもう、ただの私怨ですむ話ではないのだろう。神々が俺の何に関心を持っているか、それを考えれば自明の、わかりきったことだ。だが、だからといって死んでいった者たちの悲しみを、俺の罪を、この心のうねりを、蔑ろにすることはできない。

 イシュルはミラにつられて笑ってみせながら、視線を遠く、曇った鏡のような空に彷徨わせた。



 出発したその日の舟航は順調にいった。

 川の流れが速く、風もあり、暗くなる前に宿泊予定のリバネルに到着、街一番の船宿に宿泊した。翌日は昼過ぎにディレーブ川から分かれる支流のドナート川に入った。

 ドナート川はとこどころ浚渫(しゅんせつ)や川幅の拡幅が行われ、ほとんど運河と言ってもいいような川で、夕方には宿場町の手前で川船の渋滞に巻き込まれた。

 当日は、ディエラード家に出入りしている地元商人の屋敷に宿泊した。遅くなった晩餐も終盤のあたりで、その異変が起こった。

 ……剣さま、ちょっとまずいことが。中座できますか。

 食後のひと時、ミラと屋敷の主(あるじ)と、とりとめのない会話をしていた時、フェデリカの声が脳裡にこだました。

 わずかだが、彼女の声に切迫感がある。

「ちょっと失礼」

 イシュルはフェデリカに心のうちで返事をすると、屋敷の主人やミラたちに愛想笑いをして席を立った。

 誰もが、用を足しにでも行くのだろうと思うようなふりで離席し、晩餐室を出ると廊下を奥の方へ一直線、侍女らの出入りする裏口から外に出ると瞬間、薄曇りの夜空へ飛び立った。

「蜥蜴人(リザードマン)どもの大群です」

 音もなく、フェデリカがすぐ横に姿を現わし言った。

「やはり、か」

 フェデリカの声を聞いた時、何となく“感じる”ものがあった。

 ルフィッツオとロメオの危惧していたことがまざまざと、こんなにも早く起きてしまった。

 ……ただ、まだかなり距離がある。遠くの、かなり先だ。今から対処すれば、こちらに被害が及ぶことはないだろう。

「ウルーラは?」

 ぐんぐん速度を上げていく。薄い雲の層がいくつも、高速で目の前を通り過ぎていく。風切り音が風の魔力の防壁を通して聞こえてくる。

 リンは万が一のため、屋敷に残って周辺を警戒している。だがウルーラの気配がつかめない……。

「あの子は地中を東へ、先行しています。ちょっと距離があります」

「ふん」

 気配が薄いのはそれだけじゃない。湿地や川の下の土中を移動しているからだろう。それとおそらく、無数の蜥蜴人の移動が雑音になって邪魔してるんじゃないか。

「このまま、急ぐぞ」

 高度が上がり雲海の上に出ると、月齢が満月に近い月が妙に大きく見えた。上空は晴れているが、霞も少し残っている。いつもより湿気が多いのだ。

 東北方の大山塊で大雨が降っているのだろう。上流ではかなり水位が上がっている筈だ。山間部では洪水も起きているかもしれない。

 しばらく高度を保ち、東南方向に飛ぶ。雲の切れ目を見つけ、そこから降下し雲海の下に出る。

 一気に周囲が暗くなり、すぐ前下方に何か無気味な気配が充溢する。

「凄い……」

 横を飛ぶフェデリカが先に反応した。

 真っ暗な大地に、薄雲の光を微かに拾ってぼんやり輝く川面が、ちらちらと垣間見える。そこへまだらに、黒い塊が長く伸びて地平の先まで続いている。

 夜の大三角州を毛細血管のように覆う、蜥蜴人の大群だ。

 壮大な光景だが、吠えたり走ったりする者は見えず、皆一心不乱に歩速を合わせ南下している。

 集団に疎密の差があるのは、彼らが動きやすい土質を選んで移動しているからだろう。地面が比較的乾燥していて固いところ、あるいは足がつきかつ泳げる、適度な深さの小川やせせらぎ、沼などだ。

 それが眼下の、見渡す限りの大地を覆っている。彼らは静かに黙々と移動しているが、それでももちろん、異様に巨大なものが地面を這うように移動している、無気味な気配が伝わってくる。

 ……杖さま……。

 茫然と周囲を見渡していると、下方からウルーラの声が聞こえてきた。

 先行して遠方、東方向を探っていたウルーラが近くまで戻ってきた。

「どうだった?」

 ……凄く大きな群れ。皆、北や東の方から、まだ水の少ない南西方向へ移動している……。

「やはり山の方から増水しているのか」

 ……そう。

「大雨による増水は北東、真東の山間部から、三角州の南西側の河川に向かって起きています。蜥蜴人どもの動きも同じです。湿地や川の増水から逃げるように移動しています」

 と、これはフェデリカ。

「三角州全域を水没させるような大洪水にはならないかな。だが、放っておけば奴らはディレーブ川にまで溢れ出すだろう」

 空遠く地上を果てまで、水と土の奥底を広く広く、自らの感覚を慎重に行き渡らせていく。その気になれば、精霊より広い範囲を知覚できる。

「ディレーブ川の下流域まで蜥蜴人の群れが到達すれば、かなりやばいことになる」

 ……ピルサとピューリだけではない。俺たちはもちろん、ディレーブ川流域の交通全般に大きな支障が出る。

 上流域の増水は大三角州で吸収できるだろう。大きな洪水にはならない感じだ。それは感覚的にわかる。だが蜥蜴人の動きはそのままにはできない。

「奴らをディレーブ川に近づかないよう、東側へ追いやる」

「えっ、はい……」

 ……むむむ。すごい……。

 フェデリカとウルーラが驚き、声を上げる。

「でも、どうやって」

 フェデリカが覗き込むようにして聞いてくる。

 イシュルは空中で静止し、目を瞑ってもう一度、自らの感覚を三角州一帯から大山塊の麓辺りまで、四方へ広げた。

「俺の魔力のとどく限り、薄く広く奴らにぶつけて東へ押しやり、進路も南東方向へずらしていく」

「……」

 イシュルが眸を開けると、フェデリカが驚愕の表情を浮かべていた。ウルーラが息を飲む気配も伝わってきた。

「ウルーラはディレーブ川の西岸に移動しろ」

 ……は、はい……。

「フェデリカはその場で待機。大丈夫だ。おまえには影響が出ないようにする」

 イシュルは宙に浮いたまま、肩を回して背筋を伸ばし深呼吸を何度か繰り返した。

 ……新魔法を使う。五元素の魔力を自分の知識、知覚、意識で統合し、風の魔力のように“出力”する。北東はリバネルの辺りから南西は目的地のカレス付近まで。そこら辺はこの高度でも地平線の向こうだから微妙だが、たとえ当てずっぽうでも魔力の“腕”を伸ばすだけ伸ばし、やるしかない。

「いくぞ」

 目を瞑り、伸張した感覚のその先を感じとる。同時に、探るようにゆっくりと両手を持ち上げ、水平に広げていく。

 地上から数長歩(スカール、2、3メートル)ほどの高さまで、ディレーブ川とドナート川沿いに南北方向に広く、長く魔力の壁を編んでいく。

 そして緩やかに、力を入れ過ぎないように東方へ押し込んでいく。蜥蜴人の誰もが気づき、恐れや痛みを覚え、だがパニックに陥らない程度に弱め、そう、超自然的な存在──神々の警告と思わせるような体で、東方へ動かしていく。

 眼下に薄く、無色に発光する光の障壁が立ち上がった。光の壁は南北にどこまでも、やがて細い線となって暗闇の地平に融けるように消えていく。そのラインが東へ、細かな光の粒子を巻き上げながら移動していく。

 ……自意識のすぐ外側をすり抜けていく、無数の異物感。

 多くの獣たちの動揺。翻り、揺れる個体、そして群れのすべて。

 発光する魔力が地上を滑るように動くと、無数の声にならない叫びが起こり、大きな蜥蜴人の群れの塊がのたうつように身じろぎし、東方へ引っ張られ、押されていく。

「……きれい」

 下方からの明かりに微かに照らされ、フェデリカが感嘆の声をあげた。

 南北に伸びる細い光の帯が、東の地平の暗闇に消える頃。

 蜥蜴人の無数の群れは南東へ進む方向を変え、やがて空中に佇むイシュルたちの視界から姿を消していった。

 

 

「ルフィッツオさんたちはあまり、きみに知られたくなかったみたいなんだけどな」

 翌日、船に乗るとすぐ、イシュルはミラにルフィッツオとロメオに頼まれた、ピルサとピューリの件を話した。

「ルシアにでも頼んで、彼女たちの滞在先や様子を見てきて欲しいんだ」

 昨晩にあんなことがあった以上、もう悠長にしている場合ではない。

「ええ、それは大丈夫ですよ。ピルサとピューリのことは以前から気になっていましたから、ルシアにはそれとなく見張っておくよう言いつけてあります」

 ミラはまた、「おほほ」とやるとそう言ってイシュルを安心させた。

 だが、早くも次の日の午後、ラバーニの手前で遡行するルシアとばったり出会い、行き合う船と船の間で慌しく、劇的な凶報がもたらされたのだった。

 ──ピルサとピューリ、双子の姉妹がフラーガ砦に閉じ込められ、拘束されていると。

 驚愕するイシュルたちに、ルシアは船上から辺り構わず声を張り上げた。

「監獄城で囚人の反乱があり、滞在していた宮廷魔導師派遣隊が、その騒動に巻き込まれたのです」


  

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