下向

 

 窓外から秋の終わりの、柔らかな陽ざしが差す。

 樹々の緑はくすみ、楓や樺の木は早くも葉を落とし、寒々しい姿を見せている。

 そこへ鼻先を漂う、濃い茶の香り。

 晩秋の陽光に、繊細な曲線を描いて湯気が立ち昇る。

 両手に抱えた器の暖かさに、ふと俯き目をやると、紅い水色がすとんと胸奥に落ちてきて、少し優しい気持ちになる。

「イシュル」

 隣に座るサロモンの声。

「ルフレイドもよく、きみみたいに外の景色を見ていたよ」

 切れ長の美しい眸を細めて言う。

「ルフレイド兄さまからこの前、お手紙が届きましてよ」

 ニッツアの澄ました、大人ぶった声が続く。

 彼女はサロモンの、反対側に座っている。

「イシュルお兄さまが聖都に帰ってくるよ、って書いてありました。それがもう、出立されるなんて」

 彼女の気取った、大人ぶった喋り方が微笑ましい。彼女も両手で、カップを持っている。

 ……微かな小鳥の声。鵯(ヒヨドリ)や百舌鳥(モズ)の類いか、窓ガラスを通し耳許をくすぐるように聞こえてくる。

「ふむ」

 サロモンは控え目に難しい顔をつくって、イシュルに言った。

「かならず帰ってくるんだぞ。旅先では手紙を出すのを忘れずに」

「ええ」

 イシュルは短く答え、微笑を浮かべた。

「わたしからもお願いです。かならず帰ってきてくださいね」

「ああ」

 ひとつ頷き、ニッツアにも笑顔を向ける。

「……」

 互いに微笑み、視線を合わす。秘密の取引きがあったことなど、おくびにも出さない。

 表向きはあくまで静かな、穏やかな昼下がりだ。

 ここは王宮の中心、謁見の間の奥隣り、王家専用の控えの間である。その部屋には今、イシュルとサロモン、ニッツアの三人しかいない。

 聖王家に連なる者以外、彼らが特に許した者しかその控えの間に入ることは許されない。イシュルはかつて、ビオナートを斃した時にサロモンに招かれ、ルフレイドも交え三人で談笑している。

 壮麗な王宮だが、謁見の間の奥、すぐ隣にまるで隠し部屋のように目立たず、さして広くも華やかでもないその部屋を、イシュルはわりと気に入っていた。

 東側一面に大きな窓が並び、残り三方の壁は重厚な木板で覆われている。足許は分厚い、複雑な文様の絨毯が敷かれている。品の良い落ち着いた雰囲気は、窓外の景色とともにどこか懐かしい、ほんの少し切ない気持ちにさせられる。

 先王偽書検分会のあの日から十日ほど経ち、いよいよ中海へ出発する日を目前にして、イシュルはサロモンから王宮に招かれた。

 精霊神の策謀から逃れ、過激派の襲撃を退けた後、イシュルは急いで主神の間に隣接する検分会会場に戻り、サロモンやウルトゥーロに直接、その場で説明しようとしたが、まだ周囲の混乱は収まらず、しばらく事態の収拾を待たなければならなかった。

 廃神殿に集合した過激派以外に、大聖堂の運河を挟んだ西側市街に同様の実行部隊が若干名潜んでおり、彼らがパタンデール館や広場で立ち上った爆煙を見て、やや遅れて行動を起こしたことで、その後も散発的な襲撃が続いたためだった。

 ただ、この事態はイシュルにとってむしろ、都合よく働いた。運河西岸の残党狩りには介入せず、対応に追われるサロモンらの目を盗んで、フェデリカら召喚した精霊を介しニナ、ミラ、リフィアらと連絡をとり、過激派襲撃の対応について口裏合わせをする時間が取れた。

 過激派残党がすべて討たれるか捕縛され事態が収まると、イシュルはその場でサロモンとウルトゥーロに説明をはじめた。

 旧国王派残党、その過激分子をどこで知ったのか、彼らによる襲撃をどうして知り得たのか、なぜ王家や教会に前もって知らせなかったか。

 イシュルはそれらを順に、もっともらしく筋道を立て、もちろん要所要所にたくさんの嘘も織り交ぜ説明、いや釈明していった。

 元国王派の不満分子の存在を知ったのが、公爵邸を探っていた者たちを一斉に捕縛し尋問した時。それから自らの召喚精霊や公爵家の影働きを使って内偵し、彼らの陰謀を突き止めた。

 聖王家と教会に通報し後は任せるのが筋だったが、そうなるとまた王家と教会の間で駆け引きがはじまり、手柄を独占しようと先走る者や敵方に内通する者が出たりして、事態が紛糾し検分会が延期、中止されるかもしれない──ということで内々で、独自に過激派を始末することにした。何より、風、火、土の大精霊を揃え、それにミラ、リフィア、ニナもいるということで、どんな相手であろうと後れを取ることはない、絶対の自信があった──と説明した。

 だが、実際には見落としがあって当日、このような騒動を起こしてしまったと、丁寧に詫びも入れた。

 釈明しながらイシュルは内心、サロモンとウルトゥーロがどう反応をするか、まったく不安を憶えないわけではなかったが、案に相違して両者はイシュルの説明に大した関心を示さず、つまり今回の襲撃事件を殊更に問題視することはなかった。

 その理由としてまず、あの時点で捕縛者の詮議もこれからで事件の全容が不明なため、イシュルの説明の信憑性を判断できなかった点が上げられるだろう。また、検分会も一時は混乱に陥ったものの実質被害はなく、あまり大事にしたくないとの思惑が働いたかもしれない。あるいは彼らも、過激分子に対する何らかの情報を得ていたかもしれず、このような事態をあらかじめ想定していた可能性もあった。

 だがサロモンもウルトゥーロもイシュルの釈明、いや襲撃事件に大きな注意を払わなかった本当の理由が、ほかにあったのである。

 それは、襲撃前に主神の間で異変が起き、石盤上に張られた正体不明の結界が解けた瞬間、精霊神アプロシウスと思われる法服の男をサロモンが、一部をウルトゥーロも目撃したことだった。

 前王ビオナートとの対決で風神イヴェダが降臨したのに続き、今度は精霊神アプロシウスが同じ主神の間に降り立ったのである。彼らにとってそれがどれほど重大なことか。

 イシュルを鍵に、召喚魔道書“精霊神の双子”がきっかけとなって、今度はアプロシウスが降臨したことを鑑みれば、彼らにとって不満分子の襲撃など些事に過ぎず、気にかける余裕も必要もなかった。

 結果、イシュルは襲撃事件に関する釈明よりも、主神の間で起こった精霊神降臨に対する説明をまず先に、より詳しく求められることになった。

 だがその事実をどう誤魔化すか、イシュルはそちらの方まで気が回らず、まともに考えていなかったので大いに戸惑い、しどろもどろの説明になってしまった。

 それで本来ならばサロモンもウルトゥーロも、イシュルの曖昧な説明に当然のごとく疑念を抱くところが、都合のよいことにふたりとも、精霊神の降臨という一大事であれば当人が混乱し動揺するのも仕方ないと考え、特に不審とも思わずイシュルの言を受け入れ、追及されずに済んだのだった。

 イシュルはまず、水の魔法具を手に入れ五つの神の魔法具を揃えた頃、精霊神がはじめて接触してきたところから話をはじめた。

 ロネーの森を出たところでアルサール大公の軍に捕まった時、アプロシウスがピピンに憑依し、イシュルを挑発し誘いをかけてきたこと。何の偶然か、ソレールでルフレイドに、ビオナートの隠した偽書が発見され、「ウルク王国興亡史末巻」の存在を聞かされたこと。そこで中海より先に聖都へ向かおうと決めたこと。偽書検分で、サロモンから“精霊神の双子”を渡され目を通したことがきっかけとなり、その双子の精霊が召喚され、続いてアプロシウスが降臨し、彼(か)の神の結界に閉じ込められたこと。

 そして、アプロシウスがヘレスを召喚する方法を教えるのと引き換えに、イシュルの請願の中身を教えるよう迫ったこと。イシュルはそれを断り、アプロシウスは無理やり聞き出そうとしたが果たせず、早々に諦め月神レーリアに気をつけるよう忠告し去ったこと、その消える瞬間をサロモンとウルトゥーロが目撃したこと──を順を追って、真実に嘘を混ぜるというよりは、核心部分は教えない──という方向で説明していった。

 アルサールで、精霊神がピピン大公に憑依して降臨したらしい、少なくともピピンの言動が尋常ではなかった、という話はイシュルがすでにルフレイドに報告している。その報はサロモンにも届いており、彼とウルトゥーロはイシュルの説明に疑義を挟むことはなかった。

 そもそも、五つの神の魔法具がすべて顕現し、それがひとりの人間に宿り、風神や精霊神が降臨するなど、聖王家や教会のお歴々にとっても前代未聞のことで、イシュルの話すことが嘘か本当か、すべてを判別することなど不可能だった。

 イシュルはそれから数日間、今回の精霊神の降臨に対して自筆の簡単な報告書をまとめ、複数の写しをつくり、王家や教会など関係各所に提出した。またその後、大聖堂において総神官長のウルトゥーロ、同代理を務めるカルノ・バルリオレらにより開催された秘密審問会に出頭し、精霊神の降臨に関し供述し、検分会当日の襲撃事件に関する説明も行った。襲撃事件の方は総神官長らに代わり、王家から内務卿のアッジョ・サンデリーニ、教会からは火の大神官、旧知のデシオ・ブニエルが立ち会い、簡単な聴聞が行われただけで済んだ。

 襲撃事件に関しては、イシュル自身が召喚した風、土、火の大精霊とディエラード公爵家のミラに直属する影の者たちを使って探索、当日はリフィアらの協力も得て対処したと説明した。

 肝心の、なぜ旧国王派不満分子の襲撃計画を事前に知ることができたか。それはイシュルが公爵邸に滞在している間、さまざまな筋の者から監視され、彼らを捕縛した中にくだんの一党の者がおり、その者を尋問した結果、当の陰謀を知ることになったと説明した。

 公爵邸に多数の監視がついていたのは事実であり、この半分でっち上げの話も特段疑われることはなかった。さらに、なぜその陰謀を聖王家、教会に前もって、すぐに報告しなかったかということに関しては、各所に知らせれば事が大きくなって旧国王派に知られることになり、潜伏、逃亡され賊を丸ごと捕縛、壊滅させることができなくなる、風や土の大精霊を使えばその点取りこぼすことはないと確信していた──それで知らせなかったと説明した。

 そうして一連の報告、審問、聴聞の後、イシュルは晴れて公式に「ウルク王国興亡史末巻」抄本、ヒメノス王子編の「五つの神の魔法具と請願」に関する項の閲覧を許された。

 もちろん「ウルク王国興亡史末巻」については、すでにニッツアとの秘密の取引きでその写本を入手、読了済みであった。彼女との接触、そして一連の工作に関しても、まったく疑われることはなかった。協力をあおいだラディス王国の影働き、“髭”のエバンらについても、尻尾を掴まれるようなミスはしなかった。

 イシュルは「ウルク王国興亡史末巻」を読了後、さっそく中海へ向かう準備をはじめた。行動をともにする面子はほぼ変わらず、ミラとシャルカ、リフィアとニナに従者のロミールとセーリア、ノクタの計七名、それに探索や連絡役など裏方が増えたルシアが、引き続き一行の連絡役や諜報などを引き受け、最後まで付かず離れず同道することになった。

 イシュルは、今度はいよいよ最後の旅になるかもしれない、つまり自分だけでなく全員、生きて帰れないかもしれないと翻意を促したが、ルシアを含め誰も応じる者はいなかった。

 面子が決まれば次は行程を組む段である。目的地は、ウルク王国史末巻にあった「ラガンの南海百里先、かつて主神ヘレスの座す地あり」との記述により、とりあえず中海沿岸の都市国家、ラガンを目指すことに決まっている。ラガン商国(商人による共和制国家)は、隣国のブルガ王国の東隣でオルスト聖王国から近く、行きやすい。

 そこでイシュルはミラに頼んで、聖王国南部と中海周辺の地図を手配してもらい、中海沿岸の地勢や習俗に詳しい者を数名、手配してもらった。

 ミラは地図に関しては公爵家所蔵のものを、土地柄の詳しい者には公爵家に仕える南部出身者や、出入りする中海の商人らを紹介した。

 イシュルは必要な情報をひと通り集めると、ミラをはじめ、リフィアやニナたちの意見も聞いて、おおよその旅程を組んだ。

 聖王国から中海沿岸へは河川水運が発達しており、人々の往来、交易はディレーブ川を主とする川船の運航によって行われている。イシュルも川船を雇い、聖都からディレーブ川を南下、途中バイパスとなる支流のドナート川に入り、船上で二日、約百五十里(スカール、約100km)ほど行くとまたディレーブ川本流に合流、後は中海河口の港町、カレスまで直行する最も多く、誰もが選ぶコースを選んだ。

 ディレーブ川は聖王国南部に広がる大三角州の西端を流れる大河で、カレスには同王国南西に大領を持つカレスティナ伯爵家の居城があった。

 カレスティナ伯爵領は中海に南に突き出した半島が主で、半島も含めた周辺地域をカレスティヌと言った。カレスに到着後はより大型の船に乗り換え、そのまま半島の沿岸を西に進みラガンに至るか、陸路で半島を西方に横断して行くか、二通りの行程があった。

 カレスから先は当地の天候や船便の有無がわからないので、現地に到着後決めることにして、とりあえず伯爵領の商都かつ城下町であるカレスを目指すことになった。

 イシュルはミラの兄のルフィッツオやロメオにも相談したので、その件も自然とサロモンの耳に入り、彼に便宜を図ってもらえることになった。

 サロモンはカレスティナ伯爵宛に丁寧な手紙をしたため、カレスに着いたら伯爵に見せるようイシュルに言づけ手渡した。

 サロモンの書状にはイシュル一行を迎えるにあたり、特に注意すべき点が書き連ねてあった。たとえば、大陸一の英雄を遇するのに仰々しくせず、巷間にあまり知られぬよう配慮すること、ラガンなどへの渡航には当人の意向にそうよう、助力を惜しまないこと、などである。

 イシュルは先日サロモンの書簡を受け取り、その御礼に今日、王宮に参上したのだった。謁見は聖王家にとっても非公式の、私的なもので、中海へ向け出発する別れの挨拶も兼ねていた。

 サロモンはいつぞやのように、イシュルを謁見の間奥の王家専用控室に招き、ニッツアも同席させ茶菓を振る舞いしばし歓談した。

「父の遺した偽書だが、ほかの書物も目を通しておきたいだろう? 中海から帰ったらかならず聖都に立ち寄るように。そうしたら残りの書物もすべて、きみに最優先で好きなだけ閲覧できるようにしよう」

「ええ、わかりました。ありがとうございます」

「約束だよ」

 サロモン、そして聖堂教会としても、神々への請願を果たしたイシュルにはぜひ、聖都にいの一番に立ち寄って、事の成り行きを報告してもらいたい。

 ビオナートの偽書はこれから傷んでいるものは修復し、複数の写本を制作しなければならず、イシュルに事が済んだら聖都に立ち寄ってもらうよう、「古代ウルク史末巻」と「精霊神の双子」以外の書物を彼に見せるのは、それらの作業が終わってからとなった。

 イシュル自身は、残りの書物にそこまでして読まなければならないほど、強い興味があるわけではなかったが、かといってその気がまったくないわけでもなく、サロモンらの話にとりあえず合わせることにした。誰も、イシュルもあえて口に出さなかったが、生きて帰ってこられないかもしれず、その後のことを考える意味を見いだせなったのだ。

 イシュルとサロモンの会話に、ニッツアも割って入ってきた。

「お兄さま、その時はわたしもイシュルお兄さまと一緒に読ませてください」

「ああ、いいとも」

 サロモンはイシュルとニッツアの秘密をどこまで知っているのか、それともまったく知らないのか。表面上は完璧な、屈託のない笑みを浮かべニッツアに頷いた。

「……」

 イシュルも微笑みを浮かべたまま、視線を窓外へ、葉を落とした楓や樺の木、そしてくすんだ常緑樹の木立に彷徨わせた。



 

 あくる日の朝、イシュルが目覚めるとミラたちはすでに起床し朝食も終え、邸内の北西にある小城塞の方にいた。

 遅れて顔を出すと皆、城塔の前の曲輪に当たる広場に集まり、研ぎに出していた刀剣類の仕上がりを確認していた。リフィアとロミールが長剣を、セリアとノクタが細身の片手剣、ニナが護身用の短剣の刃先を見ていた。ルシアの姿は見えず、ミラはシャルカを伴い、にこにこと彼らを見回していた。彼女は金の魔導師で、得物を研ぎに出す必要はなかった。

「イシュルさま」

 ミラがイシュルに気づいて寄ってきた。

「おはよう」

 イシュルは欠伸を噛み殺して挨拶すると言った。

「研ぎに出していたの、上がってきたんだ? いよいよだね」

 出発は明後日に迫っている。

「ええ。イシュルさまは今度も、父君の形見の剣だけをお持ちになるのね」

「ああ、剣術は不得手だし。……いざとなったら必殺の剣も出せるしな」

 イシュルは必殺の剣、のところは声をひそめて言った。

 “父君の形見の剣”とは、ブリガール男爵に殺された父エルスが生前、イシュルに与えた片手剣のことだ。その剣を研ぎに出さないのは、クシムで赤帝龍とはじめて戦った時、刃が折れてしまったからだ。イシュルは剣を新しくしつらえることはせず、父の形見の折れた剣をそのまま使っていた。

 “必殺の剣”とは風神の御業、“風の剣”のことである。斬れぬものはない、壮大な風魔法で以前は簡単に使える技ではなかったが、五つの魔法具を揃えてからは、まだ実際に試していないもののより簡単に、早く繰り出せるようになっているのが感覚的にわかっていた。

 五つの魔法具を合わせ自らの、独自の世界を構築する要領で魔法を使えば、できないことはほぼないに等しく、限定的にだが主神ヘレスの力そのものを行使できるのだった。

「……剣さま」

 ミラと話していると、耳許でフェデリカの声がした。

「東屋(あずまや)の方で、例の姫君がお見えです」

「ああ」

 イシュルは小さく頷くとミラに目配せして言った。

「ニッツアが来たらしい。ちょっと行ってくる」

 ミラが「かしこまりました。いってらっしゃいませ」と会釈して言うのを横目に、イシュルは小城から出て庭園を横切り、東側の樹々に囲まれた東屋へ向かった。

 途中、土精のウルーラが張ったと思われる、土系統の弱い結界に足を踏み入れたのがわかった。今は昼前、人目の多い時間帯だ。ウルーラは東屋に部外者が近づかないよう、周囲に結界を張ったのだろう。

 イシュルがフェデリカを伴い東屋に近づくと、ニッツアが外に出てきた。同時に、彼女の両脇にレナとネーフの双子の精霊が姿を現した。

 すると、樹々の間の空中にイシュルの召喚した火精のリンドーラヌス、続いてその木陰にウルーラが姿を見せた。ちょうどニッツアと双子の精霊を取り囲むような形になった。

「ごきげんよう、イシュルお兄さま。昨日は楽しかったですわ」

 ニッツアを腰を少し下げ、それらしく品をつくって言った。

「やあ、こんな時間にごめんな。ニッツア」

 イシュルは笑顔をつくって言った。

「いえ、どうぞおかまいなく。それで、お話とはなんでしょう?」

 この日、ニッツアを呼び出したのはイシュルの方だった。聖都を去る前に、彼女にどうしても言いたいことがあったのだ。

 ……精霊神と話したことについて。

「検分の日、主神の間で俺は精霊神とやり合ったわけだが、そこでもう一度、きみに念押ししておこうと思ってな」

「先日の件についてですか」

「そうだ」

 ニッツアの言った“先日の件”とは、彼女が同じ主神の間で盗んだ書物やその複製を元に戻す時、立ち会った時に話したことだ。

 ニッツアは精霊神とほぼ同じ、五つの魔法具の力に加え俺自身の抱える秘密を探り、主神であるヘレスでさえ知り得ないこの世界の理(ことわり)の外にある何かを掴もう、と考えている節があった。その疑いが濃いのだ。

 一方で、彼女が精霊神の双子と契約したこと、サロモンがあの時、なぜか俺にそのスクロールを読ませたこと、そこには間違いなくアプロシウスの力が介在していた。

 ニッツアが精霊神に利用され、彼女は彼女で精霊神と同じ目的を持ち、似たような思考をする──彼女自身とその周囲に、これほど危険なことがあるだろうか。

 ニッツアは人並外れて賢い子だ。きちんとそのことを伝えれば、理解できる筈だ……。

「精霊神の降臨について、俺はすべてをきみの兄君にも総神官長にも、話してはいない。誰にも理解できないことを、話してもしょうがないからな」

「……」

 ニッツアは無言で頷き、先を促した。

「アプロシウスはほとんど、おまえと同じことを考えていたぞ。あいつはまさか、下剋上をねらっていたわけではないだろうが……」

「下剋上、ですか」

 ニッツアが首を捻って、めずらしく難しい顔をした。

「やつはヘレスやレーリアに何か、腹に一物抱えているようだった。だが、あいつは神さまだからな、別にどうでもいいんだ。人間どもの知ったことではないからな。しかしおまえは違う。どんなに優れていようと何だろうと、所詮は人間だ。精霊神と同じものを目指し、彼の神にこれ以上近づくようなことがあれば、この先間違いなく破滅しかないぞ」

 イシュルは視線鋭く、「気をつけろ」と言った。

「わかりましたわ」

 ニッツアは神妙というべきか、いつもの表情を消して少し大きめにひとつ、頷いた。

 レナとネーフはその間まったく、何の表情も見せなった。

「俺の忠告はこれで終わりだ」

 しかし、イシュルがそう言って話を終えると、彼らは急に態度を変えイシュルにお返しとばかり、露骨に警告、いや脅しつけてきた。

「おまえがアプロシウスさまに物申すなど、おこがましい──」

「所詮、あなたも主神につくられた有象無象、塵芥(ちりあくた)に過ぎないのよ」

 いつものごとく、露骨に罵るように言ってきたネーフに対し、めずらしくレナも口出ししてきた。

「やめなさい、ふたりとも」

 ニッツアが厳しく叱咤する。

「ふふ」

 イシュルはかまわず、双子に向かって侮蔑もあらわに笑って言った。

「いや。おまえたちだって知っているんだろう? 主神ヘレスにこの世界を、生きとし生けるものすべてを生み出すよう命じた、正体不明の神さまがいるそうじゃないか。それならヘレスも、ほかの神々もみな、俺たちとたいした差はないんじゃないか?」

 ……思わず、笑いが大きくなる。

 ヘレスだって、その神につくられた存在に過ぎないのではないか……。

 それはかつて赤帝龍から聞いた話、名もなき、名も知れぬ神、のことだ。総神官長のウルトゥーロも知っていた。

「ぐっ」

「むっ」

 レナとネーフはイシュルの言葉に、棒を飲んだような顔になって固まった。

「じゃあな、ニッツア。気をつけるんだぞ」

 イシュルは双子にかまわず、ニッツアに片手を上げると背を向け、そのまま屋敷の方へ歩いて行った。

 ……そうだ。アプロシウスは失敗したのだ。やつも名もなき神のことは知っていたろうに、俺からその話を引き出すところまで、迫ることができなかったのだ。

 やつはこの世界の矛盾に、不合理に心を囚われて、その先まで見通すことに意をはらうことをしなかった。それは精霊神が精霊神たる所以のようなものだ。それがやつの限界なのだ。

 ……これから先はどうなる? アプロシウスはまだ、俺に接触してくるだろうか。

「いや」

 ここ数日の様子をみると、その気配はなさそうだ。

 神々はみな、いつも己の思うとおりに動いているが、それでも主神ヘレスの掣肘を受けることがある。断言はできないが、俺に関するやつの役目はこれで終わったのではないだろうか。

そんな感じがする。

 俺が異世界の、この世界のものでない異物を抱えていること。その一端を、独自の魔法でこの世界に反映させてきたこと。その秘密を明らかにできなかった以上、名もなき神のことなど、とても触れることなどできはしないのだ。

 ウルーラの結界を抜けると不意に、樹々の間から屋敷の前で、こちらに向かって並び立つミラ、リフィア、ニナたちの姿が見えた。

 聞きなれた鵯(ヒヨドリ)や百舌鳥(モズ)の、盛んに鳴く声が辺りに響いた。



 その日の晩、深更にイシュルは公爵邸の、ルグーベル運河に面した船着き場に出て、契約した船商人に前もって運び入れる荷物の整理に立ち会った。

 船着き場には麻布や牛革で包まれた荷物や木箱、木樽などが積み上げられ、ロミールをはじめ屋敷の使用人が数名、積み荷の確認をしていた。

「あっ、イシュルさん。お疲れさまです」

「お疲れさま、ロミール」

 イシュルが挨拶を返し、ロミールの持つ目録を横から覗き込もうとすると、背後から船着き場に降りてくる人の気配がした。

 振り向くとランタンを掲げた男がふたり、ミラの双子の兄のルフィッツオとロメオだった。


  

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