精霊神の鏡

 

 どこまでも続く空、水。

 頭上、輝くような白雲がいっぱいに広がり、ゆっくりと流れていく。

 盤上の水面はその様子を忠実に映して一面、大きな鏡のようだ。

 なんて清々しい、美しい世界だろう。

「ははははっ」

 ……だから思わず笑いが、堪えきれずに哄笑となった。身を反らし捩って笑い続ける。

「秘密、と言ったな」

 まだ可笑しいのに、低い、刃のように鋭い声が出た。

 対する男の真っ黒の眼(まなこ)、動かない表情。

 精霊神は何も言ってこない。反応がない。

 ……このペテン師が。

 おまえが俺の“秘密”の、何を知っている?

「これはあんたの結界か」

 話をそらす。やつに合わせるつもりは毛頭ない。

 後ろを振り返るとレナとネーフの双子が消え、同じ空と雲、水面が広がっている。サロモンもウルトゥーロも、誰もいない。偽書検分の会場も、どこかに消えてしまった。

「ふむ」

 男は口髭をひねり、それから両手を広げて言った。

「何の衒(てら)いもない、見たとおりの清浄の地だ。どうかな? 気に入ってもらえたろうか」

「……そうだな、こんなに美しく開放的とは。いささか意外だが」

 わざとらしく笑みをつくり、首を横に、わずかに傾ける。

 たっぷり間を空けて言ってやった。

「しかしこの景色。ちょっと月並みかな、俺にとっては。見たことない、ってわけでもないし」

 そう、この光景は奇妙に似ている。前世で何度か目にした映像だ。あの有名な、南米の塩湖の風景にそっくりだ。もちろん、現地に行って直に見たわけではないが。

「……むっ、何だと?」

 アプロシウスはわかりやすく、露骨に怪訝な顔をした。

「そなたはまさか、以前にこのわたしの結界に囚われたことがあるというのか」

「そうじゃない」

 俺は片手を広げ、苦笑して言った。

「あんたのこの結界は、はじめてさ。だが、……そうだな。この景色がかならずしも現実とは限らない、まやかしかもしれないのなら、あの場所もまた、似たようなものだろう」

 あの絶景で有名な塩湖も、天候に恵まれないとその景色は拝めない。しかも当時、すでに観光客の急増で現地の汚染がだいぶ進んでいるという話だった。観光地ではよくあることだ。宣伝で露出される映像が、常に正確だと言い切れないのなら、この精霊神の結界とたいした違いはない。

「だから余計に、何の感慨も湧かないわけだ。足許も、本当の水面ではないしな」

「……」

 精霊神の顔が変わった。

 無言で睨みつけてくる。人形のように表情のなかった澄まし顔が、どこかに消し飛んでしまった。

「あの場所、とは何だ? そこはどこだ?」

 厳しい、詰問調の声だ。

 法服の男とは、同じ太陽神の座の盤上において、十長歩(スカル、6.5~7m)ほどの間をとって対峙している。

 これは典型的な、争闘の間合いでもあろう。

 まだ実際に武器を持ち、魔法を撃ち合うことはしていないが、精霊神の気迫のこもった声音は、そのすぐ手前まで踏み込んでくるものだった。

「それは、おまえが知る必要のないものだ」

 はっきり言った。口にした。神さまを“おまえ”呼ばわりだ。

 からだに無用な力が入らぬよう、魔力を外に漏らさぬよう、細心の注意をはらってアプロシウスの表情を窺う。

 会話を続けなければ、即、戦いになる。あっという間に殺される可能性だってある。

「ほう、ふふ」

 精霊神は不意に緊張を解き、表情を和らげた。笑みを見せて言った。

「それだ、その話をしようと言うのだ」

 だが、目は笑っていない。その視線にはまだ、力が込められている。

「知る必要がないなどと決めつけるのは、いささか拙速に過ぎるのではないか。まずはわたしの話を聞いてからにすべきだ」

 そこで笑みを深くする。

「そなたにとって、決して悪い話ではないぞ」

 ……ふう、まずは死なずにすんだか?

 ほんの少しだけ、息を吐き出す。

 アプロシウスは挑発に乗らず、激昂することもなかった。

「それはあれか、あんたの言ったこの世界のこと、ヘレスやレーリアのことについて議論しようというやつか」

 精霊神の誘いの目的は、俺の“秘密”を探ることだ。煎じ詰めればこの世界にはない、この世界の神々が持たない、新しい知見を得ることだ……と、そこまで考えてもいいだろう。

「そうだ。お互い、実りある議論を通じて各々が抱える問題や疑問を解消していく、ということだ。双方が新たな知識を得ることができる、至極有意義な対話となるだろう」

 アプロシウスは相好を崩し、ひと息間をおいて右手を広げ言った。

「これはお互いが利益を得る、損失のない取り引きだ」

「つまりは情報交換したい、ということか?」

 もちろん、こちらも知りたいことはたくさんある。だが……。

 わざとらしく、肩をすくめてみせる。

「俺の方はだが、もうヘレスを召喚する方法を探り当てたからな」

 顎先をさすりながら、さて、どうしようといったふうに考え込んでみせる。

 神々は基本、人間の心を読むことができる。だが、時と場合によってそれができないこともあるようだ。

 ……特に俺の意識の、前世に関わる部分は彼らにとっていわばブラックボックスだ。どうしてもわからない、触れないもの、くらいしか認識できない。

「そなたはただヘレスを召喚し、願いを叶えてもらってそれで終わりか? ……そうではあるまい」

 精霊神はそこで不意に、獰猛な、生々しい笑みを浮かべた。今までのどこかつくりものめいた表情を、仮面をかなぐり捨てるようにして、己の本心をさらけ出してきた。

「月神と結託し、ユーリ・オルーラに鉄仮面をつけて使嗾したのはおまえだろう。アプロシウス」

 精霊神から有意な情報を引き出すにはもちろん、あえて相手の話に乗っかることも必要だ。だが、それでも会話の主導権は渡したくない。

「ニッツアに双子の精霊を遣わし、彼女を誘導したのもおまえだろう?」

「レーリアに頼まれ、若きオルーラ大公に仮面を授けたのは確かにわたしだ」

 精霊神はまた控え目な、虚ろな笑みに変えて言った。

 何の動揺も、感情の変化も見せなくなった。

「だが、聖王家の姫君には特段の手出しはしていない」

「ほう……」

 なら、ニッツアは俺に対しアプロシウスと同じ関心を持ち、誘いをかけてきたということか。

 まったく、末怖ろしい子だ。

 だが、アプロシウスの求めているものは、一段も二段も上のものだろう。

「ユーリ・オルーラの件、レーリアに頼まれたとは? おまえの意志ではなかったのか?」

「レーリアは、わたしのほかにヴィロドにも声をかけていた。いや、彼女の依頼の要点はわたしではなく、ヴィロドの金の魔法具にあった」

 精霊神は変わらず、何の感情の起伏も見せず無表情だ。

「レーリアには明確な目的があったが、わたしはそれを知らされなかった。知りえなかった。それはおそらくヴィロドも同様であったろう」

 ヴィロドとは金神の名だ。彼(か)の神がまさか、何の目的も知らされずレーリアに言われるまま金の魔法具を差し出すことなど、有り得るだろうか。

「あんたらは、月神にただ盲従するだけの存在か。そんなものか」

「レーリアはヘレスと結託している。その目的は我々には知らされなかった。詳細を知りえなかった。気が進まなかったが、仕方なく従ったのだ。それはヴィロドも同じだったろう」

 アプロシウスは相変わらず表情がなく、動かない。まるで人形のようだ。

 ……何か、違和感が拭えない。

 禁忌か。俺に関わることで、ヘレスとレーリアだけが共有する目的があるのだ。

「我々はヘレスによって創造され、あるいは任され課せられた存在だ。だが、決して完全な主従関係にあるわけではない。我々は彼女からみな独立した、一個の存在なのだ」

 男神の顔に表情が戻ってきた。微かな笑みを浮かべ、片手を広げる。

「ただ、我々神々と主神の間にはもちろん、少なくない不文律も存在する。レーリアが西方の小国の王子に施した金の魔法具の力、わたしの仮面。その根拠のすべてを彼女から知ることは許されなかった」

 彼の、力のこもった視線が注がれる。

「それでも、あの廃王子の向かう先を見れば、その目的の一端を知ることができる」

 その口端が笑みに歪む。

「そこまで禁じられているわけではない、か」

「そうだ」

 アプロシウスは短く答え、ひとつ大きく頷いた。

 満足気な顔をした。

「そなたに接触した他の神々はどうだったかな?」

 両手を胸の前で、うごめかす。

「風神のイヴェダは、出来のいいそなたを寵愛するだけで満足しているようだが、水神フィオアは違った。わたしと同じように、彼女の今まで知らなかった水の力の根源を得ようとした」

「根源? ……か、どうかは知らないが」

 フィオアが知りたがったのは、彼女でさえ知りえなかった水に関する俺の前世の知見、概念の類いだ。根源と呼んでいいものか、そこまではわからない。

「そこだ」

 アプロシウスは両手の掌を上向け、広げて言った。

「我々が求めるそなたの秘密は、ただ我々にとって未知のものであるだけではないのだ。それはつまり根源的なものなのだ。だからそなたの隠し持つものは、我々を惹きつけてやまない」

 ……まあ、神々が格別の興味を持つというのなら、そうかもしれないが。

「わたしが知りたいのはヘレスとレーリア、あるいはヘレスだけが知る目的、そなたに関わる秘密だ。わたしが知ることを許されなかった、レーリアの要求に抗えなかったからと言って、その理由のすべてを知ることを禁じられているわけではあるまい」

 精霊神はそこで右手を己が胸にやり、苦し気に掻きむしった。

「いや、たとえそれが禁忌であろうと、触れれば死に至るようなものであろうと、決して諦めることはできぬのだ」

 アプロシウスは視線を遠くにやり、叫ぶように言った。

 何かの悲劇の、主人公のようであった。

「あんたらはこの俺の頭のなかの、胸の奥にあるものを見ることも、触れることもできないんだろう? それでも知りたいというのか」

 笑いが浮かぶ。自分が嘲笑しているのがわかる。

「そうだ、そうだとも!」

 アプロシウスは右手を胸元から顔の前に掲げ、力を込めゆっくりと握りしめた。

「ふふ」

 思わず笑いが声に出た。

 ……何だ? このわざとらしい三文芝居は。胡散臭さ満点じゃないか、この詐欺師め。

 周囲のこの、開放的な美しい世界。時おり本物の、清々しい微風さえ吹いてくるのだ。

 それなのに、黒い法服の男は空疎で欺瞞に満ちている。

 面と向かって話しはじめた時に見せた、あの生々しい獰猛な印象は何だったのか。あれもまた、演技に過ぎなかったのか。

 彼ら神々の行動制限──禁則に触れたのが、今のこの精霊神の虚ろな状態を招いたのだろうか。

「まだあの時の、ピピン大公の方がらしかったぞ、アプロシウス。今のあんたはスカスカだ」

「……そうだ。残念だが、そなたの指摘するとおり、わたしは本当はこんなにも虚ろで、作為的な存在なのだ」

「精霊を統べる王、自然を彩なす神であるのに、皮肉なものだな」

 ヘレスがそのように望んで生み出した、ということなのか。これはちょっと、気になる話だ……。

「ふふ」

 今度は精霊神が肩をすくめ、小声で笑った。

「だからだ。自然を、生けるものの営みを彩なし、精霊どもを操るが故に、わたし自身は空っぽなのだ。だからピピンに化けたように何者か、何事かに仮託するのだ」

 アプロシウスはまた両手を広げ、劇中の人物のように振る舞いはじめた。

 ……この男が見たとおりの存在なら、空虚で作為的だからこそ、人間のようでいて人間に見えない所以でもある、とも言えるか。

「そなたは皮肉、と言ったな? まったく……」

 精霊神の顔が、愉悦に歪んでいく。

「そう……だからこそ、わたしは皮肉を好むのだ。矛盾、撞着、背反、不合理、葛藤──それらはわたしが愛して止まないもの。それこそが自然の摂理なのだ」

「……」

 ふむ、今度は自然の摂理、ときたか。そんな馬鹿な。

 だが、矛盾、葛藤とは確かに人間の本質ではある……。

「そなたを観察するに、わたしはより強く実感せざるを得ないのだ。そなたの抱える葛藤、苦悩が、そなたが同じ内包する不可知の領域と重なる時、わたしの愉悦は絶頂に達する」

 どこか虚ろだったアプロシウスの顔が、再び人間らしい熱気に満ちていく。

「知性と感性、理性と感情の間には常に矛盾が生じるものだ。それは人間だけのことではない。神も精霊も例外ではない。この世界はヘレスによって生み出されたというに、ちっとも理想的でない」

「まったく、この世は不条理だ。人生は理不尽そのものだ」

 気持ちよさげに演説するアプロシウスに、合いの手を入れてやる。この男の演劇は、まだ続いている。

 ……そんなことを今さら、なぜこの場で言わないといけない? まあ、精霊神は世界の不合理を担う神、ということなのだろうから、彼の長舌も仕方がないか。

「そうだ! ゆえにわたしは皮肉を、その諧謔を愛し、人間どもも神々さえも風刺する。それは、神と人、魔物たち、つまりはこの大いなる自然に枷をはめられた我々の、本能のようなものなのだ」

「そうか。神々も枷をはめられているのか」

「そうだとも! ……皮肉は常に、大なり小なりの悪意をともなう。だから生命の精髄を成す精霊は、欺騙や使嗾を好むのだ」

 男は何を考えているのか、歪んだ笑みを大きくする。

「そなたの秘密はそなたの抱えるこの世の苦しみ、不合理と直結する。だからこそその秘密を、知らずにはいられないのだ」

 精霊神は両手を広げた。

「それで──」

 どうする? それで終わりか? と、最後まで言えなかった。

 アプロシウスが広げた両手の先、悠然と浮かんでいた白雲が、水色の空のなだらかな諧調が、急激に揺らぎ、高速で水平に流れ周囲を回転しはじめた。

 後方、頭上に何者か動く気配がして、左右同時に後ろから肩を押さえられ、腕を取られて捻じり上げられた。たまらず水の上に膝をついた。レナとネーフの仕業だった。

 また精霊神の双子が現れたのだ。

 ……これでもニッツアに、何の干渉もしてないというのか。この嘘つきが。

 回転する視界は思考を著しく減衰させ、双子を躱(かわ)すことができなかった。

 どうでもいいような感慨が心のうちを去来し、それを何もできずにただ見ている自分がいた。

「……」

 レナとネーフは無言で、人形にように何の感情も見せない。

「もういいだろう。これ以上そなたと話しても先に進まない、意味がない。残念だが、少々手荒にいかせてもらおう」

 精霊神はわずかに肩をすくめると、首を何度か横に振った。そして、ゆっくりと近づきながら言った。

「この場は俗に太陽神の座というが、実はヘレスだけではない、我々すべての神々にひとしく力を与えてくれる場なのだ。そなたは知っていたか」

「だろうな」

 ……顔を上げられない。

 まだ酩酊感が拭えない。呆然としている。魔封陣に似て、確かに魔力の立ち上がりが悪い。うまくいかない。

 膝頭に水がしみ込んでくる。水面に暗く影になった自分の姿が、上から押さえつける双子の影が映っている。

 視線だけ上向けても、精霊神の首から下しか見えない。やつがどんな顔をしているか、わからない。

「そなたの力は知っている。無理に使えば、この大切な石盤も吹っ飛んでしまうぞ」

「ああ」

 俯いたまま、答える。

 ……こいつの結界、新魔法を使えば壊すこと自体は簡単だろう。だが力づくでやれば、周囲に少なくない被害が出るのも確かだ。死人も出るかもしれない。何より、この魔法円を傷つけるわけにはいかない。そして主神の間は、ヘレス以外の神々にも、アプロシウスにもさらなる力を与える場なのだ。イヴェダも、召喚されたマレフィオアも、大きな力を使えたではないか。

 つまりこれは俺にとって、二重の罠ということになる。

「さて、顔をあげよ。そなたの秘密、己の言葉でしかと聞かせてもらおうか」

 近づいてくる精霊神の顔が、その影が視界に入ってくる。明灰色に渦巻く空を背景に、黒く蠢く人影が水面に映る。

「いやだね」

 もちろん拒否だ。俺の前世のことは、その秘密の核心は、最後まで口にすべきではない。たとえ心のうちを読まれようと、声に出して、音にして聞かれてはならない。

 言の葉にすれば、それは何かを引き起こすかもしれない。

 そは呪文なり、なのだ。その資格のある者、能力のある者が口に出せば、条件が揃えば、それは新たな魔法の、呪文になるかもしれない……。

「わたしが、そなたの秘密をどれほど知りたいか。あれだけ話して聞かせたのにそれが答えか」

 顔を上げてはいけない。やつの目を見てはならない。

 見れば化かされる。 

「まったく、神さまとは勝手なもんだな」

 男の影がさらに近づく。法服の黒い裾が直に視界に入ってきた。

「言わずもがな、だな。ならば仕方がない。強引にいかせてもらおう」

 黒い影が手を伸ばす。俺の頭に触れようとしてくる。

 双子は変わらず、何の反応もない。

 水面に映る、単調な灰色の空間。高速で回転している。止まって見えるのは逆光になった自分の影と双子、そして精霊神だけだ。空間は狭まり、無限の空は消えてしまった。

「俺に触れてみろ、死ぬかもしれないぞ」

「構わぬ。先ほど言ったではないか。それでも知りたいのだ」

 ……それなら仕方ない。

 何も、手がないわけじゃない。

 アプロシウスが俺の頭に触れる。

 その瞬間。

 薄く張った水面にほんの少し、新魔法を使った。

 風の魔力のようにさざ波を起こして、手を伸ばしたアプロシウスの影を、双子の影を、自分の影を崩す。

 そして回転する空のように、ぐるぐるかき回した。

 混ざり合い、ひとつに重なる影。黒い筋、黒い塊。

 ただひとつ残された鏡が壊れた。

「き、貴様!」

 精霊神の結界が天頂から、地平から崩れ、剝がれ落ちていく。

 明るい灰色の空が消え、水面が消え、レナとネーフもまた消えていく。

 五つの魔法具、新魔法にさえ影響を及ぼす強力な結界。ただ一点、弱点を突けばもろくも崩れ去る無力な結界。

「なるほどこの矛盾、確かに皮肉だ」

 アプロシウスは手を引っ込め、滑るように後ろへ退いた。

 双子が完全に消え、自由になった。ゆっくり立ち上がる。

 薄っすら、鈍く光る石盤。背後に、暗く沈む石壁。頭上を覆う帆布。その隙間から降り注ぐ外光。

 現実世界に、主神の間に戻ってきた。 

「残念。そなたの秘密の一端でも明かせば、これからためになることも教えてやれたろうに」

 精霊神はだがまったく動揺を見せず、元の場所に悠然と立っている。

「それはさっきの、取り引きの話か? ヘレスを召喚した後どうするか、それは俺自身が決めることだ。あんたの指図は受けない。助言も必要ない」

「ふん、ヘレスより先にそなたの秘密を知れば、面白かったのにな」

 アプロシウスは独り言のように言い、微かに笑みを浮かべた。何事もなかったように、登場した時と同じ悠然と構えている。

 ……俺の秘密を、あれほど切望していたのにこの豹変ぶりは何だ?

 この詐欺師が。

「知ったところでどうする? あんたに何ができる?」

「知ること自体が重要なのだ。世界の極点に偏在する我が身にとって、それを無視することはできない」

 ……この言葉遣い。この言語感覚。この世界の人間よりも前世の、俺の方に似ていないか?

 と、頭上からまばらに降り注ぐ陽光がわずかにかげり、乱れた。

 何かが空を横切ったか。周囲のさまざまな物の動き、気配が戻ってくる。

「……!」

 背後から誰かの叫び声がして、同時に何者か、兇悪な殺気の塊が石盤の上に降り立った。

 白く発光する大きな獣、獅子のからだに龍の頭、猛禽類の羽を生やしている。

 サロモンの従えるキメラの精霊、グレゴーラだった。

 かつて、王城の太陽神の塔で彼が自身の魔剣から召喚した凶暴な幻獣だ。

「グククゥッ……」

 グレゴーラは精霊神を見、続いて視線を上に向けると、低い、奇妙な唸り声を発した。

「ふむ、聖王家の使い魔か」

 アプロシウスは何度目か、口髭を捩じると言った。

「そろそろ頃合いか。残念だがこれで仕舞いにするしかないようだ。やはり無理強いは厳しかったか」

 アプロシウスも上を見上げる。

「周りも騒々しくなってきた。わたしは退散させてもらう」

 そして最後にこちらを一瞥。

「イシュルっ!」

 と、後ろからサロモンの叫声。

「待たれよ、サロモン殿!」

 これはウルトゥーロの声だ。

「むっ」

 純白のマントを翻し、軽やかな身のこなしでサロモンが盤上に飛び上がってきた。

 グレゴーラの反対側に立った。

 ……いや、まだ何だかおかしい。時間の進み方が変だ。グレゴーラが主神の間に現れてから、実は瞬きする間ほども時間が経っていないのか。

「貴公は、誰だ?」

「……」

 アプロシウスを見て露骨に訝しむサロモン。

 精霊神は薄っすら笑うと音もなく、背景の暗闇に融けるように消えた。

 あまりに呆気なく、何の跡も残さず消え去った。

「まさか……、あの男は」

 サロモンが顔を向ける。

 ……では南海でまた、会おう……。

 同時に、心のうちに精霊神の声が響いた。

 ……レーリアに気をつけろ。あれはそなたの、敵だ……。

 アプロシウスの声が遠くなっていく。

 俺の、敵。

 その言葉を最後に、精霊神は完全に気配を消した。どこか遠くへ、去って行った。

「イシュル。あれはまさか、精霊神か!」

 サロモンの驚愕した声。

 ……わかってる。

 やはりレーリアが立ち塞がるのだ。

「そんなこと、ずっと前から知っていたさ」

 思わず小声で、呟いた。



 上から降り注ぐ、光の束。

 またそれが乱れる。何者かが大聖堂の上を横切ったのだ。

 ……急速に感覚が、周りのすべてが戻ってくる。

 阿鼻叫喚。人々の叫び声、精霊たちの動揺。

 フェデリカが頭上、空中にいる。公爵邸にいる筈のリンも近くに来ている。ニナが魔法の杖をかまえ、誰かと話している。多くの神官、王家の魔導師たちが叫び、彼らの契約精霊が騒めき、無数の魔法が起こり、消えている。

 主神の間の周囲は混乱状態にあった。

「イシュルっ!」

 ……久しぶりに見る、サロモンの真剣な顔だ。

 だが、今は彼の相手をしている暇はない。

「陛下は御身とウルトゥーロさまを。俺は外を見てきます」

 真上を指差し、返事を待たずに飛び上がる。

 帆布の切れ目を突き抜け、大聖堂の直上に出た。

 外は好天、眩しさに目を細める。

「剣さまっ!」

 足下の、空中からフェデリカの声。

 見ると彼女は、建築中の大聖堂に向かって風獄陣を張ろうとしていた。同時に、右手を前方、東側へ向けまた別の風の魔力を放射していた。

 大聖堂の内外には風、火、土、無系統の複数の精霊や魔導師らが、フェデリカの風獄陣に制圧されていた。直ちに圧し潰すようなものではなく、その場から動けない程度の魔力に抑えられていたが、その分彼らの抵抗も止まず、結界としては不安定な状態が続いていた。

 そして、彼女が東に向かって放出している魔力の先。ちょうど聖パタンデール館の上空に、この騒動の発端となった異変が起きていた。

 見れば黒インクをぶちまけたような、漆黒のベールが東側の空を覆っている。

 黒尖晶の、魔封の結界だった。

 魔封陣はだが、フェデリカの放つ風の魔力に押され、西側へ展開できないでいる。北側からは公爵邸から出張ってきたリンが火魔法を放ち、側方から魔封陣を焼こうとしていた。

 火精は結界の外にいる。彼女ならば容易に魔封結界を焼きつくすことができる筈だが、一方で王城から飛来し接近しつつある精霊を防ぐために、火壁の結界を半円状に展開していた。

 火壁の規模は長大で、公爵邸の北から王城の南端にまで達していた。その結界は今は懐かしい、かつてクシムで最初に赤帝龍と戦った時、やつが放った神の御業、火神バルへルの炎環結界によく似ていた。

「あれの、簡易小型版ってところか」

 さすが大精霊といったところだが、リンもフェデリカと同様、二方向に魔力を展開して力が分散し、事態を収めることができないでいた。

 力まかせにやれば建物や人に被害が及ぶ。一方、王家や教会の魔導師の介入は阻止したい。戦闘の邪魔になるだけだし、面が割れる前に襲撃者を処分しなければならない。

「八方塞がりか。しかし、昼間に魔封結界とはな」

 大胆なやり口だが、“髭”も俺たちも何か重要なものを見落としていたらしい。

「剣さま、早く……」

 フェデリカが催促してくる。リンもあまり余裕はなさそうだが、彼女はまだ何も言ってこない。

「ああ、もうちょっと待て」

 まだ状況を把握しきれていない。大聖堂の南側にある、例の廃神殿がどうなっているか気になる。

 意識を南方、遠くへ向ける。

 特に不味そうな事態は起きていないようだが、下方、地面の方から微かなウルーラの気配が伝わってくる。

 彼女が反応した。

 ……杖さま……。

 瞬間、彼女の小さな声が心のうちに聞こえた。

 ……もう少し、待って……。

 言葉になったのはそれだけだ。彼女は地中に潜り、全速でこちらに向かっている。言葉にならなくとも、彼女の考えていることが感じとれる。詳しくはわからないが廃神殿でも戦闘があり、それを素早く片付けるとリフィアやミラたちも各々、こちらへ急行しているようだ。

 彼女たちが無事なら……。

「後はこいつを始末するだけだ」

 正面を向くと変わらず、東の空をなかば覆うように漆黒の闇が広がっている。魔封結界はアメーバが増殖するように無気味に蠢き、拡大しようとするが、フェデリカとリンが魔力を当てて防ぎ、今は互いが拮抗いている状態だ。

「おまえたちは引け」

 風精と火精に、闇の結界への攻撃を止めるよう命じる。

 己の右手を上げ、拳を開く。掌を闇のベールに向けた。

 ……不審がある。

 全力でないとはいえ、ふたりの大精霊からの攻撃に堪えるとは。

 見たところ悪霊、つまり闇系統の精霊も、黒尖晶の使い手も見当たらない。彼らの気配は感じない。それならこの魔法の源泉は何か。

 人間でも精霊でもないとしたら、魔法具だ。設置型の、魔法陣の類いだ。

「……」

 新魔法の力で闇の結界を抑え込み、注意を下に、地中に向ける。

 ……ん? あったか?

 大聖堂やパタンデール館の南側の大広場の地下、やや東寄りの隅の方だ。

 魔力の気配を感じる。視認できない線状の魔力が空中へ、花が咲くように伸張している。その先に、上空に闇の結界が広がっていた。

 地下といえば、王城や大聖堂一帯は多くの秘密の通路や隠し部屋が点在し、場所によっては迷路のようになっていて、今は忘れ去られたものもあってすべてを把握する者はいない。

「あれを破壊する」

 魔力の元を断てば空中の魔封結界も難なく消滅するだろう。

 掌を下へ向ける。

「魔法陣はわたしがやります」

 突如、ウルーラの肉声が耳許に聞こえた。彼女はすぐ近くまで来ている。

「杖さまは先に結界の方を」

 ……先に? ほう。

「わかった」

 おろした右手を再び闇のベールに向け、新魔法を風魔法のように放った。

 闇の結界は、血煙のように黒い粒子を撒き散らしながら細切れになり、背景の青空に吸い込まれるようにして消滅した。

 五元素の魔力を、前世の知識や感覚を用いて統合した新魔法。その魔力によって、魔封結界を粉砕しながら隣接する異界、精霊界へ吹き飛ばしたのだった。

 と、直後に地下の魔法陣から新たな闇の魔力が噴き上がる。魔法陣はまだ生きている。どこかに、起動させている魔法使いがいるのだ。

 それはやや北、パタンデールの南端の真下あたり……。

 瞬間。

 地下の魔法陣の辺りに速く、鋭い爆煙が上がった。ウルーラだ。

 と、次に頭上、北方から見覚えのある金の魔力──複数の鉄球らしきものが高速で、少し離れたパタンデールの南端の地面に着弾した。

 空気を震わす爆音が鳴り響くなか、同じ北の方から今度は何者か、地上を高速で突っ込んでくる。

 その者は銀色に煌めく残像を残して、金魔法の攻撃で裂けた石畳の穴へ飛び込んだ。すると一瞬の間を起き、重い音が響いて再び土煙が上がった。ぶるぶると鼓膜に響く爆音と同時に、地面から直立する派手な魔力が立ち昇った。

 リフィアの、強烈な武神の魔力だった。彼女がミラの空けた窪みに突入し、地下に潜んで闇の魔法陣を起動していた魔法使いを攻撃したのだ。

 ……あの勢いなら、敵の遺体は粉々になって周りの土砂と区別がつかないだろう。

 ウルーラの攻撃といい、完全に証拠を残さないやり口だ。よくチームワークがとれている。

「これで終わりだな」

 過激派のおそらく神官だろう、いつからあったのか地下に隠された罠の存在を知っている者がいたのだ。

「フェデリカ、リン、結界を解け。それからしばらく隠れていろ」

「はい」

「かしこまりました」

 ふたりが返事をするとすぐ結界が消え、気配もなくなった。

 ふと水の魔力を感じて下を見ると、リンが魔封結界を燃やした残り火が落下し、ところどころ建物に燃え移っているのを、ニナの精霊のエルリーナがこまめに消して回っていた。

 フェデリカらの結界で動けずにいた神官兵や騎士、魔導師らも大聖堂の方へ歩き出している。

「イシュルさまっ!」

 シャルカの肩に担がれたミラが横から近寄って声をかけてきた。

 聖パタンデール館の前にはいつの間にかリフィアが外に出ていて、こちらに手を振っていた。

 先ほどの攻撃に使ったのだろう、細身の長剣をぶら下げている。

「さて、これからが大変だな」

 主神の間に戻って、サロモンやウルトゥーロにこの異変の説明をしなければならない。もちろん嘘も織り交ぜ、精霊神アプロシウスのことも。



 一時の争乱が収まると、晴れた空が妙に広く感じられた。

「説明というより弁明だな。さて、どうやってごまかすか……」

 ゆっくりと地上に向かって降下しながら、イシュルは深く溜息を吐いた。

「おつかれさまです、イシュルさま。検分会の首尾はいかがでした?」

「おーい、イシュル~」

 すぐ横からミラの明るい声、下からはリフィアの暢気な声。

 たまらず、苦笑が浮かんだ。

 

 

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