そは呪文なり 7

 

 ニッツアは一瞬、唇の両端を異様なほど引き上げ破顔した。

「本当によろしいのですか。今はわたしの精霊が強力な結界を張っていて、邪魔する者は誰もいません。イシュルお兄さまはこの主神の間を自由に使えるのです。何をしても、誰にも知られることはありません」

「おまえ以外にはな」

 決して子どもが見せるような表情ではない。

 その揶揄するような眸の色を、よく吟味するように見つめる。

「ネーフとレナに周りをしっかり守らせます。イシュルお兄さまは、何の憂いもなく主神召喚の儀式に集中できるのです」

 ニッツアは完全に笑みを消し、平素の表情に戻った。だがその眸の輝きは変わらない。

 ……この少女の言いたいことは、つまりそれだ。この場所、この状況。俺の宿願を叶えるのに、これほど恵まれた環境があるか? と問いかけているのだ。

「ヒメノス王子はなぜ破滅したんだ? ただ単に、五つの魔法具を集めることができなかったからかな?」

 俺はまだこの抄本を読んでいないし、肝心のヒメノスの最後は定説がなくはっきりしない。

 伝承の類いなら多数の文献もあり、通説となっているのは王位を得ようと五つの魔法具を各々の神殿から簒奪する過程で、敵対する他の王子や王弟派の反発はもちろん、肝心の味方からも造反を招き闇討ちされたとするものだ。ちなみにヒメノスが討たれたのは、風の魔法具を得るべく自軍を率いて風の主神殿を訪れた時だったとされる。それはおそらく訪問などと呼べるようなものではなく、攻撃や包囲、侵入して、つまり風の魔法具を強奪するため無理に押し入ったのであろう。そこを風の神官や、裏切った味方の者の返り討ちあったのではないか。

 しかしそれは、あくまで“通説”であり、本当にあったことと断定はできない。

「イシュルお兄さまのご懸念は、よくわかります」

 レナの灯す無彩色の明かりの中心に、ニッツアの顔がある。

 彼女は上目づかいにじっと見つめてきた。

「ヒメノス王子もやはり、五つの魔法具をすべて手にしていたのではないでしょうか。彼はヘレスをはじめとする神々への請願を、そのやり方を間違えたのではないでしょうか」

 ニッツアの眸が迫ってくる。しつこく食い下がってくる。

「だから王子は、志なかばにして滅んだのかもしれません」

 彼女は手のひらを上にして伸ばし、誘うような仕草をした。

「彼の王子には時間がなかった。国は乱れ、敵は多く、少しでも早くヘレスの祝福を受ける必要があった。中海へ船出する余裕などなかった」

 その眸に俺の顔が映っている。レナの魔法の灯りが、妙に眩しい。

「王子は賭けたのです。主神殿のヘレスの座に」

 祭政一致の王国であった古代ウルクの王城とは、つまり主神殿でもあった。ヒメノスは当時、その城にいた。

「……」

 彼女の眸の俺の顔が、不意に笑う。冷たい笑みだ。

「わたしは、ヒメノス王子の判断は間違っていなかったと思います」

 ニッツアは、そこまで言ってのけた。

「ヒメノスは破滅したのにか?」

 言ってから気づく。そうか、そういうことか。

「おまえ、ただ主神召喚を、俺の請願を間近で見たいだけじゃないな」

 胸の奥を、冷たいものがうごめく。

「俺を使ってそれが成功するか、ヒメノスの破滅がどうだったか、確かめたかったのか」

 ニッツアの目的にはまだ先があった。彼女の遊びは、ただその光景を見るだけではなかった。ヒメノスの故事と比較し、その実現可能性を探ることにあったのだ。

 もしかしたら、わたしにもできるかもしれないと……。

「うふふ」

 ニッツアはそこで目をそらすと、たまらないというふうに笑い声を立てた。

 あの悪戯な顔をして、再び視線を向けてきた。

「それは違います。……考えすぎですわ。イシュルお兄さまは特別なのです。ヒメノス王子など比較になりません」

 また、その眸だ。

 俺の引きつった顔が映り込む。

「イシュルお兄さまは、金の魔法具を持つユーリ・オルーラに勝ち、あの赤帝龍さえ滅ぼしました。彼の王子に、同じことができたでしょうか」

 ニッツアの唇がこれでもかと、大きく弧を描いた。

「わたしは、イシュルお兄さまの真の力を見たいのです。五つの魔法具を集め得た力を、人智を越えた力を、神々にそこまで愛される所以を」

 と、ニッツアはそこまで言うと不意に表情を消し、力ない声で言った。

「わたしは中海の果て、南海の島まで行くことはできませんから」

 その眸から光が消え、俺の顔も薄く陰る。

 彼女のなかば独白は、そこで突然終わりを告げた。

 ……ニッツアが知りたかったのは、俺の、あの秘密に関わることだったのか?

 なるほど。だがおまえは絶対、それを手にすることはできないぞ。

 俺の前世の記憶は、神々でさえ触れられない……。

「俺が神々に愛されていると、おまえはそう言ったな」

 だとしても、この少女の願いを見過ごすことはできない。

 理解することさえできないものを、どうして手に入れられようか。

 どんなに求めようと、その先にあるのはヒメノスと同じ破滅だけだ。

「この主神の間で、風神イヴェダの祝福を受けたのは確かだ。だが、俺は決して他の神々からも祝福を受けているわけではないぞ」

 ああ、俺は今、とても恐ろしい顔をしているに違いない。子どもに向けるような顔じゃない。

「おまえは俺がヘレスを前にして、ただ請願するだけだと思ったか」

「……っ!」

 ニッツアの様子が、劇的に変わった。その顔にはじめて恐怖が浮かび上がる。

「俺の宿願は神々にただ縋(すが)るものではないぞ。……ふふ、はははっ」

 思わず哄笑する。大きく仰け反る。

 笑わずにいられるものか。

「あ、あなたさまは……」

 ニッツアの、曇った揺れる眸。

「もし俺がここであの聖句を唱えたら、今度は大塔が吹っ飛ぶだけでは済むまい。王都すべてが消し飛ぶかもしれないぞ」

 ……父と母と、弟と。メリリャやベルシュ村の人々。

 俺の願いは彼らの再生ではない。彼らが死んだ理由だ。なぜ、俺の愛しい人たちはあのように命を奪われなければならなかった?

 俺のせいではないのか? 転生者の俺の運命に、巻き込まれてしまったのではないのか。

 ヘレスよ、レーリアよ。この世を創り、運命を司る神々よ。

 おまえたちはなぜそれをした? なぜ俺を選んだ? なぜ俺につきまとう?

「……イシュルお兄さま」

 かすれた、小さな声。少女の、子どもの声だ。

 でも、俺は容赦しない。引くことはできないのだ。

「言ったよな? 俺とおまえの望むものは違う。たとえ、ヒメノスにはなかった神の恩寵が俺にあったとしても、それは決して俺の望んだものじゃない」

 ──俺の秘密を、俺の求めるものを。

 誰にも、明かすわけにはいかない。

「それは、おまえが知る必要のないものだ」

 ニッツアは凍ったように動かない。双子の精霊も気配を消している。

 俺は冷酷に、断言する。

「遊びはこれでおしまいだ。おまえは引け。もうこれ以上、俺に関わるな」

 ……立ち入るな。

 心の奥底で、呻く。

 視線をニッツアからレナに、頭上のネーフへ向ける。

 そしてもう一度、ニッツアを見る。

 ……世界創生の、聖句。この少女はウルク王朝史末巻を読んで、それに気づいたのだ。俺自身の秘密に触れる寸前まで、辿り着いたのだ。


 我想う、天地あれと

 故に天地成り、されば光と影を賜う


「そは呪文なり」

 ニッツアの、呆然とした顔。

「ヘレスと俺以外、万人にとってそれはただ聖典の一節に過ぎない。ならば所詮、おまえとは無縁のことなのだ」



 複雑に足場の組まれた建築途中の大塔の影。

 そこから飛び出し、夜空を駆け上がる。星々が薄雲に霞んで見える。

 眼下に広がる市街は暗く重く、深い眠りについている。

 南西、一里半(スカール、約1km)にアデール聖堂がある。アデリアーヌの気配はするが、静かで人間のように眠っているようだ。

「剣さま」

 視界の端を、ほんのわずかに風の魔力が煌めく。

 見張りについていたフェデリカが姿を見せた。

「廃神殿の方は? 何か動きがあったか」

「いいえ。残念ながら」

「ふむ」

 視線を右方へ、南の廃神殿の方へ向ける。張りつかせているウルーラからも、特段の反応はない。

「あの連絡役の元神官の方は?」

「そちらも動きはないようです」

 商家の別宅に隠棲する元神官にはエバンの、“髭”の者たちが見張っている。

「そうか」

 ……これで、今晩に偽書の差し替えを行う情報を、彼らが入手していなかったことが、ほぼ確実になった。

「ニッツアのことだから、やつらにわざと漏らしているかと思ったんだがな」

 その方が、“遊び”が盛り上がるだろうに。やつらに邪魔して欲しくなかったというのなら、俺が主神の間で聖句を唱えることを相当、期待していたわけか。

「……」

 フェデリカは返事をせず、無言で大聖堂の方を見つめている。

 つられるように視線を向けるとその瞬間、何か視界が揺れるような感じがした。建築中の大塔から見えない魔力の帷が落ち、あの双子の張っていた合わせ鏡の結界が解けたのがわかった。

 かわりに、今までその存在さえ定かでなかった教会や王家の魔導師、その契約精霊や衛兵らの気配が横溢していくのが感じられた。

 大聖堂は一時の、誰も気づかない異変から常態に戻ったのだ。ニッツアと双子の精霊は後宮に帰ったのだろう。

「撤収だな。ミラたちにも帰るよう伝えてくれ」

「はい」

 フェデリカは返事すると同時、瞬時に姿を消した。消える時はまったく何も、微かな魔力の余韻さえ残さなかった。

 これからミラとリフィアは、日中訪問した宿泊先に帰り、ウルーラとフェデリカ、“髭”の者たちは通常の監視に戻ることになっている。

「俺も帰るか」

 イシュルは、手に持つウルク王国史の写本をかるく力を込めて握り直し、そのまま真下へ、聖都の街へ沈み込むように降下し、やがて己の気配を完全に闇の中に隠した。



「ふむふむ」

「もう少し、わたしにも見せてくださいませ」

 テーブルを挟んだ向かいにミラとリフィアが並んで座り、肩を寄せ頬をくっつけるようにして一冊の本を読んでいる。

 開いた本を左右から互いに片手で持ち合い、無心に見入っている。

「ふふ」

 ふたりの姿を見て、思わずくすりと笑う。

 いつ頃からだろうか、彼女らがこんなに仲良くなったのは。

 イシュルはティーカップに口をつけるとすぐソーサーに戻し、テーブルの上に置いた。

 濃い茶葉の香りが口の中いっぱいに広がる。

「ヒメノス王子の最後はやはり、風の主神殿で暗殺された、で決まりか」

「そもそも常人に、イシュルさまのように複数の神の魔法具を持つことなどできるわけがありませんわ」

「ヒメノス王子が常人だったか、そこは意見が分かれるところだが、まあ、複数の魔法具を持つことができれば、その力だけで国内外の混乱を収め、王位につくこともできたろう。わざわざ五つの魔法具すべてを集め、神々に請願する必要などなかった筈だ」

「それはどうでしょう。人の世は力だけで、何でも思いどおりになるわけではないのですから」

「ならばミラ殿はニッツア姫の、彼の王子が五つの魔法具で請願を行うことに執心し、聖教の理(ことわり)に背いて、主神殿で儀式を強行し破滅したという説に賛同するわけか」

 聖教とは今の聖堂教の、古代ウルク時代の呼称である。

「まさか、そんなことはありません」

 ミラはわざと、少しむっとした顔になって言った。

「わたしは、この史書に書かれていることは決して正しいとは言えない、軽々に信じてはいけなと、それを言いたいだけですわ」

「あ、あの、わたしにも読ませてください……」

 と、そこで横からニナのかぼそい声が聞こえてきた。

 ミラとリフィアの横に座るニナが、唇をほんの少し尖らせ物欲しそうな顔をしている。

「……」

 イシュルはまた笑みを浮かべて言った。

「ふたりとも、読む時間はいくらでもあるんだから、ニナにも貸してやれ」

「あら、ニナさん、ごめんなさい」

「ニナ殿、すまん」

 ミラもリフィアも素直に従い、ニナに古びた羊皮紙の書物を渡した。

 昨晩、イシュルが持ち帰った“古代ウルク王国史末巻抄本”の複製、写本である。

「ありがとうございます」

 ニナが写本を受け取り、開いた紙面に目を落とし読みはじめると、それを横目に見ていたリフィアがイシュルに顔を戻し言った。

「ミラ殿の言ったことは正しい。この史書に書かれていることをどこまで信じてよいか、確かなことは言えないが、かといって昨夜ニッツア姫がイシュルを誘った、主神の間で請願を行うことなど言語道断、話にならないし、やはり中海に行くべきなのだろうな」

 ウルク王国史末巻発見の件をルフレイドから聞くまでは、主神の間で“儀式”を行うことをイシュルたちも考えてはいた。だが昨晩のニッツアの誘惑で、その方法は間違いで、おそらく破滅をもたらすことになるだろうことがわかった。

 それなら王国史末巻に書かれてあったように、中海行きがほぼ確定するわけだが、イシュルには主神の間での請願を忌避し、中海行きを選択する理由がほかにあった。

「ああ、俺も中海に向かうべきだと思っている」

 イシュルが答えると、ミラは一瞬心配そうな表情を浮かべた。

「聖典のあの一節、“我想う、天地あれと~”がこの本に書かれていたところがな。なるほど、と思ったんだ」

「それは……」

 ミラに顔を向け言うと、彼女はさらに難しい顔になって言い淀んだ。

「以前話した新結界の件なんだが、あの魔法をより強く、大きく発動するのに俺が仮に唱えていた呪文が、その聖句だったんだ」

 抄本に書かれていた聖典の一節は、


 我想う、天地あれと

 故に天地成り、されば光と影を賜う


 だが現在、特に庶民向けに広く伝わっている聖句はやや違うところがあり、イシュルは独自に少し変えて、“我宣す、天地あれ 我想う、光あれ”などと心中で唱えていた。

 ただその呪文を最後まできちんと口に出して、本気で唱えたことはない。天地を揺るがすような、大規模で強力な魔法が発動することを事前に、直感的に知ることができたからだ。

 それを主神の間、太陽神の座でやれば何が起こるか。あまり考えたくない、怖ろしいことが起きるかもしれない。

「……」

「ふっ」

「……!」

 ミラとリフィアの顔に驚きの表情が広がり、読書に没頭していたニナも顔を上げた。

「そういうことですのね」

 ミラが小声で、呟くように言った。

「言っておくが、俺は決してヘレスと同じ力を得たわけじゃない。五つの魔法具を得るということは、主神に限りなく近づくことを意味するが、その器は所詮一介の人間、ヘレスに成り代わってたとえば新しく世界そのものを創造したり、なんてことはできない」

 ……だが、その“一介の人間”が、いや俺と言う“一個の人間”が前世の記憶を持つ、つまり異世界の転生者だからこそ、その力に未知の変数が生じることになる。

 太陽神ヘレスや月神レーリア、そして風神イヴェダほか、多くの神々が俺に関心を持ち、干渉してくる理由がまさにそれだ。

「この書には、“ラガンの南海百里先、かつて主神ヘレスの座す地あり”とありますが、中海沿岸のラガンから百里先にそれらしい場所、島はありません」

 ミラはイシュルの眸をひたと見つめて、言った。

「それはつまり、中海のその辺りでイシュルさまが聖句を唱えると、ヘレスさまの、本物の主神の座が現れるのではないでしょうか」

「ふむ」

 リフィアが頷き、ニナが眸を輝かせる。

「うん」

 ……まさに、ミラの言うとおりだ。

「俺もそう思う」

 イシュルもにっこりとひとつ頷き、続いて悪戯な笑みを浮かべて言った。

「それじゃあ、次の話だ。旧国王派の過激派残党をどうするか、決めようか」



 ニッツアとともに主神の間の地下に忍び込み、ビオナートの禁書に偽装した翌日、リフィアは朝早く、ミラは昼過ぎに相次いで外出先から帰り、ニナも交え早速、イシュルの自室でウルク王国史末巻の読書会が開かれた。

 “読書会”は同時に、ニッツアが盗み出した“精霊神の双子”を召喚するスクロールの複製と、王国史末巻本体を元に戻す偽装工作の報告会でもあった。

 リフィアたちは、イシュルがニッツアから破滅必至の、危険な誘惑を受けた話を聞くと仰天し大いに憤慨、一時は大騒ぎになった。が、しかしイシュルがなだめ興奮が収まると、以後の方針を見据え、みな冷静に意見を述べ議論を重ねた。

 イシュルは頃合いを見て、昨晩は動きがなく不発に終わった旧国王派の一派をどうするか、議題を変えて話し合いを続けた。

 過激派一派への対処は、数日後に迫っている偽書検分の前日まで現状の監視を続け、当日は昨晩同様、廃神殿を中心に厳重に警戒することで合意した。検分には総神官長のウルトゥーロと国王サロモンが立ち会い、警備も厳重だが、もし襲撃が成功すれば多大な成果を得ることができる。総神官長や国王に手傷を負わせ、いや討ち取ることができれば、あるいはビオナートの偽書の過半を破損することができれば、過激派にとってこれ以上はない大成功となる。

 もし、当日も彼らが動かなければどうするか。そのことに関しては検分後に、あらためて検討することになった。

 こうしてイシュルと彼の仲間たちは、中海に向かうことで一致し、検分の日を迎えることになった。

 当日の朝にはミラが富商の令嬢、リフィアが護衛の女剣士という体で外出し、廃神殿の監視に向かった。シャルカは長身で昼間は目立つので屋敷に残った。イシュルの精霊、フェデリカとウルーラ、リンの配置は前回と変わらない。

 イシュルは聖王家差し迎えの馬車に乗り、従者役のニナとともに現地に向かった。大聖堂は公爵邸から近いのですぐ到着、本格的な建設の始まった大塔の前で下車した。

 馬車はちょうど、ニッツアが潜っていった主神の間石盤、直下の横穴の正面あたりに止まった。大塔の周りは複雑な足場が組まれているが、馬車から降りたイシュルとニナの前には背の高い天幕が張られ、入り口には片側に神官兵が、もう片側には騎士団兵が衛兵として立っていた。普段は見ることのない、めずらしい組み合わせだった。そして足元には真紅の絨毯が敷かれ、奥に続いていた。

 天幕の下をくぐり絨毯の上を歩いて行くと、建築中だった外壁の石積みの一部をわざわざ取り払い、正面に入り口がしつらえてあった。中に入ると衛兵のほかに、もう一段身分の高い騎士団の正騎士や武装した聖神官が数名、控えていた。

 何人かと目礼を交わしながら奥へ進むと、彼らの影から聖王家の執事長、ビシュ―が姿を見せた。

「皆さまおまちかねです。どうぞこちらへ」

 ビシュ―に案内されさらに奥へ進むと、より身分の高い王家の貴族や大神官の控える小部屋に行き当たった。そこにはミラの次兄のロメオがいた。イシュルは彼と小声でかるく会話を交わした。兄で公爵家当主のルフィッツオは外務卿を務めており、今日はいつもどおり王宮に出仕しているとのことだった。

 ニナも入れるのはここまでで、そこからはイシュルだけが先へ進むことができた。王家と聖堂教会の印の描かれた白地の垂れ幕をくぐると、そこは主神の間の石盤のすぐ外側の、古い積石で覆われた一室だった。

 少し離れた真正面に、数日前にニッツアが潜っていった横穴が真っ黒な口を開け、その両側に介添え役の数名の王家の秘書官や教会の聖神官が控えていた。

「やあ、イシュル。ごくろうさま」

「おはよう、イシュル殿。今日はよろしく頼む」

 右から国王サロモンが、左から総神官長のウルトゥーロが視界の外、室内の端の方からいきなり声をかけてきた。

「おはようございます」

 ふたりは互いに金の縁どりや紋様の入った純白の地のマントを羽織り、それぞれ大仰な王冠と主教冠を被っていた。

 イシュルは彼らの正装に驚き、少し上ずった声で挨拶を返した。

 三人はあらためて、お決まりの時候の挨拶をすますとイシュルを中心に、白い敷布で覆われた横長の机の前に並んで座った。

 サロモンの側には内務卿のサンデリーニ公爵が、ウルトゥーロの側には火の大神官のデシオ・ブニエルが直立して控えた。

「……」

 サロモンがおもむろにサンデリーニに目で合図すると、サンデリーニがデシオに目を合わせ、デシオがそこで声を張り上げ「これから聖堂教会と聖王家合同の、前国王ビオナートの偽書検分を行う」と宣言し、同会が始まった。

 合同検分は対象の書物を一冊ずつ、まず係りの者が石盤直下の横穴に潜って取り出し、イシュルたちの前で目録にそって確認していく形で進行していった。

 中から取り出される書物は、革張りの重厚なものからスクロール、数枚の羊皮紙を紐で綴った書き付けのようなものまで多種多様、みな油紙や布切れで包まれ保存状態はすこぶる良好だった。

 王家側は禁忌とされ、聞きなれない魔法の書や、遠くベルムラ大陸の、古くはウルク以前の伝説の魔物を記した書物など、教会側は旧聖教の現在は異端視される聖典や、今まで知られていなかった古代ウルク王朝の史書などを確認していった。

 サロモンとウルトゥーロは書物の表題と中身をかるくあらためると、二通用意された目録にひとつずつ、サインしていくのである。

 イシュルはそれとなく微笑を浮かべ、その過分に儀式的な手続きを傍観していた。どの書物も興味深く、かるくでも目を通しておきたいものばかりだったが、今は装丁や表題を確認することくらいしかできない。中身を吟味するのは後日で、二通ある目録の最後に署名するのが自身に課せられた今日、唯一の役目であった。

 “儀式”は滞りなく進んでいき、かるく眠気を催しそうになったその時、突然サロモンが大きな声を出した。

「おお、これだ。わたしはこの巻紙が気になっていたのだ」

 サロモンが両手に持ち広げたスクロールこそは、ニッツアが盗み出し、偽物と差し替えたあの“精霊神の双子”だった。

「ふむふむ、まだこのスクロール、未使用じゃないかな」

 サロモンは機嫌の良い声を上げると、巻紙に描かれたふたつの魔法円の上にかるく手をかざした。

「魔力はそれとなく感じるが、どうだろうか……」

「検分がすんだら、書面にあるように召喚儀式を執り行ってみたらいかがかな」

 サロモンが呟くように言うと、ウルトゥーロが横から声をかけてきた。

「その巻紙をどう扱おうと、サロモン殿の自由だ」

「ええ。そうなんですがね」

 サロモンはそこで微かに眸をすぼめ、イシュルの顔を見つめた。

「どうかな? イシュル。この“精霊神の双子”は、まだ生きているかな」

 サロモンはそう言ってスクロールを渡してきた。

 ……このひと、まさか知っているんじゃないだろうな。

 ニッツアを手伝った、あの工作のことを。

「はあ」

 イシュルは困惑を隠さず、スクロールを手に取った。

 紙面に特に装飾はなく、ほぼ中央にふたつの魔法円が描かれている。その中に書かれた文字は後から書き加えられたものだが、不自然な感じはしない。

 文面は素晴らしい達筆で、ところどころイシュルでは読めない文字もあったが、おおむねその意味は理解できた。

 まず最初はこのスクロールがどんな力を持つか、そして精霊神と双子の精霊の由来、偉大さを礼賛し、召喚する儀式の方法が書かれていた。

 その方法はごく月並みなもので、満月の夜に精霊神アプロシウスを讃える聖句を唱え、右の親指を切って血を魔法円に垂らし、召喚呪文を唱えるというものだ。

「こういうあやふやな場合は、まず魔法円に手をかざし触れて、該当する呪文を唱えてみるといい」

 サロモンはにやりと悪戯な顔をして言った。

「えーと」

 ……俺に試させる気か。

 いや、だが、今は夜でもないし、指先を切って血を垂らすこともしない。もしこのスクロールが未使用だったとしても、召喚魔法が発動することはない。

 ただサロモンの言うとおり、条件に近いことを行えば、もっと強い、わかりやすい反応が返ってくるのはままあることだ。

「じゃあ、やってみましょうか」

 この“精霊神の双子”は、使用済みだから何の反応もない筈だ。だが、魔法円のなかに以前と同じ文字が書かれているから、魔力をまったく感じない、とも言い切れない……。

 イシュルは、ふたつの魔法円両方にかかるよう右手をかざし、その前に書かれてあった呪文を読み上げた。

「大いなる大地の、聖なるものの守護神よ。我らが精霊の神よ。我が手に汝が双子を差し遣わし……」

「ふっ」

 その時横から、なぜかサロモンの笑う声が聞こえた。

 最後まで呪文を、言えなかった。

 始まる……。

 突然、一瞬で場が、空気が、世界が転換した。視界が消え音が消えた。

 頭上に光点が現れ、周囲に広がり落ちてきた。音は消えたまま、視界はすぐに復活する。だが世界は箍(たが)が外れ、急速に形を失っていく。色彩が色素を減らし、淡い色相に収束していく。事物は輪郭が緩み、弾け、緩やかな弧を描いて水平に膨張していく。

 サロモンの王冠が、頭部が横に膨らみ、引き伸ばされていく。ウルトゥーロの半身がひしゃげ、背景へ埋没していく。正面に立っていた介添えの神官や役人たちは、首から上を失い拡張する色彩の花と化した。

 その上に、ふたりの天使が舞い降りてきた。いや、あの、精霊神の双子だ。レナとネーフが潰れた色相の上に降り立ち、踊る女神の彫像のような姿勢で、門を形づくるように手と手を合わせ掲げた。

 おそらくもう、一刻の猶予もなかった。

 下手に干渉すれば、力づくでいけば身の回りのものはすべて、砕け散ってしまうかもしれない。そう感じることができた。

 ……またレーリアか。やつの陥穽に落ちたか。

 だが躊躇している暇はない。

 イシュルは飛び込むようにして、双子の精霊の形づくる門をくぐった。

 


 あまりに透明な空、水。

 そこは主神の間の、太陽神の座の石盤の上だった。

 水面だと思った足許は、見かけだけ。足底から伝わる感触は石盤のものだ。

 石盤の切れ目が地平線となり、明るく広い空が反転して地面にも広がっている。自分の姿も足下から、映り込んでいる。

 いつか、どこかでよく見た光景だ。

 その中心に、黒い法服の男がいる。

 運命神レーリアではなかった。男は横を向いていた。

 それが、正面に向き直る。

 短めの、整えられた黒髪、黒い眸、黒い髭。白い肌の男。

 法服を着ているからこの男は判事だろうか。

 ちがう。

 法服が黒のガウンなら、彼は魔法使いか。

 ちがう。

 何者かわからない。浮世離れして、この大陸の、この時代の人間とも思われない。

 ……何者か。

「アプロシウスか」

 ふふ、そうだ。そうか。

「おまえはアプロシウスだ」

 イシュルは笑みを上らせ、断言した。

「ふむ、そのとおりだ」

 男も笑った。

「待っていたぞ。風の申し子、五つの神の魔法具を持つ者よ」

 精霊神は笑顔を引っ込め、だが愉快そうな表情はそのまま、続けて言った。

「ピピン大公以来だ。さて、存分に話し合おうではないか」

 人間ではない筈なのに、まさにそのように口角を、皮肉に歪める。

「この世界と神々の、……そしてそなたの、秘密について」

 

 

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