そは呪文なり 6

 

そは呪文なり6



 店内を奥へ進むと、船荷の重さにガタつく床がきいきいと、悲鳴のような甲高い音を立てた。

「久しぶりですね」

 積み重なった木箱を背に隠れるようにしてエバンの前に立つと、彼は悪びれる様子もなく、といってほかに何の表情も見せず、ごく平坦な口調で言った。

「ああ。しかし、本当に神出鬼没だな」

 木の擦れる音やたわむ音、さまざまな物音に混じって、運河に面した店の奥の方から、船に荷を積み込む人夫らの気合の入った叫声が聞こえてくる。

 イシュルは「この店が“髭”の聖都における拠点か」などと、無作法な質問をしそうになるのをすんでのところで飲み込み、すぐ本題に入った。

「リフィアとニナに頼んだ、例の件かな」

「ええ。それがちょっと、困っていましてね」

 今まで無表情だったエバンがそこで、不意に笑みを浮かべた。

 イシュルはその顔を、なかば呆然と眺めた。

 ……おまえは俺と再会した時でなくて、そこで笑うのか。

 イシュルも苦笑を浮かべそうになるのを、これもすんでのところで堪えた。そして詳しく事情を話すよう、促した。

「後宮と外部の人の往来はごく限られています。そこを見張れば、すぐに尻尾を掴めると思ったんですが──」

 ニッツアが集めた旧国王派の不満分子、黒尖晶ら影働きや魔導師たちに連絡をつけるには、後宮と城外を怪しまれずに出入りできる者でなければならない。つまり後宮と取引のある商人や一部貴族、神官らと、定期的に交渉を持つ女官たちに限られる。

 連絡をとる相手が人間ならば、精霊はあまり適さない。書簡のやり取りくらいはできるだろうが、それが複数の相手に対し各々、特定の場所や時間に接触しなければならない、となるとかなり厳しくなる。

 多くの精霊は、人間社会の瑣末な事情に気を配るようなことはしないし、できない。敵対する側に魔導師やその契約精霊がいれば、せっかくの隠密性もあまり役に立たない。

 聖都の貴族社会や政治の機微まで読み取ることができた風の精霊クラウや、隠密性や機動力に優れ、戦場でも書簡を運搬したルースラの契約精霊、ヒポルルなどは例外的な存在である。

 だから人間相手の連絡係は、やはり人間が務めることが多くなる。聖都においてもラディス王国はそれなりの諜報組織を持っていて、王城の後宮を出入りする女官から、ニッツアの組織した危険分子の足がかりを掴むのは、それほど難しいことではないと思われた。

 だが、後宮を出入りする女官たちを見張っても、彼女らは一向に怪しい様子を見せない。それらしい相手と直接、第三者を介しての間接的な接触も一切、掴むことができなかった。

「王宮の侍女たちが外部と連絡をとる手段は限られ、昔からよく知られています」

「ふむ」

 ……それはつまり、ニッツアの双子の精霊が関与しているからだ。

 先ほどまで一緒だった、レナが化けたフランカという名の侍女の顔が脳裡に浮かんだ。

 アプロシウスの大精霊が相手では、さすがにエバンでも荷が重いだろう。

「その連絡係の侍女には多分、人間に化けるのが得意な精霊が一枚噛んでいる」

 イシュルは、事情があって今は詳しく話せないんだが、と断りを入れ続けて言った。

「だからあんたらでも、彼女らの足取りがつかめないんだろう。俺の方で力を貸そう」

 ……あまり時間もないからな。ここは躊躇すべきじゃない。

 イシュルは右手の人差し指を立て、上を指すような仕草をすると、自ら召喚した精霊を呼んだ。

「フェデリカ、ウルーラ、来い」

「……!!」

 エバンがめずらしく、わずかに身じろぎし緊張をあらわにする。

 イシュルの頭上から、足許の床下から、同時に魔力光が煌めき人型に像を結んだ。

「剣さま」

「お呼びですか、杖さま」

 宙に浮かぶ精霊はフェデリカ、地中から現れたのはウルーラだ。

「命令だ。このひとはエバンという。ふたりとも彼に力を貸してやれ」

「はっ」

「わかった」

 フェデリカとウルーラはイシュルの急な命令にも嫌な顔ひとつせず、素直に頷く。

 エバンはいきなり現れた二体の精霊を、呆然と眺めている。

「こちらが風の精霊でフェデリカ、こっちが土の精霊でウルーラだ。ふたりとも、人間に対しても細かい配慮ができる方だ。手強い精霊や魔導師が相手でも、ばれずに尾行できる力をもっている」

 イシュルはフェデリカたちに状況を詳しく説明し、最後に駄目を押した。

「相手はおそらくおまえたちが嫌ってる、あの精霊だ。熱くなって深入りするなよ。やつらの動きを探ればそれでいい。気取られるな」

「承知しました」

「うん」

 フェデリカは闘志を見せつつも、同時に冷たい笑みを浮かべ、ウルーラは澄ました顔でゆっくりひとつ、頷いた。

「よ、よろしくお願いします」

 途中ひと言も口を挟めず、エバンは最後に震える声でそう言った。

 その後さらに詳細を詰め、イシュルはそのままフェデリカとウルーラをエバンに預け、公爵邸に戻った。

 外壁を飛び越え、真っ暗な中庭の片隅に降り立つと、新たに三体目の精霊を召喚した。

「火神バルヘルよ、願わくば我(わ)に汝(な)が火の精霊を与えたまえ」

 いつもの自己流の呪文を唱えると、夜空に黒々と影を成す樹々を背景に、鋭い光彩が瞬き人型の精霊が現れた。

「これは火杯さま、お呼びでしょうか」

 火の精霊にはめずらしく、若い女の精霊だ。

 柔らかい、丁寧な仕草、口調。だが半透明の、無色の輝きに暖色の、炎のような光がちらちらと全身を走るさまは、なかなかに兇悪な雰囲気が漂う。

 ……やはりな。今回は火の精霊も女できたか。

 イシュルは内心ほくそ笑んで言った。

「名は? 何という」

「はい、リンドーラヌス・リンジシュカヌスと申します。よろしくお願いいたします、火杯さま」

 火精は宙に浮かびながら、膝を折って丁寧にお辞儀をした。

「な、なるほど。なら、リンと呼んでもいいかな」

「はい、火杯さま」

 これもいつものことだ。イシュルは彼女の長い名前に辟易するもすぐ立ち直り、短く親しみを込めてリンと呼ぶことにした。

 ……しかし、ずばりねらいどおりの精霊を召喚できたみたいだな。

 外見からするとフェデリカやウルーラと同い年くらい、仕草や言葉遣いも火の精霊にはめずらしく柔和で、些事面倒ごともうまくやってくれそうだ。

 風、土と召喚して、手薄になった屋敷の守りをどの系統の精霊にまかせるか。火の精霊は戦闘力があり公爵邸の警護にも力を発揮するだろうが、一方で戦闘になれば火災を引き起こすことが多く、リスクの大きさも無視できない。ただ屋敷にはニナの水精エルリーナと、ミラの金精シャルカがいる。ルフィッツオやロメオ、コレットらに契約精霊がいるか知らないが(自分の契約精霊を秘す者や、精霊と契約していない魔導師も数多くいる)、屋敷に水精がいるなら、火精を召喚するのにそれほど神経質になる必要はない。

 そこで風、土の次に召喚する精霊を火精に選んだのだが、今回も神の魔法具を持つことが優位に働いたか、フェデリカやウルーラ同様、現状に最も適した精霊を呼び出すことができた。

「リン、きみには俺と、この屋敷の人たちを守って欲しい。邸内に侵入しようとする者は排除し、内外構わず、怪しい者を見つけたら俺に知らせて欲しい」

「承知しました」

 リンドーラヌスは再び深く頭を下げ、落ち着いた声で言った。

 それからイシュルは、すでにフェデリカたちを召喚していること、ニッツアと彼女の双子の精霊のこと、偽書検分のことなど現在の状況を詳しく説明した。

 注意すべきこと、命令の主旨など、もう一度確認するとイシュルは真っすぐ自室に戻り、その日は機嫌よくぐっすり眠りについた。



「イシュル、気をつけるんだよ。きみの願いが成就することを願ってる」

「ありがとう、レニ。終わったらかならず、きみの故郷に遊びに行くよ。また会おう」

 数日後、公爵邸の門前にて。

 イシュルは、聖王家差遣いの馬車に乗り込むレニ・プジェールと別れの挨拶を交わした。

 レニはこれから王城に登り、三名の宮廷魔導師と数名の正騎士を引き連れプジェール家の領地、パレデスに出発する。

 王城ではサロモン直々の見送りのもと盛大な出陣式が執り行われ、多くの従僕、兵士らを引率し故郷に進軍することになっていた。

 これからは、赤帝龍が滅び火龍の脅威が激減した東方大山塊の、本格的な開拓の根拠地のひとつとして、パレデスにも聖王家の魔導師と騎士団の分隊が常駐することになる。

 レニは逃亡した黒尖晶を無事討ち取り、サロモンの期待に応えた。彼女は自らの宿願を叶えたのだった。

「じゃあね」

「ああ、また」

 レニが愛情のこもった、はっきりそれとわかる眼差しを向けてくる。でも甘過ぎず、湿っぽくないところがいい。

 後ろから、リフィアとニナも声をかけてきた。レニがそれに答え、扉が閉まる。

 彼女の登城を護衛する公爵家と聖王家の騎馬には、同じ騎乗のミラとシャルカも加わっている。

 ミラは馬上で、純白の聖王国宮廷魔導師のマントを翻し意気軒昂、勇ましく馬を進めていく。

 彼女はレニと仲が良く、公爵家を代表して王城まで付き添うことにした。イシュルももちろん同行したかったが、城内に入れば多くの貴族、魔導師たちの目を引き、いらぬ憶測を呼ぶことになってレニに迷惑をかけることになるかもしれず、やむなく屋敷の門前での見送りに留めたのだった。

 車輪の音、多くの馬蹄の音が鳴るなか、隊列が広場から王城へ姿を消すと、イシュルは手を振るのをやめ、視線を東の方へ遠くにやった。

 レニも偽書検分の日までは聖都に滞在しイシュルを助けたかったが、パレデスへの進発は王命であり背くわけにはいかない。イシュルがサロモンに頼めば予定を遅らせることもできたろうが、完全な公私混同で、これも宮廷にいらぬ憶測を呼ぶことになりかねない。レニもそれは望まず、今日の出発となったのだった。

 ……でも、俺から離れた方がむしろ彼女は安全だろう。たとえ山中で魔物を討伐する日々だとしても。

「イシュル。ここはただ素直に、レニ殿の門出を祝おうじゃないか」

 リフィアの声が心に染みる。

「ああ」

 イシュルは顔を彼女の方に向け、小さく頷いた。

 ……ん?

 その瞬間、不意に甘い匂いが鼻先をかすめた。

 それはありえない花の香り、いきなりレニが去ってしまったあの日と同じ、金木犀の香りだった。

 


 ふと何かの気配を感じて、見送りに出た公爵家の家人(けにん)やロミールたちと別れ、リフィアとニナと、三人で屋敷の中庭に向かった。

 本邸の北側を周り込んだところで、昨晩召喚した火精のリンが姿を現した。

「火杯さま、お客さまがお見えです」

 リンは丁寧な仕草で腰を引き、頭を下げて言った。

「おっ」

「これは凄い精霊さま……」

 リフィアたちには朝にリンのことは話していたが、こうして直接会うのははじめてだ。

「……」

 リンは精霊には珍しく、リフィアとニナにもかるく会釈した。

「彼女が火精のリンだ。こちらはリフィアとニナ。よろしく頼む」

「はい。昨日お話のあった、火杯さまの連れの方ですね」

「よろしく、火精殿」

「よろしくお願いいたします。火の精霊さま」

 お互い紹介が終わると、リンに先導されて中庭の一角にある東屋(あずまや)まで連れてこられた。

 中には少女がひとり、座っていた。

「ニッツア!」

 イシュルはすぐ気づいて、思わず声を上げた。

「ふふ」

 ニッツアは東屋から出てきて、唇の前に人差し指を当て「しーっ」という仕草をした。

 その悪戯好きな様子はまるで天使のように愛らしかった。彼女は薄い桃色のドレスに、裏地が青色の、ミラが羽織っていたような純白のマントを身につけていた。

「こんな真昼間に大胆だな」

 ……周りに双子の精霊の姿は見えないが、屋敷の門前で感じたあの気配はやつらのものだ。

 どこかに潜んでいるのは間違いあるまい。

「ええ。今日はレニ・プジェール殿の晴れの出立の日。王宮もせわしなくて、その辺ならお出かけしてもいいかなって」

 ニッツアはそこでまた「ふふ」と笑うと、遠慮して少し離れたところに控えていたリフィアとニナを呼んだ。

「そちらの方、どうぞこちらへいらしてください」

 ニッツアはリフィアとは面識がある筈だが、特に彼女の名を呼ぶことも、ニナの名を尋ねることもしなかった。リフィアとニナも特に名乗ることはせず、挨拶は互いにかるく目礼を交わすだけですませた。この場が非公式の、秘密の会合であることを互いに意識した振る舞いだった。

 そして、やはりニッツアはミラやリフィアたちが、イシュルとこの秘事を共有していることを先刻承知していたのだった。

「今日は、例のものを差し替える日にちを決めましたので、お知らせに参りましたの」

 ニッツアはその愛らしい姿で、大人のような口をきいた。

 いつもよりなお、あらたまった口調だった。

「なるほど、それは重要な話だ」

 イシュルはごく真面目な顔で頷き、答えた。

「彼女たちはこのまま同席してもいいのかな」

 イシュルはリフィアとニナを指しながら言った。

「構いません。口外なさなければそれで結構です」

 ニッツアはただ微笑み、答えた。何も、心のうちを見せなかった。

「……ふむ。では日取りの方、伺おうか」

 イシュルは左右に視線をやり、ほんの微かに口角を上げて言った。

 いつの間にか、精霊のリンの姿も消えていた。ニッツア側の精霊が立ち会わないのなら、イシュルの方の精霊も姿を消すべきで、リンはかなり気の利く精霊だと思われた。

 しかし、いつも小鳥の鳴き声がやまない樹々の周りは今は静まり返り、ほかに動くものもなく異様な静寂に包まれている。

 これはニッツアの双子の精霊か、そのいずれか、そして姿を消したリンが緊張を隠さず周囲を警戒している所以でもあった。

「決行は偽書検分の五日前、秋の三月(十一月)五日。時刻は日の入り後三刻(午後十一時過ぎ)。不測の事態があった場合は翌日に変更します。しかし延期はその一日のみ、その日は何があっても決行する心づもりでお願いいたします」

 ニッツアは笑みを引っ込め、やや硬い表情になって言った。

「承知した」

「よろしいですか? 何かあれば──」

「いや、ない。問題ない」

 ……今日は秋の二月の三十日。決行は六日後になる。

 ニッツアが集めた不満分子の探索にはもう少し日にちが欲しいところだが、あまり後ろに延ばすのもまずいし、仕方がないだろう。

 フェデリカとウルーラを支援に出して数日、早くも成果があったようだが、それはこの後、ミラがレニの見送りから帰ってきたらリフィアとニナも交え、詳しい報告を聞くことになっている。

「当日はわたくしと、レナとネーフの双子、イシュルお兄さまの方はどなたがご一緒されます?」

「いいや、俺ひとりだ」

「召喚した精霊はつけませんの?」

「ああ、主神の間には入れない。周囲の見張りはさせるがな」

「なるほど、わかりました。それで集合場所ですが、刻限になりましたら双子に命じて、誰にも知られず主神の間の地下に入れるようにしますので、封印はイシュルお兄さまに解いていただければと。如何でしょう?」

「いいよ。それで」

 五つの魔法具が揃うまでは、たとえ土の魔法具を持っていたとしても封印を解く、それだけでなく以前と同じに封印し直す──ことなどとてもできなかったろう。それは能力だけでない、この世界の土と封印の魔法に関する専門知識が必要だから、でもある。

 だが、今や万能の力を持つといってもよい、創世結界と同質の新魔法が使える。その気になれば欺瞞、偽装の得意なレナとネーフに匹敵する工作だってやれる自信はある。

「だけど、封印を解く方もきみの精霊にやらせればいいんじゃないか。今までは全部、あいつらにやらせていたんだろう? 俺は万が一のための備えとして立ち会えば、それでいいんじゃないか?」

 少しからかうように言うと、ニッツアは今までの微笑とは違う、少し意味ありげな笑みを見せて言った。

「主神の間は以前より、よほど厳しい警備が敷かれています。おそらく封印もより強力なものになっているでしょう。わたくしの双子にも、多少の余力は残しておきたいんです。備えあれば憂いなし、ですわ」

 ニッツアはそう言うと首を横に傾げ、「ふふ」と声に出して笑った。

「なるほど、ね」

 ……また、どこかで聞いたような諺だ。しかし、その何かを誤魔化しているような顔はなんだ?

 イシュルはちらっと彼女の顔を、その眸の奥を覗き込むように見やった。

「……」

 ニッツアはそらすことなく、イシュルの視線をひしと受け止めた。

 その口端がほんの微かに、引き上げられた。



 その日の夜。

 小薔薇の間で夕食後、ロミールたちや屋敷のメイドらを下がらせると、イシュルはリフィア、ニナ、ミラからニッツアの集めた旧国王派残党の探索報告を聞いた。

 会合にはイシュルが呼び寄せたフェデリカとウルーラ、それにシャルカも同席した。ミラの双子の兄、ルフィッツオとロメオ都合よく、今晩はサロモンの晩餐に呼ばれまだ帰ってきていない。

 イシュルは自ら、探知の難しい新魔法による結界を張って音漏れ、盗聴を防いだ。

「エバンが感謝していたぞ。やはりニッツア姫の双子の精霊が連絡係をしていたらしい。“髭”の者たちでもつかめない筈だ。相手が大精霊ではな」

 と、リフィアが最初に話しはじめた。

「よくやった、フェデリカ、ウルーラ」

「……」

「はい」

 イシュルが席にはつかず、傍に控えるふたりの精霊に声をかけるとフェデリカは無言で頭を下げ、ウルーラは少し間の抜けた、可愛らしい返事をした。

「向こうにはばれてないな?」

「おそらく。心配は無用かと」

 イシュルが訊くと、フェデリカが控え目な調子で答えた。だがその言い方はむしろ、彼女の強い自信を示していた。

「うん」

 イシュルはフェデリカに満足げに頷いてみせると、視線をリフィアたちに向けて言った。

「連絡係は双子の女の方、レナがやっていたんだろう。あいつはニッツアの侍女に、人間のメイドに完璧に化けていた」

 ……まあ、向こうも探られるのは先刻承知だろうし、むしろわざとばれるように動いている可能性すらあるくらいだから、それほど気にする必要もないんだが。

「そのメイドというか、女官が接触している相手が知れたので、あとは芋づる式に主要な面子と、やつらの潜伏先も知れたわけだ」

「そこから先は簡単でした」

 リフィアとレニに続いて、ミラが言った。

「わたくしの方も伝手を辿って、怪しい場所や人物を探っていましたの」

「それでミラ殿の情報とこちらの情報を照合してな」

「集めた情報の信頼性が、ぐんと増したわけか」

「そうですわ」

 ミラが以前言っていた「調べごとはほかにやり方がある」とは、専門の影働きは使わない、公爵家の配下にある中下級貴族や、彼らに仕える従僕、出入りする商人や職人、ギルドの関係者に張り巡らせた情報網から、気になる話題や出来事、小話などを収集することだった。

 この中世ヨーロッパ、中近東に似た世界で、主要なメディアといえば人々の社交、会話や書簡のやりとりぐらいしか存在しない。人々は情報に飢え、さまざまな機会を通じてやり取りし、集めている。

 大小のギルドで行われる会合、何らかのつながりで行われる茶会や晩餐会から、巷の飲み屋や井戸端会議の噂話まで無数の、大部分は役に立たないが──情報が常時、公爵家に集まってくる。

「最近、隣りの油売りで若い男が雇われたが人相に凄みがあって、あれは堅気の者じゃない」

「裏手の廃屋に流れ者が住み着いて、夫に頼んで力づくで追い出してもらった」

「昨日、飲み屋で面白い話を聞いたんだが……」「二日前、隣り町の〇〇川で中年の男の死体が上がったらしい」

 など、どうでもいいような近所の噂話から気になる事件の情報まで、幾つもの違った筋から上がってくる似たような、あるいは同一の情報を比較することで、思わぬ事実が浮かび上がってくることがある。これらがメイド長や執事、騎士団長らの吟味を経て、ミラやルフィッツオらに届けられるのである。

「本当ならもう少し時間が欲しいところなのですが、イシュルさまの精霊方のお力添えで、わたくしの方も手早く確認できましたわ」

「俗に風の噂という。人間どもの話を聴き取り、集めるのは得意です」

「わたしも得意」

 ミラに続いて、フェデリカとウルーラも少しだけ自慢げに言った。

「なるほど。風の噂、ね」

 ……それを風の精霊が言うか。

 イシュルは引きつりそうになる笑みを、ぐっとこらえてごまかした。

 しかし、単に後宮の女官に化けたレナの尾行だけでなく、巷の噂話の収集や事実確認にも役立つとは……。さすが風と土の大精霊、フェデリカとウルーラといったところか。

「それでだ、わたしたちの集めた主な情報だが──」

 リフィアが主題の、旧国王派不満分子の動向について説明をはじめた。

 彼女によると、フェデリカとウルーラが探索に加わると簡単に、数日ほどでレナが化けた後宮の女官が、外出時に毎度、途中から気配を消し秘密裡に訪れるアジトを特定することができた。 

 その隠れ家は聖都の中心部を横断するボリーノ通りから、西南の下町の方へ何ブロックか下ったある商家の、別宅の離れだった。母屋の方には商家の主(あるじ)を引退した老夫婦が、離れにはその夫婦の次男がひとり住んでおり、その男が不満分子ら一派の連絡係を務めていた。その者は以前、大聖堂に所属していた神官で国王派の過激分子だった。ビオナートが斃れ、正義派が勝利すると神官職をはく奪され、教会から追放された。今度の謀略を企図した中心人物のひとりだった。

「そいつは大聖堂にいた頃、尖晶聖堂の神官や影働きの応接係でもやってたんだろうな。だから黒尖晶の残党にも連絡がついたんだろう」

 イシュルがしたり顔で口を挟んだ。

「前国王ビオナートは、元は大聖堂の神官でした。当時から天才の誉れ高く、将来を嘱望されていました。その頃から、彼は教会で信奉者を増やしていったのでしょう。それが旧国王派の始まりです」

 と、ミラが解説した。

「……やはりニッツア姫は、わたしたちに前国王派の残党を始末させようとしているんだろうな」

「かもな」

 イシュルは短く言ってわずかに肩をすくめた。

 ……聖都にはまだ、旧国王派の残党が多くいるだろう。今はみな失脚し零落しているだろうが、なかには復権を諦めていない者もいるだろう。そこへ旧国王派の残党が多数、始末される凶事が伝われば、その者たちにはいい見せしめになる。もう二度と、謀略を仕掛けようとする者は現われないかもしれない。

 ニッツアは最初から、それをねらっていたのかもしれない……。

「先ほども話したとおり、その後宮との連絡役をつきとめたら、それから先はあっという間だった」

「イシュルさんの召喚した、フェデリカさんとウルーラさんが手を貸してくれたので、とても助かったそうです」

 助かった、とニナに言ったのはエバンだった。現王家と正義派に恨みを持つ、その元神官の蟄居先には過激分子の主だった者が代わるがわる訪れていた。その者たちを尾行し隠れ家を特定し、さらに彼らと接触する末端の者たちの居場所も特定し……と、彼らを見張ってその行動を把握していくことで、過激派一味の全貌が明らかになっていった。

 なかにはエバンら“髭”の者でさえ、見張るだけでも危険な人物がいたが、その者たちにはフェデリカとウルーラがかわりに探りを入れることで事なきを得た。

「ということで、二、三か所だが奴らが襲撃時の集合、あるいは待機場所に使う建物も特定できた」

 リフィアは説明を終えると最後に、不敵な笑みを浮かべて言った。

「それでさっそく今晩、やつらの隠れ家を見に行こうと思ってな。いいだろう? イシュル」

「えっ」

 いきなりのお誘いで呆気にとられるイシュルに、フェデリカとウルーラが駄目を押した。

「そうしましょう。剣さまも、敵の主だった根城の場所を知っておいた方がいい」

「そのとおり。わたしも一緒にいきます」

「まあ、ほほ。それは楽しそう。わたくしも同伴させてくださいな」

 久しぶりの夜の冒険に、ミラも乗っかってきた。



 その日の夜更け、イシュルとリフィア、それにシャルカとミラは公爵邸を出発、ルグーベル運河を越え聖都の市街地に入った。

 彼らに先行してウルーラが前方の警戒に当たり、フェデリカは万が一のため、公爵邸と大聖堂、王城の周囲を無作為に移動して、ニッツアの双子の目を引きつける陽動を行った。

 機動力の劣るニナは待機、イシュルの火精リンはそのまま屋敷の警戒を続けた。

 イシュルたちはまず、後宮との連絡を担う元神官の蟄居先に向かった。目的の隠れ家は市街の西南、下町近くにあったがそのまま真っすぐには向かわず、南側に回り込み月を背にして、密集する家屋の影に隠れるようにして近づいていった。

 先頭はリフィア、次にシャルカに担がれたミラ、最後にイシュルが続いた。イシュルは隠蔽や攪乱の効果を発揮する新魔法を、風魔法のように周囲に吹き流してリフィア以下、殿(しんがり)の自分まで誰にも感知されないようにした。

 リフィアは裏道の軒下を潜るように突っ切ると、次の瞬間には向かいの家の屋根に飛び上がり、影になった北側の斜面を異様な早さで走り抜けた。後に続くシャルカはミラを左肩に乗せたまま、巧みな体裁きで少しも遅れることなくついていく。

 イシュルは猟兵や影働きも真っ青の、彼女らの動きに舌を巻きながら、いや苦笑を浮かべて同じように地を這い、空を飛んで追いかけた。今は風の魔力ではなく、五元素の魔力をひとつに合わせた新魔法の力を全身に流し、その超人的な動作を可能にしていた。

「あの樫の木立の奥に見える、高い煙突の平屋がそれだ」

 リフィアは三階建ての長屋の屋根に飛び上がり、腰をかがめると、裏道を挟んだ向かいの屋敷を指して言った。

 蔦の絡まった古い石壁の奥は小さな屋敷の裏庭で、樫の木が数本生えた奥に平屋の家が見えた。洋漆喰の壁が月明りの影になって、黒々と重く沈んでいる。その煙突の向こうに、屋根窓の目立つ二階建ての母屋があった。

 どちらも人の気配が薄く、住人がみな深い眠りについているのがわかった。周りの家々も同様だ。先に到着して、地中から周囲を見張っているウルーラも何も言ってこない。息をひそめ、静かにしている。

「典型的な商家の別宅ですわね」

 ミラは続けて「息子が大聖堂の神官にまでなったのに、母屋に住む老夫婦が可哀想だ」と言った。

 次男坊だったか、その息子は今は派閥争いに敗れ、神官を辞め逼塞している身だ。しかも、過激派の謀略に手を貸すことまでやっている。

「どこかに、エバンの手の者が見張っている筈だがな」

 リフィアが左右を見、首をひねって辺りを探るような仕草をする。

「隠れ身の魔法は使われていない」

 横からシャルカの無愛想な声。

「ああ」

 ……魔法具は使わず不動で息をひそめ、緊張を抑えて気配を消しているのだろう。だから眠っている周りの住民と見分けがつかない。プロの影働きの、典型的な見張りのパターンだ。

「魔法を使って探らないと、どこで見張っているかわかりませんわね」

 とミラ。

 それはつまり相手に、こちらの存在も知られてしまうことになる。もし敵方も潜んでいたら、利敵行為になるだけだ。

「そこまでする必要はない。場所もわかったし、次に行こうか」

「あの離れに敵側の誰か、来ていたら面白かったんだがな」

 リフィアはそう言うと、音もなく軒下の暗がりに飛び降りた。そのまま長屋の影伝いに、狭い路地裏を東の方へ走り出した。

 ミラとシャルカ、イシュルも後に続いた。次の目的地は聖都の南側、ルグーベル運河にほど近い廃神殿で、一味が襲撃時に使用する予定になっている、とのことだった。

 王城や大聖堂にもほど近く、襲撃時の前進基地、あるいは集合場所として立地は最高だが、なぜそんなところに廃神殿があるのか。イシュルはその話を聞いた時、いささか不審に思った。

 その“廃神殿”は元神官の隠れ家から二里(スカール、約1.3km)ほどの距離で、街中を飛ぶように突っ切るとあっという間に到着、行きついた。

 リフィアは元神官の隠れ家の時と同様、南西側に回り込みながら接近し、目的の廃神殿から少し離れた、小さな尖塔のある建物の屋根上に降り立った。

「あの建築中の神殿の奥に見える、古い神殿がそれだ」

 リフィアは塔の影から半身になって窺いながら、小声で言った。

「まあ、やつらはあそこには、ほとんど姿を見せないんだがな」

「イシュルさまの風の精霊さまが、あの一党の会合を盗み聞きして教えてくださったのです。その会合では、あの廃神殿について何度も話し合われたそうです」

 ミラがその神殿を目の前に、もう一度確認するように説明した。

「なるほどな」

 イシュルはひとつ頷き続けて言った。

「確かに襲撃前の集合場所としては、悪くないかもしれないな」

 廃神殿というのは、つまり同じ敷地に新しい神殿が建築されることにより、取り壊すかほかの用途に使われるのか、神殿としての役割を終える建物を指して言ったものだった。神殿そのものが廃止されたわけではなかった。

 隣りに建築中の神殿と思しき建物は、完成までまだ半年一年はかかりそうだし、目的の偽書検分までに取り壊される可能性はほぼないように思われた。

 建築中の神殿は足場が組まれ、周囲には石材や丸太、土砂や端材が散乱していた。今は神官も不在で常駐している者はなく、少なくとも夜間は完全に無人になり、倉庫にでも使われているのか、元神殿の建物に人の出入りがあっても気づかれる心配はなさそうだった。

 しかも、敷地の三方は樹々や石壁に囲まれ、街路に面した出入り口は建築資材が置かれ雑然として、周囲からうまく、自然に遮蔽されている。

「いま調べさせていますが、おそらくこの神殿には、まだ元国王派の神官が残っているのでしょう。それであの廃神殿に目をつけたんだと思います」

「まあ、いいじゃないか」

 そこでイシュルは、薄っすら乾いた笑みを浮かべて言った。

「夜は無人だし、この立地なら戦闘になっても周りに迷惑はかからない。もし襲撃前にあの廃神殿に一味が集合したら、遠慮なく一気に殲滅してしまえばいい」

「ふふっ」

「……」

 イシュルは、不敵な笑みを浮かべるリフィアとミラの顔を見ながら、先行させた地の精霊に心のうちで確認した。

 ……ウルーラ、周辺に異常はないか。

 ……んん、あれ?

 イシュルは例えば、神殿の敷地内に魔封陣が隠されてないか、何か危険な罠が仕掛けられてないか、そういう意味でウルーラに訊いたのだが、彼女は意味不明の、素っ頓狂な返事を寄こした。

 ……どうした?

 ……杖さま、何か変な感じがする。

「変?」

 イシュルは小さく声に出して、素早く視線を左右に走らせた。

 ウルーラからは、微かに動揺する感じが伝わってくる。

「どうした? イシュル」

 目ざとくリフィアが訊いてくる。

「いや……」

 先ほどの商家の別宅の、見張りをしている味方を見つけるのとはわけが違う。見過ごすことなど絶対できない、油断できない状況だ。

 イシュルは五つの魔力を練って周囲に放った。

 魔法使いにも精霊にも感知することができない、魔力の波だ。

 ……むっ。

 人間や精霊の気配はもちろん、魔力の気配さえもほとんど感じない。だがイシュルは敷地の北東角、疎林のなかに奇妙な、ほんの微かな何かの気配を感じとった。

 木々の間に、小さな何かが浮いてこちらを見ている。

 ……これは、“目”だ。

 俺たちを、じっと見ている。

「イシュルさま?」

「いや、何でもない。この場所も覚えたし、そろそろ帰ろうか。長居は無用だ」

 イシュルは言いながら、ウルーラにもそのまま、何も気づいていないふうを装い退くよう命じた。 

 ……そこには“目”のようなものがあるだけで、魔法使いも精霊も、もちろん魔物の類いもいない。微かな、無系統の魔力の一点が宙に固定されている。月明りをほんの少し切り取って、小さく丸めたような光点だ。誰も気づかない。

 こんな芸当ができるのは、あの双子だけだろう。

 フェデリカが王城の後宮と大聖堂のラインで陽動しているが、やつらは二人組だ。片方はこちらを監視しているのかもしれない。

 あの“目”、さっきの商家の別邸ではなかったがな。

「じゃあ、帰るぞ」

 イシュルがひとり笑みを浮かべると、リフィアが身を翻し、隣家の屋根に飛び移った。

 ミラとシャルカが続き、イシュルも宙を飛んだ。

「……」

 空中で、イシュルは口端を歪めて笑い、右手をわずかに上向け後方に新魔法を放った。

 じっと見つめてくる、疎林に浮かぶ光点に向かって放った。



「申しわけありません、剣さま」

 屋敷の、自室に帰ってくるとフェデリカが姿を現し開口一番、神妙な面持ちで謝罪を口にした。

「いや、いいんだよ」

 ……ちょっとした悪戯を、やり返したからな。

 イシュルは欠伸を押し殺して言った。

「気にするな。相手は騙しの権化、みたいなやつらだし。それしか能がないんだから」

 帰る途中ウルーラから話を聞いたか、フェデリカはすぐに謝ってきた。かなり落胆している様子で、イシュルは柔らかい笑みを浮かべ、やさしく言って慰めた。

「向こうはふたりだし」

「……」

 今、自室にはウルーラとリンも姿を見せている。フェデリカと仲の良いウルーラも彼女を慰めるようなことを言った。リンはすました感じの微笑を浮かべ無言でいるが、決して揶揄しているわけではなく、悪い感情は伝わってこない。リンはフェデリカとウルーラにすでに自己紹介を済ませているが、彼女も火の精霊にしてはめずらしく、ふたりに非常に有効的な態度を示した。

「それより、ニッツアと例の工作を行う日が五日後に迫っている。過激派の連中だけじゃない、そちらの方も準備を進めておかないとな」

 ……当日はいよいよ、ウルク王国興亡史末巻抄本、その写本を手にいれる日でもある。

 イシュルは先ほどまでの眠気もどこへやら、狡そうな笑みを浮かべ、にわかに明るさを増した窓外に目をやった。

  


 それから決行日の秋三月五日まで、イシュルはリフィアたちから旧王国派の過激分子の動きを聞き、当日の対応を話し合い、ニッツアともう一度会ってその日の詳細を詰めた。

 その間、特に変わったこともなく、無事決行の日を迎えた。

 当日は午後からミラが近隣に親戚の家に出かけ、夕刻にはリフィアも単身、ラディス王国とも取引のある豪商の邸宅に赴いた。

 エバンの手の者は、例の商家の離れに隠棲する元神官をはじめ、聖都内に散らばる過激分子の隠れ家の監視に当たり、ミラとシャルカ、リフィアは廃神殿の監視についた。ニナは屋敷に残り、イシュルの召喚した火精のリンとともに公爵邸を守りつつ、緊急時の対応に備えた。

 地の精霊ウルーラはミラたちとともに廃神殿の監視につき、フェデリカは大聖堂の真西、街中に位置してイシュルの支援を主に、緊急時には公爵邸や廃神殿にも素早く対応できるようにした。

 イシュルは夕食後も屋敷に留まり、約束の時刻、日の入り後三刻(午後十一時過ぎ)が迫ると中庭に出て待ち合わせ場所の東屋に向かった。

 月明りに丸屋根が白くぼんやり浮き上がった、小さな東屋にはすでにニッツアの使者、レナが座って待っていた。

 イシュルが近寄ると、ふわりと外に出てきて腰を下げ、会釈し言った。

「もう準備はできていますわ。主(あるじ)が待っております。早速参りましょう」

 レナはメイドに化けた時のように上品に振る舞い、その場で浮かび上がると大聖堂に向かって、ゆっくりと飛びはじめた。

 ……こいつ、大丈夫なのか?

 レナは高度を上げると、そのまま大聖堂に直行した。その夜の月齢は満月に近く、雲も少なく良く晴れて見晴らしがよい。怖れを知らない、あまりに大胆な行動だった。

 イシュルはいつぞやの夜と同様、欺瞞、隠蔽の新魔法を周囲に吹かせて誰からも察知されないようにした。前を飛ぶレナはそれでも何か感じたか、わずかに顔を上向け、一度だけ辺りを見回すような仕草をした。

 大聖堂にはすぐ着いた。去年、イシュルに吹き飛ばされた大塔は今は本格的な建築がはじまり、土台部分の施工もほぼ終わって周囲の外壁もその基部が形になりはじめていた。

 レナは複雑に組まれた足場、ところどころ帆布で覆われた大聖堂の真上で静止するとイシュルに顔を向け、先ほどと同様、品の良い笑みを浮かべた。

「それではイシュルさま。このまま太陽神の座まで、降りていきましょう」

 何度見ても違和感を拭えない、仮面を被ったような笑顔だった。

「……」

 イシュルは空中から主神の間を見下ろした。外壁の内側は複数の木材が渡され、幾重にも帆布が張りめぐらされている。

 不思議なことに、周囲を守っていた筈の複数の精霊、魔導師や神官兵らの気配がまったく感じられなかった。

 まるでこの、元大塔があった周囲だけ時が止まってしまったような、まるで違う場所にいるような、不思議な空気に覆われていた。

「ただの“迷い”じゃないな。眠りの魔法の強力なやつ、でもない。とても静かだ」

 イシュルは下を見ながら、呟くように言った。

 魔力の流れが掴めない。存在が希薄だ。

「鏡の魔法です。合わせ鏡にして、対象を閉じ込めてしまうのです」

 レナはこともなげに、魔法の“種”を明かした。

「イシュルさまに秘密にしてもしょうがないでしょう」

 レナはそういうと、するすると落下していった。

「鏡、ね」

 イシュルはラディスラウスの王城、エレミアーシュ文庫でレーネの回顧録を手にした時のことを思い出した。

 ……食わせ者の女司書、ソニエと対峙した時、レーネ罠に落ちた時のことだ。あの時俺は、精霊神の結界に閉じ込められた。無数の、水晶のような鏡に覆われた世界だった。

 あの時は召喚した精霊、ネルが外から猛烈な攻撃を行ったが、結界を破ることはできなかった。やや距離をおいて監視しているフェデリカは静かで、何も言ってこない。

 あの時の結界とは違うが、複数の鏡を用いたこの魔法は、時間を止めてしまうような錯覚さえ起こさせる強力な攪乱、隠蔽の魔法……いや、魔封に似た、静止の魔法とでもいったものか。

 イシュルもレナに続き、下に降りていった。眼下の、視界いっぱいに広がった麻布の西側に、人がひとりやっと通れるほどの裂け目があり、そこから内部に入った。

 帆布や木材が幾重にも重なった層を抜けると、久しぶりの懐かしい、主神の間の空間に出た。ぼんやり輝く大きな石板の縁(ふち)、北西側にネーフが立っていた。

「ふっ」

 レナはネーフの横に降り立ち、まだ空中に浮かぶイシュルを見上げた。

 イシュルは同じく見上げてきたネーフの顔を見て、思わず吹き出しそうになるのをぐっと堪えた。

 ネーフは左目に眼帯をしていた。無色で半透明に輝く精霊が眼帯しているのは、滅多に見ることのない、貴重な姿かもしれなかった。

 イシュルはあえてネーフを無視し、無言で主神の間の北西側の縁から、その地下に降り立った。

 円盤型に曲線を描く分厚い石板を後ろに、ニッツアがひとりで立っていた。レナが続いて降りてきて、手許に無系統の魔力を集め、無色の明かりを灯した。

「ネーフの眼帯の件は、申し訳ありませんでしたわ。イシュルお兄さま」

 廃神殿でイシュルたちを盗み見ていたのは、やはりネーフだった。そのことをニッツアの方から先に謝ってきた。

 不満分子の過激派を始末することなど、最初から決まりきった完全な出来レースだった。

 ニッツアは、彼らの処分をイシュルたちにまかせたことなど、まったく気にしていなかった。もちろんそのことを今、こうして知られてしまうこともだ。

「なかなか似合ってるじゃないか。……だが、そんなことはどうでもいい」

 イシュルはまだ上の、主神の間に立っているネーフを見上げたが、すぐ視線をその周りに逸らせて言った。

 ネーフはバツの悪そうな、それに怒りの混じった顔をしていたが、イシュルは無視して周りにそそり立つ、板状の鏡のような物体に目をやった。

「あの鏡のようなものは何だ? あれが“合わせ鏡”の結界か」

 主神の間の上にいた時は見えなかったものが、地下に降りると突然周囲の視界を覆った。

 鏡は主神の間の周囲を覆い、上の方は闇に融けるように徐々に薄く、消えてなくなっている。

 よく見ると鏡の中に映る暗闇が微かにうごめき、霞んで消えそうになったり、濃くなったりしている。あれが合わせ鏡に閉じ込められた、魔導師や精霊たちなのだろうか。

「そうです」

 ニッツアにかわってレナが答えた。

「よくできてるじゃないか。さすがだな、たいしたもんだ」

 イシュルはレナ、続いてニッツアを見回し言った。

 あの鏡の中をうごめくものは、彼らはおそらく、自らが閉じ込められたことさえ気づかず、解放されるまでただひたすら悪夢を見させられているのではないか。

 ……これはどうなんだ? そもそもはじめから、俺に助力を乞う必要なんかなかったんじゃないか。

 偽書の封印は警戒が厳しくなって、ニッツアと双子だけで潜入して盗み見るのが難しくなっている、なんてのもただの口から出まかせで、ほかに理由があるんじゃないか。

「あの」

 ニッツアはイシュルの顔色をうかがうように見上げると、薄っすら笑みを浮かべ取り繕うように言った。

「こちらの封印が、イシュルお兄さまに解いていただこうと話していたものです」

 ニッツアは右手を上げてすぐ目の前の、主神の間の分厚い石盤にはめ込まれた鉄製の板を指し示した。

 ところどころ薄く錆の浮いた鉄板には、中央に魔法陣が刻まれている。

 ……この鉄板の奥に、空間がある。おそらく横穴があいているのだ。

 イシュルにはそれがわかった。魔法陣は治癒と防御魔法に優れた光系統のものだった。予想していた光系統の封印魔法ではなかった。

「これは大聖堂の、専門の神官が施した光魔法の封印です。これを誰にもそれと知られず解除し、また戻すのはわたしたちでは不可能です」

 ニッツアは笑みを深くして、微かに首を横に傾けた。

「イシュルお兄さまなら、できますでしょ?」

 ……光系統は聖堂教会がほぼ独占して使っている魔法だ。あまり見かけない系統魔法だが、この封印を解くこと自体はそれほど難しくはない筈だ。力任せに破るのなら、能力の高い魔法使いなら大抵できるだろう。

 だがそれを破る前の、元通りに復元するのは、同じ光系統の魔法を使わなければまず不可能だろう。

 だが……。

「いいだろう」

 イシュルはしっかり頷き、言った。

 新魔法を使えば力づくでやる必要はない。元からすべてを無効に、一時的になかったことにできるのだ。この魔法封印自体には手を加えず、外側から包んで閉じ込め、全体を無効化してしまうことが可能だ。

 イシュルは鉄板の前に立って、かるく手をかざした。新魔法の力を鉄板に吹きつけ包み込み、その奥の空間にまで及ぼした。

「よいしょ」

 次にイシュルは鉄板を両手で持ち上げ、横にずらして置いた。鉄板に覆われた内側に、ちょうど一長歩(0.6~0.7m)ほどの大きさの、横穴が現れた。

「うっ……」

「まあ」

 特に何か、わかりやすい魔力が煌めいたり、精霊が現れ何かしたとか、そんなことは一切ない、あまりにあっけない結果にレナは呆然と言葉を失い、ニッツアは小さく感嘆の声を上げた。

「素晴らしいですわ、イシュルお兄さま。いったいどんな魔法を使いましたの?」

「さあな。話を聞いても、あまり意味はないと思うぞ」

「……なるほど、そういうことですわね」

 どのみち五つの神の魔法具を揃え、さらに前世の知識、世界のさまざまな概念を知らなければ理解はできない。

 ニッツアはそのことにすぐ思い当たったか、ひとり納得するとレナに声をかけた。

「では例のものを」

「はい」

 レナはどこからか油紙に包まれた巻紙(スクロール)と、手ごろな大きさ、厚さの書物を一冊取り出し、ニッツアに渡した。

「どうするんだ?」

「ここら先はわたしがやります」

 ニッツアはイシュルの質問に答えると、レナの補助を受けて巻紙と書物を持ったまま横穴に入っていった。レナの魔力の明かりがニッツアの先に入って、横穴の奥を照らしている。その中に、麻布や油紙に包まれた大小の書物が積まれた一画が見えた。

「よいしょ、よいしょ」

 なぜ彼女が自ら本物と差し替えるのかわからないが、ニッツアは間の抜けた、年相応の少女の可愛らしい声を出しながら横穴を奥に進んでいった。

「無事終わりました」

 穴の奥で作業を終え外に出てくると、ニッツアは無垢な笑みを浮かべてうれしそうに言った。

「穴は小さいし、どこに何が置かれていたか、憶えているのはわたしですから」

「なるほど、そうか。案外楽にいったな」

 ……まあ、これでいいのか。なんだか最後は、ちょっと間抜けな感じだったが……。

 イシュルは困惑を隠さず、何度かせわしなく頷きながら言った。

「あっ、それからこちらも、今お渡ししておきましょう」

 ニッツアはレナから同じように一冊の書物を受け取り、それをそのままイシュルに手渡した。

 その本は適度な厚さの、紐で綴じられた羊皮紙の古い書物だった。もし複製されたものだとしたら、よくできている。

「一応、イシュルお兄さまにお渡しする写本も、本物に似せてつくらせましたの」

 ニッツアは少し胸を張って、イシュルを見上げた。

「古代ウルク王国興亡史末巻、抄本の複製ですわ」

 ……これが。

「ああ、ありがとう」

 抄本だからか、牛革や布製の硬い表紙ではなく、製本も簡易な装丁のその書物をイシュルはじっと見つめた。

「……ん?」

 と、本のページの間に、飾り紐を編んで作られた栞が挟まっているのに気づいた。

「イシュルお兄さまが知りたがっている一節は、その項にあります」

 ニッツアはいつもの表情、口調と何ら変わらず続けて言った。

「まずその一節を、読んでくださいな」

「いや」

 イシュルは顔を上げ、ニッツアを見つめた。

「ここはさっさと退散した方がいいんじゃないか。後で、ゆっくり読ませてもらうよ」

「少しくらい、時間が押しても大丈夫ですわ。気になさる必要はありません」

 ニッツアもイシュルの顔をじっと見つめ、一歩前に進み出た。

「レナ、もう少し明るくして」

 ふたりを照らす灯りが、さらに明るくなる。

「……」

 まあ、いいか。

 イシュルはおもむろに、その栞の挟まった項を開いた。

 開くとなぜか、すぐにその一節が目に飛び込んできた。偶然ではあるまい。その部分に妙に、明るく光が当たっていたのだ。


 ラガンの南海百里先、かつて主神ヘレスの座す地あり

 その者、聖句を唱えかの地に至るという


 ……これだ。

 その一節、やはりその地は中海にあった。

 ラガンはブルガの東隣りにある小国だ。

「南に百里(約60km)というと、島とかあったかな。まさかベルムラ北岸、とかじゃないよな」

「ラガンからベルムラまでは五百里以上はありますわ。島は……大きな島はないと思います」

「そうか」

 ……どういうことだろう。

 聖句とは何だ?

「聖句と言えば、聖典の冒頭に書かれてある、主神ヘレスが最初に唱えたあのお言葉ではないでしょうか」

 ニッツアは、イシュルの考えをまるで読み取ったかのように助言してきた。

 イシュルは一瞬、ぼんやり彷徨わせた視線を再び、ニッツアに向けた。

 ヘレスの言葉というのなら、確かにそれだ。

 ……その聖句とは。


 我想う、天地あれと

 故に天地成り、されば光と影を賜う


 ……その言葉は。

「ふふ」

 イシュルはニッツアの眸を見つめたまま、わずかに口角を引き上げた。

 それは創世結界の呪文だ。

 ……俺はヘレスの聖句の一部を、自らの新結界の発動呪文に使っている。

「まさか、本当に五つの神の魔法具を集めた者が出てこようとは。今まで誰もそんなこと考えもしませんでした」

 ニッツアもイシュルの眸をじっと見つめ、続けて言った。

「どうでしょう。中海までは遠いですわ。その場所に島があるかもわかりません。今、目の前のすぐそこに太陽神の座があります。わざわざ中海まで行かずとも、この石板の真ん中に立ってあの聖句を唱えれば、イシュルお兄さまの悲願も達成できるのではないでしょうか」

 ニッツアの眸に灯る、妖しい光。

「いや……」

 戸惑いもほんの一瞬、イシュルは言った。

「それはやめとこうか」

 ……不意に気づいた。

 おまえは俺をこの謀略に誘って、今この時を、まさにこの瞬間を待ち望んでいたわけか。

 俺の力を借りたいなどと、そんなことはどうでも良かったんだ。

 主神の間で俺が、あの聖句を唱えれば何か大変なことが起きるかもしれない。

 ニッツアの“遊び”の核心は、この少女がねらっていたのはこれだったのだ。

「確かに何か起きるかもしれないがな」

 ……それはだが、俺が望んでいるものとは違う。

 それだけじゃきっと、足りないんだ……。

 イシュルは、僅かに歪めた笑みを冷酷なそれに変えて言った。

「おまえの望むものは俺とは違う。俺は俺のために聖句を唱える。俺の思う時、思うところでな」

「……」

 ニッツアの眸の輝きが消えた。だがまたすぐに、違う色に、いっそう強く輝き出した。

 イシュル構わず続けた。

「あきらめろ。おまえ自身の、身のために」

 ……好奇心は猫を殺す、の猫はおまえだよ、ニッツア。

 

 

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