そは呪文なり 5

 

そは呪文なり5



 春眠暁を覚えず。

 いや、春ではないが翌朝は惰眠を貪る。

 聖都の晩秋はそれくらい、良い季節だ。

 深く浅く、行ったり来たりの夢見に、ふと扉の外の音が重なる。

 今日もやって来たらしい。

 寝坊をするとかならず、彼女たちは起こしにくる。

 ベッドの奥へ、深く潜るように寝返りを打った。

 それでも耳に入ってくる、かまびすしい話し声。少しずつ大きくなって、自室の扉が開かれた。彼女らは居間を突っ切り、この部屋へ、寝室に向かってくる。

 今日もロミールは敗北したらしい。まったく、役に立たない従者である。

 だが、ロミールばかりを責められない。自室に彼女らを入れないよう頼んでも、フェデリカもウルーラもなぜか、尻込みして引き受けてくれないのだ。

「……殿、イシュルも毎日……可哀想だ。もう少し寝かせてあげよう」

「……さん、何を言ってるの? イシュルさまが迷惑だなんて、そんなわけありませんわ。わたくしがこうして……起こしに来ているのに」

「でも、……ミラ殿は起こすだけではすまないだろう」

「あら。ではリフィアさんはどうなんですの?……あなたこそ、ただ起こすだけですむのかしら」

 ふたりは寝室の扉の前で言い合いをはじめた。これも寝過ごした日の、いつものことだ。

「あ、あの、ミラさんもリフィアさんも、何の話をしているんです……もう、やめてください」

 ……おお、ニナがいるじゃないか。

 思わず薄目を開けて、寝室の扉の方を見る。

 彼女が来ているなんて、めずらしい。

 ……ちょうどいいじゃないか。あの話をする絶好機だ。

 ぼんやりした意識が覚醒に向かう。まどろみのなか、瞼の裏に外光が差し込んでくる。

 両手を伸ばし、静かに伸びをして欠伸を嚙み殺す。

「……」

 と、扉の向こう側が急に静かになり、ひと息おいてドアノブの回る音がした。

「ふう」

 仰向けになって、両目を見開く。

 天井の向こう、屋敷の外に怪しい気配はない。大丈夫だ。

「……イシュルさま、おはようございます」

 そっと、ベッドの周りを覆う帳(とばり)が開かれる。細く長い、女性の指先が見えた。

 ミラだ。

 素早くその手を取って、中へ引きずり込む。

「きゃっ」

 ミラは小さな悲鳴を上げて、覆いかぶさってきた。

「イシュルさまっ!」

 つぶらな眸、頬がほんのり赤く染まっている。

「ん? 何だ」

「えっ、えっ」

 リフィアとニナの驚く声。

「おい……」

 帳をめくったリフィアの手も掴んで引き寄せる。

「むっ」

 長い銀髪をなびかせて、ミラのとなりに倒れ込んでくる。

 ……防ごうと思えばいくらでも防げるのに。

 こちらは疾き風(加速)も、何の魔法も使ってない。リフィアの能力ならいくらでも回避できるのに、わざと俺にされるがままになった。

「えっ、えっ、あれ」

 薄衣の帳の向こうでニナの輪郭が不安そうに揺れている。

「ニナ、中においで」

 声を潜めて言う。

「……は、はい」

 それでもはっきり聞こえたようだ。ニナも小声で返事し、帳をめくってすべるように入ってきた。

「……」

「……」

 最初は少し驚きながらもうれしそうな顔をしていたミラ、まんざらでもなさそうな顔をしていたリフィア。

 ふたりは今は何とも言えない、複雑な表情をしている。

「ニナも、もっと近寄って」

 上半身を起こし、ミラ、リフィア、そしてニナとベッドの上で顔を突き合わせる。

「外に漏れないよう、相談したいことがあるんだ」

 さらに声を落として、囁くように言う。

「昨夜の、ニッツア姫との密談のことか」

 と、リフィアも囁き声で返す。

 柔らかい寝室の明かりの中、間近で見る彼女の顔は息を吞むほどに美しい。

 昨晩の件は簡単にだが、彼女たちに話してある。

「うん」

 頷いてミラに視線をやる。

 微かに頬を染めるミラの顔。彼女の美貌もリフィアに負けてない。

「わかりましたわ。今日は中庭でお茶にしましょう。手配しておきます」

「たのむ。ニナも一緒にね」

 レニはここのところ、故郷に派遣される魔導師や騎士団兵の編成準備に忙しく、今日も朝から王宮に出向いて屋敷にいない。

「は、はい」

 ニナは、こんな時でも真面目な顔で頷いた。

「じゃあ、これで解散」

 間も、流れも無視して言うと、ミラがわざとむくれた顔をして言った。

「あら、もう終わりですの? イシュルさまに引きずりこまれた時は、胸がときめきましたのに。つまらないですわ」

「いやいや」

 そこでリフィアがベッドに横になったまま、にやりと悪戯な笑みを浮かべた。

「むしろこれから先が面白くなりそうじゃないか。イシュルの話、楽しみだ」



 葉色が重く、くすみだした樫や椎の樹々の間に、紅く色づいたブナや楓が華やかに彩る。

 澄んだ青空に漂う微かな霞(かすみ)はまだ、わずかに暖気が残る証しだ。

「それでは失礼します」

 ロミールがすました顔で一礼し、セーリア、ノクタとともに給仕のワゴンを押していく。シャルカはミラの居室にいるのか、今はこの場にいない。盆を抱えたルシアがひとり、その場に残った。

「今日も本当に、爽やかな日よりですこと」 

 ミラが眸を細め、樹々の紅葉から空を見上げて言った。

「風に、秋の匂いがします」

 ニナも同じような顔をして、詩を詠むように言った。

「うむ、気持ちいいな」

 リフィアはあれから、公爵家騎士団長代理のナレアと槍を使ってかるくひと揉みし、からだを動かしたせいかすこぶる機嫌がよい。

「……」

 イシュルは無言で晴れた空を見上げ、眸を細めた。同時に何度目か、周囲の気配をうかがう。

 午餐の後は予定どおり、中庭の一角に椅子やテーブルを出して、屋外でお茶会を催した。

 公爵邸に逗留してから時々、何度かやっていることだから、特に不自然に思われることもない。

 濃いお茶にかるく口をつけテーブルにカップを置くと、イシュルは一同を見回し言った。 

「では、はじめようか」

 みな素早く、顔を突き合わせるようにしてイシュルのテーブルに身を乗り出した。

「で、どうしたんだ?」

 リフィアの催促にイシュルは苦笑すると、昨夜のニッツアとの会合を詳しく説明した。

 最も伝えたかったこと、それは彼女が封印された禁書類を丸ごと処分しようと、人数をかけた大規模な襲撃の準備をしていたことだった。

 ニッツアとの密約は、ミラたちにも最初から隠すことなく伝えている。彼女だってそのことは、重々承知している筈だ。ニッツアは一度も、誰にも話すなとは言っていない。誰に話して誰に話さないか、そんなことをいちいち指示なんてしない。

 ……それでも、この件を相談するのは憚れるものがある。

 それはなぜか。

 木々の間に小鳥の鳴く声が、今日は特に賑々しく聞こえる。

 でもそれは、フェデリカたちもうまく隠れ、周りに怪しい存在がいないことを示してもいる。

「ほほ」

 ミラが右手の甲を口許に当て、微かな笑い声を上げた。

「イシュルさまの考えていること、わかりましたわ」

「……ふむ」

 リフィアも控え目にひとつ頷き、横目にニナを見た。

「え、えーとそれは」

 ニナだけは、少し自信がなさそうだ。

「ニッツアの集めた者たちには、黒尖晶の残党もたくさんいるだろう。やつらは聖王国と教会の現体制に対する不満分子なだけではない。俺やミラ、リフィア、そしてレニに対しても遺恨を持つ、危険な連中だ」

 イシュルはミラ、リフィア、最後にニナの顔を見回して言った。

 ……見かけだけ直した巻紙(スクロール)を戻して誤魔化す、最も穏便な案でいくことになったが、ニッツアは万が一を考えぎりぎりまで彼らを解散、いや始末しないだろう。

 どころか、彼女はそれで終わりにしないかもしれない。

「あのお姫さまは、やつらにまだ利用価値があると考えたら、始末せず手許にとっておくかもしれない。彼女はそんなことができる力をもう、手にしている。そういうのは困るんだ」

 ニッツアにとっては、新しい“おもちゃ”がひとつ増えて喜ばしいことだろう。だがそれは俺たちも、聖王家や教会にとっても、とても容認できないことだ。

 そんなただ危険なだけの存在、放っておくわけにはいかない。

「やつらはニッツアの誘導で徒党を組み、今もどこかで、主神の間にある禁書を強奪するか破棄するか、襲撃する計画を練っている筈だ」

「その者たちをわたくしたちで探って、処分するのですね」

「ふむ」

 したり顔のミラに続き、リフィアが満足げな顔をして言った。

「ちょうどいい。わたしも髀肉の嘆を託(かこ)っていたところだ。そやつらを始末しないと、我々も枕を高くして眠れん、だろうしな」

 ……えーと、それは三国志の──いや、こちらでも似たような故事があったんだろう、たぶん。枕を高くして──も同じで、昔似たような話があったんだろうな、きっと。

「まあ、そういうことだ」

 イシュルはほんの少し、戸惑うふうを見せたがすぐリフィアに頷いてみせた。 

「ミラの言うとおり、まずはやつらの隠れ家や面子を探り、特定できたら、禁書の検分の日まで見張りを続ける。検分の日までに危険な動きがあればその時点で全員始末する。いちいち拘束なんてしてられないし、そんな義理もないからな。やつらが当日まで動かなかったら、検分が終わった後、すみやかに皆殺しにする」

「……」

 皆殺し、の言葉に全員が厳しい表情を見せた。

 イシュルは構わず続けて言った。

「人々の中に紛れて探索するのは、精霊はあまり得意ではないからな。俺ひとりでは手に余る。それできみたちの力を借りたいんだ」

 にっ、と笑ったイシュルにミラ、リフィア、ニナも揃って笑みを浮かべた。

「もちろんだ、イシュル。力を貸すとも」

「荒事だけではありませんのよ、リフィアさん」

 さっそく、腕を撫すような仕草をはじめたリフィアに、ミラが横目に見て言った。

「聖都には尖晶聖堂や王家、大貴族やギルド、他国の密偵がたくさん潜んでいます。ニッツアさまの手の者もいるでしょう。なかなか難しい調べごとですわ。慎重に動かないと」

「できるかな、ミラ?」

「ふふ、もちろん大丈夫ですわ。イシュルさま」

 イシュルの質問に、リフィアを嗜(たしな)めた発言もどこへやら、ミラは調子良くしっかり頷いてみせた。

「慎重にとは申しても、この手の調べごとはほかにやり方もありますわ。我が公爵家も聖都には、たくさんの伝手がありますから」

「……」

 リフィアはわざと少し唇を尖らせミラを横目にみると、すぐ反対側のニナの方を見て何事か目配せした。

「探索の方も、わたしたちももちろん、力になります。イシュルさん」

 ニナがめずらしく自信を見せて、力強く言った。

 彼女はリフィアと違い、ラディス王家の直臣である。だからニナ自らの発言は、王国の影働き、“髭”の者が動くことを意味した。リフィアは大貴族だが、ラディス王家から見れば“外様”であって、形式的にはニナが指揮権を持っている、ということなのだろう。

 ミラは公爵家のうちにあっても特別な存在で、ふたりの兄も黙認しているのか、これまで公爵家の影の者もほぼ自由に使ってきた。ただ、今回は彼らを直接使って探索をするかはわからない。彼女は「ほかにやり方がある、伝手がある」と言った。

「みんな、ありがとう」

 イシュルはミラたちを見回し、礼を言った。

 そして少し厳しい顔になって言った。

「向こうは黒尖晶の残党もいる。こちらの動きが聖王家や教会に不審に思われるのもまずいし、目的を知られるわけにはいかない。ニッツアに足がつくようなことは避けなければならない」

「その残党に手を出して、ニッツア姫は怒らないかな? まあ、姫君の火遊びが、兄君に見つかることの方がまずいのは確かだが」

「ニッツアの気持ちなど気にする必要はないさ。むしろあの子は、俺にやつらを始末してもらおうと考えてるんじゃないかな」

 リフィアの質問に、イシュルは昨晩の会合の直後から気づき、考えていたことを口にした。

「聖王家の不満分子をイシュルさまに処分させて、ご自身の手間を省こうと考えていらっしゃるのでしょう」

「ビオナートの偽書検分を利用して、不満分子をひとまとめにしたから、その人たちの処分はあなたがやってね、ということでしょうか」

「あなたが始末してもいいですよ、ご自由に。といったところが正解だろうな」

 指先を顎に当て、可愛らしく首を横に傾けながら言ったニナに、リフィアが少し皮肉な笑みを浮かべて答えた。

「まあ、そういうことだろうな。こちらはこちらで彼女の手に乗らせてもらって、やりたいようにするさ」

 ……連中に多数の黒尖晶の残党が混じっているのなら、かなりの実力集団ということになる。だが一方で、やつらの飼い主がニッツアだとばれたら、さすがに国王の妹でもただではすまないだろう。使える集団だが、その分リスクも高いのだ。彼女はやつらを手許においても、捨ててしまっても、どちらでもいいと考えているのだろう。

「……だけど、ロミールたちは使わないでくれよ。けっこう危険そうだし」

 イシュルはそう言って、リフィアとニナ、そしてミラの顔を見回した。

 ……ロミールとセーリア、ノクタの三人はただの従者ではない。剣が使え、ラディス王家の影働きである“髭”と繋がっている。俺たちの護衛役であり、監視役でもある。だが、ロミールたちは正規の影働きではない。彼らを探索に使うわけにはいかない。

「もちろんだ。心配するな、イシュル」

「聖都には、大陸中の国々の間諜が潜んでいますから……」

「わたくしの方も、大丈夫ですわ」

 リフィアとニナは目を合わせ、ミラは傍に控えるルシアに目配せした。

 ルシアはミラに無言でお辞儀をした。

 リフィアたちは、聖都に潜む“髭”に連絡をとるのだろう。

「じゃあ、みんな。よろしく頼む」

 イシュルはにっこり、笑みを浮かべた。

 ……ニッツアの目論見にただ乗っかるだけじゃない。やつらを始末する理由が、ほかにあるのだ。

 こちらのお姫さまたちにも玩具をあてがい、退屈をまぎらすという大事な理由が。

 イシュルは、楽しそうにしているリフィアたちに眸を細め、笑みをより深くした。



「検分の日が楽しみだね、イシュル。父の遺した秘本が見つかり、きみが聖都に戻ってきた。これで当日、何事もなく平穏無事に終わるなどあり得ない。わたしはそう、確信している。きみはどう思う? イシュル」

「そなたが大聖堂に帰ってきてくれたのも、ヘレスのお導きであろう。再び聖王家といざこざを起こすなど、あってはならないことだ。そなたが両者の重石になってくれれば、検分も偽書の分割もとどこおりなく、すべて平穏無事に終わるだろう」


 聖王家と聖堂教会による、“ビオナート偽書”の合同検分会の日取りが決まってから数日、サロモンとウルトゥーロそれぞれに呼び出され時の、彼らの発言である。

 互いに「平穏無事」と同じ言葉を使いながら、望んでいることがまったく逆なのはいったい、何の皮肉か。

 イシュルは内心失笑を禁じえなかったが、一方でサロモンの言うとおり、当日は波乱を免れない気がしてうんざり、辟易としていた。

 その“ビオナート偽書(と、いつの間にそう呼称されることになった)の合同検分会”は十五日後、つまり三週間後(大陸は五曜制)の秋の三月(十一月)十日に行われることになった。

 これでニッツアが使ってしまった巻紙、“精霊神の双子”を戻す具体的な日取りを決める段になったが、彼女からは特に連絡もなく数日が経った。

 イシュルも動かず、彼女からの指示を待つことにした。これからの宮廷や大聖堂、周囲の動きに関しても、後宮を事実上支配するニッツアの得る情報の方が、量も精度も公爵家にいるより勝っているのは確かだった。無理に動けばどんな下手を打つか、知れたものではなかった。

 ミラたちに頼んだ、ニッツアの組織した不満分子の動向を探る件も特に動きはなく、そろそろこちらから接触するか考えはじめた六日目の朝、起きてすぐフェデリカから小さな巻紙を渡された。

「王族の、あの小さな姫君から書状です」

「おっ、おお」

 巻紙を手渡してきたフェデリカは、めずらしくほとんど実体化していた。小麦色の健康的な肌の色が少し意外な感じがした。

「あの生意気な精霊どもから、ウルーラが受け取ったのです」

 フェデリカの顔を見つめていたら、彼女は何を思ったか頬を微かに染めて、そんなことを言ってきた。

 巻紙を広げると、依頼していたものが出来上がったので、引き取りに同行して欲しいと、待ち合わせの日時と場所が記されていた。

「ふふ」

 イシュルはその短文を読むとくすりと笑った。 

 繊細で美麗な筆致はおそらくニッツアの直筆で、「明日の夜、日没後二刻以降に北オービエ通りを西に向かって歩け」と書かれていた。

 ……北オービエ通りは紫尖晶の長(おさ)、フレード・オーヘンとの会合で、よく行き来した懐かしい通りだった。歓楽街の端をかすめ、とある路地裏で不思議な魔法具屋を開く、あのチェリアと出くわした通りだった。

 イシュルはニッツアと打ち合わせたとおり、予定どおりに動きだしたことでひと安心、翌日の夜までのんびり過ごし、その日の夕食後自室に引き上げるとすぐ、いつものごとく窓から外へ飛び出した。

「剣さま」

 屋根上に立つとすぐ、フェデリカが声をかけてきた。

「今日は大丈夫。ひとりで行かせてくれ」

「……はい」

 フェデリカは返事はしたが、不服そうな表情を隠そうとしない。

「心配か?」

 イシュルは夜空を見上げると、彼女に笑いかけて言った。

 今日は雲が高く、いつもより夜闇が広く深く終わりがないように感じる。その高みからしんしんと、早くも冬の冷気が降りてくる。

「いえ、そんなことは……」

 フェデリカは口籠ると俯き、やがて顔をあげると振り絞るように言った。

「やつらは狡猾で卑劣な精霊です。剣さまは高潔な方。騙されぬよう、お気をつけください」

「おっ、おう」

 ……いや、高潔な方、なんて言われても。

 どう考えても、風の精霊である彼女の偏りまくった見方だ。

 イシュルはフェデリカの勢いに気圧され、ぎこちなく頷くと短く「行ってくる」とだけ言って、街の方へ、運河に向かって飛び上がった。

 ほんの微かな月明りも避け、庭木の影を伝って屋敷の石壁を跳び越える。足許に水の魔力を纏ってそのまま運河の水面に降り立ち、対岸まで水上を駆けた。

 今日は運河沿いに並ぶ幾つかの商家に明かりが灯り、川舟を行き来する人夫の姿が見えた。

明日は確か、バレーヌ広場に市が立つ日である。都(みやこ)の周囲を流れる大小の河川を通じ大陸全土から多くの荷が集まり、ルグーベル運河も無数の川船で溢れかえる。夜が更けてもまだ、船荷を降ろし開けている店があった。

 公爵邸の南端、対岸にはもう商家はない。暗闇に沈む川面を、イシュルは足先に最小限の水の魔力を集め、誰にも、おそらく精霊にさえ気づかれずに運河を渡った。

 闇の精霊も今は監視の数を減らしたか、襲ってくるものはいない。イシュルは水の魔力とは別に、五元素の魔法にこの世界のものではない、異質の思念、概念が合わさった未知の魔法を発現した。それは無敵の、神々でさえ翻弄するあの創世結界とほぼ同質のもので、まさしく主神ヘレスの御業のごとく、万能の力を有していた。

 つま先の水の魔力のようにほんの微かに発動し、夜風に乗せて周りに流し、自らの存在を外に向かって希薄にした。迷いや揺動の魔法のようでもあるが、この世に非ざるものである限り、人も獣も魔物も精霊も、魔法とは思わずその存在を認識することさえできなくなってしまうのだった。

 五元素の魔法具の力を、前世の概念で縫い合わせたその第六の魔法は、イシュルの意志を、求めるものの多くを具現化する力があった。

 赤帝龍のような巨大な存在を滅ぼすこともできれば、誰にも魔法とさとられずに、夜闇に己が身を隠すこともできるのだった。

 イシュルはそうして夜の街に紛れ込むと北オービエ通りに直行し、まだ酔客の往来の絶えない街路を、ニッツアに指示されたとおり西に向かって歩きだした。

 あの夜、路地裏にチェリアの店を見つけた時と同じ、通りの端の軒下を隠れるように歩いた。

 黒のマントにフードを被って顔を隠し、腰に父の形見の剣を吊っていたが、なぜか誰もイシュルに気づかず、怪しむ者もいなかった。

 あの時はイヴェダの影響下にあったレニに風魔法の教えを受け、神の魔法具を持つ者だけが届く精霊の天界、異界に触れ、風神の存在に怖れおののき、月神と主神の思惑を推し量ろうともがいていた。そしてこの歓楽街の夜の雑踏に、進むべき道の果てを、あるいは危機の予兆を確かに幻視した、と思ったのだ。

 その時だった。あの路地裏に、迷いの結界に覆われた暗闇を、あの老婆の……。

「ふっ」

 二軒並ぶ飲み屋の間、闇の底に人の佇む気配を感じてイシュルは立ち止まり、前を向いたままひとり薄く笑った。

 その狭間に目を向けると、さらに深い闇を纏った人影が見えた。黒のマントにやはり、目深にフードをかぶっている。

「この度はご同行いただき、ありがとうございます」

 暗闇の塊から発せられた声は、女のものだった。

「主の使いで参りました、フランカと申します」

 女はニッツアに仕える侍女だった。家名は名乗らなかった。

「……」

 イシュルはまた、微かに口角を歪めると女の佇む建物の間に入って行った。そしてその眸の先から、この地上で自分だけしか使えない新魔法、創世魔法を風魔法のように前方へ吹き流した。

 微かな魔力の風が、フランカと名乗った侍女を覆うと彼女はわずかに身じろぎして、当惑してイシュルの顔を見つめた。

 そのフードに隠れた顔が、イシュルには昼間のようにはっきりと見ることができた。

 二十歳(はたち)くらいの、栗色の髪の若い女だった。よく整った、だがどこといって特徴のない顔だった。

「これはなかなか」

 イシュルは幾分声を落として女に言った。

「さすがアプロシウスの精霊。うまく化けたな、レナ」

 後宮の侍女、ニッツアの使者フランカは彼女の双子の精霊の片割れ、レナが変身していたのだった。

「さすがにイシュルさまには、ばれてしまいますか。何か怪しげな技を使いました?」

「ああ、だがおまえが気にする必要はない」

 イシュルは視線を厳しく、声音を落として言った。

「失礼しました」

 レナは頭を深く下げてお辞儀をした。動揺したか、面(おもて)に出た表情を隠したようにみえた。

「……それでは、わたしの後について来てください」

 顔を上げるともう立ち直ったか、貴人に仕えるメイドらしく、彼女はほんの微かな笑みを浮かべ、右手を奥の、深い闇の方へ掲げた。心のうちを完璧に隠し、一切の感情を見せなかった。

 そのまま後ろについて奥へ進むと、すぐ細い裏道に出た。左に曲がり、しばらく進むと交差する裏道を右に曲がった。いつの間にか行き交う人の気配が消え、夜の冷気も、雲間に透ける月の光も、軒の黒い影も、すべてが起伏の乏しい、あやふやな空間の向こうへ沈んで飲み込まれていった。

 ただの壁、ただの道、ただの暗闇。その路地の突き当りにあの、露店の魔法具屋があった。

「おお、これは驚いた」

 小さな壺や皿、花瓶、香炉、首飾りや手鏡、何かの小箱など呪具の類いか、ほとんどがらくた同然の商品が並んだ奥に、黒く丸い塊のチェリオがいた。

「久しぶりだな、婆さん。元気か」

 イシュルは口角を歪め、眇めに見て言った。  

「ふむ、しかしお主は変わらんの」

「何がだ」

「五つの魔法具を揃えたろうに、見た目はふつうの人間と変わらん」

「当たり前だろ。神の魔法具を全部揃えると、化け物にでもなってしまうのか」

「そうは言っとらん」

「そういえばあんた、ヘレスかレーリアを呼び出す方法、何か知ってるか」

「そんなこと知っているわけがない」

「あとそうだな。南の方、中海の方にすぐ行けるか? “道”を持ってないか」

「……」

 チェリアは無言で首を横に振った。

「あの、そろそろいいでしょうか」

 横から後宮のメイドに化けたレナが口を挟んだ。

「チェリアさん、お願いしていたものは出来上がりましたか」

「おお、こちらじゃ」

 チェリアは下の方から油紙に包まれた筒状のものを取り出し、レナに渡した。

「しかし、お主がこの女子(おなご)に付いてくるとはの」

 チェリアは肩をすぼめ、より丸くして溜め息を吐くと、「まことに怖ろしいことじゃ」と呟いた。

「イシュルさま、中身をあらためますか?」

 レナが薄っすらと笑みを浮かべ、油紙に包まれた筒を差し出してきた。

「いや……、いい。おまえこそ中身を見なくていいのか」

 興味はあったが、検分後にいくらでも見せてもらえるだろうし、今すぐ見る必要はない。王城か大聖堂か、後で見せてもらった時に初見の反応ができず、同席した者たちから無用な疑いを受けるかもしれない。

「わたしは、大丈夫です。チェリアさんを信用していますから」

 レナは聖王家の侍女として完璧な、爽やかな笑みを浮かべて言った。

「わたしは客の名を知らされておらんがの」

 チェリアは呟くようにぼそっと言ったが、レナは聞き逃さず、笑みを浮かべたままより柔らかい口調で言った。

「詮索は無用に願いますわ。イシュルさまに付き添っていただいたのだから、客が誰か、おおよその見当がつくかもしれませんが」

 ……俺が護衛につく、ということは聖王家か大聖堂の上の方か、ディエラード公爵家以外に考えられない。ここは聖都だから、ラディス王国の者とは考えにくい。

「雉(きじ)も鳴かずば討たれまい、じゃ。わたしゃ、何も喋らんて」

 チェリアは肩をすぼめたまま、静かに言った。しばらく見ぬ間にだいぶ老いたように見えた。

 ……雉? なんだそれは。まあ、こちらにも前世と似たような諺はあるんだろうが。

 イシュルは首をかしげ、視線を明後日の方に向けた。

 

 

 チェリアの店を出て迷いの結界も抜けると、イシュルはレナにひとつ、質問した。

「代金はどうした? もう払ったのか」

「はい、先払いです」

「いくら? いや、魔法具あたりを差し出したか」

「そうです。金貨はかさばりますから」

「ふーん」

「それではイシュルさま。次はいよいよ主神の間に侵入して、この巻き物を差し替える大事なお仕事になります」

 つまらなそうな顔をしたイシュルに、レナは一瞬、挑戦的な視線を向け、冷たい笑いをみせた。

「それではまた、お会いしましょう。主からの連絡をお待ちください」

 言いながら全身を横に滑らせるようにして、背景の闇に融けるように消えた。

「……」

 イシュルはその、路地裏の暗がりを無言でしばらく見つめると、未だ往来が絶えないオービエ通りに向かっておもむろに歩き出した。

 帰りはフードを外し顔を出して、通りの真ん中を堂々と歩いた。明かりと暗がり、さまざまな人々が交錯するなか、誰もイシュルに注意をはらう者はいなかった。

 そのまま雑踏にまぎれ東へ進み、裏を流れる運河に面した商家の並ぶ通りに出てすぐ。イシュルは不意に、まだ開いている店の前で髭ずらの大男に呼び止められた。

「遅かったな。今度の護衛はあんただろ?」

 男は薄汚れたオーバーオールのような作業服を着ていた。恰幅があり歳はいっていて、店の持ち舟の人夫頭あたりかと思われた。

「傭兵ギルドから来たんだろ。夜が明けたら出発だ」

 イシュルは今は、マントに片手剣を下げている。人夫頭は川船に乗り込む契約をした傭兵、用心棒と勘違いしたようだった。

「あそこで旦那が待ってるぜ」

 旦那とは船主か、船頭か。幾つものランプに照らされた店の中、酒樽や木箱の積み上げられた奥に、もう少し身なりのいい男の姿が見えた。

「……!!」

 イシュルはその男の顔を見て、呆然となった。

 男はかつて何度も顔を合わせたラディス王国の影働き、“髭”の小頭(こがしら)のエバンだった。

 

 

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