そは呪文なり 4
……怖ろしい。
イシュルは顔面に微笑を貼り付け、ニッツアを呆然と見つめた。
これで七歳? 八歳か。
まさしく遊んでるわけだ。だから、どうせ遊びだからこの際、おもいっきりやっちゃおう、ってことなんだろう。
まあ、もしものことを考えてきれいさっぱり、すべての書物を燃やしてしまおう、という考えは確かに一理あるが。
だが、今から王家や教会に恨みを持つ者を集め、組織化して事を起こすなんてどう考えても無理だ。時間があまりにも足りない。まず、どうやってそんな連中を探し出すか、そこから考えなくちゃならない。
荒事で行く場合、俺も考えていたことだが、実際にことを起こすのはこちらで彼らの名を騙るだけであったとしても、遺恨があり実際に動きそうな者たちを見つけ、特定しておく必要がある。でないと襲撃の蓋然性を担保できない。そこをあやふやにはできない。
「……」
と、ニッツアもひと息をおいて薄く笑みを浮かべた。
そのまま、じっと黙って何も言わない。
「ん?」
……まさか。
イシュルは笑みを消して、あらためて眸に力を込め彼女を見つめた。
そしてゆっくりと彼女の背後、横に立つメイドに視線を移した。
リーザと呼ばれた女は完璧な微笑みを浮かべ、彫像のように不動でその場に直立している。
揺動の魔法具を持つ女。プロの影働きの感じはしないが、まったく隙を見せない。
「そこの侍女は、きみの兄君が付けてくれたのか」
……もちろん、サロモンの手配した侍女をこの場に同道させるなど、あり得ない話だが。
「ふふ」
ニッツアはそこで声に出して笑った。
「イシュルお兄さまは、面白いことをおっしゃいますのね」
「いや。一応、確認しとこうと思っただけさ」
……やはり、そうなのか。
思わず溜め息が漏れる。
「リーザと言ったかな? 彼女のような者は後宮に何人いる?」
溜め息だけですむ筈もない。どうしても、皮肉に口端が歪んでいくのを止められない。
「きみは彼女のような侍女を、何人仕立てた?」
「ふふっ」
ニッツアはまた、声に出して笑った。もっと大きな、怖ろしい声で。
「それなりの人数、とだけ」
笑みを柔和に、可愛く首を傾ける。
子どもらしい仕草だ。外見からは嫌みをまったく感じない。
「……まったく」
小さく呻いて、腕を組んだ。上体を椅子の背にあずける。
……この少女は、おそらく魑魅魍魎(ちみもうりょう)の住処であろう後宮において、身の回りの複数の侍女を、自分だけの完全な従僕に仕立て直したのだ。
それは彼女の背後に控えるリーザを見れば、明々白々である。
ニッツアはいったいどこから調達したか、彼女に重要な魔法具を与え、このような謀議の場に従者として連れてきている。
一方、そのリーザは主人に万全の信頼と尊崇の念を抱いているのが、その表情や仕草から十分に感得できる。
この主従関係は金や地位、あるいは恫喝や暴力など、利害によって形成されたものではなく、また法や制度による義務からのものでもなく、例えばその者の一生を左右するような無窮の恩恵を与え、完全な信頼と敬意を得て身も心もすべてを従属させた、そんな繋がりだ。
時に妬み嫉み、蔑みや嫌悪、憎悪渦巻く後宮にあって、もし相手の弱みを握ったらどうするか。ただその弱点をもって貶めるのではなく、その弱みをより大きく重くさせ、頃合いを見て逆に救済し恩を売り味方にする方が、そのようにして味方を増やしていく方がはるかに有益だろう。
元から後宮の頂点に立つニッツアが、多くの従僕の真心からの忠誠を得ることができたなら、それは後宮の真の支配者であるサロモンをも超越する、絶対の権力を獲得するかもしれない。
組織、集団における優れた支配者は、そのようにして自らの地位を確立していく。ニッツアはまだ年若いが、すでにそれを完成させようとしているようだ。
己の意のままに動く多数の侍女を得ることは、彼女たちの背後にいる多くの貴族や神官、富商らとさまざまな、時に有意な関係を持つことに繋がる。
かくしてニッツアの元には、さまざまな情報や金品、権力が集まることになる……。
「その襲撃の駒となる連中、王家や大聖堂に恨みを持つ者とやらに、もう渡りをつけて集めているわけか。きみのつくったその、人脈を使って」
目を眇め、イシュルはそれをはっきりと指摘した。
「はい」
ニッツアはだが何ら悪びれることなく、にっこり微笑み頷いた。
「わたしの差し金であることはもちろん、計画の細部もまだ明かしていませんが。今からでは間に合いませんから、一応、先行して進めていましたの」
「なるほど、そうか」
イシュルは食卓の上に身を乗り出し、両肘をついてその上に顎を乗せた。
歪んだ笑みはそのまま変えず、続けて言った。
「確かに、きみのそのやり方は間違いがない、確実に証拠を消せるが、俺はあまり賛成できないな」
……さて、ニッツアはどう出るか。
じっと、彼女の眸を覗き込む。
「ビオナートの遺した偽書だが、今回見つかったのは禁忌に触れるものばかりでも、一方でとても価値のある重要なものなんだろう? そういった貴重な文献を、いくらその方が安全だからと言ってすべて処分してしまおうと、簡単に結論を出してしまうのはよくないんじゃないかな。大陸の歴史や魔法の学問的な発展のためにも、すべての書物を灰燼に帰すのは、やめるべきだ」
「でも、 価値があるからといって、 “禁書”を残しておいて、そのままでいいのでしょうか?」
ニッツアの声に、からかうような口調が混ざる。
真面目に言い返しているのではない。
「そこは長い目で見るべきだろう」
こちらも口調を柔らかく、変える。
「今は封印しておくにしても、時代が変わればいずれ、禁書指定も解けるだろう」
公的に禁書指定するのは、聖堂教会と各国ごとの王家だ。それを解除するのも同じ存在だが、もし当の王家が滅べば同様の結果になる。
「きみのような身分にある者は、先のことも見越して、広く大陸の学問知識の擁護者であるべきだ」
……まだだ、もうひとつ言っておくことがある。
「それに、だ。そんな大事にして襲撃に関わる人数を増やすと、事前に計画が露見したり、襲撃時に捕縛者が出る危険性も高くなる。きみの身辺にまで、捜査の手が及ぶようなこともあるかもしれないぞ」
「そう、……ですわね」
最後は少し、脅すような口調になってしまったが、ニッツアの声音は柔らかいまま、だ。表情も変わらない。
彼女はひと息おいて、はっきり頷いてみせた。
「ではイシュルお兄さまの言うとおり、大掛かりな襲撃はやめておきましょうか」
そして案外にあっさり、自分の意見を引っ込めた。
「それではどうします? 人数を絞って、控えめにやりましょうか。──それとも」
ニッツアは可愛らしく、完璧な仕草で小首をかしげる。
「イシュルお兄さまの推している、複製とすり替える案でいきましょうか。それなら確かに、貴重な文献を失わずにすみます」
首を横に傾けたまま何度目か、にっこりと笑みを浮かべる。
「ああ、そうだな」
……俺の考えを詳しく知るために、わざと過激な襲撃案を提示してきたわけか。
ニッツアは別に、襲撃案に拘っていたわけではなかったのだ。
この少女は、自分がどんな顔をしてどのように喋れば相手を惹きつけ、あるいは相手を丸め込めるかよくわかっている。この歳であっても。
「きみ以外、発見されたビオナートの書物の中身をすべて、一言一句にいたるまで覚えている者はいない。発見したデシオたちも、大まかに内容を把握し目録をつくっただけだ。本格的な筆写や複製はこれから、検分が終わってからだ」
イシュルはそこでひと息つき、眸を細めて言った。
「きみはネーフらを召喚した巻物に何が書かれていたか、どんな呪文や魔法陣が描かれていたか、憶えているだろう? いや、召喚する前に筆写しておいたのかな?」
「はい、それはもう」
ニッツアは当然のごとく、にこやかに笑って頷いた。
コラーノ・バラルディを追っておびき出されたあの夜、ダリーノ郊外の墓地で、彼女からその時の話は聞いている。
ニッツアは発見されたビオナートの禁書を、まだ聖堂教会と王家の間で言い争い、調整がつかない時期に、教会側の配置した見張りを眠らせ何度か盗み見している。その時に精霊神アプロシウスに直接仕える大精霊を召喚できる、貴重な巻物(スクロール)を発見し私(わたくし)してしまった。
彼女は自らの欲望に負け、その“精霊神の精霊”、双子のネーフとレナを召喚し契約した後になって事の重大さに戦慄し、どうにか自身の犯行を隠蔽しようと思案し、そこで俺の噂を耳にし助力を得ようと画策した。
彼女は俺が閲覧を希望していた、古代ウルク王国興亡史末巻の抄本、ヒメノス王子の反乱の項に五つの魔法具に関する記述があるのを思い出し、そこでもう一度主神の間の地下に潜り、例の書物を抜き取り、装丁のみ似せてつくったダミーとすり替えた。
「わたしが思わず盗んで使ってしまったスクロール、 書名を“精霊神の双子”といいますが──の複製も、もちろん一緒に進めていますわ」
ニッツアはここに来てはじめて、問題の巻物の表題を明らかにした。そして胸を張り、ほんの少しだけ子供らしい、自慢気な顏をした。
わたしのやることに抜かりはない、とでも言いたいのだろう。彼女はネーフとレナを召喚する前に、巻紙の文面をすべて筆写し、羊皮紙の材質や状態、装丁も詳細に調べ記録しておいた。
「確か元の巻物にあった神聖文字が、きみの手のひらに転写されたんだったよな」
「転写、……ですか。イシュルお兄さまはよく、聞きなれない言葉を使いますわね」
ニッツアはわずかに首をかしげて言った。
彼女は精霊を召喚した後のことをもう一度、さらに詳しく話した。
巻物に書かれた指示に従って儀式を行い、呪文を唱えると無事、ネーフとレナの双子の精霊の召喚に成功し、彼らと契約すると、ニッツアの左右の手のひらにラテン語と梵字を足して二で割ったような、古代ウルクの神聖文字がひと文字ずつ、浮き上がってきた。それは右の手のひらに現れた文字が「男(の精霊)」を意味し、左の方が「女(の精霊)」を意味したが、元は巻物に描かれた魔法円の中に書かれた文字だった。それがニッツアが双子の精霊と契約した時点で消えてしまい、あらたに彼女の左右の手のひらにひと文字ずつ、現れたのだった。
「ご存じのとおり、巻物本体はそれ以上損なわれることがなかったので、急ぎ元の場所に戻してきたわけです」
通常、何らかの魔法を発動できる巻物(スクロール)は使用は一度きりで、使用と同時に巻物すべてが燃えて灰となったり、砂のように塵と化して消えてなくなってしまうか、今回のように描かれた魔法陣や呪文のみが消えたり、その部分が焼け焦げたりして判読できなくなったりする場合がほとんどだ。
運よく“精霊神の双子”は、巻物の一部の文字が消えただけだったので、広げて中身を読まれない限り露見することはない。何か特殊な魔法や魔力を当てて調べられたりすれば、その限りではないが。
「その時にイシュルお兄さまご所望の“ウルク王国興亡史末巻”も拝借して、“精霊神の双子”と一緒に筆写と複製を進めましたの」
“ウルク王国興亡史末巻”抄本の写本と、“精霊神の双子”の複製品が完成すると、ニッツアは“ウルク王国興亡史末巻”の原本はそのまま手許に隠し持ち、“精霊神の双子”の複製品を戻しておいた巻紙原本とすり替えた。
「それは……?」
念のため、巻紙の複製品を作っておくのはいいとして、原本の方はそのまま元の場所に置いておいた方がいいと思うんだが。
「元の巻紙の、魔法円から消えてしまった神聖文字を、もう一度書き入れるためですわ。それも、偽造をお願いした同じ者に発注しましたの」
「なるほど。その神聖文字を書いてもらったら、また主神の間の地下に潜って模造品と差し替えるわけか」
たとえ何の魔力も込められてない神聖文字であっても、ただ消えてしまっているよりは、すぐに露見することはないかもしれない。
だが、専門の学者や学識の高い魔導師らが精密に鑑定したら、その神聖文字が後から書かれたものだとバレてしまうのではないか。
まあ、最初に中身を検分し目録を作った教会の者も、さすがに“精霊神の双子”の中身の魔法円に書かれた神聖文字が消えてしまったことはすぐ気づくだろうから、どちらに重きをおくかといえば、たとえ後になってバレる可能性があるとしても、すぐに露見するよりははるかにましだ。
そもそも、ビオナートの見つけた書物はほとんどが偽書だったのだ。やつが生前、貴重な書物と判断して分別したものであっても、そこに一部偽造品、贋作が混じっていても何らおかしいことではない。その、後から書き足した神聖文字が、ごく最近書かれたものだとバレなければ、何の問題もないのである。
「はい、そうです」
ニッツアは品よく頷くと、
「その神聖文字を書き入れた巻紙が出来上がったので、イシュルお兄さまに引き取りに行っていただきたいのです」
思わぬことを言ってきた。
「俺が?」
……なぜ、俺が取りにいかなきゃならないのか。それくらい、いくらでも人がいるだろうに。
「わたしが注文を出した者に一度、イシュルお兄さまも会っておいて欲しいんです」
イシュルが疑問を口にすると、ニッツアはいつもの微笑を浮かべ続けて言った。
「相手は魔導師組合に店を出している、チェリアですわ」
「チェリア、だと?」
イシュルは思わず呆然と、ニッツアの顔を眺めた。
……いきなり意外な名前が出てきた。
まあ、魔法具屋として唯一、ラディス王家と聖王家、ふたつの王家に出入りしているくらいだから、その手のいかがわしい副業、巻紙(スクロール)の偽造くらいは請け負っていてもおかしくない。
「もちろん本人が直接、すべての仕事をしているわけではないと思いますよ。おの老婆も長いですから、たくさん、いろいろな伝手があるのでしょう」
「なるほどな。だが、そこでなぜ俺なんだ?」
「はい、イシュルお兄さまが出張っていけば、チェリアは驚き、より堅くあの口を閉ざすでしょう」
ニッツアによればチェリアは商売上、当然だがそれなりに口が堅く、彼女と取引してもそれが外に漏れることは基本ない。だが、もちろん何事にも例外はある。その取引とやらの中身を知りたい者がいるとして、その者が彼女の客より強い立場にあり、彼女自身の命も簡単に奪えるような存在だったりすると、取引の内容もその者に漏れることになるだろう。
「たとえば、お兄さま──サロモン王に気づかれてチェリアに脅しをかけたら、彼女だって自分の命が惜しいですから、すべて話してしまうでしょう。当たり前のことですわ」
「ふむ。そこで俺、か」
イシュルは少しうんざりした顔になって首肯した。
「はい、そうです。あの老婆はサロモン王と、五つの神の魔法具の所有者、イシュル・ベルシュと秤にかけて、どちらを取ると思いますか?」
ニッツアはここぞとばかり、可憐な笑みを浮かべた。
「それはイシュルお兄さまに決まってますわ。この世であなたさまより強い存在はいません」
……俺がニッツアの陣営にいるとわかったら、確かにチェリアはこちらを絶対に裏切らないだろう。
「だから、あの婆さんからブツを引き取る時に俺の顔を見せておく、ということか」
「ブツ、……ですか?」
聞きなれない言葉に首を傾げるニッツアに、イシュルは脱力した笑みを浮かべた。
「それで、その巻物をいつ、誰が、いま現地に置いてある偽物と置き換える? 少しでも早い方がいいんじゃないか」
イシュルはニッツアの疑問を無視して話を先に進めた。
「その役目はイシュルお兄さまにお願いしようと思いますの。わたくしからもネーフとレナを出します。時期は、そうですわね……」
ニッツアはそこで演技かそうでないか、顎先に人差し指を当て考え込む仕草をした。
「きみの、あの双子の助力は必要ない」
イシュルは思案するニッツアにかまわず、話を先に進めた。
……あんなやつらがいたら、ただ邪魔なだけだろう。
「現場で口出ししない、こちらの邪魔をしないと約束できるなら、立ち会いだけは認めよう。きみも俺がちゃんと仕事をするか、確認したいだろうしな」
「まあ」
ニッツアは手の甲を口に当て、それらしい驚きの声を上げた。
「ネーフとレナは、イシュルお兄さまが怖くて仕方ないのです。だから負けじとあんな態度を取るんですわ。一喝すれば、すぐ大人しくなります」
「……」
背後の、部屋の扉の横で控えていたネーフが、かるく身じろぎする気配がした。
……しかし、ニッツアの物言いがいちいち、すべて子どものそれじゃない。
イシュルはただ口角を引き上げただけで、無言でやり過ごした。
「実は、イシュルお兄さまが聖都にいらしたあたりから、封印された禁書の警備が一段、さらに厳しくなったのです」
「ふん、俺が来てからか?」
イシュルは先日、禁書類の見つかった主神の間の地下──つまり建設中の大聖堂の横を飛行しながら通り過ぎた時の、なかなか厳重な警戒ぶりを思い浮かべた。
「ふふ」
ニッツアは何が可笑しいのか、小声で笑って続けた。
「正確にはイシュルお兄さまの登場で、王家と教会で話し合われていた両者の取り分や、国王と総神官長の立会いによる禁書検分の挙行が急遽、正式に決定したのです。それまでは互いに、厳しい駆け引きの応酬でしたのに」
「なるほど」
……自分がどういう存在か何となく、いや、とても良くわかる。
イシュルはわずかに表情を歪め、ぎこちなく頷いた。
「俺を重石にして、ことを運ぼうということか」
「そうです。イシュルお兄さまは聖王家とも教会とも良好な関係にあり、世界に比肩するもののない、最強の存在。しかも私利私欲のない、よく道理をわきまえたお方。今度の禁書検分では、お兄さまと教会、両方から立会人をお願いされているのでしょう?」
「そうだな」
イシュルはもう一度、不承不承といった感じで頷いた。
「お偉方そろっての検分とあっては、粗相のないよう、偽書の封印をしっかりと守らないとな。警備が厳重になるのももっともだが──」
「そう、話が少し、横にそれてしまいましたわね」
時間がないと言っていた筈だが、ニッツアは余裕しゃくしゃくで楽しそうに会話を続ける。
「前王の偽書が見つかった当初は、いえ、お兄さまに知られて騒ぎになった後も、しばらくは何とか見張りを眠らせて盗み見ることができたのですけど、イシュルお兄さまが聖都に向かったと、ルフレイドお兄さまから知らせがあった後、しばらくして何人もの魔導師に加え、複数の精霊も常時見張りにつくようになったのです。あれはちょうど、イシュルお兄さまに調停役を任せようと王家と教会、両者の間で意見が一致した頃と符合しますわ」
「きみの兄君とウルトゥーロさまによる検分が、正式に決まった頃合い、ということだな」
「はい。見張りについている魔導師らとその契約精霊は皆、なかなかの者。ネーフとレナの力を借りても、今までのように容易く見ることができなくなってしまいました」
「ふーん、そうなのか? おまえたち兄妹じゃ無理か」
イシュルは後ろを振り返り、ネーフにわざとらしく問いかけた。
「ちっ、俺たちが本気を出せば簡単だ」
ネーフはイシュルの挑発など気にもかけず、つまり何の考えなしに答えた。
「……」
ニッツアの顔を見ると、彼女は乾いた笑みを浮かべていた。
「あとで、お仕置きしなければなりませんね」
「ふふ。まあ、確かに用心するに越したことはないな」
……本当は、ニッツアは俺の力など借りなくても、今の厳しい状況でも禁書類を盗み見て、出し入れすることができるわけだ。
イシュルは、再び身じろぎしたネーフを無視して、話を先に進めた。
「チェリアから巻物を引き取る件は承知した。で、いつ主神の間に潜って差し替える?」
ただ、やはり俺を味方にしておきたい、いや、敵に回すことだけはしたくないんだろうな。
「お引き受けいただき、ありがとうございます」
ニッツアは丁寧に頭を下げて礼を言うと、また首を横に傾け考え込む仕草をした。
「そうですわね。……いつにしましょう」
「俺の方の、ウルク王国興亡史末巻の抄本も、同時に本物と差し替えるわけか」
王国史末巻の方も、主神の間地下には現在、装丁のみ似せてつくったダミーが置かれている。
……ニッツアが迷っているのは、俺にその報酬──古代ウルク王国興亡史末巻の写本をいつ渡すか、そのタイミングを計っているのではないか。
「イシュルお兄さまにご褒美をお渡しするのも、“精霊神の双子”と“ウルク王国興亡史末巻”を戻す時と同時にしましょう。ネーフとレナに立ち会わせますから、ふたりからイシュルお兄さまにその場で直接、お渡しするようにします」
「ああ、それでいいだろう」
「中身を確認するのは、後にしてくださいね」
「もちろん」
……さすがに、現場で中身を読むのは憚られる。検分が終われば本物の方の中身も見せてもらえるだろうが、それは少し後になるし、手許に写本がある方が良いのは確かだ。
「それで、決行は検分の日取りが決まってから、その五日ほど前がいいでしょう」
ニッツアはにこにこと、何気に重要なことをかるく流すように言った。
「ふむ」
「慎重なデシオさまのことです。我が聖王と総神官長の検分が行われる前日か、あるいは数日前に、封印された禁書類の確認を内々に行うでしょう。当日、齟齬があってはまずいですから」
ニッツアの言う齟齬、とはつまり、禁書の一部が紛失していたり、何か危険なものが仕掛けてあったりと、そういうことだろう。
その内々の確認は、検分の日の直前に行うのが良いのだろうが、あまりに近すぎても、それこそ禁書の一部が紛失していたなど万が一事故があった場合、それに対処し調整する時間がとれなくなる。適度に二、三日の余裕を見ておくのがいいだろう。
だからと言って、禁書類の確認を検分当日まで何度も行うのは、その都度土魔法などの施された封印を解かねばならず、大変な手間がかかるし危険でもある。また、検分まで間をあけて一度だけ、たとえば真ん中の日取りで行うなど意味がなく、論外だ。
「ですからデシオさまが確認しようとする、数日前くらいに決行するのがよいと思います」
「検分の日までさらに警備を厳重にして、検分当日まで封印を解かないこともありえるがな」
「それならそれでいいですわ。……というか、もしそれなら」
ニッツアの微笑が少しずつ歪んで、大きくなっていく。
「検分の日に、まさにその時に決行しましょうか。お兄さまと、ウルトゥーロさまの目の前で」
いいことを思いついたと、その小さな手が胸の前で合わされる。
彼女の笑顔は今や満開だ。
「はは」
イシュルは肩をすくめて、力なく笑った。
……勘弁してくれ。
「俺はここまでだ。あとは勝手にしろ」
ニッツアと別れた後、ネーフは同じルートで転移結界を張り、行きとほぼ同じ場所にイシュルを送り届けた。帰りはフェデリカも一緒に転送した。
「……」
ネーフの声に後ろを振り返ると、その精霊は半身を闇の移動結界に沈め、向こう側へ、完全に姿を消そうとしていた。
イシュルはそのまま無言で、ネーフの消えた闇をしばらく見つめていた。
「剣さま、何か」
「……いや」
イシュルは呟くように返事すると前へ向き直り、狭い路地を表通りの方へ向かった。
「しばらく歩いて帰る。人に見つからないよう、ついてきてくれ」
「わかりました」
フェデリカはかるく頭を下げると、瞬きする間もなくすっと姿を消した。
ほとんど魔力を漏らさず、素早い動きで、彼女の実力のほどが窺い知れた。
……打ち合わせの時、ニッツアが話していたこと。
イシュルは気になっていることがあった。今になって、胸がざわつくような不審の念が心中を押し寄せてくる。
彼女は自らの悪事を糊塗するために、実行可能なあらゆる手段を取り、同時に計画を進めていた。
どうしても見過ごせないのは、現在の聖王家や教会に遺恨を持つ者たちを糾合し、主神の間地下を襲撃してすべての禁書類を強奪、もしくは燃やしてしまおうとしていることだ。
これは偽装工作というより、完全な破壊工作だ。王家や教会側に人的被害が出るのも構わない、太陽神の間を再び血で汚す蛮行そのものだ。
今回は何とか阻止したが、もうすでに彼女はその計画もかなり進めていたろう。襲撃のため集められた、選ばれた者たちは今後、どうなるのだろうか。
ニッツアは彼らを組織化して裏から素知らぬ顔で支配し、自らの手駒としてこれからも利用していくのだろうか。それともこれ幸いと、聖王家に仇なす者たちを一気に処分してしまうつもりか。
……いずれにしても、ただ事ですむ話ではない。
連中には黒尖晶の残党も含まれるようだ。なら彼らの報復の対象には、俺自身も含まれる。レニの件もある。
夜も更けて、問屋街の通りは人気(ひとけ)がない。たまに手持ちのランタンを掲げた商人らしき者とすれ違う。今晩は開いている店が一軒もない。通りの西側、すぐ裏側がルグーベル運河に面し、通り沿いの商家はそのほとんどがいわゆる船問屋だ。そのため急ぎの便か、夜を徹して船荷をまとめている店がたまにある。
街灯などなく、足許が暗いがイシュルにとってはどうでもいいことだ。
……危険だが、調べておいた方がいいな。
相手はニッツアの手の者だけではない。尖晶聖堂の影の者たちに知られてはならない。かなりの難事だ。
どこかで犬の、遠吠えが聞こえる。
イシュルは道の先の、夜闇の底を睨んだ。
もしニッツアが、連中を手許に残しておこうとするなら……。
「荒事になるかもしれないな」
後ろで急に、身を震わすフェデリカの気配がした。
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