そは呪文なり 3
まだ夜は浅く、聖都の街は眠っていない。
盛り場の喧騒はここ、閑静な住宅街にあるアデール聖堂にも聞こえてきた。
それが今は遠く、どこかへ消し飛ばされてしまった。
眼下に青い光輪が輝き、その上に水の精霊が跪いている。
……あのアデリア―ヌが、俺に向かって。
「久しぶりだね、アデリア―ヌ」
何とか、いつもの調子で言い切った。
「……」
アデリア―ヌは無言で、たださらに深く頭(こうべ)を垂れた。
「どうしたんだ? そんなあらたまって。らしくないな」
……いや、俺の声も震えている。
動揺を隠せていない。
「い、いえ。泉さま、そのようなことは」
彼女の声はさらに硬い。
どうしてこんなに、変わってしまったのか。
……理由は簡単だ。ひとつしかない。
彼女は俺のことを「泉さま」と呼んだ。“フィオアの泉”は、水の魔法具と同義だ。
「そのかしこまった態度は、俺が水の魔法具を得たからか? アデリア―ヌ」
なるべく穏やかに、静かに語りかける。
「たとえ水神の魔法具を得ようと、俺は何も変わらない。……なあ、顔を上げてくれないか。お願いだ、アデリア―ヌ」
「うっ」
足下で蹲る精霊、彼女の肩がぶるっと震える。
「水の魔法具を持とうと、俺は変わらない」
「……」
もう一度、気持ちを込めて言い切ると、アデリア―ヌはおどおどと逡巡しながら顔を上げた。
以前と何ら変わらない、清廉な美しさを湛えた顔だ。だから神妙な表情が、堪らなく悲しい。
神の魔法具を手に入れると、自ら召喚した精霊以外でも特に敵対していなければ、彼らの多くはこの、アデリアーヌのような態度をとるようになる。
ミラの契約精霊であるシャルカは、俺を「風の魔法具を持つお方」と呼んでいたが、金の魔法具を入手してからは「我が神の宝具を持つお方」と呼ぶようになった。最近は長いのを嫌って「盾の御方」と呼んだりしている。ニナの精霊、エルリーナも俺が水の魔法具を得てからは「泉さま」と呼び方を変え、より丁寧な態度で接するようになった。
レニの精霊、ルカトスのように相性の悪い精霊もいるが、基本的に契約する人間と親密な者には、その契約、召喚精霊も同じように友好的な態度をとる傾向がある。
「アデリアーヌ」
目の前でその名をもう一度呼ぶ。
「い、泉さま──」
辛そうな顔、声だ。
「以前と同じ、“イシュル”でいいんだよ。様付けなんてやめて欲しい」
笑顔でやさしく、だが強引に、被せるように遮る。
同時に、周りに柔らかく清らかな、本物の清流のような水の魔力を流した。
「ううっ」
水のせせらぎ、揺れる澄明な魔力の光がアデリアーヌを打ちのめす。
「俺ときみの仲じゃないか。“決まり”に従う必要なんてないんだよ」
苦しそうで……でも、彼女の眸に強い光が瞬く。
とどめの一押し、だ。
「さあ、俺の目を見て、言ってごらん」
光が、激しく揺れる。
「──くっ、ずるいぞ! イシュル」
アデリア―ヌは叫ぶと、堪え切れずに両目から、玉のような涙を流した。
「ありがとう、アデリア―ヌ」
両手を伸ばし、そっと彼女を抱きしめる。
水精の涙は幾つもの水滴となって宙を舞い、やがて魔力そのものとなって輝き消えていった。
「こういう時は、基本に戻って考えるといいわ」
シビルはお茶をひと飲みすると、以前と同じ人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「五つの魔法具を揃えて、何か変わったことはある? もちろん、五つの系統すべての魔法を使えるようにはなったでしょうけど」
「そうですね……」
話し相手の警戒や緊張を解きほぐす、シビル独特の柔和な口調。だが、対するイシュルの返事は多分に含みのある、歯切れの悪いものだった。
イシュルはあの後、アデリア―ヌに案内され正門横の門衛詰所で、神殿長のシビル・ベークと再会した。詰所は飾り気のない、文字通り小さな事務室そのものの体裁で、かつて何度も通った懐かしい場所だった。
シビルはイシュルが水の魔法具を入手し、五つの魔法具すべてを揃えたことをもちろん知っていたが、直接会って特に驚くことも、感嘆もせず、ただ本人の様子に変わりがないことに、深く安堵しているように見えた。
「……」
シビルはイシュルの顔色を見て笑みを引っ込め、だが口調は変えず続けて言った。
「それはもちろん秘密にしたいこともあるでしょうし、無理に話すことはないわ。でも、太陽神の降臨を目指すなら、あなたに何が起こり、何が変わったか──」
そこでシビルは間をおき、イシュルを真っすぐ見て言った。
「何ができるようになったか、その意味をもう一度よく考えてみることね」
「ええ」
イシュルは僅かに口端を歪めて頷いた。
……何でもない、当たり前の言葉だがまさしく金言だ。
昨晩デシオが指摘したことといい、それはつまり、俺が“世界創造”に関する魔法を使うのが、ヘレスら神々の降臨を促す最も早道だ、ということを言っているわけだ。
なぜなら五つの魔法具を得てはじめて、新たに使えるようになった魔法が “創世魔法“だからだ。当然、今まで誰も使ったことがない、誰も知らない魔法である。有史以来、五つの神の魔法具を揃えた者はひとりもいないのだから、当たり前の話だ。
“創世魔法“などと大仰に言わずとも、俺が使う場合それは前世の記憶をもとに構成されるから、こちらの世界から見ればもっと気安く、“異界の魔法“と言っても差し支えないだろう。
まあ、“創世魔法“にしろ“異界の魔法“にしろ、ただ自分で勝手に名付け、そう呼んでいるだけで、この大陸の魔法界における学問的な裏付けなど何ひとつないのだら、どうでもいい話ではある。
「ふふ」
イシュルは声に出して笑い、続けて言った。
「さすがはシビルさん、まったくそのとおりです」
「……でも、まだ何か足りない、うまくいかない、のかしら」
イシュルの苦笑する顔を見ると、シビルはすぐ察して首を横に傾け、考え込む仕草をした。
「やっぱり、ビオナートさまの残した偽書が目的なのね。どんな本? それとも巻紙(スクロール)か何か?」
シビルはすぐ答えにたどり着き、微かに眸を輝かせ訊いてきた。
「やはりビオナートの遺した禁書類が発見された件、ご存じでしたか」
「それはもちろん。わたし、最近白尖晶からは退いたのだけれど、陛下からのご下問は相変わらず続いているし。その件のお話もあったのよ」
ただ、サロモンからは意見を求められたくらいで、一件の詳細まで知っているわけではない、ということだった。イシュルは、シビルが白尖晶から退いたと言ったことが、些か気になった。
……サロモンと切れていないのなら、シビルが白尖晶を直接指揮していないというだけで、未だ密接な関係があるのは確かだ。カトカは所用があるということでこの場にいないが、それこそ今、彼女は白尖晶がらみで動いているのではないか。
シビルとサロモンの関係、白尖晶の関係については注意が必要だが、まさか敵対しているわけでなし、ニッツアの件を気取られない限り問題ないだろう。それよりもこの先どうすべきか、彼女からも助言を得ることの方がよほど重要だ。
イシュルはかいつまんで、ビオナートの禁書類から見つかったウルク王国興亡史の抄本を調べたい旨、説明した。
「そう、それでわざわざ聖都に戻ってきたのね」
シビルははじめ、ただ純然と笑みを浮かべたが、すぐ皮肉に、意味ありげに口角を歪めた。
「まるで誰かの筋書きに、乗せられているみたい。……やはりヘレスに選ばれた子なのね」
呟くように、最後は誰にも聞こえないような小声で言うと、急に表情を引き締め、はっきり声に出して言った。
「でも気をつけてね。わたしは何も確かなことは言えないけど、ヒメノス王子は破滅したひとだから。史書に書いてあることをそのまま、真に受けない方がいいかもしれないわ。何か間違いが、陥穽が隠されているかもしれない。用心してね」
……シビルさんの助言は本当に、返す返すも為になる。
イシュルはピピン大公の、つまりは精霊神のことを思い浮かべた。そして肩をすくめ、彼女に小さく笑ってみせた。
「それではまたね」
門前でシビルは、いつも会っているような、明日にもまた顔を合わすような気軽な口調で挨拶をしてきた。いつもの、人当たりのよさそうな笑みを浮かべていた。
「ふふ、それでは」
──またいつか。
イシュルはつられて笑みを浮かべ、最後の言葉は飲み込んで別れの挨拶を返した。
まだ、人目のある時間帯なのですぐ飛び立つことはせず、とりあえずそのまま表通りの方へ、ゆっくりと歩いていった。
神殿の石積みの塀沿いに行くと、通りの角に立つ小塔(タレット)の上にアデリア―ヌが姿を現した。
「イシュルっ!」
薄雲の浮かぶ夜空を背景に、清麗な水の輝きを放ちイシュルを見下ろしている。
「やあ、アデリア―ヌ。さっきはありがとう」
先ほどの一件後、彼女はやっと以前と変わらぬ態度で接するようになった。そして二言三言、互いの息災を祝うとすぐ、シビル・ベークを呼んでくれた。
「いや、別に」
アデリア―ヌは少し怒ったような顔をすると、横を向いた。
……ふむふむ、いつもの彼女だ。完全に戻ってくれた。
イシュルは顎に手をやり、したり顔で頷いた。
表通りを往来する人が、ちらちらとイシュルの方を見て通り過ぎて行く。他の者には今、アデリア―ヌの姿は見えないようだ。
「しばらくは都(みやこ)にいるんだろう?」
と、すぐ顔を戻し訊いてくる。
「ああ、ひと月くらいかな」
イシュルはちらっと大聖堂の方を見て答える。
「近頃、また騒がしくなった太陽神の間、か。イシュルもあそこに用があるのか」
アデリア―ヌも大聖堂の地下で何が発見され騒ぎになっているか、おおよそは知っているようだ。
「シビルさんから詳しく聞いてないのか」
「ああ。騒いでいるのは主に人間どもだろう? そんな些事、この神殿に害が及ばぬのならどうでもいいことだ。だが」
アデリア―ヌはそこで眸を輝かせ、続けて言った。
「おまえが関わっているのなら話は別だ。何なら手助けしてやってもいいぞ」
「ふむ。……いや、大丈夫だ」
イシュルは小塔上に浮かぶアデリア―ヌを見上げ、笑みを浮かべて言った。
……強気で、だがどこか恥ずかしそうな表情。もう完全に、以前の彼女に戻った。
「調べものが終わったら、いよいよ神々に請願するのか」
「ああ。ところで、アデリア―ヌはそのことについて、何か知っていることはあるかな」
「いや、わたしは何も」
水の精霊はかぶりを振って否定すると、視線をどこか遠くの方へやった。
「その……」
そしてまたイシュルの顔を見ると、少し強い口調で言った。
「かならず戻ってくるんだぞ。シビル以外にも、たくさんの人間がおまえの帰りを待っている筈だ」
「ああ、そうだな」
……確かに、この長い旅路で俺は多くの知己を得た。もうベルシュ村を襲撃され、家族を、すべてを失った頃の俺ではない……。
「しかし──」
「また」
イシュルと、アデリア―ヌの言が重なった。
何か言おうとしたイシュルに、彼女が遮ってきたのだ。
「また、会えるだろうか。あの時イシュルは、必ず戻ってくるって言ったものな」
「それは」
……それは去年の今頃、ビオナートを滅ぼし彼の野望を打ち砕いて、聖都を去る時彼女に言った言葉だ。
「いつか必ず、戻ってくるさ」と。
イシュルはもう一度笑みを浮かべて、塔上に浮かぶアデリア―ヌを見上げた。
「そうだな。またいつか、必ず戻ってくる」
アデリア―ヌは眸を輝かせ、あの時と同じように笑った。
「ふふ。なら、おまえの帰りをゆっくり待つとしよう。……この地で」
途中から空を飛び公爵邸に戻ってくると、屋敷の屋根の上でフェデリカが待っていた。
「剣さま」
彼女はかるく腰を落とし、頭を垂れた。
「今日はルカトスはいないんだ?」
お帰りなさい、と続けて言ったフェデリカに軽口をたたくと、彼女は顔を上げ唇を尖らせ、不満そうに言った。
「あんなノラ猫はどうでもいいです。それよりも」
彼女の視線が昨晩と同じ、中庭の東屋(あずまや)の方へ向けられる。
「例の客が来ています」
フェデリカは「こちらへ」と言って、イシュルを昨日の夜と同じ中庭へ先導した。
「……ほう」
早くもかるく、夜露に濡れた下草の上に降り立つ。
今夜は捕らえられた闖入者はいない。だが東屋のなかに、昨夜と同じ半透明に輝く人影が見えた。
少し離れたところからウルーラがじっと、身じろぎひとつせず見張っている。
「今晩はおまえか」
おもむろに外に出てきた人影を見て、イシュルは気乗りしない、つまらなそうな声をあげた。
「ふん」
ニッツアの双子の契約精霊の片割れ、男の方のネーフが顎を上げ、ふてぶてしい顔をして言った。
「レナは今日は留守番だ。俺が姫さまの元へ案内する」
「留守番? ……なら、行先は後宮じゃないということか」
「そうだ」
……ということは。
イシュルは顎に手をやり視線を横にそらした。
「ふむ。つまりレナは、後宮でニッツアに化けて、彼女の代役をしているわけか」
……聖王家の貴重な魔法具のひとつ、変わり身の仮面は典型的な精霊神の魔法具だ。アプロシウスの高位精霊なら騙しの魔法、変身もさぞかし得意なことだろう。
この双子はいろいろと、小技をたくさん持っていそうだ……。
イシュルがかるく侮蔑を込めて笑うと、ネーフが悔しそうな表情を見せ、吐き捨てるように言った。
「そんなこと、おまえの知ったことじゃない」
じろっと、睨んできた。
「いいから黙って俺についてこい。姫さまを待たせるな」
「剣さま」
そこで、今まで黙っていたフェデリカが横から口を出してくる。
「わたしも、お供します」
イシュルがフェデリカを見ると、彼女はウルーラへ「後をお願い」と声をかけていた。
ウルーラが小さく頷き返す。
「……」
フェデリカが向き直ると、イシュルも無言で頷いてみせた。
「ふん」
ネーフは横向きに冷たい笑みを浮かべると、その場で大きく跳躍し目前の樫の木を飛び越え、
運河に面した屋敷の西側へ向かった。
「行くぞ」
イシュルはフェデリカにひと声かけると、同じように跳躍し、ネーフの後を追った。
運河を飛び越え、河沿いに並ぶ商家の高い屋根も超える。そのままひと街区ほど行ったところで、密集する家々の間を通る細い裏道に降り立った。
辺りは暗く、人の気配はまったくない。
「ついて来い」
前に立つネーフが振り返り言った。
そして裏道を奥の方へ、暗闇の中をゆっくりと歩き出した。
進むにつれ道幅が細くなり、やがて身体を横にしなければ進めないほどになった。暗闇はより深く、仰げども庇(ひさし)が遮り夜空が見えない。
……明らかにおかしい。もう、何らかの結界に踏み込んでるな。
イシュルは闇の中でひとり微笑むと、前を進むネーフ、後ろに続くフェデリカの気配を確かめた。
「むっ」
次の瞬間、ネーフの気配が突然、闇の底に吸い込まれるようにして消えた。
……さあ、そのまま怖がらずについて来い。
前方、漆黒の闇の向こうから、ネーフの声が心の中を響いてくる。
……この感じ、はじめてじゃないな。どこかで前に一度、経験している。
一歩前へ、踏み出す。
何も変わらない。何気に数歩、前へ進む。
「あっ、ぐっ!」
後ろで奇声がして、フェデリカの気配が消えた。
後方がいきなり遮断されたのだ。
同時に前方の空間が四方へ広がり、足許を一条の光が走った。
銀色に輝く、引っ掻いたようなささくれだった線だ。細い、途切れ途切れの光の線だ。
いつか、どこかで見た銀色。
そして周囲の暗闇も様子が変わった。底の知れない、無限に広がっているような感覚と、ただ一枚の暗幕で遮られただけの薄っぺらな暗闇の、相反する感覚がひとつになって押し寄せてくる。
……これは……。
王城の魔導師の塔で魔法具屋を営む、チェリアの背負った呪い。固定された移動結界だ。
あれとよく似ている。
「……なるほど」
「さあ、その光の線の上を歩いてこちらへ来い」
イシュルが皮肉に歪んだ笑みを浮かべると、ネーフも同時に、侮蔑に満ちた笑い声を上げて言った。
精霊の声は、今度ははっきりと耳に聞こえた。
「くくっ、はは」
イシュルも声を出して笑った。
……あの老婆の背負った呪い、暗闇の移動結界。こうしてもう一度ネーフから見せられると、これ以上精霊神の魔法にふさわしいものもなかろうと、あらためて感心、いや感動さえ覚えるほどだ。
何という皮肉な一致か。チェリアも可哀そうに。
イシュルは精霊に言われるまま、逆らわずに銀線の上を進んだ。
すぐに、ほんの数歩ほどで足許の線が途絶え、暗闇が左右に分かれてそのまま、緑のアーチにすり替わった。半円状に蔦の絡まった門が、頭上にあった。
さわさわと葉擦れの音がして、秋虫の鳴く声がすぐ近くに聞こえた。公爵邸の庭園より、よほど近い。
あまり手入れの行き届いていない、鬱蒼と茂る草木。遠くの高木にぼんやりと輝く月が隠れている。
あまり広いとはいえない、だが貴族の屋敷の庭だ。左手には二階建ての母屋が見える。周囲の地形をさっと“見る”と、バレーヌ広場にほど近い、貴族や富商の屋敷が集中している辺りだ。紫尖晶聖堂からもそれほど離れていない。
ネーフはチェリアとよく似た、あの移動結界を自ら発動し、運河近くの裏道から広場近くのこの屋敷まで、転移してきたのだ。
……しかしいろいろと小技を使う、器用な精霊だ。いかにも精霊神の眷属らしい、ニッツアが気に入りそうな精霊だ。
さて、ネーフに弾かれたフェデリカは……。
「──っと」
近くで、尖った何かが空間を突き破るような感覚。
「うぐっ、く」
ネーフが振り返った瞬間、強力な魔力の放出とともにフェデリカが現れ、宙に浮いたまま片手剣で斬りつけた。
ネーフは何とか間に合い、フェデリカの切っ先を小刀で受けた。彼女の勢いに後ろへ押し倒されそうになり、苦悶の声を上げた。
ふたりの刃から、火花のように魔力が飛び散っている。
「この痴れ者がっ! 今ここで成敗してくれる」
置いていかれてもすぐに追いつくフェデリカは、さすが風の精霊だ。
だが今回は、ネーフに見事に出し抜かれ、すごく怒っている。
「ふむ」
……放っておくとあいつ、本当に成敗されちゃうな。
イシュルはため息を吐くと、ふたりの中間、ぶつかり合う刃のあたりに創世結界の元となる力、五つの元素の合わさった新しい、別世界の力を生み出した。
彼の視線の先、意識を向けた先端に異界の魔力が灯る。
「なっ!」
「うっ!」
フェデリカの殺意と風の魔力、ネーフの恐怖と無系統の魔力。それらが全て、ガラス玉が弾け飛ぶようにして砕け散り、瞬時に消滅する。
フェデリカは何とか剣を構え、姿勢を保って地面に降り立ったが、ネーフは後ろへ引っ繰り返り、尻餅をついてしまった。
「フェデリカ、そこまでだ」
イシュルは低い声で言うとついでネーフを見下ろし、にやりと小さく笑った。
「さあ、姫さまのところへ案内してくれ。待たせてるんだろう?」
屋敷の方へ顎をしゃくって言った。
いささか不作法だが中庭から直接、本邸に入った。
屋内は暗く、閑散としている。わずかに二階の端の方、寝室と思われる部屋に人の寝ている気配がする。
暗がりではっきりしないが、未だに悔しそうな顔をしているだろうネーフの後について、狭い廊下を奥へ進む。
フェデリカは大人しく、気配をおさえ少し離れてついてきている。
ひとつ角を曲がるとぼんやりと灯りの漏れている部屋があり、そこに通されると入ってすぐの正面奥、大きな食卓の向こう側に、ニッツアがぽつんとひとり、座っていた。
「今晩は、イシュルお兄さま」
人形のように整った顔、その笑顔は不気味そのものだったが、彼女の可愛らしい子どもの声が、かろうじてその恐怖を無視できるほどにまで和らげた。
高く柔らかい、耳朶をくすぐるような声音だった。
「やあ、ニッツア。久しぶり」
彼女を中心に燭台がふたつ、左右対象に卓上に置かれている。蝋燭の灯りの中心に、彼女の顔があった。
イシュルは努めて平静に、かるく明るい声で言った。
そして視線を右にやった。
その先、壁際にメイド姿の女がひとり、立っていた。
「この屋敷は彼女の家か」
「そうです。この子はわたしの生まれる前から奉公しているの。ね、リーザ」
ニッツアにふられた侍女はまだ若く、おそらく二十歳前だ。
彼女は一歩前に出ると無言で会釈し、すぐ壁際に退いた。
イシュルはわずかに眸を細めてその女を見た。
……彼女はよく見知った魔法具、おそらく揺動の魔法具を身につけ、微かに起動している。
「さて、イシュルお兄さま。早速ですが、お話に入りましょうか」
ニッツアはかるく「お忙しいところを──」などと型どおりの挨拶をすると、やはり早く済ませ後宮に帰らなければならないのか、すぐ本題に入ってきた。
「あの巻紙(スクロール)の件、何か妙案がありまして?」
「いや、特に。これはと思えるようないい案は思いつかなかったな」
イシュルは薄笑いを浮かべ、平然と言ってのけた。
「こんな時は危険の少ない、確実な正攻法でいくしかないんじゃないかな。あっと驚くような名案はないと思う」
「そうですわね。わたしも奇策と呼べるような案は浮かびませんでした」
ニッツアは夜にふさわしくない、可憐な笑みを浮かべた。
「方法は大きくふたつ。きみが盗み出した巻紙の完璧な複製を作って、本物と差し替えてしまうこと」
今も禁書類がそのまま、厳重に保管されている主神の座の地下まで、誰にも知られずに差し替えなければならないが、それができるのなら、偽の巻紙を置いてきても構わない。
そもそも、その巻紙が例えば遥か昔に使用された、双子の精霊の召喚済みのものであっても、そんなことは普通にあり得るわけで、特に問題とはならないだろう。その巻紙が多くの者に知られた有名な書物で、まだ未使用であるということであれば当然問題になるが、記録の残っていないものなら、すでに使用済みのただの古書だと、それで終わってしまう話だ。
あとは複製品が、聖堂教会や王家の学者たちの目をごまかせる出来であれば良い、ということになる。
「ふたつ目は何者かを装って、禁書類を強奪する方法だ。適当に失敗して、例の巻物を含む幾つかの書物を燃やすなりしてしまえばいい。ただ、この方法は仕込みが大変で手間がかかるがな」
検分前にやるか、隙のできるだろう当日に決行するか、何れにしても相当力のある者でないと不可能なところが、一番の問題だ。教会や王家の護衛、精鋭の裏をかける者、集団などそうはいないだろう。
「わたしも実は、イシュルお兄さまのふたつ目の案を考えていましたの」
イシュルが顎をさすって考え込むと、ニッツアは相変わらず機嫌の良さそうな顔で言った。
「ふーん」
……どう考えても、複製品を忍ばせてしまうのが一番安全な方法なんだが。
それとも聖都では古い紙やインク、当時の文章、書体を真似て書ける者がいない、見つからないとでも言うのか?
いやいや、そんなことはあるまい。古代ウルクの研究をしている神官や学者、古書の蒐集家など、都(みやこ)には少なからずいる筈だ。それに複製した巻物を経年劣化させるのも、風や火の魔法をうまく使えばやれないことはない。器用な精霊を見つければ、彼らに頼めばうまくやってくれるだろう。
「今の王家や大聖堂に遺恨を抱く者は、それなりにおりますのよ。先代王の信奉者や、黒尖晶の生き残りだとか」
「ああ、そうか」
……そういえば黒尖晶、がいたな。レニも奴らの残党を追って俺たちと一緒になったんだ。
イシュルがうんうんと、大きく頷くと、ニッツアはだがとんでもないことを言い出した。
「どうせ荒事で行くなら禁書類はすべて、派手に燃やしてしまいましょう。たまたま、あのスクロールだけが残ってしまうことだって、ないとは言い切れません。王家や教会に恨みを持つ者たちの犯行なのですから、過激にやって構いませんでしょう? すべて破いて、きれいに燃やしてしまいましょう」
ニッツアは「うふふ」と、先ほどとまったく同じ可愛らしい子どもの声で、鈴を鳴らすように笑った。
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