そは呪文なり 2

 

 

 昔、聞いたことのある弦楽器の、あの音。

 遠い、生まれ変わる前に聞いた音だ。

 その弾かれた弦の音が、いつまでも鳴り止まない。

 細かな振動が己の胸のうちを揺さぶり、共鳴して心の奥底を響き渡る。

 古い、掠れた、単調な音だ。

 世界創造の呪文。

 火の大神官の、その言葉を聞いた瞬間、弦が鳴ったのだ。

 ……その資格を有する者が、その魔法を成す。

 彼の言葉が、ヘレスの聖句が、この心を、脳髄を深く抉って居座り続ける。

 来た時と同じ衛兵に、館の外まで送ってもらう。暗く長い、洞窟のような廊下を進んでいく。パタンデール館の外に出た。弦の音が、まだ止まない。

 古い記憶の音は、前世の悔恨と苦渋を呼び起こす。それは生まれ変わって得た第二の家族、村の同胞、彼らの喪失へとつながっている。

 いつもは胸の奥底に眠るようにしているそれが、弦の音に搔き乱されて表面へ浮き上がってくる。

 喉がひりつき全身が強張る。

 苦痛と怖れ、哀しみにからだを震わせ、それでもかまわず夜空へ飛び上がる。

 公爵邸の方に目を向ければ、空を覆っていた重い雲の塊が、北の方で薄く霞んでたなびき、溶けるようにして消えている。

 ……思えばはじめて呪文らしきものを唱えた時、あの時からそれは明らかだったのだ。

 ブリガールを討ち復讐を果たした夜、メリリャを想い聖典の一節を唱えた、あの時だ。

 “願わくば善き精霊と成りて、永久に神々とともにあらんことを”

 死者を弔うその一節は、俺が風の魔法具を持っていたため、そして声に出して、つまり詠唱する形になったため偶然、風の精霊を召喚する呪文になったのだった。

 だがあの時は、精霊の召喚をしようとは微塵も思っていなかった。召喚の仕方も知らなかった。だからか、召喚された精霊は小さな、まだ子どもの半人前の精霊だった。

 聖典に記された、普段唱える何気ない言葉が突然、魔法の呪文に変貌する。それは俺が風の魔法具を得たからだ。その資格を、能力の一端を得たからだ。

 あの時はメリリヤの魂が導いてくれたような、そんな気もしたのだが……。

 いや、その感慨も間違ってはいないだろう。なぜならあの夜、エリスタールの街を出たところで、彼女の姿をした月神がはじめて、俺の前に現れたではないか。

 俺は、魔法を発現する呪文を唱える資格を持っていた。そして、はじめてそれを実行してみせた。それがやつが接触してくる、契機となったのではないか。

 帰りは闇の精霊も襲ってこない。主神の間と禁書を守る精霊たちも、相変わらずひっそりと身を潜めている。

 北の空を見れば雲間から、柔らかな月明りが差し込んでいる。

 速度を落とし、ぼんやりと空に浮かんだ。

 掠れた真綿の向こうに、月は見えるか?

 デシオの笑う顔、言ったこと。

 聖堂教の聖典、世界創造の一節のあの言葉。

 ……そう、俺は知っている。

 風、火、水、地、金の五つの魔法具を揃え、前世の、前の世界を知る俺は、新たな創世魔法を得た。

 それは限定的だが、主神ヘレスのように“世界”を創造する力だ。

 今まで、呪文を唱えて発動するようなことはしなかった。その“世界”は、この世で俺だけが知る世界だ。そんな呪文、どこにも存在しない。

 薄く光る霞の向こうに、月は見えない。レーリアは姿を現さない。

 ブリガールを滅ぼした時と違って、誰もいない、静かな夜だ。

 ……そうだ。俺は知っている。

 そっと、あの誰でも知っている聖句を、声に出してみる。

「我宣す、天地あれ。我想う、光あれ」

 瞬間、視界を閃光が走る。天地が、空間が裂けて──。

 ……っと、危ない。

「ふふ」

 思わず笑いがこみ上げてくる。

 その呪文はやはり発現させたのだ、俺の“世界”を。

 もっとずっと、大きな世界を。 



 微かな月明りを追って、再び北へ、公爵邸の方へ飛びはじめる。

 一度止んだかと思われた弦の音が、まだ消えていなかった。心の奥底から再び立ち昇り、耳朶を震わせる。

 二度三度、頭を振るが音が消えない。拳を握って、胸に当ててみる。

 ……古い記憶が、その音を鳴らしている。

 創造神ヘレスの聖句が俺の意識と、前の世界の記憶と同期した。

 異なるふたつの世界が、ある一点で重なる。

 それは……。

 静かな、何もない夜。 

「ん?」

 眼下に、ディエラード公爵邸の敷地が広がる。

 黒々と沈む樹々の間から、屋敷の屋根がぼんやりと浮き上がって見えた。

 その上に、巨大な猫の化け物がいた。地龍ほどの大きな猫が箱座りして、前足で顔を拭って毛づくろいをしていた。

 ……ルカトス!

 巨大な化け猫は、レニの契約精霊のルカトスだった。

「あいつ」

 主人に言われて、見張りでもしているつもりか。

 俺を怖がって、いつも姿を見せないくせに……。

 ルカトスは一心不乱に前足を舐め、顔を拭ってまた前足を舐め──と、本物の猫と全く変わらず、毛づくろいをしている。

「……」

 空中から降下しながら近寄っていくと、片耳だけをこちらに向けて、背景に透けるように薄く、消えてしまった。

 そのまま、やつのいた屋敷の屋根の上に降り立つ。

「あいつ、何がしたかったんだ?」

 たまたま姿が見えただけか。

「剣さま」

 首をひねっていると突然、背後からフェデリカの声がした。

「屋敷の周りに、不審の者がたくさんおりました。捕らえてウルーラが見張っています」

「おお、そうか」

「中庭へお出でください」

「ああ」

 返事しながら、ふと振り返ってルカトスが箱座りしていた方に目をやると、フェデリカが訊いてきた。

「あの野良猫が、どうかしましたか」

「野良猫? ……いや、いつもあいつ、俺を怖がってか滅多に姿を見せないんだよな」

「ふん」

 フェデリカが薄く笑って言った。

「あれはもともと、イヴェダさまの宮殿の裏庭に出入りしていたただの野良猫です。女官どもの目にとまって可愛がられ、調子にのっているだけです」

「……」

 もともとノラだから、だから俺を怖がっていると、そういいたいのだろうか。

「ふふ」

 しかし、フェデリカがルカトスを知っていたとはな。

「さっ、参りましょう。剣さま」

 フェデリカは右手を中庭の方に広げて言った。

「ああ」

 ……うん?

 ふと、首をかしげた。

「どうしました?」

 フェデリカが少し、怪訝な顔をする。

「いや」

 ……消えた。

 いつの間にか、消えていた。あの、弦の音が。



「ほほう」

 ほかに人気(ひとけ)のない、ディエラード邸の広い中庭、その東側の一角。

 フェデリカに連れていかれた先は大小の樹木に囲まれ、あのドーム型の屋根の東屋(あずまや)がある中庭の片隅だった。

 ピルサとピューリのお気に入りで、イシュルも以前、よく来ていた場所だ。その東屋の前の草地で、ウルーラが待っていた。

 彼女が佇む横には、人間や精霊らしき者が数名、首から下、あるいはそれらしい部位から下を土中に埋められ、土の魔力で拘束されていた。

 一人ひとり、適度な間隔をとって横一列に並べられている。

「杖さま。この者たちが、屋敷に侵入した賊です」

 ウルーラがいつもの、少し舌足らずな口調で言った。

「いかが、いたしましょう」

「あ、ああ」

「あの、まずかったでしょうか」

 イシュルがかるく、たじろぐふうを見せると、彼の隣に降り立ったフェデリカが恐縮して言った。

「いや、いいんだ。よくやった」

 ……俺は捕らえろ、とは言ってないんだがな。適当にあしらって追い払ってもらえば、それでよかったんだが。

 イシュルはフェデリカとウルーラにそれぞれ笑みを浮かべ、小さく何度か頷いてみせた。

 だが、聖都入りして最初の夜だ。どんな者たちが公爵邸に侵入してきたか、調べておくのも悪くはない。

 彼女らが侵入者を捕らえたのも、同じ理由からだろう。

 イシュルは顔を俯け、土中に埋った侵入者たちを見回した。

 手前から人間が四名、ひと型の精霊が一体と形が崩れ、はっきりしない精霊が一体、並んでいる。みな無言で、身動きひとつせず大人しくしている。

「おい、おまえ」

 身を屈め、目の前で俯いている若い男から尋問をはじめる。

「……」

 男は顔を背けたまま、返事をしない。

 地面から露出している首筋から肩口に見える服は、ごく一般的な街の住民の着るものだ。丸首のシャツに袖なしベスト、何の変哲もない。

 年齢は二十代中盤くらいか。顔貌も平凡で特に目を引くものはない。今は空も晴れて、月明りもある。夜目でも十分にわかる。

「おまえ、尖晶聖堂の者じゃないな」

 ……男は明らかにプロ、だが、王家や教会の者ではない。雰囲気で何となくわかる。

「どこかの貴族か商人に雇われたくちか?」

 おそらく傭兵ギルドを通じて、大聖堂の強硬派に与する商人あたりに雇われた猟兵だろう。禁書の所有をめぐって盛り上がっているとはいっても、さすがに前年の、ビオナートの陰謀と王位継承の内紛とは比ぶべくもない。尖晶聖堂や大貴族は動かないだろう。

 彼らが動いているとしても、もっと慎重に、遠くから見張っている程度か。

 ……今のディエラード邸は俺だけじゃない。ミラも帰ってきているし、公爵家の魔導師たちに加えてリフィアとレニ、ニナもいる。恐ろしい魔物たちの巣窟みたいなもので、少しでも事情のわかる者ならとても手出ししようとは思わないだろう。

「まあ、いいか」

 男はやはり無言だったが、イシュルはその隣り、地面から顔を出して並ぶほかの男たちの方も見て言った。

「この屋敷は、おまえらでどうにかできる場所じゃない。俺も拷問や殺しは面倒だし、今晩はこのまま帰してやるから、もう二度と近づくな。雇い主にもよく言っておけ」

 そしてその横に並ぶ、二体の精霊の前に立った。

「さて、おまえたちだが……」

 向かって右の、ひと型の精霊は長い髪を真ん中で分け、背中から羽を生やした若い男か、女か、性別のはっきりしない風の精霊だ。その天使のような翼は、折りたたまれほとんど土の中に埋まっている。

 彼・彼女は人間と違って、イシュルに視線を真っすぐ向けてきた。その隣りの形の崩れた精霊は、だいぶ弱っていてほとんど反応がない。どの系統の精霊かもはっきりしない。

 ……こいつらは、魔法使いと契約している精霊だ。魔法使いを飼っているのなら、傭兵を雇っている連中より一段上の相手と考えるのが妥当だ。

「おまえたちも、相方の魔法使いに言っておけ。次はないぞ、とな」

 とは言っても、たいした相手でないのは同じだ。それにこの程度の奴らに、本気で対応しなければならないほど状況は逼迫していない。

「これでおしまいだ。こいつらは屋敷の外にでも、打ち捨てておけ」

 イシュルはフェデリカとウルーラにそういうと、眸を細めて奥の方、ドーム型の東屋の方を見た。

 ……あそこにもひとり、闖入者がいる。

 東屋の中、腰掛に座る人影が見えた。

「あれは──」

「こいつらを先に、屋敷の外に捨ててこい」

 イシュルはフェデリカを遮り、彼女に命ずると、東屋の方へゆっくりと歩いていった。

「!!」

 背後で風の魔力が渦を巻き、わずかに土埃が立った。捕らえられた男たちが声にならない叫声を上げ、宙に浮かんだ。

 二体の精霊も同じように持ち上げられ、全員が帯状に固められた風の魔力に拘束され、屋敷の西、ルグーベル運河の方へ飛んでいった。

 彼らが視界から消えると、東屋で待っていた人物がゆっくりと外へ出てきた。

 少女の姿をしているが、色や質感がない。全身が青白く、半透明に輝いている。

 人間ではなかった。

「今晩は、イシュルさま」

 その精霊はニッツアの双子の精霊の片割れ、レナだった。彼女はイシュルを直接、その名前で呼んだ。

「ああ、確かレナと言ったか」

 イシュルはいつぞやの夜のように、わずかに肩をすくめて薄く笑みを浮かべた。

「ご主人の使いか」

「はい、左様でございます。我が姫君の命で参りました」

 レナは腰をかがめ、片膝を折ってイシュルに挨拶した。口ぶりも神妙だった。

 だがその顔は裏腹に、相手を揶揄するような歪んだ笑みを湛えていた。

 イシュルの左側からすーっと、ウルーラが前に出てきた。右側からは、少し遅れて屋敷に戻ってきたフェデリカが顔を出した。

 ふたりとも、先ほどより緊張している。

「これからか? 俺はどこに行けばいいんだ? 後宮か」

 イシュルはかまわず、気の抜けた様子でレナに言った。

 ……さすがにもう夜も遅い。今日はいろいろあって疲れた……。

 こいつの不遜な態度なんぞ、どうでもいい。相手をするのも面倒だ。

「もう姫君は御休みになっています。明日の夜、日没後二刻(午後十時頃)にまた伺います。いかがでしょう?」

 何が可笑しいのか、レナの口角がさらに捻り上げられる。

「いいだろう」

 イシュルは短く答えると小さくひとつ、頷いた。

 ……問題の、王家と教会による検分がいつ行われるか。今日のサロモンの話からすると、思ったより早くなりそうな気がする。

 ニッツアの盗み取ったスクロールの模造品をつくって誤魔化すか、検分前に襲撃を偽装して、問題のスクロールを含む幾つかの禁書類を強奪するか。いずれにしても工作の下準備にはそれなりの時間がかかる。

 なるべく早く彼女と会ってどうするか、詳細まで決めてしまうのがいいだろう。

「ありがとうございます。それではこれで、失礼します」

 レナは再び腰を落とし頭を下げると、足元から上へ徐々に霧散し、いかにもな体で姿を消した。

「まったく、虫唾が走る」

 横からフェデリカが、吐き捨てるように言った。

「慇懃無礼とはあいつのことだ。これから少し、とっちめに行ってもいいですかね」

 いたずら好きな少年のような外見に反し、フェデリカは割と堅物な精霊だ。

 一方、いつも控え目なウルーラは、「そんなことやめときなよ」といった感じで、少し不安気な顔をして相方を見ている。

「いやいや、放っておけよ」

 イシュルは屋敷の方へ背を向けて、片手をひらひら振りながら言った。

 ……とにかく、眠い。

「今はな」

 欠伸をかみ殺すと思わず、声に出た。

 本当の相手は、やつらの背後にいる精霊神だ。この先また、ひと悶着あるかもしれない。

 


 ……明るい。

 閉じた瞼から、ぼんやり光が透けている。

 もう朝か。

 ベッドの向こうで、誰かの声がした。何人かいる。

 まだ、寝ていたい……。

 久しぶりの柔らかい、最高の寝心地なんだ。

「──殿。またか、またなのか。本当にそなたは、油断も隙もないな」

「あら。そんなおっしゃりよう、心外ですわ。リフィアさんこそ、朝からどうしてそんなにせわしないの?」

「せわしない? ……いやいや、それはミラ殿だろう。今回も危なった。わたしが飛び込むのがもう少し遅かったら、どんなことになっていたか」

 ……ああ、これは……。

 外でリフィアとミラが言い合っている。

「いつもの、あれか」

 イシュルは口の中で呟くと薄眼を開けた。

 ベッドの天蓋から垂れ下がった帳(とばり)、目の前の薄絹が乱れて、外が見えている。ミラの、真紅のドレスの一部が見えた。

 ふと手許を見ると、掛布団が不自然に捲れ上がっている。

 ……なるほど。これはミラがやったな。俺のベッドに入ってこようとしたのか。

「もうだめだ。とてもじゃないが寝てられない」

 イシュルは上体を起こすと重いっきり伸びをした。

「ふーっ、おはよう。ミラ、リフィア」

 帳をめくると、ふたりは飛び上がって驚き、頬を染めて「おはよう」と言ってきた。

「イシュル、今日もいい天気だぞ。昨日の今日で疲れているだろうが、寝坊は良くないな」

「小薔薇の間で朝食を用意しています。お待ちしていますわ」

 リフィアとミラはそう言うと、そそくさとイシュルの寝室を出て行った。

 入れ替わりに、ロミールが着替えを持って入ってきた。

「ロミール、またか。買収されたな」

 イシュルが鋭い声で言うと、ロミールは顔を青ざめ、震える声で言い返した。

「買収じゃないです。脅されたんです」

 これも何度目か、繰り返されてきたやりとりだった。

 イシュルも途端に顔を曇らせて、申し訳なさそうに言った。

「そうか。……なんか俺のせいで、いつもごめん」



 小薔薇の間には、濃いお茶の香りが漂っていた。

 室内の窓側には明るい陽光が射し込み、輪郭のはっきりした影をつくっている。

 もう朝というより、昼に近い頃合いだった。

「長旅で疲れているのはわかるが、これから朝食とは感心しないな」

 イシュルが食卓に座って白パンを頬張ると、向かいで書類に目を通していたルフィッツオが、難しい顔をして言ってきた。

「まあ、お兄さまったら。イシュルさまは本当に疲れているのです。わたくしたち、まともなベッドで寝るのも久しぶりなのに、酷いですわ」

「わたくしたち、ね」

 ルフィッツオの隣りに座るロメオが、お茶を飲みながらぼそっと呟く。

「はは、いやすいません。遅くなってしまって」

 イシュルは型どおり、頭をかいて愛想笑いを浮かべた。

「なーに」

 そこで横から、リフィアが参戦してくる。

「イシュル、気に病む必要はないぞ。明日からは毎日、わたしが起こしてやる」

「えっ」

 ミラが素っ頓狂な声を出して、リフィアを睨みつけた。

「それは駄目ですわ。イシュルさまを起こすのはわたくしです。なんなら夜も──」

「あー、そういえば」

 そこでイシュルはすかさず、上から被せるようにミラの言を遮った。

「お二人の許嫁の、ピルサとピューリは元気ですか? 昨晩から顔を見ないですが。月神の塔にでも詰めてるんですか」

 王城にある月神の塔は別名、“魔導師の塔”とも呼ばれ、聖王家魔導師団の本部が置かれ、平時から多くの宮廷魔導師が詰めている。

 没落貴族の出で、特殊な火と水の魔法具を持つ双子の少女、ピルサとピューリは何と、ディエラード公爵家の御曹司、これも双子の兄弟のルフィッツオとロメオに見初められ、結婚することになったのだった。

 ピルサとピューリは先日、正式にサンデリーニ公爵の養女となり、今は新鋭の宮廷魔導師として、日々職務に精励しているということだった。いずれ近いうちに婚約し、ほどなく式を挙げることになっているという。

「ああ、ふたりはね」

 ロメオが顔を輝かせて、身を乗り出してきた。話題逸らしは思いのほか、うまくいった。

「ピルサとピューリは今、中海のルロンドに行っている」

 ルフィッツオも負けじと割って入ってきた。

「年末までには帰ってくるよ」

「ルロンドとは、南部の湿地にある王家の出城ですわ。わたしも見習いの頃に行ったことがありますのよ」

「ああ、なるほど」

 聖王家の若手の宮廷魔導師や見習いは経験を積ませるため、中海に接し多くの河川が無数の三角州を形成する同国南部の湿地帯、同じく南東部の山岳地帯など、魔獣の多数出没する地域に定期的に派遣されることになっている。

 ピルサとピューリも、南部の大三角州に派遣され、頑張っているとのことだった。


 

 その後、ルフィッツオとロメオはレニを連れて王城に上がり、イシュルはミラから、領地に帰ったダリオのかわりに公爵邸で騎士団長代理を務めるナレア・シヴォーリを紹介され、魔導師長のコレットらと茶を喫し、リフィアやニナと中庭を散策し、昼間は旅の疲れを癒しのんびりと過ごした。

 日が暮れると早々、イシュルはニッツアとの約束の前に、王都の街中にあるアデール聖堂に向かった。

 アデール聖堂の神殿長であるシビルに挨拶するのが一応の目的だが、その前に同神殿を守護する水の精霊、アデリアーヌに会いたかった。

 昨日の昼間は近くを通ったが、彼女はずっと気配を消したまま姿も見せなかった。イシュルはそれからずっと、気になっていた。

 屋敷の屋根から運河を越えてひとっ飛び、まだ夜も浅く、誰の妨害も、露骨な監視も受けることなくあっという間にアデール聖堂に到着した。

「……」

 イシュルは聖堂の尖塔の真上、空中に浮いたまま静止すると、辺りをかるく見回し、溜息を吐いて肩を落とした。

「アデリア―ヌが出てこない」

 ……さすがに、それとなく彼女の気配は感じるが、相変わらず何の反応もない。

 どうしてこんなによそよそしいのか。

 俺、何か嫌われるようなことしたろうか?

 だいぶご無沙汰していたからな。へそを曲げて、むくれているんだろうか。

 せっかく水の魔法具も手に入れたのに。

「アデリア―ヌ!」

 イシュルはたまらず、大きな声で彼女の名を呼んだ。

「おっ」

 するとすぐ、足下に水の魔力が渦を巻き、その中心から青白く光る精霊が姿を現した。

 周りを青い光が煌めくと、途端に夜の街の喧噪が遠のき、清浄な夜気が全身を覆った。

「こ、これは」

 長い髪の、美しい水の精霊がイシュルの前に跪いた。

「い、泉さま。このわたくしめをお呼びとは、何事でしょう」

 精霊は顔を伏せたまま、身を堅くし強張った声でたどたどしく言った。

 彼女はまさしく、あのアデリア―ヌだった。

 

 

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