そは呪文なり 1

 


「フェデリカ」

 皆に聞こえるよう、イシュルはわざと声に出して風の精霊に命じた。

「周りに風の結界を張って、外に音が漏れないようにしてくれ」

 土の召喚精霊にも命令する。

「ウルーラも周囲を警戒してくれ。もし、盗み聞きしようとするやつがいたら捕まえろ」

 ミラの言いつけで先に聖都に入り、情報を収集していたルシアの報告を聞くことになったが、めずらしく彼女の方から小薔薇の間を完全に遮音するよう、申し出があった。

「……」

 誰かの、小さな吐息。

 部屋の周囲に、微かな魔力の帳(とばり)がおりる気配がすると、気のせいか室内の照明が僅かに暗くなったように感じた。

 空気が重く、静けさを増していく。

「これでいいだろう」

 何気にイシュルも幾分、声を落として言った。

 ルシアが小薔薇の間に入るとすぐ、ミラの双子の兄、ルフィッツオとロメオがそろって顔を出した。彼らは王宮で、サロモンとともにイシュルが水の魔法具を得た話を聞いた後、その日の公務を終えてから屋敷に帰ってきた。

 ルシアに加え、ルフィッツオらも会話が外に漏れることを警戒し、イシュルに風の魔法で部屋の外と遮断することを頼んできた。

 ……サロモンはああ言っていたが、やはり聖都は緊張しているのかな。

 イシュルは彼らの言うとおり、フェデリカとウルーラに室内の音を外に漏らさず、周囲を特別に警戒するよう命じた。

「うむ、それでははじめようか」

 ルフィッツオの一声で、小薔薇の間にいる全員がルシアに顔を向けた。

 同席している者はイシュル、ミラ、シャルカ、リフィア、ニナ、レニ、それにルフィッツオとロミオ。ルシアを含め9名で、ロミオら従者たちは別室で休んでおり、この場にはいない。

「かしこまりました」

 ルシアはルフィッツオに深くお辞儀をすると、おもむろに話しはじめた。

「大筋はソレール大公さまの配下、バラルディ商会の方からお聞きになっているということで、とりあえず、いま現在の聖都の状況からご説明したいと思います」

 ルシアはそこで言葉を切り、イシュルやミラをはじめ、周囲の者を見渡した。

「……都(みやこ)では今も、両派による多数派工作がさかんに行われておりますが、ちょうど収穫祭の頃にサロモンさまとウルトゥーロさまの間で、大筋で合意に至ったようでございます」

 イシュルはルシアと視線が合うと、そのまま進めてくれとの意を込めて小さくひとつ、頷いた。

 実際はコラーノではなくニッツアから話を聞いたわけだが、ともかくもこうした情報は、なるべく多くの人間から聞いた方がよい。日中のサロモンとの会話も含め、より正確な状況を把握するために必要なことだ。

 昼にサロモンと話した内容は、まだミラたちにも詳しく話してはいないが……。

 イシュルは一瞬、小机を挟んで向かいに座っているルフィッツオとロメオに視線をやった。

 ふたりともサロモンの前ではにこやかな顔をしていたが、今は普段よりもよほど難しい顔をしている。

 ルシアの報告の後は、彼らからも話を聞くことになる。

 サロモンから受けた感触といささか違う空気を漂わす三人が、これからどんなことをしゃべるか、すでに聞いた話と重複しようとも、注意深く耳を傾ける必要がありそうだった。

「お二方が歩み寄られたということで、この度の騒動も山を越えたと思われるかもしれませんが、実はまだ、面倒な問題が山積しているのが実情でございます」

 ルシアの話によると、ビオナートの遺した禁書類、五十数点は聖王家と聖堂教会で個別に分配、二分して所有することに決まった。また、双方ともに相手に譲った書物の写本を制作し、原書と合わせ持つことにしたのだという。つまり前王の禁書一式が2セット、存在することになった。

 かの蔵書がすべて“禁書”とされるなら、ほかに写本が制作されることもないだろう。これでビオナートの遺した希少な、また危険な書物は外に出ることなく、聖王家と教会、両者の面子が潰れることもなくなったわけだ。

「分配というのは?」

 ……その話は初耳だ。昼間にサロモンが言っていた「話がまとまりそう」とはそのことを指していたのか。しかし、禁書を分けるとは、よく合意できたものだ。

「そのことでも、まだ揉めていてな」

 と、ルシアが答える前にルフィッツオが割り込んできた。

 より険しい、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。

「ええと、……つまりどの書物をどちらが所有するか、互いにどうしても欲しい、譲れないものがあって、まだ決着がつかないと。そんな感じですか」

「まあ、それはだいたい、話がついてるんだがな」

 ルフィッツオは奥歯に物が挟まったような言い方をして、大きな溜め息を吐いて胸の前で両腕を組んだ。

「こちらも、大聖堂の方も、まだ納得していない連中がいてね」

 そこでロメオが、とりなすように口を開いた。

「禁書の分配を正式に決定する前に、陛下と総神官長が直々に立ち合って、現場で検分が行われることになっているんだが」

 ロメオはルフィッツオよりも幾分、柔らかな口調で話を続けた。

「それを実際にどのように執り行うか、横から口出ししてくる者が後を絶たず、しつこくてね。なかなか決まらないんだ」

「進行の細かい段取りをどうするか。立会人の人選と人数、当日の護衛や検分にともなう鑑定人の選定、それに写本制作の手配。どれもこれもこちらが決めたことにいちいち文句を言ってくる者がいて、ほとほと手を焼いている」

 と今度はルフィッツオが話を引き継ぐ。

「禁書の分配を決める段階で、納得できずに不満を抱えた人たちがたくさんいてさ。彼らが少しでも王家側に有利になるように、少しでも自分の手柄になるようにと、いろいろと口出ししてくるんだ」

「しかも、だ。大聖堂の方も同じ状況らしい」

「なるほど、聖堂教会の方もですか」

「主要な事柄は決まっているのですが、細かい段取りを決めるところで甲論乙駁、そこから先へ進めないのです」

 と、ルシア。彼女の報告が再開される。

「王宮も教会も互いに多数派工作がはじまっていて、また煩わしい内輪揉めが繰り返されることになりそうです」

「バカバカしい。たわいもないことでまた内紛か?」

 今度はイシュルが不機嫌な顔になって口を挟んだ。

 ……昼間の余裕のありそうだったサロモンの言動は、あれは何だったんだ。

「王家側は、聖都に居住する中堅貴族や宮廷の取り次ぎや書記官たち、教会側は大聖堂の神官や王都の神殿の神殿長らが中心になって動いています。そこへ有力商人やギルドが各派に接近し、加勢しはじめています」

「あまりいい状況じゃないな」

 双方ともに、中堅クラスの動きが活発だ。良くない兆候だ。さすがにビオナートの時ほどでなくとも、このまま放っておくと、また聖都を揺るがすような大きな抗争に発展するかもしれない。

 あのニッツアでさえ、我慢できずに手を付けてしまったお宝があるのだから、些事にもこだわる連中が出てくるのはしょうがない、のだろうが……。

「今回発見された禁書の目録とか、作成済みですよね? 見せてくれませんか」

「ここにはない。目録は王宮と大聖堂、の外部へ持ち出すことは禁じられている」

 イシュルがルフィッツオとロメオに顔を向け訊くと、まずルフィッツオが、幾分押し殺した声で答えた。

「まあ、書物の一覧はぼくたちも見ているし、極秘扱いも形だけで、たいして厳格なものじゃない。だがそのせいで聖都中の貴族や神官、商人にも口伝いに、あっという間に広まってしまってね」

と、続いてロメオがお手上げだというふうに、首を横に振りながら説明してくれた。ふたりは自身のそらんじている書物のタイトルや、その大まかな内容も教えてくれた。

目録は例の、五つの魔法具と主神ヘレスら神々の祝福に関する記述があるとされる、ウルク王国興亡史末巻──ヒメノス王子の暴虐と王国の滅亡を記した史書の抄本をはじめ、類似する多くの悪事、背教が行われたウルク王国末期の内乱を記した他の史籍、マレフィオアなど古代の怪物に触れた記録や、ニッツアが掠め取った秘儀とされる重要な儀式や魔法の書、異端指定された教義の記された書物などが列記され、さらにタイトルのない、巻物(スクロール)や覚書のような紙片類も含まれていた。

……大まかな内容は、ソレールでルフレイドが最初に教えてくれたこととほぼ同じだ。ニッツアの言っていたこととも矛盾はない。

イシュルはそこで、昼間にサロモンから話を聞いて以降、ずっと気になっていたことを質問した。

「それで、それらの書物を聖王家と教会で、どのように分けたんですか?」

「……」

「残された禁書は、非公式の史書や禁忌の教義、伝説上の魔物や、危険な、強力な魔法に関する書物などに分類される。そこで聖堂教会は史書や異端の書物を、我々王家側は希少な魔物や魔法が記された書物を所有することになった」

 イシュルが質問すると、ルフィッツオ、ロメオとルシアの視線が交錯し、ルシアから譲られる形でルフィッツオが答えた。

「つまり、簡単に言えば教会は学問、宗教に関する文献を、我々聖王家は本当に役立つか知れないが、実用書をいただく、ことに決まったわけだ」

 とロメオが、よりわかりやすく説明してくれた。

「なるほど、至極真っ当な決着の仕方ですね」

 ……教会は権威を、王家は権力を取った──理にかなった、当然の結果だ。

「どちらともつかない、はっきり分けられない書物に関しては、個々に双方の代表者で話し合い、サロモンさまとウルトゥーロさまの認可も得て分配されたのですが、そこで不満を持つ方々がいらっしゃって……」

 と最後にルシア。終わりの方は口を濁し、はっきり言葉にしない。

「その者たちが文句を言ってきて、徒党を組んで裏で動いている……と」

 先ほどの苦虫を嚙み潰したような、ルフィッツオの説明につながるわけだ。

「でも、昼間に陛下と話した時は、そんなことは言ってなかったですけどね。特に問題もなく、うまくいっている感じでしたよ」

 そこで今度はイシュルが、ルフィッツオたち、そしてミラやリフィアたちにも、昼間、聖都に向かう路上でサロモンと話した内容を伝えた。

「我々に突き上げてくる者たちのことは、まだ陛下に詳しく教えていないからな」

「うるさく言ってくる連中は僕らで握りつぶしているんだけど、サロモンさまのことだから、知っていても放っておいてるんでしょ。気にするほどのことじゃないんだよ」

「陛下は、お兄さま方やサンデリーニ公爵にまかせているのでしょう。去年のように、内乱一歩手前のような大騒ぎになっているわけではないのですから」

 ルフィッツオ、ロメオに続いて、今まで黙っていたミラが話に加わってきた。

「それより気になるのは、サロモンさまがイシュルさまにおっしゃったことですわ。中立を守って事を荒立てるな、味方しなくてよい、というのはともかく、禁書の検分が終わってから力を貸せ、とはどういうことなのでしょう?」

 ミラはそうは言ったが、口許には微かに笑みを浮かべ、余裕のある表情をしていた。自ら問いかけながら、内心ではその答えがわかっているような、そんなふうに見えた。

「ふむ。わたしもサロモン陛下のお考えが、何となくわかるぞ」

 リフィアが一瞬、ミラと目を合わせイシュルに向き直って言った。

「イシュルはどうなんだ? サロモンさまの思し召しを何とみる?」

「えっ」

 イシュルは言葉を失い、呆然とした顔になった。

 ……リフィアめ、突然俺に振ってきた。

 彼女の眸が、悪戯な色を帯びて輝いている。

「陛下と直接話したのに、何とも思わなかったのか」

 リフィアの、少し楽しげな追及。

「……」

 どういうことだ?

 回りを見渡すと、意味ありげな顔をしているのはミラとリフィアだけではない。レニも、ルフィッツオやロメオも微笑を浮かべていた。

「わからないのは本人だけ、か? イシュル、おまえらしいな」

 リフィアが笑みを深くする。

「なんだ?」

「陛下は、裁定に不満を持つ者に、イシュルさまという重い枷(かせ)をはめようとしているのですわ」

 ミラはいつもの「おほほ」と高笑いをして言った。

「枷?」

 それはつまり……。

「イシュル君、陛下はきみを今度の検分の立会人に指名するつもりだ」

「今度、デシオ・ブニエル殿にも会うんだろう? だったらその時に聞いてみたらいい。あの人も陛下と同じことを考えている筈だ」

 ルフィッツオとロメオは言いながら、まったく同じタイミングで何度も頷いた。

「サロモンさまは、おまえの名声と圧倒的な力を背景に、反発する聖都の貴族や神官どもを問答無用で押さえつけ、黙らせようとしているんだろう」

「自ら騎士団を率いてイシュルさまを出迎え、王城入りにわざわざボリーノ通りを選んだのも、ただ聖王家の権勢を高めるだけではないのです」

「イシュルはそういうことには無頓着で、気がまわらないんだね。陛下と総神官長の検分後に正式な合意書が作られるわけだけど、そこには保証人としてイシュルも著名することになると思うよ」

 リフィア、ミラ、そしてレニまで口を出してきた。

「赤帝龍を滅ぼし、五つの神の魔法具を持つイシュルさまが仲立ちすると知れ渡ったら、聖都で禁書の分配に反対する者は誰ひとり、いなくなるでしょう」

 と、最後はルシアが締めた。

 今ひとつ反応が薄かったのはシャルカはともかく、ニナとイシュルだけ。

「まあ、そんなことだとは思っていたけどさ」

 ……サロモンの、昼間のあの態度。

 渡りに船と、俺の名前を貸してくれと、そういう話だったわけだ。

 しかし、アルサールへの密入国には、彼の身内のルフレイドに随分と世話になっている。聖堂教会の頼みを断る理由もないし、ここは名前を貸すくらい別にいいんだが……。

 俺の名前が聖王国の正史にはっきり、残ってしまうな。

 何となく面白くない、イシュルであった。



 屋敷の者も皆、寝静まったその日の夜更け。

 イシュルは、天蓋付きの豪奢なベッドから這い出ると、冬用の黒革のコートを着込み、かるく首や肩を回しながら北の窓際に近寄った。

 ルシアの報告、そしてルフィッツオらと話し合った後、イシュルは去年、ディエラード邸に滞在していた時と同じ、屋敷の東南二階の角部屋を割り当てられ、いつもより早めに床についた。

 ミラたち、ロミオら従僕もみな旅疲れで、今晩は早めに就寝した。イシュルはだが、一刻ほど眠っただけですぐ目を覚まし、聖都に到着したその日に早速、深夜だがひとりで外出することにした。

 先日、内密に渡されたデシオ・ブニエルからの書きつけには、いつでもいい、なるべく早く会いたい旨記されていた。

 昼間の派手な凱旋でイシュル一行が聖都に入ったことは、当然大聖堂の、デシオらの耳にも届いているだろう。

イシュルは聖王家と聖堂教会と、なるべく公平を期すためにも、何とか今晩中に顔を出しておいた方が良い、と考えていた。

高位の神官に深夜の訪問など、本来なら許されることではないが、先方はそれでもかまわないと、言ってきている。現在の情勢を鑑みても、気にかける必要はまったくなさそうだった。

……向かう先は公爵邸とは目と鼻の先、大聖堂の聖パタンデール館だ。

かるくひとっ飛びである。

イシュルは一年前のいつかのごとく、窓を開けると一回転しながら上方へ飛び出し、音もなく屋根の上に降り立った。

「フェデリカ、ウルーラ」

 厚い雲の垂れ込めた暗い夜空を見回し、自らの精霊を呼ぶ。

「はい、剣さま」

 ……わたしはこちらに。

 フェデリカはすぐ傍に薄っすらと姿を現し、ウルーラは中庭の底に身を潜めたまま、返事をよこした。

「俺はちょっと出かけてくる。屋敷のみんなを守ってくれ。この街は魔法使いや精霊がたくさんいるからな、注意しろ。油断するな」

 視線を王城の方、夜闇に沈む十一の尖塔のあたりで止め、低い声で言った。

「承知」

 ……了解です。

 イシュルは彼女らの声を背に、夜空に飛び上がった。

 公爵邸の南西方向、眼下のルグーベル運河を超えれば大聖堂はすぐそこだ。

 晩秋にさしかかる聖都の夜は、やや湿気を帯びつつもすでに底冷えのする寒気で覆われている。低く垂れ込めた厚い雲は、月も星々も隠してそこら中に漆黒の澱みをつくり出している。

 イシュルは視線を街中の、アデール聖堂の方へやった。あのシビル・ベークが神殿長を務める聖堂には、専門に守護する精霊がいる。水の精霊、アデリアーヌだ。

 ……あれだけ慕ってくれて仲良くなったのに、何か訳ありなのか昼間も今も、ひっそりと存在を隠して表に出てこない。

 彼女はアデール聖堂から離れることができない。なぜ姿を見せないか、何か事情があるのか、こちらから出向かないことにはまったく見当がつかない。

「シビルにも挨拶した方がいいだろうし、今度顔を出すか……、と」

 速度を一旦落とし、空中で漂うように浮かんでいると、眼下の建物の影や運河の水面、頭上の雲間から暗闇が浮き上がり、剥がれ落ちるようにして分離し、何かの生き物のように周囲を飛び回りはじめた。

 ……闇の精霊だ。

 黒尖晶をはじめ、教会や聖王家の影働きが好んで召喚する精霊だ。特に夜間や洞窟など暗闇で力を発揮する、低級の精霊である。

 漆黒の影が多数、イシュルを取り巻くように接近してきた。

「まさか、今さら俺に挑んでくるか」

 イシュルがかるく右の手のひらを返すとそれだけで、すっと映像を逆回ししたように、闇の精霊が一斉に夜空の向こう側へ吸い込まれ、消えていった。

 一瞬の出来事だった。

 ……夜中に大聖堂に近づく者はすべて、自動的に攻撃するようあらかじめ配置されていたのかもしれない。

 イシュルはやや高度を上げて大聖堂へ、速度を上げた。

 ビオナートの召喚したマレフィオアとの戦闘で、根本からきれいに吹き飛んだ大塔は、今は中層部分まで足場が組まれ、下層は所々大小の帆布に覆われて保護され、基礎部分の工事がだいぶ進捗しているように見えた。

 複雑な形を織り成す夜陰の底、主神の間の周囲には数体、力のありそうな精霊が見張っているのがわかった。

 その者らは当然、イシュルの存在に気づいている筈だが、ひっそりと沈黙を守り、何の反応も示さない。

 主神の座の地下には例の、ビオナートの隠した禁書が封印されている。目立たぬように、しかし厳重な警備が敷かれているようだった。

「……」

 イシュルはその精霊たち、建設中の大塔の闇の底を一瞥すると、隣の、東側に面する聖パタンデール館の正面へ降下していった。

 建物の出入り口には、立ち並ぶ巨大な円柱の影に隠れこれも目立たぬよう、だが相当な人数の神官兵が守りについていた。

 イシュルはかまわず、正面入り口の石段を登っていた。

 そこへ長槍を持った神官兵が近づいてきた。

「あなたさまは、もしや」

「イシュル、イシュル・ベルシュだ」

 イシュルは横目にその男を見て短く、それだけを言った。

 以前からイシュルの顔を知っていたのか、神官兵は無言で深く頭を下げると、丁重な仕草でパタンデール館の中へ案内した。

 そして拍子抜けしそうなほど簡単に、館内二階の最奥の部屋、デシオ・ブニエルの詰める仕事部屋に案内された。



「いや、夜中でちょうど良かったよ。人の多い昼間だと、大騒ぎになっていたかもしれない」

 室内はそれほど広くないが、数少ない燭台は彼の机上に集中して置かれ、部屋の隅の方は暗く沈み、澱んで見える。

 イシュルが深夜の来訪を詫びると、火の主神殿長、大神官のデシオ・ブニエルはまだ若々しさの残る快活な笑みを見せて言った。

「今日王都についたばかりだろうに。こちらこそ面倒をかけてしまって」

「いえいえ、ところで総神官長やカルノさまはお元気ですか」

「ああ、相変わらずだ。今日はもう休んでいるが、後日、しっかり面談の時間を取ってもらうから。その時はよろしく」

「はは。そう、ですね」

「ところで、フィオアさまからも無事、水の魔法具を授けられたとか。……まったく素晴らしいことだ。まずはその話から聞かせてもらいたいとろだが、今は時間が惜しい。例の禁書の件を先にしよう」

 と挨拶も早々に、気づかいもよくできるデシオはさっそく本題に入った。

 イシュルは部屋の端から丸椅子を持ってきて、デシオの座る机のすぐ前に置いて正対した。

 他に物音ひとつしない大聖堂の奥まった小部屋で、ふたりの男が顔を付き合わせ、小声でひそひそと会話を続けた。

「なるほど、陛下はそうおっしゃったか」

 イシュルが、昼間にサロモンと交わした会話の中身を話すと、デシオはそれこそ膝を打って感嘆し、喜びの声を上げた。

「イシュル殿に中立を望み、禁書分割の保証人になってもらうとは。わたしも、きみには今度の検分の立会人になってもらおうと考えていたんだ」

 デシオはそう言って「これで話がまとまる」と、胸をさすり安堵した顔になった。

 王宮では中級の少壮貴族の突き上げが激しい、ということだったが、大聖堂では鼻息の荒い若い神官たちより、むしろ大神官などお歴々の小言がしつこく、不満が大きいとのことだった。

「それで、主神の間の地下でサロモンさまとウルトゥーロさまの検分が行われるのは、いつ頃になりそうですか?」

 事態が丸くおさまりそうなのは結構なことだが、ニッツアの件もある。検分まであまり日数がないと、こちらの工作が苦しくなるかもしれない。

「ふむ」

 デシオは胸の前で腕を組んで、視線を遠くにやった。

「当方も王宮の方も、根回しには相当時間がかかるだろう。どんなに早く見積もっても、十日以上は先になると思う」

「そうですか」

 ……十日なら、なんとかなるかな。

 イシュルも、ニッツアの盗んだ精霊召喚のスクロール自体は、偽造するしかないと考えていた。

ビオナートの残した禁書類は、もともと偽書も入り混じった胡散臭い物から選別されたものである。目録をつくるときに大まかな鑑定を受けているものの、後から詳しく調べたら偽物だった、いや原本ではなく写本であったなどということがあっても、何の問題もないだろう。十分起こり得ることである。

 要はどれだけ古い巻紙や、当時のインクに近いものが用意できるか、腕利きの贋作師を手配できるか、そういう技術的な問題である。

 もし偽造が不可能なら、検分前に禁書類を目当てに襲撃し、幾つかの書物とともに問題のスクロールを強奪、ひと騒動起こしてニッツアの非行をなかったことにするなど、とても面倒な工作をしなければならなくなる。

「まあ、俺の方は例の、ウルク王国興亡史の抄本が読めればいいので。荒事にならず、穏便に終わればそれが一番です」

「確かに。まったく同感だ」

 デシオが今は深夜かと疑うような、とても爽やかな笑顔を見せた。

「そういえばお互いに、譲った書物の写本を制作するんですよね? それは当然、検分が終わってからですよね」

「うむ」

「どれくらい時間がかかりそうですか」

「それほどの分量ではないから、手分けすればひと月とかからないかな」

「……そういえば」

 ふと口にした疑問。

「呪文の書かれた巻物(スクロール)とか、写本にしたら当然、その効力は消えてしまうんですよね」

 魔法に関することなど、実用性のあるものの原書は聖王家が所有するから、写本を手にする聖堂教会の方は、単に資料的価値のあるものでしかなくなる。

「まあ基本そうだが、絶対、ということはない」

 デシオはいつものごとく、柔らかな調子で続ける。

「魔法の呪文は、条件が整えば誰でも、どんな時でも、その関連する魔法を発動することができる。例えば一定以上の力のある魔法具を所有していれば、誰でも呪文を唱えればその魔法は発動する。その速度や規模は、経験や相性など個人の資質も関係してくるだろうが」

「それはそうですが……あ、そうか。当人が強力な魔法具を持っているとか、契約精霊の助力が得られるとか、特定の魔法陣を用意とかすれば、そのスクロールが写本でも魔法が発動することはある、ということですね」

 ……今さらだな。今日もいろいろあって、疲れているせいか。

 イシュルはかるく頭をふった。

「そういうことだね」

 デシオはそんなイシュルに気づかないのか、機嫌良さげに頷いた。

「聖典の世界創造の一節にあるじゃないか」

 デシオは右手の人差し指を突き立て、横に振りながら続けた。

「主神ヘレスが“我宣す、天地あれ。我想う、光あれ”と仰せになった聖句、あれはいわば神々の呪文だ。世界を創造する力を持つヘレスさまが唱えたから、発現したんだ。神の力を持たない我々がその聖句を何度唱えようと、それがどんなにありがたい言葉であろうと、何も起こらない」

「……」

 イシュルは無言で、喉を鳴らした。

 そうだ、そんなことわかりきった話じゃないか。

 そうだ、だが俺は、五つの魔法具を持つ俺は、一時的に、限定的に、俺自身の「世界」を創造できる……。

「え、えーと。ならもし、誰かがヘレスと同じ力を持っていたら、あの聖句は──」

「世界創造の呪文になる」

 デシオはいとも簡単に言ってのけた。

 彼は「理屈としてはね」「これはここだけの話だよ。教会が正式に唱えていることではないんだから」と続けて言って、無邪気に笑った。

 

 

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