草原の道

 


 緑の起伏を青色が断つ。

 澄明な秋の空が白雲を走らせ、頭上から覆いかぶさってくる。

 太陽が視界を奪い、馬の嘶きが、鎧の擦れる音が、草原を渡る風の音を掻き消す。

 気づくと、白馬の男はすぐ目の前まで迫っていた。

「……」

 馬上の男はこれ以上はない、晴れやかな笑みを浮かべ路上の人々を見渡し、ふと、ある人物に視線を止めた。

 その者──イシュルの顔を、じっと見つめた。

 御者台の隣にいたコラーノも、後続するミラやリフィアたち、ロミールたちも、全員がいつの間にか馬車を降りて、道端に片膝をついていた。

「ふふ。お帰り、イシュル」

 ……呟くような声なのに、妙にはっきりと聞こえた。

 男は降り注ぐ太陽を全身に浴びて、神々しいほどに輝いて見える。

 目眩がした。

 お帰り、か。

 その微笑が、網膜に焼きつく。

 ……いや、飲まれるな。

 頭を振って御者台から立ち上がる。

 慌てず、ゆっくり荷馬車から降りて、コラーノの横に並ぶ。だが、膝をつくまではしない。かるく腰を落とし頭を下げた。

 ……俺はもう、常人とは言えない存在なのだ。

「久しぶりだな、息災で何よりだ」

 真紅のマントが翻る。男が下馬し、目の前に立った。

 久しぶりに間近で見るサロモンは、ひときわ気高く、不遜で、美しかった。

「ご無沙汰しております、陛下」

 彼は俺が、必要以上に遜(へりくだ)るのを望んでいない。

 仰々しい挨拶はしない。かるく、受け流す。

「まさか、こんなに早く、再びきみと会うことになるとはな」

 満面の笑顔だ。

「無事、フィオアの魔法具を手に入れたそうじゃないか」

 その眸がさらに、窄められる。

「これで、五つの魔法具が揃ったわけだ」

「……はい」

 こちらも、笑みを浮かべてみせる。

「おかげさまで、すべての魔法具が揃いました。ソレールでは、ルフレイドさまに大変お世話になりました」

「うむ」

 サロモンも、流すようにかるく頷く。

 ソレール大公であるルフレイドがわざわざ、あれだけ力になってくれたのはレニの一件だけではない、この男からも直接、俺たちに力を貸すよう指示があったのは間違いない。

 ルフレイドに対する謝意には、サロモンが便宜を図ってくれたことも多分に含んでいる。だが彼はそれを、「うむ」とひと言ですませてしまった。

 そのかわりにいきなり、本題へ踏み込んできた。

「ここ聖都でもまた、きみの力になれるとは、まさしくヘレスの思し召しかな?」

 その笑顔が、微かに歪む。

「いや、今回もわたしの方が、きみの力を借りることになりそうだ」

 サロモンはぐいっと顔を近づけると、声を潜めて言った。

「ルフレイドからもう聞いているね? 前王の、あの遺物のことを」

 同時に、何かの合図のように彼の背後の騎馬が一騎、大きな声で嘶(いななた)いた。

 丘を渡る秋風に、山のように連なる銀鎧の騎馬の群れが、一瞬さざ波のように揺らいだ。

 ……そう、見えた。

 

 

 よく澄んだ青空と太陽に、緑と銀色の色彩はまさしく魔術的な眩惑だ。

「まずはよくやった、レニ・プジェール」

 サロモンは目の前に跪くレニに、これ以上はない優美な微笑を浮かべ、やさしく声をかけた。

「これでそなたの郷里も救われるな」

「はい、ありがとうございます。この度は、ベルシュ殿に助けられて──」

「うむ、その話はすでに耳にしている」

「プジェール殿。詳しくは後日、王宮にてお話いたしましょう」

 サロモンの後ろに控えていた執事のビシュ―が、横から割って入る。

 レニは承諾した旨、深く頭を下げ、サロモンは上機嫌でひとつ頷き、彼女の隣に跪くミラの前に立った。

「ミラ・ディエラード、そなたもご苦労だった。此度の冒険譚、一日でも早く聞きたいものだ。楽しみにしているよ」

「ありがとうございます、陛下。お呼びとあらばいつ何時でも、ただちに参上いたします」

 サロモンは続いてリフィアの前に立った。

「辺境伯殿も無事で何より。あなたからもぜひ、イシュルの活躍を聞きたいものだ」

 前年の政変では、リフィアはサロモンに助力している。さらにラディス王国の大貴族である彼女に対しては、サロモンはやや口調をあらためて話した。

「はい、その折はかならず」

 リフィアは小気味よく答え、一礼した。武人らしい所作だ。

「やあ、はじめてお目にかかる」

 サロモンは最後に、ニナの前に立った。ふたりは初見で互いに面識はない。赤帝龍を滅ぼしたソネト村近郊では、すれ違いになった。

「きみが水魔法の使い手、ニナ・スルース殿」

 打って変わって優しく、甘い口調だ。

「はっ、はい。ほ、ほ、本日は…」

 ニナは思いっきり緊張して、まともな受け答えができない。もう今はおさまっている筈の訥弁が、また表に出てきてしまった。

「大丈夫、緊張しないで」

 そこでサロモンは思わぬ行動に出た。ニナの前で中腰になって彼女の両手を握り、もっと優しい、柔らかな笑みで元気づけるように言ったのだ。

「あっ、あっ」

 ニナは最初の緊張は取れたようだが、別の意味で上気してしまい、相変わらずまともにしゃべれなかった。

「きみがラディス王国の誇る──いや、イシュルお気に入りの水の魔法使いか。……すばらしい」

 サロモンはニナの握った手を引き寄せながら、妖気さえ漂う魅惑的な視線を向け、最後は呟くような小声で言った。

 ……サロモンめ。

 皆が彼の態度に唖然とするなか、イシュルは眸を細めて横目に見、心のうちで舌打ちする思いだった。

 まさかニナの、あの治癒魔法のことを知っているのではないだろうか。

 レニやミラから直接洩れることはなくとも、デルベールやソレールでは荒事が続き、自分も含め負傷者が出ている。ニナの治癒魔法を聖王国の者がどこからか、わずかでも目撃している可能性は否定できない。それが回り回って、サロモンの耳許まで届く可能性もまた、皆無と言い切れない。

 ……この男がニナのあの魔法を知ったら、どうするだろうか。

 イシュルの視線は、ニナを見つめるサロモンの眸に引きつけられた。その色の微細な変化も見逃せなかった。

「ニナ」

 サロモンは初対面にも関わらず、気安く彼女の名を呼び、親しみ以上の気持ちを込めて囁くように言った。

「きみも身分など気にせず、わたしとも是非、気のおけない友人のひとりとして接して欲しいな」

 その微笑が不意に、イシュルへ向けられた。

「……彼と同じようにね」

 その笑みが大きくなる。

「くっ」

 イシュルは思わず頬を引きつらせ、硬直した。

 ……ニナの秘密を知っているぞ、未知の水魔法を。

 サロモンはそう言っているのだ。

 隠し事はするな、この少女の魔法をすべて教えろ、と。

 イシュルはしかし、すぐ動揺を抑え眸に力を込め、彼の視線を受け止めた。

 ……だが、それだけは譲れない。

 彼女自身を守るために、あの水魔法の真髄を教えるわけにはいかない。

「ふっ」

 サロモンの口角がさらに引き上げられる。

「陛下、そろそろ」

 その時、ビシュ―の声がした。

 いきなり後ろから、割り込んできた。一瞬の間隙を突き、まるで斬り込んでくるような鋭さだった。

 目をやると執事長のさらに後ろに、平服の人物がもうひとり立っていた。

 ありふれた褐色のマントの女魔導師、マグダ・ペリーノだ。揺動と迷いの魔法を合わせたような攪乱の魔法、“目つぶしの魔法”を使うサロモン直属の護衛だ。

「……」

 マグダはイシュルと目が合うと微笑を浮かべ、小さく会釈してきた。相変わらず神出鬼没、存在感が希薄だ。

 ……ビシュ―が絶妙のタイミングで割り込んできたのは、彼女が力を貸したからか。

 五つの魔法具を得て、完全無欠の、絶対の力を身につけたようでも、彼女のように無系統の魔法を、慎重かつ繊細に使われると見逃してしまうことが多々ある。

 こういった“だまし”の要素のある魔法は精霊神の系統に近く、五元素の魔法を手にしても完全に対応することはできなかった。

「ふむ」

 サロモンはニナに視線を戻し、「また、後ほど」と小声で挨拶すると、おもむろに立ち上がり、周りを見渡して「では、聖都に帰えろう」と言った。

 街道のその場で、急遽はじまったサロモン王の謁見はそこで終わりを告げ、イシュル一行は彼の騎士団に護衛され、ともに聖都入りすることになった。

「それではベルシュ殿、わたしどもはこれで」

 隊列を組む間、今まで同道してくれたコラーノ・バラルディが別れの挨拶をしに来た。

 コラーノは口数少なく、何も、ダリール郊外での出来事も触れずにただ、「お世話になりました」とだけ言って、自らの隊商を率い聖都へ先発した。

 彼ははじめから存在しない者のごとく、サロモンはもちろん、ビシュ―や騎士団の誰とも口を利かず、街道の先、緩やかな丘の向こうに姿を消した。

 イシュルは、引き続き馬車で移動するリフィアたちとは別に、騎士団から馬を借りてサロモンと横に並び、一緒に街道を進むことになった。



 青空を雲が流れる。いつの間にか丘の連なる彼方に、薄く山並みが見えるようになった。

 あの山脈は東の大山塊だ。

 目の前を馬首が揺れる。鞍から腰、肺腑を突いて規則的に、振動が伝わる。

 乾いた草の匂い。

 サロモンの白馬と自分の乗る栗毛の、軽やかな馬蹄の音。

 前方に銀色の鎧の騎馬隊の列が、聖王家の大旗が、確かにこの眸に映っているのに。

 少し離れただけの、すべてのものの気配は奇妙に遠く、希薄だ。

 そのまま目を瞑って、マグダの魔法に身を委ねる。

「先ほどのニナ嬢の件だが」

 横からこれははっきりと、サロモンの声がする。

 ……俺とこの男と、それと後方を行くマグダか。この三騎以外、物音は外側に伝わらず、気配もぶれて、存在もあやふやになる。

 十長歩(スカル、約6.5m)ほどの範囲は彼女の魔法が特に強く、結界のようになって周囲と明らかに隔てられていた。

「話しませんよ。彼女の秘密」

 特に気も使わず、素で突き放すように言うと、サロモンが肩をすぼめて息を吐いた。

「ふむ、きみがそう言うなら仕方ないか」

 この男がめずらしく、あっさり引いた。……確かに、今はその話は後だ。

「それより例の件」

 横目にわざと、咎めるような視線を向ける。

「大聖堂で見つかったビオナートの禁書のこと、教えてくださいよ」

 ……その話をするために、わざわざこんなことをしたんだろうに。

 歯に衣着せず、不満気も隠さない。

「……」

 サロモンが無言で笑みを浮かべ、横目に見つめてくる。

 供回りを離して、マグダに認識阻害の魔法をかけさせたのはもちろん、この男だ。

 単に話し声を遮断するだけでなく、俺とサロモンが馬首を並べて親しく会話する、その様子を外から見る者に対してあやふやにできる。

 収穫祭が終わって、まだ十日も経っていない。街道には、まだ帰郷する巡礼者の姿も時折り見かける。派手な演出で俺を出迎え、都入りする──それを教会以下、周囲に喧伝するのが彼の目的だが、二人きりで密談する様子まで外部の者に見せたくない。王城に着いてからゆっくり会談してもいいのだが、宮廷にはどんな耳があるかわからない。サロモンでもすべてを遮断、排除するのは難しいのかもしれない。ならば重要な話は郊外の、何の遮蔽物もない、工作もできない街道の、路上で済ませてしまった方がよい、と考えたのだろう。

「そうだね。まだ聖都までたっぷり時間はあるが、さっさと済ませてしまった方がいいだろう」

 サロモンは王城に帰還するためあらためて隊列を組む時に、部隊を前後に分け、ビシュ―ら供回りとミラたちの馬車は後列に割り当て、自身は前後の間に距離を空け、マグダに移動結界を張らせて、いわば白昼の“密談”に臨んだのだ。

 俺を、ビオナートの遺産を巡って綱引きしている聖堂教会から遠ざけ、味方にするために。

「──まだ、あまり詳しい話は聞いてないんですがね」

 かるく、世間話でもするようにはじめる。

「ん? きみの方で、情報を集めてないのかい?」

 馬の蹄の音が軽やかで、気持ちがいい。だがなんとなく、どこか間が抜けて聞こえる。

「そんな人はいませんよ。ご一緒した弟君の配下の方から、ほんのさわりだけ、です」

 すでにニッツアから誘いを受け、概略は把握しているが、もちろんそんなことはおくびにも出さない。基本的な情報は、コラーノから得ていたことにする。

「ふむ。まぁ、詳しくは後ほど、ルフィッツオあたりから説明させよう」

 ミラの長兄、ルフィッツオはサロモンが王子の頃から彼の派閥に属していた。最近、同じ派閥の支持者であったサンデリーニ公爵が内務卿に就任するのと同時に、ルフィッツオが外務卿に就くことになった。ちなみにルフィッツオの双子の弟ロメオは、ディエラード公爵家の当主代理として、同家を実質、ひとりで執り仕切っているということだった。

「ありがとうございます」

 惚けてそれらしく礼を言うと、サロモンは僅かに肩をすくめ小さく頷いた。

「今は我が方と、教会の方で例の禁書類の所有を巡って争っているわけだが、イシュルには是非……」

 そこでサロモンは悪戯な笑みを浮かべ、言葉を切った。

「我が方に味方についてもらって、亡き父の遺品をすべて回収する手助けをしてもらいたい、とお願いしたいところだが」

 じっと、横目に睨んでくる。楽しそうだ。

「別にそこまでしてもらわなくても構わない」

「……」

 ほう? 意外だな。いいのか、味方しなくて。

「まあ、こうして騎士団を率いてきみを出迎えたわけだし、王城までは同行してもらうが」

 サロモンは少し真面目な顔になって、視線を前の方へ向けた。

「つまりは教会側につくのでもなく、中立を保ってもらえればそれでいい。今日のことは、単にきみの声望に我が聖王家もあやかりたい、というだけだ」

「中立を、ですか。それでいいんですか」

 ルフレイドは王家と教会の争いが激化するのを心配していたが、サロモンの考えもそういうことか。

 ビオナートの遺した禁書より、聖都の政情の方が大事、か。

「今も教会側と交渉中だが、何とか話がまとまりつつあるんだ。それに、イシュルはわたしが頼んでも、引き受けてくれないだろう? きみは大聖堂にも親しい者がいる。向こうを敵に回したくないだろう」

「それはそうですが……」

「近いうちに、わたしと総神官長の立会いのもと、例の禁書の検分が行われる。その後、両者の取り決めが正式に決定されることになるだろう。きみに引き受けてもらいたいのは、その後のことだな」

「はあ。その後、ですか」

 それはつまり……。

「どうせイシュルには、ウルトゥーロさまやデシオ殿からもお呼びがかかるだろう。わたしに遠慮する必要はない。彼らの話も聞いてみたら良い」

「えっ、いいんですか」

「かまわん。敵に回るのは困るが」

「……」

 なんだ、ちょっと拍子抜けだが。禁書の件、聖都ではあまり大事になってないということか。

「さて、この話はもうおしまいだ。それよりきみは、水の神殿跡でフィオアと遣り合ったそうじゃないか。是非ともその話を聞きたいな」

 それはミラやリフィアにも言っていたことだ。

 サロモンはまた悪戯な笑みを浮かべると、マグダに声をかけて目潰しの魔法を解かせた。

「城まで急ごうか。きみの冒険譚、じっくり聞かせてもらうぞ。楽しみだ!」

 彼は叫ぶように言うといきなり愛馬に鞭を入れ、後ろ立ちさせて嘶かせ、全軍に歩を早め急ぐよう下知した。



 イシュル一行はその後、サロモンら騎士団とともにディレーブ川を再び渡河し、サンデリーニ城を抜けて聖都市街に入ると、多くの見物人のなかボリーノ通りを堂々行進、大聖堂を素通りしてそのまま王城に入った。

 宮殿ではサロモンのもてなしを受け、水の魔法具を得た冒険譚、いや苦労談を披露し、夜になって滞在先であるディエラード公爵邸に到着した。

 邸内に入り、かつてミラとよく一緒に過ごした小薔薇の間でひと息入れていると、屋敷の侍女がひとり、ティーセットを載せたワゴンを押しながら入ってきた。

「おっ」

「……」

 イシュルだけでなくリフィアたちも驚くなか、ミラだけがにこにこ笑っている。

「イシュルさま、お久しぶりです」

 いつものメイド姿のルシアは、イシュルの前に出ると腰を落としてお辞儀をした。

「それではイシュルさま。お兄さま方も交えて、ルシアの報告を聞くことにしましょう」

 と、ミラ。

「ああ」

 ……次はルシアか。

 目まぐるしい一日でいささか疲れたが、それはみんなも同じだ。断るわけにはいかない。

 なるべく早く、たくさんの情報を集めることが肝要だ。

 サロモンの今日の、一歩引いた妙にあっさりした申し入れ。あれはどうしたことか、いささか気になる……。

「わかった」

 イシュルは少し強張った笑みを浮かべ、満面の笑顔のルシアに頷いてみせた。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る