密約の夜 2

 


 真夜中の、街外れにある古い墓地。下草になかば埋もれ、横臥する壮年の男。

 わずかに肩を落とし、気怠げに佇む若い男と、この世のものとも思われない、美しい少女。

 彫像のように動かない、男女一対の道化師の姿をした精霊。

 まずはあり得ない、奇妙な取り合わせだ。

 しかもそこは現実と少し違う、誰かがつくった擬似空間だ。

 秋夜の冷気も、風も、星明かりも、夜鳥もいない。

 イシュルは小さく笑って言った。

「きみがくすねた古代ウルク史の写本、今はどこにあるのかな?」

「さて、どこでしょう」

 ニッツアも微笑み返す。

「この人の世で、俺より強い者はいない。きみを捕らえて脅しつけ、写本の在りかを吐かせることだってできるんだが」

「……」

 ネーフとレナ、双子の精霊は何の反応も示さない。

「まさかイシュルお兄さまが、そんなことなさる筈ありませんでしょう?」

 ニッツアも、まったく動じない。

「あなたはどんな栄達も栄耀も、権力も権威も興味がない。そのような清廉な方が子供を捕らえて拷問にかけるなどと、悪逆非道なことをするでしょうか」

「おい」

 イシュルは怒気を隠さず、低い声で言った。

「俺はそんな良くできた人間じゃない。……皮肉か? からかうのはやめろ」

 ニッツアは上目遣いにイシュルを見て言った。

「でも、本当にわたしを拷問にかけますか?」

「確かにそんなことはしない」

 イシュルは大げさに嘆息してみせ、続けた。

「だが、それ以前にきみのお願いを聞くか、俺はまだ決めていない。きみに返事をしていない」

「そうですね、失礼しました」

 ニッツアは表情をあらためると、イシュルにかるくお辞儀をした。

 互いに試すようなことを言ったが、今は彼女と手を組むか、より詳しく事情を訊き、状況を把握すべきだ。

 ただ探り合いをむやみに続けてもしょうがない。

「史書の、原本の方はどうしたんだ? もう主神の間の地下の、元の場所に戻したのか?」

「ふふ、まさか。それはまだ、わたくしの手許にあります」

 ニッツアはまたすぐ相好を崩し、華やいだ声で言った。

「イシュルお兄さまは、“五つの神の魔法具と請願”について知りたいのでしょう? 史書の中身の、一部を知ることができればそれでいいのであって、一冊丸ごと読み込む必要も、正式に所有する必要もない。……だから」

 その笑顔がまた、少しずつ歪んでいく。

「本来であればお兄さまかウルトゥーロさまから、閲覧の許しを得るだけで事足りるわけです」

 所在なげに、アナベル・バルロードの魔法の杖が振り回される。

「写本を隠し持っても、原本を元の場所に戻してしまえば、それでおしまいです。イシュルお兄さまは王家か教会か、ご自身の希望を受け入れてくれる方、有利な方に味方すればよい。わたしは事が済むまでは原本も写本も、両方とも押さえておく必要がある。……そうですね。古代ウルク史末巻はわたしが最後に、主神の間の地下へ戻すこととしましょう」

「ふむ、それも条件のひとつ、か」

 ……この少女が誰にも知られることなく、盗み見た史書を元に戻すまでがミッションというわけだ。

「そうなりますね」

 ニッツアはかるく頷くと笑みを消し、イシュルを真っ直ぐ見つめた。

「それで、わたくしのお話、受けてくださいますか」

「うーん」

 イシュルは胸の前で腕を組み、思案顔をつくった。

「そうだな、例えばだ」

 にっこり、そこでニッツアに笑いかける。

「俺がきみを裏切り、兄君のサロモン王にこの件をバラしてしまったらどうなるかな? あのひとならきっとすべてを、難なく片付けてしまうだろう。きみの隠し持つウルク史末巻とその写しを、すぐ見つけ出し取り上げ、きみが勝手に使ってしまった魔法のスクロールも偽造するなりして誤魔化し、元あった場所に誰にも知られずに戻して、何もなかったことにしてしまうだろう。もちろん俺は見返りに、問題の史書を読ませてもらう」

 イシュルはさらに笑みを深くし、両手を広げた。

「いや、彼ならもう、きみの悪戯を知っているかもしれない。すべてを調べ上げているんじゃないか。もしそうなら、俺はわざわざ彼に密告して手を組む必要もない。ただ、すべてが終わるまで待っていればいいんだ。きみが言うように、禁書の所有権を勝ち取った方にお願いして、問題の史書を見せてもらえばそれで済む」

「そうですね。……ただ実際に、そこまでうまくいくかはわかりませんけど」

 ニッツアはイシュルの言を否定せず、控え目な態度をみせたが、それはあくまで表向きだけ。内心に一切の動揺はなく、何の不安も怯えも感じてはいなかった。

 彼女がイシュルに向ける眸の、そのまったく揺るがない輝きでわかった。

「ふふ」

 イシュルは誰にも聞こえない、小さな声で笑った。

 ……この子は自信があるのだ。サロモンが相手でも絶対に出し抜かれたりしない、負けない自信が。

「ニッツア」

 イシュルは聖王家の姫君の名を、気安く呼び捨てにした。

「きみは、俺の助けなどいらないように思えるがな」

「いいえ、そんなことはありません」

 ニッツアはその危険な微笑を消し、ごく真面目な顔になってイシュルを見つめた。

「わたしはただ、イシュルお兄さまと遊びたかっただけではありません。やはりわたしも、誰も到達することができなかった神々の領域を、その神秘に触れてみたくなったのです」

 そして少し悲しそうな顔をした。

「五つの魔法具を揃えたのにそこからどうすべきか、イシュルお兄さまが困っているとの噂を耳にして、そのすぐ後、まるで何者かが図ったようにあの史書を見つけた時、これは千載一遇の機会だと、これを逃すわけにはいかないと、思わずにいられなかったのです」

 ニッツアが少女らしい、揺れる眸を向けてきた。

「わたしの力になっていただけませんか。そして、わたくしの目の前で、あの本のあの一節を読んでいただけませんか」

 その眸がイシュルを飛び越えて、どこか遠くの方を見る。

 それはミラが、リフィアが、ニナやマーヤらがかつて見せた、同じ顔だった。

「……」

 イシュルは無言でニッツアの眸を見つめ返した。

 ……おまえまで、そんな顔をするなんてな。

 この少女はまさしく天才、いやそれどころではない、人間離れした得体の知れない存在だ。

 それでも、古代の魔法に惹かれ前後を失い、誤りを犯してしまう。

 手の届かない、未知のものを求めずにいられないのだ。

 それは人間だけではない。イヴェダも、そしておそらく主神ヘレスはじめほかの神々も、同じではないか。

 月神レーリアも、精霊神アプロシウスも。

「いいだろう」

 イシュルはにやりと笑って、頷いた。

「きみの提案を受けよう。力を貸そう」

 どんな天才であろうと、ニッツアが七歳の子どもであることに変わりはない。その全身に漂う幼さ、危うさを完全に払しょくできていない。

 子どもから助けを求められて断るなど、あり得ない話だ。

 断るくらいなら、受けてのち騙され、裏切られる方がまだましだ。

 ……そして。

 あの双子の精霊の存在、彼らを呼び出した古代のスクロールの存在。

 ニッツアの誘い、いやこの出来事自体が、アプロシウスの仕組んだものではないだろうか。

 少なくともやつと、まったく関係ないとは言えまい。

「それなら決まっている。この少女の誘いに乗らない手はない」

 イシュルは口の中で呟き、わずかに俯いてほくそ笑んだ。



「では何かありましたら、その都度お知らせいたしましょう」

「俺の方から連絡する場合は? ニッツアは、普段は後宮にいるんだろう?」

「イシュルお兄さまは、召喚精霊を使者に?」

「ああ」

「わかりました。後宮においても確実に連絡がつくよう、急ぎ手配するとしましょう」

 ニッツアはそこで、わずかに腰を折ってイシュルを上目遣いに見上げた。

「それでは詳しいことは後ほど。まずはわたしの方から使者を遣わします」

 イシュルが彼女の依頼を承諾すると、ふたりは今後のことをかるく打ち合わせし、その夜は早々に切り上げることにした。

 特にニッツアはこれから夜通し移動し、朝までに聖都に帰らなければならなかった。

「いいだろう。その使者とやらは、そこのきみの精霊を立てるのか?」

 イシュルは口端を歪め、顎をしゃくって言った。

「……」

 皮肉たっぷりの問いかけだったが、ネーフとレナはたいした反応を示さなかった。

「いえ、わたしにも自由に使える影働きの者がおりますから。そのときはどうか御前までお許しを」

 ニッツアは、イシュルの皮肉を微笑を浮かべ受け流し、何事もなかったように答えた。

「わかった」

 イシュルはひとつ頷くと視線を端の、墓前に倒れている男にやり言った。

「コラーノは、俺の方で連れて行くぞ」

 イシュル一行を護衛し、聖都まで案内してきた影の者、コラーノ・バラルディはこの間ずっと気を失っており、イシュルを誘き寄せるために利用されただけなのは明白と思われた。

「はい、もうその者に用はありません。イシュルお兄さまがそうおっしゃるのなら、おまかせいたします」

「うむ」

 イシュルは、コラーノの傍に寄ると彼を担ぎ上げ、周囲に張っていた五元素の新結界を解いた。

 静かに、ほとんど何の気配もなく辺りの暗闇が薄く、透けるように消えて、秋の夜のわずかに湿った冷気が、夜鳥や虫の鳴く声が戻ってきた。空は雲が流れ月の姿は見えなかったが、かわりに星々の光が無数に瞬いた。

「!!」

 イシュルが風の魔力を纏い、コラーノを片手で担ぎ背を向けた瞬間、その時を待っていたか双子の精霊が同時に動いた。

 ネーフとレナはニッツアの前に飛び出ると、どこからか細身の片手剣を出し中腰に構え、身構えた。

「ん?」

 イシュルは前に出てきた双子の精霊から、視線を下に向けた。

 足許の地面を、奇妙な魔力が走っていく。

 今まで見たことのない、無系統の魔法だ。

 地中を何かが、ぐい、と動く。

 ……おっ!

 イシュルは片足をかるく持ち上げ、下草のまばらに生えた地面を見つめた。

 周りの土中から多数の荊棘(いばら)が突き出し、無気味に蠢(うごめ)きながら枝先を伸ばしはじめた。

 ……ほう。

 イシュルは心のうちで感嘆の声を上げ、自身の足許から上へ、全身を締め付けるように這い上がってくる幾つもの荊棘を見回した。

 面白い。この荊棘を吹っ飛ばすのは簡単だが……。

 こいつら、雷以外にも面白い魔法が使えるんだな。

 イシュルとコラーノを包み込み、這いまわる荊棘がそのトゲを突き刺そうとするが、ふたりを覆う風の魔力が強力で貫くことができない。

 ……なかなか絵になる気の利いた魔法だが、いささか月並みだな。

 イシュルは、ネーフとレナに笑みを向けると辺りに充満するその魔力、荊棘の魔法を消そうとかるく、片足を持ち上げた。

 しかし地面を踏み抜くより早く、双子の魔法が一瞬で消え去った。

「っと」

 イシュルよりわずかに早く、空から鋭い、強烈な風の刃が降り注ぎすべての荊棘を粉砕、魔力ともども跡形もなく吹き飛ばしてしまった。

「剣さまに何をする」

 前を向くと双子の精霊とニッツアの間に、小柄な女の精霊が立っていた。どこから来たのか、魔法の速度同様、目にもとまらぬ早さだった。

 空から飛び降りて来たのだろうが、あまりに早くてその動きをとらえることができなかった。

 ニッツアの退路を防ぐため、彼女の後方へ回り込むように命じたフェデリカが、戻ってきたのだった。

 その小さな背中から、強烈な怒りと殺気が充溢しているのが見てとれる。

「フェデリカ、今は抑えろ」

 ……こいつらの敵意は見せかけだ。俺の性格や能力を試しているんだろう。

 イシュルは自分の精霊に口頭で短く、続きを心のうちで伝えた。

 ……わかりました、剣さま。

 フェデリカが背を向けたまま、ご心配なくと心のうちに返してきた。

 ネーフとレナはニッツアを後ろ手に半歩ほど下がり、無言でいる。

 イシュルは薄く笑みを浮かべて、前にいる三体の精霊たちを見やった。

 ……飼い主のニッツアが、あれだけ言ってもしつこく仕掛けてくるのは、ほかに狙いがあるからだ。たとえば俺の力がどんなものか、少しでも知っておきたいと、そんなところだろう。

「失礼しました、風の精霊殿」

 ニッツアが双子の精霊の間に顔を出し、かるく会釈してみせた。そしてイシュルに目をやった。

「聞き分けのない子たちで、いい加減うんざりしておいででしょう。どうか返す返すもお許しを。今夜はこれで失礼させていただきます」

 ニッツアはもう一度頭を下げると、後日なるべく早く使いを送り、連絡を密にすることを約し、最後に「ごきげんよう」と挨拶して、前を向いたまま自らの精霊とともに夜空に舞い上がり、暗闇に吸い込まれるようにして姿を消した。

「あとをつけますか」

 間をおかず、フェデリカが振り向き言った。

「いや、必要ない」

 それより、訊きたいことがある。

「どうだった、あの双子の精霊は」

 フェデリカはニッツアらの消えた夜空をちらっと見ると、何の表情も見せず低い声で話しはじめた。

「あれは間違いなく、アプロシウスに近い精霊ですね。この目で見るのははじめてですが、すぐ、直感的にわかりました。とても希少な存在で、いいものが見れました」

 ……やはり、大精霊クラスの精霊、ということか。

 イシュルは顎に手をやり、難しい顔をした。

 まぁ、あのニッツアが後先考えずに召喚し、契約してしまうくらいだからな。

「やつらの能力は? 何か感じるものはあったか? 雷と、荊棘の結界……つまり植物がらみの魔法が使えるみたいだが」

「いえ、はっきりとは。……隙がなく、油断ならないやつ、とは感じましたが」

 フェデリカは見かけに似合わない、大人びた口調で淡々と話した。

「ただ、アプロシウスの精霊となればあの者らの得意とする魔法はだいたいわかります。隠れ身に、眠りや変わり身などの暗示、人間を化かす魔法です。そういった傾向の、より強力な秘法を切り札として隠している筈です」

「まあ、それは間違いないところだな」

 イシュルはひとつ頷くと、にやりと笑って言った。

「で、どうだ? フェデリカ。やつら相手におまえひとりで勝てそうか」

「もちろんです。おまかせを、剣さま」

 フェデリカは相変わらず無表情なまま、だがきっぱりと答えた。

 ……まあ、勝てない、とは絶対言わないだろうな。

 イシュルは笑みを浮かべたままもう一度、小さく頷くとニッツアの消えた方を見て言った。

「俺たちも帰ろう。特に後方の警戒を厳重に、頼む」

「御意」

 フェデリカがすっと姿を消すと、イシュルは担ぎ上げたコラーノをかるく揺すって具合を確かめ、音もなくふわりと夜空に飛び上がった。

 秋の夜は深更に至り、外気は冷たく澄んで、己れの肺腑を深く凍てつくように冷やした。

 ……さて、ニッツアから請け負った難題、どうするかな。

 イシュルは混濁と清澄の、奇妙に入り混じった心中を持て余し気味に、ひとり呟いた。

 その声は夜風に瞬く間に吹き飛ばされ、はっきりと音にならなかった。



 しばらく飛ぶと夜空はいつの間にか晴れて、西の空には月が姿を現し地平の先までも見渡せる。

 真下を見ると、コラーノが馬を飛ばした一本道が見えた。追ってきた時と同じ、その道を辿って街に戻る。

 彼の乗ってきた馬はどこに行ったろうか。ニッツアの方でわざわざ処分したとも思えないので、朝までには宿の近くまで戻っているかもしれない。乗用馬なので、誰かが捕まえてダリールの街の領主や神殿に届け出るかもしれない。

 コラーノに意識をやるとまだ眠っている。特に魔力らしきものは感じないが、意図的に眠らされているのは確かだろう。

 後方にフェデリカの微かな気配を感じながら、自身の魔力を抑え静かに飛んで行くと、やがてダリールの街が見えてきた。

 市街の中心部、古い街区の周囲には所々、昔の城壁がまだ残っており、その東の壁際に主神殿がある。その屋根の上に人がいるのがわかった。さらに上空、かなり高い辺りをあの化け猫の精霊、ルカトスが飛んでいるのが見えた。その背中にレニが乗っている。

 神殿の方に近づくと屋根の上にいる人物が誰かわかった。リフィアと、シャルカを連れたミラの三人だった。リフィアは珍しく全体が銀色に輝く長刀を持っていた。刃先を下に、柄の上に両手を乗せている。ミラはシャルカを背に、屋根の上に直に座っていた。

 機動力の劣るニナは、ロミールらとともに宿に留まっているようだ。彼らには土の精霊、ウルーラを護衛につけてある。

 イシュルは真っ直ぐ、神殿の方へ向かった。

「イシュルさまっ!」

 ミラが立ち上がり、声を上げる。

 レニはやや高度を落として、ルカトスの上から手を振ってきた。そのまま上空で警戒を続けるつもりらしい。

「不思議な雷が鳴ったのでな、おまえの後を追ってきたんだが、途中から先に行けなくなってしまって、ここで待っていた」

「イシュルさまの張った結界でございましょう? 皆で心配しておりましたのよ」

 イシュルが屋根の上に降り立つと、リフィアとミラが近寄り声をかけてきた。

「ん? バラルディ殿は無事か?」

 リフィアが眠っているコラーノに目をやる。

「ああ、魔法で眠らされているようだ。外傷も特にないし、大丈夫そうだ」

「あの雷、魔法だったのでしょう?」

「うん」

 ミラの質問にイシュルは大きくひとつ、頷いた。

「やはり、雷の魔法だったか」

 リフィアが困惑した顔になって言った。

 彼女が普段は持ち歩かない長剣をわざわざ用意してきたのは、それがどれほどのことか、よく表していた。

 雷の魔法とはそれほど珍しく、また精霊神の存在を強く感じさせるものだった。

「まあ、それであの結界を張ったんだがな」

「街の外へ出た辺りで、なぜかその先に進めなくなってしまいましたの」

「別に壁があるとか、何かで隔てられているような、そういう感じはまったくないんだが、不思議なことにどうやっても前へ進めなくなってしまった」

「イシュルさまの結界は凄いですわね。あれほどさり気ない、自然で無害な感じがするのに、何もできない、何も受けつけないなんて」

「それで、雷の魔法を使ったのは……」

「契約精霊だ。双子の」

 イシュルはリフィアの質問を遮り、唐突に、はっきりと言った。

「双子?」

「まあ」

 驚きの声を上げるふたりに、イシュルが続けてかぶせるように言った。

「詳しくは宿に帰ってから話そう。難題出来だ」



「それは本当に、難題ですわね」

 ミラが片手を頬に当て難しい顔になって言った。

「あの王女殿がな」

 リフィアが両腕を胸の前で組んで、溜息をつく。

 彼女は聖都の王城でイシュルと一緒に謁見して、ニッツアと面識がある。

「それで、どうするの? イシュル」

 レニが身を乗り出すようにして訊いてくる。

「サロモン陛下を騙すことになると思うんだけど」

「うまく切り抜けないと、外交問題になるかもしれません」

 ニナが不安を隠さず、ぽつりと呟くように言う。

 宿屋に帰ってきて、商会の者に眠ったままのコラーノを引き渡した後、夜中にも関わらず早速、皆で話し合いが持たれた。ここのところ、何かあるたびに開催され定番と化していたが、事があった直後、しかもこんな時間に行われるのは異例だった。

 その異例の、深夜の会議は宿舎で一番大きな部屋に泊まっていたミラの、居間兼談話室で行われた。メンバーはロミールら従者を除く全員が参加した。

「でも、ニッツアさまを裏切るわけにもいきませんわ。サロモンさまの次代の王は、おそらくあの方になるでしょう。まだ子どもとはいえ、決して蔑ろにしてはなりません」

 ミラは皺を寄せた眉間に指先を当て、何度か揉みながら言った。

「先々のことを考えるなら、将来有望な才媛であるニッツア殿に恩を売っておくのは悪いことではない、か?」

 ラディス王国の貴族であるリフィアはしかし、幾分茶化したような言い方をした。

「まあ、問題の書、“ウルク王国興亡史末巻抄本”の中身を見るのに一番手っ取り早い方法は、ニッツアと組むことなのは間違いないからな」

 イシュルは肩をすくめ、口端を歪めて言った。

 ……彼女を裏切り、すべてをサロモンに話して後は彼にまかせてしまうのが、こちらとしては最も楽なのは確かだ。だが、それでは問題の史書を無事入手できるかわからない。ニッツアが自暴自棄になって、その書物を勝手に処分してしまう可能性が皆無、とは言い切れない。

 イシュルはそこで、車座になって座るリフィアたちみんなの顔を見回した。

 ……それに、だ。

「ともかく、一番大事なことは」

 顔を上げ、皮肉な笑みを不敵な笑みに変える。

「今日までのことが、ただの偶然が重なったとはとても思えないことだ」

 両手を広げ、掌を上向けた。

「ピピン大公そっくりのコラーノ・バラルディが現れ、彼に誘き出されネーフとレナの、双子の精霊を召喚したニッツアと遭遇した」

 レニはもちろん、リフィアもニナも、ニッツア姫を怖れ、警戒するミラでさえ、イシュルに引き込まれるように強気の笑みを浮かべた。

「これは精霊神アプロシウスの思し召し、というやつだ。彼の神のお誘いを無下にするのはまさしく、冒涜以外の何物でもない」



 かたかた、ぎいぎいと、荷馬車の車輪の土を噛み軋む音が止まない。

「実を言うとあの夜の二日ほど前から、同じころ合いの、夜間の記憶が曖昧でしてな」

 御者台の、イシュルの隣に座り手綱を握るコラーノが、視線を前に向けたまま、昨晩までのことを説明してくれた。

「いやいや、ヘレスに誓って嘘は申しておりません」

 イシュルが横目に見つめてきたのを気にしたか、コラーノが慌てて弁明した。

「先を続けてください。俺は別に、気にしてませんよ」

 ふたりの乗る荷馬車は隊商の最前列を進む。後ろに続く馬車も間が空き、前方にはだいぶ離れて護衛の用心棒の剣士がひとり、騎乗で進むだけだ。

 街道の周りは自然の草原とも見紛う休閑地が広がり、人気(ひとけ)はない。イシュルとコラーノの会話を耳にするものはいない。

「イシュル殿もご存知かと思うが、街では定期的に娼館に顔を出し、手の者と連絡を取っておりましたが、それが途中から、記憶があやふやになりましてな。昼間は何ともないのですが」

 コラーノは面上に浮かぶ不安の色を隠そうともせず、話を続ける。

「昨晩のことを考えるとお話の通り、教会か異国の影働きの使う精霊に、化かされていたのかもしれません」

 コラーノはそこで、イシュルに助けてもらった礼を言った。

 イシュルは昨晩、宿屋に戻り商会の者に彼を引き渡す時、目が覚めたら余人のいないところで、ふたりで話がしたいと伝えておいたのだった。

 それで今日、午後も夕刻近くになって、やっと二人で荷馬車に乗る機会ができ、コラーノから話を聞くことができた。

 毎日のように繰り返された夜中のコラーノの不審な行動は、おそらくどこかの時点であの双子の精霊に暗示をかけられ、操られていたのだと思われた。

 つまり、ニッツアにイシュルを誘い出すコマとして利用されたのだ。

「俺の方も警戒していたんでね、大事にならなくて良かったです」

 もちろん、ダリール郊外の墓場でニッツアと遭遇したことはコラーノにはふせてある。

 イシュルも前を向いたまま、漫然と道の先を見やった。

 街道は東へ向かって伸びており、周辺の、大きな波のように続く緩やかな丘の連なりは、夕陽を浴びて一面、明るい暖色の、黄金色に光り輝いている。

 しばらくふたりは無言のまま、丘をひとつ超えると目の前に小さな山が現れた。頂上に古城のそびえる、山上の街に行き当たった。

 その山の麓、街道が街並みに吸い込まれ消える手前で、人が何人か集まり、話し込んでいるのが見えた。

 先を行く騎馬が足を止め、馬上の男がイシュルたちの方を見た。

 何か、揉め事でも起きているのだろうか。

「……」

 コラーノが即座に馬車から降りて、急ぎ足に向かって行く。イシュルも続いた。

「チッ、何だよ」

「くそっ」

 近寄ると、重そうな荷を背負った男に、柄の悪そうな身なりの男たちが数名、絡んでいるのがわかった。彼らは馬上の用心棒、続いてイシュルとコラーノの姿を見ると汚い言葉を吐いて、山上の街の方へ足早に去っていた。

「ありがとうございます。すんでのところで、大事な書物を盗られるところでした」

 絡まれている男は薄汚れた、ヒラ神官の服を着ていた。背中に背負った麻袋の中身は、確かに数冊の書物のように見えた。

「神殿の御本は貴重ですからな。しかしまったく、とんでもない奴らだ」

 コラーノが痩せた、長身の神官に声をかけた。

「いえいえ、これは少ないですが……ヘレスの祝福を」

 神官はイシュルに二つ折になった紙切れ、護符に銅貨を一枚添えて差し出してきた。

「はぁ」

 ぼんやりと佇むイシュルに神官は、差し出した護符と金を無理矢理、押し付けるようにして渡すと一礼し、先に街に去っていったゴロツキたちを追いかけるように街の方へ歩いて行った。

 なかなかの健脚か神官の後ろ姿はあっという間に、夕日を浴びて赤く染まった街並みに消えていった。

 ……しかし、神官が護符というのはわかるか、わざわざ銅銭まで渡してくるだろうか。

 イシュルがふと、コラーノの顔を見ると彼はとぼけて、明後日の方を見ていた。

 その日の夜、宿屋の部屋で護符を開くと、途端に魔力が煌き、紙面いっぱいに筆書きされた文字がたくさん、浮かび上がった。

 そこには「王都に着きましたら、いつ何時でも構いません。必ず、大聖堂の聖パタンデール館においでください。聖王家が御身を引き止めても構わず、必ずお越しください」と書かれてあった。最後にデシオ・ブニエルと著名があった。

 かつてイシュルと共闘した正義派の、今は大神官の名前だった。

「……」

 イシュルは一読するとすぐ、小さな火魔法を発動してその場で、護符を燃やしてしまった。

 翌日、いよいよ聖都エストフォル入りも間近、というところでデシオの切羽詰まった密書もかくや、という出来事があった。

 あたりは見渡す限りの牧草地と、冬巻き前の黒々とした麦畑が斑(まだら)に入り混じった平原で、散在する人家にはよく手入れされた瀟洒な糸杉も見えた。

 街道には同じ道を行く旅人に混じり、緩やかに曲がる道筋を行くと、手前の丘上から突然、煌びやかな聖王家の旗をはためかせた、騎馬の一軍が姿を見せた。銀色に輝く重装騎兵の縦隊の先頭には、ひときわ目を引く白馬に乗った真紅のマントの騎士が見えた。

「これは、何と!」

 その日も同じ荷馬車、御者台に乗っていた隣のコラーノが驚きの声を上げた。

 後ろの商隊の者たち、ミラやリフィアら皆も驚愕するのが、しっかり伝わってきた。

 もちろん、イシュルにはだいぶ前から騎馬隊の一団が近づいてくるのがわかっていた。

 風に乗って、無数の鎧や馬具の擦れる音、蹄の音が聞こえてくる。

 ……しかし。

 イシュルは心のうちで周囲を警戒させていた風の精霊、フェデリカと土の精霊、ウルーラにより身を深く隠すように命じると、盛大に溜め息を吐いた。

 ……さすがはサロモン。夜中に、秘密裏に接触してきたニッツアやデシオには及びもつかない、これ以上はない派手な、圧倒的な演出でお出迎えだ。

 美貌の聖王はイシュルの予想をはるかに超えて、よく晴れた白昼堂々と姿を現した。

 眩しい日差しに、イシュルは片手を眉間にやって庇(ひさし)をつくった。

 

 

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