密約の夜 1


 傾いた墓石が、まばらに下草から突き出ている。

 倒れ、崩れた墓石の欠片が、そこら中に散らばっている。

 草は青く、石は白く、光っている。

 目の前に立つ少女も、輝いている。

 ……彼女の背後の、双子の精霊よりもなお明るく。

 まるで地獄の底にいるようだ。俺の張った結界なのに。

「ふふ」

 微かに、笑う声が漏れる。

 出来過ぎじゃないか。これではさすがのアプロシウスも、出る幕がなかろう。

 もとよりこの少女は、精霊神より手強いのだから。

「今晩はニッツア。ほんとに久しぶりだね」

 どうしても皮肉に、肩をすくめてしまう。

「こんなところでまさか、きみと会うことになるとはね」

「うふ」

 目の前の少女もたまらず、といったふうに笑みをこぼす。

「わたくしもですわ、イシュルお兄さま」

 言いながらかるく腰を引き、片膝を折ってみせた。

 王家の者が、辞を低くして臨んでいる。決して冗談やしゃれだけではない、彼女は友好的な話し合いを望んでいるのだ。

 ……街はずれの古い遺跡、こんな墓場で、こんな時間に。

「この趣向は、きみの兄君かな?」

 つまり、おまえはサロモンの使者かと、訊いているわけだが……。

「いいえ」

 ニッツアは余裕ある、優雅な微笑みを浮かべかぶりを振った。

「ほう」

 ……これは、意外だ。

 イシュルは少し困惑した顔になって、驚きの声を上げた。

 サロモンの謁見でこの少女とはじめて会った時、ミラが異様に警戒していたのが思い起こされる。

 だが、どんな天才であろうと、七歳の子どもが自分の判断でこんなことができるだろうか。

 まさか、サロモンと関係ないのなら、教会側と繋がっているというのか。

「きみと」

 イシュルはわずかに顎を引き、渦巻く疑念を抑え込むと、ニッツアの背後に控える精霊に顎をしゃくって言った。

「その双子の精霊はどういう関係かな?」

「ふふ、この者たちですか」

 ニッツアは後ろを振り向き、彫像のように動かない一対の精霊に目をやると、すぐ正面に向き直り、笑みを深くした。

「彼らはわたしの契約精霊です」

「!!」

 イシュルは両目を見開き、あらためてニッツアと精霊をまじまじと見つめた。

 もしや、とは予想していたが、それでも驚きだった。

 ……彼女が嘘をついていないのなら、この精霊が彼女の召喚した者であるなら、確かにサロモンとも、聖堂教会とも繋がっていない、と考えられなくもない。

 雷の魔法を使う、とてもめずらしい精霊なのだ。フェデリカはあの雷撃を、精霊神の魔法と言った。そんな精霊を彼女の護衛につけられる者は、聖都でも誰もいないだろう。聖王家にも、大聖堂にも、そんな魔導師はいない筈だ。

「その精霊は雷を撃った。無系統の、それも精霊神アプロシウスと関わりのある精霊だ」

 イシュルは視線を鋭く、断定するように言った。子供に見せる態度ではかった。

 ……こんな精霊を召喚し契約できる魔法具は間違いなく、“大物”の魔法具だ。それは黒尖晶が使う隠れ身の仮面などより、一段上の魔法具ではないか。

 五元素や光系統以外で、まともな精霊を召喚し契約できる魔法具は、今まで見たことがないのはもちろん、聞いたことさえない。かつてサロモンと一緒に乗り込んだ太陽神の塔、聖王家のいわば宝物殿、魔法具の収蔵庫にもそんなものはなかった。ミラたち周りの魔導師からも、そんな話は一度も聞いたことがない。

「……」

 ニッツアはイシュルの低い声に一瞬だけ目を合わせると、顔を俯け微かに笑みを浮かべた。

「さすがはイシュルお兄さま」

 華やぐ声音。

 前を向いたその顔は、いっぱいの笑顔だ。

「おっしゃるとおり、この双子は精霊神アプロシウスに属する精霊。世にも珍しい、無系統の契約精霊になります」

「……そうか」

 短く、呟く。

 ニッツアの笑顔は、前代未聞の自らの精霊を自慢するものでも、その精霊と契約できた喜びを表すものでもない。

「さあ、おまえたち。この方に挨拶なさい」

 ニッツアは片手をかるく上げると、背後に控える対の精霊に命じた。

 子どもにそぐわない、大人びた冷たい声だった。

「ふん、俺はネ―フと言う。よろしく頼むぜ──」

 瞬間。

 ネ―フと名乗った精霊の全身が青く輝き、突きつけられた右手の指先から雷光が走った。

 強烈な閃光に周囲が昼間のように輝き、視界が凶悪な殺気で掻き消された。

 ──終わった。

 その瞬間、死んだと思った。

 だが、一瞬の白日が去り周囲が再び暗闇に満たされると、自身の肉体を貫いたと思われた電光はすぐ目の前で、何者かに首根っこを掴まれた獣のように押さえられ、もがき、のたうち回っていた。

「くっ」

 ネ―フが悔しそうに呻いた。

「何をするの」

 ニッツアが眉をひそめて少年の、男の精霊の方を振り返り、厳しい声音で言った。

「ネ―フ、今がどんな状況か、わからないの?」

「むっ」

 ネーフは首をひっこめ、気まずそうな顔をした。

「この不思議な結界」

 ニッツアは手を伸ばし、周囲を見回し言った。

「この恐ろしい結界は、イシュルお兄さまが張ったものでしょう?」

 そして、頭上で無気味な擦過音を立てている雷光を見上げた。

 ネーフがイシュルに向けて放った雷撃は空中で静止し、周囲に閃光を発しながら耳障りなノイズを撒き散らしている。

「……」

 イシュルは肩をすくめ溜息をつくと、ネーフと空中の静止した稲妻を見、続いてニッツアに視線を向けた。

「きみはこの結界がどんなものか、わかるのか」

「いいえ。よくわかりません。でもだからこそ、とても危険な感じがします」

 ニッツアはにこやかな表情を引っ込め、ごく真面目な顔になって答えた。

「ふむ。……きみの精霊の気持ちもわかるがな」

 イシュルは口端を歪め首を横に傾けると、眸を細めてネーフを見つめた。

 ……こいつだって、この結界がどんなものかわからない筈もなかろうに、構わず雷撃してきた。こういう生意気な精霊は珍しくない。レニの精霊ルカトスや、パオラ・ピエルカの精霊、メーベトロウティスも偉そうな口を聞いた。

「このっ!」

 ネーフはイシュルの値踏みするような視線にカッとなって、鋭い声で叫んだ。

 ふたりの間でバチバチと異音を立てていた電光が突然、輝きを増し明滅しながら、再び上下左右に激しく暴れはじめた。

 イシュルは歪んだ笑みを深くすると、右手をかるく上げた。

 と、その稲妻があっさり、一瞬で消えてしまった。

「……」

 ネーフは呆然と佇み、ニッツアが無言で肩をすくめた。女の方の精霊は先ほどから彫像のように動かない。目許に微かな表情を浮かべるだけだ。

 イシュルも無言で彼らを見返した。誰も口を開かず、夜の墓地に間の悪い空気が流れた。

「ネーフは馬鹿ね」

 やがて、わずかに時が過ぎたか、今まで大人しくしていた女の方の精霊が、はじめて口を開いた。

「何をやっても無駄だって、わかってるくせに。それでもやるんだから」

 女の精霊はネーフに侮蔑の視線を向けた。

「ちっ」

 ネーフは舌打ちすると、女に向かって「余計なこと言うなよ」と低く押し殺した声で言った。

「ふん、ネーフの──」

「やめなさい」

 女の精霊が何か言い返そうとすると、ニッツァが後ろへ振り返り、とても子どもとは思われない低い声でしかりつけた。

「おまえたちには本当にがっかりだわ。まともな名乗りひとつできないなんて」

「……」

 少年と少女、そっくりの顔がまったく同じ、罰の悪そうな表情を浮かべ黙り込むと、イシュルは微笑を浮かべ言った。

「まぁ、いいじゃないか。そちらの女の方の精霊は? 名をなんと言う」

「こちらは妹のレナ。ネーフが双子の兄になります。よろしくお引き立てのほどを、イシュルお兄さま」

 ニッツアは慇懃に、わざわざ腰を落とし一礼し自らの契約精霊を紹介した。

「兄妹一対で精霊神アプロシウスの、雷の精霊というわけか」

 イシュルは口角をさらに引き上げ、低い声で言った。

「確かにこれは珍しい。俺でもわかる、前代未聞の、稀有の精霊だな」

「このっ」

 イシュルの口調が気にいらなかったか、ネーフが顔色を変え、また雷撃の姿勢をとろうとした。

「やめて」

 すかさずレナが止めに入る。

「いい加減にしないと、殺されるわよ」

 レナは兄に厳しい視線を向け、片手を上げて制止した。

「そういえば、イシュルお兄さま」

 ニッツアは双子のやり取りを横目に見ると、イシュルに顔を戻し小さく笑みを浮かべた。

「この結界はどういうものなんですの? 教えてくださいな」

「これは五元素の魔法を編んだ、俺が独自につくった結界だ」

 イシュルは表情を消し、声を落として続けた。

「ここは俺の世界、別世界だ。この結界の中では誰も俺に抗えない。破ることも、出ることもできない」

 イシュルは視線を遠く、あらぬ方に向けて言った。

「まだ未完成の状態で赤帝龍を葬り、水神フィオアと拮抗した」

「そう、ですか」

 ニッツアは面上の笑みを凍らせ、背後に控えるネーフとレナはびくっと一度、全身を震わせた。

「知らせは届いていましたが、やはり水の魔法具も手に入れたのですね」

「ああ」

 イシュルは薄く笑みを浮かべ、わずかに首を横に傾け言った。

「でなければ、俺は聖都に出向いていないだろう?」

 幾度目か、ニッツアの視線がまっすぐ向けられる。

 イシュルもしっかり、彼女の眸を受け止めた。

「なぜ俺をこんなところに誘い込んだか、そろそろ本題に入ろうか」


 

「ではなるべく手短に、単刀直入に申し上げましょう」

 ニッツアはまず、コラーノを利用し真夜中にイシュルを誘き寄せた、つまり呼びつけたことをていねいに詫びて、それから本題に入った。

「大聖堂で見つかった前王の遺物に関して、イシュルお兄さまにご助力願いたいのです」

 ……まぁ、当然その話だろうな。

 イシュルは控え目に、小さく何度か頷いた。

 しかし、最初に接触してきたのがサロモンでも、ウルトゥーロでもない、まさかこの少女だったとは……。

 イシュルは、異様に大人びた表情で話すニッツアに、思わず苦い笑いがこみ上げてきそうになるのを押し殺し、わずかに首を振って先を促した。

「イシュルお兄さまももうご存知かと思いますが、先日大聖堂で、前王ビオナートの隠した多数の禁書が発見されたのです」

「うん。……で、ビオナートの隠した禁書類はどこから見つかったのかな?」

 やつがどこに隠したか、まずはそれが気になるところだ。当時、サロモンはじめ多くの者は、王宮の方に隠したのではないかと考えていた。

「それが、太陽神の間の真下、から出てきたのです」

「主神の間の、……真下?」

 イシュルは思わず、驚きの声を上げた。

 恐れを知らぬ、それとも何か意図があったのか。何れにしてもビオナートなら考えてもおかしくない、あまりにも意外な場所だった。

 ニッツアが話すには、風の剣でマレフィオアの分身と一緒に吹き飛んだ大聖堂を再建すべく、主神の間の周囲を掘り下げ基礎工事をはじめたところ、例の禁書が発見されたのだという。

「父の遺した禁書は書物が五十冊ほど、巻き紙(スクロール)や紙片が少々、といったところで、主神の間の台座の下にあった分厚い岩盤をくり抜いた、小さな横穴に押し込んでありました」

 ニッツアはとても子どもとは思われない、よく吟味された言葉を使い説明を続けた。

 まだ七歳くらいの年齢なのに、恐るべき頭脳だった。

「当時、大聖堂に詰めていた大神官のデシオ・ブニエルは、ことを内密に運ぼうと秘密裏に少数の神官兵を手配。禁書類を見張らせ、後から土魔法の心得を持つ神官を呼び寄せ、横穴を塞いでとりあえず問題の書物を封印しました」

「デシオが……」

 先の聖都の争乱で、ともに戦った正義派の聖神官だった男だ。美形の、目から鼻へ抜けるような神官だった。赤帝龍を斃した時は、火の大神官に出世していて、葬いや調伏、封印の儀式を執り行っていた。

「デシオさまはイシュルお兄さまとも知己があって、とても優秀な方だそうですね」

 そこで、何気ない微笑みを浮かべていたニッツアの眸に、妖しく鋭い光が瞬いた。

「しかしどうしたわけか、この秘事はすぐ王宮の、それもサロモン王の耳に入ることとなりました」

 ニッツアの笑みが、少しずつ大きくなっていく。

「……」

 そこでイシュルは力なく、ため息をひとつ吐いて言った。

「デシオの側に仕える神官か、神官兵の中に王宮と繋がりのある者がいたわけだ」

 ……デシオも大神官になったわけだし、大聖堂の工事はサロモンも関心を持っているだろう。

 王家が密偵を付けるのは、別におかしいことではない。

「陛下は前国王の遺物を以前から探していましたから。そのような手配りをしていたのでしょう」

 ニッツアは機嫌良さげに頷き、先を続けた。

「兄はそこですかさず、大聖堂の不義理を糾弾する強硬な申し入れを行いました。総神官長のウルトゥーロさまに、新しく内務卿に就任したサンデリーニ公爵本人を使者に立て、直接文句を言ったそうです」

 サンデリーニ公爵とは、五公家の一、元々サロモンに近かったアッジョ・サンデリーニだ。

 あの男はあの後、内務卿になったわけだ。

「密偵の件はどうしたんだ? そんなに急に動いては、教会側にバレてしまうんじゃないか?」

「さぁ、その辺はわたしにもわかりません。ことが事でございますから。そのような些事に構っている場合ではなかったのでしょう」

 ……まぁ、確かにそうだ。ほとんど絶望視されていたビオナートの偽書が見つかったのだ。

 末端のスパイの運命を気にかけている余裕はなかったろう。

「それで、問題の禁書類は取りあえずその場に封印されたまま、現場には教会側と聖王家側と、双方から見張りが出され、共同で管理することになったのです」

 ニッツアは相変わらず笑みを見せ、表情を変えない。

「今は王家と教会側で、例の書物をどうするか、話し合いが続いています。まだ詳細は不明ですが、近日中に我が国王と総神官長直々の立会いのもと、偽書の封印が解かれ、検分されることとなるのが決まっています」

「ふむ。今はその、細かいところを詰めている最中か」

「そうですわね」

 ニッツアの唇が、子供らしくない曲線を描いて歪んでいく。

「……で? それで俺にどうしろと?」

 ニッツアから、背後に立つ双子の道化に視線を移す。

「今はそういうわけで、誰も禁書類の詳しい中身を知る者はいない、筈なのです」

 双子の精霊は無表情のまま、微動だにしない。ニッツアはそこまで言ってたまらず、思いっきり破顔した。恐ろしいことに、ここにきて、このタイミングで今夜はじめて年相応の、可憐な笑みを見せた。

「何を隠そうここにひとりだけ、亡き父の禁書をつぶさに読み漁り、それどころか書物を一冊、巻き紙を数本抜き取り、私(わたくし)してしまった者がいるのです」

 可憐な、だが本物の悪魔のような笑顔。悪霊が乗り移った人形のような顔だ。

「それがきみか、ニッツア」

 イシュルは盛大に嘆息して、小さな悪魔を睨みつけた。



「そんな怖い顔なさらないで、イシュルお兄さま」

 ニッツアは片手に細い魔法の杖を持って、先をふるふる、振り回している。

 ……ご機嫌なのだ。

「その魔法具で、封印を破って禁書を漁ったわけか」

 彼女の手に持つ魔法の杖は、国王派の走狗だったアナベル・バルロードの使っていたものだ。アナベルはミラとの決闘に敗れ命を落としたが、彼女の持っていた魔法具は戦利品として、王家が預かり管理していた。サロモンはそうして国王派の魔導師や貴族から取り上げた魔法具の幾つかを、ニッツアに貸し与えていたらしい。

 なるほど七歳くらいになれば、本人にその才能があれば魔法の勉強を初めても良い年頃かもしれない。それでも魔法具まで与えるのは、あまりに早すぎると思われるのだが、それがニッツアとサロモンのような兄妹であれば、必ずしもおかしい事ではないだろう。

 サロモンはニッツアに、他に風の魔法具なども貸し与えていたらしい。そこで彼女はどこからか、ビオナートの遺産が発見されたことを聞きつけ、興味を抱き、つまり犯行に及んだのだ。 

 彼女はまず風の魔法具で精霊を召喚し、その力を借りて主神の間の地下、禁書の封印された現場に行き、おそらく監視やトラップの魔法を掻い潜って見張りを眠りの魔法で眠らせ、アナベルの魔法の杖で封印を解き、禁書をその場で閲覧した。

 アナベルの魔法具もそうだろうが、サロモンの貸し与えた他の魔法具も相当な品だったのだろう。彼女の呼んだ風の精霊も優秀だったらしく、厳しく警護されていた禁書類をしかも数回にわたって盗み見し、その優秀な頭脳でほとんどの書物の内容を、あらかた覚え込んでしまった。

 そして、その多くがただの偽書などではない、禁忌だが有用な書物であることを看破し、中から巻き紙(スクロール)を一本、後になって歴史書を一冊、大胆にも盗み出したのだった。

「私はその、ウルク時代のスクロールを見た瞬間、どうしても欲しくなって、我慢できなかったのです」

 ニッツアはそう言いながら両手を前に突き出し、手のひらを開いて見せてきた。

 両手とも、その真ん中に焼き印を押されたような炭色で、見たことのない文字らしきものが一字ずつ描かれていた。

「これは古代ウルクでも高位の神官しか使えなかった神聖文字で、左は精霊神に仕える女の精霊、右は男の精霊を意味しているそうです」

 特に魔法具を介さず、あるいはその消えることのない焼き印が魔法具ということになるのか。

 世にも稀な雷魔法を使う、双子の大精霊を召喚し契約できる古代の聖魔法のスクロール。それがニッツアを魅了した、一番の禁書だった。

 なぜ禁書なのか。それが精霊神に関わるのであれば、いずれ大きなしっぺ返しが来るかもしれない。だから禁書指定されたか、あるいは非常に貴重で、強力な宝具であったために禁忌とされたか。それは定かでないが、確かに誰でも所有欲を掻き立てられるものであることは確かだ。

 それにこの少女は間違いなく天才だ。将来はサロモンをさえ超える存在になるだろう。ニッツアなら、精霊神の罠から逃れることができるかもしれない。彼女には精霊神の力さえ、及ばないかもしれない……。

「それで、もう一冊の書物というのは?」

 イシュルは子どもとはいえ、聖王家の姫君に露骨に顎をしゃくって先を促した。

 それはつまり身分や年齢に関係なく、相手を対等以上の、あるいは危険でさえあり得る存在と見なしていることを示していた。

「それは今、この場にはありませんが……」

 ニッツアはめずらしく焦らすような間を空けると、またその悪魔的な微笑を浮かべた。

「ウルク王国興亡史末巻、ヒメノス王子の暴虐と王国の滅亡を記した史書の抄本ですわ」

 その瞬間、少女の双眸はきっと見開かれ、狂おしいほどの光を宿し眩しく煌めいた。

「わたくし、後になってことの重大さに怖れ慄き、どうしたら良いか一所懸命考えましたの。なぜなら発見された禁書類の目録はすでに作成され、ほとんど書物の内容も大まかにですが、把握されていたからです」

 そこでニッツアは顔を俯かせ、悲しそうな顔をしてみせる。

「わたしはすでに精霊神のスクロールをひとつ、盗み出して使ってしまいました。このことが公になれば、大変なことになってしまいます」

 そして彼女はまた顔を上げた。

「最初は……、お兄さまに助けを借りようと思ったのですけど」

 ニッツアがただ「お兄さま」という時、それはサロモンを指している。

「あまりあの方に借りをつくりたくないですし、兄の、それも国王に頼むなど、何の面白味もありません」

 ニッツアは右手に持つ、アナベル・バルロードの魔法の杖をまるで管弦楽団(オーケストラ)の指揮者のように高く振り上げ、くるくる回した。

「だから、五つの魔法具を揃えたイシュルお兄さまの噂を思い出して」

 その顔が自慢げに微笑み、紅潮している。

「もう一度、主神の間の地下に忍び込み、ウルク王国興亡史の抄本を盗み出してきたのです」

 ……ああ、背中が冷たい。

 文字通り、冷や汗か? ……こいつめ。

 この少女は、俺に尻拭いをさせて自らの危機を脱し、ついでに王家と教会の仲介も押し付けようとしているんじゃないか。

「わたしの願いはイシュルお兄さまに、使ってしまったスクロールをどうするか、どう不問にするか、工作し誤魔化すか、お知恵を拝借することですわ」

 ニッツアはそこで表情をあらため、また腰を落として一礼した。

「報酬は、ウルク王国興亡史抄本。正確にはその中身を書き写した、写本です」

 ニッツアは何度目か可憐な、悪魔的微笑を浮かべた。

 

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