雷鳴 2

 


「いやあ、そうですか。あなたさまが」

 ひと通り挨拶が済むと、パイプの男は紫煙をくゆらしながら落ち着いた、そして思ったよりも明るい声で言った。

 男は外見はピピンとそっくりだったが、表情も口ぶりも当人とはだいぶ違っていた。ジレーの紹介で、コラーノ・バラルディと名乗った。

 コラーノはソレールに本店を構え、代々大公家に出入りを許された商家の主人(あるじ)で、ソレール大公から直々に依頼された聖都の様々な文物、美術品などを仕入れ、搬送するのを生業にしていた。

 ……表向きは。

 ルフレイドは詳しく話さなかったが、コラーノには別の顔があった。

 彼は王家直轄か、あるいは尖晶聖堂に関係する影働きの者で、ソレール大公と都(みやこ)の聖王家を結ぶ連絡係、さらには大公側が宮廷の情勢を探るための間諜を、もしかするとその逆、王家がソレール大公を監視し、裏から命令を伝達する目付役を担っているのかもしれなかった。

「若い方、とは聞いておりましたが、これほどとは。いや、驚きました。その若さで、大変な偉業を成し遂げられましたな。まったく感服の至りです」

 コラーノは意識してか思い切り相好を崩し、揉み手するような勢いでおべっかを使ってきた。

 それと言うのもイシュル以下、リフィアやミラたち皆が、どこかぎこちない、堅い笑みを浮かべていたからだった。

 コラーノは自分がただの商人ではない、影の者であることにイシュルたちが敏感になり過ぎているのではないかと勘繰り、緊張をほぐそうと人当たりの良い、商人らしい態度を強調してみせた。

 だがもちろん、イシュルたちが緊張を隠せなかった理由はほかにあった。

 大聖堂で重要な書物が発見され、聖都に向かおうとするこのタイミングで、精霊神に憑依されたピピンとそっくりの人物が現れたことは、どう考えてもただの偶然ですますことはできなかった。

 また何か、アプロシウスが仕掛けてこようとしているのか──そう考えるのが自明で、異論を挟む余地はなかった。

 皮肉屋で悪戯好きな精霊神が、いかにもやりそうなことだった。

「いやいや」

 イシュルはやや強張った笑みを浮かべ、顔の前で手を振った。

「そんなことより、道中はよろしくお願いします」

 リフィアやミラの方をちらっと横目に見て、続けた。

「あまり目立ちたくないんです。彼女らをなるべく人目につかないよう、ご助力を賜りたい」

 イシュルの名は知られているとしても、その外見まで知る者は少ない。派手な美貌のリフィアやミラたちの方が、はるかに多くの衆目を集めることになるだろう。

「ええ、いろいろと事情がおありなのは伺っていますよ。ディエラード家のご令嬢が同道されているのも存じております。どうかそう、ご心配なさらずに。我ら一同、全力で皆さまをお守りいたしますから」

 コラーノは年季の入った商人らしい温厚な笑みを浮かべ、落ち着きのある低い声で言った。 

「わたしはラディス王国辺境伯代理、リフィア・ベームだ。よろしく頼む、バラルディ殿」

「ディエラード家の娘とはわたしのことですわ。ミラ・ディエラードです。よろしく、商人殿」

「わたしはレニ・プジェール。お世話になります、商会の方」

「ニナ・スルースと申します。道中よろしくお願いします」

 みなが思い思いに挨拶する。リフィアは微かに挑戦的な表情を見せ、ミラは何も見せない完璧な貴人の微笑を、レニは緊張を人懐っこい笑顔に隠し、ニナは生真面目な表情に不安の思いをうまく糊塗した。

「真心のこもったお言葉をいただき、安心しました。ご面倒をかけますがよろしく、コラーノさん」

 と、最後にイシュルが言った。

 ……裏の仕事も長く、自信があるのだろう。人柄も信用できそうだ。

 だが、問題はそこじゃない。

 イシュルはコラーノに合わせるように愛想良い笑みを浮かべ、何度か頷いてみせた。

 ピピンと違い、この男は精霊神のような存在とは最も遠い位置にいるようだ。

 だが、だからこそあの天邪鬼が取り憑き、利用するのに最も拘るような人物かもしれない。

「……まったく、なんてことだ」

 イシュルは小さく、口の中で呻いた。



 北西の壁側、窓を右手にリフィアとミラが、その向かい側にニナとレニがそれぞれ長椅子に座っている。

 イシュルは彼女らの側面、窓の反対側にひとり、小さな椅子に腰かけている。

 談話室(サロン)で皆が座る、定位置だ。

 たまにルフレイドが同席するとき、彼はイシュルの向かいの窓側の椅子に座る。

 コラーノの突然の訪問の後、イシュルたちは談話室に戻るとさっそく定位置に座り、頭を突き合わせて談合をはじめた。

「はあ、……あれは間違いないな。アプロシウスめ、間髪をおかずに仕掛けてきた」

 イシュルは両手で顔を覆い、疲れをはらうようにごしごし動かすと、物憂げな口調で言った。

「相手が悪すぎますわね。何をされるつもりか、皆目見当がつきません」

 ミラもお手上げだというふうに、眉間に皺をよせ顔を何度も横に振った。

「だがな、精霊神はイシュルとはっきり敵対しているわけではない」

 リフィアは眸に力を込めて、皆の顔を見回し言った。

「それどころか彼の神は、イシュルに主神や月神に会えるよう手助けしてやる、と言ったのだろう?」

 アプロシウスは正確には「困っているのだろう、助けてやろうか?」と、唆(そそのか)すようなことを言ってきたのだ。

「でも、手助けと言ってもそれは精霊神、なりにだよね」

 リフィアに続いて、レニが念押しするように言った。

「……そうですね」

 ニナは面上に困惑を隠さず、小さく頷いた。

「アプロシウスはただ面白そうだから、楽しめそうだから首を突っ込んできただけだ。間違いない」

 ……あれは決して、俺を助けるためなどではない。死人まで出して注意を引きつけ、誘いをかけてきたのだ。一緒に遊ぼうと。遊んでやる、と。

「俺は、いや人間はみな、精霊神にとっておもちゃみたいなものだ。彼に敵意がなくとも、こちらが大変な目に合うのは免れない」

 神々の遊戯とはそういうものだろう。たとえ人死にが出るようなことがあろうと、彼らは一向に気にかけたりしない。

「乗り越えなければならない壁だ」

 今度はイシュルが、リフィアのしたように一同を見回し言った。

「ふむ、そうだな。……神々と比べれば、我々はあまりにも小さな存在だ」

「耐え忍んで、向き合って行くしかないんですね」

「うーん」

 リフィアとニナが真剣な顔で頷く一方、レニは顔を上げ両腕を組んだ。

「一筋縄でいかない神さまですが、別に敵対しているわけでなし、そう大上段に構える必要はありませんわ」

 ミラがちらっとレニを横目に見ると、幾分澄まし顔で言った。

「そう、そうなんだよ。アプロシウスのような神さまがせっかく遊んでくれるというのなら、わたし達の方も楽しませてもらおう、くらいの気持ちで行けばいいと思うんだ。この先いつ、何が起こるかまったく予想もつかないのに、ずっと緊張して身構えていたら、こちらも参ってしまう」

 レニはミラの言葉を受けて、にっこり笑みをつくって言った。

 精霊神は危険な神だ。彼にはただの遊びでも、人間にとってはそうはいかない。アプロシウスはアルサールの宮宰、アドリエーヌが死んだことなど歯牙にもかけていないだろう。彼には自らの望む皮肉や諧謔がどう表現されるか、それが大事であって、人間の命などどうでもいいのだ。

 だが、だからこそ死を怖れ、身を守るのに汲々とすることは、むしろ彼の好む陥穽に自ら落ちることにならないだろうか。

 油断は禁物だが、あえて彼の誘いを正面から受け、レニの言うように割り切って、ゲーム感覚で気を楽にして臨んでいく方がいいのかもしれない。

「レニさんの言うとおりですわ。その方が精霊神も喜びになるでしょう」

 ミラはめずらしく、いかにも大貴族の令嬢らしい気品溢れる、かつ冷たく皮肉な笑みを浮かべた。

「さすればアプロシウスは間違いなく、ヘレスをはじめとする神々に橋渡ししてくれるだろう、ということか」

 リフィアが芝居がかった難しい顔をしてみせ、頷きながら言った。

「……そういうことか」

 聖都ではさぞ、サロモンが張り切っていることだろう。彼の大好きな権謀術数渦巻く、先王の遺産争奪戦が繰り広げられているのだ。そこへさらに厄介な、精霊神の企みが乗っかってくるわけだ。

「楽しむ、か。とてもそんな気になれないんだが」

 イシュルは今日、何度目かの溜息を吐いてうなだれた。

「イシュルは真面目だからなあ」

 レニがくすっと笑って言った。

「いや、でも確かにずっと警戒し続けるのはきつい。それならそれでアプロシウスはわざと動かず、見透かされて、すべてが徒労に終わることだってあるかもしれない」

 イシュルも、レニに誘われるように口許を緩める。

「そうですわね。精霊神との駆け引きを楽しめ、といわれても、実際にはそう簡単にできることではありませんわ」

「まぁ、今までどおり、みんなで気を抜かず、緊張し過ぎないよう淡々とこなしていく、ってことかな」

 レニが片手をかるく上げて、首を振りながら言った。

「いやいや、こちらもまったく分がないわけじゃない。イシュルはなかなかの皮肉屋だからな、精霊神とは相性が良いだろう。そこはやりやすいんじゃないかな」

 リフィアがイシュルを横目に、にっこり笑顔で言った。

「うぐっ」

 イシュルが言葉に詰まったところで、談話室の扉がノックされ、セーリアとノクタがお茶を入れてきた。手押しのワゴンにティーセットが一式、載っている。

「どうぞ、イシュルさん」

 セーリアがティーカップの乗った受け皿をテーブルに置く。カップはやや深めで、穴の開いていない、指先で摘むタイプの小さな取っ手が付いている。少し厚手の磁器で、目につく彩色はされていない。お茶は前世の紅茶とほとんど変わらないが、香りにややクセがある。

「……」

「ふう」

 レニとニナがひと口飲んでほっと一息、満ち足りた顔になる。

 イシュルにとっては、リフィアに揶揄われ、皆からも弄られそうな時にうまく休憩が入り、好都合だったかもしれない。

「ソレールの茶葉は、聖都とは違って少し趣きがありますわね」

 ミラが澄ました顔で、含みのあることを言う。

 つまり田舎臭い、と言いたいのだろうか。

「この野趣ある香りは南方の、ベルムラの茶葉が混ざってるんじゃないかな。中海の方から取り寄せているんだと思う」

 と、レニが説明してくれる。

 ……中海か。

 それはまだはっきりしない、おそらくは神の魔法具をめぐる最後の目的地だ。

「ふーむ」

 イシュルは小さく息を吐き、窓外へ、遠く薄曇りの空に目をやった。 

「ルフレイドさまが、特に好んで取り寄せているのでしょう」

 宮廷育ちのような方は、こういう異境の文物に憧れるものなのです、とミラは続けて言った。

「なるほどね」

 ……なんとなくわかる気がする。

 イシュルが「うんうん」と頷いていると、

「中海からのものだとすると、ほかに何か、それらしい理由があるかもしれないけどな」

 リフィアが遮るように言ってきた。

「沿岸の国々の、懇意の貴族や商人からお付き合いで購入しているとか、何か思惑があって取り寄せているとか、な」

「まぁ、リフィアさんたら。そうあからさまに口にするものではありませんわ」

 ミラは冗談半分で、口許に手を当て「ほほ」などと笑っている。

 リフィアとレニはミラと目を合わせ、苦笑を浮かべた。ニナはよくわかっていないのか、少し首を傾げている。

「はいはい。だがな、ミラ」

 ……つまりリフィアの言ったような生臭い、裏のあるような話は、貴婦人方の会話では隠語を使うとか、趣きがあるとか野趣がどうだとか、婉曲な表現をするのが作法になっているわけだ。

 特に今回は身分が上の、王弟の屋敷で当人の内輪話をしているのだから、気をつけなければならない。どこに耳があるかわからない。味方の陣営とはいえ、一応注意しましょう、ともミラは言っているのだ。

「あら、でも今は、イシュルさまの呼ばれた精霊はいませんのでしょう?」

 イシュルがミラに何か意見しようとすると、彼女は風の精霊、フェデリカのことを言って遮ってきた。

 確かに今、フェデリカはお使いに出ていて、この屋敷の近辺にはいない。だから談話室での密談を、何者かに聞かれる可能性がないとは言い切れない。

 ミラの部屋にはシャルカがおり、レニの契約精霊ルカトスやニナの精霊エルリーナもどこかに潜んでいる筈だが、三者を合わせても警戒や遮音の能力はフェデリカに及ばない。

 だがそれでも皆、能力の高い精霊なのは確かだし、ミラが心配するほどではないのだが……。

「まあ、そうだけどな」

 イシュルが口を濁すと、また談話室の扉がノックされた。

 ノクタたちに続いて、今度はロミールが入ってきた。

「やあ、お疲れ」

「ただいま戻りました」

 ロミールはイシュルだけではない、ミラやリフィアら全員から見つめられて、やや緊張した面持ちで答えた。

 服装は焦げ茶のズボンに生成りのチュニック、黒革のベルトにブーツと、典型的な街の住民の格好だ。

「どうだった? バラルディ商会は」

「はあ。まあ、ふつうの店構えで、どこにでもある商店、という感じでした。でも、奥の方はかなり広そうでしたけど。倉庫に使ってるんだと思うんですけど、赤い屋根の二階建ての大きな建物が見えました」

 イシュルはフェデリカとは別に、ロミールにも用事を言いつけていた。

 コラーノ・バラルディが屋敷を去った直後、ロミールに彼の商会を見に行くように言いつけたのだった。相手に気づかれないよう探りを入れる、などではなく、一般の住民の格好をして、どこかへ行く通りすがりにかるく立ち寄る、ふうを装って普段の商いの様子を見に行かせた。

「お店の前には大きな樽が二つ、縄や帆布の載った荷車と馬留めにロバが一頭。十歳くらいの女の子が掃き掃除をしてました。声をかけようかと思ったんですけど、誰かに見られているような感じもしたので、何もせずにそのまま通り過ぎてきました。裏手の奥の方には行ってないです」

「ふむ」

 ……表向きは何の変哲もない、ちょっと手広くやっていそうな商家、というだけだ。普段は裏の仕事より、そちらの方がメインなのだろう。

 イシュルがかるく頷くと、ロミールが最後に締めくくった。

「表向きは特に、変わったところはなかったですね」



 皆との話し合いが終わるとすぐ、イシュルは自室に引っ込んだ。

 入ると正面奥に窓があり、その縁にフェデリカが腰かけていた。

 少し癖のある短めの髪、細身で小柄な体躯は少年のようだ。窓外を見つめる横顔は弓の名手、ヨーランセに似て美しく整っている。

「見てきたか」

「はい、剣さま」 

 フェデリカが振り返える。その半透明の姿に、薄暮の小さな光が映り込む。

 すでに、日没の刻限になっていた。

「どうだった? 何か変わったところはなかったか」

「はい。特には」

 フェデリカは窓の縁から腰を上げると、イシュルを正面から見つめた。

「あの商人はやはり、ただの人間です。あの者の向かった建物も同様でした。一部にごく弱い魔法の気配は感じましたが、この城にいるような精霊や魔法使いはいませんでした。精霊神の存在を感じさせるものも、わたしにはわかりませんでした」

 そして神妙に頭を下げ、役に立てなかったことを詫びた。

「いや、それならいいんだ。フェデリカは何も悪くない」

 イシュルは笑みを浮かべてひとつ、頷いてみせた。

 ……確かに、そう簡単に何かが明らかになる、なんてことはないだろうが、一応は調べておかないといけない。

 イシュルはロミールだけでなく、自らの精霊にもコラーノ・バラルディと彼の商会を調べさせていた。

 ロミールには常人としての平明な視点で、フェデリカには人間には見えない、わからないことを調べに行かせた。

 フェデリカは夕日の斜光をその眸に映し、外見に似合わない大人びた口調で続けた。

「剣さまは、アプロシウスのことなど気になさる必要はないのです。あの神は気まぐれ、移り気です。こちらの方から遊んでやればいいのです」

「うん、そうだな」

 イシュルは今度は苦笑を浮かべて頷いた。

 そのことはレニとミラからも言われたことだ。

「だが、川向こうのアルサールの戦陣では、奴に一杯食わされたからな。用心はしておく」

 イシュルは顔つきをあらため、続けて「土の精霊も召喚する」と言った。

「わかりました、剣さま。仕方ないですね」

 フェデリカは、少し不満な態度を見せるかと思ったが、意外に何のそぶりも見せず主人の言に従った。

 そこで彼女は一歩後ろに下がり、正面の窓を開けた。手も触れていないのに戸が開き、夕方の少し冷えた風が吹き込んできた。

「どうぞ」

 フェデリカが片手を窓の外へ差し出した。

 ……まだ完全に日が暮れていないのに、窓から外へ出ろと? 誰かに見られたら問題になりそうだが。まあ、別にいいけどさ。

 イシュルは苦笑を浮かべたまま彼女に頷くと、そのまま下へ飛び降りた。

 地面に降りるとすぐ、一旦植え込みの木の影に隠れ、ひと息入れて何気ないふうを装い裏庭へ向かった。

 金の精霊、ユーグを召喚した時は屋敷の主屋の中、先ほどの控えの部屋の隣の居室だったが、今回は土の精霊を召喚しようと考え、外に出てきた。

 風の精霊に加えて呼ぶなら、次は土の精霊が具合が良い。

 土の精霊は地上や地中、地下であれば、絶対的な感知能力、機動力、攻防力を持っている。地上から高空まで、同様の能力を発揮する風の精霊と組み合わせれば、車の両輪のように力を発揮し、互いの弱点を補完することができる。

 もちろん、万全を期すなら他の火、水、金、すべての精霊を召喚するのが望ましいが、長時間、常に五体の精霊を統制していくのはいささか骨が折れる。

 風と土の精霊の組み合わせは、自らの精神的な消耗を抑え、今後起こるであろう精霊神の不意の介入に備え、聖都での秘書争奪戦に臨むのに、最も適していると言えた。

 イシュルはパスラ宮の裏庭に入るとそのまま奥へ進み、ドーム型の屋根の東屋の前で立ち止まった。

 何気に周囲を見回し、振り返って東屋を背におもむろに呪文を唱えはじめた。

「……地の神ウーメオよ、願わくば我(わ)に汝(な)が地の精霊を与えたまえ、この世にその態を現したまえ」

 薄暮もやがて去り、宮殿の裏庭はすべてが夜闇に染まろうとしている。

 その闇に閃光が走り、地中から魔力の塊がせり上がってくる。その半透明の輝きはすぐ人の形に変形し、ちょうどフェデリカと同じくらいの歳の少女の姿になった。

 ストレートの髪は肩下まで伸び、小さな顔を優しく包んでいる。アーモンド型の眸、整った顔立ち。より人間らしいが、最初に召喚した土の精霊、ロニーカ・ニニエラに何となく似ている。

「これは杖さま。お呼びでございますか?」

 心中に響く声は幼さが残るが、口調はしっかりしている。

 外見はフェデリカと同じ歳くらいの少女だが、服装はだいぶ違う。膝下すぐの短い裾のズボンに半袖のシャツ、左手に小さな丸盾型の手甲をつけ、腰には短剣を吊り、背に柄の短い斧槍(ハルバード)、というより戦斧(バトルアックス)を背負っていた。

 細身でフェデリカのような俊敏さも備えているが、実はかなりの剛力の持ち主のように思われた。

 ……これは、いい取り合わせだ。

「なかなか強そうじゃないか。名は何という」

「はい、ウルーラヌス・ルヴィレフトユーセラと申します」

 ……なるほど。ロニーカの名前より、かなり複雑になっている。

「むむ、そうか。なら、ウルーラと呼んでもいいかな」

 イシュルは明らかに挙動不審になって、いつもの台詞を吐いた。

「はい、もちろんです。杖さま」

 ウルーラは元気に答えた。

「うんうん」

 イシュルは満足げな笑顔を浮かべ、何度も頷いた。

「今、きみの他にもうひとり、風の精霊を召喚している。フェデリカ」

「……」

 イシュルが呼ぶと、少年のような精霊、フェデリカが東屋の屋根の上に姿を現した。少し気取った感じで腰掛けている。

 気配は薄く、ウルーラと目を合わせても無言のまま、挨拶をしない。

「ふふ」

 精霊どうしは、特に系統が違うと仲が悪いことが多い。

 イシュルはかるく笑うとフェデリカには再度、ウルーラには初めて、ふたりに今の状況と役回りを説明した。

「──ではとりあえず、俺と仲間たちの警護を頼む。できる範囲でかまわないから、精霊神の動きには特に注意してくれ」

「了解」

「わかりました」

 フェデリカとウルーラがそれぞれ返事をして姿を消すと、イシュルは東屋から離れ、宮殿の方へ歩き出した。建物の傍まで来ると、壁際からふたりの男が姿を見せた。

「精霊を召喚したのか」

 月明かりに浮かぶ姿はルフレイドとジレーだ。

「はい、土の精霊を」

「ふむ、わたしでも気配でわかる。相当に強そうな精霊だった」

「……」

 イシュルは薄く笑みを浮かべてわずかに肩をすくめた。

 ジレーはルフレイドの影に隠れるようにして、いつものごとく無言不動だ。

「コラーノが帰ってきた。早ければ明日あさってにも聖都へ、出立することになろう」

 ルフレイドは精霊召喚の件はかるく流し、さっそく本題に入ってきた。

「例の、父が遺した秘本のことだが」

 王弟の真剣な眸が一瞬、月光に鋭く閃いた。

「本当のところは、兄上の味方をしてくれとお願いしたいところだが、そのことよりも再び聖都で、政争が激化するのを避けたい。イシュルには面倒をかけるが、王家と教会と両者の仲をうまく取り持って、なるべく波風の立たないよう、収めてもらえないだろうか」

「はあ、いや……」

 なるほど、そのことか。

 身内のサロモンよりも国内の安定を優先したい、との考えはさすがルフレイド、立派なことだが……。

「いくらなんでもそれはちょっと、俺には荷が重すぎますね」

 こちらとしては両者の争いの隙をついて、問題の書物を入手するか、閲覧できればそれで目的は達せられる筈だ。

 聖王家と聖堂教会のいざこざに、首を突っ込むことさえとても危険で憚られるのに、その調停まで行わないといけないとは、明らかに自分の能力を超えている。

「ふむ、それそうだろうな。しかし」

 ルフレイドは一歩踏み出し、イシュルに顔をぐいっと近づけた。

「あのサロモン王と渡り合い、同時に総神官長であるウルトゥーロ様を無理矢理にでも従わせられるのは、この大陸を見渡してもそなたしかいないのだ」

 ソレール公の厳しい視線は、五つの神の魔法具を持つ者としての自覚を持て、と追及されているようにも思われ、イシュルは困惑して視線をあらぬ方に泳がせた。

 城内はすっかり暗闇に包まれ、要所に点々と篝火が焚かれているのが見える。

 側に佇むジレー以外、近くに人の気配はない。ルフレイドは、ラディス王国の貴族であるリフィアやニナの存在に配慮し、この時と場所、機会をねらっていたのだろう。

「イシュル、どうか頼む」

 と、ルフレイドはいきなり、頭を下げてきた。

「イシュルさま、どうかお願いいたします」

 続いてルフレイドの背後から、ジレーも深く、頭を下げてきた。

 ジレーはルフレイドの側近でありながら、サロモンとの繋がりも疑われるような人物、策士だ。その彼さえも真摯に、嘘偽りなく頭を垂れた。

「……」

 だがそこへ、精霊神も絡んできたら一体どうなってしまうのか。

 不安ばかりでまったく自信が持てなかったが、イシュルはジレーの様子を横目に見て、不承不承、頷いてみせた。頷いてしまった。

「わかりました。うまくいくか約束はできませんが、何とか頑張ってみます」

  


 「……ふう。今日もよく晴れて、見晴らしがいい。ほら、あの丘の向こうに見える集落があるでしょう」

 御者台の隣に座るコラーノが、左手に持ったパイプの吸い口を遠方に向け、話しかけてくる。

 カタカタ、トコトコと、馬の蹄と車輪の乾いた音が途切れることなく続いている。足元から伝わる規則的な振動は、寄せては返す波のようにその都度、強烈な睡魔を連れてくる。

「あそこはトント村と言いましてね。見てのとおり牧畜をやってる家が多いんですが、とても質の良い肉牛を産出していて、ソレールのお城の方もよく買い付けてるんです」

「ほー、なるほど」

 イシュルは眸を細めて、コラーノの指した街道の北方へ目を向けた。

 その視線には力がなく、今にも瞼が完全に閉じて眠ってしまいそうだ。

「おや、イシュル殿は眠そうだ……。これはつまらない話をして、失礼しました」

「い、いや。とんでもないっ! そんなことないですよ」

 イシュルは飛び上がって、首を手を何度も横に振って否定した。

「はは、昨日は遅くまで、少し飲み過ぎましたかな?」

「……」

 コラーノの顔を見ると黒いつぶらな眸が、真正面に迫ってくる。

 イシュルは愛想笑いを浮かべごまかすと、昨晩のことを思い出し思わず心のうちで毒づいた。

 ルフレイドから聖王家と教会の政争収拾を頼まれた翌日、その日の午後に一行はソレールを発ち、陸路で聖都へ向かった。

 聖都エストフォルとソレールの主たる物流はディレーブ川だが、陸路のソレール街道も沿道には多くの街が連なり、人馬の往来は盛んである。

 イシュルたちはルフレイドの図らいで、コラーノ・バラルディの商隊に同道させてもらうことになったが、新たに二頭立ての馬車を二両、幌付きの荷馬車も一両手配してもらい、コラーノの方の荷馬車や曳き馬と合わせると、かなりの大所帯で聖都へ向かうことになった。

 イシュルの方は、ディエラード家との連絡役を務めるルシアを除く全員、バラルディの方は商会の者が六名、正体はルフレイドの配下の者と思われる用心棒のパーティ、五名が同道した。

 聖都へは徒歩で十日ほど、約五百里長(スカール、三百数十km)ほどの距離だが、街道沿いは聖王国でも一二を争う穀倉地帯で街や村も多く、治安は良い。夜道を行かなければ、魔物や野盗の類いもまったく恐れる必要はない。

 ということで、表向き順風満帆で聖都に出発したイシュルたちであったが、当然、ピピン大公と瓜二つのコラーノ・バラルディは、同様に精霊神の憑依があるやもしれず、監視を怠ることはできなかった。

 夜は基本、沿道の街や村々の宿屋に泊まることができ、野宿することはなさそうだったが、精霊のフェデリカとウルーラを主に、宿舎においても全員交代で不寝番を務めることにした。

 そのように皆で話し合ってすぐ、出発初日に早速、ソレール近郊のバロッソという街に宿泊したところ、夜遅くに動きがあった。コラーノは街が寝静まる頃、宿屋を出て単身、一里長ほど離れた娼館に出向いたのだった。

 イシュルは当日、ウルーラに起こされコラーノが外出したことを知らされると、その夜の当番だったリフィアにフェデリカもお供につけ、彼の後を追った。

 だがコラーノが娼館に入ると、リフィアはげんなりして「わたしは帰る」と宿屋に帰ってしまった。イシュルは仕方なくフェデリカとコラーノの監視を続けたが、娼館の女と同衾して実際にことが始まると、今度はイシュルの方も馬鹿馬鹿しくなって宿に帰ることにした。

 その晩はそれから寝てしまったが、翌日その後も監視を続けたフェデリカから、ことが終わった後、コラーノが女と聖都の教会の動きについて情報交換していたとの報告を受けた。

 夜の娼館といえば、影の者たちが接触し時にやり合う定番の場所である。フェデリカの言う「聖都の教会」とはつまりは大聖堂のことであろう。これは馬鹿馬鹿しいと見逃すわけにもいかず、翌日、今度はアンティネルラという街に泊まった時も、コラーノは深夜になるとまた娼館に出かけ、イシュルはフェデリカとふたりで、最後まで見張りを続けた。

 だがその夜は結局、やることをやっただけで後は何の動きもなく、イシュルたちの監視は完全に空振りに終わった。

 そして、翌日の夜もまた、同じことが繰り返された。もちろん、精霊神の動く気配も何も感じられなかった。

「馬鹿にしているのか」

 しかも毎晩毎晩、随分とお盛んじゃないか。

 イシュルはうんざりしてさすがに四日目はフェデリカに任せ、一晩、休ませてもらった。

 だが翌日、彼女から報告を受けると、コラーノは同じく娼館に入るも今度は指名した女と何もせず、聖堂教会の動静について声を潜めて長い間話し合っていたということだった。

「これはまさか、すでに精霊神が絡んでいるのか」

 イシュルは怒りよりも、不審の念を強く抱いた。この、人をからかうような不自然な成り行きはまさしく、アプロシウスが好んで用いる詐術、そのものではないか。

 そして翌日、次の街でもコラーノは娼館に出向き、イシュルは再び監視に復帰したが、結局その夜は朝まで、コラーノが女と影の話をすることはなかった。

 そんなことが続いた六日目の道行である。イシュルは怒る気力も擦り切れ、日中は睡魔に襲われながら、荷馬車の御者台でコラーノの隣に座ることになった。

 大陸では、中流以上の教養ある商人や地主、僧侶や貴族が旅路で語り合うのは、その地の物なりや領民たちの暮らし向き、領主や土豪らの政治の話と相場が決まっている。

 その日は次の街、ダリールに到着するまで一日中、イシュルはコラーノの話に付き合わされた。



 ……杖さま、杖さま。

 夢のはざまを、聞き慣れた少女の声がする。

 ウルーラだ。

 ……今日もあの人間、動いたよ。フェデリカが呼んでいる。

「ああっ」

 イシュルは心のうちで返事をすると同時に、飛び起きた。

 横からウルーラが覗き込んでいる。

「行く?」

「ああ」

「大丈夫?」

 ウルーラは少し舌足らずだ。

「ああ。みんなを頼む」

「うん」

 ここ数日繰り返されてきたパターンだ。

 ダリールに着いて街一番の宿に泊まり、早々に眠り着いてしばらく。今晩もコラーノが動いた。

「フェデリカの話では、今日はあの商人、馬に乗っているんだって」

 ウルーラとフェデリカは奇妙なことにあれから仲良くなって、互いに名前で呼び合うようになっていた。

「ほう」

 ……それは、いつもと違う。

 イシュルは自らの頬をぱんぱんと二度叩き、寝台から立ち上がると部屋に一つだけある窓を開いて外に飛び出した。イシュルの部屋は三階にある。外に出た瞬間、足を上げて外壁を蹴り上げ、回転しながら屋根上に飛び上がった。

「イシュルっ!」

「イシュルさま」

「コラーノは、今晩は馬に乗って出かけたそうだな」

 屋根上にはすでにレニとミラ、それにリフィアがいて、イシュルにさっそく声をかけてきた。

「わたしたちも参りますわ」

「いや、今晩も一応、俺とフェデリカだけで行く。裏の仕事だからな。あまり大げさになってコラーノに気づかれてはまずい」

 それにまた娼館に行かれて何もなかったでは、みんなに申し訳ない。

 もしそうなったら、ミラたちが不快に思う気持ちは、とても俺程度では済まないだろう。

「アプロシウスが動くならまだ他に、何か起こるかもしれない。きみらは今は、この場に控えていてくれ」

 イシュルはそう言うと、彼女らの返事を待たずに夜空に飛び上がった。

 五元素の“感知の手”を伸ばし、騎乗のコラーノが市街の北東、古い遺跡のある方に向かっているのを見つけた。

 魔力を抑え、湿り気を帯びた夜空を北東に向かうと、フェデリカがわずかに気配を現し近寄ってきた。

「今日は今までと、少し動きが違います」

 何か感じるものがあるのか、やや緊張したフェデリカの声が聞こえた。

 イシュルが前方を見ると、市街を抜けた細い一本道を、コラーノがかなりの速度で馬を飛ばしていた。

 今夜は雲が低く、月も星明かりもほとんどない。コラーノは夜目が効くのか、相当な手綱さばきで暗い夜道を巧みに辿り、激走していた。

 彼の行く手に、おそらくはウルク時代の古い神殿跡が見えた。そしてその奥には街の住民のものであろう、大きな墓地が広がっていた。

 ……おかしい。なぜやつはあんなに馬を飛ばすんだ? 

 それに向かう先が夜中の墓地とはまた、あまりにベタ過ぎる……。

 とそこで突然、墓地の方に見慣れない魔力が煌き、強い閃光が水平に走った。

「!!」

 イシュルは空中で、声にならない叫びを上げた。

「雷だ。地面を横に走った」

 遅れて、大きな雷鳴が轟く。

 近くの空に雷雲は存在しない。周辺の大気はそんな状態ではない。

 ……魔法だ。

「無系統の、雷の魔法だ」

「剣さま、精霊神の魔法です」

 追走するフェデリカがさらに近寄り、顔を寄せて決定的なことを言った。

 そして眼下に二度目の稲光。横に、水平に走る稲妻だ。

 遅れて轟音。

 ……精霊神か。

 やはり誘っているのか。

 雷の魔法を放つ者は、墓地にいる。

「フェデリカ、少し距離をあけて、墓地の北側に回り込め。内側に結界を張る」

「かしこまりました」

 フェデリカは落ち着いた低い声で言うと瞬間的に気配を消した。

 イシュルは高度を落とし、墓地へ向かうコラーノを追った。

「よし」

 イシュルは騎上のコラーノの背中を見つめながら、五元素の新結界を周囲に降ろした。

 瞬間、コラーノが馬ごと消える。

「ふん」

 さらに前方に目をやると、まばらな白い墓石の間に、稲妻を放った存在がいた。

「ん、ああ?」

 ……なんだと。

 イシュルはその者の方へ近づくと、今まで気配が希薄だった、別の者の存在を感知した。

 周囲は暗黒の帷。それ自体が微かに発光する夜露に濡れた下草、傷んだ墓石の群れ。見えないものが見え、見えるはずのものが見えない不思議な夜。

 誰も、この暗闇を超えて外に出ることはできない。

 イシュルの張った結界だ。

 その中央に、半透明の精霊と人間がひとり、立っていた。

「そんな馬鹿な」

 イシュルは地面に着地すると、乾いた声で呟いた。

 目の前には二体の精霊と、人間がもうひとり、二人いた。

 墓石にもたれ、気を失っているコラーノがいた。半透明の精霊はイシュルより少し若い、少年と少女だ。洒落た道化の衣装を着ている。二人とも整った美形の、よく似た顔だ。双子の精霊だ。

 そして、驚愕の人物がその精霊の前に立っていた。

 ……これは精霊神は直接、関係ないかもしれない。

 なんとなく、そんな気がした。ある意味、もっと厄介な少女がそこにいた。

 初めて会ってからちょうど一年ほどか。あの頃は五、六歳くらいだったか。今もまだ、もちろん子供だが、それにしても随分と大きくなったような違和感を覚える。

「ひさしぶりです。イシュルお兄さま」

 お兄さまなどと馴れ馴れしい、とは口が裂けても言えまい。

 繊細なフリルで装飾された可憐なドレス。微かに、桃色を帯びた白いドレスだ。

 ここはどこだ? 本当に墓地なのか。

 精巧を極めた、人形のような顔が微笑む。

「今晩は。久しぶりにお会いできて、嬉しいですわ」

 視界を色とりどりの花々が、一斉に咲き乱れる。

 サロモンの腹違いの妹、ニッツァがそこにいた。

 

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