雷鳴 1
川舟は東岸に近づくと、妙に整った曲線を描き、南の、川下の方へ向きを変えた。
舳先は一定の速度でぴたりと、街の南側に広がる商港の方を向いている。
船尾で魯を漕ぐノクタは少し困惑した顔で、イシュルと目が合うと薄く笑みを浮かべた。
彼女はただ立っているだけで、船頭らしいことを何ひとつしていなかった。
一行の乗る舟は、大小の川船が蝟集する船着き場にするすると近寄ると、これまた異様な舟さばきで空いている桟橋に、吸いつけられるようにぴたりと横づけした。
船端の右側に伸びる小さな桟橋は、気をつけて歩かないと踏み抜いてしまいそうな、古く朽ちた木板で覆われ、半ば川面に浸っているように見えた。
イシュルは一番に、素早く桟橋に飛び移ると、ロミールから舫(もやい)を受け取り手近な杭に結びつけ、舟の方へ手を差し伸べて、ミラやリフィアたちを桟橋の方へ引っ張り上げた。
シャルカは独力で桟橋に降りたが、彼女が乗ると足元の木板がぎしぎしと不気味な音を立てて、周りの者の顔を青ざめさせた。
全員が舟から桟橋の方に移り、イシュルを先頭に陸(おか)の方へ歩きはじめるとすぐ、船着き場の奥の方から強面の男がひとり、駆け寄ってきて文句を言った。
「おい、そこの船止めはうちの組合(ギルド)のもんだ。勝手に使ってるんじゃねぇよ」
無精ひげの濃い、気の荒そうな男だ。
……組合? 柄の悪さからすると沖仲仕(おきなかし)、荷役人夫の組合と言ったところか。
「ああ、いきなりですまん。ちょっと急いでいてな」
イシュルは親指で、繋いだ川舟の方を指しながら言った。
「お詫びのかわりに、あれを貰ってくれないか。なかなかいい舟だろ?」
アルサールの隠し砦の頭(かしら)、ティボーから譲ってもらった舟である。それはもちろん、悪かろう筈がない。
「なっ……」
男は一瞬、面食らった顔になったがすぐ持ち直し、また厳つい顔になった。
「まぁまぁ、これでうまい酒でも飲んでくれよ」
そこへすかさず、後ろからロミールが飛び出してきて、男へ銀貨を数枚握らせた。
「えっ、あ、あ」
人夫頭といったところか、男は手元の銀貨に視線を落とすも、ロミールの後ろから近づくただならぬ気配に顔を上げ、今度こそ唖然とした顔になって言葉を失った。
ロミールの後ろには、マントのフードを目深に被った女たちが続いていた。先頭は侍女のノクタで、鋭い視線を男に向け、マント越しに長剣の柄に手を当てているのが丸わかりだった。その後ろにはリフィアが余裕の笑みを浮かべ、いつも柔らかな表情のルシアが続いた。ノクタが物騒な殺気を露骨にする一方、リフィアとルシアは人夫の男など、まったく目に入っていない様子だった。だがふたりもノクタと同様、長剣の鞘をマントの裾から後へ突き出していた。誰が見ても、只者でないことは明らかだった。
そして男は一行のさらに後ろの、無気味な雰囲気を漂わせている長身のシャルカを見ると、完全に硬直してその場に棒立ちになった。
「……」
イシュルはその人夫頭だけでない、船着き場にたむろする男たちが皆、その場で呆然と立ちすくんで視線を向けてくるのを見まわすと、僅かに肩をすくめて口端を歪めた。
……あまり目立ちたくはないが、帰りは身を隠す必要がないし、お城の船着場に直接着けるのは避けたい。仕方がない。
河岸には大小の天幕が並び、その奥に石造りや木造の建物が見える。倉庫が多い。手前に並ぶ天幕は船宿の店先や露天商などで、荷物や船具が雑然と置かれていたり、食べ物を売る店もある。人夫らが固まって酒を飲んでいるのか、昼間から下卑た、騒々しい店もあった。
ちなみに月神レーリアに嵌められ精霊のヨリクを失い、レニを攫われた裏街はすぐそこ、河岸に並ぶ建物の左手奥、北側に隣接していた。
昼間のソレールの河港は人も多く賑やかだったが、イシュル一行はそれでも目立った。
「ほらほら、かまうな。先を急ごう」
ふだんから衆目を浴びることに慣れているのか、リフィアが後ろから声をかけてくる。
「ああ」
イシュルは前を見たまま答えると河岸に上り、人通りの少なそうな裏道を選んで街中へ入っていった。
周りを往き来する者たちは誰も、声をかけてくる者はいなかった。
荷馬車などはとても入ってこれない、狭い路地を抜け城の方へ向かう。往来する者は少ないが、その分余計に人目を引く。道端で遊ぶ子どもたち、二階の窓際で洗濯物を干す女、皆すべて手を止め足を止め、イシュルたち一行を呆然と見つめた。
くねくねと蛇行する街路を東の方へ向かい、ソレール城の裏門のひとつ、商人や使用人らの出入りする雑用門の前に出た。
正面には古びた城門と跳ね橋、左右には堀に沿って狭い道が伸びている。城壁は重厚な石造りで、相当な高さがある。
城門には数名の商人らしき者と一頭立ての荷馬車が並び、検問を待っている。彼らが皆城内へ通され、イシュルたちの番が来ると衛兵らは改めて、フードに隠れたリフィアたちの顔をまじまじと覗き見た。
「ん? ……ひっ」
突如、衛兵のひとりが変な声を上げて、奥の方へ走っていく。
「あ、あんたらは……いや、あなた方は──」
衛兵隊長らしい年嵩の男が、震える声でイシュルに訊いてくる。
「こ、これは! おい待て、待て」
そこで城内から、先ほど走って消えた衛兵に先導され、より身分の高そうな男がひとり、姿を見せた。
平服で甲冑は着けてないがマントを羽織り、立派な長剣を差している。おそらく騎士団の者だろう。
「あなたさまはもしや、ディエラード公爵家の……」
正騎士の身分か、マントの男はミラを知っていたのか、彼女の顔を見ると、やはり震える声でその名を尋ねてきた。
「……」
そうして城の者が入れ替わり立ち替わり、名乗ること都合五度目。イシュルたちはやっと、見知った顔に出くわした。
「これはこれは、よくご無事で」
城門の外も内側も、周りには多くの人が集まっている。
ルフレイドの側近、ジレーがイシュルそっくりに肩をすぼめて、何とも言いようがない苦笑を浮かべた。
「もっと奥に入っていただけば良かったのに」
彼は衛兵や下役の者らを横目に見ると城門の外、跳ね橋から堀端に鈴なりになった街の者たち──城に用事の待たされた商人や、ただの野次馬たちの方を見て、さらに口角を歪めた。
「裏門が、随分と騒がしいことになってしまいました」
ソレール城内奥にある白亜の小宮殿、パスラ宮。
アルサールに向かう時に滞在した、同じ客室の談話室(サロン)。
「うーむ、素晴らしい成果だ。すべてうまくいったではないか」
華奢な装飾の長椅子に、両手を背もたれに広げルフレイドが座っている。悠然と足を組み、満面の笑み。上機嫌だ。
「ありがとうございます」
「これも大公さまの、お計らいのおかげですわ」
ルフレイドの対面に座るイシュルが礼を述べると、その隣に座るミラがすかさず引き継ぎ、より懇ろに感謝の言葉を口にした。
「……しかし、何よりレニ・プジェールが、黒尖晶の裏切り者を討ち取ったのが良かった。そなたの今までの苦難も、これで報われよう」
ルフレイドは上半身を起こし、卓上に置かれた隠れ身の魔法具、破損した黒色の仮面を手に取り言った。
「この法具が壊れてしまったのは残念だが、これはそなたが大きな手柄を上げた、何よりの証拠だ。兄上もきっとお喜びになるだろう」
「はい、ありがとうございます」
ミラの右隣に座るレニが小さく会釈して答えた。屈託のない笑顔はいつもと同じだが、さすがに王弟の手前、畏まった態度だ。
「……」
ミラとレニが並んで座る向かいにはリフィアとニナが座っている。ふたりともよそ行きの笑みを浮かべ、微かに緊張の色もみえる。
「それなのに、いやだからこそか、皮肉なものだな」
ルフレイドはそんなリフィアとレニを横目に見ると、少し声音を落として言った。
彼の背後にある大きな窓、外は陽が西に傾きはじめ、そろそろ暗くなってくる頃合いだ。
すこし前までその窓際にはジレーが控えていたが、イシュルたちとの話が進むにつれ、ルフレイドが気を利かせたか、何か思惑があったか、夕食の準備を言いつけジレーを下がらせ、今はイシュルたちとルフレイドしかいない。
ソレール城に到着後、一行はジレーに案内されパスラ宮に直行、出発前と同じ部屋を割り当てられ、落ち着く間もなくルフレイドがお出まし、そのまま談話室(サロン)でディレーブ川渡河後の経緯を説明することになった。が、アルサール大公の陣で起きた事件を話し、南方の中海に行くべきか、聖都に行って情報収集を続けるべきか、決めかねている段になると、ルフレイドは急にジレーに用事を言いつけ、部屋の外に下がらせたのだった。
そこでイシュルも心のうちでフェデリカに、部屋の音が外に漏れないよう、周囲の警戒を厳重にするよう命じた。
ルフレイドは、精霊神らしき存在の登場(イシュルはその点は話を曖昧にした)よりも、一行に付け入ろうと出張って来たアルサール大公に一泡吹かせたことが気になるらしく、すこぶる機嫌を良くしていたが、水の魔法具を入手しても伝承のようなことが起こらず、困惑するイシュルにはっきりと、中海ではなく聖都に向かうべきと意見した。
イシュルに大きな恩があり、浅からぬ縁のあるルフレイドだが、彼も聖王家の人間である。五つの魔法具を持つイシュルをピピン同様、自らの陣営に少しでも深く、強く取り込もうと考えるのは当然のことだ。
だがそこで、ラディス王国側のリフィアとニナが顔色を変え、少し空気が悪くなってしまった。ルフレイドはそのため、あらためてイシュルたち一行の得た大きな成果を取り上げ、レニの手柄を褒めそやし、緊張した空気を和ませようとしたのである。
しかしそれもあまりうまくいかず、ルフレイドは誤魔化すことをやめて、あらためて正面から、率直に話すことに決めたようだった。
「そこは確かに、ただ五つの魔法具を揃えただけでは駄目で、何かほかに条件があるのだろう」
ルフレイドはミラやリフィアら左右を見回し、正面に座るイシュルを見つめた。
「しかしやはり、わたしはただ闇雲に中海に赴いても、都合よく神々が降臨し祝福を受けることはできないと思う。精霊神が絡んでいるというのなら、なおさらだ。アプロシウスは皮肉と諧謔、天邪鬼の神だ。ことはそう簡単には進むまい」
「それは大公さまの仰せのとおり──」
イシュルが応答する前に、リフィアが口を開いた。
「ですが、だからといってまず聖都に赴くべき、というのは承服しかねます」
リフィアはルフレイドに対し、随分と思い切ったことを言った。自身が異国の、ラディス王国の大貴族だからこそ、非礼を承知でそこまでの言動を取ったのかもしれなかった。
再び聖都に行き、また王宮や大聖堂の確執に巻き込まれたらたまったものではない。五つの神の魔法具に関する伝承、昔の記録を収集するのなら、王宮と大聖堂には何度も出入りしなければならないだろう。さらにあの大聖堂の主神の間にもう一度、入場する必要がある。王都の政治状況は今、どんな状態かわからないが、たとえ平穏であっても何事もなく終わることなど、まずあり得ない。
リフィアの危惧は、異国のラディス王国の者であれば誰でも抱く、当然のことではあった。
「うむ……」
ルフレイドは今度は話を逸らすようなことはせず、顔を斜めに逸らし、顎をさすって何事か沈思し、いや迷っているように見えた。
「ベーム卿の心配はもっともだが……さて」
ルフレイドは聴き取れないほどの声で呟くと、何事か決意したような表情で顔を上げ、イシュルを再び、真正面から見つめた。
その双眸は先ほどよりもだいぶ、真剣味が増している。
「イシュル、今から言うことは他言無用、だぞ」
ルフレイドは身を乗り出し、低い声で先に念押しすると続けて言った。
「実はな、夏の終わりごろ、大聖堂の地下で、先王ビオナートが隠していた秘密書庫の禁書が、大量に見つかったのだ」
「えっ」
……それが、どうして……。
イシュルは一瞬、当惑した顔になってルフレイドを見つめ返した。
「父の……、ビオナードの秘書はそなたも知ってのとおり、聖堂教会指定の禁書ゆえ、中には危険なものはあってもその多くは偽書、贋物の類いであるとされていた、つまりがらくた同然のものと思われていたのだが、発見された書物の大半は、そのようなまがい物ではなかったそうだ」
ルフレイドは、「どうでもよい書物は、父が整理して先に処分してしまったのであろう」と続けて説明した。
「それは──」
横からミラが、妙に渇いた声を出した。
何か悪い予感を憶えたか、彼女の顔は真っ青だった。
「つまりだ、わたしが卿らの聖都行きを主張したのは、そのことがあったからだ」
ルフレイドはミラの言を遮り、話を続けた。そしてたっぷり間をとって、決定的なことを言った。
「ビオナートの残した禁書には、五つの魔法具をひとつにすることや、主神ヘレスの祝福に関して触れている書物があったそうだ」
……それは、あの聖冠の義でビオナートと対決した時、やつが話した、ウルク王国滅亡の原因となった史実が書かれた秘書のことではないか。
あの時ビオナートは、ウルク王国の王位を得ようとした王子のひとりが、禁を犯して神の魔法具を独占しようとした、その争いが元で王国が滅んだ、と言ったのだ。
脳髄から胸の奥へ、氷の柱を突き刺されたような衝撃が、そして恐怖が吹き上がってくる。
……それが、なぜ今なのか。なぜこの時に、その禁書が発見されたのか?
これは罠だろうか。さっそく、アプロシウスが仕組んできたのか……。
衝撃に襲われたのは彼だけではない。
ミラもリフィアも、ニナやレニもみな、呆然としている。
談話室(サロン)を、凍りつくような空気が張り詰めた。
「もちろん、そのほかにも有用な書物が見つかっている。わたしが聞いたのは──」
ルフレイドは緊張した面持ちの一同を見回すと、ゆっくり、静かに話を続けた。
彼がさる筋を通して得た情報では、ほかに、異端とされた教義や禁忌とされた魔法が記された書物、マレフィオアなどの怪物に触れた記録など、ある意味予想通りの禁書類、それに多くの悪事、背教が行われたウルク王国末期の内乱を記した史籍がその大半を占めていた、ということだった。
「五つの神の魔法具に関する伝承は、君らも知ってのとおり、ウルク王国崩壊の元となった王位継承による争乱で、五つの魔法具を独占しようとしたヒメノス王子の暴挙が元になっている。つまり、父が生前目にしたという禁書、そのものが発見されたのだろう」
ルフレイドは、イシュルとリフィア、ミラがビオナートと対決した時に交わした会話の内容を、細部まで知っているようだった。
「その、五つの神の魔法具について記された書物には他に、どんなことが書かれていたのでしょう。ルフレイドさまはご存知ですか?」
ミラが緊張した、硬い口調で質問した。
「いや、そこまではわたしも知らん」
ルフレイドはそこでさらに表情を強張らせ、顔を横にそらした。
「大公殿下は、我々が聖都に赴き、直接その書に目を通せ、それがイシュルが本望を遂げる近道になると、そうお考えなのですね」
リフィアが気迫のこもった視線をルフレイドに向け、しっかりとした口調で言った。
「そうだ、……だがな」
ルフレイドは顔を上げたが、沸切らない表情はそのまま変わらない。
少し間を置きおもむろに、半ば吐き捨てるように言った。
「聖都ではさっそく、発見された禁書の処遇をめぐって、兄上ら王宮側と、大聖堂側とで丁々発止の駆け引きがはじまっているそうだ」
後頭部から首筋に当たるソファの感触は固めで密度がある。高級な素材を使った最高の一品だと、その確かな感触が教えてくれる。
長椅子の背にもたれ、南西に向いている窓を下から見上げる。薄曇りの空が暗くなりつつある。
雲が増えてきた空を、わずかに眸を鋭く見つめた。
上空の大気が不安定だ。東の方から急速に、雷雲が発達してきている。
「……」
溜息をひとつ。
季節外れの雷か。いずれソレールも、激しい雷雨に襲われるだろう。
「ん」
ふと、談話室の扉の方へ目をやる。誰か、近づいてくる。
微かなひとの気配は、やがて賑やかな高い女性の声に変わる。ホール前の階段を登りながら、何事か喋っている。
扉をノックする音がして、すぐ開かれた。
視界に飛び込んでくる華やかな金髪。ミラだ。
「危ないところでしたわ。もう外は降りはじめておりますわよ」
「ほんと?」
イシュルはソファの背もたれからからだを起こし、窓外に目をやった。
瞬間、ピカッと閃光が走り、少し遅れて轟音がやってきた。
室内が瞬く間に暗くなり、降りはじめた雨が窓ガラスを激しく叩き出した。
「きゃっ」
光った瞬間ミラは悲鳴を上げ、椅子に座るイシュルの横に飛び込み、ひっしと抱きしめた。
「うぐっ」
「まぁ……」
ミラにしがみつかれイシュルが苦悶の声を上げると、壁際に控えていたミラ付きのメイド、セーリアが驚きの声を上げた。
彼女が呆気にとられたのは雷の轟音ではなく、ミラの大胆な行動だった。
「あら」
ミラはイシュルからすっと離れると、明後日の方を見てごまかした。
ちなみにルシアはここ数日、出たり入ったりで今、この場にはいない。ルフレイドの話があってから、ミラは兄のルフィッツオとロメオに手紙をしたため、ルシアには別に、人を雇って王都の様子を探らせていた。
ルフレイドの情報にイシュルたちは否も応もなく、聖都へ向かうことになった。先王ビオナートの遺した禁書をめぐる駆け引きに、無理やり飛び込みざるを得なくなった。
……また王宮と教会の争い、あの面倒な謀略ごっこに首を突っ込むことになるのか。
イシュルたち一行、特に当の本人の落胆は相当なものだったが、ことがことだけに避けては通れない。問題の史書を、そこに書かれた文面を一言一句、直に見て確認しなければならなかった。
ルフレイドはサロモンと、未だ総神官長の座にいるウルトゥーロに手紙を出し、イシュルに対し便宜を図ってくれたが、同時にそれで王宮側と教会側で、イシュルを自派に取り込もうと激しい奪い合いになることが確実になった。
ルフレイドはそれだけでなく、さらに手厚い気遣いをしてくれた。正体は配下の尖晶聖堂の者か、自ら直率する影の者か、聖都とソレールを定期的に往復する、王家の出入り商人の商隊に加わるよう手配してくれたのだった。
王家の出入り商人であれば、高い身分の役人や貴族が同行することは珍しいことではない。変装するなりして目立たぬよう立ち回れば、イシュルたちは聖都までの旅路を、無用な注目を浴びることなく無難に済ますことができるかもしれなかった。
そうしてイシュルたちは、その商人がソレールを出発し聖都に向かう準備が整うまで、パスラ宮にしばし滞在することになったのだった。
窓を叩く豪雨、断続的に落ちる雷。今にも落ちてきそうな、暗く重い空。
しばらくすると今度は、リフィアとニナが馬乗りから帰ってきた。
「いやあ、酷い目にあった」
などとリフィアは言っているが、ニナとふたりとも、特に雨に濡れた様子はない。
「それはニナ殿の水の魔法でな。ほとんど濡れずにすんだ」
そのことを指摘すると、リフィアとニナは顔を見合わせ笑みを浮かべた。
レニは城内の魔導師が詰めている、南の塔に出かけている。雷雨だからと、急いで帰ってくる必要はない。
「このまま、雨は止まないかな」
皆それぞれ、談話室(サロン)の中央、長椅子の定位置に座って窓外を見つめる。
空は暗雲が低く垂れ込め、雨脚は幾分弱く、今は雷鳴もだいぶ遠くで鳴っている。
「いや、もうすぐ止む。またすぐ晴れるさ」
イシュルは確信を持って答えた。空高く、大気がどんな状態か、イシュルには手に取るようにわかった。
「こんこん」
何度目か、また扉が鳴った。
「あの、ジレーさまが客人を連れ、お見えです」
開いた扉から、ロミールが顔を出し言った。
「早いな」
リフィアが呟く。
ジレーの話によれば、くだんの商人の準備が整うのはまだ、数日はかかる筈だった。
皆席を立ち、談話室を出て回廊を周り、玄関ホールに向かった。
曲折する階段の下、両観音の扉が開かれている。いつの間に雨が止んだか、外から明るい光が差し込んでいる。
その扉のそばに立つふたりの男。ひとりはやや長身のジレー、もう一人は短躯の小太りの男だ。
「……!!」
階段を降りる途中、イシュルは思わず足を止めた。いや、呆然と足を止めたのは皆同じだ。
最後尾のロミールまで、唖然とした顔をしている。
ジレーの向かいに立つ男は片手にパイプ煙草を持っていた。
「おお、これはこれは」
その黒目、黒髪、黒髭の男がイシュルたちを見上げた。
頬ぼねの張った大きな顔、つぶらな瞳。いつぞや、どこかで会った男によく似ている。
……これは偶然か。いや、またアプロシウスが動いたのか。
雷雲を背負ってか、あるいは雨上がりの明るい陽射しをもたらしたのか。
その商人はあのアルサール大公、ピピンにそっくりの姿をしていた。
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