霧中



「これなら、誰にも見られない」

「それにとても静か。音も遮っているのね」

 リフィアとミラだ。

「……」

「……」

 レニとニナは無言で苦笑を浮かべている。

 川面は曇りガラスのように波ひとつ立てず、灰色に染まっている。

 川だけではない。空も山も、周りのものすべてが灰色の霧に遮られ、その奥深くに隠れ姿を消している。

 周囲からは音も消え、あらゆるものの気配が感じられなくなった。

 ふと手を伸ばし、霧に触れようとする。

 指先に纏(まと)わりつく靄(もや)は不思議なほど清涼で、不快な湿り気を感じない。

「素晴らしい魔法だな。もう、これは一種の結界と言っていい」

 リフィアは霧に触れようと腕を前へ長く伸ばし、感嘆の声を上げた。

「迷いの結界に近いね。物の気配が伝わってこない」

「これはとても難しい水魔法ですね。周りの、ただの霧じゃないですから」

「それではイシュルさま。準備も整ったということで、お話を伺いましょうか」

 前に座るミラが振り向き、いつもの上品な笑顔で言った。

「ああ」

 イシュルは僅かに顔を強張らせ、小さく頷いた。

 ふと、ほかに視線を感じて後ろを振り返ると、船尾に立つリフィア付きのメイド、ノクタと目があった。

 実際に舟を動かしているのはイシュルの魔法で、彼女はほとんど形だけだったが、櫓を持って船頭を引き受けていた。そしてイシュルを見つめているのはノクタだけでなく、ミラ付きのセーリアも、ロミールも視線を向けていた。皆がイシュルを見ていた。

 昨晩、アルサールの陣中で起こった騒動のすべてを知るのは、イシュルだけだ。精霊神に憑依され、操られていたピピンも憶えていなかった。

 あの後イシュルは当然、皆から説明を求められたが、精霊神の介入があった以上、大公国の者らの前ですべてを話すわけにはいかなかった。ピピンらは、ラディス王家や聖王家の主だった面々ほど詳しい事情を知らなかったし、親しい関係にもなかった。

 正直に話しても、かえって面倒な事態を招くだけで、大公国の人々を納得させることはできないだろう。

 そこでイシュルはその場では言葉を濁し、あるいは虚実の入り混じった話をでっち上げ、適当に誤魔化しやり過ごすことにした。

 そもそも神々の理(ことわり)にかかわることを、他人に気安く話してよい筈がなかった。

 ──自分はアドリエーヌによってピピンの幕舎に呼び出され、そこでいきなり強力な迷宮結界に囚われた。結界を貼ったのはアドリエーヌ自身だった。

 ここまでは嘘をつく必要はなかった。精霊神はまだ登場していないからだ。イシュルは実際に起こったことをそのまま、正直に話した。アプロシウスが去った後は当然のごとく、周りはみな騒然となったが、素に戻ったピピンにイシュルはその場ですぐ、アドリエーヌに結界を貼るよう命令したか詰問している。

 ピピンはイシュルの剣幕にたじたじとなって、だがはっきりと「余がそんな命令を出す筈がない」と否定した。

 イシュルはそこで、フェデリカにかわり絶命したアドリエーヌを抱きかかえ、泣いていたオルベールに言った。

「大公が命令してないのなら、この女の一存で俺に迷宮結界を使ったことになるが」

 オルベールは、涙に濡れた顔に怒気をめぐらせ、イシュルを睨みつけた。

「そんな筈ない。アドリエーヌが自分の意志で結界を発動して、あんたを害そうとするなんてありえない。……理由が、ない……」

「動機がない、か?」

 イシュルは薄く笑ってオルベールを見下ろした。

「それならなぜ、お前らはこんな大軍を動員してまで、俺たちが帰るのを邪魔したんだ?」

「それは……あんたが……」

「俺がそれだけ、危険な存在だからか? だからアドリエーヌは俺を呼び出し、つまりは暗殺しようとしたのか」

 イシュルはより笑みを大きくして言った。

「確かに悪いのは、無断で入国した俺たちの方だ。だが、いきなりこんな大軍で押しかけられ たらな」

 イシュルはそこで肩をすくめてみせた。

「それに俺はラディス王国の人間だ。あんたらと敵対する気はもとからない」

「じゃあ、あれはなんだ? 赤い魔女と一緒じゃ、こちらとしては何も信用できない」

 オルベールは、大公国の衛兵らを押しとどめているミラの方を顎でしゃくって言った。

 声音からは生の感情が溢れ、吹き出していた。

 怒り、悲しみ、まだ動転していた。

「ともかく、結界を使った当人が死んでしまった以上、真相を突き止めるのは簡単にはいかないだろう。ここで貴公らが言い合いをしても埒(らち)が明かない。今はこの騒動を収めるのが先決だ。我々は、ディレーブ川を渡ることができるのならそれでいい。なあ、イシュル」

 リフィアが見かねて、割って入ってきた。

「ああ、もちろん。こちらにもまったく非がないわけじゃないし、だまって東岸に行かせてもらうなら、何の不満もない」

 イシュルはリフィアに柔らかい笑みを向け、小さくひとつ頷いた。

 最初から台本が用意されていたかのような、息の合った掛け合いだった。

「彼女がなぜこんなことをしたのか、それはあんたらの方の問題だ。俺は一切関知しない」

 イシュルは笑みを消すと今度はピピンの方に目をやり、そう言った。

「あ、ああ……わかった、そのようにしよう。余の方も一切を不問に付す。何の詮索もしない」

 ピピンは神経質に何度も首を振り、視線をさまよわせ、上体を揺らして言った。

「……」

 オルベールはピピンを一瞬、横目に見ると俯き、悔しそうに肩を震わせた。

 アドリエーヌの遺体からは未だ鮮血が滴り落ち、地面を黒く染めていた。夜目にもはっきりとわかった。

 その夜はオルベールは役に立たず、ピピンの他の近侍の者らが陣地を駆け回って騒ぎを収め、イシュルたちは元の宿舎に戻った。テントの前には大公家の衛兵も見張りに立ったが、イシュルの召喚した風の大精霊、フェデリカがはっきりと姿を見せて上空に現れ、一晩中辺りを圧し続けた。

 イシュルは不要と思ったか土の精霊を呼ぶのをやめ、ミラやリフィアたちにも詳しい説明はせず、「どこに誰の耳があるかわからない、大公の陣を離れ、安全になったら話そう」と彼女らの追及をかわした。精霊神がピピンのからだを借りて現れたことはもちろん、アドリエーヌによって迷宮結界に囚われ脱出した、一部始終も話すことはしなかった。そして皆から逃げるようにして寝台に潜り込み、さっさと眠りについてしまった。

 互いに昨晩のいざこざには触れない、としたことでピピンとのその後の会談、いや駆け引きも立ち消えになり、翌朝、イシュル一行は簡単な挨拶をしただけで彼らの陣から出ることができた。そこからは真っすぐ、渡河した時の隠し砦に向かった。

 砦の周囲はまだ、イシュルとエルリーナの魔法で水に覆われていたが、丸太を繋げた細い橋が架けられ、外部との連絡がつくようになっていた。

 イシュルは単身、その丸太を渡って隠し砦の長(おさ)ティボーに面会し、ディレーブ川を渡河するのに十人ほど乗れる川舟を一艘、手配してもらった。

 ティボーは以前に与えた宝石の効力がまだ残っていたか、アルサールの軍陣でピピンと面会したことを話すと、川舟の手配を快く承諾してくれた。

 隠し砦の川舟はディレーブ川から広がる湿地の奥、入り江の様な場所に隠されていた。イシュルは舟に乗り込むと、案内についてきたティボーに謝礼として、今度はラディス王国の王金貨を一枚与えた。

 ティボーは今度は笑顔を隠さず、イシュル一行に機嫌よく手を振って別れの挨拶をした。

 湿地を抜けディレーブ川に出ると、イシュルは水魔法だけでない、五元素の魔力を融合した新結界も微かに発動して周囲を霧で覆い、外界とほぼ完全に遮断して、リフィアたちに昨晩起きたことをあらためて説明しはじめたのだった。

「──そこでアドリエーヌは、ピピンがやって来る前に迷宮結界から脱出してみろ、と言ったんだが」

「あら、イシュルさまならどんな結界だろうと即座に、何の苦も無く破ることができますでしょう?」

 イシュルが、ピピン大公の幕舎の前でアドリエーヌの罠にはまったところまで話すと、ミラがたまらず口を挟んできた。言ったとおり、本当に不思議そうな顔をしている。

「ふむ、あの宮宰は精霊神の結界と言ったんだな?」

 一方リフィアは顎に手をやり、低く抑えた声で言った。

「ああ。力づくで破るのは簡単だが、アドリエーヌが精霊神の名を出してきたのは確かに気になった。それに──」

 イシュルは、大公国の敷いた陣が迷路のように複雑で、迷宮結界の元になっているのではないかと考え、無理に破壊すると大公国軍にも被害が及ぶ可能性を危惧し、実力行使するのを躊躇ったことを話した。

「様子を見た理由はまだある。結界に閉じ込められた時、へんてこな、今まで見たことのない、牛頭の怪人が現れたんだ」

 ……もちろん、ミノタウロスの話はしない。いきなりこの世界の誰も知らない、前世のギリシア神話の説明をしてもあまりに突拍子もないことで、皆を混乱させるだけだ。自分が前世の記憶を持つ転生者であることも、話すことはできない。今はそのことを話す時ではない。

「ほう……、それはまた奇怪な」

 両目を見開き驚いて、首をかしげるリフィア。

「……」

「牛頭の……」

「牛頭の怪人、ねぇ」

 真剣に考え込むミラとニナ。レニは対照的に視線を遠くへやって、胡散臭気な顔をする。

「あまり見ない化け物だったからな。俺もちょっと気になって──」

「あっ、思い出した!」

 だが、いきなり大声を出してイシュルを遮ったのは、レニだった。

「子どものころ、おじいちゃんから聞いたことがある」

 レニの祖父とは、大陸に広く知られた風魔法の大家、ベントゥラ・アレハンドロである。

「牛頭の怪人の伝承は、南のベルムラの方にあるんだ。向こうの山奥の住民が畏れ祭っている魔物、神さまかな? 年に一回、春先に牝牛を一頭生贄に捧げるんだ。それを怠るとその牛頭の魔物が怒って災厄をもたらす──とか、そんな話だったと思う」

「ほう、それは……」

 イシュルは眸を輝かせ、感嘆の声を上げた。

 ……この世界にもミノタウロスがいた! いや、正確には外見がそっくりの化け物がいたわけだ。しかも南の方だ、中海の対岸だが。

「なるほど、原住民の信仰する魔物、というか精霊なら、確かに精霊神アプロシウスの領分だな」

 と、横からリフィア。

 アドリエーヌが発動した迷宮結界は、無系統の精霊神の魔法だった。そのことは皆に話してある。

「その結界魔法の由来も、ベルムラかもしれませんわね」

 と続いてミラ。

 ……ふむ、やはり南方か。中海へ行くべきか。

 イシュルは腕を組んで小さく何度か頷いた。

 気を良くして説明を続ける。

「……で、牛頭の化け物の攻撃を避けながら周りの迷宮結界を探っていたら、フェデリカがアドリエーヌの胸を刺して──」

「イシュルさんはその怪人の首を刎ねて、結界を脱出したんですね」

 と今度はニナ。

 昨晩の騒動の後、その場にいなかったニナやロミールたちにも、ごく簡単に、さらっとだが経緯を話してある。

「そう。で、結界が解けると、あんなことになっていたんだが」

 ミノタウロスを斃し結界が消えると、目の間ではフェデリカとアドリエーヌ、オルベールとリフィア、少し離れてミラやシャルカ、レニもいて、辺りは騒然としていた。

「そこで大公さまがお出ましになって……」

 ニナが少し不安げな顔で、呟くように言った。

 その後のことは誤魔化して、まだ誰にも詳しい話はしていない。ピピンの肉体を通して精霊神が降臨したことは、他の者の耳があるところでは話せなかった。

 ピピンが登場し、彼に精霊神アプロシウスが憑依していたことを話すと、

「まぁ、そんなことが……」

「なんと! 今度はアプロシウスが現れたのか」

「精霊神の強力な結界魔法の後に、ご本人がお出ましか」

 とミラ、リフィア、レニが思い思いに驚きの声を上げた。

 ふと顔を上げると、櫓を持って船尾に立っていたノクタが身をすくめて、からだを震わせていた。

 数多の伝承に登場する精霊神はよく、怒らせると怖い神として描かれている。

「それでアプロシウスは、イシュルを中海で待つ、と言ったんだな」

 リフィアが真剣な、恐ろしい形相になってイシュルを真正面から見つめて言った。

「ああ、うん」

 イシュルはリフィアの剣幕に首をすくめ、小刻みに何度も頷いた。

「やはり南、なんだね」

 レニが胸の前に腕を組んで、これも何度か頷く。

「……でも、中海の、どこに行けばいいんでしょう?」

 少し間をおいて、ニナが皆が疑問に感じたことをずばり、口にした。

「それが問題、ですわね」

「……いや、とにかく行ってみればいいんだ。そうしたら中海のどこかの街で、お城や神殿跡でまた精霊神が現れるんじゃないか?」

 疑問を口にしたニナとミラも、楽観的で他人事のようなリフィアの物言いも、どちらの言い分ももっともだ。

「アプロシウスは、イシュルがこれからどうすればいいか、困っているのを助けてやるって、言ったんでしょ?」

 レニは舟の縁(へり)に肘をつき、手のひらに顎を乗せ視線を遠くにやって言った。

「だったらリフィアさんの言うとおり、向こうに行けばまた何か起こるかもしれない、つまりアプロシウスの方から動いてくるんじゃないかな」

 そしてレニも思わせぶりに視線を動かし、イシュルを真っすぐ見つめた。

「今までも、イシュルは月神にただ妨害されるだけじゃなくて、同時に導かれてきたんだと思う。だから精霊神も、同じようなことをしてくるんじゃないかな」

「……」

 イシュルは顔を俯かせ、レニから視線を逸らした。

 ……確かに彼女の言うとおりだ。俺はベルシュ村が襲われた時から、いや風の魔法具を手にした時から、ずっと神々の掌の上で踊っていた。踊らされてきたのだ。

 だから、そこから抜け出すために神の魔法具を集め、神の力を手に入れたのだ。

 だが、そのことさえも、彼らの意図したことであったなら……。

 精霊神の接触も、ある意味必然と言えるかもしれない。皮肉、揶揄、背信、そして破滅。この局面に至ってアプロシウスの介入こそ、あいつこそが今の俺にとって最もふさわしい存在なのだ。

「だが、ただ南に行け、中海に行け、だけじゃな。あまりに曖昧模糊として、今ひとつ気がそがれるというか、不安が拭えない」

 ……すべてをやつらに任せてしまうなど、到底承服できるものではない。

「そうですわね。わたくしも、南に向かうのはもう少し手がかりを得てからの方がいいと思います」

 ミラが相槌をうつ。

「うんん……」

 リフィアは、難しい顔になって小さく唸り声を上げた。

「……とにかく、昨晩起きたことは以上だ。今後どうするか、それはもう少し皆で考えてみよう」

 ルシアやロミールの方を見ると、彼女らもしっかりと頷いた。

「別に、いつまでにとか期限があるわけじゃないからな、ソレールに着いてからもまた話し合おう」

 イシュルは皆の顔を回し見て笑みを浮かべた。

 そしてゆっくりと立ち上がると、船上から右手を伸ばし、かるく横に振った。

 周囲を包んでいた霧が渦を巻きながら薄くなり、消えていった。明るい陽ざしが川面を照らし、遠くに何艘か川船が見え、対岸のソレールからは微かに街の喧噪が聞こえてきた。

 上空には、一行を護衛するフェデリカの姿が薄く浮かんで見えた。

 リフィアやミラたちは川を渡る微風に髪を押さえ、眸を細めて東岸の景色を見やった。

「……」

 イシュルは行く手のソレール城から、顔を後方の、西岸の方へ向けた。

 湿気に霞んだ空に、一条の灰色の煙が上がっていた。だいぶ遠く、見て、感じることのできる者はイシュルだけかもしれなかった。

 それはおそらくアドリエーヌの遺体を焼く、火葬の煙だった。風のほとんどない、穏やかな空を煙が細く、高く昇ってやがて北へ薄くたなびいていた。

 イシュルはふと、アルサールの陣を去り際、宮宰のオルベールが吐き捨てるように言った言葉を思い出した。

 それは「死神」、「役病神」という、憎しみの言葉だった。

 オルベールは「あんたが来なければ、大公さまは出兵しなかった。アドリエーヌも死ぬことはなかったんだ」、「あんたは疫病神だ。今までそうやって、周りに災厄を振りまいてきたんだろう。いや、疫病神じゃない。死神だ」と言ったのだ。

 ──たとえラディス王国の危機を救い赤帝龍を滅ぼそうと、いや、一方でそれらすべての災難を引き寄せてきたのもまた、俺自身なのだ。

 オルベールの言ったことは間違ってない。精霊神が俺に接触するためにピピンに憑依し、アドリエーヌを操ったのもまた事実なのだ。

「まだこの苦しみから逃れることはできない。神々の目的を、真意を、白日の下にさらけ出すその時まで、俺に救いはやってこない」

 失われた家族もベルシュ村の者たちも、俺の巻き添いになったかもしれない多くの人々の魂も……。 

 イシュルは野焼きから背を向け、東岸に目をやった。ソレールの城塞には聖王国の旗が、ソレール大公、ルフレイドの旗が翻っていた。

 

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