ピピン大公の陣 3

 


 なぜ、ミノタウロスがここに……。

 牛頭の魔人はもう、目の前まで迫っている。

 巨大な棍棒を振り上げ、狂った猛獣のように吠え威嚇してくる。

 だが、イシュルは死の恐怖よりも、とても偶然とは思えない両者の符合に驚き、怖れ、慄いた。

 ……ミノタウロスと迷宮、だと!?

「なぜっ、どうして!」

 イシュルもまた、魔人に向かって吠えた。

「がぁああああああっ」

 牛頭の魔人は凶暴な咆哮とともに、振り上げた棍棒を叩きつけてくる。

「くっ」

 イシュルは全身を横向きに逸らし、同時に後方へ飛び退いた。

 精霊神の迷宮は完全な魔封結界ではない。というよりこの結界でさえ、イシュルが司る五元素を土台に構築されたものだ。五つの異界との繋がりは断たれていない。無系統のネリーの指輪も何とか反応し、加速の魔法を発動した。

 牛頭の魔人の振り回す棍棒を苦も無く避け、後ろに飛び退いて間合いを詰めさせず、その異様な姿を観察し、周囲の迷宮の様子を探った。

 ……結界を破るのも脱出するのも二の次だ。問題はこの、無気味な牛の怪人と迷宮の組み合わせだ。

 イシュルは怪物の攻撃を避けながら風魔法の感知を伸ばし、迷宮の出口を探った。

 しかし不思議なことに、風の魔力の先端が出口に届いた瞬間、さらに外側に向かって迷宮が拡張され、知覚の外へ出口が遠のき消えてしまうのだった。それが何度も何度も繰り返され、迷宮はひたすら拡大し続け、永久に出口を見つけることができない異様な錯覚にとらわれていった。

「くっ」

 怪人の棍棒がすぐ横の緑色に輝く壁にぶつかり、きらきら輝く水晶のような破片が目の前を飛び散った。

 ……油断ならない。

 牛頭の化け物はその体躯から膂力に優れるだけでなく、動きも素早かった。

 イシュルはさらに数歩、後方へ飛び下がると迷宮の壁を見上げた。

 先ほどまで姿を見せていた、アドリエーヌの気配は今は消えている。聳え立つ壁面の間に垣間見える夜空は漆黒に沈み、星々の光も月も雲も、何も見えない。

 あれは夜空なんかじゃない。今まで幾度となく見てきた結界の闇。地獄の底、奈落の類いだ。あの暗闇には何もない。その向こうにも、果てにも。

 相変わらずフェデリカからも何の反応もない。気配もしない。完全に遮断されている。

「っと」

 突然目の前を通り過ぎる棍棒の影、そして風圧。

 イシュルはさらに後方へ下がる。

 ……こいつを倒すのはたやすい。だが……。

 この牛頭の怪人を倒しても、おそらくこの迷宮から脱出することはできないだろう。

 こういった結界は通常、目の前の怪物を倒せば解けたりするものだが、あの精霊神が関わっているのだ、そう簡単にはいかないだろう。

 何よりアプロシウスはこの符合、牛頭の怪人ミノタウロスと迷宮の意味をまさか、知っていて俺に仕掛けてきたのではないか。それともただの偶然か。これは重要な、大問題だ。

 ミノタウロスと迷宮の伝説は、ギリシア神話に登場する物語のひとつだ。

 地中海の、エーゲ海にあるクレタ島が舞台。そのクレタ島にあった、牛頭の魔人が棲む巨大名宮の伝説。

 この精霊神の結界は、前の世界の神話と奇妙に一致している。

 本当にこれは、偶然なのか。

 いきなり、目の前をミノタウロスの巨大な影が覆いかぶさる。

 あっという間に距離を詰められた。頭上から棍棒が、渾身の力で振り下ろされる。

 イシュルは魔封を破り全身に風の魔力を纏(まと)うと、その棍棒を右手で掴み、強引に真横へ押しやった。

 怪人がたたらを踏み、姿勢を崩したところで後方へ大きく飛び退き、さらに距離を取った。

 ……この異世界には、前の世界と多くの類似点が存在する。人間がいて、動物がいて、中世ヨーロッパによく似た文明が存在する。前の世界のように、多くの神話が存在する。

 だが、果たして牛の怪人と迷宮がひとつの神話に偶然、一致する可能性はどれほどのものだろうか。

 ……この迷宮は、この怪物は、結界によって生み出された──作為的なものではないのか?

 俺は、あのミノタウロスの神話に閉じ込められてしまったのか。俺がこの怪物を殺すなら、俺はテセウスで、テセウスを助ける王の娘はアドリエーヌということか。

 アドリエーヌ……。あのギリシア神話に登場する王女の名は何と言ったか。

「それほどギリシア神話に詳しいわけじゃないからな。彼女はテセウスを、糸を使って助けるんだったか」

 緑色に発光する迷宮の壁に、ミノタウロスの異形の姿が浮かび上がる。

 直角に曲がる壁の奥へ、身を潜める。

 ……この奇妙な符合の謎を解く前に、あの化け物を斃してしまっていいのか。

「やつを殺してしまったら、この結界の謎を永遠に解けないかもしれない」

 ミノタウロスと迷宮の神話を知る者は、自分以外この世界に誰もいないのだ。

 それを、もし精霊神が知っているのなら……。

 化け物の足音が近づいてくる。

 それは確かに人間の足音だ。同じだ。ミノタウロスは古い意匠の、編み上げサンダルを履いていた。

 ……だからと言ってこのままずっと、やつと鬼ごっこを続けるわけにもいかない。

 イシュルはその場で構わず、暗闇を見上げて叫んだ。

「アドリエーヌよ、出て来いっ! ピピンもいるなら顔を見せろ!」

 強力な迷宮結界だが、力づくで破るのは難しいことではない。

 ただ、大公国の陣地が、まるで迷路のように複雑だったのが気になる。この結界の迷宮は、その複雑な大公軍の陣地を元に構築されているのではないか。

 それはいかにも精霊神の考えそうなことだ。この結界を無理やり壊せば、何か大きなしっぺ返しを食らうかもしれない。この結界を破壊すると、同時に現実の陣地の方も壊滅してしまう、そんな罠が仕組んであるかもしれない……。

「ぐっ、ぐぉおおおお」

 壁のすぐ向こうで、低く唸る怪物の声が響く。

 イシュルの呼びかけに、ピピンはおろかアドリエーヌからも反応がない。牛頭の化け物だけが殺気を漲らせ、迫ってくる。

「アプロシウスよ!」

 イシュルは、今度は精霊神の名を呼んだ。

 なぜか、その名が口を突いて出た。

 イシュルの叫声に応じてか、壁の向こうから牛頭の巨体が姿を現わす。

「おまえこそ姿を見せろ、この怪人の名を言ってみろっ!」

 イシュルはミノタウロスを目の前に、かまわず大声で叫んだ。

 この結界も、アドリエーヌの行動も、すべては精霊神が黒幕ではないのか。

「ががっ、ぐああああっ」

 ミノタウロスが再び反応し、咆哮した。双眸が燃え上がり、口角から泡を吹き辺りに撒き散らす。

 怪人の怒りは頂点に達した。両腕に持つ巨大な棍棒が高く、振り上げられる。

「!!」

 その時だった。

 天上から何か、誰かの声が降ってきていきなり暗黒の空が裂け、そこに巨大な、月のように大きな青い人間の眸が覗いた。

「剣さまっ」

 大きな眸が叫んだ。

 女の高い声が、結界の空を響き渡る。

「ぐっ、が」

 ミノタウロスが何事かと、動きを止めて空を仰ぎ見た。

 女の声はまだ若い、風の精霊のフェデリカだった。

「いたいた」

 と、暗闇の裂け目から彼女の眸が消え、今度は巨大な手が差し込まれた。

 緑色に輝く迷宮の壁の重なり、上空を覆う夜空よりも深い闇。そこへあまりに巨大な人の手が、風の魔力に輝く水色の手が出現した。

 ものの縮尺が、距離が、空間が滅茶苦茶に狂った、あり得ないことが起きていた。異様な結界だった。結界の崩壊だった。

 精霊の巨大な腕が暗闇を突き抜け、横断する。

「頃合いか」

 フェデリカがどうやったか、アドリエーヌの張った迷宮結界を破ったのだ。

 ただ力づくではない。現実の戦陣にも被害は及んでいない──そう感じる。

 もうこれ以上、謎解きに時間をかけるのは無理だ。

「……仕方がない。ミノタウロス」

 漆黒の空を仰いでいた牛の怪人が振り返る。

「ふんっ」

 そこへイシュルは、風を中心に他の火、水、土、金も混ざった魔力の塊を、水平に払うようにミノタウロスにぶち当てた。

「がっ」

 五元素の魔力は、剣の刃のように薄く伸長しながら怪人の首を薙ぎ、自然と減衰して迷宮の壁面に消えた。

 イシュルは、倒れ込んでくるミノタウロスの巨体を横っ飛びに避け、同時にその頭の角を掴んだ。

 特大の牛の頭は相当な重さで、そのまま片手では持てず、風の魔力のサポートをつけてぶら下げた。

 白目を向いた牛頭の首から、赤黒い血が滴り落ちる。

 直後、暗闇を覆うフェデリカの腕がかるく揺れると、目の前の壁が、迷宮が吹き飛び一瞬で消滅した。



「ふむ」

 牛頭も消え、ぶら下げた腕から重みがなくなると、イシュルは小さくひとつ、吐息を漏らした。

 風の魔力のアシストを解くと、周りを微風が渦巻き闇夜に消えていった。解かれた魔力の残りが、風になって飛んでいった。

「そして、これか」

 イシュルは首を回し見、あらためて周囲の状況を確認した。

 周りはアドリエーヌやオルベール、それにフェデリカ、だけでなくリフィアにミラ、空中には化け猫の精霊、ルカトスに乗ったレニが浮かんでいた。

 辺りはざわざわと、多くの人々の立ち騒ぐ気配が波打つように盛り上がり、誰かの嗚咽が、叫びが、恫喝が、裂帛の声が、冷笑が鳴り響き、闇夜に広がり淀んでいた。

「き、貴様……、何て事を」

 精霊神の迷宮結界を張ったアドリエーヌが、フェデリカに胸を貫かれ絶命していた。そこへ同じ宮宰のルカトスが縋りつこうとして、リフィアに後ろから羽交い締めにされていた。

 ミラはシャルカとともに、騒ぎに駆けつけてきた衛兵らと睨み合っていた。レニはルカトスと共に夜空に舞い上がり、陣地全体を見張っていた。ニナの姿は見えなかった。

 ロミールたちもいないので、ニナはテントに残って彼らを守っているのかもしれなかった。

「剣さま、無事かな?」

 フェデリカが振り返って言った。

「ああ、大丈夫」

 イシュルは頷くと足下に視線を落とした。牛の首と同時に、地面に垂れた血も消えてしまったようだ。獣の匂いも残っていない。

 フェデリカは、「怪我もなさそうで良かった」と微笑むと、急にすまなそうな顔になって、結界を解くにはこの女の胸を刺して殺すしかなかったと釈明し、「ごめんなさい」と頭を下げて謝ってきた。

 精霊神の迷宮結界は、アドリエーヌの胸に刻まれた魔法陣の刺青から発動されたらしかった。

「いや……」

 イシュルは小さく首を横に振ると、フェデリカに胸を突かれ、抱きかかえられたアドリエーヌを見つめた。

 彼女の胸にはまだフェデリカの腕が突き刺さったままだ。

 そこでイシュルは唐突に、結界が解けた時の様子に思い当たった。

 迷宮に閉じ込められた時、漆黒の空を破って現れたフェデリカの巨大な眸と腕は、その時点での現実の状況を表していたのだろう。

 続いてイシュルは、フェデリカの背後でリフィアに羽交い締めにされ、嗚咽しているオルベールに視線を移した。

 切れ者らしい若き宮宰は、今はすっかり取り乱し、哀しみに打ちひしがれていた。

「どういうことなんだ?」

 ……これはアドリエーヌとオルベールが男女の仲か、兄妹か、深い関係にあったということだろうか。

 イシュルの質問に、代わってリフィアが答えた。

「このふたりは同郷の、幼馴染だったそうだ」

「なるほど……」

 イシュルは、幾分沈んだ表情のリフィアに小さく頷き返した。

 ふたりとも大公側近くに仕える宮宰で、片方はおそらく大公の愛人でもあった……ということか。複雑で、面倒な話だ。

「ううっ、アドリエーヌ。……どうして、どうしてこんな事を」

 オルベールは嗚咽し続けている。

 ……可哀想に。

「アドリエーヌに命令したのは──」

 イシュルがそこで、ピピンの名を告げようとした時。

「皆のもの、静まれ」

 落命した女、哀しみにくれる男。主人を救った風の精霊、場を鎮めようとする貴族の令嬢と女剣士。

 彼らの背後に聳える大きなテントの一面が、まるで幕が上がるようにするすると開かれ、当の本人が登場した。

「ピピン大公……」

 微かに、リフィアの呟く声が聞こえた。

 大公は辺りをゆっくり見回すとイシュルに顔を向け、口髭をいじりながら言った。

「どうだ、風の申し子、イヴェダの眷属よ」

 声は変わらないが、口ぶりが全く違っている。

「余がそなたのために用意したこの群像劇、みな会して一目瞭然とした。気に入ってもらえたろうか」

 ピピンは両手を横に広げ、イシュルの前に居並ぶ一同を指し示した。

「……」

 イシュルは呆然と大公を見つめた。

 フェデリカ、オルベール、リフィアもミラたちも、人形のように動かない。

「おまえ、ピピンじゃないな」

 胸が、苦しい。おまえはまさか……。

「ふむ、迷宮結界はどうだったかな? 五つの神の魔法具を持つ者よ」

 ピピンは変わらず、髭をいじり続ける。

 人を食ったような顔だ。

 ……こいつは男だ。月神じゃない……。

「おまえは、精霊神アプロシウス」

 イシュルは喉を鳴らし、震える心を押さえつけ絞り出すように言った。

「そうだ、わたしがこの小男のからだを借りている」

 ピピンは以前とはまったく違う、凄みのある笑みを浮かべ、瞳を細めた。

 辺りの篝火が急に明るく、強くなったように思えた。

「せっかく苦労して五つの魔法具を揃えたのに、この先どうしたらよいか、迷っているふうに見えたのでな」

 そこでアプロシウスはいきなり哄笑し、笑い終えると言った。

「余がわざわざ手助けしてやったのだ」

 ……こいつ。

 なかなかのひねくれ者だ。

 イシュルはピピンを睨みつけると、大きな声で、胸を張って問うた。

 これは急所だ。

 この世界は、この神々は……。

「あの、ミノタウロスと迷宮は、あの結界はどういうことだ? おまえはまさか、ギリシア神話を知っているのか? エーゲ海の、クレタ島の──」

「ふん?」

 空気が変わった。少し重たく、剣呑さを増した。

「ミノタウロス? ギリシア神話?」

 アプロシウスは怪訝な顔をすると首を捻り、恐ろしい顔になってイシュルを見た。

「なんだそれは。知らないな、聞いたこともない」

 そして呟くように続けた。

「このわたしに、知らぬことがあるとは……」

「なんだと……」

 背中を冷たいものが流れる。

 イシュルも小声で、呟き返した。

「本当に知らないのか。まさか、偶然の一致というやつか」

 いや、そうだ、別におかしいことではないのだ。ここは前の世界に少し似ている、別の世界だ。迷宮で牛頭の怪人が現れた時、あの時にも同じことを考えたじゃないか。

 この世界にも人間がいて、動物がいて、中世期の文明があり、国が、王国があり、宗教や思想があり……。前の世界と微妙に一致し、似ていることがたくさんある、そんな異世界なのだ。

「だが、そなた。気にかかることを言ったな?」

 難しい顔になった精霊神がそこでふと、両目に小さな光を宿らせ言った。

「ふむ、確かエーゲ海? クレタ……島だったか」

 ……精霊神が、そこに反応した?

「そうだ、エーゲ海は地中海にあって──」

 イシュルが咳き込むように言うと、

「おおっ」

 アプロシウスはそこで突然、両手を叩いて驚きの声を上げた。

「それだ、地中海だ! それは中海のことであろう」

「!!」

 ……なにっ。中海だと。

 前に、レニが話していたこと。あれは──。

「……待っておるぞ。わたしと、そうだな」

 精霊神はまた髭をしごいて言った。

「この世界と神々について、大いに議論しようではないか」

 アプロシウスは、いや、小男のピピンは両手をいっぱいに広げ、満面の笑みを湛えた。

 ……さすれば、神々の地がどこか、教えてやろう……。

 最後にそう、イシュルには聞こえたような気がした。

 一瞬、視界が光で満たされ、すぐ夜闇に戻ると篝火が鳴り、男が嗚咽し、兵士らがざわめき、周囲の喧騒が戻ってきた。リフィアが、ミラが、心配そうな顔を向けてきた。

 正面には奇相の小男が、大公が惚けた顔で立っていた。

 一場の劇は唐突に終わりを告げた。

 迷宮が現れ、消えてひとりの女が死んだ。

 あっという間の出来事だった。

 

 

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