ピピン大公の陣 2

 


「余がアルサール大公、ピピン二世である」

 戦陣の真ん中で放たれた、この国の支配者の第一声。

 その声は当人の外見と比較し、なんとも不釣り合いだ。

 大公の声は思いのほか重厚で、力が漲り、教養をさえ感じさせるものだった。

「お初にお目にかかる。俺がイシュル・ベルシュだ」

 無礼とも思われる、ぶっきらぼうな物言いには、濃い警戒の色が滲みでている。

 酒樽のような体躯に大きな顔、黒い眸。灰色の顎髭に覆われ、仰々しい銀製の王冠をかぶっている。全身を覆う真紅のガウンが、長椅子からこぼれ落ちている。

 短躯だが、その上に乗っている顔はいかにも王様らしい、堂々たるものだ。その声音も、その風貌に見合った威厳あるものだ。

 ……だから、油断がならない。この奇相は何かつくりもののような、不自然な、不可解なものを感じる。

「うむ」

 ピピンはわずかに首を傾けると言った。

「どうかな? フィオアの古神殿を訪ねたのであろう。水の魔法具は手に入ったか」

 齢(よわい)は四十過ぎくらいか。

 この立派な顔はどこかで見た憶えがある。そう、赤帝龍を斃した時、現地で世話になったオルトランド──スカルパ・オルトランド男爵だ。あの立派な髭を生やした威厳のある顔、キングのカードの絵柄そのままの顔つきがピピンと似ている。

 ……首から下はまったく違うが。

「さあ、それはどうかな」

 イシュルは少し間を置き、独り言のように呟いた。

 そして小さく笑みを浮かべ、ピピンに向かってはっきり言った。

「俺はそれを、あなたに答えなければならないのか? ……あまり余人に、誰彼となく話したくはないんだが」

 今までとまったく同じ、この場も荒事は避けたいのだが、帰り道を塞ぐようにして大軍を動員するこのやり口は気に入らない。

「……!」

「なんだと」

 オルベールが肩を、ぶるっと震わせた。ピピンの周りに居並ぶ近臣らから、怒りと驚愕の声が漏れる。

 イシュルの無作法な受け答えに、場の空気が一瞬で凍りついた。

「ふむ」

 ピピンは何を思ったか、視線を明後日の方へやり、またイシュルに戻して言った。

「その様子だと、水の魔法具も手に入れたようだ」

「……」

 ピピンが機嫌を悪くした様子を見せなかったので、剣呑な空気が少し和らいだ。

「ふふ」

 イシュルは口端を歪め、小さな声で笑った。それが答えだった。

「喉が渇いたな」

 大公はまた視線をそらし呟くと、彼の傍に控えていた女に声をかけた。

「アドリエーヌ、酒を持って参れ」

「かしこまりました」

 アドリエーヌと呼ばれた女は低い身分ではない。戦陣では見ない華やかなドレスを着ている。

 彼女は後ろを振り返り、奥の方に下がっていた侍女を呼びつけ、大公の命令に二言三言添えて指示した。

「そなたには、我が方のドレーヌ伯爵が狼藉を働いたとか。すまぬことをした」

 ピピンは酒を待つ間、イシュルに陣前で起きたいざこざを自ら詫びた。

「いや……」

 イシュルは曖昧に口を濁すと視線を横にやり、眸を細めて凝視した。数名の侍女が盆を捧げ持ち、酒を持ってきた。

 トレーの上には、煌びやかなガラス細工のデカンタやグラスが多数、並べられていた。

 ……いくら王とはいえ戦陣の、しかも昼間から酒とは無作法な、と思ったが、どうやらこの場の者全員に酒を配ろうと考えているらしい。

「ここはお詫びもかねて、イシュル殿が五つの神の魔法具を揃えた祝いの杯を上げたいと思う」

 ピピンはのそのそと立ち上がると薄笑いを浮かべ、場を一通り見渡し言った。

 彼の羽織った真紅のガウンが、盛大に地面に広がっている。四肢が異様に短く、お伽話から出てきた小人のように見える。

「ああ、もちろんこの場とは別に、晩餐も用意させておる。ともかくもこの上ない慶事故、皆で祝杯を上げようではないか」

 晩餐、との言葉がその髭に埋もれた口から洩れると、リフィアやミラたちが露骨に鼻白むのが伝わってきた。

 大公は俺たちを少なくとも、一晩はこの陣に留め置くつもりらしい……。

「イシュル殿は我が友邦ラディス王国の住人、連合王国を撃退し赤帝龍を滅ぼした、大英雄だ。我方としても精一杯、歓待せねばならん」

 ピピンはそこまで言うと、侍女の捧げ持つ盆からグラスを取り、高く掲げた。

 焦点の合ってない双眸がどこか、遠くを見ている。

「……」

 イシュルはピピンの周りに控える者らの顔を、横目に素早く盗み見た。重臣から侍女たちまで、みな絵に描いたように同じ取り澄ました微笑みを浮かべていた。一分の隙もない、堂に入った演技だった。毎日、来る日も来る日も同じことを繰り返してきたのであろう。

 しらけ切った、何とも寒々しい空気が漂うなか、大公は側に仕えるアドリエーヌを見下ろし、「ふへ」と小さく息を吐いて自慢げな顔をした。

「さあ、皆さまに杯を」

 アドリア―ヌは大公に「よくできました」というふうな笑みを浮かべて頷くと、侍女らに酒を配るよう指示した。

 ……この戦陣でわざわざ、俺たちに祝杯を上げてくれるわけか。大軍の真ん中でとんだ茶番

だが、さすがに相手が相手だ。断るわけにもいくまい。

 イシュルは顔を俯かせ、ぐっと堪えるような苦い表情を見せた。ふと横に控えるリフィア、ミラに顔を向けると、ふたりとも「そうそう、ここは我慢して」というような顔をして頷いた。

 ……しかし、大公とアドリエーヌと呼ばれた女、ふたりのあの露骨なやり取りは何だ?

 あの女は大公の愛人か何かか。ピピンが結婚しているかどうか知らないが、まさか妃を同伴してくるわけはあるまい。

「いや」

 イシュルは目だけ上向け、アドリエーヌを見つめた。

 ……あいつもオルベールと同じ、宮宰か。

 ニナは、“宮宰”は大公の叔父を含め四人いると言っていた。ピピンがあの通りの愚物、傀儡であるならば、アルサール大公国はその四名の宮宰による合議制で、運営されている可能性がある。

 それならこの場に、オルベール以外に“宮宰”がいてもおかしくはない。

 ややくすんだ朱色のドレスに、明るいクリーム色のストールは可もなく不可もなく。癖のある栗色の髪を後ろでまとめ、白い肌の整った顔立ちは一見、決して目立つ方ではない。

 だがよく見れば伏し目がちの眸に長い睫毛が、気品に加え微かな妖艶さまで醸し出しているのが伝わってくる。王権を持つ者の側に仕えるのに、十分な美貌を備えていると言ってもおかしくはない。

「どうぞ」

 そこで横から侍女が盆を差し出してきた。

「皆さま、ご起立を」

 同時にアドリエーヌの柔らかい声が響く。

 折っていた膝を伸ばして立ち上がり、その場で銀製の杯を取った。

 毒見の指輪は反応しない。杯に注がれた液体は、何の変哲もない果実酒だ。魔法もかけられていない。水魔法の感知力があれば、すべてが手に取るようにわかる。

 先ほど召喚したフェデリカからも、ニナの水精エルリーナからも何もない。

 続いてミラとリフィア、後列のニナとレニ、シャルカ、さらに後方に控えるルシアやロミールら従者たちにも酒杯が配られた。

「では皆の者。我が国の友邦、ラディス王国の剣であるイシュル・ベルシュ殿の大成と前途を祝し──」

 ピピンは一同の面前に立って乾杯の音頭をとった。

 その視線は相変わらずどこを見ているのか、茫洋として釈然としなかったが、台詞はしっかり、声は出ていた。

 リフィアはむすっと、ニナとレニは無表情で、ミラはなかば傲然と杯を掲げた。

 僅かに口に含んだ酒は、異様に甘く濃く喉を焼いた。

 

 

「さて、まさかこれでおしまい、ということはあるまいな」

「動きがあるとしたら夜更けか、明日になってからでしょうか」

「夜更け、というのは物騒だね」

「わたしはこのまま、何も起こらないと思います」

 大公国が用意した宿泊用のテント。そのうちのひとつ、イシュルとロミールに割り当てられた軍用テントに、ミラとレニ、リフィア、ニナがいた。みな、イシュル当人を囲んで食卓の上に頭を突き合わせ、声を潜めて密談していた。

「俺はニナの見立てに賛成だな」

 イシュルはカンテラに照らされた少女たちの顔を見回し、一段と声を落として言った。

「大公は俺たちに恩を売りたいわけだ。ミラとレニ、ふたりの聖王国の貴族を同伴し勝手に入国したのは、ふつうなら絶対に許されない行為だ。それを何の罪も問わずに目をつむり、歓待までしたあげく、ソレーユへの帰還も見逃してくれる──これは破格の待遇だ。それだけ、俺自身とラディス王国の心証を害したくないということなんだろう」

「その割には、けっこうな軍勢を集めているがな」

 リフィアが横目で睨んでくる。その眸に微かにからかうような色が見える。

 この議論を楽しんでいるのだ。

「万が一の用心と、王威を示すためでしょ」

「正確には、俺たちの入国を察知して十日ほどかな? その短期間でこれだけの軍勢を動員し、要所に堅陣を敷いて見せた、その能力を誇示したかったんだろう」

 レニの発言を補足し、イシュルはリフィアとミラに順に視線を向けた。

「アルサールは俺自身よりも、ラディスと聖王国、両国に自らの軍威を示したかったんじゃないかな。君らの目を通じてね」

「この場所は、ディレーブ川西岸からロネール一帯への侵入を拒むのに、最良の地勢ですわ。布陣も地形にそって、計算されたものです」

「ふむ。まあ、そうだろうがな」

 リフィアは口許に手をやり、不承不承頷く。

 大公軍はピレルに向かう街道と古城に片足を、隠し砦の方へもう片方をかけた形で、湿地まじりの草原に円陣を敷いている。この布陣はもともと、聖王国が攻めてきた時に対応すべく以前から用意されていた陣形のひとつだろう。

「だけどこうして、わたしたちは敵陣の真っただ中で一晩、過ごすことになっちゃったからね」

「それは確かに、少し違和感がありましたね」

 レニの発言にニナが相槌を打つ。

 宮宰のひとり、オルベールによってピピンの元へ連れて来られ、当人に拝謁した後、今度は晩餐に無理やり誘われ、なし崩し的に大公軍の陣中で一晩、宿泊することになった。

 賓客をもてなすというのならそういうものだろうが、状況が状況である。何か罠があるかと訝るのも当然だろう。

 ニナの違和感とはその、大公国の強引な勧誘のことを指していた。

「晩餐でも当たり障りのない話ばかりで、何だかもやもやしてしまいましたわ」

「しつこく誘ってきた割には、大した話は出なかったね」

「ピピンやオルベールたちも、何か奥歯に物が挟まったような物言いだったな」

「でも、それは俺らを怖れ、ただ気を使っていただけ、という風にも取れる」

 大公主催の晩餐会では屋外に食卓を並べ、専門の奏者つきで、オルベールとアドリエーヌの二名の宮宰、それに領主の主だった者らが列席したが、肝心の話題は聖都エストフォルで先の国王ビオナートが起こした動乱や、赤帝龍との戦いとその後の顛末など、イシュルにとっては当たり障りのない話ばかりで、肝心の水の魔法具を入手した経緯や、今後聖王国へ戻りどうするのか、五つの神の魔法具を持つとはどんな心持か、誰もが気に掛けるであろう話題は一切、出なかった。イシュルの方から進んで話すことはなかったし、大公側から話を振ってくることもなかった。

「あるとしたら明日、別れ際に何か言ってくるくらいじゃないか」

 イシュルは続けて、

「例えば、決して聖王国の味方をしないでくれとか、諸国の諍いに手出しせず、中立を守ってくれみたいなことを、婉曲に言ってくるんじゃないかな」

 と、いささか脱力気味に肩をすくめて言った。

 ……今まで出会った王侯貴族や神官、あげく強面のならず者まで、全ての者がほぼ同じ態度を示した。俺が誰か、どんな力を持っているか知ると、みな怖れ慄き拝跪し、あるいは懐柔し味方につけようとした。真摯に胸襟を開く者もいたが、駆け引きして恩を売り貸しを作ろうとする者も、大勢いた。

「う~ん」

 リフィアは頭を横に振りながら唸ると、いきなりひょいとイシュルに顔を近づけてきた。

 鼻と鼻が触れそうな距離だ。

「本当にそれで済めばいいんだがな、イシュル」

 にやりと笑うリフィア。そこへミラがすかさず割り込んできた。

「近すぎです、リフィアさん」

 ミラも負けじと顔を寄せてくる。

「むむ」

 イシュルは思わず首をすぼめ、固まった。

「あはは」

「ふふ」

 レニとニナの、明るい笑い声が上がった。



「……」

 夜更け。イシュルはまるで、その時を計っていたかのようにぱちりと目を醒ました。

 両目を見開いた先、テントの屋根の真上に、フェデリカの気配を感じる。

 彼女は夜空に超然と屹立し、辺りを睥睨していた。

 ……剣さま。

 脳裡にフェデリカの透き通った声が響いた。続いて「起きたの?」と訊いてくる。

 ……ああ。異常はないか?

 イシュルも心のうちで話しかける。

 ……うん、周りにいる精霊どもはみな、大人しくしているよ。人間の魔法使いも静かにしている。

「ふふ」

 イシュルは小さく笑った。

 それはフェデリカが、周りの精霊や魔導師たちに圧力をかけているからだ。

 周囲の空気がちょっと違う。雰囲気でわかる。

 ……そのまま、よろしく頼む。

 ……うん。剣さまはこれから、ふたり目の精霊を呼ぶの?

「ああ」

 イシュルは声に出して頷くと、ベッドから起きてテントを出た。

 出入口の傍にはロミールが起きて、見張りをしていた。

 彼は外に出てすぐ正面にある大きなテント、リフィアたち女性陣が宿泊している──の方をじっと見つめていた。

 今晩の宿泊先として、一行の女性たちには二つのテントが用意されたが、リフィアたちは侍女のルシアやノクタらとも話し合い、分宿せずひとつのテントに固まって寝ることにした。

 聖王国出身のミラやレニたちはまた再びいつ、ドレーヌ伯爵のような過激な者に襲われるかわからなかった。一晩中、まったく油断できなかった。

 イシュルとロミールも交代で見張りをすることにした。ロミールが寝ずに女性陣のテントを見張っていたのは、そのためだった。

 そして、陣中の兵らも寝静まった夜半になってイシュルが起き出してきたのも、新たにもう一体、精霊を召喚するためだった。

 風の精霊のフェデリカにはすでに話してあり、これから明日以降、少なくとも大公軍の陣を離れディレーブ川河岸に至るまでは、二体の精霊で万が一の事態に備えることにした。

 イシュルはテントから出ると、周囲の篝火の明かりや歩哨の気配のない野営地の端の、暗がりの方へ移動した。

 夜空は雲が厚く、墨を流したような暗闇に覆われている。篝火から時折、木の割れる音が聞こえてくる以外、何の気配もない。歩哨の兵隊は近くにいない。フェデリカは先ほどより圧力を弱め、静かにしている。

 イシュルは辺りを見回し、足許の暗闇に視線を落とした。地面の下草が夜露に濡れているのが伝わってくる。

 呼び出すのは土の精霊だ。周囲の地形から、警戒や戦闘時の防御に風と土の組み合わせが最も適しているように思われた。

 イシュルは一息吐くと心を落ち着け、おもむろに集中力を高めていった。

「……!!」

 土の異界に意識を広げ、まさに呪文を唱えようとした時、背後に異変を感じ振り向いた。

「誰だ」

 突然だ。ほんの僅か後方に、いきなりひとの気配がした。

 視線の先、闇の底から足音がして女がひとり、現れた。白っぽい、シンプルなシルエットのドレスが浮き上がる。

「今晩は、イシュルさま」

 女は落ち着いた、柔らかい声で言った。

「これは……」

 イシュルは驚愕に目を見張り、続いて警戒もあらわに鋭い視線で相手を睨みすえた。

 女はアルサール大公国の宮宰、アドリエーヌだった。

 ……どういうことだ。

 なぜ今、俺の前に?

「大公国の宮宰殿が、こんな時間に何の用だ」

 イシュルは薄く笑みを浮かべ、低い声で言った。

「まぁ、そんな。恐い顔をなさらないで」

 アドリエーヌも微笑を浮かべた。 

 彼女は微かに発光する、靄のようなもので覆われている。

「その光、どこかで見たことがあるな」

 いや、見たというよりは……。

「目くらまし、揺動の魔法か」

 母の形見のリングにつけた魔法具の宝石、揺動の指輪と同じ魔力の煌めきだ。

「そうです。でも、イシュルさまが気になさるようなものではありません」

 アドリエーヌは二十代半ばくらいか、余裕ある仕草でゆっくり胸に手を当て、笑みを大きくして言った。

「イシュルさまはこんな夜遅くに……、精霊を召喚されようとしていました?」

「そうだ」

「大公さまが、内密にお会いしたいとの仰せです。よろしければ待たせていただきますが」

「ほう」

 ……来たか。あの大公が、な。

 イシュルは口端を歪めて笑った。

 結局、このままでは終わらなかったか。しかし、わざわざアドリエーヌ本人を寄越すとは。

「いいだろう、案内しろ」

 ……ピピンめ。何がねらいだ。何を考えている。

「精霊は召喚されないので?」

 柔らかな微笑が変わらず、顔に張り付いている。

「ああ、かまわない」

 イシュルは心のうちでフェデリカに声をかけ、ミラたちをしっかり護衛するよう、あらためて命じた。

 アドリエーヌは「それでは、ついてきてください」とイシュルに声をかけると、前に立って歩きはじめた。

 大小の柵を越え、幾つものテントを通り過ぎる。歩哨は誰も、まったくの無反応だった。彼女は暗がりでも、すたすたと危なげなく歩いた。

 やがてイシュルは、昼間にピピンの謁見を受けた小さな広場に連れてこられた。大公がいた大きなテントは今は幕を降ろしている。中は灯りもついてない。

 近くに篝火もなく、周りは暗い。

「くくっ」

 イシュルは押し殺した笑い声を上げた。

「ピピンはどこだ? 気配がしないな」

 少し間を空け、向かい合って立つアドリエーヌに白けた視線を向けた。

「明けすけだな。これから何がはじまるんだ?」

「もう少しお待ちください。大公さまはかならずお出ましになります」

 アドリエーヌは何の動揺も見せず、落ち着き払って言った。

「でもその前に」

 彼女は両手を胸に当て、何かを祈るような仕草を見せた。

「イシュルさまのおっしゃる通り、ひとつ余興がありますの」

 と同時に、その両手を当てた胸元から緑色の光が灯った。

「精霊を統べる無謬の神、アプロシウスよ。我が命にかけて……」

 アドリエーヌは薄く笑みを浮かべ、イシュルをじっと見つめたまま、小声で呪文を唱えた。

 ……アプロシウスだと!?

 イシュルはその名に茫然と、緑色の光に照らされた女の顔を見た。

 アプロシウス、それは精霊神の名だ。

 瞬間、辺りに緑の閃光が走り、地面が上と下、同時に上昇し、下降した。

 上下に切断された空間を緑の魔力が交錯し、ひとつの世界に繋ぎとめた。

 ……異界に飛ばされた……いや、異界に落ちた。

 交錯した精霊神の魔力は、薄く緑色に輝く壁となってイシュルの前に立ちはだかった。

 そそり立つ光の壁の先には漆黒の夜空が見えている。だがすでに、フェデリカとの接続は切れていた。

 大公軍の陣地はどこか、緑の壁の向こうに消えてしまった。

「これは、精霊神の結界か」

 イシュルは周りを見回し、ひとり呟いた。

 正面で、向かい合っていたアドリエーヌの姿は、いつの間にか消えている。

 緑色に輝く光は、不思議な力で他の魔力を遮断している。今まで見た、感じたことのない魔力だ。

 ……一種の魔封陣だが、この緑の魔力は何だ?

 五元素の魔法はもちろん、あらゆる無系統の魔法とも違う……。

「面白い魔法でしょう?」

 複雑に折り重なる緑の光の壁、その上から人影が覗いた。アドリエーヌの声だ。

「ね、イシュルさま。これは精霊神アプロシウスの、迷宮結界。大公さまがお出ましになる前に、この迷路から抜け出してみて?」

 アドリエーヌは高所からイシュルを見下ろし、短く笑った。

 直後、光の壁の向こうから「ぐおおおおっ」と、獰猛な獣の唸り声が聞こえた。

 地の底の地獄から響いてくる、巌(いわお)も砕くような重く厚い声だった。

 その野獣の気配が、近づいてくる。

 その影が、壁の向こうから姿を現す。

「その魔人を打ち倒して、ね」

 アドリエーヌの声が降ってくる。

「ぐおおおっ」

 魔人が雄叫びとともに全身を現した。巨大な棍棒を高く、振り上げている。

「な、……に」

 イシュルは驚愕に、その場に立ちすくんだ。

 呆気にとられ、まともに声も出せなかった。

 イシュルは両目をこれでもかと見開き、その怪人を見上げた。

 魔人は首から下は半裸の人間、首から上は角を生やした、牛の顔だった。

 牛の頭の、男。

「ミノタウロス……」

 イシュルは茫然と、その名を呟いた。

 

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