ピピン大公の陣 1

 

ピピン大公の陣 1



 樹間に輝く陽ざし。

 草花が生き生きとはなやぎ、その一画だけが別世界だ。

 ああ、森の外はこんなにも明るく、晴れ渡っているのか。

 その中心にあの時の、女神官が立っている。

 エリスタールの貧民窟で会った、不思議な神官。彼女だ。

 一歩踏み込み、手を伸ばせば届きそうな距離だ。

 目の前を、ふぁっと空気が動いた。

 心のうちと外を、衝撃が走る。

 俯いていた太陽神が顔を上げた。彼女と目が合う。

「……」

 その顔に慎ましい、小さな笑みが浮かんだ。その眸が柔らかく、微かに細められる。

「あなたは、イシュルさま」

 心が揺さぶれる──間もなく、彼女の声が降ってきた。

「なっ、に……?!」

 思わず、驚きが声になって漏れ出る。

 ヘレスはエリスタールの時と、同じことを言ってないか。

 いや、俺が本人か確認してきたのはミラだ。クレンベルの主神殿で、はじめて会った時だ。ヘレスは最初に会った時、彼女の方から俺の名を訊いてきたのだ。

 そして確か、「イシュルさま」とかみしめるようにして復唱した。その点はミラの時と変わらない。

 ……俺が誰か、確かめたのだ。

「おまえはヘレス、だろう」

 胸に手を当て動悸を押さえ、絞り出すように言った。

「……」

 女神はただ、無言で微笑んだ。

 人間と同じ姿なのに、我々とはまったく違う圧倒的な存在感だ。

 なぜまた、今度も俺を“確かめて”きたのか。

 ……そして、なぜ俺を“さま付け”で呼ぶ。

「時は来た。俺は五つの魔法具を揃えたぞ」

「……」

 ヘレスは答えない。

 首を横にわずかに傾け、笑みを大きくした。

 ……とぼけて、いるのか。

 その顔にいつぞやと同じ、わずかに悪戯な表情が現れる。

「よく、ここ──」

 彼女は何か言おうとして一瞬、その顔を曇らせた。

 口を噤(つぐ)み、柔らかな表情が消えていく。

 彼女の眸は俺を見ていない。

 その視線を追って、後ろを振り返る。

「!! いつの間に……」

 驚愕に全身が固まる。

 今までにない、静かな登場だった。

 殺気も、恐怖も、禍々しい気配は一切ない。

 そう、まさしく死んだように佇んでいた。

「……レーリア」

 木々の影に、在りし日のメリリャが立っている。

 主神に続いて、月神まで姿を現した。

 ただ形だけの、ただその場所であるだけの森の中で、俺は今、ヘレスとレーリアに挟まれて立っている。

「おまえも来たか」

 構わず、創世の魔法を唱える。言葉ではない。心象と意志、ただそれだけだ。

 創世結界に主神と月神を閉じ込める。

 ついさっき、ヘレスが現れた瞬間、彼女は難なく結界を破り内側へ侵入してきた。だが、あれはこちらも手探りで、はじめて起動した不完全なものだった。主神に創世結界がまったく通じないと、決まったわけではない。

 ……きっと、やれる筈だ。

「こんなところではじめるつもりか」

 無言、無表情だったメリリャが声を発した。

 外見だけではない、声音も昔と変わらない。

 その顔に薄っすらと浮かぶ冷笑が、それだけがメリリャのものではない。

「なんだと?」

 憎しみに歪んだ、自分の声。

 ……いつまで、メリリャの姿を続けるつもりだ?

 かならず引き剥がしてやる、この力で。

 両手を広げるように結界を展開し、手繰り寄せるように周囲へ収束させる。

「その憎悪、わたしと戦うつもりか」

 メリリャの、悲しい眸。だが唇は醜く歪んでいる。

 月神は口だけだ、邪魔してこない。動かない。ヘレスもだ。

「この森はその地ではない」

 笑みが消え、眸の色が消える。無表情なメリリャに戻った。

「大地が裂け、空が吹き飛び、人は住む処を失うぞ」

 レーリアの、メリリヤの低い声。

 ……なに? だが、その通りかもしれない。

 一瞬の動揺。結界の形成が止まる。

「ん?」

 そこでふと、後ろに視線を感じて向き直る。

 ヘレスと目があった。

「……また、お会いしましょう。イシュルさま」

 何かを訴える眸。そして、少し寂しげな微笑。

 ゆっくり言うと、瞬く間に消えた。

「……」

 また振り返り、レーリアを見る。やはり月神も、酷薄な笑みを見せると音もなく消えた。

「くっ」

 あまりの緊張に片膝をつく。月神のいた木陰はそのまま、主神の現れた日なたは小さな蝶が飛んでいた。

 白い羽がせわしなく、枝葉の周りを飛び回っている。

 激した熱いからだが、困惑と落胆に急速に冷えていく。

「ううっ」

 俯いたまま、思わず呻き声が出た。

 力なく立ち上がると右手に数歩、ブナの木の根元の下草に落ちた雉(きじ)を拾って、みんなのもとへ戻った。



 草をかき分け、樹々の間を黙々と進む。

 最初に感じたのは、「はぐらかされたか」「冷やかしか」という裏切られたような、落胆の思いだった。

 だが、歩くうちに次第に落ち着きを取り戻し、先ほどの異変も冷静に考えられるようになった。

 何と言っても、ヘレスとレーリアが同時に姿を現したのは、はじめてのことなのだ。

 五つの魔法具をこの身に宿し、創世の魔法を発動したことはやはり、それだけ特別なことだった。

 月神は俺が敵意を示すと、「ここでやるのか」と言った。ヘレスは「またお会いしましょう」と言った。

 それならやはり、どこか特定の場所か、何らかの条件が必要になるのだ。

 ……彼らと相対するには。

 フィオアの水の結界のように、どこかの異空間、疑似世界のような場所、と考えるのが最も妥当かもしれない。

 山中の辺境の街、カナバルで荒神バルヘルと戦った時も、やつの結界の中でだった。

 だとしたら、大聖堂地下の主神の間、辺りが一番可能性が高いだろうか。あそこに行けばまた、ヘレスに会えるかもしれない……。

「……ん」

 そこで、左手に持っていた雉の両足に、僅かに力が加わるのを感じた。

 風の魔力の小さな塊、風球を手加減して当てたので、だいぶ弱っているが、まだ死んではいないようだ。

 思考を遮られ、ついでに皆のいる方向を再確認する。彼らは休息でもとっているのか、百長歩(約60m)ほど先で動きを止めている。

 ……ヘレスとレーリアが降臨したことは、ミラやリフィアたちにも相談した方がいいだろう。

 ただ、誰にも話せない不可解な一点がある。

 今回もヘレスが俺を、「イシュルさま」と「さま」付けで呼んだことだ。

 以前、エリスタールの神殿で最初に会った時、彼女は俺の名を「さま」付けで呼んだ。あの時は彼女は神官服を着ていた。場末の小さな神殿の、若い神官なら、訪ねてきた者を「さま」付けで呼ぶこともあるだろう。ヘレスはあの時、少し楽しんでいるふうがあった。神官役に徹して、俺のことを「さま」付けで呼んだのだろう。

 だが、今回も俺のことを、「さま」付けで呼んだのはどうしたことだろう。なぜそう呼んだのか、理由がわからない。

 今回もヘレスは明るく、柔和な感じがしたが、さすがに悪戯な、突然の登場と演技を楽しんでいる様子は見られなかった。

 月神もいたし、あの時とはもう、すべてが変わってしまっている。

「……なぜ俺を、“さま”付けで呼ぶんだ」

 口に出して言っても、どうにかなるわけではない。

 いくら考えても、何もわからなかった。

 目の前の、小さな赤い花のついた枝葉をどけると、木の根や倒木に腰を下ろし、ひと休みしている一行の姿が見えた。

 


 闇夜をぼんやり照らす、焚き火の明かり。

 赤く燃え立つ炎を挟み、ミラ、リフィア、レニ、そしてニナの顔が並ぶ。

 イシュルも同じ、彼女らと向かい合って声を潜め話し込んでいる。

 昨夜と同じ、一体どこが違うのか。今晩はシャルカがまだ起きていて、もうひとつの焚き火の方も消えていない。ほかの者は皆、昨日と同様もう眠りについている。

 シャルカはひとり、ぼんやりと焚き火の炎を見つめていた。

「しかし、五元素による新結界創生の場に立ち会えなかったのは、とても残念だった」

「それは仕方がありませんわ。傍にいたら危険でしょうし。そもそも秘技であるなら誰か、余人に見せるものではありませんわ」

 イシュルから昼間の出来事を聞くと、リフィアは皮肉まじりに文句を言った。ミラはすぐリフィアに言い返して、イシュルを露骨に庇った。

「まぁ、そんなとんでもない魔法、もう隠すも何もないけどね。絶対誰も、真似できっこないんだし」

「ふふ」

 ミラの言を受け、レニが両手をひらひら振りながら脱力して言いと、いつもの会話の流れにニナが小さく笑った。

「でも、ヘレスとレーリアが同時に現れるなんて、びっくりしたよ。はじめてのことだ」

 イシュルが幾分肩をすくめ、だが険しい目つきになって言った。

「五つの魔法具を揃えたからだ。いよいよ、だな」

 リフィアが念押しするように、きっぱりと言った。

 それは誰もが思ったことだ。

 ミラ、ニナ、それにレニも表情をあらためた。

「……だが、主神も月神も、今この時、この場ではないと言った。それもある意味、神の啓示であるというのなら、ミラ殿の予想が当たったということだ」

 と間を置き、リフィアが続けて言った。

「それはつまり──」

「要は自分でなんとかしろ、どうしたら神々と会えるか、答えを探してみろ、ってことだな」

 イシュルがリフィアを遮り、低い声で、力を込めて言った。

「うん」

「そうですわね」

 一同、揃って頷く。

「やはり、ここはレニさんと一緒に聖都に戻って、ウルトゥーロさまに相談しましょう。イシュルさまの見立てどおり、その“場”とはまさしく主神の間ですわ」

 ミラが強い口調で言った。

 このことも皆、イシュルと同じように考えていた。

 彼女の言った「イシュルの見立て」とは、かつて大聖堂地下の主神の間と類似した、クレンベルの“太陽神の座”で、カルノ・バルリオレにより特殊な結界に閉じ込められた経験が元になっていた。つまり、主神の間で創世結界の発動──五つの魔法具を同時に起動すれば、主神ヘレスが降臨し似たよう空間に飛ばされて、そこで神々によってどんな願いもかなえられる、“儀式”が行われるのではないか、といういかにももっともらしい推測を指していた。

「それしかないよな、やっぱり。聖堂教会も、いろいろ協力してくれるだろうし……」

 イシュルはそう言うと、小さく溜息をつき物憂げな顔になった。

 ……仕方がないことだが、やはり聖都行きは煩わしいことばかりだ。大聖堂は、自らの権威のためにこのことを表沙汰にし、いや、大いに喧伝するかもしれない。

 そしてもちろん、サロモンも何か利を得ようと首を突っ込んでくるだろう。あの男が大人しくしているなんてあり得ない。また暇つぶしにと、面倒ごとを押し付け引っ搔き回してくるに違いない。

「まぁ、ほほ……」

 ミラが手の甲を口に当て、高らかに笑い飛ばそうとしたが、最後は尻すぼみになって消えてしまった。

 彼女もわかっているのだ。聖都の宮廷も大聖堂も、ただ単に力を貸してくれるだけでは済まない、応分の厄介事も抱え込むことになることを。

「……」

「ふーむ」

「うーん」

 ニナが無言で顔を引きつらせ、リフィアとレニは難しい顔になって考え込んでしまう。

「お兄さま方にも合力いただき、なるべく面倒ごとに巻き込まれないよう、うまく立ち回るしかないですわね」

 と、観念した様子でミラ。

 お兄さま方、とは彼女の双子の兄、ルフィッツオとロメオのことだ。ディエラード公爵家はサロモンの王位継承に大きな功があり、今は聖都の宮廷で絶大な権力をふるっている。

 とはいっても、彼らの睨みが効くのは聖都の他の貴族や政商、大神官あたりまでで、サロモンやウルトゥーロをコントロールするのはさすがに無理がある。

「まあ、こればかりは仕方ないな。避けては通れぬ道だ」

 リフィアが声を励まし、何度か頷きながら言った。

「そうだよな」

 と、イシュルも合わせるように頷く。

 ……リフィアの言うとおりだ。ヘレスやレーリアに会うために、どうすればよいか。その方法を自分で探さなければならないのなら、まず最初に大聖堂の主神の間を調べるのが妥当だろう。そのためには、サロモンや大聖堂の干渉から逃げるわけにはいかない。

「決まりですね。わたしも力になります、イシュルさん」

「もちろん、わたしも」

 イシュルがリフィアに同意すると、ニナもレニも明るい声で頷いた。

「もし、大聖堂が駄目だったら、どうしましょう」

 ミラが頬に指先を当て、顔を横に傾け言った。

「そうしたらラディスラウスに戻って、もう一度王家書庫を探すしかないな」

「……ふむふむ」

 イシュルが答えると、レニが胸の前に腕を組んで考え出した。

「そういうことなら、中海のカエタノやサラスあたりの王族や、古い豪商を訪ねてみるのもいいかもしれない」

「ほう」

「あそこら辺は中海でも一番古い国々だし、交易が盛んだから、ベルムラや連合王国のいろんな情報が集まるんだ。もちろん、故事もたくさん残っていると思うよ」

「なるほど。最もな話だ」

「しかし、カエタノの王家とか、大商人とかあまり縁がないな。……どうやって取り入るか」

 機嫌良さげなイシュルとレニの会話に、今度はリフィアが顎に手をやり考え込む。

「まぁ、ほほ」

 そこへミラが割って入った。

「中海の方なら、それこそサロモンさまにお願いすれば、いくらでも紹介状を用意していただけますわ」

「ああ、それは」

 イシュルが、そして言い出しっぺのミラも含め全員が、引きつった笑みを浮かべた。

「とっても頼もしい、力添えだね」

 ……これ以上はない、強力なコネだ。前途洋々だな。

 イシュルはがっくりと、肩を落とした。



 あくる日、そしてその次の日の夜も、夕食後の団欒の後、これからのことが話し合われた。

二日目の夜にはルシアやロミールら従者たちも交え、みんなで意見交換した。

 シャルカやエルリーナ、レニの精霊である化け猫のルカトスも、五つの魔法具を揃えたらどうなるか、どうするか、具体的にはわからないということだった。

 ふた晩の間にロミールらも含め、全員でソレールに立ち寄った後、大聖堂を目指し聖都へ向かうことに決まった。

 ラディス王国からイシュルと行動を共にしてきたロミールたちも、誰ひとり故国に帰ろうとする者はいなかった。皆、自らの命を賭しても、今まで誰も目にしたことのない奇跡に立ち会うことを願っていた。

 そうして水の主神殿跡を出発して五日目、一行はロネーとピレルを結ぶ街道に突き当たった。

 林間に突如現れた小道は、南北方向へ緩やかにカーブしながら緑の壁の先へ伸びている。ところどころ雑草が生え、わずかに轍の跡がうかがえる街道は、かろうじて二頭立ての馬車が通れるほどの道幅で、普段の人通りは極端に少なそうに思われた。

 ピレルはディレーブ川に面し、三方をロネーの森に囲まれた小さな村だが、アルサール大公国の重要な城がある。普段は人の往来も少なくあまり使われていないが、軍道としては欠かすことのできない街道だった。

「田舎道の割にはしっかりしてるじゃないか」

「ピレルには大公国のお城がありますからね」

「ふむ。人も少なそうだし、ここから先は帰路もだいぶ捗るだろう」

「ああ。人の往来が少ないのは助かるな」

 城の者はもちろん、村人や行商人らにも姿を見られるわけにはいかない。街道で近づく者がいれば、かち合う前に沿道の森に隠れなければならない。

 身分卑しからぬうら若き女たちに、大柄なメイドの女。それだけであまりに異様で、行きあう全ての者が怪しむだろう。もちろん、相手は敵対しているわけでなし、見られたくない、知られたくないからといって、その都度始末するわけにもいかない。

 だから往来する人が少ないのは、手間が減って助かるのだった。

 一行は、人や魔物の気配にも鋭敏なリフィアを先頭に、後方にはニナの精霊エルリーナを配置し、警戒を怠らずに街道を南下した。

 目的地は往路で制圧した隠し砦で、彼らの所有する川舟を一艘、譲り受け、夜半にでもディレーブ川を渡河しようと目論んでいた。

 舟が手に入らなければ、イシュルが風か水の魔法を使って、一同を対岸のソレールに運ぶ手もあった。復路は荷物も減っているし、大きな魔法を使って大公国側に見つかっても気にする必要はなかった。

「イシュルさん」

 街道に出たからか、意気揚々な様子のリフィアを先頭に、何となく一列になって隊列を組み、街道を進みはじめてしばらく。後ろからロミールが追いついてきて、イシュルに話しかけてきた。

「まだ精霊は召喚しないんですか。街道の警戒は、精霊を増やした方が安全ですよね」

「ああ、その通りなんだが……ちょっとな」

 イシュルはロミールの質問に、少し顔色を曇らせて言い淀んだ。

「水神とやりあって、召喚した精霊はみんなやられてしまったからさ。俺の魔法具ならすぐ次の精霊を呼び出せるんだけど、まだそんな気持ちになれなくて……ちょっと抵抗感があったりする」

 ……そうだ。まだユーグら四精霊を一気に失った、心の痛みが残っている。

 彼らはモノじゃない。哀しみや喪失感を抱かないわけにはいかない。

「それに五つの魔法具が揃ったからな。人の動きくらいなら、だいぶ遠くから察知できるようになった」

 それに召喚すればまた、大精霊クラスの精霊が現れることになる。緊急事態でもないのにそれはちょっと大げさだし、呼び出された彼らにも申し訳ない気がする。

「へぇ、やっぱりそんなものなんですかね」

 ロミールも、魔法具の系統によっては野生の動物や魔物、精霊並みの知覚を得ることができることは知っている。

「ああ、以前よりさらに広い範囲で、小さな変化を自然に感じとれるようになった」

 以前は風なら風、土なら土と、系統ごとに分けて意識を向ける必要があったが、今はその垣根が取り払われて、空も地上も、地中や水中もみな一様に感じ取れるようになった。

 五感の通ずる範囲であれば、ちょっとした変化も自然に感じ取れるものだが、その領域がより拡張され、感度も自在に調節できるようになった。

「まあ、だから無理に精霊を呼びだす必要はないかな」

 ロミールににっこり、微笑んでみせる。

 ……もちろん、今のところは、だが。

 イシュルは内心ではしっかり、油断を戒めた。

 と、そこでまるで計ったように進行方向の、街道の南方に異常を察知する。

 道沿いに、地面と空気を伝わってくる複数の振動。

「来たな、馬だ。たぶん二騎。前方からだ。森に隠れよう」

「おお、さすが。早いな」

 先頭を歩いていたリフィアが振り向いて感嘆の声を上げる。

「さっ、急ぎましょう。みな木の影にかくれて」

 とミラ。

「足跡は……」

 そしてレニが心配そうな声を上げる。

「まあ、できる範囲で消している」

 十人近い人間が一列になって歩いている。道は乾いているが当然、足跡はつく。イシュルは土の魔法を使ってそれを目立たないようにしているが、踏まれた雑草もあるし、完全には消せない。

「うむ、確かに騎馬が近づいてきているな。さっ、急いで隠れよう」

 リフィアが前方を見て言った。

 空は晴れて森の木々の割れ目から青空が広がっているが、湿気が多いのか、街道の先は霞んで見える。

 イシュルたちが木々の影に隠れると間もなく、荒々しい馬蹄の音を響かせて二騎の騎馬が通り過ぎて行った。

「イシュル、あの馬、見たか」

 しばらくして森から出てくると、リフィアがやや硬い表情で訊いてきた。

「ああ」

 イシュルも難しい顔になって頷く。

 通り過ぎた二頭の騎馬は立派な馬体で、しかもかなり飛ばしていた。

 常設の、城の守備隊の連絡用に使われるような馬ではなかった。有力な領主や王家の、主力部隊に所属するような軍馬だ。それは通り過ぎた一瞬でも判別できた。

 それが二騎で、急いでピレルに向かっていた。

 ……付近で何か、緊急事態が起きたのだ。それは、つまり……。

「この先、油断は禁物ですわね。急ぎましょう」

 ミラがマントのフードをかぶり、その豪奢な金髪を隠して言った。



「ちょっと、止まってくれ」

 やや足を速め歩きはじめて数刻。午後になって、イシュルは皆に声をかけ、たち止まと眸を細めて前方を見つめた。

「どうした? また騎馬か」

「いや、これは……検問、だな」

 三里長(スカール、約2km)ほど先に、複数の人の気配があり、おそらく急ごしらえの門が造られている。

「これでアルサールが、わたしたちに気づいたのが確実になったな」

 往路で隠し砦を落としてから、十数日は経っている。城主を務めていた老神官のティボーから、ロネーの領主やアルサール大公に連絡が行き、軍勢が派遣されるなど何か対処されている可能性は十分にある。

「また森に入って迂回する?」

「それとも強行突破しますか?」

 レニとミラがイシュルに訊いてくる。

「どちらも、止めた方がいいかな」

「わたしもそう思う」

「わたしもです」

 イシュルが首を捻り、自信なさそうに答えると、リフィアとニナが即座に賛意を示した。

「もう、我々がロネーの森に入り、水の主神殿跡に向かったことは、この国の多くの者に知られている。大公国の軍勢に見つからずに、何とかディレーブ川を渡河できるとは思うが、相手の出方次第では堂々と名乗り出て、穏便に東岸に渡り聖王国に戻る形にした方がいいと思う」

「わたしも同じ考えです」

「うむ」

 ……確かにリフィアたち貴族の立場からすれば、そのように堂々と振る舞った方が面目も立つし、外交的にも良い結果が得られるだろう。

 たが、イシュルは煮え切らない態度で、小さく頷いただけだった。

 ……問題はミラとレニの存在だ。ふたりは大公国の敵国、聖王国の貴族だ。すんなり見過ごしてくれるか、わからない。

「イシュルさま、リフィアさんの言うとおりなら、わたしたちのことは気にしないでください」

「いや、それは大丈夫。きみらには絶対、手出しさせないようにするけど……」

 ミラとイシュルのやりとりに、リフィアが力強い声で言ってきた。

「ミラ殿もレニ殿も、堂々としていればいい。大公国が何かしてくれば、その時はやり返してやればいいんだ。荒事になれば、むしろわたしたちの思うつぼだ。なあ、イシュル」

「うっ、まあな」

 ……結局、そうなるか。

「ふたりは我らラディス王国の客人、と見なすこともできる。それならアルサールのやつらは手出しできない」

 リフィアはラディス王国の大貴族だ。武神の矢の異名もよく知られている。彼女がいれば、大公国側もミラたちの処遇に慎重にならざるを得ないだろう。

 だが……。

「向こうが皆、大人しくしてくれればいいんだがな」

「さっ、行きましょう、みなさま」

 リフィアと話していると、後ろからルシアが声をかけてきた。

「……」

 イシュルは不安を押さえ込み、前を見た。

 ここまで来て逡巡してもしょうがない。リフィアの言う通りだ。覚悟を決めよう……。

 ルシアはミラと目を合わすと、「大丈夫ですよ」と明るい笑みを向けてきた。

 一同、方針が決まり、そのまま街道を南下していく。しばらくすると樹々の間から、街道を塞ぐ形で丸太の壁と、急ごしらえの門が見えてきた。

 門扉の開かれた両脇には、槍を持った兵士が立っている。

「!!」

「うわっ」

 門番はイシュルたちの姿を認めると、露骨に驚き、慌てふためいて門の向こうへ消えた。

 しばらくすると、平服にマントを羽織り、長剣を吊った騎士らしき人物が姿を現した。

 イシュルたちも、門のすぐ手前まで来ていた。

「おおっ、これは間違いない」

 騎士は二十代か、若い割には世慣れた様子で、わざとらしく大きな声を上げた。

「貴方はもしや、ラディス王国のイヴェダの剣と、介添えの方々」

「そうだ」

 イシュルが答えるより先に、リフィアがすかさず前に出る。

「わたしはリフィア・ベーム。ラディス王国辺境伯代理である。イヴェダの剣は──」

「俺だ」

 イシュルがリフィアの横に並んで前に出ると、男は右手を胸に当て、深く腰を落とした。

「これはこれは。お初にお目にかかります」

 男はオルベールと名乗ると、「主(あるじ)が、我が陣にぜひお連れしろと申しております」とイシュルたちに慇懃に、だがそれとなく同行するよう迫った。

 木造の門をくぐると、その裏手には街道脇に即製の小屋が建てられ、馬も数頭繋がれていた。長槍を持った十名ほどの兵士もいた。

「貴公の主とは誰かな」

 とリフィアが問うと、男はちらっと街道の先の方を見やって、

「それは今は……。ですが、主からは粗相のないよう、気をつけてお連れしろときつく申し付かっております」

 と如才なく答え、つまり主人の名をごまかした。

 ……このオルベールという男も一癖ありそうなやつだし、主は誰なのか、面倒なことになりそうだ……。

 イシュルは間を空けて、それとなく周りを囲む槍兵らを横目に、小さく溜息を吐いた。

「いいだろう、案内してもらおうか」

「ありがとうございます」

 イシュルが低い声で言うと、男は揉み手をしそうな勢いで頭を下げ、にこにこと愛想笑いを浮かべた。

 神の魔法具の持ち主など、あまりに縁遠く興味もないのか、男の顔にはイシュルを怖れるふうも、敬うふうも、それらしい感情は見られなかった。

 周りの兵隊たちも同様で、彼らはイシュルよりもリフィアや、敵国の“赤い魔女”と思われるミラとその契約精霊、シャルカに対してむしろ緊張し、警戒しているように思われた。

 イシュルはそれとなくミラやレニ、ロミールらと視線を交わし、彼らを落ち着かせると、オルベールのすぐ後ろについたリフィアに続き、街道を再び南に向け歩きはじめた。

 イシュルの後にはミラとシャルカ、レニ、ニナ、ルシアらが続いた。彼らの左側を槍兵が並んで同行する。

 周りは相変わらず森が広がるだけで、特に変わったところはない。隠れて猟兵が追尾していたり、精霊が監視していたりなどの気配もない。

 水の魔法具を得て、すべての魔法具が揃ってからは、より高度な知覚を得ることができるようになった。空中、地中、水中、どこに潜んで姿を消していようと、精霊や魔物を見つけ出すことができるようになった。

 先頭を歩くオルベールの後ろ姿からも怪しい気配は感じられない。単なる愚鈍なのか、あるいは大物なのか、すぐ後ろに武神の矢がついているのに、緊張している様子も見られない。

 ……相手はロネールの領主あたりだろうが、ただ俺たちを歓待するだけなのか。

 ちょっと強引だが、この場で今すぐ精霊を召喚してしまおうか、とも思ったが、そこまで警戒する必要はないか……。

 相手は“人間の”軍勢であり、魔法使いだ。大精霊あたりがいても怖れる必要はない。月神や水神、あるいは赤帝竜やマレフィオアのような伝説的な怪物とは比べるべくも無い。

「そろそろ森も抜けるか」

 半刻ほども歩くと前方で森が切れ、湿地混じりの草原に地形が変化しているのがわかった。

 誰も喋らず、緊張しているのか弛緩しているのか、よくわからない妙な空気に浸っていた一行は、イシュルの小さな呟きに、みなが敏感に反応した。

「ほう、やっとロネーの森ともお別れか」

「いやはや、まだ道の先の方は森が続いているのに、イヴェダの剣さまは大したものでございますな」

 リフィアに続き、オルベールが振り返り、おべっかを垂れた。

「森の先にも、何やらありそうじゃないか」

 イシュルはオルベールを睨み、低い声で言った。

「はは、いや。……参りましょうか」

 一度立ち止まったオルベールは、ごまかし笑いをすると再び前を向き歩きはじめた。

「……」

 イシュルは、横を歩く兵隊が肩に担いだ槍の穂先をちらっと見やり、ひとり薄ら笑いを浮かべた。

 オルベールめ……。この男も相当な食わせ者だ。

 森の切れた先にあるもの。イシュルはもう、それが何か、おおよその見当がついていた。

 危険な、いや面倒な兆候が街道の先、濛気の中に身を潜めているのが感じられた。



「やってくれたな」

 その後も南下を続け、森を出てすぐのことだ。

 フィオアの神殿も遠く後方へ去り、無事人里に戻ってきた感慨に浸る間もなく、イシュルたちの前にとんでもない光景が出現した。

「最悪だ。ティボーめ、あれだけ口止めしたのに」

 ……隠し砦の城主だったあの男にも役目はある。それはわかるが、この有様はどうだ。

「これはもう、あの神官さまだけのせい、ではありませんわ」

 と後ろからミラ。

「イシュル、見ろ。あの旗を」

 そして、リフィアがある一方を指さす。

 灌木の入り混じった草原一帯に、大小無数の旗幟が翻っていた。夥しい兵馬の陣が辺りを圧し、イシュルたちと相対していた。

 その山のように盛り上がった陣の中央に、ひときわ大きな臙脂(えんじ)色の旗が翻っていた。紋章は王冠に斜線の入った盾、金色に輝いている。

「あれは、アルサール大公の旗だ」

 リフィアはあり得ない、といった驚愕の表情をしていた。

 ニナも、レニも呆然と、ミラは何か諦めたような顔をしていた。

「大公自らお出ましか。バゼーヌからわざわざ」

 アルサール大公国の都(みやこ)、バゼーヌは、ラディス王国の王都ラディスラウスとフロンテーラを結んだ、正三角形の南側の頂点付近に位置する。

 イシュルは皮肉たっぷりに言ったが、ロネーの森の北側を抜ければ、そこからは北西へ徒歩で十日足らずの距離しかない。実は大公の居城から、ロネーの森はそれほど離れているわけではなかった。

 イシュルたちが水の主神殿跡を往復する間に、迅速に諸侯に招集をかければ、どうにかまとまった数の軍勢を布陣させることも可能と思われた。

「どの国の王も考えることはみな、同じということだ。諦めるんだな、イシュル」

 リフィアは脱力した声で、だが少し慰めるような口調で言った。

「くっ」

 イシュルは唇を噛んで悔しさを堪え、前方に連なる軍勢を睨んだ。

「ですが、あの兵数であの布陣。硬軟、どちらの展開も睨んだものでしょう」

 目深にフードを被ったミラが、直ぐ耳許に口を寄せ囁いた。

「そうだろうな」

 兵力は一万近くに達するか。アルサール大公国軍は向かって右側、西側の小集落と廃城の見える辺りから、東側の隠し砦の方へ、ほぼ円形の陣を張っていた。

 街道の周りの草原には湿地も多く、大公軍は足場のしっかりした場所を選び、水堀や柵を設け急場の陣地をこしらえ布陣していた。

 大公旗のほかにも、大小多くの諸侯の旗が掲げられていた。そして、わずかだが精霊の気配や、部分的に何らかの結界が張られているのも感じられた。

 ……一応、それらしい野戦陣地を設けているところは荒事になった時の用心であり、案外に高い身分なのか、如才ないオルベールに最低限の兵隊をつけて、街道沿いを見張らせ応接させている点、そして何より大公本人が出向いてきているところは、こちらを刺激せず、なるべく友好的な関係を結びたいと考えているのかもしれない。

 それならば、敵対する聖王国の貴族であるミラやレニに、危害を及ぶことはないと考えていいのかもしれないが……。

「まあ、まあ。心配することは何もございません。諸侯軍を集めたのはベルシュさまが怖ろしい方である故、主人が用心しただけでございます。敵意は微塵もございません」

 オルベールはやや緊張が取れたか、より慇懃な口調でイシュルを促した。

「さっ、参りましょう。大公さまもお待ちかねです」

「別に心配はしてないさ」

 イシュルも作り笑いを浮かべ、オルベールに先を行くよう顎をしゃくって見せた。

 ……敵意はないと言っても、万近い軍勢を集めて陣を敷いたことは、威嚇以外の何ものでもない。

 大公の面前では、何か面白い見世物をやってみせる必要があるかもしれない。

「……」

 イシュルは後ろを振り向き、ニナやレニ、ロミールにより暖かい、自然な笑みを見せた。

 だが彼らはみな、誰ひとり怯え、不安そうにしている者はいなかった。たとえ大軍が眼前に現れようと、今さら怖れるようなものではないのだった。



 街道を道なりにしばらく歩くと、途中で下草の踏みつぶされた小道に逸れ、そこから先は大公軍陣地を真正面に見ながら進んだ。

 近づくにつれ、青い草木の匂いに鉄や馬、食物などの雑多な匂いが混じり、漂ってきた。微かな野鳥や虫の声に、大勢の人の立てる雑多な音が割り込んできた。

 途中、幾度も湿地や小川に突き当たり、その度に粗末な木板や小さな踏み石を渡って先を進んだ。周囲の草原は歩くのも不便で、大公軍は極めて攻めにくい地形に布陣していた。

 手前に広がる葦原を抜けると、人の背丈ほどの高さの急造の柵が現れ、その切れ目に身分の高そうな平服の男と魔法使いらしき女、それに全身鎧の騎士が数名、立っていた。少し離れた後方には十名ほどの兵士と、六角形の軍用テントが幾つか張られていた。どうやら大公軍の前哨に到着したようだ。

「ほほう、これは宮宰殿」

 深いグリーンのマントを羽織った平服の男が前に進み出て、オルベールに声をかけた。

 あまり友好的とは言えない、低い声音だ。

 ……宮宰? 家宰のことか。

 イシュルの疑問をよそに、二名の騎士が平服の男の前に出てくる。

「ドレーヌ伯。なぜあなたがここに?」

 オルベールが、先ほどまでとはまったく違う口調で言った。

「そんなこと決まっているだろう」

 ドレーヌ伯と呼ばれた平服の男が右手を上げながら言った。騎士が長剣を抜き、魔法使いの女が伯爵の横へ素早く動いた。

「そこの赤い魔女を成敗するのよ!」

 その叫声と同時に騎士がミラの方へ飛び掛かった。魔法使いは両手を高く掲げ、火魔法を発動する。

「!!」

 ネリーの加速の腕輪が起動、イシュルはミラの前に飛び出し、左手を後ろに回し庇う姿勢をとった。

 シャルカが金の魔力を発動し、ミラの周りにきらきらと輝く、細かい金粉のような防壁を展開する。

 と、リフィアがふたりの騎士を素手で突き飛ばした。早く、かるい動きだった。

 伯爵の後方へ、騎士が空中を飛んでいき、鈍い音を立てて地面に激突した。

 イシュルは、魔法使いの頭上に現れた三つの火球を吹き飛ばした。

「ドレーヌ殿、いきなり何を」

「くっ、くく」

 オルベールの切迫した声と、ドレーヌの低い唸り声が交錯する。

「あれほどきつく、申し渡したではないか」

「さ、されとて赤い魔女を、大公さまに会わせるわけにはいくまい」

 ドレーヌ伯爵もまだ若い。二十代前半か、オルベールと同い年くらいだ。

 ミラを討つために、伯爵の位にある者が直々に、陣前で待ち構えていたのだ。

 ……赤い魔女の異名は、大公国では仇敵としてよく知られているのだろう。聖王国とアルサールの関係を思えば、このように猪突する者が出てきてもおかしくない。

 イシュルは言い争うふたりの男を睨みつけた。胸の底に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 ミラやリフィアたちも怒りや困惑の表情を見せているが、今はまだ自制し、大人しくしている。

 柵の向こうにいる兵士たちは茫然と固まっている。リフィアに投げられた騎士たちは気を失ったか、その場から動かない。魔法使いの女は真っ青な顔をして、後ろ手にほかの騎士らを制止している。

「おい」

 イシュルがオルベールとドレーヌに声をかけた。

「こんなことをするなら、こちらにも考えがあるぞ」

「あっ、いや」

「なんだと」

 当惑するオルベール、気色ばむドレーヌ。

「うっ」

「!!」

 同時に、イシュルの背後でレニが叫び、リフィアが驚愕し身構えた。

 足元から突然、「ゴーッ」と不気味な音が鳴り、微かな震動が地面を走った。

「な、なんだ……」

 腰に吊った長剣に手をやり、イシュルに詰め寄ろうとしたドレーヌが足を止め、不安そうな顔をして周りを見渡した。

「……」

 オルベールは真っ青になって棒立ちになる。

「地鳴りだ」

 リフィアが呟くと、そこでぐらっと、地面が揺れた。

 次の一瞬、「ドン!」と大きな突き上げがくると、続いてガタガタと連続して地面が揺れはじめた。

「ひっ」

「地震だ!」

 みな恐怖に凍りつき、この世の終わりのような顔で天を仰ぎ、互いの顔を見回した。

 草木がざわざわと不吉な音を立て、大公軍の陣地の方からは無数の悲鳴と、物が倒れ壊れるけたたましい音が響いてきた。

「ふん」

 イシュルが右手を水平に上げると、激しい揺れがぴたりと止まり、辺りは何事もなかったように静かに、平静を取り戻した。

 大公軍の陣地だけが変わらず、周囲に喧噪を撒き散らしていた。

「あっ、あああ」

 ドレーヌは恐怖に全身を震わせ、茫然とイシュルの顔を見た。

「俺の連れに手を出すな。二度目はないぞ。次は皆殺しだ」

 イシュルは陣地の中央に翻る大公旗に目をやり、低い声で言った。

「宮宰、殿だったか」

 リフィアが苦笑を浮かべ、硬直しているオルベールに声をかけた。

「そこの伯爵さまは、お加減がよろしくなさそうだ。どこかお連れして、休んでもらった方がよかろう」

「わ、わかった。……おい、伯爵を連れていけ」

 オルベールは引きつった顔でリフィアに頷くと、配下の槍兵に茫然自失のドレーヌ伯爵を、奥のテントへ連れていくよう命じた。

 そして同じく愕然と固まっている女魔法使いと騎士らに、大公に事の次第を報告するよう命じた。

 その後、本陣の大公と宮宰のオルベールの間で、伝令を通して何度かやりとりがあり、イヴェダの剣以下、客人に絶対に危害を加えぬよう、大公から諸侯にあらためて命令が出され、全軍に徹底された。

 その間、イシュルたちはその場にしばらく留め置かれた。

「イシュルさま、どうしましょう。わたくし、ほかのドレスに着替えましょうか」

 待つ間、ミラがイシュルに話しかけてきた。 

 ミラは黒のフード付きマントを羽織っているが、中はトレードマークの赤いドレスを着ている。いつもより丈が短く装飾もシンプル、動きやすいものだが、目立つ衣装であることに違いはない。

 フードから覗く煌びやかな金髪といい、赤い魔女の謂れを知る者なら誰でも当人だとわかる。

「心配ございません。ここはわたしがお嬢さまの代わりに変装しましょう。わたしが影武者になります」

 と、そこでルシアがどこからか、巻き毛の金髪のかつらを取り出し、横から割り込んできた。

「まぁ、影武者とはイシュルさまが教えてくれた──」

「いや、おまえ何でそんなもん持っているんだ」

 イシュルはルシアに、続いてミラにも突っ込みを入れた。

「水の神殿で、荷物はほとんど流されちゃったろう? 着替えのドレスなんて、どこにあるの?」

「それはわたしの腹の中にある」

 今度はシャルカが会話に加わってきた。

「はっ?」

 ……おまえの腹の中はミラのハルバードとか、鉄球とかを収納しているんじゃないのか。

「ミラの武器だけではない。替えのドレスも入っている」

 シャルカは当然、という顔で頷きながら、「わたしの胴体は本来、中空だからな」と続けた。

 彼女は、“鉄心の鎧”と呼ばれる全身鎧の魔法具に憑依している。中空、と言えばそれはそのとおりであった。

「……なるほど」

 イシュルは苦笑を浮かべ、肩をすくめた。

「ルシアが変装して身代わりになってもわたしがいるし、どうせわかる者にはわかる」

 シャルカは何が可笑しいのだ、といつものむすっとした顔で言った。

「心配いりませんわ。大公側も、イシュルさまの怖さを思い知ったでしょう。もう何もしてこないに決まっています」

 ミラが「ほほほ」と手の甲を口許に当てながら言った。

「おい、何をやってるんだ。宮宰殿がお待ちかねだぞ」

 前の方でオルベールと話していたリフィアが、振り向いて催促してきた。

「ちょっと待ってくれ」

 イシュルはリフィアに返事すると、ミラににやりと笑って言った。

「俺も精霊を召喚する。きみらに手出しはさせない」

 ……地震を起こして大公軍を脅したが、また誰かはね返りが出るかもしれない。ミラだけじゃない。ルシアや、レニにも危害が及ぶかもしれない。聖王国の者は彼らにとってすべて敵なのだ。

 イシュルは左手を上げ、宙の一点を見つめると、堂々とした口調で言った。

「風の精霊よ。汝(な)が力を我に供せよ」

 我流で勝手に詠唱短縮した呪文だったが、まだいい終わらぬうちにその視線の先に風が吹き、渦となって微かな魔力光とともに人型の像が浮かんだ。

「これはこれは剣さま」

 また若い、女の声だった。明るい、活発そうな声だ。

 やや小柄で短めの金髪。裾の短いトーガ、素足にサンダル。少しヨーランセに似ている。

「わたしの名は、フェデリカエウジェーニア・スキャヴィオーネ」

 風の精霊は高所からイシュルを見下ろし、片目を瞑ってウインクするような顔をした。

「フェデリカでいいわ」

 腰に短剣を差し、若草のレリーフの小手を着けている。敏捷で、よく機転が利そうな精霊だった。

「ふむ。よろしく、フェデリカ」

 イシュルは至極満足そうな笑みを浮かべて言った。

「まぁ」

「凄い」

 ミラやレニらの感嘆する声。目を丸くするニナ。機嫌よく微笑むリフィア。そして取次ぎ役のオルベールは何度目か、顔を蒼白にして目をぎょろつかせた。

「では行こうか、宮宰殿」

 ……強そうなフェデリカの召還は、大公軍の陣地からもよく見えたろう。

 イシュルも機嫌の良い闊達な声で、オルベールに微笑んだ。


 

 一行は、オルベールと形ばかりの数名の槍兵とともに、大公軍の陣地に入り、奥へ進んで行った。

 ほぼ円形の陣地は、どの部隊も湿地を避け硬い地盤を選んで布陣し、歪んだ網目のように複雑な様相を呈していた。イシュルたちは覚束ない足取りで、右に左に近づいたり遠のいたり、迷路の中を行くように陣中を大公の許へ進んで行った。

 周りにたむろする騎士や兵隊たちは、ある者は呆然と、ある者は物見遊山のような惚けた顔で、あるいは敵意を隠さずイシュルたち一行を見つめた。

「アルサール大公国には、現大公を補佐する四名の宮宰がいます」

 途中、大公国の宮廷に不案内なイシュルに、ニナが概略を教えてくれた。

「宮宰、ってのはあまり聞かないね」

「ああ、イシュルさんはそうですよね」

 ニナは優しく微笑んでひとつ頷く。

 イシュルはアルサールとは最も離れた、ラディス王国北東の辺境、ベルシュ村出身である。大公国の宮廷など、詳しく知る由もなかった。

「宮宰というのは、家宰と大臣が一緒になったような役職で、大公の叔父である高齢のひとりを除いた三名で実質大公国を治めています。というのも──」

「イシュル、ニナ殿。そろそろ終わりにしようか。近いぞ」

 そこでリフィアが寄ってきて、小声で言った。

 周りを見ると確かに、騎士らの鎧や貴族らの服装、軍旗やテント、馬具などの品がより良いものに変わって見える。

 一行はやがて陣地の中央、地面がわずかに高く、厳重な柵に囲まれた一角に辿り着き、再びしばらく待たされた。

 ……フェデリカ。

 ……剣さま。問題なし。怪しい動きはないよ。

 心のうちで風の精霊に声をかけると、フェデリカから素早い反応が帰ってきた。

 途中で、彼女には状況を説明し、ミラたちをしっかり守るよう厳命してある。フェデリカは最初の印象どおり飲み込みが早く、やりとりがとても楽だった。

「ではこちらへ。大公殿下がお会いになられます」

 一度奥に消えたオルベールがそこそこの時間で戻って来て、声音を落としてイシュルたちを奥へ案内した。

 衛兵の立つ丸太の門をくぐり、幾つかのテントを通り過ぎると、たちまち周りの空気が、匂いが変わった。

 何かの香や、高価な家具や布、食物の、酒の匂いだ。とても軍営にいるような感じがしなかった。

 と、平服の十名ほどの貴族や官吏、女官たちに囲まれた、南面を開放した大きなテントの前に出た。先頭のオルベールがそこで、恭しく片膝をついた。

「イヴェダの剣御一行、お連れいたしました」

「……」

 リフィア、ミラ、皆が無言で腰を落とし、頭を下げた。

 イシュルは無礼を承知でテントの奥を見つめ、やや遅れてわずかに腰を下げた。 

 豪奢な敷物やテーブル、チェスト、鏡や燭台などの家具を背景に、長椅子に弛緩して横たわる髭面の男がいた。

 短い四肢に樽のような胴体。立派な髭の大きな顔に、黒目が印象的な双眸。

 ぎらぎらした、大ぶりな王冠。

 奇相の男が言った。

「よく参った。余がアルサール大公、ピピン二世である」

 

 

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