木洩れ日

 

木洩れ日



「イシュルさん、ありがとう……ございます」

 ニナはイシュルの胸で肩を震わせながら、そう何度も繰り返した。

「大丈夫、……いいんだ」

 イシュルはその度に、彼女の背中を優しくさすった。

「……」

 ひとしきり泣くと、ニナはゆっくりと顔を上げイシュルを見つめた。

 涙に濡れた眸が、明るく晴れた空を映している。

「イシュルさんは、水の魔法具も手に入れたんですね」

「ああ」

「本当に良かった」

 ニナは涙を拭うと、小さく笑みを浮かべた。可憐な、子どものような無垢な微笑みだった。

「ふふ」

 イシュルも釣られて小声で笑った。

 ……俺は、今度は選択を間違わなかった。ニナが助かったのなら、それで十分だ。水の魔法具は、おまけのようなものだ。

 ふと脳裡に、在りし日のメリリャの面影が浮かんだ。

「おお……」

 後方から近づいてくる複数のひとの気配が、やがて円形神殿の外側に実体となって姿を現した。

 リフィアの感動の声が聞こえ、振り返ると石柱の間にミラとレニの笑顔が覗いた。

 彼女らの、さらに後ろの石壁の向こうには、ルシアやロミールたちも近づいてくるのがわかった。

 ……だが。

 同時にイシュルは、胸のうちに痛みが走るのを感じ、顔を歪めた。

 遺跡に入る前に召喚した四体の精霊、風のセス、火のアローン、土のマレウ、そして強力な武具を持っていた金のユーグ。皆、フィオアによって隔てられた繋がりが回復せず、姿を消してしまったのがその時、はっきりとわかったからだ。

 それは彼らが、途中で隔離された空間、別の結界に飛ばされた後も水神の精霊たちと戦い続け、最後に力尽きたことを意味していた。

 ……リフィアたちに訊いてみよう。彼らがどうなったか、知っている筈だ。

 彼女らも同じ結界で、水の精霊たちと戦っていた筈だ。

「ニナ、行こう」

「はい」

 イシュルがニナに声をかけると、彼女もリフィアたちの方を見て、明るい声で返事をした。

「ふふ」

 イシュルは微笑むとニナを抱き上げ、小さな水堀を渡った。

「イシュル!」

「イシュルさまっ」 

 リフィア、ミラ、レニの叫ぶ声が重なる。

 石柱を越え、三人ともイシュルの前へ駆けてきた。

 イシュルは抱えていたニナを横に立たせると、満面の笑顔で言った。

「みんな、大丈夫だったみたいだな」

 見たところ、誰も大きな怪我はしていないようだ。

「ああ。おまえたちこそ怪我もなく、無事でよかった」

「どうやら、すべてうまくいったみたいだね」

「……イシュルさまっ!」

 リフィアもレニも喜びの声を上げた。そこへミラが眸を潤ませ、イシュルに向かって大きく一歩、踏み出す。

「おっと」

「だめっ」 

 すかさずリフィアとレニが、両側からミラの腕を取って押さえた。イシュルに抱きつこうとして、しっかり止められてしまった。

「まぁ」

 ミラは不満そうに唇を尖らせた。

「抜け駆けはいかんな」

 横からリフィアの低い声。

「ふふ」

 ニナが思わず、声に出して笑った。

「きみらもどこも怪我してないみたいで、本当に良かった。あの結界で、ずっと戦っていたんだろう?」

「ふむ」

 存分に戦えた、そんな満足そうな顔でリフィアが頷いた。

「それを言うならイシュルさまですわ。ニナさんを取り戻して、さらに──」

「水の魔法具も手に入れた、と」

 ミラの言をレニが引き継ぎ、あらためて水の魔法具のことを訊いてきた。

「ああ」

 イシュルは笑顔で皆の顔を見回し、胸に手を当てて言った。

「水の魔法具は今、俺の中にある」

「うむ、大団円だな。良かった、よかった」

 リフィアは満面の笑顔で言った。

「イシュルさーん」

「リフィアさま」

「ミラさまっ」

 そこへ神殿の外から、ロミールやルシアたちの叫ぶ声が聞こえてきた。

 セーリアとノクタの姿も見える。みな無事だ。ばたばたと騒がしい足音で駆け寄ってくる。

「おっ」

「えっ」

 そこへ突然、リフィアとミラの間を抜けてイシュルへ突っ込む影。

 いつだったか、ロミールが以前と同じ、イシュルの足に抱きついてきた。

「イシュルさ~ん」

 地面に座り込んで、イシュルの太腿に両腕を絡め泣き声を上げている。

「またか、ロミール」

「あはは」

「ロミールさん……」

 笑い声をあげるみんな。驚き、少し困惑した声のニナ。

「うわぁーん」

 ロミールの盛大な泣き声が、初秋の青空に響き渡った。



 夜の樹間を照らす焚き火の炎。

 揺らめく灯りの届かない闇の底には、深い森が延々と広がっている。

 怖気をふるう夜の森だが、今この時ばかりは、恐怖も焦燥も、困惑も疑念も、不吉なものは何も感じられない。

 ふたつ、灯された焚き火の片方はすでに消えている。

 消えた焚き火の周りには、マントに包まったロミールら従者たちの、ミラと分離したシャルカの寝顔が微かに見える。

 そしてもうひとつ、赤々と炎の立ち上がる焚き火には、イシュルとミラ、リフィアとレニ、そしてニナが肩を寄せ合い、小声で話し込んでいた。

「なるほど、そこで風神を召喚したのか。何ともはや……」

 イシュルの話は、水神フィオアとの最後の駆け引き、戦いの山場に差し掛かっていた。

 リフィアは、イシュルから風神イヴェダを召喚したことを聞くと、思わず言葉を失った。

「そこで限界がきて、気を失ったんだ。だからその後、フィオアとイヴェダの間で何があったか、まったくわからないんだが」

 そこでイシュルは、冗談とも皮肉ともとれる笑みを浮かべて言った

「遺跡も周りの森もそのままだったから、荒事にはならなかったと思うんだがな」

「……それは間違いございません。水神も風神も、落ち着いて談合したのでしょう」

 ミラはイシュルの皮肉も冗談も流して、真剣な口調で言った。

 神々が力づくで戦ったら、それこそ天地がひっくり返るような大事になるだろう。冗談ですませられることではない。

「イヴェダは、ただ単純にフィオアを止めただけじゃないと思うんだ」

 だが、そう言ったレニの顔は、イシュルと同じ少し皮肉の混じるものだった。

「ニナさんの水魔法に、気安く手を出すべきじゃないと、忠告したんじゃないかな」

「……ほう?」

 リフィアがレニに視線を向ける。

「イシュルがニナさんに教えた水魔法は、何て言ったらいいのかな……。基本からまったく違う、異なるものだと思うんだ。禁忌とか以前に、水神にとっても扱いに困るような代物で……うん、例えばヘレスが直接扱うような事柄なのかな、って感じかな」

「それほどか」

「イシュルの風魔法も独特だよね。考え方がとても変わっている」

「レニさんの言わんとしていること、何となくわかる気がしますわ。風神がイシュルさまを特別扱いするのは、風の魔法具を持っているからだけではないのでしょう? イヴェダ神はイシュルさまのふるう魔法がどれだけ素晴らしいものか、よくわかっているのですわ」

「イヴェダは、フィオア以上にイシュルの魔法のことを知っていたから手を出さなかったし、だからフィオアの暴走も止めた、ということか」

「それ以前に風神はただ、水神を邪魔したかっただけかもしれません」

 と、横からニナ。

「ふむ、なるほど。イヴェダ神はイシュルに特別、目をかけてるからな」

「うん、そうかもしれないね」

「如何にも。さすがはイシュルさまですわ」

 リフィア、レニ、ミラと、みなそろってニナの言に同意する。

 ニナからは、すでにフィオアに囚われていた時の話を聞いている。今回の件に関しては、ニナも一方の当事者である。彼女の発言は、それ相応の説得力があった。

 肝心の、フィオアに囚われていた時の状況だが、彼女はずっと水の中で、それこそ羊水に包まれて眠っているような状態が続き、細かいことはあまり覚えていないということだった。ただ、契約精霊のエルリーナが、ずっと傍に寄り添ってくれているのを感じたという。

 それからどれだけ時間が経ったか。エルリーナに声をかけられ目覚めてみると、あの水の神殿の祭壇の上に、横になっていた。

 誰か、女の声がしてそちらを向くと、目の前にフィオアが立っていた。

 ニナはなぜか驚きも怖れも感じず、知り合いと世間話をするようにフィオアと会話し、イシュルから教えを受けた水魔法のことも、何の不審も覚えずすべてを話した。

 そこから記憶が一旦途切れ、ふと気づくとまた自分は眠りにつき、おぼろげな夢のなかにいた。そのまま、より深い眠りのなかに落ちていこうとしていた時、急に辺りが光で満たされ、イシュルの声が聞こえてきた。

 その瞬間、ニナは意識を取り戻し目を醒ました。死の淵から生還し、いや甦ったのだった。

 ニナは目覚めるとすぐ、心が沸き立ち大きくうねるのを感じた。

 意識がなかった筈なのに、つい先ほどイシュルに口づけされたことをなぜか覚えていて、その感覚が自らの唇にまだ残っていた。

 ニナは羞恥とともに、喜びと安堵が胸のうちに広がるのを感じた。これらのことすべてが、イシュルが水の魔法具を手にし、自分をフィオアから解放してくれたことを、すべてがうまくいったことを意味していたからだった。

 眸を開くと目の前にイシュルの顔があった。背景には明るい青空が広がっていた。ニナはたまらず、視界が涙でいっぱいになるのを感じた。昂ぶる心の発露を抑えることができなかった。

 ミラもリフィアもレニも、そんなニナの献身を称賛し、生還に歓喜した。そして、ニナがフィオアと接しその神意に触れたことは、ロミールたち従者も含めた彼女の周りの者すべてが畏怖し、あるいは感嘆するような出来事だった。

「まぁ、ニナ殿も無事で、みな大した怪我もなくて、本当に良かったよ」

 リフィアは今日、水の神殿を後にしてから何度目か、同じ台詞を口にした。

 彼女たちが、フィオアによって引き離されてからどうなったか、その話もすでにイシュルは聞いていた。

 リフィア以下、ミラとレニ、それにイシュルの召喚したユーグら四精霊は、あのすべてが水で覆われた巨大な結界に取り残され、フィオアの召喚した水の精霊たちと激しい戦闘を繰り広げた。イシュルとの交渉を邪魔しないよう、フィオアによっていわば足止めされた格好になった。

 リフィアたちと水神の精霊らは、その後も互いに一対一で戦い、最初にレニが、次にレニの助けを借りてミラ、最後に三人でリフィアが戦っていた精霊を斃し、水の結界から戻ってくることができたが、イシュルの召喚した四精霊は、まだ水の精霊たちと戦い続け、戻ってくることはなかった。

 金のユーグ、風のセス、そして火のアローンと土のマレウが水の精霊たちとの戦いに敗れ、結界内で消滅したらしいことは、フィオアが去り、ニナが甦った直後に、心のうちに伝わってきてイシュルもわかってはいた。

 ……リフィアたちの話を聞くと、フィオアはどうも彼女らには、手加減したように感じられた。

 皆が戦った場所は水神の結界内であり、最初から水の精霊側に圧倒的な地の利があって、彼らが相手では、ユーグたち四精霊でも勝てなかったのだろう。だが、リフィアたちにはフィオアがやや力の劣る精霊を召喚したか、その精霊自ら手加減して戦ったのかもしれない。ユーグたちの力は、リフィアや変身後のミラよりも勝る筈だ。

 フィオアは月神の使嗾(しそう)に乗ったふりをしていただけで、こちらと完全に敵対するつもりはなかったということだ。彼女は自身の言うとおり、単純にニナの水魔法を、俺の知識を手に入れたかっただけなのだろう。

「ルシアはもちろん、セーリアたちも無事でしたし、フィアオさまはちゃんと手心を加えてくださったのですわ」

「でも、食糧やテントとか、大きな荷物は流されちゃったけどね」

 セーリアはミラ付きの侍女だ。セーリアやロミールたちは、ルシアよりも力は劣る。彼女らはイシュルやリフィアたちよりも、フィオアの張った結界の外側にはじかれ、水の精霊たちと戦うことはなかった。

 結界の外側とは言え、周囲は内側と同じすべてが水で覆われた何もない空間で、遠くから聞こえてくるリフィアたちの戦う轟音を、ただ茫然と聞いているしかなかった。それもしばらくすると突然結界が壊れ、どこからともなくやって来た大波に飲み込まれて、みな押し流されてしまった。

 気づくと神殿跡の外縁部の、半ば土に埋もれた石畳の上に倒れていた。ルシア、ロミール、そしてセーリアとノクタと、みな怪我もなく無事だったが、大きな荷物はどこに流されたか、

周辺を探したが見つからなかった。

 不思議なことに、結界で大波に飲まれたにもかかわらず、ルシアたちはみな誰も濡れておらず、周囲の遺跡や草木も水に浸かった形跡は見られなかった。

 イシュルたちはその後、すぐに遺跡を離れ森に入り、互いに起こったことを話しながら来た道を引き返した。

 往路では多くの魔物を呼び寄せた古道は、帰りは魔物はもちろん何も現れず、何も起こらず静かなもので、一行はのんびりと散策でもするように森の中を進んだ。途中、山鳥を獲ってその日の夕食を確保し、日没前に早めに野営の準備にかかった。

 水はニナが用意し、火はイシュルが起こし、ロミールが山鳥をおろしてみな一緒に夕食をとった。

「まぁ、いいじゃないか。食料は手に入るし、火も水も大丈夫。まだそれ程寒くないし、雨が降らなければ大したことないさ」

 イシュルはレニにそう言って笑みを浮かべた。

 森の野鳥を獲るなど、風魔法の使い手なら簡単だ。それはレニならよくわかる筈だった。

「……で、どうなんだ? イシュルはもう、水魔法を使えるようになったのか?」

 リフィアが知った顔で訊いてくる。

 フィオアから水の魔法具を授かり、もう半日くらい経っている。そろそろからだに馴染み、その力を発揮できるようになっていてもおかしくない。

 リフィアも同じように魔法具を宿す身であり、その具合がわかるのだろう。神殿跡でニナを生き返らせた時は、水の主神殿の祭壇でフィオアの泉があったから、特別に神の御業が使えたらしく、神殿の外に出ると結局、水魔法を使うことができなくなってしまった。

「これからどうするか、まずは水の魔法具がイシュルさまと完全に同化してからですわ。そうなれば何事か、また不思議なことが起こるかもしれませんし、もう少し様子を見ましょう」

 水の魔法具が完全に定着すれば、正式に五つの魔法具が揃い、その力を手にすることになる。

 ミラはそこで、主神の啓示があるのではないかと考えていた。

「とりあえず、一旦聖王国に帰るんだよね……」

 と、少し遠慮がちにレニが言った。

「当然だ。レニ殿は聖都へ帰ってサロモンさまに報告しないといけないし、わたしたちもソレールに戻って大公に挨拶していかねばなるまい」

 横からリフィアが割って入った。

 レニは国王サロモンに拝謁し、黒尖晶の裏切り者を始末したことを報告しなければならない。恩賞を得て故郷の窮状を救う、重要な使命を果たさなければならない。

 そしてイシュルたちは、ディレーブ川渡河に力を貸してくれたルフレイドに会って、御礼の挨拶をしなければならなかった。相手が相手なだけに、不義理は許されなかった。

「とりあえず今は、他に行かなければならないところはないからな」

 とリフィアはイシュルを見て、かるく揶揄するような笑みを浮かべた。

 遺跡を出て森に入りしばらく、自分に起きたことなど互いに話し、報告がおわると今度は誰からともなく「これからどうするか、どこに行くのか」という話題になった。そこで何と、イシュルをはじめ誰もまともに答えることができず、一同思わず当惑し互いに顔を見回す、どうにも気まずい、具合の悪いことになってしまった。

 五つの魔法具を揃えたらその後何が起こるのか、何をすべきか、どんな場面で神々に願いを叶えてもらうのか、誰も具体的に知らなかったのだ。

 イシュルどころか、聖堂教をよく知るミラも、精霊のシャルカさえも知らなかった。有史以来、五つの魔法具を所持した者はおらず、教会の文献や伝承にも、そのことを詳説したものは残っていなかった。

 そこでまずはミラが主張した、「水の魔法具がイシュルのからだに十分に馴染んでのち、然るべき時を選んで神々が当人の前に降臨する」という見立てにそって、しばらくはそのまま成り行きにまかすしかない、ということになった。

 これはイシュルも同意見で、今は主神ヘレスや月神レーリアの出方を待つしか、ほかに方法がなかった。

「このままだと、俺たちもレニと一緒に、聖都へ行くことになりそうだが……」

 イシュルは焚き火をぼんやりと見つめながら、呟くような小声で言った。

 ……神々の古い伝承を調べるなら、まず最初に大聖堂がある聖都エストフォルへ向かうべきだ。聖堂教会の総本山には何か、手掛かりとなるものが見つかるかもしれない。

 その次は、故国ラディス王国の都(みやこ)、ラディスラウスの王城にある王家書庫だ。

 編纂室長の古老、ピアーシュ・イズリークに再び助力を願えば、何かわかるかもしれない。

「どうだ? イシュル。水の魔法具が馴染んできた感じはあるか」

 リフィアが真面目な顔になって訊いてきた。

「いや、まだだな」

 ……他の魔法具と比べて、少し遅い気がするが、自分の意志でどうにかできるものではない。

 イシュルは小さくかぶりをふって答えた。



 雨後の大地。

 その地中を流れる大小の、無数の水流を感じた。

 微細な、肉眼では見えない水の流れもたくさんあった。

 ……これは夢だ。

 どこか、自我の外縁に佇むもうひとりの自分が呟く。

 ああ、そうだ。この水に濡れた大地は俺のからだ、肉体なのだ。

 眼下に横たわる、広大な大地を見下ろし、思う。

 水の流れ。

 時はきた──。

「……」

 その日の夜更け。イシュルはふと何かを感じ、目を醒ました。

 ……最初の、風の魔法具の時と同じだ。

 夜の大地と、自身の体内の水の動きが同調し、ひとつになった。

 夜空の星々よりも多くの、無数の大小の水の流れ。

 それは何も不快に思うところがない。怖れを抱くこともない。

 ──そんな夢を見た。

 五感の先に、新しい知覚が芽生えている。水の魔法具が俺のからだと一体化したのだ。

 夜闇に、焚き火の明かりが枝葉をまばらに浮き上がらせている。

 ゆっくり上体を起こすと、焚き火の方を見る。

「!!」

 燃えるような眸と、目が合った。

 揺らめく炎の向こうに、リフィアが座っていた。膝を抱え、こちらを見ていた。

「どうした、イシュル」

 リフィアの押し殺した声。その眸に炎が映って、燃えていた。

「見張りはまだ、おまえの番じゃないぞ」

 挑むように、真っ直ぐ見つめてくる。

「用足しか?」

 彼女はおもむろに小枝を掴み、ふたつに折って火に入れた。

 ばしっと、小気味良い音が聞こえた。

「いや……」

 他に起きている者はいない。皆深い眠りについている。寝息が、皆のからだの“水の流れ”が、そう示している。

 リフィアの圧力に、言葉が続かない。

「イシュル、水の魔法具が手に入ったんだろう?」

 燃える眸がすぼめられる。

「これから、確かめに行こうとしてたんだろう? ちょっと離れたところに行って、水の魔法を試そうとしたんだ」

「……ああ」

 かろうじて、声が出た。

 リフィアは全てお見通し、だった。

「ひとりで行くなんて」

 そこで彼女の目つきが変わった。

 熱さはそのまま、だが甘く切ない眸の色に変わった。

「そんなこと、やめてくれないか。わたしも一緒に、連れて行って欲しい」

 いつもの硬い、不調法な口調。

 だが、炎に照らされたリフィアの顔は、狂おしいほどに美しかった。



 翌日。

 夜が明けると一行は早々に野営を引き払い、森の中を出発した。

 しばらく林間を進み、往路で通った小街道を目指す。ロネーとピレル結ぶ、森をやや斜めに縦断する唯一の道だ。

 復路は当然だがあの怪しい霧も出ず、よく晴れて初秋の森を行くのは快適だった。

「おっ、山鳥発見」

 イシュルは、南西方向に少し離れた木々に留まっていた、雉によく似た鳥を発見すると至近で風魔法を撃った。

「まぁ」

「今晩もご馳走だな」

「盾殿、わたしが取って来ようか」

 感嘆の声を上げるミラたちに、シャルカが獲物の回収を買って出た。

 確かに地面に落ち、下草に隠れた獲物を見つけるなど、撃ち落した本人以外、精霊くらいしか探し出せないだろう。

「いや、いいよ。俺が行く」

 イシュルはそう言うとひとり列を飛び出し、落とした山鳥の方へ小走りに向かった。

 昨晩はリフィアに捕まり、水の魔法具を確かめるのをやめたが、獲物を回収しに行くついでに、もっと重要なことを試してみたくなった。

 水の魔法具に関してはすでに朝、みんなの前で水魔法を使って、冷たく清んだ水を集め生み出して見せている。

 リフィアも一応それで納得したか、イシュルがひとりで飛び出しても何も言ってこなかった。昨夜は珍しく感情を露わにしたが、イシュルに皆を置いて先に行ってしまうことを何度目か、しっかりと戒めることができたと彼女は考えているようだった。

 ……ここら辺か。

 イシュルは草木を巧みに避けて獲物の落ちた傍まで来ると、立ち止まって周りを見回した。

 木々が幾重にも折り重なった、薄暗く少し冷んやりしたいつもの森だ。どこか遠くで、小鳥が鳴いている。

「では、はじめよう」

 水の魔法具を得た今、何よりもまず、試したいことがあった。それは新しい、もうひとつの自分の“世界”を創ることだった。

 完全な、創世結界を生み出すのだ。

 ……そうすれば、自ずと次に何をすべきか、道が定まるだろう……。

 イシュルはまだ誰にも話していなかったが、昨晩あたりからそう考えていた。

 はじめて、水の知覚を得た時からだ。

 イシュルは両足を僅かに開き、自然体で深呼吸をすると両目を閉じて、ゆっくりと意識を異界の果てまで、広げていった。

 最後の一片が揃って、世界がひとつになったのだ。

 樹木の匂いが、森の空気がふと、遠くへ退き消失する。

 小鳥の鳴き声も消えた。静かな、無音の別世界が展開する。 

 薄眼を開けると、樹々の緑の壁も無彩色の闇の底に消え、あとは暗闇に枝葉の輪郭が、残像のように微かに見えるだけだ。

 闇の狭間を、淡い虹色の光彩が煌めきはじめる。

 地に足をつけ、意識を自分に向ける。新しい世界の結界が生まれようとしている。油断すると、自分自身もこの結界から抜け出せなくなる。

「……ん?」

 そこへ異物が侵入した。

 背後に、光だ。

 振り返ると、樹間をいくつもの陽光が駆け巡った。

 視界を明るい光が、そして木洩れ日の中に白い薄布が舞った。

 白い法衣、ローブだ。

 妙齢の、金髪の、卵型の美しい顔立ち。品のある、優しい笑顔だ。

 樹木の間を、照明のように陽光が降り注ぐ。

 その中心に立つ女。手を伸ばせば届きそうな距離だ。

 創世結界は破られた。

 イシュルはその懐かしい、不思議な女を凝視した。

 その者の名が、音になって紡がれた。

「ヘレス……」

 

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