フィオアの泉 3



 ニナの眠る顔が美しい。

 白面の整った顔貌に、思わず息を飲む。

 華奢な鼻梁、柔らかい唇。

 ……気づかなかった。

 彼女はいつの間にか、こんなにも美しく成長していたのだ。

 戸惑う胸の奥に、気づけなかった呵責さえ覚えるほどに。

 なんの装飾もない、純白のドレスは流れるような曲線を描き、胸元が微かに上下している。

 そして、祭壇を挟み正面に立つ、もうひとりの女。至上の存在、水の女神だ。今、彼女と対峙している。

 切り札の“世界創生”は、これ以上は使いづらい状況だ。これ以上、剥きだしの自分を見せるわけにはいかない。

 彼女を斃し、その胸に拳を突き入れ水の魔法具を奪う。……それはもう、無理かもしれない。

 だが、かまうものか。

 もっと大切なことが、やらなきゃきけないことが、目の前にあるじゃないか。

 決意をもって、一歩踏み出す。

 ニナをこの手に、救い出すのだ。

「お願い、があると言ったな」

 イシュルは蒼白の顔に、だが異様な気迫を見せて言った。

 あくまで強気な、押し殺した声だった。

「……」

 フィオアはそんなイシュルを見て、満足そうな笑みを浮かべた。

「そうよ」

 ついで両手をかるく広げ、視線をニナに落とした。

「でも、あなたにお願いする前に、訊きたいことがあるの」

「なんだ」

 ……短く、答える。

 目の前に柔和な微笑を浮かべた女神がいる。だが、それはただの上辺だけ。一瞬の油断もならない。そこにはただ恐怖と、疑念しかない。

 彼ら神々は、残念なことに人間とよく似ている。ただひたすら仰ぐだけの、偉大な神格だけの存在ではないのだ。この女神も、人間のように狡猾だ。

「わたしの知る限りでは」

 フィオアは微笑みをひそめ、やや真剣な顔になって言った。

「今まで人間どもは、この少女のような水魔法を使ったことはなかったわ」

「……」

 なるほど、その話か。

 イシュルはわずかに口角を引き上げ、だが無言を通した。

「彼らに伝わる水魔法は、せいぜい出血を抑える程度のもの。この娘のように、人体を循環する血液に、内側から干渉する魔法は存在しなかったの」

「……」

 イシュルは薄く笑みを浮かべるだけで、無言を貫く。

 ……どうしても、知りたいわけだ。それも俺の口から直接に、だ。

 フィオアはニナから聞き出したか、心を読んだか、エルリーナからも情報を得ているだろう。

 だがそれでも、俺から話を聞きたいわけだ。

 しかし、彼女の言葉遣いが気になる。「人体」や「循環」などの単語は大陸の知識層でもあまり使われない、新しい響きのする言葉だ。

 つまり前の世界の、現代的な言葉だ。俺と言語感覚が近い、とも言えるだろうか。

 相手は得体の知れない存在だ。まさかわざと、俺に合わせているのだろうか? 例えば俺の心を読んで……。

「あなたはこの娘に、“水は万物の源”と教えたそうね?」

 詰問調だが厳しさはない。真剣味を増した眸はだが、まだ穏やかな色を残している。

「ふん。この娘、ニナから聞いたのか? それともエルリーナか?」

 イシュルもニナに視線を落とし、質問で返した。

 ……いや、主神を除き神々は決して万能ではない。聖堂教会の聖典、さまざまな伝承を見聞きすれば誰でもわかることだ。人間の心中のすべてを見通せるわけではない。ましてや前世の、別の世界の意識を併せ持つ俺の心など、絶対に無理だ。

 わからないから、へレスもレーリアも、イヴェダも俺に関心を寄せるのだ。

「それは、どちらでも同じことだわ」

 水の女神は微かに表情を和らげ、さりげなく流した。

「水は万物の源、に似た表現は聖堂教の教典にもある。大陸の人々には受け入れやすい概念だ」

 ごまかさない。あえて自分の言葉で話す。

 受け入れやすい、というのは事実だ。ニナにはじめて話した時も、彼女は感心し、素直に受け入れた。

「……ふふ。そうね」

 フィオアは首をわずかに窄め、口端を歪めた。

「でもその“概念”のことを、人間どもがどこまで広く深く、理解しているかは怪しいものだわ」

 とぼけた会話が続く。互いに、探り合いだ。

「この少女はあなたに教えられて、今まで人間どもがほとんど触れることのなかった水魔法を使いはじめた」

「禁忌、というやつか」

 “禁忌”という言葉を出してきたのは確か、エルリーナとニナの師匠のパオラ・ピエルカだ。

「わたしは、禁忌にした憶えはないわ」

 フィオアはその形のよい指先で口許をなぞった。

「生物はみな、自らの知らない、外のものにはまず警戒するものでしょう? 人間も例外ではないわ。今まで誰も使ったことのない魔法だったから、思わず禁忌では、と訝(いぶか)ったのでしょう」

「……」

 それは、そうかもしれない。

 イシュルは薄笑いを浮かべたまま、無言を通した。

「この少女は、あなたの教えを受けてから突然、草木の水の流れを探りはじめたそうよ。魔物でも人間でもない、植物から調べ始めるなんて、なかなか下界の人間どもにできることではないわ」

 フィオアはひと呼吸おいて、ダメ押ししてきた。いや、結論づけた。

「植物内部の水の移動は、つくりが単純な分、動物よりはわかりやすいわ。植物から修行をはじめるのは、理にかなっている。あなたが草木から鍛錬をはじめるよう、指導したのね」

 フィオアは視線を外さない。じっと、見つめてくる。

「水は万物の源──、そんなこと誰から教わったの? それともあなたが、自分自身で考え出したことなのかしら」

 まるで人間のように、嗜虐的な笑みがその顔貌に浮かび上がる。

「あなたが披露したあの新しい結界魔法、とても面白かったわ。四つの魔法具をあんなふうに使うなんて、びっくりしたわ。ただの人間にできることじゃない。そう、まるで」

 一瞬、悪魔のように、異様に口角が引き上げられる。

「へレスのよう」

「……」

 言葉が出ない。気づくと全身が緊張に硬直している。

 何もない、からっぽの筈なのに、胸がいっぱいだ。

 ……フィオアは、俺のつくった創世結界を、まるで主神へレスの御業のようだ、と言っているのだ。

 世界を成す五元素の魔法具を揃えるとはつまり、そういうことなのだろう。

 だが、誰だって五つの神の魔法具を手にすれば、新しい世界を創造する力を得たことに気づく筈だ。

 俺だけが特別、というわけではない。

 それでも、まだ未完成でありながらフィオアにも対抗できると考えたのは、俺の世界に対する概念が、宇宙や神々、神羅万象に対する観念が、この世界と異なり、さらに広範で豊かなものだと確信していたからだ。

 この世界のあらゆる知見より、前の世界の先人たちの積み重ねてきたものの方が大きく重い、偉大だと考えたからだ。

 たとえ自分の、前の世界の知識が不完全であろうとも、それでも、この世界の神々が知りえない、触れることができないものであるのに変わりはない。

 ……それなのに。

 フィオアの水の御業は、俺の創造世界に侵入してきた。

 本能的な恐怖に駆られあの時は拒絶したが、その後に彼女が言ったことは、やはり自分の、その考えが正しかったと裏づけるものだった。

「おまえは俺と力試しをした時、“あなたが見た遠くの景色、あれは何?”と、訊いてきたな?」

「ふふ、……はははっ」

 フィオアは最初は小さく、すぐに我慢できず大きな声を出して笑った。

「そうね、それでもいいわ。あなたが見た景色は何? 何が見えたのか、教えて頂戴」

「ふっ」

 ……やはりか。

 それでもいいわ、か。

 イシュルは両手を握りしめ、下腹に力を入れて震えを抑え込み、小さく吐息をついた。

 フィオアは、 “万物は水の源”と俺だけが持つ“異世界の概念”を、同一視しているわけだ。

 この世界ではまだ知られていない、宇宙のこと、万物のこと。

 やはり、神々は俺の心を覗いても、調べてもそれに触れることが、見ることができないのだ。

 この世界で俺だけが持つ秘密。前の人生、あの世界では取るに足らない知識、当たり前の感覚、観念、概念……。

 今まで俺は、この話を神々とするのは五つの魔法具を揃えてから、どういう形になるか知らないが、主神のへレスや月神のレーリアと相対する時だと考えていた。

 なぜなら俺が風の魔法具を得て、家族と故郷を失い、ブリガールに復讐を果たして以降、事あるごとにレーリアが、あるいはヘレスが姿を見せ、干渉してきたからだ。

 彼らが俺に関与してきたのは、俺が転生者だからだ。別の世界の知識を、別の世界の意識を持って転生したからだ。彼らにはそれが何か、よくわからない。触れることも見ることもできない。彼らはそれが知りたい。手にしたい、自分のものにしたいのだろう……。

 五つの魔法具を得て彼らと対峙したときが、それを確かめる時だ。彼らが俺の人生に、俺の周りの人たちに干渉してきた意図を知り、その内容如何によっては彼らに物申し、抗うことになる、と考えていたのだ。

 五つの魔法具によって、俺だけが創れる世界を成す。俺だけの創世結界に彼らを取り込む。それが神々と戦うことになった時の、俺の切り札だった。

 だがその前に、この胸中の核心に触れなければならなくなったようだ。

 フィオアも彼女の見ることができない、触れることのできないものを、知りたいと願っていた。

 彼女の願いを拒否することはできない。力比べで退いた以上、ほかに選択肢はない。

 ここで拒否すれば、水の魔法具を得ることはできない。そして──。

「……」

 イシュルの逡巡を見てとったか、フィオアは笑みを浮かべたまま、祭壇に横たわるニナに向かって両手を広げた。

 ──そうだ。ニナも帰ってこない。

「おまえの言った“お願い”、とはそのことか」

 “水は万物の源”という概念の延長線上にあるもの、その先にあるもの。あの、文明の進んだ世界の、宇宙の概念。

 それは家族を残し頓死してしまった、悲哀と苦渋の記憶に覆われている。終わることのない理知と感情のうねりだ。いつも心の中で呻き、叫び、呪文のように唱えてきた。決定的なことだ。

 ……目の前の少女を救うために、水の魔法具を得るために。この先も、前に進むために。

 今、言うしかない。

 小さな失意を、新たな決意に塗り替え、力を込めて言った。

「おまえたちでさえ見ることのできない、触れることのできないものを知りたいか?」

 低く押し殺した声。

 だが、その声は神殿の遺跡いっぱいに、雷鳴のごとく轟いた。

 フィオアが蒼白な顔になって凍りついた。

 水の音が消え、青い空が、緑の木々が、灰色の遺跡が、すべてが凍りついた。

 時間も空間も、世界が一瞬、固まった。 

「それは……」

 水神は人間の女のように狼狽して、掠れた声で言った。

「違うわ」

 ……何だと!?

 イシュルは唖然として、フィオアを無言で睨(ね)めつけた。

 心中を湧き上がる不審、疑念。恐怖や怒り、複雑な思い。

 深いところで暗く重い何かが渦を巻き、鎌首をもたげてくる。

「……」

 フィオアは俯くとイシュルから視線を逸らし、ついで遠い空を見やった。

「あなたと戦った時、あなたが見ていた景色──確かに、わたしは見ることができなかったけれど、あれがあなたの言うようなものなら」

 フィオアは遠くを見たまま、小さく、明らかに自嘲の笑みを浮かべた。

「それはわたしの欲しいものではないわ」

 そこまで言って右の拳を握りしめた。

「わたしが触れていいものではないの」

「!!」

 ……何? どういうことだ?

 重い衝撃。いっぱいに膨れ上がる疑念。イシュルは茫然とフィオアの顔を見やった。

 全身の力が抜け、ついでひりつくような緊張が襲ってきた。

「何を言っている……」

 震える声で呻くように呟く。

 どういうことなのか。言ってる意味がわからない。

「わたしは、あなただけが見た、あなただけが知っているあの水魔法の秘法を、知りたかったの」

 フィオアは硬さを残したまま、さらに自嘲の笑みを大きくした。

「あなたがこの少女に教えたあの魔法を、直接この目で見て、手にしたかったの」

「はっ? ……どういうことだ?」

 イシュルは両目を見開き、首をひねって疑問の声を上げた。

 まさか、ニナのあの魔法をフィオアは使えない、とでもいうのか?

「おまえは水の神であろう。ならばニナの水魔法を知らぬ筈がない」

 フェニテオシスは、俺の身体の血流に直接、魔力を当ててきた。フィオアも当然、同じことができるだろう。いや、ニナの使う魔法は違う、もっと──。

「当然、知っていたわ。わたしは水魔法ならば何だって使える。何でも知っている。でも、この少女の使った魔法は少し違うところがあったの」

 フィオアは自嘲をやめない。

 一瞬ニナに視線を落とすと、再びイシュルを見つめてきた。

「この娘は人間の知らない、生き物の内部の水の働きを知っていたわ。いえ、魔力を使って、どう調べればわかるようになるかを、なぜか知っていた」

 フィオアはそこで言葉を切り、小さく喉を鳴らした。

 神が、緊張しているのか。

「さっき、植物と水の話をしたでしょう? 草木は地中から水を吸い上げ、葉先にまで行き渡らせる。それが植物の中の水の流れ。でも、水はただ、植物の中を流れているわけではないわ。水は例えば、へレスの恵みを得て植物の成長を助ける働きをする」

 フィオアはニナに向かって、ゆっくりと両手を広げた。

 フェニテオシスの結界でニナが消えた時、彼女はフィオアが直接説明するよう望んでいる、と言っていた。水神は今、ニナから聴取した内容を元に話しているのだろう。

 フィオアはその格好のまま、話を続けた。

「この若い魔法使いは、信じられないことにその神秘に気づいたみたいなの。知ることができたのよ? それは人間どもにできることじゃない。あなたが、この娘に教えたのでしょう?」

 薄く笑う唇が、細かく震える。

「……あなたは」

 フィオアの眸が細められた。

 その面(おもて)に哀しみと喜び、あきらめ、そして憧憬のような、複雑な表情が現れた。

「わたしたちでさえ知らなかった、生物に宿る水の微細な、隠れた働きを知っていた」

「なっ」

 不条理な、不可解なものが降って、襲ってきた。……ような気がした。

 神さまだぞ?

 まさか、水を司る神が知らなかった、というのか?

 今度はイシュルが大きく、ごくりと喉を鳴らした。乾いて、ひきつった音がした。

 ……いや、そうじゃない。

 フィオアは水分が人間をはじめ、生物の体内でどんな働きをしているか、科学的な視点で認識することができなかった、ということではないか。

 俺と、この世界の神々、人間では世界に関する知識、認識が違うから、同じものも違って見える、同じものを見ても、感じ取るものが違う、ということだろう。

 創造神であるヘレスは、例えば光合成や新陳代謝などの生命現象を当然、知っているだろうが、前の世界の現代人と同じ認識を持っているとは限らない。科学的な視点など、有していないだろう。

「イヴェダが、あなたに夢中になるのもよくわかるわ」

 フィオアが自らを憐れむように、目を伏せた。そしてまた顔を上げ、遠くの空を見つめた。

「この少女の使う魔法を見て、わたしは胸が高鳴った。そこにはわたしの知らないものがあった」

 水の女神はそこでイシュルに視線を戻し、何度目か、微笑を浮かべた。

 それは皮肉でも自嘲でもない、狂信者の笑みだった。

「わたしは水の女神。あなただけが見る水の姿を、どうしても知りたかった。その力を、その知識をどうしても我がものにしたかった」

 フィオアは眸を熱く燃え立たせ、イシュルに両手を差し出した。

「もう一度言うわ。だからこの娘の水魔法を直接この目で見て、手にしたかったの」

「……」

 イシュルは無言。じっと押し黙ってフィオアを冷たく睨みつけた。

 ……フィオアはニナが欲しかった。だからレニと交換するごとく、エルリーナを使ってニナを攫ったのだ。

 水の女神のねらいは、俺の前世の記憶、水に関するこの世界にない知見だ。新しい概念、思考が新しい力を生み出す。彼女には五元素すべてを、世界のすべてを知る必要はなかった。ヘレスに、そのようには創られていないからだ。

 だが……。

 疑問は残る。まだまだ、無数にある。

 イヴェダは俺が風の神官の末裔だからか、自ら手にする、自分のものにする、などとは言ってこなかった。彼女は俺を“風の子”と呼んだ。風の精霊のヨーランシェは、「風神はどんなことがあってもきみの味方だ」と言い切った。

 地神ウーメオは、赤帝龍と戦う直前に姿を見せたがそのようなことには触れず、金神ヴィロドと火神バルヘルに至っては影も形も、姿を現していない。

 この違いはいったい何なのか。

 やはり、俺がニナに新しい水魔法のヒントを教えたことがまずかった、ということか。

 それに、だ……。

「ニナにあの水魔法を教えたのはだいぶ前のことだ。なぜ、今なんだ?」

「……」

 フィオアは今度は迷わず、即座に反応した。

 無言で微笑んだまま何も答えず、回答を明確に拒否した。

 それは同じ微笑でも思わせぶりな、何か含みのあるものだった。

「わたしはずっと、ここで待っていたのよ」

 長い間をおいて、フィオアは少しとぼけた口調で言った。

「あなたはあの生意気な火龍や、ヴィロドの侵略者と戦うので忙しかった」

 生意気な火龍とは赤帝龍、ヴィロドの侵略者とは、金の魔法具を持っていたオルーラ大公国の国主、ユーリ・オルーラのことだ。

「……そう、バルタルとともにあなたは、×××××の成れの果てとも戦ったわね」

 その顔に、微かに影が差す。

 聴き取れない音。失われた神の名前。その成れの果てとはフィオアの妹だった神の欠片、マレフィオアのことだ。

「そしてやっとわたしの番が来た」

 暗さを残したまま、微笑んでいる。

「番が来た?」

 ……そうか、そういうことか。

 イシュルはわざとらしく肩をすくめ、右の手のひらを上向けた。

「その順番とやらは誰が決めているんだ?」

 フィオアを睨みつけ、低い声で言った。

「レーリアか? 月神だろう」

「ふふ」

 水神が小さな声で笑う。 

「わたしの口からは何も言えないわ。……でも、そうね」

 最後は顔を俯かせ、独り言のように言った。

「ヘレスもレーリアも、決してこの世のすべてを、すべての人間の運命を操っているわけではないわ」

 そして顔を上げ何度目か、思わせぶりな笑みを浮かべて言った。

「あなたのことも」

 水の女神はどうしてか、常にその面上に微笑みを貼り付けている。

「俺のことも、か」

 ……そう、まるであの、石の彫像そのままだ。まさしく、石像が血肉を得て動いているのだ。 

「そんなことはわかっている」

 レーリアがまさか、俺の身に起こったすべてのことに関わっていたわけではあるまい。ヘレスもだ。彼らは俺の転生には関与していない。それは風の魔法具を得て、イヴェダに導かれ“風の剣”をはじめて振るった時、神々の視座に立った時、見通すことができた。

 彼らは俺の知らないところで、俺自身を、俺の周りで起こるすべての事象を操作していたわけでない。風の魔法具を手にしたことも、家族を、故郷を失ったことも、彼らは直接関わっていないだろう。

 だが、それがどうしたというのだ。

 節目節目の大事なところで、ヘレスもレーリアもわざとらしく、露骨に俺の前に姿を現し、その力の片鱗を見せてきた。レーリアは明らかに俺を挑発し、誘導し、そのくせ邪魔してきた。

 彼らは何かする時はそうやって、かならず俺の前に姿を見せた。ヘレスとレーリアは直接手を下さなくとも、俺が風の魔法具を手にし、故郷を失い、例えば赤帝龍と闘うことも、おそらくすべてを知っていたのだ。

 そのうえで俺に関わり、干渉し続けてきた……。

「俺が知りたいのは、そんなことじゃない」

 なぜ俺につきまとい、そんなことをしてきたのか。彼らの行いが正当なものか、何としても突きとめなければならない。

 これまで、俺の周りで多くの人々が死に、傷つき、自らも多くの人々を殺めてきた。

 今さら己の罪から逃れようと、罰から免れようとは思わない。だが彼らが間違っているのなら、彼らを裁くことを躊躇ったりしない。俺の半分は、この世界の理(ことわり)の外にあるのだ。

「そうでしょうね」

 フィオアは表情を変えず、小さく頷いた。

「あなたが、他に知りたいことがあるのなら、わたしから水の魔法具を手に入れ、ヘレスやレーリアに直接会って話せばいいわ」

 そう言うと女神は姿勢を正し、真っすぐイシュルを見た。

 女神の眸に、微かに挑発の色が見えた。

 ……これで決定だ。間違いない。目の前のニナと、水の魔法具。つまりはそういうことなのだ。

 フィオアの目的ははっきりしている。彼女は水の神だ。

 水神にとって、主神や月神の関心事は二の次、どうでもいいことなのだ。

 ……彼女の挑発に乗ろう。これからが本題だ。

「言ってみろ」

 イシュルは顎を引いて視線鋭く、低い声で言った。

「どうすれば、俺に水の魔法具をくれるんだ?」

 フィオアの形のよい唇が歪む。

 不意に、彼女の背後の彫像から流れ落ちる、湧き水の音が高く響いた。消えていた水のせせらぎの音が、再び聞こえ出した。

 一瞬、空を見上げると、形のよい雲がゆっくりと、北へ流れていた。

 高いところを、風が吹くのを感じる。

 この会話劇も、いよいよ佳境に入るのか。

「ニナをわたしに寄越しなさい。かわりに、水の魔法具をあなたにあげるわ」

 フィオアは傲慢と狡猾を隠さず、胸を張って堂々と、そう言った。

「……」

 イシュルはむっつりと黙りこんで、フィオアを冷たく見つめた。

 彼女の願い、とやらは今となっては明白だ。

 ニナが欲しいと、ニナの水魔法が欲しいと、彼女自身が言った。俺が教えた新しい水魔法に未知の概念があると、それを知らかったと、彼女自ら告白した。

 だが、おかしい。なぜ……。

「おまえは水の神なのだ。水の魔法使いのひとりくらい、どうにでもできるだろう。なぜ、わざわざ俺の了解を得る必要がある」

 俯き加減のイシュルの口角も歪んで、引き上げられていく。

 ……つまり、そこに鍵がある。

「水の魔法具と交換だと? ニナが欲しいなら、勝手に我がものにすればいいじゃないか」

 まずひとつは、主神か月神の意向で、勝手に俺に接触することができなかった、“順番”らしきものが決められていたことだ。

 だからフィオアは、俺とこの神殿跡で接触するまで、ニナをそのままに留め置いたのではないか。

 さらにもうひとつ、ふたつ目は──。

「この少女の水魔法は、そう簡単に自分のものにはできないわ。前に話したとおり、わたしには直接触れられないものなの」

 ……まぁ、そういうことなんだろうな。確かにはっきりと認識できない、手に持てないものを自分のものにはできないだろう。

「ふふ、それで? どうするんだ? 俺の許可が必要なわけか?」

 この世界で俺だけが持つ前世の知識、記憶を手に入れれば、ニナの水魔法をフィオアも認識できるようになるだろうが、彼女はニナの魔法と同様、俺が前世から引き継いだ部分も触れることはできないだろう。だから俺からそれを奪っても意味はない。

 見えない、触れないものだが、それが存在するのはわかる。それはとても大切なものらしく、無視できない。壊すことはできるが、自分のものにすることはできない──それがニナの水魔法の核心であり、俺自身の前世から引き継ぐ記憶なのだ。

 まさか俺が許可すれば、ニナの水魔法に触れることができるようになる、そんなことはあるまい。

「ええ。あなたの言うとおりだわ。あなたが許可しようが、この娘が譲渡しようが、わたしはその魔法を手にすることはできない」

 イシュルの露骨な揶揄を、フィオアはさらりと流しごく真面目に答えた。

「もちろん無理やり奪ってもだめ、それでは何もわからず捨ててしまうのと同じだわ」

 そこでフィオアは口端を歪め、続けて言った。

「でも、この少女の魔法を、確実にわたしのものにする方法があるわ」

「ほう」

 ……いよいよ、ここからが切所だ。

 イシュルは顎を引き、フィオアを何度目か鋭く睨み据えた。

「ここはわたしの神殿。この祭壇において、儀式を行いましょう」

 フィオアはたまらない、というふうに声に出して笑った。

「ふふ、神官も、聖典や法具の類いもいらないわ。聖句を唱える必要もない。わたし自身がここにいるんだから」

 ……嫌な予感がする。

 イシュルは視線をそのまま、低い声で訊いた。

「儀式というのは何だ?」

「あなたとわたし、契約をしましょう。あなたはわたしに贄をささげなさい。さすれば、わたしはあなたに水の魔法具を授けましょう」

 フィオアはにーっと、これが女神かと目を疑うような邪悪な笑みを浮かべた。

「古(いにしえ)より、神への請願には贄、とくに生贄が供されてきたのです。主神殿でこの少女を生贄として儀式を行えば、この者の水魔法をすべて、我がものにできるでしょう」

「くっ」

 イシュルは苦しそうな顔になって喉を鳴らした。

 ……やはりか。誰か、リフィアかミラか、似たようなことを予想していなかったろうか。

 そのとおりになってしまった……。

「儀式をすれば、ニナの水魔法のすべてがわかる、というのか? それはどういう理屈だ? ……よくわからないな」

「この娘の水魔法を、わたしに正式に譲渡、いえ、捧げたことになるのよ。かわりにあなたが、わたしから正式に、水の魔法具を授かることになるの」

 フィオアは邪(よこしま)な笑みをそのままに、続けて言った。

「ふん」

 イシュルは動揺を抑えながら顎に手をやり、何度かゆっくりとさすった。そして値踏みするようにフィオアを見た。

 ……つまり、彼女の認識できない未知の水魔法も、供物として奉ることでそれが可能になる、ということだ。疑わしい話だが、あり得ないと断ずることもできない。

「要はニナと水の魔法具を交換、ということか? ニナはもう、二度と帰ってこないということか」

 供物を捧げる儀式、生贄であるならそういうことだろう。ニナの頭の中を覗いて、必要な水魔法の知識だけをいただいておしまい、などと都合よくはいかないわけだ。

「そのとおり。この娘の水魔法には、あなただけが持つ知識が反映されているわ。だからあなたの許可が、……そうね、認証が必要なの。それがわたしのお願い」

 フィオアは首を横に傾け、にっこり笑って続けた。

「そのためなら、わたしの魔法具をあなたにあげてもいいわ」

「そうか、なるほど。わかった」

 イシュルは大きく、ひとつ頷いた。

「ほかに俺に選択肢はない、ということだな?」

 ……ニナを目の前にまた水神と戦って勝つなど、とても無理だ。

 それならもう、答えは決まっている。

 フィオアが頷くと、イシュルは何の躊躇いもなく明快に答えた。

「水の魔法具はいらない。ニナはおまえには渡さない、返してもらおう」

 彼女が寝かされている祭壇へ、一歩踏み出す。片足が水につかった。

「話は終わりだ。俺はニナを連れて、神殿から去る」

「なっ……」

 フィオアは呆然として、一瞬言葉を失った。

「何を言ってるの? あなた、水の魔法具がいらないの?」

 そして戸惑いを隠さず、問い質してきた。

「ああ、いらない」

 イシュルは憮然として答えた。

「水の魔法具より、この少女の命の方が大切だ。当然だろう? そんなことわかりきった話だ」

 水の魔法具を得ることができれば、ヘレスをはじめとする神々に請願する道が開かれる。

 エルスとルーシ、それにルセル。家族を失い村を焼かれ、風の魔法具を得てからはじまった復讐と探求の道も、いよいよ終点に達する。

 それがどれほど大切なものか、どれだけの血と汗と涙を流してきたか、筆舌に尽くしがたいものがある。

 己の罪科(つみとが)を、多くの謎、疑念を、失われた者たちの魂を、少しでも晴らし、救うことができるかもしれないのだ。

 だがその機会を、大切な仲間を、友の命を犠牲にしてまで手にいれようとは思わない。

 人(ひと)らしくあれ──風の魔法具を手にして、人外の力を得てからずっと己に戒めてきたことだ。

 無数の戦いを重ね、多くの人間の命を奪ってきたが、ただひとつとして嗜虐を愉しんだことはない。人非人の行いは厳に慎んできたつもりだ。

 そんなことをして、どうして神々に己の真を問うことができるだろうか。

 ニナをフィオアに差し出し、水の魔法具を手にして、俺はいったい何を得るというのか。

 五つの魔法具を揃え、そこでヘレスに願うのか? ニナを復活してくれと。

「おまえは、神の魔法具の力を知っているでしょう? 五つの神の魔法具を揃えれば、どんな願いも叶うのよ?」

 フィオアは、人間のように顔を蒼白にして、歪んだ笑みを浮かべた。

「ヘレスは、あなたのこと気に入っているみたいだから、ひょっとしたらエリューカのように、神さまにしてくれるかもしれないわよ」

 聖堂教によれば、美神エリューカは元は踊り子だったとされている。

「神になれば、なんだってできるわ。この少女の命だって復活できるでしょう」

 フィオアはそこで言葉を切り、厳しい顔つきになってイシュルを睨み据えた。

 水の女神がはじめて見せる表情だった。

「まさかこんな……、誰も成しえなかった幸運を、せっかく掴んだ絶好の機会を捨ててしまうというの」

 水神は話しながら少しずつ声音を低く、落としていった。

「ああ、そうだ」

 イシュルは、フィオアの強い視線をまったく気に解せず、あっさり答えた。

「じゃあな。ニナは返してもらう」

 イシュルは祭壇の前の小さな水路を渡り、眠り続けるニナに手をかけた。

「待ちなさい」

 フィオアは眉を吊り上げ、厳しい声でイシュルを静止した。

 彼女の右手が、イシュルを押さえるように差し出されていた。 

「この娘が、風遣いの少女のかわりにあなたの許を去った時のことを、もう一度思い出してみなさい」

 フィオアが真剣な表情を見せる。

「この水の魔法使いの娘、ニナはあなたに向かって、“水の魔法具は、わたしの愛”と言ったのよ。わたしはエルリーナから聞いたの。この娘ともお話ししたわ。ニナはあなたを愛している。あなたから受けた恩を、自らのすべてをかけて返そうとしている。それがこの娘の愛、矜持なのよ」

「……」

 イシュルはフィオアの剣幕に押され、思わず半身を反って間を空けた。

 フェニテオシスの結界でニナがエルリーナに連れられ姿を消した、あの時の彼女の必死の顔が、脳裡に浮かび上がった。

 ……そうだ。ニナが「水の魔法具は、わたしの愛」と言った時の顔、あの眸は俺の網膜に、いや俺の心に焼きついている。

 それはどんなにか美しい、気高い想いだっただろうか。

 イシュルは胸に手をやり、掻きむしった。

 ニナは、水の魔法具をあきらめ、今までのすべてを無にした俺を見て、何と思うだろう。俺にその想いを踏みにじられて、どんなに苦しみ、悲しむことだろう。

 これは俺を動揺させ、翻意させようとするフィオアの罠だ。──だが、そんなことはどうでもいいことだ。ニナの志を俺が勝手に無にしていいのか、それが問題なのだ。

 あの時の、悲壮なニナの顔が忘れられない。

 俺は間違えているのか……。

 ニナのあの眸。俺を見つめる、あの眸。

 その奥に潜む小さな輝き。あれは、本当に……。 

「さぁ、ニナの願いをかなえてあげましょう。水の魔法具を受け入れなさい。未知の水の力を渡しなさい。ただ一度、頷くだけでいいのよ」

 フィオアの顔が視界いっぱいに迫ってくる。その青い眸が、あの時のニナの眸に重なる。

 瞬きする間もなく、フィオアの顔がニナの顔にすり替わる。

「……」

 彼女の眸から涙が一滴(ひとしずく)、零れ落ちた。同時に、何かが崩れるように己の首が俯き、頷いたのがわかった。

 どこからか、フィオアの歓喜する気配が伝わってくる。

 ニナの哀しみの顔が、再びフィオアの顔へ移り変わる。その間際、一瞬だけエルリーナの顔貌が現れた。彼女はニナのように叫んだ。

「違う! ニナの本当の想いは──」

 ……そう、そうだ。

 彼女の本心は違う。ニナは本当は、生きたいんだ。俺と、みんなといっしょに。

 彼女だって、小さな当たり前の幸せを願っているんだ。

 ニナの眸の光、その奥。彼女の真心は、だから素晴らしい──。

「!!」

 気づくとすぐ目の前に、フィオアが立っていた。祭壇に横たわるニナは、彼女の後ろだ。

「さあ、水の魔法具を受け取りなさい」

 喜びに狂った女神の右腕が、胸に突き立てられる。

 瞬間、激痛とともに彼女の腕が、冷たい何かが入ってきた。

 ……かわりに、この娘の知恵をいただく……。

 フィオアの思考が流れ込んでくる。

 まずい。これは、もう無理だ。

 もう、創世結界を展開する時間はない……。

 胸のうちを、心地よい渦が巻きはじめる。これは水の魔法具だ。

 契約が成される──。

 


 イシュルは、己の胸に突き入れられたフィオアの腕を、両手で押さえていた。

 その眸は虚ろで、押し戻そうとする腕にも力が入らない。

 ……万事休すか。ニナも死ぬのか。

 メリリャのように。

 イシュルの眸に、わずかに光が灯った。

 ……いや、まだだ。

 その光は何だったか。

 最後にひとつ、奥の手があった。

 ほんの小さな可能性に、すべてを賭けるのだ。

「イヴェダよ、頼む。俺に力を貸してくれ」

 心のなかを、強風に激しく髪をなびかせるニナの姿が浮かんだ。

 水色の空を風が巻く。

 イシュルの胸に突き刺さる、フィオアの腕。そこにもうひとり、女の腕が交差する。

「フィオアよ。愚かなことを」

 渦巻く風はもうひとりの女神、イヴェダになった。トーガをはためかせ、宙に浮いてフィオアと相対する。強烈な風の魔力が、雷光のように視界を煌めいた。

「イヴェダっ!」

 フィオアは驚愕に両目を見開き、悲鳴のような声を放った。

「イヴェダ、たのむ……」

 ニナを、救ってくれ。

 イヴェダを召喚し、精神力が限界を超える。

 轟音と閃光。睨み合う水と風の神。

 周りを、自分の中を吹き荒れる風。そのうねりに、眠る少女の無事を願った。


  

 ……起きろ、イシュル。我が愛しの風の子よ。

 耳許を、どこかで聞いた女の声がする。

「ぐっ」

 目が醒めると同時に、嘔吐(えず)いて顔を上げ、大量の水を吐いた。

 両手をついた目の前に、底の浅い溝に溜まった水があった。

 ニナが寝ていた祭壇の、手前にあった小さな水路だ。

 彼女を巡ってフィオアと争い、イヴェダを召喚した反動で気を失った。そのまま水路に、うつぶせになって倒れ込んだのだ。

「ううっ」

 全身に走る鈍痛に、思わず呻き声が漏れる。ゆっくりと立ち上がり、すぐ目の前の祭壇を見た。

 何の変わりもなく、ニナが寝ている。

 フィオアも、イヴェダもいない。

 ふたりとも、消えてしまった。

 ついさっき、微かに感じたイヴェダの気配も今は完全に消えている。

 辺りを見回し、消えたフィオアの痕跡を探る。

「えっ」

 その時、ニナの息が止まっているのがわかった。

「まさか」

 ニナに取りつき、手首と首筋に手をあて、彼女の鼻先に耳を当てる。

「死んでる」

 息も、脈も止まっている。

 全身の力が抜け、眩暈がした。そして激しい怒りと哀しみが、炎のように胸の中を噴き上がってきた。

「ニナっ!」

 ……慌てないで。

 ニナを抱き上げると、またどこからか女の声が聞こえた。

 イヴェダの声ではない。フィオアの声だ。彼女の気配が、どこからか近寄ってくる。

 ……イヴェダは外に追い出したわ。

 心の中を、フィオアの柔らかな声がこだまする。

 ……彼女と話はついたから。今回の儀式は中止します。続きはいつかやりましょう。水の魔法具はもうあなたにあげたから、とりあえずそのまま、持っていなさい。

「ニナが、ニナが死んでいるじゃないか!」

 ……ふふ、だから落ち着いて。イヴェダが少し遅かったのね。この娘の命は間に合わなかった。

 でも、心配しないで。水の魔法具はまだ、あなたのからだに馴染んでいないけど、わたしが力を貸してすぐに使えるようにしてあげる。水の魔法具だけの至上の業(わざ)よ。

「なっ……」

 フィオアの声に視線を彷徨わすと、はじめて対面した時、彼女が座っていた水場の奥の石の筐体に施された、壺を肩に担いだ彼女自身のレリーフに目が止まった。

 その壺の注ぎ口からは変わらず、水が流れ落ちている。

「!!」

 ……その水を使いなさい。あなたの水の魔法具が、彼女を甦らせるわ。

「ああ」

 胸に灯る小さな輝き。それは命を育むものだ。

 すぐにわかった。目の前の泉の水と、水の魔法具は同じ存在だ。

 森の奥の、神の泉。それならば、あとはどうすればいいか誰だって知っている。

 世界が違おうが、時代が違おうが、これだけは何も変わらない。

 ……命の泉、生命の泉。

 あとは、事を成すだけだ。

 イシュルは、フィオアの彫像から注がれる水を掬って口に含み、ニナの傍に寄り、彼女を抱き起した。

 清涼な水の冷たさが、口の中に広がる。

 ニナに口づけ、唇をわずかに押し開きほんの少しだけ、含んだ水を流し込んだ。

 柔らかな頬の曲線、細い鼻梁。肌もいつの間にか、とてもきれいになった。

 一瞬の間をおいて、少女の肉体に激烈な変化が起こった。

 いきなり心臓が脈を打ち、すべての内臓が、細胞が動きだした。

 閉じられた繊細な睫毛が微動し、ゆっくりと瞼が開かれた。

「……」

 形の良い唇が、小さくひとつ、息を吐く。

 ニナが目覚めた。

 生き返ったのだ。

 水の魔法具の力。水の魔法具は正確には“壺”ではない。壺は比喩の一種だ。水の魔法具の正体は“泉”だ。

 命の泉。生命を育む伝説の泉そのものだ。

 イシュルは、身に沸き立つ魔法具の力に堪え、ニナに笑いかけた。

「良かった……。ありがとう、ニナ」

「イシュルさん……」

 ニナの小さな声。

「良かった……」

 彼女もイシュルの言葉を繰り返した。

「ふふ」

 イシュルはニナの華奢な肩を抱きしめ、空を見上げた。

 ニナは肩を震わし、泣き出した。

 安堵と、喜びの涙だ。

 初秋の空を風が吹き、梢が鳴り、野鳥のさざめく声が聞こえた。

 ……あなたたちの行く末を、祈っているわ。

 さようなら、とフィオアは最後に言って気配を消した。

 神域の、不思議な空気も薄く、消えていく。

 どこかで多くの人の気配がする。きっとリフィアたちだ。

 みんなも、もうすぐここへ戻ってくる。

「ニナ、ありがとう」

 イシュルはもう一度、囁くように言うとニナを抱きしめた。   

 

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