フィオアの泉 2
深い森に隠された廃道。
その先に見える、別世界のように明るい野原と水色の空。
道の先、森が切れるまで百長歩(65m強)もない。
木々の切れ目から覗く野原には、苔むした巨大な礎石や、蔦の絡まった石柱が見えた。
美しい、のどかな遺跡の佇まい。
……あれが、フィオアの神殿なのだ。
まだかなり距離があった筈なのに。俺も、精霊たちでさえ感知できなかった……。
世界創生の神の御業を使った結果、物理的な距離を超越していきなり、水神の神殿と接続した、と考えていいだろうか。
「着いたのね」
「あれがウルク王朝の、水の主神殿……」
イシュルの右からミラが、左からリフィアが、何かに取り憑かれたようにふらふらと遺跡の方へ歩きはじめた。
「待て。リフィア、ミラ」
イシュルは左腕をわずかに持ち上げ横に広げると、鋭い声で言った。
「気をしっかり持て。俺の前に出るな」
左手の指先に意識を向け、創世結界をしっかり維持する。そのまま、四体目の精霊を召喚することにした。
「決戦準備だ。これから土の精霊を召喚する」
最初に後ろを振り返り、レニたちに冗談めかして軽口をたたき、次に前を向いてミラたちに低い声で精霊召喚を告げた。
「……!」
「むっ」
夢うつつのようにぼんやりしていたリフィアとミラは、イシュルの声を聞いた瞬間、目を覚まし顔つきをあらため、彼に視線を向けた。
イシュルが人前で、しかも日中に精霊を召喚するのは珍しい。みな戸惑いを見せるなか、硬い表情に微かな笑みを浮かべ、ゆっくり呪文を唱えはじめた。
……小さく息を吐き、両目を瞑って意識を集中する。
「地の神ウーメオよ、願わくば我(わ)に汝(な)が土の精霊を与えたまえ、この世にその態を現したまえ」
周囲は四元素の結界が外界を隔てている。だがイシュルはかまわず、土の召喚魔法を重ねて発動した。
濃い緑と土の臭いの立ち込める森の古道。
正面の森の切れ目を背景に、木洩れ日がきらきらと煌き、明るさがいや増す。
土の魔力光が、陽光とひとつになって輝いているのだ。
「……むう」
人型に像を結んだ輝きは、ひと声発すると一気にはっきりと姿を現し、イシュルの前に屹立
した。
「お呼びか、杖殿」
ユーグと趣きの似た古い神官風の服装に、十字槍のような刃がついた大きな錫杖を持っている。
よく手入れされた髭を生やした壮年の男だ。深く刻まれた皺に削げ落ちた頬、厳しい鍛錬を長年積み重ねてきた風貌だ。
「名を聞こう」
「我が名はマレウドラーシュ・マティアーシュド」
威風堂々たる地の大精霊は、口角を歪めると続けて言った。
「どうやら、いきなり鉄火場に呼び出されたようだな」
「……!」
「おお」
「うっ」
「ふーむ」
土の精霊が登場するとリフィアたちが、ユーグやセス、アローンら他の精霊が、それぞれに感嘆や驚愕の声を上げた。精霊たちは声とともに、イシュルらを囲むようにして姿を現した。
「ふふ」
イシュルは周りを見て小さく笑うと、土の精霊に視線を戻して言った。
「確かに、あんたの言うとおりだ。……マレウ、と呼んでいいかな?」
「うむ、よろしかろう」
「よし。あの異界に踏み込む前に、簡単に打ち合わせしておこう」
イシュルは古道の先、神殿の方に目をやると、皆をあらためて見回し言った。
「ミラ、私たちも準備しよう」
イシュルが言い終わらぬうちに、シャルカがミラに声をかけた。
シャルカは背負っていた大きな荷物を下ろし、胸の前で両手を握りしめ気合いを充溢させていた。
「イシュルさま、しばらくお待ちを」
「ああ」
イシュルがミラに頷いてみせると、彼女はにっこり微笑みシャルカと向かい合った。
「我が精霊よ、汝が鋼(はがね)の力を我に与え給え……」
「我が神ヴィロドよ。鉄心の鎧を我とひとつに合し給え……」
ミラとシャルカが同時に詠唱し、ふたりが“鉄神の鎧”を通じて合体する。
何度目か、目の前で強烈な魔力の閃光が迸(ほとばし)った。久しぶりに間近で見る、ミラの変身した姿、全身鎧だ。
森に入ってから、ミラは真紅のドレスの上に黒いマントを羽織っていたが、今はそのドレスの上に黄金色の甲冑を装着している。その金色の輝きには少なからず、シャルカの力強い魔力が混ざっていた。
ミラの背後ではこれも毎度、ルシアがいそいそと主人のマントや、シャルカの着ていたメイド服を拾い集めていた。
ミラの変身をはじめて見たレニは茫然と、彼女の金色に輝く鎧を見ている。
「で、イシュル。どうする?」
リフィアがミラやレニたちを横目に、訊いてきた。
「……」
薄っすらと姿を現しているユーグ、セス、アローン、そして新たに召喚したマレウら、精霊たちも、注意をミラからイシュルに向けてきた。
彼らもフィオアとの不測の事態を懸念してか、軽口をたたいたり、雑言を浴びせたり、諍いを起こすような素振りは見せていない。
……いい傾向だ。
「これで、フィオアの神殿まで繋がった。俺は今展開している四元素による世界結界を一端、
解除する」
イシュルは微かに笑みを浮かべると、森の切れ目、かつて水の主神殿だった遺跡の方へ目をやった。
もうフィオアの力は働いていない。自ら張った世界結界に、水神の力は触れてこない。フィオアの気配は消えてしまった。
「俺がこの結界で彼女の力を遮断したことで、森の精霊が力を失い、俺たちの目の前に姿を現し、消えた。それが水の神殿の遺跡に到達する印だったわけだ。今はもう、フィオアの力は消えている。あの遺跡からも怪しい気配はしない」
……フィオアは、己の水の魔力を使ってロネーの森の精霊を支配し、あの、目の前の遺跡を隠して、あるいは遠ざけていたわけだ。
この先どうなるかわからないが、とりあえず、あの森の切れ目からは魔封の力も感じられない。
水神が何らかの結界を張っているかもしれないが、危険なものではないだろう。
ニナの存在もある。何となくわかるのだ。彼女が、力づくで俺を退けようとは考えていないだろうことが。
もちろん、油断は禁物だ。ただの話し合いで、交渉でうまく済むとは限らない。話がこじれれば、物別れに終わればその時点で互いに力で訴える、厳しい戦いになるかもしれない。
「いいんじゃないか」
「異存はありませんわ」
「……」
リフィアとミラに続き、レニが無言でイシュルを促した。
「ああ」
イシュルはレニに向かってかるく頷くと、周囲に張り巡らせた新結界をゆっくり、静かに消していった。
「ふむ」
……何も起こらない。
ユーグら精霊も遺跡の方を見ているが、特に反応を示さない。
フィオアの気配、水神の力らしきものも感じられない。地下のあの水脈もより深く、地中の暗がりへひっそりと消えていた。
「やはり大丈夫のようだな」
あれほど騒がしかった魔物たちの気配も消えている。小鳥や虫の鳴き声もしない。
「ロミール」
イシュルは周りに満足そうに頷いてみせると、後ろで少し離れて佇むロミールら従者に向かって言った。
「きみたちは神殿の外縁で待機してくれ。荷物を守り、危険を感じたら俺たちに構わず後退して、安全を確保するんだ。……ルシア、頼む」
「ルシア、お願い」
「はい……」
ミラからも頼まれたルシアだが、彼女は困惑した表情でロミールたちを見た。
「あの、イシュルさん。お願いが」
「どうかわたしたちも、水神の神殿まで連れていってください」
「お願いです、イシュルさま」
ロミールに続いてノクタ、セーリアもイシュルに、水の神殿まで同行することを懇願してきた。
今までこんなことはなかった。彼らはいつも主人の言うとおり、後方で野営地を確保し荷物を守ってきた。最後まで同行したいのを、その度に堪えてきたのだった。
「……」
イシュルはミラやリフィアと視線を交わすと、辛そうな顔になって言った。
「フィオアが降臨するとして、その場まで連れていくことはできない」
……たぶん、最後は俺ひとりだ。リフィァもミラも、レニもその場にはいないだろう。
そういうふうに決まっているのだ。ニナと水の魔法具を巡る駆け引きは、あるいは戦いは、俺ひとりでやらなければならないことなのだ。フィオアは俺しか、相手にしないだろう。
「ただ危険、なだけではないんだ」
だが、これから何が起こるか、途方もないことを見聞きし、体験することができるかもしれない。彼らだって危険は百も承知、覚悟しているだろう。ここまで苦難をともにしてきたのに、その想いを無碍にするわけにもいかない。
「それでもいいんです。今はぼくたちも、武神の魔法具を持っています。迷惑はかけません。少しでもいいから、近くにいたいんです」
「ついていけるところまで。わたしたちも皆さまの背中の見えるところまで、ついていきたいのです」
「イシュルさま、どうかお許しを」
今まで隠していたのか、ロミール、ノクタとセーリアははじめて見る、真剣そのものの眼差しを向けてきた。
「イシュル」
「イシュルさま」
リフィアやレニ、ミラも懇願するような顔を向けてくる。
……命の保障はできないぞ、などと今さら念押しするのも無粋だろう。
「わかった」
何度目か、森の切れ目の晴れた空に目をやる。
「遺跡の中まで、一緒に行こう。だが、それも途中までだ。大きな荷物は森に残していこう」
「……!!」
「はいっ」
イシュルが微笑むと、ロミールたちはそろって明るい表情になり、元気な声を上げた。
「良かったわね」
ミラがルシアやセーリアに声をかけるのを横目に、イシュルは心のうちで精霊たちに指示を出した。
意識の中に四名の精霊の位置をイメージする。遠方へ、底辺の開いた台形の頂点に各々の精霊を配置する。手前の、短辺の左右の頂点には金の精霊ユーグと火の精霊アローンを、奥の長辺の角には土の精霊マレウと風の精霊セスを置き、台形の内側の前列にリフィアとミラとレニ、後列にルシアやロミールたちを配置する。
彼らを後方に展開して、自分は遺跡の中央に顕現するであろう、フィオアと正対する……。
イシュルの心中で陣形が具体化されると、四体の精霊はそれを一瞬で読み取り、姿を消してすばやく所定の位置に散開する。
「リフィアとミラ、レニは俺の後ろへ、ロミールたちはさらに後ろへ、行こう」
「まぁ、いつものごとくだな」
「ほほ」
「ふーん」
「はいっ!」
イシュルが機嫌よく微笑むと、みなはもっと明るく、楽しそうな顔をした。
……何度目か、道の先、森の切れた明るい空を見る。
先ほどから変わりはない。森の中に開けた、大きな空間。
怪しい、とまでは言えない、魔力とは違う何かが微かに漂う、不思議な空間。
地中と地上と、空。
露出した遺物や灌木、水の流れ。
いつもと同じだ。ここからでも水の神殿跡の様子が、よくわかる。
ただところどころ、霞がかかったようにはっきりしない箇所がある。それが風が流れるように、あるいは水が流れるように移動して、魔力の感知をうやむやにする。
……ごくわずか。
わずかだが、そこにフィオアの力が潜んでいるのか。
先頭に立ってゆっくり、歩く。
自分の感知力をもってしても、すべてが明らかにはならない。それも仕方がないだろう、そこが水神の座なら。行かなければ、前に進まなければ何もはじまらない。
……この道が神殿につながったのなら、そこにはフィオアが、ニナが待っている筈だ。
森が切れる。深い緑の壁が左右から後方へ退き、晴れた空が、眩しい陽光が降ってきた。
水の音。
どこかを水が、流れている。
足下を見ると、敷石が割れて水が流れていた。小さな細い、青い水面に雲が浮かんでいる。
明るさに目が慣れ、顔を上向けると正面に、古い石造りの門があった。
なかば崩れ落ち、全形ははっきりしない。かろうじてアーチ状の石組みが一部、残っている。
小さな水の流れを跨いで門をくぐる。
「ここが神殿の正門だったんだな」
リフィアが小声で話しかけてくる。
「ウルクの頃の水の主神殿としては、ちょっとお粗末かな」
長い年月の経過が威厳を与えているが、それほど大きなものではない。前の世界の凱旋門などとは違う。それのミニチュア版だ。
「いえ、かなり崩れていますから。……どうでしょう、本当はもっと大きかったかも」
ミラが割り込んでくる。
「神殿の門なんて、こんなもんだよ。今の神殿は門なんかないし」
とそこへレニ。
「確かに、今の様式ではない……」
イシュルは視線を遠くへやると、呟くように言った。
……風の音も、鳥の鳴き声もしない。今は水の音も遠い。静かだ。
水色の空は澄み渡り、太陽は燦々と輝く。明るい土色の遺跡と蔦や下草、疎らな木々の緑が美しい色彩を構成している。
この、目に見えるものすべてが偽物であるのなら、水神の結界はフェニテオシスのそれより数段、上の代物だ。
深い森の奥に突如姿を現した古代の神殿跡。朽ち果て、長い時間が経っている筈なのに、誰かの手が入ったかのように、綺麗に整って見える。
……そう、前の世界で言うなら、観光地として整備された歴史地区のような遺跡だ。
門をくぐると、右側はところどころ崩れた石壁が、左は広場になっている。正面奥には木々に隠れて、円形の建物の壁の一部が見えた。警戒を緩めず、ゆっくり進む。
後方で、気配を消して展開した精霊たちからは、特段の反応は感じられない。彼らはもう、この先に何があるか、何が起きるか、わかっているのかもしれない。
「綺麗……」
「古い遺跡なのに、美しい……」
ミラとリフィアの、むしろ嘆息が聞こえる。
「……」
振り返れば、レニだけはむすっと黙り込んで難しい顔をしている。
ルシアも、ロミールも、ノクタもセーリアも、ぽかーんと口を開けて周囲を見回している。
足許に視線を下ろせば、摩耗した敷石はところどころ砕け、土に、下草に埋もれている。
そのまま奥へ進むと、妙に垢抜けた姿形の樫の木の木立に突き当たり、その影に円形に曲がった石壁が見えた。
整った曲面を描く石積みの壁は上部が崩れ、疎らに蔦が絡まっている。
木立を抜けるとその石壁の向こうに、大きな石柱が幾つか見えた。地面に落ちている大小の石に気をつけ、壁の割れ目から内側へ進むと、不意に水路か浅い堀か、庭園の池のような水面が目に飛び込んできた。
石畳の底は苔むしているのか、清澄な陽光に青く色づき輝いている。惹きつけられるように前へ踏み出すと、途端に水の音が聞こえてきた。
目の前の水堀は水路になっているのか、どこか、神殿の外へ水が流れているのだ。
小さなせせらぎは周囲の壁に反響して、豊かな木琴のような音を奏でている。
遠い昔に聞いたあの懐かしい音に、うっとりと心をもっていかれそうになるのを、ふと何かを感じて視線を上げると、これも円形に配置された石柱の奥に、小さな人影が見えた。
「……」
イシュルは喉を鳴らすと眸を細め、前方、かつて水の主神殿だったであろう、大きな円形神殿の中心部を見つめた。
浅い水堀の向こうに、一段高く円形の石造りの土台があり、その上に等間隔に石柱が並んでいる。
豪奢なレリーフも摩耗し、いたるところがひび割れているが、石柱は高く、見上げるほどに大きい。
円形に弧を描いて並ぶ石柱の屋根は当の昔に落ちて姿を消し、今は露天である。その内側にはさらに小さな池のような水溜まりがあり、石造りの祭壇や何かの台座らしきものが残っている。
石畳にはところどころ蔦が這いまわり、下草が生え苔むしている。
人影は女のようだ。
祭壇の影に半身を隠し、背中を向けて横に座っている。
「あれは……」
何か話そうとしたリフィアを片手を上げて制止し、イシュルは後ろを振り向き低い声で言った。
「ルシア、ロミールたちを連れて後ろの壁の上に登れ。そこで待機だ」
なぜ上、なのか。イシュルは続いてリフィアたちに指示したことで、はっきりと自覚した。
「きみたちはこの場で待機だ」
リフィア、ミラ、レニと見回し、前の方に目をやった時、思わずその言葉が口をついて出た。
「水に気をつけろ」
きらきらと陽光を反射し煌めく澄んだ水。何の変哲もない、底の浅い堀の水。
だがここは水神の神殿だ。当然、警戒してしかるべきだ。
「うむ、わかった。……今さらだがな、イシュルも気をつけて……」
少し寂しそうな声で、リフィアが言った。
「ニナさんをよろしく」
静かに微笑み、レニが言った。
「イシュルさま……」
ミラは視線をじっと、神殿の奥に背を向けて座る女に向け、消えるような声で呟いた。
「ああ、行ってくる」
彼女たちにも、精霊たちにも細かい指示は与えてある。
フィオアとの折衝も、荒事になっても、その都度どう対応するか話してある。
……ニナ。
囚われた少女の顔が目に浮かぶ。
神殿の女を、前しか見ない。
イシュルは目前の水堀を飛び越えた。
陽の煌めき。乾いた石壁。豊かな緑に水色の空。色彩が流れ、水の音がこだまする。
石柱の根元、すぐ手前に着地し、神殿の中央へ進む。女の背中から目を逸らさない。
石造の床がところどころ陥没し、窪みに水が溜まっている。かるく跳躍を繰り返しながら近づく。女は動かない。変化はない。
「フィオアか」
横に長い祭壇の手前で立ち止まり、女の背に声をかける。
臆せず、自然と口に出た。
「……」
女の背中は動かない。はっきり、イシュルを無視した。
彼女の前には、外の堀と同じように澄んだ水を湛えた小さな水場があった。女はその前に横向きに座り、右手を床について上半身を支え、おそらく視線を水面に落としている。
その水場の奥には、壺を肩に担いだフィオアがレリーフされた石の筐体があり、壺の注ぎ口からは水が流れ落ちていた。
イシュルがフィオアのレリーフに目をやると、女は水遊びをするように左手で水を掬い、高く掲げて掌から水を落とした。
陽光をとらえきらきらと輝く水滴を女はじっと見つめ、おもむろにイシュルに振り向いた。
微笑を湛えた気品あふれる女の顔が、フィオアのレリーフの顔と重なった。
石の彫像と、同じ顔をしていた。
湧き水か、レリーフの壺から流れ落ちる水の音が柔らかく、高く鳴って止まない。
「ふふ」
豊かで優しく、どこか懐かしい。終わらない水の音律に女は微笑を浮かべた。
後ろに巻き上げた明るい金髪。陽の光に透けるような白い肌。気品あふれる顔貌は高い身分の貴婦人、そのままだ。微笑に繊細に揺れる長い睫毛がなまめかしい。
古代の、純白のトーガに身を包み、足を崩し半身を横に傾け座る姿は、これもまさしく劇中に登場する女神、そのままだ。
イシュルは何度目か、唾を飲み込んだ。
……かろうじて人間、の姿形を保っている。
すべてがあまりに整った、予定調和の美。だが、イヴェダが降臨した時のような絶対的な存在感はない。強力な魔力、神通力の類いも感じられない。
……だが、あくまで表向きは、だ。そもそもこんな場所にこんな女がいること自体、あまりに異様だ。
そしてこの存在は、俺を待っていたに違いないのだ……。
イシュルは総毛立つような恐怖を、激しく動揺する心を苦笑で覆い隠し、水の女神と正面から対峙した。
「おまえがフィオアか」
もう一度、不遜に神の名を呼んだ。
「少し時間がかかりましたね。でも、ここまで辿り着いたことは褒めてまげましょう」
フィオアはゆっくりと立ち上がりながらいった。
顔を俯け、腰から膝のあたりの皺を気にして衣服を整えた。
まるで人間の女のような仕草だった。神々しさは抑えられ、ほとんど感じることができない。
「四つの魔法具をあんなふうに使うなんて」
僅かに、値踏みするような視線が向けられる。
「たいしたものね。イヴェダが夢中になるのもわかるわ」
そして笑みを浮かべる。やさしい微笑みだ。
「そういえば、レーリアも夢中だったわね。あなたに」
いきなり、毒を吐く。
口端が引き上げられ、笑みが大きくなった。だが、皮肉な感じがしない。伝わってこない。
だから逆に、この上なく嗜虐的だった。
「むっ」
イシュルは顎を引き、ほんの微かに眸を細めた。
……そこで月神の名を出してくるのか。
胸が熱くなって、脅えが消えていく。否応無しに、怒りが込み上げてくる。
「水の魔法具の前に、まず」
間をあけてもう一度苦笑を浮かべ、怒気をごまかした。
あらためてフィオアを睨みつける。
「ニナを返してもらおうか」
だが、だめだった。彼女の名を口にした瞬間、再び心に火がついた。もっと大きな激情が渦を巻いた。
口調に怒りが、殺気が込められてしまったろうか。自分らしくない、低い声だと思った。
「あの少女のことね?」
フィオアはさらに優しく、微笑んだ。
「水の魔法具は? 水の魔法具は欲しくないのかしら」
女神は後れ毛に手をやり、いじりながらわざとらしく視線をそらした。
「両方だ。水の魔法具も、ニナもだ。両方寄越せ」
じっと堪えてもう一度、抑え込む。心のうちに燃える炎を静かに見つめ、慰撫する。
ここで暴発させるわけにはいかない。すべてはニナを取り戻してからだ。
「まぁ」
フィオアは今度は口許に手をやり、「ほほ」と笑った。
「無理を言うのね」
……その細められた眸は怒っていない。悪戯な色を浮かべて、じっと見つめてくる。
「わかりました。あなたは今や、火、風、土、金の四つの魔法具を持っています。無下にはできないわ。あなたの望む、話し合いに応じましょう」
水の女神の、薄い青の眸が世界を映す。
……俺の心を読んでいないか。
降り注ぐ陽光が、草木と石の色彩が、水の音が、五感を抉ってくる。
ただにこやかに、喋っているだけなのに。
眩暈がするような緊張感だ。
だがたとえ神であろうと、俺のすべては見通せまい。
この世界のものでない、まったくの異物。それが俺の中にある。
手を握って拳を目の前にかざす。
フィオアよ、おまえはどうだ? これを見たいか、知りたいか?
「……そう」
突然、女神の表情が変わった。
この緊迫した空気がそのままその顔に、映し出されたように見えた。
「──でも、話を続けるには邪魔者が多すぎるわ。わたしは、あなたとふたりで話したかったのに」
フィオアは、ふっと吐息をついて一瞬の緊張を解くと、薄く笑みを浮かべて言った。
「四体の精霊に、大きな魔力を持った人間ども。無粋ね」
その瞬間、後方に潜む精霊たちに緊張が走った。まさか話し声が聞こえたか、リフィアたちにも。彼ら、彼女らの恐怖が、盛り上がる戦意が、背中にびりびり伝わってくる。
「無粋であろう筈がない」
……荒事は避けられないか。
「俺は、ただの“人間”なんだぜ?」
風、火、土、金。四つの力を求め、神々の異界に“手”を伸ばす。
「こちらは命がけなんだ」
フィオアの笑みが大きくなった。ほんのわずかに、右手の指先が上がった。
「そこまで言うなら、確かめてみましょう。あなたの意志を」
女神の双眸が閉じられた。
「!!」
いきなり五感を掴む、衝撃が来る。
何かに無理やり引き剥がされる、ありえない恐怖。
堪えて、手繰り寄せた世界を重ね、編む。
突然、朽ちた柱が、苔むす礎石が、樹木が、地面が、すべてが色を失い、形を失い水になった。
周囲の遺跡が、森が、水の塊となって崩れ、流れ落ちていく。
煌めくフィオアの全身。その向こうの果ての空が、流れ落ちていく。
青と白の色彩が剥がれ落ち、鈍く輝く透明な膜に覆われていく。
天頂から空を落下する大瀑布。途方もない、巨大な水の流れだ。
驚愕に震える心の片隅で、かろうじて自我を保つ。後方に知覚を広げ、皆の存在を繋ぎとめる。自ら編んだ、世界の切れ端に。水神の結界の中、わずかに存在を許された自分の領域だ。
フィオアは光を払い、再び姿を現した。両手をかるく、横へ広げる。
地平も水に、空も水に融けた。
かくして彼女の、水の世界が成った。
波音が消え、水面が凪ぐ。
水平線の彼方の空は未だに剥がれ落ち、流れ落ちる水に侵食されている。
壮大無比な光景だった。
リフィアたち、精霊たちは何とかこの結界に繋ぎ止めた。後方へ、だいぶ遠くにいる。
「下がりなさい」
「なっ!」
フィオアと視線が合った瞬間、彼女の冷たい声とともに、空間が大きく波打った。
時間と空間が破断したような衝撃とともに、彼女との距離が何百倍にも開いていた。
静かな水面の続く向こう、遠くに水神の小さな姿が見えた。
……彼女が遠退いたか、俺が引き離されたのか。
「たぶん、俺が引き離されたんだろう」
フィオアの口ぶりからすると、そういうことになる。今は後方にいる、リフィアたちと同じことが起きたのだ。
「油断するなっ」
「イシュルさま──っ」
リフィアとミラの叫びが微かに聞こえてくる。レニは追い風の魔法(飛行魔法)の呪文を唱えている。声は聞こえないが、何となくわかる。彼女たちが慌てふためき、無数の飛沫を上げて駆けてくる。凪いだ水面の下は一面、石畳だ。おそらくこの神殿が健在だったころのものだ。
精霊たちも今は動揺していない。みな肝がすわっている。いや、この展開を読んでいたのか。
ロミールたちは遠く、水平線の果てにいる。たぶん、彼らは大丈夫だ。
「……」
フィオアが両手を広げ、何か言った。
自らの精霊を召喚しているのだ。
天地が水に覆われた世界。水の空を映した一面の水面、そこに七つの魔力の柱が立ち上がった。
高く、垂直に伸びた清麗な水の魔力は、それぞれ見る間に人型に収束していく。
大仰な神官服にマント、鎧、巨大なハルバートに木彫の杖。視界いっぱいに展開する、壮麗な神話の世界。透明に、白く輝く七体の大精霊が出現した。
……アニエスティーヌ、フランシェノール、ドロテデラート、シファース、メリヴィスーダ、ビィローズス、ロークセレスタン。汝が勲(いさお)しを示せ。
フィオアの声が心のうちに波紋となって広がる。面倒な七つの精霊の名も、一瞬で伝わってきた。
戦(いくさ)だ。水の女神の宣戦だ。
七体の精霊はそれぞれ得物を構えると、ある者は高速で飛翔し、ある者は水中を走り、またある者は巨大な蛇の姿に変化(へんげ)し向かって来た。
「むっ!」
と、構える間もなく水の精霊は後方へ、リフィアたちに襲いかかった。
……盾殿!
……剣さま、行くぜ。
ユーグとセスの叫声が脳裡に響く。火のアローン、土のマレウの気迫のこもった唸り声が胸を貫く。
リフィアの赤い魔力の閃光が瞬き、ミラの華麗な金の魔力が煌めいた。背後で幾つもの巨大な魔力が渦を巻き、フィオアの結界を激しく揺らした。
突然頭上を巨大な、赤帝龍が吐いたような大火炎が噴き上がった。思わず振り返ると、房のついた軍配のような杖を突き出したアローンの姿があった。その火精へフィオアの水精がひとり、空中で横回転しながら突撃していく。
レニはいつの間に召喚したか、復活したあの化け猫、ルカトスの上に乗り、神官の姿をした水の精霊と空中戦を演じていた。
リフィアもミラも、ほかの精霊たちも、水の精霊と互いに一対一で戦っていた。
味方の七名に、フィオアも七体の精霊を召喚したのだった。
「……」
胸の奥に、苦い思いが込み上げてきた。
フィオアは手心を加えているのか……。
水神であれば、精霊などいくらでも召喚できるだろう。物量でこちらを圧倒することなど、造作もない筈だ。
水で覆われた空に突然、冷たい光芒が走った。奇怪な金属音が響き渡り、金の魔力が一点に収斂すると回転する光輪となって、長い髪の女戦士に飛んでいった。
ユーグが彼の処刑具、クロワースを水平に回し最後は片手持ちになって、正面前方にその先端を向けていた。
「……!!」
女戦士が人間のものではない金切り声をあげて、急上昇に移った。怖ろしいことにクロワースの光輪は誘導型で、鋭く曲がると逃げる女戦士の追尾に入った。
……ぐっ。
そこで、今度は切り裂くような赤い閃光が走って、一瞬視界が閉ざされた。視線を光った方へやると、リフィアが巨大なハルバートを持った大柄の戦士と、互いに水上を滑るように移動し、矛を交えていた。
リフィアは武神の矢を速さより力に振っているのか、何とかその勇姿を肉眼で追うことができた。彼女が戦士に肉薄し、跳躍すると長剣を振り下ろす。銀色の煌めきは、戦士のハルバートにがっちり受け止められるが、その巨躯は水中に腰まで沈み、周りに激しい飛沫を上げていた。
無数の光芒と爆炎。大小の水柱が林立し、何かの魔弾が機銃のように撃ち出される。眼前にはまさしく、近代戦のような壮大な激戦が繰り広げられていた。
「手助けはしにくいが……」
自分の足許からちりちりと、水上を走る微かな空間の断裂。この水神の絶対の世界で、味方が全力で戦えるのは、自らの魔法具で編んだ別世界の境界と接続しているからだ。
この空間のほころびを押し広げていけば、フィオアの結界もすぐ、俺の手に“入る”だろう。
……水精を二体ほど片づければ、リフィアたちも勝てる筈だ。
「!?」
“世界”を広げようと、さらに深く“手”を伸ばしたその瞬間。
背筋が凍るような悪寒が走った。足許の水面を波紋が通り過ぎていく。
「あなた、いつまで見ているの?」
声が近い。
振り向くと、遠く離れていたフィオアがすぐ目の前に立っていた。
「くっ」
思わず、後ろへ飛びのいた。
「フィオアっ!」
恐怖を剥ぎとるように、女神の名を叫ぶ。
「あなたの相手はわたしよ」
トーガの裾が優雅に持ち上がり、微かに揺らめいた。
「そろそろ、こちらもはじめましょうか」
口角が美しく、引き上げられた。
目の前に、人間の姿をした人間でないものがいる。
その顔に浮かんでいた微笑が消え、無表情になった。
両足を開いて踏ん張り、両腕を伸ばして拳を握る。女神と正対する。
「風、火、土、金、我が魔法具よ。合(がっ)して世界を成せ」
小声で呟く。
“両手”をいっぱいに広げ、四つの異界を意識のうちに抱え込む。
「……」
フィオアの顔に表情が現れた。困惑しているような、怒っているような、複雑な表情だ。
彼女の背後、凪いだ水面に水の魔力、いや神の力が立ち昇る。
巨大な壁となってせり出してくる。
こちらも負けずに、編んだ“世界”を展開、潰しにかかる。
戦っていたリフィアたち、精霊たちはもういない。フィオアが“外側”にはじいたのだろう。
水の空。水の空気。水の光。そして水面。
静かに、すべてが凪いでいる。
互いの世界、魔力の源を背負って向かい合う俺とフィオア。その中心の一点に、小さな空間に、微かな揺らぎが見えるだけだ。
……鍔迫り合いになるのはわかっていた。
凄まじい緊張感が全身を苛む。フィオアはどうか、それはわからない。だが俺は、魂そのものを手づかみで奪われるような恐怖と戦っている。抜き身で、何も隔たるものがない。
「我この地に恵みをもたらさん。生きとし生けるものすべてが渇きを満たさん」
俺が呟いたように、フィオアが俺を見つめたまま、小声で囁いた。
水神の、最初の祈りの声だった。
それは聖典にある一節だ。まったく同じだ。
彼女だけが使える魔法、神の力。彼女が唱えた時だけ、その絶大な力を発現する呪文。祈りの言葉……。
視界を覆うフィオアの壁が、流速が早まる。力が勢いを増す。
びりびりと、五感を引き裂かれるような力が放射される。
俺の世界を、神の力が圧迫してくる。
目の前の揺らぎが、大きく不安定になっていく。
この拳大ほどの揺らぎが、互いの力の頂点なのだ。
かつてバルタルが見せた、異次元の力。赤帝龍が放った、壮大な炎の奔流。それらをすら凌駕する力が、目の前の一点にある。
フィオアは俺の完成間近の世界に拮抗し、いや、超越しようとしているのだ。
この力くらべ、押し合いに俺が負ければ、そのまま異界に弾き飛ばされ、二度と戻れなくなるかもしれない。
焦燥を押し殺し、心身に息吹を満たす。下腹に力を込め、闘志を燃え上がらせる。
最後に行うこと。それはとても単純で、当たり前のことだ。
以前の、もうひとつの人生から繋がり、培ってきたことだ。
神々の知らぬこと。それが俺の世界を支えている。
……逃げない。ただ、向かっていく。
「来いっ!」
思わず叫ぶ。
“世界”を編む力を成す。上げていく。遠く、遠くを見る。異界の果てを。
フィオア、お前に俺の、あの果ての人生が見えるか?
「……!」
と、思いもよらぬ冷たい刃が、心中に差し込まれた。
心のうちを氷の刃が貫き、一瞬で融けて水になった。
ひとつだけ足りない、水の元素が欠けた俺の世界。そこへフィオアはあえて、自ら水の元素を混入してきた。
水神が、俺の世界に入り込んできた。
心中に挿入される異物に、怖気を震う。
……まさか、一体化しようと言うのか。
この世界の神々でさえ知らぬ異界の、違う世界の概念に、俺の観念に侵食してくる。
反発し圧倒することを止め、逆に開放し流し込んできた。
そんなことができるのか。
……なぜ?
危険だ。見せるわけにはいかない。知られるわけにはいかない。。
それは許されない。乗っ取られるかもしれない。この世界を閉じるしかない。
自分の意識を手放すしかない……。
「あなたが見た遠くの景色、あれは何? ……でも、おかげでつけ込む隙ができたわ」
目の前の、フィオアの辛そうな、真っ青な顔。
自らの瞼が落ち、意識が閉じた。
暫く。
また、水の音だ。小さな水路のせせらぎが聞こえる。
薄眼を開けると、妙齢の女性の顔があった。
俺を上から、見下ろしている。逆光で表情はわからない。片手で髪の毛を押さえている。
「起きたわね」
水の神殿に、戻っていた。片足を水場に突っ込み、祭壇の前に仰向けに寝ていた。
フィオアの顔が遠のくと、周りの様子が見えてきた。
右側の祭壇から、何かが垂れ下がっている。
……白い、人の腕だ。
「!!」
飛び上がって、祭壇の前に立つ。
祭壇の上にニナが寝かされていた。
その細い腕はニナの左腕だった。静かに深く、眠りについている。
「今は」
祭壇の奥にフィオアが立っていた。
「ここには、わたしたちだけよ」
女神は人間の女のように微笑んだ。
「遊びはもうおしまい。とても面白かったわ」
フィオアはニナに、手をかざして言った。
「ではあらためて」
爽やかな笑みが、花開くように広がる。
「お話しましょう? ……わたしもあなたに、お願いがあるの」
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