フィオアの泉 1
焚き火の鳴る音や夜鳥の声に混じって、夜闇の底から微かな水のせせらぎが聞こえてくる。森の切れ目の倒木の傍に水が湧き、小さな泉ができたのだ。
その泉は、水の女神フィオアの力によって生み出された。黒尖晶の肉体に憑依したフェニテオシスを斃し、水神の結界を破壊した跡から、レニの生還とほぼ同時に水が湧き出したのである。
泉から湧き出た水は瞬く間に小さな小川となって森の低い方、イシュル達が歩いて来た街道の方へ流れ出した。
「気になるか? イシュル」
……リフィアは妙に、鋭いところがある。
焚き火の炎を見つめながらも、水の音が耳から離れず、どうしてもそちらへ気が向いてしまう。それがわずかに、顔に出ていたらしい。
「ふふ。仕方がありませんわ。わたくしだって気になりますもの」
ミラが、少しからかうような視線を向けてくる。
……やはり彼女も、気づいていた。ただミラはいつもこうして、気を回してフォローしてくれる。
フェニテオシスを討ち、レニが戻ってきた倒木の傍、その泉から一行が夜営している場所までは、十数長歩(スカル、約10m)ほどしか離れていない。
あの泉はフィオアの、水神の座と関わりがある。今は怪しい気配は感じないが、誰だって気にせずにはいられない。
リフィアとミラもイシュルと同じ、その泉を気にかけていた。
「うん、まぁ」
と控えめな笑みを浮かべ、イシュルは彼女らの後ろで横になっているレニに視線を向けた。
レニは毛布に包まり、穏やかな表情を浮かべ眠っている。焚き火の明かりに照らされ、オレンジ色に染まって暖かそうに見えた。
彼女はあの後、月の女神に囚われてから何があったか、簡単に説明するとすぐ横になり、からだを休めている。
レニの話によると、囚われていた時はほとんど意識がなく、時折あやふやな夢を見ながらずっと眠り続けていたという。
……彼女はおそらく、仮死状態だったのだろう。いや、月か水か、神々の手にあったのなら、人間の“かたち”を保っていたかも怪しい。ただ魂だけが残された、というより存在すべて実体がない、完全に情報化されたような状態だったかもしれない。
相手は神さまだ。何でもありだろう。ただなぜか、自分の想像できないようなものは起こりえない、ありえないと確信を持てたりするのが不思議だ。なぜそんな気がするのか、わからない。理由もない。なぜそんなことを──。
「イシュル」
眠っていたレニが不意に、目を開けて言った。
イシュルの思考はそこで途切れた。
「起きていたのか、レニ」
「うん、何となく」
にっ、と悪戯な笑みを浮かべるレニの顔。その眸がイシュルを正面から見つめる。
「まぁ、レニさんたら」
「ふふ」
ミラもリフィアも、楽しそうな顔でレニを見た。
「調子はどう?」
「うん、だいぶいいよ」
戻ってきたレニは当初、足が鈍(なま)っていて独力で歩くことができず、食事も固形物を受けつけなかった。
イシュルは火魔法を使ってレニのからだを温め、ルシアたちが白湯、続いてスープを用意して彼女に飲ませた。それからセーリアとノクタ、ふたりがかりでレニの全身をマッサージし、硬くなっていたからだをほぐした。
「黒尖晶も始末できたし、ありがとう」
レニは小さいが心のこもった声で言うと、傍らに置かれた隠れ身の仮面に目をやった。
「ああ」
二つに割れた仮面はもう魔法を発動することはできないが、黒尖晶を始末した有力な証拠に成り得る。
これで彼女の故郷、パレデスに聖都から騎士団や魔導師、傭兵らの一団が派遣され、大規模な魔物討伐が行われることになるだろう。
「ニナさんのことは心配しないで。水神は彼女に危害を加えるようなことはしないと思う」
「まぁ、そうだろうな」
「問題は、水の主神殿跡でフィオアと対峙した時だ」
イシュルが頷くと、リフィアが厳しい顔になって言った。
「水神のねらいは何でしょう? まさかニナさんを人質にイシュルさまを脅して、無理やり従わせようと考えているのでしょうか」
ミラたちも風の剣や、赤帝龍を斃した強力な結界魔法、つまり神の御業を使えば、彼らとも互角に戦えるだろうと踏んでいる。それなら神々が戦いを避け、何か策を弄することだってあり得る、ことだろう。
「わたしが考えてるのは、たぶん……」
そこまで言って、レニは気まずそうに口を噤(つぐ)んだ。
「なんだ?」
「うん」
イシュルが穏やかな口調で促すと、レニは決意したように一度頷いて、続けて言った。
「フィオアは水の神殿までイシュルを呼び寄せたら、何か重要な儀式を行おうとしているのかもしれない」
レニの眸が上目遣いに、だが真剣な目つきになってイシュルを見た。
「──ニナさんを生贄にして」
「むっ」
「……」
リフィアは小さく呻くような声を発したが、イシュルとミラは難しい顔になって顔を俯け、ほぼ同じ反応を示した。
ふたりとも、レニの言ったことに思い当たる節があったのだ。
……ニナがエルリーナとともに姿を消し、フェニテオシスとやり合っているときに、まずはじめに浮かんだ疑念が、実はそのことだった。
「それは俺も考えていた」
イシュルは俯いたまま視線を、時折ぱちぱちとはぜる焚き火の炎に向け、低い声で言った。
何度目か、ニナを奪われた時の苦渋が胸の底からこみ上げてくるのを感じた。
「イシュル、わたしも力を貸すから。ニナさんを絶対、救い出そう」
「今から心配してもしょうがない。生贄にするなら、その儀式がはじまるまではスルース殿は無事、ということだ」
「ニナさんは水神の儀式で、必ずわたしたちの前に姿を現わしますわ。勝負はその時です」
レニ、リフィア、ミラが続けて、みなが力を込めてイシュルに言った。
「ふふ、そうだな。とにかく水の主神殿に行ってみないと、話はそれからだ」
イシュルは笑顔を浮かべて言った。
ミラたちの自分を励まそうとする気持ちを、思いやりを素直に受け入れようと思った。それはニナを救い出そうとする強い思いを、フィオアと対決する勇気を奮い立たせる、大きな力となった。
「フィオアが降臨した時が勝負だ。荒事になるとは限らないが、みんな、ニナを取り戻すために力を貸してほしい」
「うん!」
「よし!」
「もちろんですわ」
三人ともそれぞれに、力強く頷いた。
「ありがとう」
イシュルは頷き返しながら、ちらっとミラに目をやった。
彼女は聖堂教への信仰が厚い、オルスト聖王国の貴族である。水の女神フィオアと対決する可能性が高くなり、内心かなりの葛藤があるのではと気になったが、彼女の表情からはそのような様子は見てとれなかった。
……ミラも、みんなと一緒に行動するようになってから長い。彼女も神々を間近に見る機会が何度かあり、盲目的な教徒ではなくなっている、ということなのかもしれない……。
「さあ、みなさま。夜も更けてまいりました、見張り当番の方以外はそろそろお休みに」
隣の焚き火の方から、メイド姿の影が立ち上がって声をかけてきた。ルシアだ。
「レニさまを寝かせてあげませんと。明日も早いのですから」
少女たちの微かな寝息に時折、焚き火のはぜる音が重なる。
木々の上は曇り空だ。魔物はもちろん、夜鳥の声もしない。
みなが寝静まると、見張り当番のイシュルは辺りの気配を念入りに探り、おもむろに立ち上がると焚き火から離れ、泉の奥の木々の間に足を踏み入れた。
目の前の小さな空間に、深い闇が凝縮している。
イシュルはその闇を見つめ、小声で金の精霊を呼んだ。
「ユーグ」
「御前に」
名を呼ぶと、すぐに反応があった。暗闇の底から青白い光が立ち昇り、瞬く間に人の形になった。
「異常は?」
「何も。静かな夜です」
「ふむ」
イシュルはユーグのらしくない、「静かな夜」のひと言に機嫌よく笑みを浮かべた。
「昼間のあれはありがとう。助かったよ」
樹間に浮かぶ金の精霊に、イシュルは頭を下げて礼を言った。
“昼間のあれ”とは、ユーグがフェニテオシスの張った水神の結界を破った一件のことだ。強大な魔力を持つ大精霊であろうと、そう簡単にできることではなかった。
「いや……」
だが、ユーグはいつもに増して控えめで、表情に変化は見られない。
「あの結界はフィオアの降臨の座を臨時に生成する、特別なものだった。水神の近侍だと名乗ったフェニテオシスは、己の張った結界の説明もしてくれた。自分しか張れない、水神をお迎えする特別な結界だとな」
イシュルは首を横に傾け、片手を振って話を続けた。
「俺もあの時、特別な火魔法を発動しようとしていた。きみの魔法の方が一瞬早く、実際に使うことはなかったが」
「それは失礼した、盾殿」
ユーグは無用なことをしたと詫びを入れてきたが、相変わらずの無表情だ。
「水の精霊が言ったとおり、あの結界は強力なものだった。きみの強さは微塵も疑わないが、生半可な魔法で破ることは不可能、どんな精霊だろうとそう簡単に破れる代物ではなかった」
イシュルは笑みを浮かべたまま、だが視線鋭く質問した。
「どんな魔法を使った? あの時おまえが持っていた大型の戦斧は何だ?」
「あれは……」
ユーグは珍しく、言いよどむと顔を俯かせた。
「わたしはヴィロドさまからある重要な役を仰せつかっている」
そしてゆっくりと顔を上げ、何かを決意したように硬い口調で言った。
「わたしは金神に仕える処刑役なのだ」
そして右手を宙にかざすと、あの大型の戦斧を再び現した。
精霊と同じ、無色の半透明に輝くバトルアックスは、柄の部分も含めるとユーグの身長よりも長く、先端に左右対称の巨大な刃がついた両刃の斧だった。斧の先端は槍の先のように鋭く尖っており、いたるところに豪奢な装飾が施されていた。
「ヴィロドの、処刑役……」
イシュルは呟くように言うと、ユーグの持つ戦斧を見つめた。
……つまりユーグは、金神に任命された死刑執行人、首切り役人ということだ。あの仰々しいバトルアックスは、大精霊のような高位の精霊でも処断できる特別な武具、魔法具と見なしてもいいかもしれない。
精霊の持つ特別な武具ならば、特別な魔法も使える、ということなのだろう。
「その戦斧は、ヴィロドから下されたものなのか」
「そうだ」
ユーグは眉間に皺を寄せ、重々しく頷いた。
「これは金神の処刑具、クロワースと言う。この宝具を使って水神の結界を“斬った”のだ」
「なるほど、そうか」
……斧だからな。やはり首か。首を斬り落とす、わけだ。
イシュルはそこで、シャルカが眉をひそめてユーグを見ていたのを思い出した。
処刑人は世界が変わろうが時代が変わろうが、恐怖と嫌悪の対象である。たとえそれが、絶対の存在である神の代行者であろうとも、だ。シャルカのあの難しい顔つきは、そのことを表していたわけだ。
「ともかく、きみの宝具の威力は絶大だった。素晴らしかった、ありがとう」
イシュルはもう一度、笑顔になって礼を言った。
「その宝具でどんなふうに“斬った”か、とても気になるんだが……」
しかしあれは、金神から直々に下賜された武具なのだ。その切れ味がどれほどのものなのか、誰だって容易に想像がつく。
「詳しい話を聞くのも無粋、か」
「盾殿がいちいち気にすることではない。いずれまた、近いうちに見せる時がくるだろう」
イシュルが小声で呟くように言うと、ユーグは顔を明後日の方へそらして言った。
「……」
イシュルもつられて同じ方へ視線を向けた。
その先、夜の森の深い闇の向こうは、目的地の、水の主神殿跡の方向だった。
「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の精霊を与えたまえ、この長(とこしえ)のひとの世にその態を現したまえ」
暫く、イシュルはユーグを下がらせると、その場であらたに風の精霊を召喚した。
……昼間、ニナはフィオアの神殿がすぐ近くにあると言ったが、まともな道もない森の中を行くのだ。徒歩ならば間違いなく、数日程度はかかる筈だった。
まだ距離がある、と甘い考えでいたら、街道をそれてすぐにこの有様だ。もう複数の精霊を扱うのは面倒、などと言ってる場合ではなくなってしまった。
次はユーグに加え、偵察、機動力に優れた風の精霊を召喚することにした。これからフィオアと遭遇するまでに、暫時他の元素の精霊も呼ぶつもりだ。相手が相手だ。もしもの場合、こちらも全力でかからねばならない。絶対にニナを取り返さなければならない。
イシュルの危機感が影響を及ぼしたか、先ほどまでユーグがいた闇に突然、思いもよらぬ強風が渦巻き、激しく枝葉が鳴った。青い魔力光がぎらぎらと煌めき、飛び散る木の葉が幾つも輝き舞い上がった。青い光は風を纏い、樹上まで昇っていった。
常にない、派手な精霊の召喚になった。森を突き抜けた閃光が瞬くと次の瞬間、目の前に人型の光体が現れた。
中肉中背、男の体型、長めの髪。そして両手に細身の偃月刀を持っていた。
「風の剣の請願により、只今参上」
結んだ像は若い男、引き締まった精悍な顔をしている。両手に持つ剣は、中近東のアサシンが持つ大振りのナイフのようなイメージだ。
「ふふ、よろしく。俺はイシュルだ。名を聞こうか」
「俺の名はセスデティオ・デニテルストスという。よろしく頼むぜ、剣さま」
……あー、なるほど。またか。何かの生き物の学術名みたいだな、前の世界の。
イシュルはやや鼻白んだ顔になって、いつもの提案をした。
「えーと、セスと呼んでもいいかな」
「ああ、かまわないぜ。それで」
強面(こわもて)の精霊の、口角がくいっと引き上げられた。
……凄みのある笑みだ。ばりばりの武闘派だな。
イシュルは心のうちで苦笑を浮かべると、すぐに身を引き締めた。
金神直属の処刑役で、必殺の武具を持つユーグに、新たに呼び出した風の精霊はこれだ。
俺が心の奥底で何を望んでいるか、何を怖れているのか……。フィオアと相まみえる時、何が起きるか、しっかりと覚悟を決めておくべきだろう。
「これからかなり厄介なことになりそうでな、それでおまえを呼んだ。相手はフィオアだ」
「はぁ? フィオアだと?」
セスは両手を持ち上げ、顔を傾けて素っ頓狂な声を出した。
「くくっ、そりゃ面白いじゃねぇか」
顔はにやにやと、笑っている。
「……楽しめそうだ」
「詳しくはあとで説明するが、すでに金の精霊を召喚している」
イシュルは肩をすくめて苦笑を押し殺すと、ユーグを呼んだ。
「ユーグ、顔合わせだ」
「……」
セスは獰猛な笑みをひそめ、無言でイシュルの後ろの、深い闇を見つめた。そこに一瞬魔力が煌めき、ユーグが姿を現した。
「ほう……」
セスはユーグを見て、わずかに眸を細めた。
だが若い風の精霊の見せた表情はそれだけ、侮蔑も敵愾心も、多くの精霊が他の精霊に示す不快な態度を一切、見せなかった。
「……」
ユーグはいつものごとく、セスをちらっと見やるとあとは無言、特段の反応を示さなかった。
もちろん、挨拶の言葉などない。
「ふう」
イシュルはもう一度肩をすくめると、小さく息を吐いた。
「ふたりとも諍いはなし、連携して戦わなければならない時だってある。俺の命令は絶対だ。……わかったな?」
厳しい視線でユーグとセスを見回す。どちらもなかなか、召喚主の言うことを聞かないタイプだ。ここはきつく、念押ししておかないといけない。
「……承知」
「ふふ、もちろんだ」
ユーグは無表情で、セスはそのユーグを横目に口端を歪めて頷いた。ユーグはどうかわからないが、セスは意外にも相方の金の精霊を気に入ったようだった。
……こいつ、ユーグの強さがわかるんだ。
イシュルは薄く笑うと胸の前で両拳を握りしめ、ゆっくりと話しはじめた。
「じゃあ、これからのことを説明する。ユーグも一緒に聞いてくれ」
まだユーグにもすべては話していない、最大の目標。
「これから、かつての水の主神殿に行き、フィオアに会う。そこでニナという名の、魔法使いの少女を救出し」
イシュルはそこで気合いを充溢させ、不敵に笑うともう一度、ユーグとセスを見回した。
「水の魔法具を必ず、もらい受ける」
強気な口調で言い切った。
翌日は朝早くに出発、昨日の戦いでできた不思議な泉を後に、さらに森の奥深くに入っていった。
フェニテオシスとの戦いでは、彼の結界の外側でユーグの強力な魔法が放たれた。周囲に散在する、大公国の城や砦に気づかれた可能性があり、捜索の手が伸びる前に森の奥に隠れ、水の神殿跡へ向かわなければならなくなった。
「えーと。ごめんね、イシュル」
「いや、いいんだ」
「でも……」
「午後からまた、少し歩こう」
イシュルは顔を横向け、視線を後ろにやってやさしい声で言った。レニの顔がすぐ後ろにある。イシュルはレニを背負って歩いていた。
「いきなりは無理ですわ。あせらずに少しずつ慣らしていきましょう」
隣を歩くミラも、レニにやさしく声をかけた。
「うむ、無理に急ぐ必要はなかろう。ニナ殿の身はむしろ、おまえが到着するまで水神によって厳重に守られている、わけでもあるからな」
「……」
イシュルは先頭を歩くリフィアが振り返って言うのを、薄く皮肉に笑みを浮かべて聞き流した。
大公国の干渉を怖れ、早朝に出発したイシュルたちだったが、すぐとある問題が発生した。
かなりの間、月神や水神に囚われていたレニは、その期間眠り続けていたせいか足が鈍っていて、長時間歩くことができなかった。それでイシュルは途中からレニを背負い、水神の神殿に着くまで、少しずつ歩く時間を伸ばして慣れさせることにしたのだった。
……確かに、ニナの身柄は俺の到着次第、慌てる必要はないのかもしれない。
だが、この心のざわめきはそれだけで治らない。
「イシュル。わたしのことは心配しないで」
耳許で囁くような、レニの声。
「わたしは風の魔法使い。足が弱っていても関係ない、空で戦えるんだから」
声とともに、彼女の両腕に力が込められる。
「ああ、何も心配してないさ」
思わず微笑み、振り返るとレニも笑っている。
彼女の気遣いが励ましになった。彼女の笑顔が、何より力になった。
「あらまぁ、ほほ」
「……」
ミラが上品に笑って、リフィアが振り向いて、羨ましそうな視線を向けてきた。
「どうしたの?」
昼食で小休止した後、ゆっくり歩くレニに時おり手を貸しながら進んでいくと、彼女が足を止め、声をかけてきた。
……地中を、何かの気配がする。
樹木の根が広がり複雑な様相を見せる、もうひとつの地下の森。足下で一瞬、何かがうごめく感じがした。
「いや……」
足の裏には、下草や腐葉土を踏んだ感触があるだけだ。見張りのユーグもセスも、何も言ってこない。
「ん?」
唐突に、今度は目の前の空間が揺らぎ、それが北の方へ、はるか先まで一直線に伸長していくのがわかった。
「空気が入れ替わった」
地上と地下で、連動するように感じた何かの気配。
「なんだ?」
首を傾げると、後ろからミラが訊いてきた。
「どうしました?」
「おい」
その時、先頭を歩いていたリフィアも足を止め、不審な声を上げた。
「なんだろう……。道、かな? 地面に敷石みたいなものがあるぞ」
「おお、それだ!」
何か閃くものがあった。
イシュルは短く声を上げるとリフィアの前に進み出た。
目の前を塞ぐ枝を払い、背をかがめて前方を覗き見ると、僅かに木々や枝葉の隙間が広がり、明るさの増した森の切れ目があった。
「……なるほど、敷石だな」
足を踏み入れると地面に、大小の加工された石片が散らばっているのが見えた。ところどころ摩耗し、欠けた古い石は、足裏に当たる感覚からすると敷石のように思える。
「苔むしていて、かなり古いものだね」
レニがかがんで、石の欠片を拾って見ている。
「なんの遺跡でしょう」
「まさか、もう神殿跡に到着したのかな」
と、ミラとリフィアが話している。
続いてシャルカやルシア、ロミールらも足を踏み入れた。
「……」
イシュルは背筋を伸ばして、周囲を何度か見回した。
黒い幹の連なりと、枝葉や下草、苔類の緑の色相……。
この空間。
「道だ」
五感に何となく伝わってくるものがあって、自然とその言葉が口に出た。
「道が南から北へ、続いている」
ほんの微かな植生の違い、地中に残る道筋。遥かな昔、ここを道が通っていた。
石畳の道が真っ直ぐ、一直線に水の主神殿に続いていたのだ。
「道、か」
リフィアが周囲の草むらを見回し、小声で言った。
昔は石畳だったのだろうが、それが道かどうかはわからない。何かの建物の敷地だったかもしれない。
「昔、ここに道が通っていたということですか?」
ミラがイシュルに訊いてくる。
「うん、何となくわかるよ。この場所は他より少しだけ、風が通る感じがする」
と、続いてレニが言った。
風が通るとは、風通しがいい、と言ったところか。
「ああ。この辺りは昔、街道が通っていたようだ。ウルク王朝の時代、目的地の水の主神殿がまだ健在だった頃のものだな」
ウルクが滅び、水の主神殿も戦火に見舞われ破壊された。その後人も住まず、数百年ほど経つと周囲が森に覆われた。
「なるほど。ウルク王朝の時代なら、主神殿に立派な石畳の道がついていても不思議はない」
リフィアが納得がいったか、何度か頷きながら言った。
「それでこうして、今でも街道の跡が残っていますのね」
「そういうことになるが……」
ウルク王国が滅んでから千年、まだ敷石の一部が露出しているようなことがあるだろうか。夏場に雨期のある地域だから、堆積物も定期的に流されることはあるかもしれない。
西のブレクタス山塊から東のディレーブ川まで、おおまかにいえばロネール一帯は、緩やかな傾斜地になっている。西から東へ標高は少しずつ下がっている。この街道跡は南北に縦走しているが、雨期にはところどころで雨水が流れ、すべてが埋没することはないだろう。一方で樹木の密集した森の地形であるために、土壌が急激に侵食されることもない。その結果、古い時代の敷石がこうして地上に、目に見えるかたちで残されているのだろう。専門知識があるわけでなし、断定はできないが……。
ただ、より不自然に感じたのは、この場所の木々の植生の微妙な変化が、細い帯状となって南北に長く続いていたことだ。それでこの古い敷石の散在する一帯が、昔の街道だったのではないかと推測できたわけだが、このわずかな植生の違いがどれほどの期間、維持されるのか、何百年もの間保たれるものなのか、どうしても疑問に感じずにはいられない。
最初に感じた地下の、正体不明の気配……。
あれはその昔、人工的に踏み固められ造成された地面に突き当たったから、それで感じた違和感だったのだろうか。
果たしてそれだけだろうか。
「ユーグ、セス」
イシュルはふたりの精霊を呼んだ。
ユーグは一行の傍に置いて周囲の警戒を、セスは先行させて前方を中心に警戒、偵察させている。
「盾殿」
「……」
ユーグとセスが半透明の姿を現すと、イシュルはふたりを見回し問いかけた。
ミラやリフィアは茫然と、新たに加わった強面の風の精霊、セスを見上げた。イシュルに背負われたレニは、苦笑を浮かべてわずかに首をすくめ、シャルカは無表情のまま、ルシアは視線をそらして溜息をついた。ロミールたちは少し離れて身を固くし、縮こまっている。彼らは今は武神の魔法具を身につけ、精霊も以前より見えるようになっている。
「ここは昔、街道だった場所だ。この先は目的地の、かつて水の主神殿だった遺跡につながっている。その筈だ。ふたりとも、何か感じないか」
「剣さまの言うとおり、ここはかつて人間どもが行き来した道だ。この道の終点はまだ距離があり、木々が邪魔してはっきりわからない。……いや、何か靄がかかっているみたいだ、変だな。これは隠蔽されてる、のか」
セスはそこまで言うと、不意に口端を歪ませ声を潜めた。
「どうする? 今はまだ、探りを入れるのはやめておいた方がいいと思うが」
「フィオアの神殿だ。不用意に手を出すのは危険だ」
……ユーグもセスと同じ意見だが、それは俺も同じだ。水の神殿跡まで、無理して魔力の感知を伸ばす必要はない。この昔の道の終点は、何となくだが嫌な感じがする。セスは「霞がかかっているみたいだ」と表現したが、毒の霧で覆われている、と言ってもいいくらいだ。やたらと警戒心を煽ってくる。
……ともかく、今はまだそれはいい。問題はこの不思議な感じのする、狭間のような空間だ。
「盾殿の気になっているもうひとつ、この古道に漂うものの正体だが……」
「はっきり魔力と呼べるほどのものじゃない、だが水神の力の気配は何となく感じるぜ」
セスがユーグの言葉尻をとらえ、気になっていたことをズバリ指摘してきた。
「それだろうな……。何か、気になる感じがする」
「そうだね。この木立の疎らな感じ、何かの力が働いているんじゃないかな」
イシュルに続いて、レニも賛意を示した。
「不自然なのはそうだが、この街道跡をたどっていくのが一番だろう」
「これこそフィオアさまの思し召しでしょう。ほかに道はありませんわ」
リフィアもミラも、わずかに皮肉の混じった笑みを浮かべて言った。
……確かに、この街道跡を通って来い、というのがフィオアのメッセージなのだろうが、誰も、地下の気配には気づかないのか……。
地中に感じた何か。それは間違いなく、地上のこの空間と連動している。
「危険な感じがするが、仕方ないか。この街道跡にそって行こう」
イシュルは一瞬足下の地面を見つめ、それから前を向いて言った。
夜空に木々が折り重なり、頭上を深い影が覆っている。
森の闇は底に、林間にわだかまる。その筈が、異変が起きていた。
それは陽がまだあるうちに、霞か霧のように木々の梢の先を移ろい、小さな影をたどって追いかけてきた。
皆が歩みを止め、野営の仕度にかかると少しずつ、夕闇に潜み少しずつ、彼らの頭上に集い、夜空に、樹間の影にまぎれて時機を待った。
驚くべきことに、闇に巣食う者らはこの時、精霊の目をも誤魔かしとおした。影に、闇に潜む限り、その者らを精霊でさえ見つけることができないのだった。そこは常ならぬ、深い森だったから。
最初に異変に気づいたのは、前方を警戒していたセスだった。
一行が野営の準備を済ませ、夕食をとり、見張りを残し眠りについた頃、イシュルに知らせてきた。
……剣さま、何か感じないか? まずいな。どうも小さな悪霊どもが、剣さまの周りに集まってきているようだ。
「ん……」
浅い眠りの中で、イシュルはその声を聞いた。幼子の見るような曖昧な、恐ろしい悪夢を見ていた。
セスの知らせに、頭上を何かが這い寄り、ひと塊りに集まっていく映像が夢中に現れた。
「!!」
瞬間、目が醒めた。
……確かに、頭上に何かいる。
黒い塊。闇の魔物、悪霊だ。かなり大きい。真上の樹上に集まっている。
人の立ち入らない深い森や洞窟、廃墟の暗闇に潜み、感知するのが難しい魔物だが、これだけのものをユーグら高位の精霊が見落とすのは、まずありえない。
「盾殿、すまぬ。見落とした。闇の邪霊だ。今すぐ退治する」
と、その時ユーグの慌てた気配がして、耳許に直接声が聞こえた。
「いや、待て」
……あの動き、何か変だ。
イシュルはユーグを制止し、頭上をうごめく真っ黒の影を見上げた。
「ん、どうした?」
少し離れた樹木の影から、シャルカの声がした。
あいつ、寝ていたのか。普段はほとんど眠らないのに。
「むっ」
シャルカの低い声。同時に金の魔力が煌めく。
「やめろ、攻撃するな。ミラを起こせ」
小声で素早く制止する。
「……あ、あの」
見張り番をしていたメイドのノクタが今頃気づいて、困惑した声を上げる。
「ノクタはリフィアたちを起こせ。攻撃はするな」
イシュルは樹上の悪霊を見上げながら言った。ノクタはリフィア付きのメイド兼護衛役だ。
「たくさんの悪霊が集まって……」
大きな塊に、一体化しているのか。
「めずらしい。そんなことがあるのか」
「……わたしも見たことがない」
ユーグの姿が、上体を起こしたイシュルの背後に浮かび上がった。
「まぁ、なんてこと」
「ひっ」
ミラの声、そしてロミールの脅えた声がする。
「イシュル、どうする?」
リフィアが腰を浮かし、剣の柄に手をかけた。
「なんでこんなことが起きているんだろう……」
ロネーの森に入って以降、水の精霊フェニテオシス以外に、手を出してきた者はいなかった。魔物の気配すらしなかった。
イシュルは呟くように言うと、ユーグからミラ、リフィアの顔を見回した。
……剣さま、いい加減その物騒なもの、始末した方がいいぜ。俺がやろうか?
前方にいるセスの声が、脳裡に響く。
……いや、俺がやる。
イシュルは心のうちで答えると、無数の悪霊が集まる中心部分に意識を向けた。
密度を増していく闇の中心、そこには虚無しかない。
「悪霊が合体するなんてな」
イシュルは小声で呟くと、火の魔力を闇の中心に灯した。
「……! ……!」
闇の塊は突然、無気味な悲鳴のような音を発すると、中心から四方に閃光を走らせ、一瞬で爆発するように四散、夜闇に消えた。
火の魔力は、四方から集まっていた無数の悪霊すべてを貫き、はるか先の森の終わりまで到達した。
イシュルの知覚が、魔力の閃光が葉脈のように拡散するのを捉えた。
「素晴らしい……が、これはどういうことだ?」
樹上を仰ぎ見ていたリフィアが感嘆の声を発したが、すぐイシュルに顔を向け質問してきた。不審を隠さず、難しい顔をしている。
ミラやレニ、ルシアやロミールたち、みんながイシュルを見ていた。
「明らかに不自然、だな」
ロネーの森に入って以降、フェニテオシスの接触以外、魔物の襲撃は一切なかった。ここにきて、無数の闇の精霊、悪霊の異常な行動は、何らかの介在を露骨に示していないか。
「水神が動いているのは確かだね」
レニが起き出して、焚き火を起こしながら言った。
「だが、フィオアが闇の精霊を使役するのか? それは神さまだからな、やれないことはないんだろうが……」
リフィアが、誰もが思った疑問を口にした。
「バルタルの力を借りたとか、かしら」
「それはどうかな」
首を傾げるミラにイシュルが答える。
邪神や悪しき魔を統べる神、バルタルとは以前に矛を交えている。あの男神が、簡単にフィオアに助力するとは思えない。
「ともかく、何らかのフィオアの力が働いているのは間違いない」
「これからも、悪霊が集まってくるんでしょうか」
ロミールが不安そうに言う。
セーリアとノクタも脅えた顔をしている。彼らは武神の魔法具を持っているが、悪霊に物理攻撃は通用しない。リフィアの武神の矢ように魔力の込められた攻撃ができなければ、自分の身を守ることはできない。
「心配するな」
イシュルは、ロミールたちに笑みを浮かべて言った。
「これから火の精霊も召喚する」
悪霊に最も威力を発揮するのは火の魔法だ。火の魔力は、闇に潜む悪霊の感知にも優れている。こんなことが起きた以上、火の精霊を呼ばなければならないだろう。
イシュルは、最初の見張り当番を買って出て皆を安心させ眠りにつかせると、その場から少し離れ、火の精霊を召喚した。
「火の神バルヘルよ、我(わ)に汝(な)が火の強者を遣わしたまえ、汝が恩寵を我に下したまえ」
火の精霊を呼ぶのははじめてだ。召喚呪文を少し変えて唱えると、言い終わる前に目の前の空間に熱い光が人型の像を結んだ。
「これは杯(さかずき)殿」
半透明だが、暖色のやや黄味を帯びた人物が野太い、だが妙に品のある声音で言った。
古めかしい鎧にやや細めの剣を吊るし、右手に魔法の杖、なのか、大きな房のついた采配のようなものを持っていた。
杯殿、との呼び名は、魔法具の「火の杯」からきているのだろう。
「我が名はアローンドアリダード・アクニャグアージョ。すべての火の名を司る、を意味する栄誉ある称号を持つ」
仰々しい姿の火精は、右手の采配を胸元にひきつけると、威厳を込めて言った。
「それは、凄い」
……その長ったらしい名前のどこらへんが、栄誉ある称号なのかよくわからないが、強力な精霊であることは嫌でもわかった。
「えーと、それできみのこと、アローンと呼んでもいいかな?」
「うむ、かまわぬ。杯殿」
アローンはこれも重々しく頷いた。
イシュルは先ほどあった悪霊の襲撃の説明をし、自身と仲間の厳重な警護を頼んだ。
「たくさんの悪霊が集まってひとつに合体するなんて、はじめて見た。アローンは、悪霊があんな動きをするのを知っているか?」
「悪霊の類いはよく暗闇に集まり潜むもの。だが樹上に登り、高いところに集まるなどとは聞いたことがない」
「そうか……」
「それはやはり、水神が関係しているのであろう」
アローンは北の方をちらっと見ると、肩をすくめたイシュルを励ますように言った。
「しかし怖れることはない。御身とお仲間の安全は、このアローンドアリダードにおまかせあれ。心配は無用」
「ああ」
イシュルは小さく笑って頷いた。
……これで召喚精霊は三体。これから先も何が起こるか、ただではすむまい……。
その夜は以後、何事もなかったが、陽が昇り出発すると間もなく、一行は再び異変に見舞われた。
かつて街道のあった、古い敷石の散在する林間を行くとすぐ、精霊たちから報告があった。
「“道”に沿って魔獣の群れが集まってきている。大型のやつも混じり始めている」
「外側を小悪鬼(コボルト)どもが、内側を赤目狼の群れが横並びで移動している」
「後ろからは悪霊も動いている」
古道の周囲は深い森だ。木々の厚い壁のせいか、イシュルは魔物の気配を感じなかったが、地面に膝をつき手のひらを当てると、たくさんの魔獣の気配が感じ取れた。周囲の地形からか、風の魔力の知覚よりも、土の魔力で地面を通した方がより確実に感じ取ることができた。
「近寄るものはすべて始末しろ」
最初、イシュルは深く考えずユーグらにそう指示した。前方にセス、中央にユーグ、後方にアローンを配置し、分担させた。
それもすぐ煩雑に、遠く近くで大小の魔法が煌めき、魔獣の悲鳴や爆発音が響くようになると、リフィア以下、特にロミールやセーリア、ノクタが動揺をあらわにした。彼らも剣術に優れ、ただの従僕ではないが、多くの魔物が瞬く間に殺され、無数の魔法が間断なく発動される状態が続くと、不安を抱かずにはいられなくなるようだった。
その日の午後にはルシアをはじめ、リフィアやミラ、レニも困惑を隠さなくなった。
「なぜ、こんなに魔物が寄ってくるのか」
「まぁ、これも水神の仕業であろうが」
「広い森ですが、果たしてこれだけの魔物がいるものでしょうか」
「西のブレクタス山系から、降りてきているんだろう」
「だが、ロレーヌの森に入るには途中、人里を横断しなければならない」
「魔物はわたしたちを襲おうとしているのかな? それともほかに何か、目的があるのかな……」
夕食時、みなで思い思いに話していると、最後にレニがぼそっと呟くように、そう言った。
魔物の襲撃、いや接近は就寝後も一晩中続いた。夜中に一度だけ、大型の赤目狼が一匹、至近距離まで近寄りシャルカが直接対処する場面があった。イシュルが土の魔法ですぐ赤目の遺骸を土中に埋めたが、長い間、獣の濃い血の匂いが消えなかった。
翌日、夜が明けてからも同じ状況が続き、イシュルは召喚した精霊たちに、眠りの魔法を使って魔物の接近を阻止できないか、相談してみた。
……眠りの魔法は、広い範囲で使うと威力が弱くなり、魔物によっては効かなくなる。
……そんなに長い間、眠っているわけじゃないからな。結局、時間稼ぎにしかならないぜ。
……我は眠りの魔法は不調法だ。すまぬ、杯殿。
結局眠りの魔法は効果的でなく、不採用となった。一定の距離に近づくものは攻撃し、脅して退けるか、斃してしまうか、ほかに方法がなかった。
「大精霊の魔力で逃げないなんて、考えられませんわ」
「強い精霊に歯向かってくるのは、もっと大型の魔獣だろう。間違いなく水神の、何らかの力が働いているに違いない」
「うん……」
視線を落とした先には苔むした敷石が草間から顔を出している。古道はわずかに樹間が開き、少しだけ陽が差し明るい。
うまい具合に、水の主神殿跡まで直行できる道を見つけることができたが、それはどうやら水神の罠だった。四六時中、大小の魔法が発せられ、たとえ害獣とはいえ無数の魔物の命が消えていく。こんなことが何日も続いたら、みなまいってしまう。
この古道から外れても、魔物の接近や襲撃から完全に逃れることはできないだろう。
……フィオアの仕業といっても、具体的に何か魔力が働いている、というわけではない。水の魔法は発動されていない。神々の使う業(わざ)、奇跡、それらしきものは感じられない。
このいわば心理戦の意味するものは何か。力づくで妨害するのなら、フェニテオシスのような大精霊を連続で、あるいは多勢で一気に攻撃させた方が、効果的ではないか。
「イシュル」
横を歩くレニがやさしく声をかけてくる。
「一応、フィオアは慈愛の神さまだからね。このなさりようも何か、意味があるのかもしれない」
「……そうかもな」
イシュルはレニを見て、力なく笑った。
彼女はこの緊迫した状況も手伝ってか、昨日あたりから一日通して歩けるようになった。
微かにそばかすの浮いた、レニの素朴でやさしい笑みが心に染みる。
水神が仕掛けてくる意図は何か? 太陽神ヘレスのように慈悲深いとされるフィオアだが、神話に描かれる彼女は良くも悪くも女神らしく、時に我が儘で嫉妬深く、意地悪でもある。
……俺は、彼女に試されているのか。
ニナのこともそうだ。結局は神の手のひらの上で、もがき苦しむしかないのか。
翌朝、起床前のわずかな間のことだ。
浅い眠りのなかで、イシュルは地の底に何か、得体の知れないものに気づいた。
地の知覚を研ぎ澄まし、深く深く、地の底へ伸ばしていくと、南北に走る小さな水脈に触れた。
周辺は、ブレクタス山塊から伸び広がる傾斜地だ。地中には無数の水脈が、主に東に向かって伸びている。
その南北に走る水脈はめずらしく、ほかの大きな水脈に飲まれ、合流することもなく、真っすぐ北へ向かって伸びていた。
「イシュルさん!」
そこでロミールに起こされ、イシュルの探索は途切れた。夢見心地のまどろみの中で、その記憶も断ち切られた。
三日目か、その日の昼間も魔獣たちの断末魔が、風、火、金の魔力の煌めきが、神経を苛立たせた。
今はほとんど小悪鬼(コボルト)や赤目狼だが、少しずつより大型の大牙熊や、牙猪の群れが現れはじめている。フィオアの神殿に到着する頃には、火龍や悪魔の群れも飛来するかもしれない。
……何か、何か、この災厄から逃れる方法はないだろうか。
森の中をともに歩く皆も、顔色がすぐれない。この状況を、何とかしなければならない。
皆の心が、持たない。
「とらわれたニナはこの状況を、俺を見てどう思っているだろう」
今、彼女はフィオアの元で、どうなっているのか。ただ眠らされているだけなのか。
……ん?
その時不意に、イシュルは朝方に見た夢を思い出した。
地の底を巡る、水の流れ。
あの水脈は、どこを流れているのか……。
ふと脳裡に浮かんだ、ニナの微笑み。彼女の眸に、映るもの。
イシュルは足を止め、下を見た。草と土。露出した樹木の根。敷石の欠片。
ああ、……真下だ。
この道の下を、フィオアの水が流れている。
水脈は、主神殿の遺跡に向かって流れているわけではない。遺跡から、流れ出ているのだ。
「これか」
自ずと出た、小さな呟き。
脳裡に閃くもの。地下を流れるフィオアの水脈……。
森の魔物たちはこの水脈に惹きつけられ、四方から寄り集まり、フィオアの神殿に向かって歩んでいるのだ。
俺たちとともに。
水脈に沿って移動しているのは、魔物だけではあるまい。その外側を野鳥や栗鼠、狐などさまざまな動物、昆虫でさえも集まってきているかもしれない。
……水は万物の源。命を潤すもの。
フィオアは、ニナの魔法をこの森全体に当てはめ、神の御業を示したのではないか。
だから魔物たちが惹きつけられ、吸い寄せられてきた。
「わかったぞ!」
イシュルが顔を上げ思わず叫んだ瞬間。同時にそれが姿を現した。
「おいっ」
「……あれは」
……剣さま!
リフィアたちと同時に、セスの声も聞こえた。
イシュルはミラの、レニの指さす方を見た。
前方、いつの間にか照葉樹より常緑樹が増え、様変わりした森の道の先。
薄ぼんやりと陽の差す明かりの中に、緑色に揺れ動く木、いや人が立っていた。
「森の精霊だ……」
リフィアの呟く声がした。
緑色の精霊は無系統の魔力を集めながら、きらきらと輝いて見える。
魔力の煌めきだけではない。
全身を水が流れ、巡っている。水も光っている。
地中から、水も吸い取っているのだ。
……あの、フィオアの張った水脈から水を得ているのだ。
森の精霊(エント)、いやトレントと呼んでいいのか──は、両手を広げ喜びを表しているようにも見える。
光り、ゆらめき、形も色も一定ではない。絶えず細かく、繊細に変化し続けている。
「あの森の精霊が、魔物たちを集めているのでしょう」
ミラがそう言ってイシュルの右腕に触れてきた。
「森の精霊は精霊神に仕える尊い精霊だ。むやみと害するものではないぞ」
リフィアがイシュルの左手をとった。
「なぜだろう。風も集まっている……あの先に、ニナさんがいる」
レニがイシュルの背中を押した。
ニナの顔、微笑み。……心。
イシュルは何度目か、彼女の面影を追った。
「来い、俺の許へ」
イシュルは何かに導かれ、気づいた。精霊を呼びよせ、地下の水脈を、地上の道を包むように神の御業、“世界”を編んだ。
風、土、火、金。ただひとつ、水だけが足りない。
完成しつつある“世界”の新結界はフィオアの水脈、フィオアの道を包み、外界と遮断した。
イシュルの世界が水の主神殿跡へ、水脈の源、フィオアの泉へ繋がる。
「おおっ」
みなが、精霊たちが、感嘆の声を上げた。
イシュルの結界に包まれ、フィオアの水脈を断たれた森の精霊は、からだに大きな穴を空けると形を失い、四方の木々へ吸い込まれるように分裂して消えた。
「行こう」
ミラが、リフィアが、レニが、みなの声が重なり、イシュルを促した。
森の精霊の消えた先に、森の切れ目が見えた。
明るい野原が見えた。
蔦の絡まった石柱や、緑に包まれた石積みが垣間見えた。
木々の先に、フィオアの神殿が姿を現した。
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