贄
「どうして……」
それから先は言葉にならなかった。
ニナは顔を真っ青にして、正面から見つめてくる。
「イシュルさん、わたしの話を聞いてください」
彼女はもう一度、震える声で言った。
哀しみか恐怖か、その眸から今にも涙が零れ落ちそうに見えた。だが、ただそれだけではない。その青い眸を揺らし、輝かせるものは本当に涙なのか。彼女の強い決意が、燃え上がる熱情が、今まさに溢れ出ようとしているのではないか。
必死の形相のニナの頭上には、フィオアの石像があった。
「……」
フィオアは何も言わない。
ニナも背後を見上げ、だがすぐに正面に向き直った。
また、見つめてくる。
その一瞬で、眸の色が変わっていた。
怖れの色が薄く、決意の色が濃くなっているのがわかった。
「水の女神が呼んでいます」
ニナは気合を込め、顎を引くと短く、思いのほかしっかりとした声で言った。
「──わたしを」
その眸が強い光を帯びる。
「なっ……」
どういうことだ?
ニナのぶつけてくるもの。そしてこの結界。
……喉がひりつくようだ。
フェニテオシスは無言でその場に佇んでいる。すでにもう、朝の瑞々しさは失われ、強い陽ざしが辺りに降り注いでいる。
「それは……」
水神が、ニナを?
「フィオアさまのお召しなのです。前にイシュルさんが教えてくれましたよね? 生命に宿る水を操る魔法です。わたしだけが使える禁忌の水魔法について、ご下問があるそうです」
「はっ?」
……何だと?
心のうちに不審が広がる。
全身がかっと熱くなると、次の瞬間には肺腑が凍りつくのを感じた。
「ちょっと待て。それはフィオアの許しが出たんじゃなかったのか?」
以前、王都近郊でユーリ・オルーラを斃した時、その日の夜だったか、彼女の師匠のパオラ・ピエルカも交えてその話をしたことがある。
確かあの時、ニナは自分の使う水の治癒魔法を、つまり人体に直接影響を及ぼす魔法を、禁忌に当たらないと説明したのだ。彼女の契約精霊であるエルリーナが、その件を水神に確認してくれた、ということだった。
「きみはあの時、エルリーナが禁忌でないと……ん?!」
途中で不意に、ニナの後ろに立つ水神像が消えた。
かわってそこに、エルリーナが現れた。フィオアの彫像があった同じ場所に、入れ替わるようにして舞い降りた。
ひと目見て、驚愕が恍惚に変わった。
透けるような白い肌に、薄く水色がかった、銀色の髪。
たおやかな、匂い立つような美貌。
眸の伏せられた長い睫毛が、深い愁いを帯びている。彼女はほとんど実体化していた。
「エルリーナ……」
無意識に呟く、自分の声が聞こえた。
水の精のたぐいまれな、美しい姿。だが彼女からは冷たい、危うい空気が漂ってくる。
エルリーナは腰を落とし前屈みになると、後ろからニナを抱きしめた。
両腕をニナの胸の前で交差させ、彼女の首筋に唇を触れると、こちらへ物憂げに視線を向けてきた。
その眸は醒めきっていて、ニナのように燃え立つ色は窺えない。
「そこのエルリーナが、きみにあの魔法が禁忌でないと、言ってくれたんじゃなかったのか?」
「フィオアさまは禁忌に拘っているのではありません」
ニナの熱く揺れる眸。エルリーナの冷たい眸。
「わたしの使う治癒魔法について詳しく知りたいと、直に話をしたいとの仰せなのです」
エルリーナは実体化しても一切しゃべらない。ニナだけが想いをぶつけてくる。
「いや、それは」
……おかしい。
先ほどから気配を消しているフェニテオシスに、素早く視線を向ける。
微かに笑みを浮かべたまま、微動だにしない。
「なぜ、今なんだ?」
ニナに視線を戻す。思わず固い、詰問調になった。
「わたしたちは今、フィオアさまの神殿のすぐ傍まで来ています。このことはエルリーナが知らせてくれたんです」
ニナはちらっと後ろのエルリーナを見た。
「……」
彼女はニナと至近で目を合わすと、わずかに口端を引き上げた。
だが相変わらず無言のまま、何も言わない。
その青い眸にはニナ以外、誰も、何も映っていないように見える。
「エルリーナなら、どこにいてもフィオアと連絡はつくんじゃないか? 彼女ならきみの説明を、水神に伝言することだってできる筈だ。あの魔法が禁忌であるか、水神に確認してきたのはそもそも彼女自身じゃないか」
もう一度、ニナからエルリーナに目をやる。水精の表情に変化はない。
いや……。その奥に何か、光っている……。
「あの時とは、事情が変わったのかもしれません」
ニナは視線をそらし、自身のなさそうな顔をした。
「とにかく、フィオアさまは直接会いに来るよう、わたしに言ってきたんです!」
そしてまた、強い視線を向けてきた。
ニナの想いははっきりしている。その燃えるような眸の色、熱い声音が何よりの証しだ。
「エルリーナが、フィオアの言葉をきみに伝えてきたわけか」
水精の表情に変化はない。
彼女は実体化している。今は俺とも、声に出して直に話せるのではないか。
だが、彼女は喋ろうとしない。
「……」
おかしい。
すべてがおかしい。そもそもこの結界は何だ? なぜ、フェニテオシスなどという、フィオアに近い精霊が出てくる? 俺とニナ、ふたりで話せばそれで済む話じゃないか。
「ダメだな、ニナ」
こちらも力を込めて、ニナを見つめる。
……彼女を、ひとりで行かせるわけにはいかない。
「俺たちはフィオアの神殿に向かっているんだ。水魔法の説明は、着いてから説明すればいいじゃないか。俺が傍にいた方がいい。俺の方がより詳しく、フィオアに説明できる」
フェニテオシスを横目に見る。
この男も微笑んだまま、表情を変えない。
「イシュルさんは水魔法を使えません。水の魔法具も魔導書も待っていません。それでは水神は、イシュルさんの説明を受けつけないと思います」
「……」
ニナの強く、訴えかけてくるめ眸。
受け答えにも一切、逡巡は見られない。
「フィオアが命令しているのなら、水の魔法使いであるきみも拒否できないだろう。だが、そこは何とか俺に従ってもらえないかな? きみもエルリーナも、必ず俺が守る」
かなり危険な発言だが、フェニテオシスに変化はない。
……レニはおそらく、今は月神からフィオアの手元に移り、彼女の神殿に囚われているのではないか。
そこへ、ニナまで取られるわけにはいかない。レニと同じ、人質にされるだけだ。
絶対に彼女を行かせるわけにはいかない。
「それは……無理です」
ニナはわずかに動揺を見せ、苦しそうに首を横に振った。
「イシュルさんのことをもちろん、わたしは信じています。でも、水神に抗い、エルリーナを危うくすることはできません」
ニナは両手をさらに強く、握りしめた。
「水神に、わたしの口から直接、新しい水魔法のことを話したいのです。それはわたしがやらなければいけないことなんです」
彼女の眸の、強い輝き。
「だから行かせてください。イシュルさんの足を引っ張るようなことはしません」
……だが、あの水魔法を成立させる核心、そのことついては俺の方がうまくフィオアに説明できるだろう。
実は水神も、俺から話を聞くことを望んでいるのではないか。
「フィオアは本当に、あの魔法のことを聞くためだけに、ニナを呼んでいるのかな?」
そんなこと、はじめからわかりきってることじゃないか。いったいエルリーナにどんなことを言われたのか。ニナだってそれくらい、わかる筈だ。
「水神のねらいはきみだ。レニに加えてニナも、人質として利用するつもりなんだ。俺にはそうとしか、考えられない」
神さまが人質を取るなどおかしな話だが、俺が相手なら、それもあり得るかもしれない。
今や四つの魔法具を持っているのだ。レニの件では月神にいいようにやられたが、正面からの単純な力くらべなら、俺の方に分があるかもしれない。
「……」
ニナはそこで、むっつり黙り込んだ。
彼女の眸からは微かな困惑とともに、今までとは違う輝きが見えた。
……何かを、求めるような光が。
「それは大丈夫です」
ニナは声を落として言った。
「レニさんはわたしの代わりに、戻ってきます」
「!!」
思わず息を飲む。
降り注ぐ陽ざし。辺りを覆う静寂。
……ああ、そういうことか。
悪い夢だ、すべてが訝(うとま)しく思える。
予感はあったのだ。だがそれでも、鋼鉄の棍棒で打ち据えられたような衝撃を受けた。焼き鏝(ごて)で心のうちを抉られるような苦痛が、全身を駆け巡った。
「なぜ、そんなことを……」
かっと燃え上がるような憤りも、ニナの顔を見ると心の底で燻(くすぶ)る、小さな苦渋に変わり果てた。
「レニさんを助けたかったから、じゃないんです」
顔を、眸を逸らさない。
「イシュルさんの力になりたかった、恩返しをしたかった、それだけじゃないんです」
ニナは嘘を言ってない。
「わたしはこの、人の命を、あらゆる生命を統べる水魔法の素晴らしさを、水神の前で堂々と話したかったんです。フィオアは水魔法のことなら、何でも知っているでしょう。でも、それでも伝えたかった。万物の流転を、移りゆく世界の素晴らしさを」
胸の前で、きつく握りしめられる彼女の両手。
ニナの真っすぐな言葉が胸を貫く。
「ニナ……」
彼女の矜持、彼女の理想。
だがそれだけじゃない。背後に、奥底に、彼女の熱い想いが隠されていないか。
……イシュルさんを、愛しています。
ニナが訴えてくる。俺への想いを。
透き通った青い眸の、揺れる眼差し。
それは決して、俺の思い上がりではないだろう。でなければ、こんなに苦しい筈がない。
彼女が俺に伝えたいこと。それは……。
水の魔法具をイシュルさんに、わたしが──。
「水の魔法具は、わたしの愛」
ニナの声がすぐ、耳許で聞こえたような気がした。
苦痛が、焦燥が、胸のうちをのたうち回る。
「……」
ぐっと噛み殺して、抑え込む。
「ニナ、それは駄目だ。そんなこと許されない。俺は行かせないぞ」
彼女の真心を知っても、認めるわけにはいかない。だから苦しい、辛いのだ。
「レニの身代わりなんて、絶対認めない」
「……! ……!」
ニナの声にならない叫び。
彼女の想いが炸裂した。
その後ろから、エルリーナの眸が光る。
……こんな結界、一撃で吹き飛ばしてやる。
エルリーナに、ニナに構わず、遺跡の結界の果てを見る。
「おっと、お待ちを」
突然、横から右手を掴まれた。
フェニテオシスだ。
異様な速さだった。暗黒神バルヘルに風の剣を押し止められた、あの時の速さと変わらない。
硬い拳。男の腕だ。避けられなかった。
「くっ」
だが、フェニテオシスからはまったく殺気が感じられない。魔力も発していない。
男の背後、肩越しにニナが消えていく。
「水神に、あの魔法の本当の素晴らしさを知ってもらうんです」
「ニナっ、駄目だ! 行くな!」
「……」
精霊のように色を失い、透けていくニナ。
彼女は何度か首を横に振った。あの時、俺の手を払ったレニのように。
……わたしを信じて。待っていて……。
「ニナっ!!」
最後にあの、いつもの優しい眼差しになってニナは消えた。
エルリーナも一緒だ。
……もう届かない。
どこに行ったか、風や火、金、土、四つの知覚を広げても掴めない。
熱病のように昂ぶり暴れていた焦燥が、瞬く間に凍てつくような絶望に変わっていく。
哀しみが劇薬のように全身を侵していく。
脳裡にメリリャの顔貌が浮かんだ。
「月神は……いや、フィオアの狙いはこれだったんだ。最初からやつは、ニナを欲していた」
水の魔法使い、水の魔力を持つ人間。
それは贄、か。
レニは俺たちを引きつけ、ニナを手に入れるための餌でしかなかったのだ。
水神は、ニナのやさしさにつけ込んだのだ。
……俺の右手を掴む、このもの。
怒りが噴き上がり、火を起こす。
瞬間、目の前を閃光が走った。
「……!!」
フィオアの使者が後ろへ飛びのく。
「おお、恐ろしい」
フェニテオシスがフィオア像、そしてエルリーナの立っていた台座の上に降り立った。
その右腕が、二の腕のあたりまで黒く焼け焦げている。
「なんと恐ろしい火の魔法か。フィオアさまの近習である、このわたしに火をつけるとは」
フェニテオシスは口角を歪めて言った。
「これでも水の大精霊なのですが。その身体を焼くとはいや、恐れ入りました」
……始原の火だ。だから水の魔力を超越する。だが、今はそれはいい。
息を吐き出し何度目か、怒りと焦燥を抑え込む。
そして顎を引き、低く唸るように言った。
「そんなことはどうでもいい、ニナを返せ」
右手の指先に力を込め、一歩、前へ踏み出した。
「今すぐ、この場に連れて来い。俺の言う通りにしたら、命だけは助けてやる」
「……」
フェニテオシスは片手を広げ、無言で首を横に振った。
このひとは何もわかってない、という素振りに見えた。
「この結界は本来、フィオアさまをお迎えする神聖なる“神の座”なのです」
台上から見下ろす視線には、わざとらしい侮蔑の色が浮かぶ。
「もちろん、この結界を張れるのはフィオアさま側に仕えるこのわたくしだけ。あなたもこの結界が特別なものだとわかる筈です」
フェニテオシスは「この火傷は後れをとりましたが」と続けて、だがまた口角を歪め、不敵な笑みを浮かべた。
……この精霊は、「この結界を破ってみよ、自分を斃してみよ、でなければニナは帰ってこないぞ」と言っているのだ。
この遺跡、やつの言うところの“水神の座”は、その名の示すとおり特別な結界だろう。魔封の性質を持ち、強固な疑似世界、亜空間を構築している。今まで幾度となく、危機的状況に陥ったさまざまな結界、あの太陽神の座とも比肩しうるレベルかもしれない。
「ニナはレニが帰ってくる、と言っていたが、どうした?」
「……」
フェニテオシスは無言で肩をすくめると言った。
「それよりまず、あなたご自身が先にこの結界から出ることを、考えた方がよろしいのでは?」
そしてまた冷笑を浮かべた。
「そうか」
小さく、呟く。
レニもニナと同じだ。この慇懃無礼な精霊を斃し、結界を破らないといけないようだ。
……別に、どうということもない。フェニテオシスの右腕を焼いた火魔法は、何の問題もなく発動した。
あれは実は、特別な魔法なのだ。赤帝龍でさえ使えなかった、この世界で俺しか発動できない魔法。それは人類文明の曙、いやこの宇宙が誕生した時に生じた始原の火だ。その観念的だが絶対の事象を知るからこそ、生み出せる最高の火魔法なのだ。
たとえ水神の座であっても、封ずることはできなかった。当然だろう。
「どうだ、おまえの腕? 熱いか? 水の大精霊が火傷とは、笑えない冗談だな」
フェニテオシスの右腕は消し炭のように、真っ黒に焼けただれたままだ。
「おまえはあの火魔法を知るまい。この水神の座ごと、焼き払ってくれよう」
魔封を超越するには、精霊の異界に直接“手”を伸ばし、魔力を降ろせばいい。それを風、火、土、金の、四つの元素を同時に行い、新たに疑似世界を構築していけば、神の座といえど圧倒できる筈だ。だが、今はそれはやめておく。
フィオアは俺と赤帝龍の戦いを“見ていた”だろうが、あの極限魔法をどれだけ理解できたか、疑念を抱かざるを得ない。彼女は、あの魔法に対抗することができないかもしれない。
世界を創生するあの魔法は、まだ水の魔法具が揃わず未完成だが、だからこそ水神は完全に把握できないでいるのではないか。
神々の宝具を使いながらも、俺自身の意識、記憶を投影して創り出される世界なのだ。彼らはあの世界を、俺がかつて生きた世界を知らない。
それなら、むやみに使うのは控えるべきだろう。まだ完全ではないが、切り札になりうる代物だ。隠すことが有効ならば、そのまま隠しておけばいい。
だから、ここは始原の火を使う。
「フィオアが最も嫌う火魔法で片づけてやる」
「ふむ、それはどうですかな」
フェニテオシスに動揺は見られない。
腰を落とし、横に垂らした右腕に意識を向ける。
知覚の先、意識野に火花が散る。始原の火だ。
炎が、指先に集まっていく。
「っ!」
そこへ胸に一瞬、激痛が走った。
内臓がぎゅっと吊り上がり、背が曲がる。
「遅いっ!」
台上の、フェニテオシスの声。
「!!」
……こいつ、体内へ直接、水魔法を使ってきた。血だ、心臓の血だ。
ニナの水魔法を真似して使ってきた。
痛みに前かがみになり、胸に手を当てる。目の前を突然、渦巻く水流が現れ周囲を回りはじめた。竜巻の、風の魔法のようだ。
「死ねっ!」
男が叫ぶ。
水の渦に、世界が揺らいで見える。あり得ない、水の流れる轟音が耳朶を打つ。
「……むっ」
と、フェニテオシスが不審の声を上げた。
水精の意図した魔法が、発動しなかったのだ。水流は何の変化もなく、偽の陽光をきらきら反射しながら周りを渦巻いている。
──そう、やつの魔力を遮断したのだ。
「危ないところだった」
何とか間に合った。体内に侵入してきた水の魔力は、心臓の血を逆流、暴走させようとした。そのまま勢いにまかせ、心臓の弁を破壊し全身の血管を破裂させようとしたのだろう。
即死を免れない状況だったが、自分の意志より先に体内の風や土、金の魔法具が反応した。水の魔力を異界へ吹き飛ばし、血液の暴走を食い止めた。フェニテオシスの魔力を遮断し、周囲を渦巻く水流の魔法に干渉して、続く攻撃を阻止した。
「むむっ、おのれぇ」
フェニテオシスは眉を吊り上げ、怒りの表情を浮かべた。
途切れた始原の火をもう一度、右手の指先に灯す。掌を上に向け、白色に輝く火球を見せてやる。
「……!」
フェニテオシスの顔が、怒りから恐怖へ歪んでいく。
「燃えろ」
水精へ、右腕を突き出す。
「!?」
と、放つ瞬間、地面がぐらっと揺れた。
周りの、目に映るすべてのものが振動すると、その輪郭が剥離するように形を失い消えていく。
直後、横方向に無数の黒い閃光が走った。
地面だけでない、結界そのものが揺れていたのだ。そして壊れていく。
晴れた渡った空が消え、円形神殿の遺跡の、静かな空間が黒い光に引き裂かれていく。
視界が暗転すると次の瞬間には、深い緑の壁に覆われた。
……戻ってきたのだ。ロネーの森に。
「ぐわっ」
石の台座にかわって、倒木の上に立っていたフェニテオシスが奇声を発した。
彼の額に短槍が突き立っていた。
ロミールが持っていた槍だ。振り返ると、少し離れて全員が横に広がり、攻撃の態勢をとっていた。槍を投げたのはリフィアだった。彼女の背後には戦斧を、厳めしいバトルアックスを持ったユーグが宙に浮いていた。
「くっ、くっ、おのれぇ」
ふり絞るような呻く声に前を見ると、フェニテオシスが全身をぶるぶると震わせ、額に刺さった槍を引き抜こうとしていた。
……そうか。
ユーグからはまだひと言もないが、水神の座を破ったのは彼だったのだ。
あの、彼の外見には不似合いな戦斧。
やつはあんな恐ろしいものを隠し持っていた。どんな魔法かわからないが、あのバトルアックスを使って水神の結界を破ったのだ。
「イシュルっ」
「イシュルさま!」
リフィアとミラの叫声。だが左手を後ろへ振って、こちらに近寄るな、と伝える。
「がっ、がが」
フェニテオシスにはもう、槍を抜く力は残っておらず、苦痛に歪んだ末期の声を上げると実体を失い、半透明になって明滅しはじめた。
奇妙なことに精霊の姿が薄く、消えるたびに別の人物の姿が透けて見えた。
「これは……」
目を凝らすと猟師のような服装の、痩身の男に見えた。
「くっ、黒尖晶!」
苦悶に歪んだフェニテオシスの顔が薄れるにつれ、あの隠れ身の黒い仮面が見えた。仮面にもリフィアの投げた槍が刺さっていて、大きくひび割れている。
ソレールでレニを攫(さら)われた夜、黒尖晶の顔を間近で見ることはできなかったが、あの時もたぶん、隠れ身の仮面を着けていたのだろう。ただ、やつはあの時、影踏みの魔法、つまり転移魔法を発動していて、隠れ身の魔法は使えない状態だった。
……しかしなぜ、フェニテオシスと黒尖晶が重なって見えるのか。
それはおそらく、黒尖晶の男にこの水精が憑依していたからだろう。それなりの魔力を使って意識を乗っ取っていたか、もうすでに黒尖晶は死んでいて、その肉体のみを利用していたのか……。
「うぐっ、くっ」
フェニテオシス=黒尖晶は仰向けに仰け反り、ぶるぶる震えながら槍を抜こうと、死を免れようと格闘を続けている。
と、不意に槍の柄から両手を離し、だらりと力なく下げた。同時に、その足許に妙に暗く深い影が現れ、両足の踵(かかと)から沈みはじめた。
横倒しになった木の幹に、フェニテオシス=黒尖晶の下半身が飲み込まれていく。
その脛(すね)に刻まれた刺青と思しきものから、無系統の魔力が発せられているのがわかった。
その魔力が転移魔法、影踏みの魔法だった。黒尖晶の足に、魔法陣が刻まれていたのだ。
「逃げるのか」
水精は必死だった。人前で、無防備に影踏みを使うことがどれだけ危険か、そんなことさえもう、構っている余裕がないのだった。
……ともかく、逃亡させてはなるまい。
風の刃で、まだ沈んでいない太腿を切りつけた。
「ぐぎっ」
フェニテオシス=黒尖晶が呻き、白目をむいて睨んできた。
「レニとニナを返せ」
水神の座はもう、完全に砕け散っている。周りは元いた森の中、そのわずかな切れ目だ。仰ぎ見ると、梢の先に薄曇りの空が見える。もう夜は完全に明けている。
だが結界を破り、フェニテオシスに致命傷を与えても、ニナもレニも、姿を見せない。
「おっ、おのれぇ」
影踏みの魔法が止まり、両足を闇に突っ込んだまま、フェニテオシス=黒尖晶は醜悪な呪詛の言葉を吐いた。垂らしていた両手を持ち上げ何か印を切り、魔法を発動しようとした。
……仕方がない。もう殺すしかない。
風の魔力を固めて、槍の柄を押した。
「がっ」
水精の頭を突き抜け、穂先が首筋から顔を出した。
フェニテオシスは両目を見開き、天を仰ぐと一瞬、激しく明滅して完全に姿を消した。
ふたつに割れた隠れ身の仮面が、音もなく下に落ちた。いったい何時から死んでいたのか、黒尖晶の死体は仰向けに反り返り、そのまま倒木の向こうに倒れた。
フェニテオシスが消え、黒尖晶の死も確実だ。だが、ニナが行ってしまった。
彼女を、引き止めることができなかった。
「……ニナ」
彼女だけじゃない、レニも帰ってこない。
俺はこのまま、ふたりとも失うのか。
呆然と、ただ当惑しているだけの虚ろな心。
なのに、早くも重い絶望が胸の奥を浸してくる……。
苦痛に身じろぎするとその時、倒木の影、黒尖晶の倒れた辺りに明るい光が灯った。
魔力の光だ。
……ああ。
「レニっ!」
すぐにわかった。それはこの胸を貫く、風の魔力の光だ。
レニが帰ってきた──。
イシュルは光へ走った。
大きな、苔むした倒木を飛び越える。
その影に明るく輝くレニがいた。
黒尖晶の死体が消え、かわりにレニが猫のようにからだを丸め、横たわっていた。
薄い唇が微かに開いて、睫毛が濡れている。眠っている。
「レニ!」
イシュルは跪くとレニを抱きかかえた。
「レニ、レニ」
そっと、からだを揺する。……大丈夫だ。生きている。
全身が冷たい。呼吸も浅い。だが、心臓の鼓動は確かだ。怪我もしていない。
「……ん?」
ふと視線を落とすと、レニの倒れていた地面から水が湧き出ていた。
湧水は見る間に水嵩が増していき、清らかな水を湛えた小さな泉になった。
湧き出た水は低い方へ、下草や苔の間をさらさら流れていく。
それは水の魔法のしるし、水神の奇跡の証しだった。
イシュルは右手でレニの肩を、左手を膝裏へ回すと彼女を抱き上げ、倒木の太い幹の上に横たえた。
そして彼女の首を起こすと泉から水をすくい、そっと飲ませた。
澄んだ水の雫がレニの唇から零れ落ち、下草の葉に当たって弾け飛んだ。
「……」
するとレニの喉が動き、水を飲んでいく。
間もなく彼女は、静かに眸を開いて目を醒ました。
「イシュル」
聴き取れないほど小さな声が、彼の名を呼んだ。
「レニっ」
イシュルは、レニを抱きしめると肩を震わせた。
喜びと悲しみが、怒りと安らぎが、闘志と悔恨が、心のうちをせめぎ合い、痛めつけた。
歯を食いしばり、何かを振り払うように天を仰いだ。
イシュルは左目から憤怒の涙を、右目から歓喜の涙を流した。
……レニを巻き込んでしまった。ニナが行ってしまった。すべて俺のせいだ。
まただ。いつもいつも、俺は誰かを傷つけ、誰も救えない……。
「イシュル?」
その時、頬に冷たい、柔らかい彼女の指先が触れた。
「なぜ、泣いてるの?」
レニの顔を見下ろすと涙が一滴、彼女の頬に落ちた。
すると彼女は微笑み、言った。
「……ありがとう」
「……! ……!」
イシュルは言葉にならない声を上げると、レニをもう一度強く抱きしめた。
……ごめん、ごめんよ。
レニの頬に頬寄せ、慟哭に身を震わす。
「イシュル」
と、後ろからリフィアの声がして、肩を掴まれた。
「レニさん」
前からミラが屈んで、レニに声をかけた。
「……」
イシュルは涙を拭うと、ミラとレニを見た。
「お帰りなさい」
「ただいま」
ミラとレニは互いに見つめ合い、笑みを浮かべた。
「ふふ」
顔を上げると、リフィアも笑っている。
いつの間に傍に寄ってきたのか、みんながイシュルとレニを囲んでいた。
仏頂面はシャルカだけ、ロミールも半泣きで微笑み、ルシアは胸に手を当て、セーリアとノクタは両手で顔を覆って泣いていた。
彼らの暖かい心が、流れ込んでくる。
……そうだ、前を向こう。
ニナを取り戻そう。決してフィオアの好きにさせない。
まだ、終わっていない。
イシュルも嗚咽を堪え、小さな笑みを浮かべた。
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