霧の向こう 2



 初老の男は驚愕に、茫然と呟いた。

「な、なんと……」

 声が震えている。

「まさか、いや。そうだったか。……しかし……」

 大きく見開かれた灰色の眸。眉間に刻まれた深い皺。困惑し、混乱している。

 神官の動揺は瞬く間に、周囲の者たちに伝染していく。

「お、おい聞いたか?」

「嘘だろう……」

「ど、そうして」

 シャルカに睨みつけられ、今まで大人しくしていた虜囚がざわめきはじめた。

「ふふ、どうした? 信じられないか? ならあんたはなぜ、彼女を赤い魔女と言った?」

 イシュルはミラを横目に見てにやりと笑うと、神官服の男に視線を戻し続けて言った。

「聖王国の赤い魔女は誰と行動をともにしていた? すると、あちらの女剣士は誰だ?」

 イシュルの口角がさらに引き上げられる。

「ラディス王国の武神の矢と言えば──」

「ベーム辺境伯」

 男は口をあんぐり開けて、イシュルの台詞(せりふ)を引き継いだ。

「ふふ、そうだ」

 イシュルは小さく笑って頷いた。

 リフィアもミラも無言で、ただ微笑を浮かべているだけだ。

「う、うう……」

 男の口から、苦しげな呻き声が漏れた。

 ラディス王国とは連合王国の侵攻後、関係が悪化しているとの風聞もあるが、アルサール大公国にとって重要な同盟国であることに変わりはない。

 もしこのふたりが、その同盟国の大貴族である辺境伯当人と、同国の英雄である新しいイヴェダの剣であるのなら、たとえ相手に非があるとしてもここは大人しく引き下がるべきだし、そもそも抵抗するなどまったく無駄で意味のないことだった。

 男の顔から怒りが消えていき、あとは虚ろな失意だけが残った。

 イシュルはその様子を見てとると、もう一度、同じ台詞(せりふ)を口にして駄目押しした。

「俺たちの指示に従え。大人しくしていれば悪いようにはしない」



 壁に掛けられたランタン、複数の燭台に灯された蝋燭の明かり。

 柔らかな光が水神フィオアを照らし出している。

「……」

 イシュルは何度目か、その彫像を見上げた。

 古い大理石の塊からは、確かに魔法具の気配がする。今は“霧の結界”は消えているが、この水神像は水の魔力を迷いの魔法のように使って結界を張る、それ以外の魔法を発動できない単能型の、五系統の魔法具としてはかなりめずらしいものだった。

 簡単に移動できない設置型で、かなり古い神像であることから、長い間城塞や村落などの文字通り守り神として、大切に扱われてきたのだろう。

 イシュルは視線を下げ、向かいに蹲るようにして眠る神官姿の男を一瞥すると、おもむろに立ち上がり、静かな足取りで神殿の出口の方へ向かった。

 祭壇の前には砦の兵士らが手首だけを縛られ、その場で横になって眠っている。シャルカが昼間からずっと見張っていて、反撃しよう、逃亡しようと考える者は誰もいなかった。

 イシュルはシャルカと視線を合わせ、小さくひとつ頷くと外に出た。

 広場の真ん中では、ロミールが焚き火の前に座って舟を漕いでいた。向かいの篝火が置かれた平屋には、リフィアたち女性陣が砦の女子供や、負傷者らとともに宿泊していた。

 隠し砦の者は皆、神殿とその向かいの民家に集められていた。そして砦の西半分をユーグが、東半分をエルリーナが見張っていた。彼らは砦の外側、周囲も警戒していた。

「ロミール」

 イシュルは焚き火の前に座ると、向かいの少年に声をかけた。

「ん……へ? ああ、イシュルさん」

 ロミールは顔を上げると、涎が垂れていたか口許を拭って、呂律の回らない声で言った。

「交代の時間ですかね」

「ああ。けど、ちょっと待て」

 続いて顔を振り、頬をぴたぴたと叩いて立ち上がったロミールを、イシュルは手を伸ばして引き留めた。

 神殿の見張りはシャルカに加え、イシュルとロミールが交代で行うことになっていた。

「おまえも疲れているだろう? 神殿の中はシャルカひとりで大丈夫だ。まだ休んだ方がいいよ」

 隠し砦を制圧し、ひと段落した後、日が暮れる前にロミールはひとりで砦内の家屋、倉庫などを検分している。ほかに隠れている者がいないか、秘密の地下室、通路などがないか、調べて回ったのだ。これらの調査は精霊だけに任せるわけにはいかない。彼らは人間社会を熟知しているわけではなく、思わぬことを見落としてしまうことがある。

「はぁ」

 ロミールはか細い声で返事をすると、少しおどおどした感じでそのまま腰をおろした。

 膝をかかえて、焚き火の炎をぼんやりと見つめている。

「……」

 イシュルも炎を見つめ、微かに火の魔法を使って火勢を強めた。

 ぼおっと小さな音がして一瞬、イシュルたちの頭上まで炎が燃え立った。

「うわっ」

 と、それほど驚くほどではなかった筈だが、ロミールは半身を仰け反り立ち昇る炎を見上げた。

「ま、魔法ですか」

「ああ、そうだ。便利だろ?」

 火の魔法を使えば当然、火を起こすことも火勢を強めることも、簡単にできる。

 ……そっと、息を吹きかけるように。花弁を撫でるように。

 優しくできるならそれでいい。今はそれだけでいい。

「風、金、土、火とそろってあとは本当に水、だけなんですね」

「ふふ、今さらか。おまえも見たろ、赤帝龍の死骸」

「ええ。でも……」

 ロミールはもう目をすっかり覚まし、何かに憑かれたように焚き火の炎を見つめている。

 ……俺が何度か、強力な火魔法を使っているのを見ている筈だが……。

 案外、こういう日常に近い、何でもない時の方が魔法を実感できるものなのかもしれない。

 もう、俺の魔法は人間の使うレベルじゃない……。

「でも魔法とか、赤帝龍とかだけじゃないですよ。まさか聖王国までやってきて、あのサロモン王をあんな近くで見ることになるなんて」

 ふと顔を上げるとロミールが両目を大きく見開いて、こちらを見ていた。

「ああ、そうだな。いい経験になったじゃないか」

 ロミールはフロンテーラ近郊の騎士爵家の、確か次男か三男坊だ。本来なら異国の王と間近で接することなど、あり得ない話だ。

「イシュルさんと一緒なら異国にも行けて、たくさん冒険できると思ってたんですけど、とんでもない。それ以上、想像をはるかに超えることばかりでした」

「うん……」

 イシュルは小さく頷くと口許を緩めた。

「ソレールに着いてからも王弟に会って……あっ、そういえば」

 ロミールはそこで何か思い当たったか、視線を明後日の方へやり、顎に手をやって考えるような仕草をした。

「あの、弟君の側仕えの執事のひと? ジレーって言いましたっけ。なんだかこのアルサールの方の隠し砦のこと、以前から知ってたんじゃないですか? イシュルさん、この砦を攻める時に難しい顔してジレーがどうとか、呟いてましたよ」

「へっ? そうだっけ?」

 ……記憶にないが、ジレーのことを気にしていたのは確かだ。

「まぁ、あいつもルースラ・ニースバルドと同じ、食わせ者だな。ロミールの言うとおり、ジレーはこの砦の存在に感づいていて、俺を当てることで確認したかったのかもしれない。俺たちに偵察させ、制圧させて大公国の動きを牽制したかったのかもしれない。あいつが川岸で、別れ際に見せた芝居がかった慇懃な態度は、それを示していたんだろうな」

「ルースラさまと、ですか。……なるほど」

 ロミールは再び考え込む仕草を見せ、続けて言った。

「でも、イシュルさんのその、機嫌を損ねたら不味いんじゃないかとか、そういうことを考えなかったんですかね」

「まぁ、砦のひとつやふたつ、片手間で落とせるしな。ほかにいい上陸地点がないならしょうがない。ジレーのあの態度は、俺にその時はお願いします、ってことを伝えたかったんだろう」

 そこでイシュルはロミールに、にやりとした。

「それより、ひら豆と丸芋が手に入ったんだろ?」

 ひら豆はレンズ豆に似た豆、丸芋とはつまり馬鈴薯のことだ。どちらも明け方、小舟で秘密裡に渡河するということで、荷物が増えるのを嫌って持っていくのを断念したのだった。

 そのひら豆と丸芋を、ロミールが砦内を調べていた時に見つけた。当然だが、この砦の食糧庫にはかなりの量が備蓄されていた。

 そのほかにも携帯型のランタンや、聖王国より小型の樽など、有用なものが手に入った。一時はロネーの街に傭兵などを装って潜入し、必要な物資を購入しなければとも考えていた。大公国の隠し砦は、物資の補給には都合の良い存在だった。

「まぁ、それはよかったんですがね」

 ロミールはうれしさにわずかな不満の入り混じった、複雑な表情をした。

 目的地の水の主神殿跡は北へおよそ三百里長(スカール、約180km)、ほとんどの行程を道なき森を行くことになり、猟師道でもあればともかく、どれだけ日数がかかるかわからない。

 この隠し砦を制圧せざるを得なかった、制圧してしまった以上、備蓄の食糧ほか必要な物資を僅少、頂戴していくぐらい気に留める必要はない。敗者の生殺与奪は、勝利者側の当然の権利だ。

「でも、あのジレーって執事、イシュルさんがこれくらいのことで怒らないことをわかっていて、そこに付け込んでこの砦の物見を仕向けられたのがちょっと、釈然としないっていうか……」

「まぁ、そこは持ちつ持たれつ、ということだろう」

 ……ルフレイドのただの暇つぶし、であったかもしれないが、いろいろと便宜を図らってもらったのは確かだ。レニのことも含め、そこは貸し借りなしで……。

「いや、俺たちに借りをつくってまでも、関係を維持したいのかもしれないな」

 俺は四つの神の魔法具を持つ存在だ。どんな権力者であろうと、どんな手を使おうと、良好な関係を維持したい、親密な関係をつくりたいと考えるだろう。それが自分たちにとって新たな重荷を背負うことになってもだ。それだけ価値があることなのだ。

「なるほど、そういうこともあるんでしょうね」

 最後は呟くように言ったイシュルに対し、ロミールも独り言のように小声で言った。

「あの、目がさえてきちゃったんで、やっぱりシャルカさんと一緒に見張ってきます」

 ロミールは顔つきをにっこりあらためると、尻を叩いて埃を払いながら立ち上がり、神殿の方へ歩いていった。

「……」

 イシュルはロミールのうしろ姿に目をやった。

 と、不意に何かの気配を感じて反対側へ向き直った。

「ん?」

 小さな広場に浮かび上がる木造の家屋や倉庫。その薄暗く揺らめく影の上、夜空にニナの精霊、エルリーナの美しい姿が浮かんでいた。

 夜空は雨気はないが厚い雲に覆われている。彼女は重い漆黒の空を背景に、長い髪をなびかせ青白く水晶のように輝いていた。

 離れていたが、イシュルは彼女の視線をはっきり感じた。

 エルリーナはイシュルを見ていた。

「違う……」

 イシュルはまた神殿の方へ振り返り、ロミールの背中を追った。

 彼は音もなく扉を開け、すでに中に入っていた。

 ……エルリーナはロミールを見ていたのか。

 いや、ロミールでもない。彼女が見ていたのは……。

 イシュルは視線鋭く、エルリーナの方に顔を向けた。

 彼女はもう消えていた。

 ただ夜空があるだけ。彼女の気配も消えていた。



「お主、水の神殿跡に参るのか」

 イシュルの横に立つティボーが、掠れた低い声で言った。大公国の隠し砦の長(おさ)、初老の神官はティボーと名乗った。

「そうかもな。いずれにしろ、そちらから仕掛けられない限り、大公国に災いを起こすようなことはしないつもりだ」

 翌日の朝、イシュルたちは砦の西門からロネーの森へ出発しようとしていた。見送りにはティボーだけが許された。ほかの者は皆、女子供も朝になってから神殿に集められ、屋内に閉じ込められていた。

「あんたらの国に、何の挨拶もなしに乗り込んだのは申しわけなかった。このことは誰にも知られたくなくってね」

 イシュルは肩をすくめ、ティボーに小さく笑みを浮かべた。

「昨夜も言ったとおり、俺たちのことは詮索無用。大公家への報告も控えてもらうと助かるんだが……」

 そうはいかないだろうな。

 アルサール大公家の直参か、あるいは傭兵か知らないが、彼らには彼らの役目がある。数名の死者も出ているし、ミラのことは口止めしても何の意味もない。絶対中央まで報告が行くだろう。

 まさか、だからと言って砦の者を皆殺しにするわけにもいかない……。

「それは無理だ。お主らをどうするかは上役が決めること」

「ロネーの城主か」

「もっと上の裁可を仰ぐことになるかもしれぬ」

「そうか」

 イシュルたちは隠し砦のディレーブ川とは反対側、西門の前にいる。

「なら仕方がない」

「……」

 イシュルはリフィアやミラと無言で笑みを交わし、ニナに目配せした。

「わかりました。エルリーナ、準備して」

 ニナの精霊、美貌のエルリーナが頭上、かなり高い空中に姿を現した。薄曇りの空に、古代の踊り子のような服装の妙齢の女性が浮かんでいる。無色の半透明で、全身が光り輝いている。

 イシュルは空を見上げ、浮遊する彼女の表情を追った。

 ……特に変わったところはない。

 昨晩に感じたあの視線は何だったのだろうか。

「おっと、忘れていた」

 イシュルはエルリーナから無理やり視線を剥がし、ティボーに向けると右の口端をくいっと引き上げた。

「あんたのところの倉庫から、食糧や小物を少々頂いたんだった。金の代わりにこれを受け取ってくれないか」

 懐から革の小袋を取り出し、中から小さな石をひとつ摘まんでティボーに渡した。

「紫水晶(アメジスト)か」

 初老の男は自らの手のひらに置かれた、紫色に輝く石を見ると、鼻にしわを寄せて複雑な顔をした。

 宝石は希少で大陸ではおしなべて高価だが、それも紫水晶となれば聖王国の紫尖晶、影の部隊である尖晶聖堂を連想するのか、あまりいい顔をしなかった。

「代金としては十分な筈だが」

 イシュルは笑みを浮かべたまま言った。

 ……十分、どころではない。たっぷりおつりがくる代物だ。だが、それが聖王国の国王、サロモンからもらったものだとは、口が裂けても言えない。

「……」

 その宝石の出どころを知るリフィアは笑みを凍りつかせ、ミラは明後日の方を見て知らぬふりをした。

 アルサール大公国にとって聖王国は不倶戴天の敵である。

「まぁよい。これはありがたく頂戴しておこう」

 ティボーはわずかに表情を和らげると、そう言って紫水晶を無造作に懐に入れた。

 イシュルたちを敵とみなして先に攻撃を仕掛け、自業自得とは言え彼らも手痛い損害を受けている。武神の、加速の魔法具を持つ猟兵を殺され、土と火の魔法使いは負傷している。今後、諸々費用がかさむのは確かだった。

「それじゃあな」

 イシュルはリフィアからミラ、ニナ、そしてロミールらの顔を見渡すと、再びティボーに目をやり言った。

「しばらくの間、ここから動くなよ。危険だ。あんたらを砦に閉じ込め、友軍に連絡できないよう、ちょっと大きめの土の魔法を使う」

「神殿に閉じ込められている者の縄は解くぞ」

「好きにしろ」

「では神官殿、よろしく頼む」

 リフィアがティボーの横を通り、気安く声をかけていった。

 彼女が「頼む」と言ったのは、イシュルが念押ししていたこととほぼ同じだ。「大人しくしていろ、これから行う処置を許容しろ」というような意味合いが込められていた。

「あんたにも役目がある。上に報告しなければならないこともわかる。だが、俺たちの行く手を邪魔したり、軍勢を出してディレーブ川西岸を封鎖したりしたら、とてもまずいことになるぞ。どんな大軍だって俺ひとりで殲滅できるし、ペトラに働きかけて、この国との同盟を破棄させることもできる」

 ……同盟破棄はさすがに無理だろうが……。だが、こいつももう、俺が赤帝龍を斃したことは知っているだろう。俺の言っていることを無視するわけにはいくまい。

「まぁ、ほほ。そんなことをしたら同盟を破棄するどころか、ペトラさま自ら軍勢を率いて大公国に攻め入ってくることでしょう」

 ミラがティボーを横目に揶揄するように言い捨て、リフィアの後に続いた。

「……」

 怨敵、聖王国の赤い魔女の戯言である。老神官は怒りをあらわにしたが、頭上からシャルカに睨まれると首をすぼめて顔をそらした。

「ロネーの城主か、大公本人か知らないが、そこのところ、しっかり伝えておいてくれよ。もう一度言っておくが、詮索無用だ。俺たちに関わるな。ならばこちらも危害を加えない」

 イシュルはティボーに片手を上げると、リフィアたちの後に続いて小さな堀を渡り、夏草のよく伸びた草地に足を踏み入れた。

 その後をニナや従者のロミール、セーリア、ノクタ、最後にルシアが続いた。ティボーは無言でひとり、悄然とその場に立っていた。

 湿気を帯びた草原にはしっかり道がついていた。一行はぬかるんだ小道を、大小の水たまりを避けながら歩いた。

「さて、ここら辺でいいか」

 イシュルは足を止めると後ろを振り返って言った。

 右手の木立の方から、しきりに小鳥の鳴く声がする。

 葦原の先に丸太の並んだ城壁とその前に佇むティボーの姿が垣間見える。

 イシュルは手のひらを下に向け右手を前にかざした。

 かるく息を吸い込むと目を瞑り、意識を地下に向けた。 

 まるで生き物のような大地の息遣いが、イシュルの心の奥底へ流れ込んでくる。

 五感の先端にその源が触れると、なぜかそこに小鳥の声が重なった。

 瞬間、イシュルは魔法を発した。

 地面が地震のように揺れ、次第に振幅が小さくなると、伸ばした手の先の草原が陥没しはじめた。

 無数の葦が幾つもの束になって横倒しになり、垂直に沈下し、地面が上下に波のようにうねった。足下の地中を、何か得体の知れない巨大な怪物が暴れまわっているような、無気味な感触が伝わってきた。同時に地響きとともに時折、岩石が割れるのか奇妙に甲高い、獣の鳴き声のような音が聞こえてきた。

「こんなところか」

 イシュルは低い声で呟くと手を下ろし、左右をゆっくり見渡した。

 辺りは湿気があっても土埃が立ったか、砦の方まで霞んで見える。

 広範囲に陥没した地面は砦の全周に広がっている。

 霞のような埃が消えると、草原に埋没していた砦は堀がなくなり、丸太を並べた城壁が下の方まで丸見えになっていた。

 小さな開拓の村、環濠集落を装った大公国の隠し砦は、乱雑に掘り起こされた土の海原に浮かぶ孤島のように見えた。

「ニナ、エルリーナに」

 イシュルは続いてニナに顔を向け、声をかけた。

「はい、イシュルさん」

 ニナが微笑むと、砦の上空に浮かんでいたエルリーナがふわりと両手を肩まで上げた。

 左右に広げられた両腕が美しいフォルムを描いた。

 彼女の水の魔力が陥没した地面に注がれる。

 もとから水分の多い土壌で小さな水溜まりが点在していたが、エルリーナの魔法で、そこかしこで異様な水量の水が湧き出した。

 砦の周りはあっという間に水で満たされ、一見湖上に浮かぶ城のようにも見えたが、水嵩は案外に浅く、河岸に広がる湿地が伸びてきたような地形になった。

「なるほど、こういうことか」

「これなら確かに、小舟で行き来はできませんわね」

 リフィアとミラが続けて言った。

 アルサールの砦の周囲を広い湿地にして、人の往来を妨害することは今朝がた、ニナたちとすでに打ち合わせしていた。

 たとえ砦の者たちを皆殺しにしても、連絡が途絶えれば異常はすぐに露見する。多少の時間稼ぎにはなるとしても、イシュル一行が聖王国からディレーブ川を渡河し、越境してきたこともいずれは知られることになるだろう。

 それならば、戦争しているわけでもないのに皆殺しなど、ただ禍根を残し無用な恨みを買うだけだ。何をしてもいずれ中央にまで知られるのなら、あとは少しでも遅らせることしかできない。

 砦の者をすべて神殿に押し込め、土や金の魔法で扉や窓を塞いで閉じ込めるなど、ほかの方法も検討したが、結局、砦の外周を湿地で覆い、通常の連絡を一定期間不可能にするやり方で落ち着いた。

 隠し砦には村の体裁をとっているためか、女や子どももいる。あまり無体なことをするわけにもいかなかった。

 負傷した魔法使いは精霊と契約しておらず、伝書鳩のような連絡手段もないため、砦の周囲を一定距離、水没させることにしたが、砦内部は周りを囲む丸太の壁を含め、木材は豊富だ。小型の筏ならすぐに組めるだろうし、そうなれば外部との連絡はすぐについてしまう。

 そこを湿地にすれば筏では渡れないし、もちろん徒歩でも不可能だ。城壁の丸太を複数、ばらして湿地に浮かべ、先へ継ぎ足し伸ばしていき、仮の木道として渡るぐらいしか方法はないだろう。それなりの人手と時間を必要とする作業だ。

 新たにもう一体精霊を召喚し、数日ほど見張らせておくのも簡単、確実だが、その程度のことで高位の精霊を呼び出すのはもったいない。

 これから深い森を縦断し、水の主神殿跡に到着すれば何があるかわからない。

 すでに召喚している金の精霊ユーグを含め、風、火、土と残り三体の精霊も新たに召喚する可能性がある。

 月神レーリアか水神フィオアか、レニを人質に何らかの譲歩を強要されるかもしれないが、もし力づくでやりあう展開になったら、リフィアやミラたちだけでは戦力として心もとない。残り三元素の大精霊も召喚しなければならないだろう。

 ……いずれにしても、その時が来るまで余力をたっぷり残し、面倒ごとは最小限にすませなければならない。ほかの精霊召喚も、まだ控えた方がいいだろう……。

「うむ」

 イシュルはミラたちに満足げに頷いてみせると、別の工作で先行させたユーグに意識を向けた。

 ……どうだ? ユーグ。

 少し離れたところにいるユーグから伝わってくるこの感じ、彼の機嫌は悪くない。

 ……砦から数里(スカール、一里長は約650m)ほど西に、街道沿いに廃城と小集落があった。魔法を使う者はいなかったが、念のため浅い眠りの魔法をかけておいた。城跡の方に怪しい者はいない。

 ……よし、俺の方も街道へ向かうことにする。引き続き見張りの方を頼む。

「いい感じじゃないか、うまくいっている」

 イシュルは口の中で呟くと、ミラたちにも前方の状況を説明した。

 隠し砦の周囲を湿地帯にするのは、それなりの魔力を使う。近隣に魔法使いや契約精霊がいたら、間違いなく気づかれる。土魔法だから他の系統の魔法ほど目立たないし、戦闘時でなく、大魔法というほどのものでもない。遠方、広範囲に気を配る必要はないが、近距離に存在するものには何か手当が必要だった。

 そこでユーグを偵察に出し、危険な存在、今回は人の住む集落だった──に目くらまし、眠りの魔法をかけてもらった。可能性は低いだろうが、もしその集落に魔法使いがいたら、街道を移動中だったら、眠りの魔法でも気づかれてしまうだろうから、始末するしか方法がなかったかもしれない。

「眠りの魔法だが、そこの村人でも勘の良い者がいたら、気づかれてしまうかもしれないぞ」

「大丈夫ですわよ。それこそ、どこぞの精霊に化かされた、で終わってしまいますわ」

「……うむ」

「まぁ、少しは不審に思われるのはしょうがない。それが、村長(むらおさ)に知らせなければ、とか大事にならなければいいんだから」

 ……要は時間稼ぎができればそれでいいのだ。あの隠し砦の者と交戦したことは今さら、覆すことはできない。

 リフィアとミラもそれで納得したか、イシュルに笑みを浮かべて頷いた。

「エルリーナ、ありがとう」

 横でニナの晴れやかな声がした。

「……」

 彼女の声につられて空を見上げると、エルリーナの姿はもう消えていた。気配も残っていなかった。

 なぜか、胸の奥にわだかまる小さな不安を抑えて、砦の方、ひとり佇むティボーの姿を見た。

 初老の神官は小さな人形のように、吹けば飛ぶように頼りなげに見えた。

 


 一行はユーグの報告にあった街道目指して青い草原のなかを進んだ。

 高く昇りはじめた太陽が、白い雲の壁に透けて見えた。

 遠く近くで野鳥や虫の声が、背の高い野草の間から絶えることなく聞こえてきた。その聴きなれた響きに、微かに秋の足音が混じりはじめているのがわかった。

 鼻先をかすめる夏草の匂いにも、秋の少し乾いた、甘い匂いが漂いはじめていた。

 道すがら、イシュルたちはそれぞれ無言で、思い思いに歩を進めた。リフィアは子どものように猫じゃらしを一本手に持ち、その穂先をふらふらと揺らして時に口笛を吹きながら歩いた。

 ミラはシャルカと並んで、しきりと遠くに視線をやり、見慣れぬアルサールの山野を観察していた。

 ニナはひとり微笑んだり、少し怒ってみせたり、エルリーナと何事か会話しているのが丸わかりだった。

「むっ」

 近所を散策しているようなリフィア、異国を物見遊山のミラ、女子どうしの会話に夢中のニナ。歩きながらうとうとと、ぼんやり歩くロミールたち。

 その中で、イシュルが最初に緊張した声を発した。

 夏草の匂いに秋の先触れ、そこへ新たな異物が混ざりはじめたのがわかった。

 ……魔法の匂い、だ。

「盾殿」

 少し遅れて前方にいた筈の、ユーグの声がすぐ耳許でした。

「霧だ。また霧がではじめた」

「ああ」

 イシュルはふと立ち止まって、額に手をかざし背伸びするように前を見た。

「ティボーか。あいつがまた、あの水の結界魔法を発動したのか」

 そして今度は背後を、砦の方を振り返った。

 だが、はっきりそれとわかる魔法は感じられない。

「弱すぎるのかな」

「わたしも感じないな」

 イシュルが呟くと、ユーグとのやりとりを傍で聞いていたリフィアが反応して言った。

「空と大地、周りに含まれる小さな水に広く緩やかに作用している。迷いの魔法の一種といってもいいくらいだから、その正体はわかりにくい」

 言葉数の少ないユーグがめずらしく、しっかりとわかりやすく説明した。

「……」

 前を向けば、草原の先に薄く浮かぶ山並みは、ブレクタス山塊東端の山脈だ。その僅かに青く色づいた稜線が、次第に明灰色に塗りつぶされて輪郭を失っていくが見てとれた。

 ふと足下に視線を落とすと、にわかに下草が水気を帯びはじめるのがわかった。

「あの神官は今さら、何を考えて霧を立てているのかしれませんが、これはかえって好都合ですわ」

 と、横からミラの声。

「うん。ふふ、そうだな」

 イシュルは小さく笑って頷いた。

 このまま行くと、ロネーの森に向かう街道に出る。森に入るまでは、その道を行くのが手っ取り早い。付近に大きな街はなく、人と行き会う可能性は少ないだろうが、霧に隠れて森に入れるのなら確かに好都合だった。

 周辺の大まかな地形はティボーから、またユーグの偵察でそれなりに把握している。

 ……ミラはああ言ったが、あの男の立場からすれば、砦の内外がどんな状況だろうと、警戒を怠るわけにはいかないだろう。できうる限り霧の結界を張り続けるのが、彼に課せられた使命なのだ。

 一行はそのまま草原についた小道を進み、やがてロネーの街から森へ北上する街道に出た。わずかに轍(わだち)の残る往還はやはり人気がなく、辺りは早くも深い霧に覆われていた。

 イシュルは街道に出ると立ち止まって、まずロネーの街の方を見た。

 緩やかに弧を描く道の先、それほど離れていないところにユーグが眠りの魔法をかけた、小さな集落がある筈だ。だが、灰色にうねる霧にその近隣にある城跡も、何も見えなかった。

 イシュルは慎重に風の魔力の知覚を広げ、数件の家屋や人の動き、廃城の周辺を調べた。特に怪しい気配は感じられなかった。ユーグも無言で、特段反応を示さない。

 続いて進行方向の森の方へ顔を向けた。こちらも人の気配は感じない。街道を行く者はいない。

「大丈夫そうだな。それじゃ、行こうか」

 イシュルがそう言って来た道を、砦の方を振り返ると、ニナと目があった。彼女も砦の方を見ていた。そして逆に前方を、イシュルの方へ顔を向けてきたのだ。

「見ています」

 彼女は虚ろな眸の色で、呟くように言った。

「あの砦のフィオア像が、こちらを見ています」



 イシュルたちは街道へ出るとそのまま北上、数刻ほど歩いてから猟師道を見つけ、森の中へ直接足を踏み入れた。

 途中、人や荷馬車などと出会うことはなかった。ロネーの街から伸びる小街道は北東方向に伸び、ディレーブ川沿いの街、ピレルに通じている。対岸の聖王国の拠点、ソレールよりも上流、北に位置し、アルサール大公国の城がある。

 かつての水の主神殿はピレルとは反対の西側、北ブレクタス山脈の山裾にあり、方向が違う。それで、街道はそれほど人馬の往来は盛んではなかったが、霧のあるうちに水の神殿跡へ最短の、真北の方向へ向かう猟師道に入ったのである。

 もう隠し砦からだいぶ離れた筈なのに、相変わらず霧が晴れることはなく、深い緑に覆われた森の底は夜闇のように暗かった。

「……っと、しかし、しつこい霧だな」

 森に入っても変わらずリフィアが先頭だった。彼女は鉈(なた)代わりにロミールから大振りのナイフを借り、行く手を塞ぐ枝を払いながら前を進んだ。

 森の闇に目が慣れてくると、行く手の枝葉の重なりに霞がかかっているのが見えてくる。

 リフィアは目の前の枝を払い、何かを確認するように前方を見渡すとイシュルに振り向いて言った。

「まさか、あの結界魔法がまだ効いているのかな? わたしは何も感じないが」

「いや、さすがにあのフィオア像の結界も、ここまでは届かないだろう。これは魔法とは関係ないんじゃないか。空も曇っているのがわかる。夜になると雨が降ると思う」

 イシュルは頭上の空を見上げながら言った。

 梢の先の方まで濃い霧に覆われて、肉眼ではその先は見えない。

「……」

 ちらっと後ろのニナに目をやると、彼女は来た道を、砦の方を見ていた。

 イシュルはすぐ前に向き直ると、誰にも気づかれぬよう俯き、小さく溜息を吐いた。

 ……ニナ。

 あの様子だと実はまだ、結界魔法が効いているのかもしれない……。

 彼女の説明では、砦の神殿にあった設置型の魔法具、フィオア像はその顔を向けた方向に、深い霧が発生するのだという。

 ニナはあの水神の彫像がまだこちらを向いているか、確認しているのだろうか。

 この距離でもわかるというのか?

 イシュルはふと微かな不安を覚えて、前方の暗闇に眸を凝らせた。

 霧は晴れなかったが、一行は魔物に遭遇しあるいは襲われることもなく、森の中を順調に進んだ。

 ユーグを前方に、後方にはニナを配し周囲を警戒させ、先頭はリフィアが、殿(しんがり)はルシアが、そしてイシュルの存在もあって、どんな魔物も危険を察知して、一行を襲うどころか避け、遠くへ逃げているように思われた。

「おほほ。イシュルさまのおかげで、こんな恐ろしい森でも安心。暖かい食事もいただけて本当にうれしいですわ」

 その日の夜は、大きな古木が一本倒れた森の切れ目を見つけ、そこで野宿することになった。

 濃霧は夜になっても晴れなかった。一時は霧雨も降って足許の草葉を濡らし、火を起こすのに時間がかかりそうだったが、イシュルの火の魔法でそれも何の問題もなく、芋や豆のたくさん入った具沢山の暖かいスープが飲めた。

 ミラは野営でも終始上機嫌で、皆の空気を明るくしようとでも思ってか、華やかな明るい声で笑った。

「そうだな」

 イシュルは頷きながらも、しつこく纏わりつくようにして消えない霧に、不可解な疑念を感じずにいられなかった。

 夜は各々、見張りを交代する時間を決め、木々の間に火を囲むようにして天幕を張り眠りについた。

 


 明け方。

 イシュルはリフィア付きのメイド、ノクタに起こされ見張り番を交代した。

 火魔法で焚き火の火勢を上げ、周囲の気配を探り、不寝番のユーグと連絡をとり、いずれも特に問題なく、少し離れて用を足そうと森の奥へ一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。

 霧が晴れ、深い森が続いていた前方から、日の出の水平な陽光が差し込んできた。

 ……前の方に、大きな空間がある。

 森が切れ、草原が広がっているようだ。

 夜、眠りにつくまでは存在しなかったもの。……月神か。

 後ろを振り向くと一面深い緑の壁が続き、野営の天幕も、リフィアたちの姿も消えている。

 世界が変わっていた。

 ……来たか、レーリアめ。今度は何だ?

 イシュルは一度喉を鳴らすと気を引き締め、姿勢を正して前へ進んだ。

「!!」

 木々が切れるとそこには昔の遺跡が、円形の敷地に、円形の建物が立っていたと思われる遺跡が広がっていた。

 もう、建物の形は残っていない。ところどころ苔むし草の生えた石畳に、まばらに円柱が立っている。

 摩耗した石の土台の周りには、大小の石の欠片が転がり、中央には水の女神、フィオアの石像が立っていた。

 その彫像だけは傷みが見えず、ちょうど、あの隠し砦の水神像と同じくらいの大きさだった。その石像は、イシュルを見ていた。

 すっかり霧が晴れ、東と思われる方向からは眩しい朝の陽光が差し込んでいる。

 ユーグとは連絡が切れ、気配もつかめない。

「……気に入らない」

 イシュルは不機嫌に呟くとゆっくり、中心に向かって歩きはじめた。

 雨期には水に沈むのか、足元の石は思いのほかきれいで、下草もそれほど生えていない。

 この遺跡がかつて水神の主神殿だったのか。

 ……そんな馬鹿な。距離感がめちゃくちゃだ。しかもこの円形神殿跡、何かとってつけたような違和感がある。

 とは言えこの清々しい朝の太陽は、月神の仕業ではなさそうだ。

 あいつが出てくるときは夜が多い。それも奇妙な月を伴ってだ。

「どうもはじめまして。お待ちしておりましたよ」

「なっ」

 今までどこにいたのか。

 視界の右端の方から、いきなり男の声がした。

「おまえは……、誰だ」

 くせのある髪に髭、陽に焼けた丸い顔の、大柄な中年男。古めかしいトーガを着ている。足許もサンダルだ。

 すぐ傍にある円柱の影に隠れていたのか。いや、それなら俺が気づかない筈がない。

「おお、これは失礼。わたくしめはフェニテオシス、と申します。以後、お見知りおきを」

 男は右手を水平に上げるとかるく頭を下げた。大陸ではあまり見かけない作法だった。

「フィオアさまに仕えさせていただいております」

 フェニテオシスと、これまた古風な名を名乗った男は、そう続けて言った。

「なるほど」

 イシュルは眸を細めて男を睨みつけると顔を上げ、遠くを見渡した。

 遺跡の周りは木々に囲まれている。森の中にあるのだ。

「ここは水神の神殿、ではないだろう? どういうことだ」

 ……まだ森に入って一日目、ユーグもシャルカも、エルリーナも、誰も反応しなかったし、あまりに早すぎる。

「はは、さすが四つも神の魔法具を持つお方。只者ではない。察しがよいですな」

 男は歯の浮くようなおべっかを垂れると、ついと右手を上げてフィオアの像を指し示した。

「!!」

 イシュルは正面に視線を戻すと、今度こそは驚愕に唖然として固まった。

「……ニナ」

 円形神殿の中央、台座に乗ったフィオアの彫像。その前に、ニナが立っていた。

 忽然と、何の前触れもなく姿を現した。いつの間にかそこに立っていた。

 苦しそうな、何かを強く訴えるような顔。

 両手を、祈るように胸の前で重ねている。

 彼女は怯えていた。

「イシュルさん」

 掠れた、震える声。

「お話があります」

 ニナの潤んだ双眸に、イシュルの姿が小さくふたつ、映っていた。 

 

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