霧の向こう 1


 

 灰色の霧に雨。

 虚ろな、ぼんやりした光。

 夜が明けた実感はない。濃密な霧雨が外界を遮断している。

 蜥蜴人が後方に去ってからは、櫓を漕ぐ緩慢な音しか聞こえない。

 この天候は風の魔力の感知も阻害する。

 それでも霧の先に、固い地面の気配を感じた。

 土の魔力が不足する感知能力を補う。間違いない、ディレーブ川西岸に達したのだ。

 前方、葦の茎のひと塊が左右に分かれ、霧が微かに晴れると舳先が何か大きなものに当たった。

「ここら先はロネーの街の近くまで、歩いて行ける筈です」

 イシュルの前に座る案内人が振り向いて言った。

 日に焼けた厳つい中年男の顔が目の前にある。

 この男はこんな葦原だけの、何の変哲もない川岸の地形を把握しているのか。

「わかった。ありがとう」

 声を落として短く礼を言う。そして音もなく跳躍、川岸に降りる。

 小さな風の魔力を使った。

「……」

 視線を落とし、足下の感触を確かめる。爪先から地下の様子が伝わってくる。周りは、大きな岩塊の突端が地上に顔を出している状態だ。葦の繁茂から免れているのはそのせいだ。からだの奥底の、土の魔法具が教えてくれる。

 霧の向こうはどうか。ユーグは何も言ってこない。怪しい動きはない。

 土と小石と泥、僅かに下草が混ざった、小さな突起のような河岸。細い道が奥へ続いている。暫く人の歩いた形跡はない。

 左右は川面、奥の方は背の高い葦の壁で塞がれている。

「イシュル、ここまでだ」

 ひとりずつ順に、全員が岸に降り立つとルフレイドが言った。

「ありがとうございました。レニは必ず探し出して、連れて帰ります」

「うむ」

 イシュルが背筋を伸ばし、あらたまった口調で一礼すると、ルフレイドは微笑を浮かべて彼の二の腕を取り、何度も頷いた。

「ロネールは人があまり立ち入らない、深い森だ。気をつけろ」

「はい」

「レニだけではないぞ。ミラ・ディエラードも、そなたの仲間たちもだ。皆かならず、生きて帰ってくるように」

 心のこもった言葉だ。国王の弟なのに、こんなにも身近に感じる。

 ……この人となりが、王位継承をめぐってサロモンと争う不幸を招くことになったのだ。

 これ以上の皮肉があるだろうか。

「ありがとうございます、ルフレイドさま。聖王家の恩顧に報いるよう、必ずレニ殿を探し出し、お連れいたします」

 イシュルの感慨を断ち切るように、ミラがルフレイドに向かって腰を下げ、右手を胸に当て正式の作法で感謝の口上を述べた。

「うむ、では。気をつけてな」

 付け髭のルフレイドは、重々しく頷くと皆に向けて破顔し、片手を上げながら背を向け舟の方に戻っていった。

 お付きの者も無言で頭を下げると、ルフレイドに従い舟に乗り込んだ。

「それでは皆さま、私どもはこれにて。失礼いたします」

 最後に残ったジレーが片膝をつき、芝居がかった仕草で頭(こうべ)を垂れた。

「ちょうど今頃、この辺りは霧がよく出ます。潜入するのに打ってつけですが、それは相手方も同じ、十分にご用心を」

 ジレーは顔を上げると、イシュルにそう言って微笑んだ。

「わかった」

 確かに霧は、身を潜め待ち伏せするのにも最適、だが……。

 こいつは何が言いたいんだ? まさか、この先に大公国の連中が待ち構えている、とでもいいたいのか?

「……」

 ジレーの思わせぶりな物言いに、周りに妙な空気が流れた。そんな気がした。

 彼は立ち上がり、もう一度慇懃に頭を下げると背を向け、霧の中に消えて行った。

 やがて霧中から櫓を漕ぐ物憂い音が、それだけが聞こえてきた。

 ……放心していたのか。

 しばらくして声がした。

「行きましょう、イシュルさん」

 シャルカに負けない、大きな荷物を背負ったロミールが言った。

「……ああ」

 イシュルはゆっくり、小さく頷くと、彼と同じように一回り小さな背囊を背負った。

 もう誰も、ジレーの別れ際に言ったことを気にしてないように見えた。

 ロミールの後ろに立つ、セーリアやノクタも大きな荷物を背負った。ミラの傍に控えるルシアも同様だ。彼女らはメイド服の上に外套を羽織り、その上に巻かれた布や縄、小樽やランタンなどを背囊に縛りつけ背負っていた。そしてルシアは大ぶりのナイフを、セーリアやノクタは細身の剣を腰に吊っていた。

「では出発するか。しばらくは、足場の良いところを選びながら行くぞ」

 一行の最前列にいるリフィアが、イシュルに振り向いて言った。

 上陸後は湿地をできるだけ避けながら西進、湿原を抜け、北部の森が近づいてきた辺りからその外縁に沿って移動、標高が上がってきたところで北上開始、ロネールの森に入り水の神殿跡を目指すことになっていた。

「おお」

 イシュルは足早に、リフィアのすぐ後ろの位置についた。隊列もすでに決めてあり、基本は一列縦隊でリフィアが先頭、次にイシュル、そしてミラ、シャルカ、ニナの順で並び、その後にルシア以下従者たちが続いた。

「リフィアさんにイシュルさま、ここら辺はまだ蜥蜴人(リザードマン)が出没する危険な場所です。大きな声を出してはいけませんわ。油断は禁物です」

 ジレーの忠告が影響したか、彼と同じ考えなのか、ミラが後ろから身を寄せ、小さな声で注意してきた。

「ああ、うん」

 イシュルはミラに頷くと、心のうちで金の精霊、ユーグに注意を促した。

 するとすぐ「承知した」と、堅い口調の彼の声が返ってきた。

 多分に水分を含んだ霧に、周囲の地形は湿地で、風と土の魔力の感知もだいぶ阻害される。このようなときは、精霊に周囲の警戒を任せた方が安全だった。

「心配するな。わたしは危険なものを見逃さない」

 前を行くリフィアが、イシュルに振り向き笑みを浮かべて言った。

 ……心強い物言いだが……。

 イシュルはリフィアに引きつった笑みを返し、心の中で反駁した。

 彼女は先ほどの、蜥蜴人との遭遇では反応が鈍かった。それは彼らが川鮫(レモラ)を追いかけ、こちらに直接殺意が向いていなかったからか、あるいは相手が小物で、彼女自身が脅威と感じなかったからだ。

 武神の矢は優れた感知能力を持つが、それは主に本人に向けられる殺意や、明らかな危機に直面した時など場面が限定され、決して広範なものではない。

 リフィアを先頭にしたのは彼女の防御力に期待したからで、決してその警戒力に重きを置いたわけではなかった。

 一行が一列になって進みはじめてすぐ、彼女の感知能力の限界を如実に示すようなことが起こった。

 ……盾殿、左奥の水面に、棒が飛び出ているぞ。

 何の前触れもなく、ユーグの声が心の中へ流れ込んできた。

「左?」

 目を向けても、灰色に濁った霧しか見えない。

 ……ん?

 何か、引っかかるものがある……。

 イシュルは首を傾げて、左手に広がる水辺の一角を注視した。

 できるだけ魔力を抑えて風を吹かせ、霧を払う。

 微かに波打つ水面から細長い竹が数本、突き出ているのが見えた。

 周囲は葦も生えていてわかりにくい。だがその竹竿は明らかに人の手によるものだ。

「あれは、漁具だ……」

 横からリフィアが呟く。

「間違いない。仕掛け網だな」

 イシュルは視線を鋭く、その竹竿をじっと見つめた。

 流れの穏やかな淵などに漁師が仕掛ける、ごくありふれたものだ。運良くというべきか、仕掛け自体はかなり古いもののようだ。網は剥がれてしまったか、ほとんど残っていない。

「だいぶ前のもののようですが、油断はなりませんわね」

「水中の網はボロボロになっています。だいぶ時間が経っているようです」

 すぐ後ろのミラ、そしてシャルカを挟んでニナの声が聞こえた。

「思ったより近くに、人間の集落があるかもしれないぞ」

 蜥蜴人はあのような仕掛けは使わない。やつらは魚網を作って漁などできない。

「小さな村など、聖王国だっていちいち把握していないだろうし」

 リフィアの言うことは最もだ。

「とにかく前へ進むしかない、行くぞ」

 彼女は背を向け、すぐ歩きはじめる。

 ……ユーグ、頼んだぞ。特に前方、正面は要注意だ。

 イシュルは金の精霊に心のうちで声をかけ、小さく息を吐いた。

 ユーグがいてくれてよかった。あんな古ぼけた竿、こんな霧の中では誰だって見落とす。

 こういう時はまさに、リフィアの感知能力はあまり役立たない。どんなに危険を察知する能力が高くとも、武具でも魔法具でもない、ただの古い漁具では気づきようもない。

 しかし精霊なら別だ。このような悪天候、水と土の入り混じった地形でも、それが人工物なら彼らも見落とすことはないだろう。たとえ竿一本でも自然に存在しないものならば、彼らにとってそれは異物だ。

 葦の茂みの間になかば隠れるようにして刺さっていた数本の竹竿。

 それがたとえ最近の、新しいものでなかったとしても、この先に人間の住む集落、アルサール大公国の村があるかもしれない。ミラの言ったようにまったく油断できない状況になった。

「……」

 ふと、別れ際のジレーの姿が心の片隅をよぎる。

 その瞬間、前方の霧の先に何か違和感を覚えた。水分を多分に含み、今ひとつはっきりしない地面の感触。そこに異物感が混じる。

 ……盾殿。

 ……ああ、わかってる。

 ユーグもほぼ同時に感知したようだ。

 ……人家かな? 古い建物が点在している。人間や魔物の気配は感じない、が……。

 金の大精霊が自信なさそうに、口ごもる。

 まだ距離があり、霧や地形の問題もあってはっきりしない。前方は徐々に湿地が減り、乾いた地面の面積が増え、地盤がより安定している。その辺りに人工物の気配がある。

「気をつけろ。まだ先の方だが、人家らしきものがある」

 イシュルは声をひそませ、リフィアとミラに言った。

 ミラの後ろのシャルカがニナに伝え、ニナがさらに後ろの者に伝えていく。

「……」

 みな無言で騒ぐ者はいないが、より緊張した空気が一行を覆っていく。

 地面を踏みしめ、草を折る足音以外、何の音もしない。

 霧雨は音もなく、目の前の白い靄(もや)から細かな渦を巻いて湧き出るように膨れ上がり、全身に絡みついてくる。

「この霧、ただの霧ではないかもしれないな」

 リフィアが前を向いたまま呟いた。

 小さな声なのに、しっかりと聞き取ることができた。

 ……わたしも、この武神の魔法具持ちと同じ意見だ。この霧は水か迷いか、何かの魔法と結びついている。

 リフィアに続いてユーグの声が心のうちに響く。

 ……盾殿、どうする? 先行して偵察してくるか?

 ……いや。魔法の気配がするなら、偵察は危険だ。もし精霊がいたら、間違いなく気づかれるだろう。荒事になるのは確実だ。

 イシュルはユーグの声に、音には出さず口中で答える。

 金の精霊では、風の精霊のようにうまく偵察できないだろう。戦闘状態になってもユーグに勝てる者はいないだろうが、より広範囲に、多くの者に知られることになるかもしれない。近隣の領主にでも知られれば戦争になる。面倒ごとは絶対に避けたい。

 ……足元の地面も安定してきたし、そろそろ土の精霊を召喚すべきだろうか。

 いや、この場で召喚するのは良くない。魔力の発動は控えるべきだし、召喚していきなりユーグとうまく共闘できるか、不安がある。風の精霊ネルと、金の精霊ルカスの両者を召喚していた時は、特にネルがルカスを嫌っていた。

 ユーグはなかなか気難しい精霊だ。この状況で他の精霊を呼び出したらどんな反応をするか、想像に難くない。いきなり連携して戦うのは難しいだろう。

「俺の召喚した精霊も、この霧を怪しいと言ってる」

「あいつがか」

 イシュルがリフィアに言うと、後ろからシャルカが反応し、珍しく割り込んできた。

「そうだ」

「……」

 イシュルがシャルカの顔を見上げ短く答えると、彼女はむっつり押し黙って特段の反応を示さなかった。

 金の精霊を召喚したことはすでに全員に話してある。まだ面と向かってユーグを紹介してはいなかったが、シャルカはその名を聞くとルカスの時と同じような、何か含みのある反応をみせた。ただルカスと違い、ユーグと直接面識があるわけではないようだった。

 ユーグにシャルカを知っているか訊くと、彼は「知らない」と答えた。召喚してからも、彼女に対し特段の反応は示さなかった。

「あの、エルリーナもこの霧に魔力が混じっている気がすると……」

 ニナがシャルカの巨体の横から顔を出して言った。

「わたしは特に感じませんが、これはこの先、覚悟しておかないといけませんわね」

 ミラが片手を頬に触れ、首を傾けて言った。

「うん」

 ……荒事が避けられないのならば、どう対応するか、考えておかねばならない。

 この深い霧の、その先に魔法使いや精霊がいるのなら、魔法を使うことに躊躇すべきではない。隠し立てをしても意味がない。ただ、周囲の領主や住民に少しでも気づかれぬよう、威力や規模を抑え、素早く的確に魔法を使い、相手を完全に制圧する必要がある。

 しばらく前へ進み、葦がまばらに、湿地が左右に後退し硬い地面が広がってきたところでイシュルは歩を止め、一同に声をかけた。

「みんな、ちょっと集まってくれ」

 隊列の後方のルシアやロミールらも傍に寄ってくると、イシュルはこの先に魔法使いらしき存在がいることを伝え、どのように対処すべきか、簡単な作戦を提示した。

 そこにリフィアやミラの意見を反映し、打ち合わせが終わると再び同じように隊列を組み、ゆっくりと進みはじめた。霧は相変わらず、一向に晴れる気配がなかった。

 すると再び、ユーグの声が心のうちを打ってきた。

 ……見つけたぞ。かつて人間どもが住んでいた古い家が、いくつか散らばっている。

「ふむ」

 イシュルは小声で呟くとその場に膝をつき、片手を地面に当て、何かに祈るように頭(こうべ)を垂れ、目を閉じた。

 土中の水気が、さまざまな土砂の堆積や点在する岩石の光り、囁く広大で豊かな世界を曇らせ、知覚の邪魔をする。

 だがこの地下世界に、土と下草に触れた指先に、ユーグの言った構造物の存在をはっきりと感じた。距離は二里長(スカール、約1,3km)ほどか。

 この天候では風魔法だと、前方にある建物をアクティブ、つまりレーダー波のように魔力を放出し探っていかないと、見つけられない。

 ……なるほど、俺も見つけた。

 ……どうする? 先行して、詳しく調べた方がよいかな?

 ……いや。まだだ。

 ユーグも当然、先ほどみんなと打ち合わせた内容を聞いている。こちらから動くのはまだ控えた方がよい。本当にただの廃村か、まだ断定はできないのだ。たまたま人が不在なだけで、砦や倉庫など何らかの施設として、今も機能している可能性がある。この霧が魔法の影響を受けているのなら、この先に魔法を使う者がいるのなら、そこに必ず何か、よろしくないものがある筈だ。ここは慎重にいくべきだろう。

 ユーグに、風の大精霊と同じ偵察能力を期待するのは無理がある。大事になるのは避けなければならない。我々は、アルサールと戦争するために河を渡ってきたわけではない……。

「イシュルさま、土の声を聴いていらっしゃるのね」

「何か見つけたか?」

 ユーグと心の中で話しているとミラが、続いてリフィアが話しかけてきた。

「ああ。この先に何か、古い建物がいくつかあるようだ。ユーグが見つけた」

「それは廃村、……でしょうか」

「人の気配は?」

「廃村かどうか、わからない。誰か人がいるのか、それもまだわからない」

「エルリーナもわからないと言っています。先の方はだいぶ湿地が減っているそうです」

 ニナに目をやると、彼女はすぐ、的確に答えてくれた。

「注意して、このままもう少し進んでみよう。もっと詳しく、何かわかるかもしれない」

 ……前方に魔法を使う者がいるとして、相手がこちらより索敵能力に優れている、ということはまずあり得ない。

 それなら、このまま相手に気取られぬよう接近するのが肝要だ。

 霧の中、皆無言で足音を忍ばせ歩くうちに、周囲はエルリーナの言うとおり湿地が減り、しっかりした地盤の地面が広くなってきた。

 ……盾殿、人間がいる。何人か、建物に隠れるようにして身を潜めている……。

 再び、ユーグの知らせる声が心中を響く。

 イシュルも再度しゃがんで地面に手を当て、ユーグの報告を確かめた。

 生きもの、気配から人間らしき存在──が複数、前方の建物の辺りから伝わってくる。みな一か所にとどまり、動きは感じられない。

 ……彼らはやはり、待ち伏せしているのか。

 俺たちを。

 イシュルは立ち上がると後ろへ振り返り、霧に真っ白に染まった空を見つめた。

「それなら、どうしてやつらは俺たちが近づいてくるのを知ったのか」

 前へ向き直り、顎に手をやり俯き加減に沈思する。

「どうかしたか」

 リフィアが身を寄せ小声で訊いてくる。

「前方の建物に、人の気配があった」

 イシュルは視線を上げたがリフィアを見ず、今度は前方に広がる霧を凝視した。

「どうやら、俺たちを待ち伏せしてるらしい」

「まあ、そうなるか」

「妖しい霧に、待ち伏せですか?」

 リフィアは「さもありなん」とそれらしく頷き、ミラはいつものごとく「ほほほ」と品よく笑った。

「問題は待ち伏せしているのがどんな奴らか、なぜこちらの接近を知ったかだ」

「ここら辺はアルサール大公の直轄領だが……」

 リフィアは口許に手をやり考え込む。

 対岸のソレールが聖王家の王領であるのと同様に、ロネーの街とその周辺もアルサール大公家の直轄地となっている。

 それがイシュルたちが荒事を避ける一因でもある。もし騒動になれば、アルサール大公国との戦争に直結しかねない。

「ここを避けるわけにはいかないですわ。先ほど打ち合わせたとおり、敵方の大勢を掴んだら即、はじめましょう」

 ミラは相手がアルサールなので容赦がない。まだ向こうの詳細がわからないのに、「敵」認定している。

「迂回するにも、左右どちらも深い湿地で、このまま歩いて移動するのは難しいです」

 ニナはエルリーナの助言を受けているのか、水辺であればかなり遠方まで地形を把握しているようだ。

「イシュル、打ち合わせ通りに行こう。予定を変える必要はない」

 と、リフィア。

「ああ、もう少し近づけば相手方の状況もわかってくるだろう。行こう」

 イシュルもリフィアの意見に異論はない。

 ……相手は廃屋らしき建物に潜み、待ち伏せしている。前進し、こちらへ先制してくる気はないようだ。また同時に、後方に退き戦闘を回避するつもりもないようだ。

「ならば相手も、こちらの状況を正確に把握できていない、ということになる」

 ……御方の言われるとおりだ。魔力を霧に伝えて補強しているようだが、結界というには程遠く、我が方の動向を詳しく感知できるような代物ではない。

 口の中で呟いたイシュルに、ユーグが鋭く反応した。

「あの古い仕掛け網を見つけた時点で、こうなることは予想できた」

 この先にいるのが、例えば蜥蜴人(リザードマン)などの討伐を請け負ったハンターらのパーティでなければ、あとはアルサール大公の手の者、ということになる。

 こちらの西岸への進出をどの時点で知ったか、それが魔法かわからないが、そんなことができるのは領主や神殿のような勢力に絞られるだろう。

 ……もし相手が大公国の者だとしたら。

「ふふ」

 イシュルは小さく、酷薄な笑みを浮かべた。

 あいつ、まさかこのことを知っていたのか?

 脳裡を、最後まで慇懃だったジレーの思わせぶりな姿が過(よ)ぎった。

 ……人間どうしの姑息な駆け引きだ。今度は、ユーグは何も言ってこなかった。


  

「ふむ、いるな。感じるぞ」

 それからしばらく。霧中を漠然と進み、リフィアが不意に立ち止まると振り返り微笑んだ。

 ……盾殿。

 ほぼ同時に、少し緊張したユーグの声が、被さるように心中を響いた。

 ……ああ、わかってる。

 イシュルは先にユーグに返事をすると、リフィアには声に出して言った。

「それだけじゃない。廃墟の奥に、もっと凄いものがあった」

「ん?」

「なんですの?」

 イシュルは薄っすら、口角を歪めて言った。

「砦かな? 環濠集落か。廃村とか、そんな程度のもんじゃない」

 大小の建物の蝟集した周囲に堀が切ってある。地面を通して足下から伝わってくる感覚は、これ以上はない確かなものだ。

 ただ、それほど規模は大きくない。城郭と呼べるほど仰々しいものはかんじないではない。

「まさしく隠し砦、だな」

 イシュルが説明すると、リフィアも少し皮肉な口調で言った。

「誰しも考えることは同じ、ですね」

 めずらしくニナが、割って入ってきた。

 ルフレイドがディレーブ川河畔に隠し砦を用意したのと同様に、アルサール側も川霧が発生しやすく、河岸まで小部隊の移動が可能な好立地に隠し砦を設けていたわけだ。

「イシュルさま?」

 ミラが表情を引き締め、訊いてくる。イシュルの指示を促しているのだ。

「よし、じゃあ、打ち合わせた通りに」

「わかりました」

「おまかせを」

 視線を後ろのロミールたちにやると、セーリアもノクタも、三人とも大きくひとつ頷いた。

 一行はイシュル、リフィア、ミラとシャルカが最前列で横に並び、次にニナとルシアたち侍女グループ、殿(しんがり)にロミールがつき、密集する葦を避けながら互いに十長歩弱(スカル、約6m)の間隔をあけ、戦闘用の隊列を組んで進んだ。

 警戒しながら前進をはじめ暫く、永遠に続くかと思われた霧の紗幕の重なりが突然途切れ、うねるような霧雨のなかに黒い影が複数、浮き上がった。

 背の高い葦原から立ち上がった建物の影は、間違いなく朽ちた古い人家──廃屋、そのものに見えた。

 ……昔、ここに村があったのか。

「ふふ」

 と、イシュルは今日何度目か、薄く皮肉な笑みを浮かべた。

 わかりやすいじゃないか……。

 建物はすべて木造で、屋根もほとんど落ちている。手前の家は石積みの暖炉を備え、崩あれ落ちた外壁からちらちら見えている。

 待ち伏せしている者たちは、これらの廃屋に隠れ潜んでいるのだった。

 ……そして、この廃墟の奥に隠し砦があるわけだ。

 わずかに薄くなった霧のなか、点在する廃屋に混じって灌木の影が見える。その先に、周りに豪を巡らした小城塞がある筈だ。

 迎撃用の陣地として、古い民家の廃墟をわざと残しているのだ。

「手前に隠れているやつらと、奥の砦を同時に制圧する。あとは予定どおり。はじめるぞ」

 イシュルは右のリフィア、左のミラとシャルカに、続いて後ろにも振り返り声を大きめに張り上げ言った。

 正面、数歩先にごく弱い風の魔力の壁を展開して、声が前方へ届かないように処理した。

「盾殿」

 イシュルの肩先に、ユーグがわずかに気配を見せてひと声かけてきた。

「たのむ」

 ユーグはイシュルの声を聞くと一瞬で消え、次の瞬間には前方、かなりの距離に研ぎ澄まされた金の魔力を展開した。真っ白な霧の向こうで、稲妻のように宙を走り煌めく魔力が微かに見えた。

 ユーグが砦の西側、反対側を中心に魔法の障壁を張り、中にいる者を閉じ込めたのだった。

 と、手前の廃墟の方で人が動き、魔法の発動する気配が起こった。

 ほぼ同時に、イシュルが右手を上げ攻撃開始を告げる。

 瞬間、右から赤い閃光が走り、リフィアの姿が消えた。

 前方、赤く燃える火球が三つ、空中に現れイシュルらに向かって放たれる。左右に並ぶ廃屋からは十数本の矢が射たれた。

 リフィアは力を抑え、散在する廃屋に隠れる射手や槍兵をひとりずつ、手加減しながら倒していく。それでも誰もその動きを追えず、無抵抗に得物を破壊され、皆その場に昏倒していく。 

 ミラは曳光弾のように真っすぐ向かってくる火球に金属弾を撃つと、シャルカの腹部から小型の斧のついたハルバードを引き抜いた。

 イシュルは右腕をかるく伸ばすと、弧を描いて落下してくる矢を風の魔力で一気に横へ薙ぎ払った。 

「ん?」

 廃墟の敵をミラたちにまかせ、後方の砦に跳躍、空中から突入しょうと足裏に意識を向けた瞬間、イシュルは地中を土の魔力が突き抜けていくのを感じた。

 続いて足下を巨大な怪物が暴れまわるような、無気味な揺れが起こると、殿(しんがり)のロミールのすぐ後ろの地面がもの凄い勢いで盛り上がり、土塊が人型になった。

「くっ!」

 ロミールが後ろを向き、背に担いだ荷物から短槍を引き抜いた。

 下草の絡まった土のゴーレムは巨大なタイプではないが、それでも人間の二倍ほどの上背がある。

 ……土の魔導師もいたか。

 イシュルはそれを見て薄く笑うと、今度は左手を後ろへ突き出し、すぐ前を向いた。

 突き出された後ろ手の先、ゴーレムが一瞬で塵となって吹き飛び、前方の廃墟の一角で突然、小爆発が起こった。

 ゴーレムとその召喚者、前方に隠れる土の魔法使いを同時に葬ったのだった。

「……」

 イシュルはやや腰を落とし、足元に力を溜めると跳躍、一気に五○○長歩(スカル、約300m)の距離を飛んで廃墟を飛び越え、水堀を張りめぐらし、丸太を連ねた柵で囲まれた砦の中に降り立った。

 後方からは、リフィアやミラたちの暴れる回る破裂音や擦過音、金属の打撃音が響いてくる。一方的な展開だからか、怒号や悲鳴など、敵側の叫声が一切聞こえてこない。何の反応もできずに皆、一撃で倒されているのだ。

 ……盾殿、濃い霧を生んでいた魔法具を見つけたぞ。

 着地と同時にユーグの声が脳裡に響く。

「ああ」

 イシュルは短く返事をすると辺りを見回した。

 砦内の建物はみな木造平屋で、人の住む住居は数棟、倉庫の方が多い。柱の下部を石材とした高倉式の穀物庫も散見される。人の姿は見えない。奥に小さな広場らしきものが垣間見え、栗の木か、広葉樹が数本植えられ、大きなものには見張り台が偽装されている。木々の下には丸太と洋漆喰、装飾に一部石材が使われた神殿があった。

 ユーグの指摘した霧を生み出す魔法具は、その神殿の中にあった。

 ……これは水系統の結界魔法か。

 心のなかで呟くと、ユーグの首肯する気配が伝わってくる。

 霧を発生させる、広域だがごく弱い結界。迷いの魔法によく似たものだ。おそらく、霧の中に踏み込んだ存在を、おぼろげにだが感知できるのだろう。今回はその者がディレーブ川西岸、聖王国側から侵入してきたので、彼らも布陣し迎撃することにしたわけだ。

 砦を囲む塀の内側、特にユーグが金の魔力で押さえこんでいる正面奥、西側は彼の魔力の影響でだいぶ霧が薄れている。

 時刻はそろそろ昼、濃い霧もさすがに晴れてくる頃合いだが、塀の向こうに見える空は真っ白に染まったままだ。

 イシュルは真っすぐ、その神殿の方へ歩きはじめた。

 砦の建物には人の気配がするものもあった。窓際にでも隠れながら、こちらの様子をじっと窺っている、そんな視線を感じた。

 だが、手を出してくる者はいない。砦、あるいは環濠集落は、それほど広くなくイシュルはすぐ、神殿前の小さな広場に出た。

 正面、木製の観音開きの扉に目をやると、心のうちを突き刺すようなユーグの警告と、同時に何者かの強烈な殺意が降ってきた。

 ……わかってるさ。

「ネリー」

 心中でユーグに答え、口に出してネリーの腕輪を起動した。

 敵は神殿の裏から屋根に登ると加速の魔法を発動、ナイフを逆手に持って跳躍、頭上から飛び掛かってきた。

 久しぶりに感じる、有無を言わせぬ暴力の圧力。猟兵の、暗殺者の殺意だ。

 白い霧の空を背景に、黒い人影がコマ送りのような奇妙な動きで迫ってくる。互いに加速の魔法、疾き風の魔法を発動しているためだ。

「……」

 黒い影のなかに相手の眸の輝きが見えた時、イシュルは風の魔力をぶち当てた。

 突如、加速の魔法が途切れ、黒い影が粉砕された。

 少し遅れて、後ろに広がる空に甲高い風切り音が鳴り響いた。

 イシュルの鼻先に、血の匂いだけが降ってきた。

 かるく首をふって歩を進め、観音扉を開いた。

 神殿のなかは薄暗く、端の方に椅子や机が幾つか、乱雑に積まれていた。その影に数名の女たちと子どもがいた。すすり泣くか細い声はそちらの方から響いてきた。

 イシュルは眸を細め、視線を中央、奥の方へ向けた。

 そこには珍しく、水の女神の彫像のみが鎮座していた。ほかにこれといった装飾はなく、神殿内部には夏とは思われない、寒々しい空気が漂っていた。

 ……もう、俺を襲ってくる者はいない。

 イシュルは何度目か、薄く歪んだ笑みを浮かべると水の女神、フィオアの像の斜め前に立つ初老の男に声をかけた。

「珍しい。その彫像が魔法具か。いわゆる設置型、というやつだな。神官殿」

「……」

 男は粗末な神官服を着ていた。苦虫を噛み潰したような顔をしてイシュルを睨みつけ、低い声で呻いた。

「聖王国の者か。何しに来た」


 

 神殿内には十名ほどの男たちが後ろ手に締められ、床に直接座らせられている。

 新たに室内に灯された蝋燭の火が、フィオアの像を下から照らしている。霧の結界を生む魔法具、水神の彫像は、下部の台座も含め三長歩(スカル、約2m)ほどの高さで、それほど大きいものではない。

「さて、どうする? イシュル」

 リフィアが机を後ろに腰を当て、胸の前で両腕を組み、いささか行儀の悪い恰好で訊いてくる。

 少し首を傾け、口角を引き上げているのもらしくない。悪人顔に見えなくもない。

 制圧した大公国の砦は、魔物の多い僻地に典型の、環濠集落に偽装している。彼女は、寒村を襲撃した血も涙もない盗賊団あたりを気取っているようだった。

「どうもこうもない」

 イシュルは横目にリフィアを見て小さく溜息を吐くと、砦の者でただひとり、拘束されていない神官服の男に顔を向けた。

「そこの女魔導師、聖王国の赤い魔女であろう」

 真っ白の髪と髭に、神経質そうな疲れた顔。神官の男は、向かいの壁際に立って虜囚を見張る大柄の女、シャルカを見やり、続いてすぐ傍に立つミラの顔を睨めつけると唸るように言った。

「それはどうかな」

「……」

 ミラは無表情で、何も言わない。

 男はさらに厳しい目つきになって、イシュルを睨んだ。その凶悪な顔は、とても神官には見えなかった。

「詮索は無用に願おう」

 イシュルも負けじと男を睨み返した。

「ちょっとは立場を考えろ。あんたらを生かすも殺すも、俺ら次第だ。わかるよな?」

「ふん。一方的に攻めてきたのは、その方らであろう」

「先に攻撃してきたのはおまえらだ」

 ……どちらが悪い、という話になると部が悪い。確かに、アルサール側に一方的に踏み込んできたのはこちら側だ。

 イシュルは縛られた農夫、の恰好をした兵隊たちを見渡し言った。

「俺たちはあんたらと戦争したいわけじゃない。こちらの命令に従い、抵抗しなければ悪いようにはしない」

 この隠し砦に攻め込む前、一同で決めたことは、ロネーの街に駐留する大公軍やほかの領主らに見つからないよう、大きな魔法は極力控えること、そして戦争、侵略が目的ではないので、無用な殺しは避けること、逃亡を防ぎ、砦を制圧したことが外に漏れないようにすること、だった。

 そのためユーグを先行させ砦の内外を遮断し、リフィアたちには攻撃を手加減させたのだった。ただし火と土の魔法使いは魔法具を破壊し、手酷い傷を負わせて戦闘力を完全に奪った。

 神殿の外、広場の斜め向かいの民家には他の兵士、負傷した者と、砦にいた女たちが集められていた。そちらはロミールやルシアらが見張り、ニナが負傷者の治療にあたっていた。

「むう……」

 神官服を着た男は、イシュルからリフィアに視線を移し、今度は打って変わって、少し弱気な表情を見せた。

 リフィアやイシュルのまとう雰囲気が、聖王国の者と違うところがあるのが、何となくわかるのだろう。

「これ」

 イシュルは水神フィオアの彫像を見上げ、続けて言った。

「この魔法具、フィオア像も破壊しないと約束しよう」

 一瞬、ジレーの思わせぶりな態度が脳裡をよぎる。

 ……あいつはこの隠し砦のことを、アルサール側も築いていたことを、知っていたんじゃないか。

「お主、確かに聖王国の者ではなさそうじゃ」

 ……おっと、今はこの爺さんだ。

 初老の男はこれでもかと、イシュルの顔をじっと見つめる。

「聖王国と関係ないというのなら」

 男の冷たい眸が一瞬、恐怖の予感に震えた。

「お主は何者じゃ」

 リフィアとミラが「ふっ」と、笑みを浮かべた。

 イシュルは仕方なさそうに肩をすくめ、口端を歪めて言った。

「イシュルだ。知ってるか? ラディス王国のイシュル・ベルシュだ」

 

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