渡河



 目の前を、朝陽を全身に浴びマントを風になびかせ、ソレールの太守が屹立している。

「イシュル、失敗したな」

 ルフレイドの厳しい視線が注がれる。

「……」

 イシュルは無言で小さく頷くと、ゆっくりと立ち上がった。

「怪我をしたのか」

 ルフレイドはニナがイシュルの右手を握り、水の魔力を当てているのを見るとさらに厳しい表情になった。

「たいしたことはありません」

 水の魔法使いには、止血できる能力を持つ者もいる。ルフレイドはニナの魔法を、単純に出血を抑えるだけのものと見なしている。

「……ふむ」

 イシュルの返事を聞くと、彼は表情を緩め小さく「ふふ」と笑った。

「まさか、そなたほどの者が黒尖晶を取り逃がし、あげく怪我までするとはな」

 そして昨晩、異変のあった商人街の方を見やると、続けて言った。

「わたしも塔に登って見ていたが、黒の裏切り者は魔封陣を使ったようだ。油断したな、イシュル。そなたらもだ」

 ルフレイドは再び厳しい顔になってミラたちを見回した。

 ……ふふ。やはりそう来たか。

 あの時、魔法を知る者が遠方から見れば、メリリャの黒い影を闇の精霊に、月神レーリアの特殊な結界を魔封の結界と誤解するのではないかと考えていたが、ルフレイドもそのように見立てたようだ。

 そしてあの巨大な月明りの円盤は、“見えていない”。おそらく、満月に照らされた明るい大きな雲、のようなものと認識していたのではないだろうか。

 あの光の円盤や、正体不明の、つまり月神の存在を認識していたミラたちとは物理的な距離が、そして当事者である俺との精神的な距離が、この認識の差を生んだのだと考えてもいいだろう。

 イシュルは一瞬だけ、顔を俯かせほくそ笑むと、神妙な顔をつくって言った。

「言葉もありません、俺の責任です。……お許しを」

「まさか、闇の精霊の影を使って転移するとは思いませんでしたわ」

 ミラが機転を利かせ、それらしく話を合わせてくる。

「逃亡者はレニの一撃を受けて、瀕死の状態でした。転移した先でも彼女の優位は変わらないでしょう。その点は心配していないのですが……」

「転移、か。うむ、どこに移動したかが問題だな」

「影踏みの魔法具は、使用者が実際に行ったことがある、知っている場所にしか移動できないと聞いております」

 そこで、ルフレイドの背後に隠れるようにして控えていたジレーが、割り込んできた。

「うむ。その転移先とやらも大雑把にしか選べず、遠距離の移動も不可能とされている」

 ルフレイドがジレーの方を向き、補足するように言った。

「レニ・プジェール殿と黒尖晶の捜索は、ぜひ我らにおまかせください。かならずや、此度の失敗の雪辱を晴らしてみせましょう」

 リフィアが右手を胸に当て力強く、それも美しい声音で言った。

「……」

 イシュルも彼女の発言に合わせルフレイドに頭を下げたが、その俯いた顔にわずかに苦渋の色が浮かんだ。

 ……レニを救出するにはアルサール側に渡り、水の神殿跡に向かわねばならない。彼女はほぼ間違いなく、そこに囚われている。

 だが、ルフレイドをはじめ、他の者にそれを話すわけにはいかない。

 この秘事を知らなければ、誰しも黒尖晶の足跡を辿り、広範囲に探さなければならない、と考えるだろう。たとえ近距離の移動しかできないとしても、その捜索範囲はかなりの広さになる筈だ。

 だが、こちらとしてはそんな無駄足を踏むわけにはいかない。何か、水の神殿跡に向かうこととレニの救出を一緒に行える、うまい口実が見つからないだろうか……。

「レニさんの手助けをしていた白尖晶の方は、どうなったでしょうか」

 ミラが城壁の内側、商人街の方へ眼をやり呟いた。

「もう街にはいない、逃げた。……いや、都(みやこ)の方へ向かったかもしれない」

 後ろからシャルカの声がした。

 彼女は昨晩の白尖晶の動きも、一定の距離まで把握していたようだ。

「なるほど。その影の者は聖都へ報告に戻ったのであろう」

 ルフレイドが顎に手を当て、何事か考えるふうにして言った。

「その白尖晶の者は、聖都から来た道を辿りながら、プジェールさまの行方を捜しているのかもしれません」

 ジレーは視線を城壁の東、遠く聖都の方へやって言った。

「こちらからも聖都へ使いを出そう、手配いたせ」

 ルフレイドはジレーに命じると、イシュルに顔を向け続けて言った。

「昨夜のことは兄上にも報告せねばならん。いいな? イシュル」

「はい。仕方がありません」

 イシュルだけでない、ミラたちにも重い空気が流れる。

 ……俺が失敗したのはともかく、レニが攫(さ)われた形になったのを、サロモンに知られるのはよろしくない。だが、今さら隠し立てはできない。工作のしようもない。

「まぁ、悪いようにはしない。心配するな、イシュル。そなたらもレニ・プジェールを捜索できるよう、口添えしてやる」

 ルフレイドはにやりとして、イシュルの肩を叩いた。

「大丈夫だ、彼女は生きているさ。あの黒尖晶は腹を裂かれていたんだろう?」

「ええ」

「うむ。……さあ、こんなところにいてもしょうがない。一緒に来い。朝飯を共にしよう」

 ルフレイドはイシュルに頷き返すと、わざと快活に笑って派手にマントを翻し、城館の方へ歩き出した。

「行こう」

 イシュルはミラ、リフィア、ニナと顔を見回すと、小さく声をかけた。

 そして前を向くと、ひそかに笑みを浮かべた。

 ……そう、レニは生きている。俺が来るのを待っている。

「彼女の捜索範囲を川向うのアルサール側に指向できるよう、うまい手を考えないといけない」

 押し殺した声が、苦しげな笑みからこぼれ落ちた。



 イシュルたちと朝食をともにしたルフレイドは、数日ほど待ってもらうことになるかもしれない、と言い残してせわしげに談話室(サロン)を出ていった。

「イシュルさま、今はじっと堪えて、我慢なされませ」

 ミラはイシュルの考えていることがよくわかっていた。どうしたら、少しでも早くディレーブ川を渡れるか、悩んでいることもお見通しだった。

「うむ、今は大人しくしていろ。神々はいくらでも、おまえが来るのを待つことだろう。……いわば、世界はおまえを中心に回っているのだ。急(せ)くことはない」

 リフィアは珍しく冗談半分か、いささか大げさなことを言った。彼女もイシュルの苦渋を思いやっていた。

「イシュルさん、疲れが顔に出ています。今からでも少し横になって、休んだ方がいいです」

 と、ニナもだ。

 傷心のイシュルは皆に気づかわれ、彼女の言うとおり自身の疲れも自覚して、一旦寝室で休むことにした。

「みんな、すまなかった。きみらもひと休みしてくれ」

 イシュルはミラたちに素直に頭を下げると、談話室から続きの自室に入った。

「……」

 ひとりになると、イシュルは右手に巻かれた包帯に目をやった。ニナに治療してもらった右手の裂傷は、すでに血が止まっていた。当然完治したわけではないが、この異常に早い回復が、疲労の一因にもなっていた。

 ニナの水魔法は光系統の純粋な治癒魔法とは違う。人体の生理に直接働き掛けるものなので、時に空腹感や疲労感に襲われたり、発熱したりと、何らかの反動に襲われることがある。

 イシュルはベッドにそのまま、倒れ込むようにして突っ伏し、瞬く間に深い眠りに落ちた。

 数刻後、目覚めた後は気分も落ち着き、傷の痛みも沈静化した。皆で揃って夕食をとり、食後には明け方に告白した月神との因縁や過去のことについて、ミラたちの質問に答える形で説明の不足を補った。

 その後は珍しく酒を飲み、酔いつぶれた面々を残してイシュルは自室に移動し、昨夜の出来事をもう一度思い返し、反芻した。それからヨリクにかわる、新しい精霊を召喚した。

 現状からすると、やはり偵察力に優れ使い慣れた、風の精霊をもう一度召喚したかった。

 だが昨夜の惨劇でそのヨリク、とっておきの風の精霊を失ったばかりだ。どうしても気が引けて、残りの土、火、金からとりあえず一体のみを選び、召喚することにした。

 通常、召喚、契約を問わず戦闘などで精霊を失えば、数日からひと月ほどの間、再び呼び出し、使役することはできなくなるが、神の魔法具を持つ者であればその限りではない。そのことをイシュルは自然に感じ取り、理解していた。

 とはいえ戦闘時でもない、緊急でもないのに、すぐ翌日に再び風の精霊を召喚することは、ただヨリクの献身を蔑ろにするだけでなく、本来ならば禁忌とされてきたことを、無理やり侵すことでもあった。どうしても気が引けることとは、その二点を示していた。

 風の精霊召喚をあきらめるなら、代わりに何の精霊を呼ぶか。さらに単体か、複数召喚するべきか。

 まず、今は複数の精霊を呼ぶような危険な状況ではなく、一方、系統の違う精霊は反目することが多く、管理するのが面倒でもある。それに複数の精霊を召喚しようが、月神がまた現れればどれほど役立つか、あまり期待はできない。ヨリクのような精霊は希少で、そう何度も召喚できるわけではないだろう。

 火の精霊を召喚するのは直接戦闘がなく、しかも宮殿に滞在中であればむしろ危険である。何か荒事が起きて火事になればとんでもないことになる。土の精霊は、これからディレーブ川の西岸を目指し、また渡った後も広範な湿地が連続することから、相性が悪くすこぶる使いづらい。

 と、消去法でいくと最後に残ったのが金の精霊だった。

 金系統の精霊は攻防ともに優れ、水と火、水と土のような相性の問題もない。偵察力、機動力などは風の精霊に劣るが、その防御力は不意の戦闘時に特に有効で、事前に召喚しておいて損はない。これからの行動予定を考えると、風の精霊の次にふさわしい精霊の系統と言えた。

「……」

 金の精霊を呼ぶことに決めると、イシュルは何度目か、月明りだけの薄暗い居室の壁をぼんやり見やった。

 西側の窓から差し込む月光と城壁や木々の影が、白塗りの壁を斑に染めている。

 ふと、先ほど思い起こした感慨が脳裡を掠めた。

 ……それは誰も知らない、名も知れない……。

「ふぅ」

 イシュルは頭をかるく振ると小さく溜息を吐いた。

 今は精霊召喚に集中しよう。たとえ心の奥底であろうと、言葉にするのは危険な気がする。ただ考えることさえ、憚れる……。

 イシュルは右手を水平に上げ、手のひらを西の窓の方へ向けた。

 かたっ、と音がして、ひとりでに窓が開く。

 さりげない、小さな風の魔法。開いた窓の先から、虫の鳴く声が響いてくる。

 目を閉じて地上の果ての、夜空の果ての、結晶世界に臨む。

 虫の音、葉擦れの音。夜の音が、そして月明りが、たやすく金の異界へと誘(いざな)う。

「金神ヴィロドよ」

 イシュルは静かに神の名を口にした。

「我もとへ、熱き鋼(はがね)の強者(つわもの)を遣わし給え」

 ……出でよ我が友、同胞(はらから)よ……。

 小さな声で、だが心を込めて呼びかける。

 目の前の、月明りと夜闇の錯綜した白亜の壁に、一筋の光彩が浮かんだ。

 何者かが外界から、“こちら”へ入ってくる気配。開かれた窓枠がもう一度、かたっと鳴った。

 と、その小さな光芒は一瞬で拡散、変わって今度は人の形が浮かび上がる。

「盾の御方。ユーグルルロネス・グレコノヴァル―ル、お召しにより参上」

 ゆったりした古代の神官服のシルエット。長い髪の涼しげな顔。そして一見不似合いな、腰に吊るした細身の長剣。

 これは……。

 イシュルは僅かに眸を大きく、驚きを表わした。

 確かに硬質だが、まるで氷のような冷たさを感じる。近寄りがたい、拒絶と威圧感さえ漂わせている。あまり金の精霊らしくない。

 ただどこかで前に一度、会ったことがあるような気がする。

「そう、あれは確か……」

 メーベだ。バルスタール城塞で非業の死を遂げたヘンリクのひとつ上の兄、デメトリオの居室でパオラ・ピエルカと面談した時、途中で邪魔してきた彼女の契約精霊だ。

 あの冷淡で傲岸、妙に顔立ちの整った水の大精霊に何となく似ている。

「いかがしたな、盾殿」

 怜悧な、かつ独特の重みのある声音だ。

「ああ、ごめん。えーと、知っていると思うけど、俺の名はイシュル。きみのことはユーグ、と呼んでいいかな」

 あのメーベも長ったらしい、面倒な名前だったが、このユーグルルなんとかも、舌を噛みそうな名前だ。

「構わぬ」

 ユーグは低い声で頷いた。

「……」

 硬い……。ちょっとやりにくいかな。

「うん。ではよろしく、ユーグ。ではまずはじめに──」

 今までにない冷徹で頑固そうな精霊に、いささか辟易しながらも、イシュルはいつもどおり自身と仲間の護衛、警戒をお願いした。

「承った」

 眉間に深い皺を寄せ、ユーグは重おもしく頷き、金色の微かな煌めきを残して即座に姿を消した。

 途絶えていた虫の音が、窓外からまた聞こえてきた。



 二日後。意外に早く、宮殿奥の一室に閉じこもっていたイシュルたちに、朗報がもたらされた。

「カトカさん……」

 談話室(サロン)でイシュルたちと面会したのは、ミラのメイド兼護衛のルシアと、聖都のアデール聖堂の女神官、カトカだった。彼女はあの、おっとりしているが切れ者の神殿長、シビル・ベークの秘書役をしていた人物だった。

「ご無沙汰しております。イシュルさま」

 室内にはルフレイドや側仕えのジレーもいた。カトカはルシアとともに並んで跪き、イシュルにも恭しい口調で話した。

「ルシアは聖都へ行っていたのか」

 イシュルはミラをちらっと見やってルシアに言った。

「はい。レニさまに白尖晶の者が同行していたので、聖都のシビル・ベークさまの許を訪ねておりました」

 談話室には、跪くルシアとカトカの両名を取り囲む形でルフレイドとジレー、イシュルとミラ、さらにリフィアとニナも揃っていた。カトカは女神官の、ルシアはこのパスラ宮のメイド服を着ている。ふたりはイシュルと顔を合わす前に、ミラやルフレイドたちと会って、詳しい報告を済ませていた。

 ……カトカはともかく、ルシアのメイド服は、ジレーあたりの計らいだろう。ソレール城内に到着してから着替えたのだ。

「ルシアに聖都へ向かうよう命じたのはわたしです」

 ミラがにっこり、横から話しかけてきた。

 シビル・ベークはもともと白尖晶の出身だったが、アデール聖堂の運営に忙しく、影働きの仕事からは遠ざかっていた。しかし政変後はサロモンから請われ、白尖晶をはじめとする各尖晶聖堂を対象とした相談役、参謀のような役も兼務していた。

 それで、ルシアは聖都に上りシビル・ベークに接触、レニが黒尖晶の裏切り者を捕縛する任に就いた経緯を聞き出し、シビルはサロモンの命令があったか、ルフレイドやイシュルたちに配慮して側仕えのカトカも同行させたのだった。

「詳しくはミラさまにお伝えしておりますが、例の黒の逃亡者は、過去にアルサール大公国に潜入したことがあるそうです」

 ルシアはミラから指示されていたか、イシュルの最も気にしていたことをずばり、知らせてきた。

「そうか」

 ……これは素晴らしい。まさしく僥倖だ。

 イシュルは喜びに顔を上気させ、だが声音は低く短く、抑えて言った。

 周りにあまり、心のうちを気取られたくなかった。

 ……これで何の問題もなく、ルフレイドたちに疑われることなく、ディレーブ川西岸に渡ることができる。

 あの黒尖晶は以前も、聖王国の重要な拠点で他の影働きも常駐する、ここソレールから対岸に渡った筈だ。それなら誰でも、あの夜も同じように、対岸の近いところに転移したと考えるだろう。

「神殿長が、イシュルさまにくれぐれもよろしくと。レニ・プジェールさまのことをお願いします、ということでした」

 続いてカトカがイシュルに言った。

「ああ」

 あの柔和なシビルらしい、心遣いだ。

「イシュル、そんなわけでそなたら一行は、アルサールに潜入してディレーブ川西岸を、このカトカと先日、レニ・プジェールとともに戦った白尖晶の者、両名に我が王国側、東岸を捜索させることにしたい」

 ルフレイドがそう言って、何度か満足げに頷いた。

「わかりました」

「レニさんに付き添っていた白尖晶とは、ソレールの郊外でうまく合流することができたそうです」

 イシュルがルフレイドに頷き、ミラの顔を見ると彼女は、レニとともに黒尖晶を追っていた白尖晶の、あの後の消息を説明してくれた。

 ……やはりカトカさんも只者ではなかった、ということか。

 イシュルが続いてカトカとルシアに目をやると、ふたりともにっこり微笑んで小さく頷いた。

 ルシアも、サロモンに近く白尖晶を束ねるシビル・ベークと接触する、重要な役に就いていたわけだ。

 だが、これはまさしく僥倖だ。幸運だった。これでルフレイドらに怪しまれることなく、アルサールに入り水の主神殿跡に向かうことができる。

「……」

 そして最後にリフィアとニナに顔を向けると、やはりふたりもにこにこと、うれしそうに微笑んでいた。



 その日の夜遅く、イシュルたちはルフレイドの計らいで早速、偽装した商船に乗り込み、ディレーブ川を遡上し、再び西岸寄りにある隠し砦に入った。

 河岸は東西どちらも葦などの群生する湿地帯が広がっている。特にソレールの対岸に当たるアルサール大公国のロネール方面は、大小の沼が点在する湿地が奥の方まで続いている。

 この、広大な湿地に浮かぶ岩礁のような小城は、“フィオアの泉”を自称する河賊団のアジトとなっているが、内実は聖王国のソレール守備隊、騎士団兵や影働き(猟兵)で構成された秘密部隊である。

 イシュル一行は途中、目立たぬよう小舟に乗り換え、明け方のまだ夜陰の残る頃に砦に到着した。今回もまた、ルフレイド自ら引率する形になった。

 その後はみな昼頃まで休息をとり、午後には何度目か、アルサール領潜入の打ち合わせが行われた。

 会議の開かれる前、イシュルは他の者より早めに起きて、水浴びをしようと以前に見かけた井戸の方へ行ってみた。

「ふう……」

 今日もよく晴れて時刻も正午近く、陽は高く上がり、木立の間から降り注ぐ陽光がきらきらと輝いている。

 イシュルは空を見上げると、眸を細めてほっとひと息ついた。

 緑と明るい空、そして太陽の輝きは、緊張が続き疲弊した心を癒す十分な威力があった。

「あれ?」

 木々の間に空き地が見えると同時、井戸のあたりに何人か、複数の人の気配がした。

 花咲くような少女たちの笑いさざめく声が聞こえてくる。と、そこに男の声も混じって聞こえた。

「ああっ、イシュルさん!」

「ロミール……」

 空き地に出ると、少女らと井戸端にいた少年が駆け寄ってきた。ロミールだ。

 にこにこと明るい顔を向けてくる少女たちは、先日、カルピニ村から連れてこられた村娘だった。

「……元気そうだな、ロミール」

 イシュルは仏頂面になって言った。

「あの子らと、ずいぶん仲良くなったじゃないか」

「えっ、いや、それは」

 ロミールが頭の後ろに手をやり、少女たちの方をちらっと見ると、ふたりほど、小さく手をふってきた。

「むっ。一緒に洗濯してる間に、仲良くなったんだ? もう、あんなに仲良くなっちゃったんだ?」

 ……俺も、ずいぶんとからかわれたからなあ。

「あ、あの。それより裏切り者の影働きの件、どうなりました?」

 ロミールが声を落として訊いてきた。

 ……おっと。まだロミールたちには知らされていないのか。

「ああ、やつを捕まえるのに失敗してさ。かなりまずいことになってる」

 イシュルは真面目な顔になって言った。

「セーリアとノクタも呼んでくれ。詳しく説明しよう」

 セーリアはミラの、ノクタはリフィア付きのメイドだ。

 ミラたちのようにすべてを話すわけにはいかないが、彼らにもそれなりに詳しく話しておかないといけない。少なくとも実際に起きたことは正確に。隠してもしょうがない。

「はい。わかりました」

 ロミールは少女たちにかるく手を振ると砦の館の方へ、木立の中に入っていった。

 イシュルも彼女らにかるく会釈し、ロミールの後を追った。

 晴れやかな、少女たちの笑い声が耳に残った。



「この絵地図には、水の主神殿跡が記されているがな」

 ルフレイドが机上に広げられた地図の真ん中あたりを叩き、口髭をうごめかして言った。

 彼は隠し砦にいる時は河賊の頭(かしら)、陸(おか)のジョン・シルバーなのだ。

「地図自体がかなり大雑把で、水の神殿の場所もいい加減だ。あてにならない」

 彼の示す地図には、南北に走るディレーブ川の東岸にソレール、西岸のやや奥まったところに、アルサール大公国のロネーの街が描かれている。その主に北部一帯がロネール地方と呼ばれ、大半が森で覆われている。絵地図にはそのように描かれている。地図中の西寄りに、ディレーブ川と並行して南北に丘陵地帯が広がり、その東側、森の真ん中辺りに“古フィオアの神殿”と記された神殿の絵が描かれてあった。

 古代ウルク以前にあった水の主神殿とは、その“古フィオアの神殿”を指していた。

「ロネーから森を行くこと三百里(里長、約180km)、と言われています」

 ルフレイドの横からジレーが補足した。

「どうだ、イシュル? 飛んで行けない距離ではなかろう。しかも今は地の魔法具も持っている。空の上からでも、たやすく見つけられるだろう」

 と、これはリフィアの発言。

「まぁ、行けないことはないが」

 イシュルは正面に立つリフィアを見て呟くように言った。

 一同は先日休憩した民家に集まり、卓上にジレーが城から持参した地図を広げ、ディレーブ川西岸渡河に関する打ち合わせをしていた。

「水の神殿には相当な余力を持って臨みたい。君らを連れて三百里長、森の上を捜しながら飛ぶのはちょっと辛いかな」

 ロネールの森には神殿跡のかなり近いところまで、ルシアやロミールらも連れて行くことになっている。食糧や野営用の天幕など補給品を運搬し、ミラ、リフィア、ニナたちの世話もしなければならない。彼女らは貴族の婦女子、貴人であるから、こういう冒険行にも近侍の者を連れていくのである。

 空中での移動でロミールたちまで連れていくのは、やはりかなりの負担になる。表向き、主に復路でレニと黒尖晶の捜索を行うことになっているので、食糧などを運搬するロミールたちを連れて行かないわけにはいかない。それなりに長期間、大公国に滞在する可能性も出てくるからだ。

 それに、周辺一帯は確かに人のいない森林地帯だが、その外縁部にはアルサール大公国の人々が住む大小の集落が散在している。城や砦もある。魔法使いがいれば、空中を移動する時に気づかれるかもしれない。複数名を空中に上げ、気圧変化の干渉などを避けてそこそこの速度で移動するのである。かなり強力、複雑な風の魔力が観測されるだろう。距離があるから人間の魔法使いにはわからなくとも、契約精霊にはほぼ間違いなく気づかれてしまう。

 聖王国側からの越境であれば荒事になるのは間違いない。レニの捜索どころではない。できるだけアルサールに気づかれないようにしなければいけない、という方針は従前どおり変わっていない。

 イシュルはそこで、顎に手をやり俯き加減になった。

 ……それだけじゃない。

 何となくだが、空中から一気に神殿跡に突入するのは、“違う”感じがするのだ。ああいうことは“手続き”を踏み間違えると、期待するようなことは起きない。

 水の魔法具を得ることも、レニを取り返すこともできないような気がするのだ。

 ルートを間違えると“イベント”は起きないのだ。

「ふむ、まぁそうだろうな」

「あまり派手にやると、大公国側に気づかれてしまうかもしれません」

「うむ。それならば予定通り明日払暁に砦を出発、西岸の湿地の足場の良いところに上陸、でよかろう」

 ルフレイドが、以前にイシュルたちで打ち合わせた内容をそのまま発言、会議を締めた。

 散会後、準備を終えてまだ夜闇の色濃く残るなか、一行は二艘の舟に乗って砦を出発した。

 先頭を行く船にはイシュルとミラ主従にルフレイド、供のジレー、船頭や漕ぎ手役、道案内の影働きや騎士団の者が、後ろの舟にはリフィアやニナ、ロミールたちが乗り込んだ。

 案内役は西岸の地形も知悉しており、薄明のなか、葦の茂る迷路のような川辺を戸惑うことなく奥へ進んで行った。

 ……盾殿、まだ距離はあるが、何者かの気配を感じる……。

 レニと黒尖晶の一件があった翌日、パスラ宮で召喚した金の精霊、ユーグの声が心の底を叩くように響いてきた。

 辺りは墨を流したような川面と、無気味な影を浮かべる葦の群生である。

 付近に人家はないが、派手な魔法は使えない。周辺は砦の南西に棲む蜥蜴人(リザードマン)の狩場でもある。彼らと遭遇して騒ぎになれば、大公国側の住民に気づかれるかもしれない。

 ……蜥蜴人か? まさか人間の、漁師か……。

 蜥蜴人が出没するようなところには、地元の住民は近づかない筈だ。

 ……まだわからない。ん? 何だ?

 イシュルの問いかけに答えるユーグ。だがその心の声が途中から、緊張をはらんだものに変わる。

「どうされました? イシュルさま」

「おおっ」

 後ろからミラの押し殺した声、ルフレイドも反応する。

 と、後ろの舟からニナの精霊、エルリーナが気配を表わす。

「!!」

 一瞬遅れてイシュルも気づいた。

 何か巨大な影が舟の横、水中を掠めていく。

 ……でかい。

「イシュルさん、川鮫(レモラ)です」

 ニナの押し殺した叫びが聞こえてくる。

「おお」

「怪魚だぞ」

 船上の男たちの、ひそひそと話す声。

 ……ユーグ、抑えろよ。

 水中の化け物はなるほど海の鮫(サメ)ほどか、それなりの大きさだが、舟からは離れていく。こちらを襲ってくる気配はない。

 それほどの水深ではないから、土の魔力で水中の様子も微かに感じ取れるが、詳しくはわからない。

 ……いや、わたしの言ったのは違う。前からくるぞ。

「なに」

 魔法じゃない。気配を消していた?

 葦の揺れ、擦れる耳障りな音。何か巨大な影が頭上を飛んだ。

 同時に水音がして川面から槍が突き出される。

「!」

 がっと音がしてその穂先がはじけ飛ぶ。ユーグの魔法だ。

 続いて水面から姿を現した影、その獣の眸と目が合った。

 頭上を跳んだ影は思ったより遠くで着水、葦の間に消える。

「ぎーっ」

 気味の悪い声で鳴き、目の前の獣が水中に沈む。

 俺の顔を見て逃げたのか。

「リザードマン!」

 ミラの叫ぶ声。シャルカは反撃をじっと堪えている。

 ユーグも、エルリーナも、リフィアもだ。

 前方を中心に、まだ数体の蜥蜴人の気配がする。

「行きます」

 そこでジレーの声がした。そして「うむ」と諾するルフレイド。

「……!!」

 一瞬、周囲の空間が揺らぐ。奇妙な酩酊感に襲われる。

 ……これは揺動の魔法、いや、結界だ。

「マグダの、“目つぶしの魔法”……」

 無言で集中するジレー。

「そうだ。マグダは兄上付き、ジレーはわたしに付けられた護衛だ。ふたりとも同じ、揺動の結界魔法を使う」

 ジレーの後ろから、変わってルフレイドが答えた。

 マグダはサロモンを影のようにひっそり護衛していた、美貌だがなぜか目立たない女魔導師だった。

 ぼんやりと揺らめく周囲の気配。自分以外のすべての存在、その位置関係があやふやになり、葦原にうごめく蜥蜴人どもが、小さいが底知れない野生の暴威が、後方へ、遠くへ去っていった。

「蜥蜴人の小さな群れは、川鮫(レモラ)とやらを追いかけていたのか」

 ……そうだ……。

 イシュルの呟きに、ユーグの応答する声が脳裡に聞こえてきた。

 船上は、後方の舟も何もなかったように静まり、夜が明けてくると周囲は濃い霧に覆われ、小雨が降り出した。

「そなたらが魔法を使うよりは、ジレーの結界の方が目立つまい」

 しばらくしてルフレイドはジレーに結界を解くよう命ずると、そう言ってイシュルに笑いかけた。

「はい」

 イシュルは小さな声で返事をすると、何事か、鋭い視線を前方に向けた。

 案内人の男の背、そして舳先の向こうの灰色の霧の先に、人の歩けそうな川岸の気配を感じた。

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