逆命 3



 天上に月の光体、地上に青い炎の海。

 そのせめぎ合いに少女の影が浮いている。

 月を背負ったメリリャに青い炎は届かない。彼女は月光に包まれ逆光に黒く染まっている。

 それは黒尖晶の唯一の逃げ道だ。月の女神が差し出した、禍々しい慈悲の黒点だ。

 彼女だけが、影踏みの魔法の起点になりえる。

 ……ああ、なんてことだ。

 月の女神よ、レーリアよ。なぜ、おまえはここで邪魔をする。

 これが罠か、おまえの目的は何だ……?

 まさか、レニを巻き込むつもりか。

 一つ目の化け猫、ルカトスがそのしなやかな四肢を伸ばして空を飛ぶ。

 白尖晶も、そしてレニもあらぬ高さを跳躍して、魔法を撃とうとしている。

 ルカトスは青い火の魔法をまったく意に介さず、黒尖晶に向かって突撃していく。だがレニは違う。ソレールの市街を覆う異様な火の魔法を、誰がやったか心あたりがあるようだ。

 ……彼女の顔がゆっくり、俺の方に向けられる。

 何百長歩(スカル、1長歩=約0.65m)も離れている筈なのに、彼女の顔が良く見える。時空が狂っているのだ。

 たぶん、俺だけが。

 ルカトスが黒尖晶に飛びかかる。その鋭い爪が青い火と巨大な月の、強烈な魔力光を反射し光り輝く。

 レニのつぶらな瞳が俺を見た。

 次の瞬間、黒尖晶は奇妙な動きで、ありえない速さでルカトスの攻撃をかいくぐると宙を一回転、その大きな頭を上から踏みつけ蹴飛ばし、空高く跳躍した。

 黒尖晶の伸ばした掌の先に、メリリャが浮いていた。

 彼女は四肢を大の字に伸ばし髪を揺らめかせ、まるで水に浮いているように見えた。

 男の手の先が彼女のからだに触れる。

 メリリャは反応しない。男の腕が彼女の黒く染まったからだに吸い込まれていく。

 なぜか、遠くで起きていることなのにはっきりと見えた。

 ……このっ。

 悔しさに歯噛みする。だが自分のからだは動こうとしない。まるで違う空間に、世界にいるようだ。

 これだけの力を得てもなお、“運命”には逆らえないのか。

 固定された視界の先に、あまりに不条理な光景が展開されている。

 今や黒尖晶の右手は、メリリャの形をした黒い影にほとんど吸い込まれ、続いて肩から頭部が姿を消そうとしている。

 そこへレニが追いつき、男の胴体に風の魔力で固めた右手を突き刺した。

 少女の闘魂は恐るべきものだった。レニがどれだけ気持ちを入れているか、黒尖晶から飛び散った、凄惨な血飛沫でよくわかった。

 俺は、なぜ──。

 同時に跳躍していた白尖晶は限界を超えたか、後へ落下していく。

 時間の進みが狂い、リフィアの武神の矢の赤い魔力がゆっくりと、城壁の方から差し込んでくる。

 自分の背後からシャルカが何事か吠え、強力な魔法を発動しようとしているのが伝わってくる。

 ……まずい、すべてが狂う。すべてが失われる……。

 レニに腹部を抉られた黒尖晶は、痛みを感じないのか何の反応も見せず、己の左手でレニの右手を発止と掴んだ。

 すると急に、黒尖晶がメリリャの影に吸い込まれる速度が増した。男の上半身がすべて吸い込まれ、鈍い動きでもがくレニもメリリャの影に、上に向かって埋没しはじめた。

 ありえない、異様な光景だ。レニ自身も、なぜか黒く染まっていく。

 レニっ!!

 敗北の瞬間が近づく。俺は結局、神々に勝てないのか。なぜ、やつの掌から抜け出せない……。

 黒く染まったレニのシルエットに、ルカトスの大きな図体が重なる。遠く後方の空間に、リフィアが姿を現した。頭上を、砲弾のように撃ち出された鉄塊が飛んでいく。シャルカの魔法だ。

「……! ……!」

 レニが、ルカトスが、リフィアが、そしてミラが、怒りの声を上げた。

 俺も叫んだ。吠えた。魂が震え、全身がばらばらに砕けそうだった。

 ルカトスがメリリャの影に前足を掛けた、その瞬間。シャルカの砲弾がルカトスを撃ち抜きメリリャの影を突き抜けた。

 メリリャの影は何も変わらず、だがルカトスの巨体は一瞬でばらばらに四散した。まるで実体があるかのようにその足が、胴が、首が、飛び散った。

 実体化した紅い、ルカトスの大量の血が狂った月光に照らされ、橙色に、炎の色に染まって宙をたなびいた。

 視界を夕陽のような光が瞬いた。それは荒んだ光景だった。まるでいつか見た、俺の心の原野のような……。

 いや、これはヨリクを召喚した時に見た、脳裡に浮かんだあの光景だった。

 紅く染まった荒野を吹く、冷たい風だった。

「ヨリクっ!」

 都市を覆う青い火の魔法が揺らいだ。

 切り刻まれた時間のはざまに、自らの五感が落ちていく。

 時はさらに微細に断ち切られ、その一片に残った意識の欠片が引っかかった。 

 紅い荒野は夕闇に閉ざされ、遥か彼方に落下していく。

 ……この一瞬間に、どれほど長い時が流れたことか。

 それは死んで生まれ変わる前の、はるか昔のことだ。無限の青い空、そして黄昏の荒野は、今は豊かに茂る緑の草原だ。

 踊る空。弾み、揺れ動く視界。その隅を掠める白い何か。雲か、風船か。

 誰かに包まれ、抱かれているのか。

 その白いものは、自分に着せられたケープだった。

 自分を抱いているのは誰だ……。

 それは母か、いや、父か。

 偽物かもしれない、前世の記憶。それがあの、孤独な精霊と繋がった。

 たまたまだ、きっと。

 ヨリクよ、おまえにこれが視えるか? 

 ……おまえは知っているか。

「!!」

 その時、ヨリクが吠えた。音にならない叫びだ。

 時が、そして空間もまた歪み、散り散りになる。俺と皆の叫びが、風の精霊の叫声とひとつに重なった。

 ヨリクが俺の心象を捉えた。

 ……運命の桎梏が、解き放たれる。

 本物の時間が、空間が目の前に、現実が戻ってくる。

「がぁっ」

 止まっていた風鳴りが動きだした。闇の底に、先端に、引きずり込まれる。

 再び時空が閉じる。五感に激痛が走り、全身を、心をばらばらにする。

 ヨリクがすべての力を出して、月神の枷(かせ)を外したのだ。

 ……御方、そは力なり。汝(な)は誰(た)も知れぬ──。

 異形の精霊が語り掛けてくる。だが彼の声は途中で途切れ、闇の彼方に消え去った。

 次の瞬間。

 目の前に、闇に飲み込まれていくレニの姿があった。



 肺腑を抉る痛み。

「イシュル!」

 レニの左手が差し出される。

「レニっ!」

 彼女の手を取った。

 頭上に浮かぶメリリャの影、その中へ上半身を吸い込まれた黒尖晶。

 影踏みの魔法が発動しかかっているのか、黒尖晶とその腹に突き刺したレニの右腕が黒い影に染まっている。

 月から吊り下げられたメリリャに黒尖晶が、続いてレニがぶら下がっている。

 そこへ俺が……。

 風を火を土を、そして金を、ありったけの魔力を集める。ねらいはメリリャの黒い影の向こう、巨大な円盤の月だ。

 早くしないとレニが、そして俺もこの影に吸い込まれる。

「……」

 だがそこでレニは微笑み、一瞬固まると顔を歪め、握った手にいきなり風の魔力を爆発させた。

「くっ」

 右手に痛みが走り、目の前を俺と彼女の血が飛散する。

 だめだよ……。わたしから離れて。

 影に吸い込まれていく、レニの悲しげな顔。

 落下しながら、集めた魔力を撃とうとする──が、直前に異様な早さで時間が進みはじめ、あっという間にメリリャの影が消え、黒尖晶もレニも消えた。

 まだレーリアの力は失われていない。あやふやな時の流れはまだ、彼女の掌の上にあるのだ。

 視界いっぱいに広がる光の円盤。残された、奇怪な月のようなもの。

 消えたメリリャの先、上空から落ちてくるものがある。

 灰色にくすんだ半透明の物体。回転しながら俺に向かって落ちてくる。

 それはルカトスの首だ。四散したやつの首だ。

 その一つ目が俺を見た。

 ……レニを、レニを頼む。

 化け猫の首はそう言うと目の前で消えた。

 風が下へひと吹き、なぜかゆっくり落ちていく自分を追い越していく。

 ああ、下から吹き上がる火の魔力が、まだ残っているのだ。

「許さないぞ」

 レニを返せ、月神。

 右手を上にかざして、撃つのを控えた四つの元素の魔力を再び集める。

 奇怪な光の円盤を、今度こそ破壊する。

 そうすればきっと、やつの神威は消滅する。

 レニが、帰ってくるかもしれない。

 自分の肉体が地面に叩きつけられる前に、終わらせる……。

 と、月が消えた。

 無情にも、巨大な光の円盤が一瞬で、音もなく消えた。

「!!」

 胸を冷たく、熱いものが貫く。心が燃えながら凍りつく。

 ……失敗した。

 レニのことなのに、なぜおまえが出てくる。

 月の消えた夜空は残酷なまでに常と変わらず、自我を、全身を暗く染めていく。

 何度も揺らぎ、遠く後退していた時間と空間が再び、戻ってきた。

 視界の端を赤い閃光が走り、気づくとリフィアがしがみついてきた。

 顔を真っ青にして何事か叫んでいる。

 後ろからミラの暖かい、金の魔力が伸びてきた。

 彼女も何か、叫んでいる。

 地面に激突するのは、避けられたようだ。

 網膜に、禍々しい月の光がいつまでも焼きついていた。



 城の方が騒々しい。城下の方からも人の気配がする。

 東の空が明るく、陽が昇ろうとしている。

 蹲った背に温もりが生まれる。陽光が背中を照らしはじめた。

 だが悪夢は終わらない。

「イシュル」

「イシュルさま」

 リフィアとミラが顔を寄せて詰問、してくる。 

 ニナが俺の右手を握り、水の魔力を当てて出血を防いでくれている。レニに風魔法で振り払われた時、右手の甲や手のひらに傷を負った。本来なら縫わないといけないレベルだが、彼女の魔力は新陳代謝をありえないほど活発にするから、うまくすれば傷口も塞がるかもしれない。

 レニは俺の助けを拒んだのだ。彼女は何を感じたか、俺もあの影に吸い込まれると判断したのだ。俺を巻き添えにするのを嫌い、突き放した。

 ……彼女がそう判断した根拠は何か。

 それと同じものをリフィアとミラ、そしてニナも感じ取ったようだ。

 あの夜空を覆う巨大な月を、メリリャの黒い影を見ていたのだ。

 脳裡にメリリャの末期の顔が、エミリアの顔が浮かんでは消えていく。

 悔恨に、恐怖におののく自分と、醒めたもうひとりの自分。

 人非人の方が思考をめぐらす。

 喉が渇いてひりつき、唾が飲み込めない。

 ……今まで、他の誰にも見えなかったものがなぜ、ミラたちに見えたのか。

 それはあの異形の大精霊、ヨリクの叫びだ。

 あいつが月の女神の結界を、神の御業を破ったのだ。

 かつてクシムで赤帝龍と戦った時、剛力の大精霊カルリルトスがすべての魔力を使い、火神バルへルの結界を破った。

 ヨリクも己の全力をかけて、月神レーリアの結界を破ったのだ。

 ……異形の精霊の意識が俺の記憶、前世の記憶に触れた瞬間、やつはその力を得た……。

 そんな感じがした。あれは錯覚だったろうか。

「イシュルさま、しっかりなされませ」

 ミラが横から肩をゆすってくる。

「イシュル、気を落とすな。あの分だとレニ殿はきっと生きている」

 リフィアの声が上から降ってくる。

 顔を上げると、右手を水の魔法で治療してくれているニナと目が合った。

「……」

 彼女は何も言わない。ただやさしく、見つめてくる。

「あの逃亡者は、レニ殿とともに影踏みの魔法で転移していった。彼女の手刀で深手を負ってだ。どこに逃げたか知らんが、今ごろはレニ殿によって仕留められているだろう。そう悲観するものではないぞ」

 続いて顔を仰向けるとリフィアが真上から見下ろしていた。

 ……確かにあの状況で転移しても、黒尖晶には万に一つの勝ち目もあるまい。いくら手練れの影の者だろうと、精霊神の魔法具を持っていようと、腹を裂かれた上に相手がレニでは、何もできないだろう。いや、レニの右腕は腹部を貫通していた。あれでは転移した時にはすでに、絶命していたかもしれない。

 だが、そんなことはたいした問題ではないのだ。もっと重要なことが……。

「それより、あれは何ですの?」

 ミラが難しい顔をして問い詰めてくる。

 そう、それだ。この子らは、あれを“見た”のだ。

「夜空を隠すとても大きな光。そこに浮かび上がった黒い影……」

「うむ。あの光、あれは何かの結界だろう。そこにできた裂け目があの影、ということか? イシュルの結界は街を覆った青い火の魔法だろう。あの夜空の巨大な光は、おまえのものではない筈だ。それは何となくわかるんだが……」

 リフィアたちには、メリリャの姿がわからなかったようだ。ただの黒い影と認識したようだ。

「……」

 イシュルは顔を俯かせ、皮肉に口角を歪めた。

 ……メリリャの姿は俺にしか見えないわけだ。

「!」

 ふと顔を上げるとまた、ニナと視線があった。

 ニナが眸を潤ませ、清廉な微笑みを浮かべた。

「イシュルさん、教えてください。何か、知ってるんですよね」

 わたしは何でも知ってるんです、というような笑顔だ。涙が今にもこぼれそうだ。

「あの月の光と影は何ですか? あなたは、何と戦っているんですか」

「……」

 心を隠す笑み。不実を糊塗する薄笑いだ。

 イシュルは視線をそらし、未だ夜陰の残る西の空を見やった。

 河畔の湿地も含めれば川幅が数里長(スカール、一里は約650m)はある、ディレーブ川の紺碧に沈んだ川面が城壁の向こうに見える。

 イシュルたちは今、ソレールを囲う城壁の西側にいる。

 城壁の上で座り込んだイシュルにミラとリフィア、ニナが寄り添っていた。

 シャルカは少し離れて、鋸壁の上に腰を下ろし右手に伸びる河港の方を見つめている。ルフレイドが手配したものか、湊(みなと)の方は不思議なほど人の動く気配がしない。停泊する船にも動きはない。

 ……かつて、王都近郊でユーリ・オルーラを斃し、金の魔法具を手にした時。ともに戦ったヨーランシェに、月神の露骨な介入を知られてしまった。レーリアとの因縁を知られてしまった。

 彼はあの時、月神は俺の中にある彼らの知らない、触れられないものに強い関心を持っている、あるいはイヴェダのようにそれに惹きつけられているのだ、というようなことを指摘した。

 そのことは自分も考えていたが、本当に正しいかどうか確信は持てない。あの女神に直接、確かめなければならない。

 俺に風の魔法具を与え、家族を、故郷を奪い、赤帝龍やユーリ・オルーラと戦わせたのがレーリアの仕組んだことなら、ただで済ますわけにはいかない。

 たとえ神であろうと、人の命を、俺の運命を弄んだことを許すわけにはいかない。

 ……先の人生で、置き去りにしてしまった俺の家族に誓って、前世も含めたすべてが自分自身、なのだ。そこに興味本位か知らないが、干渉してきた神々を許すわけにはいかない。

 最後の最後まで、おまえたちの思い通りにはさせない。

 そんなことに、ミラたちをつき合わせるべきではない、最後は自分ひとりでやるべきだと思っていた。

 真実はことが済んでから、もし話すことができたなら、そうしようと考えていた。

 ……昨日、ふざけてミラたちが口にした言葉。

 真心、か。

 そうだ、俺は確かに逃げていた。もう誤魔化して、それで済む話ではない。

 彼女たちだって、命を懸けているのだ。ただ俺と一緒にいたいから、そんなことではない、誰も見ることのかなわなかった世界の果てを、神々の領域を知ろうと、そして自らの存在を、心の在り処を見極めようとしているのだ。

 四つの神の魔法具を手にした俺のような人間は、ウルクの頃からひとりとして現れていない。そんな神話の世界のような出来事が今、目の前で起きている。その先へともに臨むことができるのなら、自らの命など惜しくはない──そう考える者は少なからずいるだろう。彼女たちもそのひとりなのだ。何もおかしいことではない……。

 目の前の、ニナの眸を覗き込む。

 ミラもリフィアも何も言わない。辛抱強く、待っている。

 真心には真心を。誠意をもって、向き合わなければならない。

 そんな当たり前のことが、辛いのはなぜだろう。

 それは、自分自身にやましいことがあるからだ。

「そうだな。俺は怖かったんだ。きみたちにこのことを話すのを。きみらのために、その時がきたら最後は、俺ひとりで行こうと決めていた。だから秘密にしていた」

 ニナたちに変化はない。ただ俺の言うことに耳を傾けている。

「これは聖堂教会から異端視される可能性がある話だ。あるいはあまりに荒唐無稽で、きみたちに信じてもらえないかもしれない。……いや、本当に俺の頭がおかしいのかもしれない」

「……」

 ニナが、ミラとリフィアが揃って無言で頷いた。みな温かい、柔らかい笑みを湛えていた。

 それは信頼、友愛、慈愛、あるいは勇気……と、彼女たちの器量の、人間としての大きさを現わしていた。

「くっ」

 イシュルは一瞬声を詰まらせ、心のうちから溢れてくるものを必死で抑えた。

 何度目か、己の矮小さを感じ、それを受け入れた。

「……子供の頃、かつて王国の剣と呼ばれた森の魔女、レーネに殺されそうになった。その時偶然、風の魔法具を手にした。いや、手にしてしまった。それから俺の運命は狂いはじめたんだ」

 イシュルは視線を遠く彷徨わせ、明け染める西の空を見た。そして視線をやや北に向けた。そのくぐもった地平の先に、水の主神殿跡があった。

 今はまだ少し、話す時間がある。宮殿の方から向かってくる者もいない。付近に城兵の姿も見えない。

 ……俺は本当に、神々に魅入られたのだろうか。

 イシュルはそれからのことを話しはじめた。ミラも、皆、誰も知らなかったことを。

「──その時、俺の落ち度で死んでしまったメリリャの姿をした何者か、得体の知れない者が現れた。月を背負って、異様な結界の中心に現れた。そいつは赤帝龍に気をつけろ、と言って俺を嘲笑し、挑発してきた」

 その唇が皮肉に歪む。

「あのメリリャの姿をした者は明らかに月の女神、レーリアだった」

 聖石鉱山で月神に邪魔されエミリアを失ったこと、ルフレイドを救出する時や、連合王国との戦争で、王都に向かう途中で何度目か、また挑発してきたこと。

 それからクシムで赤帝龍と戦った時、ほとんど死にかけていたのを、主神へレスらしき女が現れ、助けられたこと。

「……ミラはクレンベルの太陽神の座で、へレスらしき女神の姿を目にしている。そして聖冠の儀でビオナートを斃した時、イヴェダが降臨したのを君たちも目撃した」

 イシュルはそこまで話して、ミラとリフィアの顔を見回した。

「わたしは」

 ミラは神官服の裾を掴み、眦(まなじり)をつり上げると声を低くして言った。

「イシュルさまを、最初からそういうお方だと信じていましたわ。あなたさまは奇跡の人。神々と深い縁(えにし)がある、神の遣いである……そうですわね、あるいは神々の諍いに巻き込まれて人の世に追放された、高貴な存在であるとか」

 ……いや、それは……。

「わたしは逆に、そうは思わぬのだ。確かにそなたは神々に魅入られているかもしれぬ。寵愛を受けているかもしれない。大聖堂の主神の間で風の女神、イヴェダが降臨した時はそんなふうに見えた。だがな」

 ミラに続きリフィアが、イシュルが何か口にする前に割って入ってきた。

「イシュルはただの、誰とも変わらないひとりの人間だ。わたしたちと同じ、悩み、苦しみ、喜び、怒り、笑うひとりの人間だ。たとえ神の魔法具を得ようと、恐ろしい伝説の魔物を滅ぼそうと、おまえは何も変わらない。弱い、ただの人間だ。わたしも周りの者も、みな知っているんだ。だからおまえを助け、助けられ、ともに歩みたいと思うのだ」

「やっと、話してくれましたね」

 そして、正面から見据えてくるニナと目が合った。

「イシュルさんが何を悩み、苦しんでいるのか知りたい、力になりたいって、ずっと思っていました」

 ニナの瞼が瞬く。

「……誰かを助けたいと思う気持ち。それはおかしなことでしょうか」

 俺は、ひとりぼっちになってしまったわけではない。

 矮小な己の心を包んでいく、ニナたちの豊かな、温かな情念。

「……」

 イシュルは俯き、堪えるように目を瞑った。

 閉じた眸から涙がひと筋、流れた。

「イシュル」

 リフィアの声がして肩を叩かれ、顔を上げるとちょうど彼女の手が、治療のため自分の右手を握っていたニナの手に重ねられるのが見えた。

「イシュルさま」

 ミラの声が上から聞こえて、彼女の手も重ねられた。

「ともに神々の神秘を目にすると、約束したではありませんか。それはまだ果たされておりません。五つの魔法具が揃うまで、そして神々と相見えるまで、皆と一緒に参りましょう」

「そうだとも」

「はい」

 リフィアとニナが頷く。

 ……傷ついた右手からニナだけでない、リフィアとミラからも温かい心が流れ込んでくる。俺は決してすべてを失ったわけではなかった。それはとうにわかっていたことだが、今はその喜びを噛み締めずにはいられない。秘密にしていたことを話し、彼女らの想いを知り、決意を知った。

 ともに生死をかける仲間を得た。いや、ずっと前からそうだったのだ。

「ありがとう……」

 イシュルは小さく、笑顔になって言った。

「……」

 泣き笑いのイシュルにつられるように、ミラたちも眸に涙を浮かべた。

「月神がレニさんを連れて行ったのなら、きっとあの方は生きていますわ」

「うむ。レーリアは赤帝龍の遺骸の上に姿を現し、おまえにウルクの頃の水の神殿跡に行けと告げたのだろう。それならレニ殿がどこにいるか、予想はつく」

「レニさんには、水の主神殿跡に行けばきっと会えるでしょう」

 ニナは顔を引き締め、イシュルをじっと見つめてきた。

 ……水の神殿跡にレニがいるか、それはわからない。月神レーリアと水神フィオアが繋がっているか、それはわからない。神々には、主神へレスを頂点に序列のようなものが一応存在しているが、必ずしもみな統率がとれているわけではない。

 フィオアがレーリアの言うことを聞くか、彼女たちの関係がどんなものなのか、それもはっきりしない。

 だがレニを餌に、彼女を手玉にして、レーリアが俺を思い通りに誘導しようとしているのなら、レニは水神の許に移されているかもしれない。

「イシュル?」

 難しい顔をしたイシュルに、リフィアが声をかける。

「イシュルさま、心配はいりませんわ。今までもこれ以上は望めないほど、うまくやってきたではありませんか」

 ミラの励まし。……だが。

「相手は運命神だ。俺は今まで一度たりとも、彼(か)の神の掌から逃れたことはない」

「イシュルさん……」

 ニナの沈んだ声。

「でもきっと何か、やりようはあるさ」

 リフィア、ニナ、ミラの顔を見回し笑顔を見せる。

 ……そう、ヨリクの献身でわかったことがある。まだ不確かだが、この世界のものではない俺自身の記憶、思考、意識が神の力を呼び込み、あるいは拒絶し粉砕する源(みなもと)になっているらしい、そのことがわかってきたのだ。

 神々を惹きつけているらしい、俺だけの中にあるもの。彼らが触れることができない、ためらわれるもの。

 俺は月の女神レーリアに対抗できる唯一の方法を、そのとっかかりを得ることができたのだ。

 ……ヨリクの異形は、この世界で異物を抱えた自分とよく似たもの、近しい存在であることを表わしていたのではないか。

 そして、遠距離で交信するために他の精霊を召喚せず、彼の動向に注意を払い続けたのが奏功したのかもしれない。

 だから彼は、俺の存在の深いところで繋がることが、神々の触れられない、でも希求してやまない部分に到達することができたのかもしれない。

 ヨリクは運命に逆らう意志の力を、その身をもって示したのだ。

 ──このことだけは、リフィアたちにも話すことはできない。少なくとも今は。

 俺が転生者であること。前の世界から命を受け継いでいること。

 このことは、その内なるものは今は秘中の秘、口に出してはならないのだ。

 もし出してしまえば、神々に聞かれてしまう……。

「ふむ、何かいい考えが浮かんだようだな」

「ああ」

「さすがですわ、イシュルさま」

 そこで背後から、シャルカが近づいてきて言った。

「見ろ、あの王子がこちらに向かってくるぞ」

 シャルカが指さす先には、内郭の城館の方から外郭城壁の西側を回って向かってくる、ルフレイドたちの姿が見えた。彼の、王家の身分を表わす白いマントが翻り、朝の陽にきらきらと輝いて見えた。

 もうルフレイドは王子、ではないが、シャルカはそういうことに気を使わない。

「このお話は今は終わりにしましょう」

 とミラ。

「イシュルさん、レニさんが攫(さら)われたこと、どうしましょう」

 ニナが心配そうな顔をして、ルフレイドの方へ視線を向ける。

「大丈夫だ。俺の方で適当に話をつくるから、合わせてくれ」

 イシュルは立ち上がるとニナたちに頷いてみせた。

「河を渡って大公国のロネーへ、水の神殿跡へ行きましょう」

 ミラがイシュルの横に立ち、ルフレイドの方、明るくなった西の空を見ながら呟くように言った。

「ああ、レニ殿を助けに。これで間違いない、水の神殿に行けばかならず、水神フィオアに会えるだろう」

 イシュルの隣り、ミラの反対側にリフィアが並んで言った。

「おーい」

 城壁を北側に回って、ルフレイド一行が近づいてくる。

 彼が手を上げ呼びかける声が聞こえる。

「王弟殿にお願いして、あの隠し砦に戻るとしよう」

 ……川を渡って、西岸へ。

 城壁の上を早足で近づいてくる、ルフレイド。

 その背後にディレーブ川の、まだ深い青の水面(みなも)が見えた。

 

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