逆命 2



 荒事の予感がする。……久しぶりだ。

 ニナの浮かない顔は、まさか俺と同じことを思ったか。

 だが彼女は俺と違って争いごとを嫌う、ごく真っ当な少女だ。俺のように皮肉に、笑ったりはしない。

 彼女の契約精霊のエルリーナも、ヨリクのように敵の動きを伝えているのだろうか。

 いや、エルリーナにはヨリクほどの感知能力はない筈だ。

 と、そこで後ろから声をかけられた。

「皆さん、そろそろ木箱の中に隠れていただきますよ」

 船長を務める、よく陽に焼けた壮年の男だ。

 外見からは想像もつかない、柔和で品のある口調だった。

 ……このいかにも船乗りといった男も、騎士団所属なのだろうか。

「こちらへどうぞ」

 船長はイシュルたちを船尾の方へ連れてくると、積荷のなかから幾つか、大きめの木箱を指し示した。

「この箱の中に隠れていただきます。中には柔らかい布を何枚も重ねています。多少手荒に扱っても、痛い思いをすることはないと思います」

 船長はにこにこと愛想よく、ミラやリフィア、ニナらを見渡して言った。

「わたしは大きくて重い。大丈夫か」

 シャルカがいつもの無表情、抑揚のない声で、船長に質問した。

「もちろん、大丈夫です。これらの木箱は、全身鎧(プレートアーマー)や大楯(タワーシールド)の運搬用ですから」

「うむ」

「はは」

 シャルカが尊大に頷くと、船長はさらに相好を崩した。

 やはりこの男は騎士団の幹部あたりか、ミラたちはもちろん、シャルカのことも詳しく知っているようだった。

「ふむふむ。仕方がないか」

 リフィアが木箱の板を叩いて言った。

 ただひとり、とってもご機嫌である。冒険気分が抜けないのだ。

 ……このお転婆め。

 それでいて、外見は可憐な美人なのだからタチが悪い。

 対照的に、イシュルはむすっと仏頂面になった。

「ではみなさま、ひとりずつ中にお入りください」

 水夫がふたり、前の方からやってきて木箱を並べ蓋を開けると、船長が芝居がかった仕草で両手を広げ、厳かに言った。

「うむ。ではわたしから」

 ノリノリのリフィアが一番に声を上げ、身軽な動きで箱の中に入る。

 水夫たちが小槌で叩いて蓋を閉めた。

「次の方は?」

「……」

「……」

 リフィアの入った後、少し間が空き船長が催促すると、ミラとニナが無言で顔を見合わせた。

「わ、わたしが入ります」

 なんだかよく分からないミラの気迫に押され、ニナが手を挙げた。

「では、次はシャルカね」

「うむ」

 ニナが木箱に入ると、ミラは当然のごとく次にシャルカを指名し、当の本人も当然のごとく頷いた。

「さて、船長さん。残りの箱はひとつでいいですわ。余った箱は片づけて」

 シャルカが箱の中に消えると、ミラは声を落として船長に命じた。

「?」

 何事かと、茫然とするイシュル以下、男たち。互いに顔を見合わせる。

「さっ、イシュルさま。わたしと一緒に入りましょう?」

 どうしてそんな顔ができるのか。ミラが爽やかな、満開の花のような笑みを向けてくる。

「むっ」

 ……やられた。一緒って、ふたりでひとつの箱に入るのか。

 ミラと、真っ暗な小さな空間でからだを密着する……。

 イシュルは思わずその光景を想像して赤面した。

「さっ、入りましょう。イシュルさま」

 ミラがイシュルの二の腕に両手を巻きつけ、耳許で囁く。

 昼間にこの甘い声音は……いいんだろうか。

「やぁ、はは」

 船長がさらに感情を消した愛想笑いを浮かべる。

「これは参りましたな。それではどうぞ」

「……」

 本当は正騎士の従者あたりだろう、水夫たちも引きつった笑みを浮かべ、その場で固まっている。

「いや、それはちょっと困るから」

 イシュルはミラに、胸の前で手のひらをぶるぶる振って見せる。腰が浮いて、つまり逃げ腰になっている。

「あら、誰も見ていないのですから、かまいませんですわ」

 同じ箱に入るところはみんなに見られちゃうんだから、そんなの意味ないじゃないか……。

「いやいや、そういう問題じゃないでしょう」

 ……真昼間から何をやってるんだ。

 って、それどころじゃない。

「遠慮することはありませんわ。イシュルさまは今さら、何をおっしゃるの」

 すぐ下から見上げてくるミラの顔が、薄っすらと笑みを浮かべて確信犯の顔だ。

「いやいやいや。ミラ、それは困るから」

「……」

 横で見ている船長が、他の船員たちも皆、苦笑したまま石と化している。

「嫌よ嫌よも好きのうち、……ですわ」

 ミラの腕に力が入る。

「いや、ちょっと。待って、本当に」

「イシュルさまが強引な押しに弱いのは、とうにわかっていることですわ」

 ミラが木箱の手前に立って、ぐいぐい引っ張ってくる。

 ……はは。完全に見透かされてる。しょうがないなぁ。

 って、この状況。どうしようか。

 ……っと。

 ふたりでもみ合っていると突然、目の前を赤い閃光が走った。

「!!」

「あら」

 リフィアの電撃のような魔力の煌めきだ。同時に木箱の蓋がダン、と鋭い音を立てて空中に跳ね上げられた。

「凄い……」

 イシュルは関心して、薄曇りの空に高く吹き飛ばされた蓋を見上げた。

 四人掛けの食卓ほどの大きさの木板がひらひらと、空中を舞っている。

 ……何が凄いって、あの木の板をバラバラに壊さないで、あんな高さまで一瞬で吹き飛ばす技術が凄い……。

「ミラ殿っ! ずるいではないか」

 と、リフィアが箱の底から立ち上がって、怒った猫のように背筋と両手をピンと伸ばし、鋭く叫ぶように言った。

「まぁ、ほほ。また失敗ですわ」

 いつものことだ。ミラも手馴れたもので、悪びれもせず落ち着き払って呟く。

「こらっ! その方ら、何をしておる」

 騒ぎを聞きつけ船首の方にいたルフレイドが駆け寄ってきた。

 ……はぁぁぁぁ。

 またこのパターンか。ルフレイドにも怒られちゃうのか。

 イシュルはこれもいつものごとく、ため息を吐くと肩をすくめた。

「あの〜、開けてください。いったい何が……イシュルさんっ、開けて!」

 リフィアの隣の箱から、蓋をどんどん叩くニナのくぐもった声が聞こえてきた。

 


 ……レニ、どこにいる。

 イシュルは木箱に入る前、片足を中に入れたところでふと、ソレールの城塞の方を見やった。

 灰色の薄曇りの下に、先ほどより幾分大きく高くなった城壁が見え、その手前に川岸に沿って、やや低くなった茶色の城壁が伸びていた。

 後から増築された、出丸のような施設だろうか。

「ん?」

 そこで川岸を覆っていた葦の群生が途切れ、急に視界が開けた。

 緩やかな波を無数に描く川面の先に、夥しい数の川船が折り重なって見えた。

 イシュルは眸を細め、興味深げに舳先の向こうに広がる景色を見つめた。

 ……あの茶色の城壁の下に、ソレールの河港があったわけだ。あの曲輪(くるわ)は、ソレールの港を防御するためのものだ。

 この船もあそこに入港するわけだ……。

「さっ、蓋を閉めますから。横になってください」

 と、川岸の方を見入っていると横から水夫が催促してきた。

「ああ、すいません」

 ……本当に、どこが水夫なのか。こんな丁寧に話すやつなんかいない。

 イシュルは下を向き薄く笑みを浮かべた。木箱の底に、生成りやベージュの布が敷き詰められていた。上から蓋を被せられ、影が足許から伸びてくると次の瞬間、周りがすべて暗闇で覆われた。

 左半身を下側に、やや足を曲げて箱の底に横になる。板の合わせ目からところどころ、外光が細い筋となって差し込んでいる。

 暗い箱の中はすることがなく退屈だ。

 暗闇に目が慣れてくると、内部の木組みが薄っすらと見えてくる。

 イシュルは目を慣らすのと同じように、自らの風と土の感覚を研ぎ澄ましていき、その感知の範囲を広げていった。

 だがもちろん、能動的(アクティブ)に魔力を使うことはせず、あくまで受動的(パッシブ)な感知にとどめた。もし市内に黒尖晶の逃亡者やレニ、特に彼女の契約精霊のルカトスが潜入していたら、感知の魔力を使えばその瞬間、見つかってしまうだろう。

 船が湊(みなと)の桟橋に接岸すると、船員たちの慌ただしい叫声が響き、箱の外で様々な動きが交錯した。船荷も次々と陸(おか)に運び上げられた。イシュルたちの隠れる箱も、屈強な男たちによって岸壁に並ぶ倉庫の前に積み上げられ、程なく荷馬車に載せられソレールの城市に入った。

 イシュルはその一部始終を、周辺の様子もすべて、魔力の感知で詳細に把握した。視覚や聴覚が制限される分、いつもより集中でき、安定した能力を発揮できた。

 ソレールの市街は全周を城壁で囲まれ六角形を成し、ディレーブ川に面した河港を守る形で大きく張り出した曲輪が、反対の城市の東南側に半分独立した二の丸のような曲輪があり、互いに連携して、水陸両面からの攻撃に十分な抗堪性を発揮するよう築城されていた。

 ソレール大公となったルフレイドの居城、パスラ宮は城市の西側、河岸にあって内郭を成し、明灰色の本館は中央に大型の城塔があって、遠方から見ると一風変わった天守閣のように見えた。

 風と土の魔法具があれば、分厚い壁の向こう側も、地下も、密閉空間でも隔てなく感知することができる。そういうわけで“視る”ところが多く、船上から宮殿まで半刻(一時間)以上かかったが、イシュルはまったく暇をすることがなかった。

 移動中、城塞の構造も街の様子も、人々の息遣いも、すべてが手に取るようにわかった。もちろん、一緒に運ばれるリフィアたちの箱の中の様子も感じ取ることができた。

 そのリフィアは腕枕をして鼻歌を歌い、ミラは行儀よく仰向けに寝て胸の前で腕を組み、だが小さな寝息を立てて熟睡していた。シャルカは冬眠するように丸くなり、ニナは横向きに寝て、おそらく契約精霊のエルリーナと何事か話していた。

 ……これ以上、“覗き見”するのはやめておかないとな。

 イシュルは揺れる箱の中、暗がりで小さく笑みを浮かべた。

 と、いつの間にか外から差し込む光が消えていた。ソレール城の中心部、パスラ宮の奥深くに運ばれていくのがわかった。

 箱の揺れが急に激しくなったり傾いたりして、階段を上り下りしたり、室内の通路か、狭い空間を移動しているのがはっきりと感じられた。

 そして宮殿の中庭らしき場所に面したところで、ゆっくりと地面に降ろされた。真っ暗だった箱の内部に、木板の合わせ目から再び外光が差し込んできた。

 中庭らしき空間はそれほど広いものではない。他に人気がなく、中庭というより裏庭と言った方がいいのかもしれない。柔らかい小鳥の鳴き声が盛んに聞こえてくる。

 ミラたち女性陣とはこの空間、屋外に出る手前で別れている。彼女らは別室で服を着替えると聞いている。

「んっ」

 水夫たちが箱に手をかける。上蓋がガタッと鳴り、外から開かれた。

 一瞬、視界が真っ白になる。曇り空だった筈だが、ずっと暗い箱の中にいたからか、とても眩しく感じる。 

「お疲れさまです」

「大丈夫ですか? どこか痛いところはありませんか」

 運んできた水夫たち、いや、同じ年頃のおそらく騎士見習いの少年らが、品の良い口調で声をかけてくる。

「ああ、大丈夫です。ここは……」

 外の明るさに慣れてきて、周りを見回す。

「ここはパスラ宮殿の裏庭、大公殿下がよく御ひとりで過ごされる場所です」

 水夫のひとりが僅かに腰をかがめて言った。

 彼は、この庭が代々の城主が個人的な時間を過ごしてきた、外には知らせない秘所なのだ、と続けて説明した。

「ふーん、そうですか」

 イシュルは言いながら奥の城壁、木々の手前にあるドーム型の屋根の白い東屋に目をとめた。聖都のディエラード公爵邸の中庭にあったものとよく似ている。

 背後に立つパスラ宮も、白い大理石が使われている。暗灰色の物々しい城壁と、あざやかなコントラストを成している。

 それほど広いわけでもなく、凝った花壇や彫刻など特に目に付くものもないが、ほとんど真っ白に近い明灰色と暗灰色に、木々の緑が美しい色彩を構成し、城内で余暇のひとときを過ごすには確かに贅沢な場所かもしれない。

 それでは、と水夫らが木箱を持って宮殿の奥の方へ消えると、イシュルは城内の裏庭にひとり残された。

 曇り空はわずかに日が差し、小鳥のさえずりがやまない。西側の城壁にそって視線を北にやると、宮殿の奥の木立に半ば隠れて、小さな神殿が見えた。宮殿の外壁と同じ、明灰色の大理石で建てられた、美しい建物だ。

 こういう城塞都市の中心部にある城に、小さな神殿が建てられているのは珍しいことではない。

「……」

 と、ちょうどその神殿から数名の神官が外に出てきた。

 神官が三名に、そこそこ身分の高そうな人物がひとり。神官は三人とも女性のようだ。

 ……こちらへ、歩いてくる。

 神官らはイシュルの方へ、あざやかな緑の芝生の上を軽やかに歩いてくる。

「おっ」

 女神官はミラたちだった。横一列に並び、向かって右の一番背の高い神官がリフィア、続いてミラ、ニナの順だ。シャルカはメイドとしての仕事があるのか、姿が見えない。おそらくまだ、神殿の中に残っている。

「イシュルさま」

 彼女たちは皆、頭に白いベールを被って髪を隠し、聖堂教会の神官に化けていた。

 同じ白色のトーガに明るい茶色の革のサンダル、トーガの裾を縁取る細い銀色の一本線は、聖神官に準ずる高い身分の女神官を表す。

「どうだ、なかなか似合うだろう」

「……」

 リフィアは堂々と、ニナは頬を染めて恥ずかしそうにしている。ミラはにこにこと屈託なく笑みを浮かべている。

 みなそれぞれに清楚で美しく、可愛らしい。

 ……なるほど確かに、彼女らの華やかな外見を誤魔化すのに、最も都合が良いのは女神官に化けることだろう。聖堂教会の女神官は、前世のキリスト教の尼僧のようなベールをかぶることがある。外出時や、特定の儀式を行う時に被る場合が多いが、何か訳あって顔を隠したい時にも使われる。

 ルフレイドは独身だが、結婚していればその夫人は多くの侍女を引き連れ宮殿で生活する。もちろん、元から宮殿付きのメイドもいるだろし、城内の神殿に女神官が配属されるのはおかしいことではない。

「以前に何度か、お見受けしましたが……」

 そこで横から、ミラたちに付き添ってきた男がイシュルに声をかけてきた。

「主(あるじ)より、城内において皆さまのお世話を仰せつかりました、ジレー・ドラーニと申します。以後お見知りおきを」

 年齢は二十代前半、ルフレイドと同じくらいか、まだ若い。柔らかな金髪の甘い顔立ちの男だ。

「ジレー?」

 イシュルは首をひねって視線を遠くへやった。

 ……どこかで聞いた憶えがある。

 ジレーは何度か顔を合わせたと言っているが、外見の方は記憶にない。おそらくルフレイドのお付きのひとり、複数いる執事のひとりだった筈だが、サロモンはじめ派手な容姿の者や、当人にも多くの取り巻きがいたのでいちいち憶えていない。だが不思議と、ジレーという名前は以前にどこかで聞いた覚えがあった。

「では皆さま。早速お部屋の方をご案内しましょう」

 ジレーはイシュルが声をかける前に宮殿の建物を示し、先頭に立って歩き出した。

 ……何か、気になる。

 イシュルはルフレイドが付けた、すこぶる見栄えの良い世話役の背中を見つめ、口の中で呟いた。



 イシュルたちは宮殿奥の二階の、最上級の客室に案内された。

 その一角は、中に入ってすぐのホールから、表側の回廊を経由して一段奥まった談話室(サロン)を中心に、居間と寝室の二部屋をセットにした四人分の居室が扉を介して接続する、まるでイシュルたち専用にあつらえたような構造になっていた。

「これはいい」

「まぁ」

「えっ、えっ」

 リフィア、ミラ、ニナは三者三様の反応をしてイシュルを見やり、続いて主にリフィアとミラが横目で睨み合って、早くも互いに牽制しはじめた。

「ちょうどお客さまは四名、談話室ですぐお打ち合わせができて都合がよろしいかと存じます。お食事の方もこちらでとっていただきます」

 ジレーは品のいい笑みを浮かべ、「後ほど荷物を運ばせましょう」と言って、部屋を出て行った。

 ……俺たちがここいるのは秘密だ。だからこの部屋の構造も、食事を運んでもらうのも正しい。ルフレイドは気をつかってくれている。

「だが、これはまずいだろう」

 イシュルは顔面蒼白になって、心の叫びをそのまま口に出した。

 夜になったら絶対襲われる。精霊を新たに召喚して、守ってもらうか。

 レニの護衛に付けているヨリクとの連絡は、遠距離なため不安もある。そのため、他の精霊を呼ぶのを今まで控えていたのだ。精霊を増やしても特段問題はないと思うが、やはり一対一の方がコミュニケーションがしやすい、自分自身の負担も少ないのは確かだ。

「まぁ、ほほ。何がまずいんですの? イシュルさま」

 木箱に隠れる時もふざけてきたミラが、楽しそうに突っ込んでくる。

「まぁ、何だ。ここは王弟殿下のお屋敷だから、荒事は駄目だがいろいろやりようはあるだろう」

 と、リフィアも眸を輝かせて挑戦的なことを言ってくる。

「ニナっ」

 イシュルは助けを求め、縋るようにしてニナの顔を見つめた。

「わたしも何かできないか、考えてみようかな……。エルリーナに相談してみよう」

 ニナはイシュルの視線に気づかず、俯いて何やらぶつぶつ呟いている。

「!!」

 イシュルは一度、ぶるっと全身を震わせるとカチカチに凍りついた。

 ……いかん。もう四の五の言ってられない。これは強力な門番を召喚するしかない。

 そもそもレニたちも敵も、ヨリクもここ、ソレールを目指し、あるいはもう市中のどこかに潜んでいるかもしれない。船上で胸を突いてきたヨリクからの“信号”は、そのことを示していた。

 彼らが近くにいるか、こちらに向かっているのなら、もうヨリクとの繋がりに気を使う必要はないだろう。

「呼ぶから。もう一体、精霊を召喚する。飛びきり強いやつだ。絶対中には入れないからな」

 イシュルはミラたちを見回し、続いて談話室の、東西両側の壁にふたつずつ並んだ扉に目をやった。

 室内は、レリーフ状の飾りがなされた白壁にところどころ金を用いて縁取りされ、幾何学模様の高い天井、華奢な造作の美しい家具がバランスよく配置された、大陸の宮殿の典型的な意匠だ。

「まぁまぁ、イシュル。その程度のことで精霊を呼ぶのは、あまり感心しないな」

「しかも、イシュルさまが呼ばれるのは大精霊でしょう?」

「……」

 リフィアが人差し指を立て、指先を横に振って「ちがう、ちがう」とやり、ミラが咎めるような視線を向けてきて、ニナが苦笑している。

 イシュルはむすっと黙り込んだ。

 ……彼女らの言いたいことはわかる。

 精霊──特に人が召喚し、または契約した精霊は神の遣いとも見なされる。もともと精霊を召喚することは宗教的な意味合いの強い、神聖な“儀式”だった。魔法を使うことも、古代においては同じ神聖な“儀式”だったろうが、つまり精霊を召喚するのは何らかの正当な理由がなければならない、己の邪な欲望や遊びで、むやみに精霊を呼び出すことは避けなければならない、とする考えがまだ一部に残っているのだ。

 彼女たちはそのことを指摘して、俺が精霊を呼ぶことを牽制しているのである。

 だが、ニナはともかくミラは、彼女の契約精霊であるシャルカを時に私利私欲のために使っていないだろうか。何か仕掛けてくる時、よくリフィアを抑え込む当て駒に使っているではないか。

「み、ミラはどうなんだ? シャルカの扱いに私利私欲は一切ないと断言できるか」

「まぁ、イシュルさま。……そんな、酷いですわ」

「イシュルさん……」

 と、思い切ってミラに抗議してみたら、思わぬ反応が返ってきた。

 ミラは悲しそうな顔で俯き、ニナが非難するような視線を向けてきた。

「イシュル、おまえはまったく……。女ごころというものがわかってないな」

「はっ?」

 リフィアが今度は首を横に振り、ずばり断言、してきた。

「わたしにはわかる。ミラ殿の行動は、おまえを想う真心からくるものだ」

「イシュルさんは、ミラさんの切ない気持ちがわからないんですか?」

 ……ええ?

 めずらしくニナまで、詰問口調で言ってきた。

 イシュルは思わず後ろにのけぞり、呆然と三人の少女らの顔を見回した。

 こ、こいつら。こういう時だけ……。

 グルだ。完全にグルだ。嵌められた……。

「!?」

 そこでリフィアとニナの後ろに隠れるようにして、「してやったり」と確信犯の微笑を浮かべるミラと目が合った。

「ほほっ」

 ミラの悪戯な、可愛らしい微笑みが顔いっぱいに広がる。

「く~っ」

 イシュルが顔を上気させて何事か叫ぼうとした瞬間。

「……むっ」

 またも心の底を叩いてくる者があった。

 船上でソレールの城壁を目にした時と同じ、ヨリクの知らせだった。

 ……いや、あの時とは少し、趣きが違う。

 ほんの少しだが、事態は切迫している。

 風の精霊は相変わらず用心深く、はっきりと言葉にして知らせてこない。だが、彼の言わんとしていることはわかった。

 おそらく、あの黒尖晶の逃亡者とレニたちが、この街に入ってきたのではないか。

 やつはそれを知らせてきたのだ。

「ふふ」

 イシュルは一瞬で醒めた、冷たい笑みを浮かべると言った。

「まぁ、いい……。精霊は呼ばないことにするよ。さっそく部屋割を決めようか」

「……」

 リフィアたちは急に様変わりしたイシュルの様子に、互いに顔を見合わせた。そしてすぐ真剣な顔つきになった。

「俺は外側の部屋がいい。そうだな、ディレーブ川寄りの、西側の部屋がいい」

 ……すぐ外に飛び出て、街の河岸を抑える。

 その時は近づいている。

 イシュルはミラたちの顔を再度見渡し、小さくひとつ頷いてみせた。



「ふむ……」

 ルフレイドは顎に手をやり難しい顔をした。

「この絵図はイシュルが書いたのか」

 彼は顎にやった手を下ろし、テーブルの上に広げられた紙面を指さした。

 そこにはソレールの街の地図らしきものが描かれてあった。あまり一般的ではない、真俯瞰から見た、前世の近代的な技術で測量されたようなシンプルな図柄だ。

「はい」

「兄上が惚れ込むわけだ。そなたのこの能力は、我々にとっては由々しき問題だな」

「マレフィオアを斃して土の魔法具も手にいれましたからね。風と土が揃えば、より詳しく地形の把握ができます」

「隠蔽した場所もか」

 ルフレイドはにやりと笑って、イシュルを横目に見た。

「まぁ、ほほ」

 ミラがごまかすように、いつもの上品な笑い声を上げる。

 イシュルの描いた図面には、宮殿や内郭の地下にある秘密の通路や部屋らしきものも描かれていた。

「相手は精霊神の魔法具を持つ、黒尖晶の生き残りです。怪しい個所はあらかじめ頭の中に入れておく必要があります」

 イシュルは小さく笑みを浮かべて「他意はありませんから」と続けた。

「まぁ、それはいい。問題はこの図面の描き方だ。無駄を省いた線図で、要所要所に数字が書き込まれている」

 ルフレイドは笑いや呆れ、諦めや皮肉の入り混じった複雑な表情を見せて言った。

 図面には城壁の高さや厚さ、内郭の主要な建物の高さや街路の幅などが書き込まれていた。

「由々しき問題、というのはそなたの頭脳だ。こういものの見方をして図面に仕立て上げる思考そのものが脅威なのだ」

 と、そこまで言ってルフレイドは表情を緩め、爽やかな笑みを浮かべた。

「とはいっても、そなたのその頭脳のおかげでわたしの命も救われたわけだ。仕方がないな」

「まことに。仰せの通りかと」

 主人から同意を求められたジレーが、如才なく返答する。

 南側の大きな窓から差し込む外光に、夕陽の紅い色が僅かに混じっている。その光が壁際に立つジレーの姿を引き立たせている。

 イシュルたちは部屋割りを決めると、レニの手助け──つまり黒尖晶の逃亡者をどう捕縛し、あるいは始末するか、大まかな作戦を立て役割分担を決めた。

 ルフレイドが問題視したソレールの図面は、その時イシュルがジレーに頼み、用意してもらった紙に自ら描き込んだものだった。

 ジレーの注進があったか、イシュルたちが打ち合わせをしていると、ルフレイドが自ら足を運び談話室にやって来たのだった。

 派手な飾りのついた裾の長い上着にベスト、大仰なタイと、昔ながらの執事服を着たジレーに対し、ルフレイドは目立たない、宮殿に出入りを許された彼の側近、中下級貴族のような服装をしていた。ちなみにイシュルも、仕立てはいいが地味な焦げ茶のローブを上に着て、ルフレイドと似たような格好をしている。

「……それで、例の闇商人だがな。この辺りに固まっている川舟商人の数名が、裏で請け負っていた筈だ。黒尖晶がソレールに入って潜伏するとしたら、この商人街だな」

 ルフレイドは図中のソレール市街の北寄り、河港に近い辺りを指差して言った。

 ジレーを伴い談話室(サロン)に顔を出したルフレイドは、そのままイシュルらの打ち合わせに加わった。

 イシュルは後ほど、今晩にでも彼に、打ち合わせで決まったことを伝えておこうと考えていたので、当人自ら談話室に来てくれたのはとても都合が良かった。

 ルフレイドが打ち合わせに加わったことは、他にも大きな利点をもたらした。彼は黒尖晶の逃亡者がどこに潜伏するか、有益な情報をもたらした。ソレールの代々の総督は必要悪として、アルサール大公国と密貿易を行う商人を一部、故意に見逃してきた。抜け道をほんの少し開けておくことで、そこに集中する様々な情報を入手し、時に密偵を送り込み、亡命しようとする反逆者を誘い込み捕縛したり、特殊な魔法具など、密貿易の品を押収したりしてきた。

 今回の黒尖晶の生き残りも、アルサールに逃げるため密貿易をやっている商人に接触する可能性が高かった。逃亡者は尖晶聖堂の影働きの者であったから、それら闇商人がわざと泳がされていることも知っている可能性があったが、他に確実に、早期にディレーブ川を渡る方法はなかった。

 彼は風の魔法は使えず、特定の契約精霊もいない。だから空中を移動することはできない。だが近接戦に強く、精霊神の隠れ身の魔法具と、限定的な転移魔法を発動する影踏みの魔法具を持っている。それなりの川舟と、周辺の地理に明るい船頭を手配できれば、それだけで聖王国側の妨害を排除し、突破することも可能だろう。

 ルフレイドはわざと見逃している闇商人に逃亡者が接触し、潜伏しそうな場所をイシュルたちの教えてくれたのだった。

 彼が指し示した場所は、河港に近い城壁の内側で、歓楽街と隣接した商人街だった。ソレールの城壁で囲まれた市街は、それほど大きいわけではない。城壁の内側にある歓楽街も商人街も小さな街区で、捜索自体は簡単だろうが、わざわざヨリクに見張らせてあるのだから、相手の出方を、レニたちが動き出すのを待って、柔軟に対応していくのが上策と思われた。

「ありがとうございます。大公さま」

「ありがとうございます、助かります」

 ミラとイシュルがルフレイドに礼を言った。

「それで、この件のことなんですが……」

 イシュルは続いて、ルフレイドに最も伝えたかったことを言った。

「レニ・プジェールへの助勢、つまり黒尖晶の捕縛は、我々だけで行いたいと思います。できうる限り街の住民に被害が出ないようにします」

「もし相手を取り逃がすようなことがあったとしても、まさか大公さまが責を負うことにはなりますまい」

「イシュルさまならどんな強敵とも、どんな状況でも戦えますわ。殿下、どうかご安心を」

「いや、心配はしていないがな」

 ミラの言に、ルフレイドはリフィアからニナへ、視線を向けた。

「おまかせを、大公殿下」

 そこで、今まで黙っていたニナが右手を胸に当て腰を折った。

「うむ」

 ルフレイドはニナの顔を見て何を思ったか、満足そうに頷くとイシュルに言った。

「そなたらが心をひとつにしているのなら、それで良い。どのみち我が方で人を出しても、イシュルにとっては足手まといにしかならないだろうからな」

 そこでルフレイドは卓上の地図を指先ではじいて、

「この図面はことが終わったら、かならず処分しておくように」

 にやりと笑って片手をかるく振り、部屋を出ていった。

「後ほど夕食を運ばせましょう。それではごゆるりと」

 ジレーが愛想よく一礼してルフレイドに続いて退室する。

「……うーむ」

 イシュルはジレーが消えた扉を見つめて首を捻った。

「あのひと、どこかで見たような気がするんだよな。ジレーという名も、どこかで聞いた覚えがあるんだが」

「イシュルさま、聖都にいらして間もない頃、ルフレイドさまを連れ出すため、白路宮に赴いた時のことを憶えておいでですか?」

 イシュルが唸っていると、ミラが横から話しかけてきた。

「ああ、あの時」

 ……王宮に禁足されていたミラの兄、ルフィッツオを救出後、サロモンに続いてルフレイドも公爵邸に引き込んだ方が彼も安全だし、ビオナートとの闘争も圧倒的に有利になると思って、彼ら王子らの住まいだった白路宮に向かった時だ。

 その時、サロモンの執事だった切れ者のビシューと鉢合わせし、ルフレイドとも宮殿の前で対面した。確か、彼を公爵邸に連れ出そうとして説得した時……。

「ジレー殿は、あの時もルフレイドさまの傍におりましたわ。あの方は大公さまの側近のひとりなのです」

「あっ」

 突然、イシュルの脳裡にあの時の映像が浮かんだ。白路宮の白壁を背景に、ルフレイドに少し離れて佇んでいた、何人かの従僕たち。あの時、サロモンが聖堂騎士団に包囲された公爵邸に救援に赴いたのだが、彼は当時競争相手であったルフレイドを「足止め」したと言っていた。

 つまり弟に先んじて公爵邸に向かうために、ルフレイドに工作を仕掛けたのである。それが、ジレーという彼の従僕の「(王城を出るのなら)国王か内務卿から一筆もらった方が良い」という進言だった。

 ジレーに直接工作したのは、サロモンの執事だったビシューあたりだろうが、そもそもそれ以前に、ジレーがサロモン側と内通していた可能性がある。

 だが、彼は今もルフレイドに仕え、信頼も厚いようだ。あの時のことがあってもジレーは処分されず、失脚していない。現在はルフレイドもサロモンと和解したので、ジレーを処分する必要はないのだろうが、今でも重用されているのは何か、深い事情があるのかもしれない。

「あの方はルフレイドさまの、一番の懐刀と言われていますわ」

「ふむ」

 ……懐刀? ますますわからなくなった。それならなぜ、サロモンの工作に引っかかったのか。

「わざとか」

 当時、ディエラード公爵邸には、王子たちに対しビオナートの罠が仕掛けられていた。あの時頭上の、かなりの高度から襲撃してきた風の魔法使いがセリオだった。サロモンやビシューと変わらない“切れ者”のジレーは逆の発想をして、むしろ公爵邸に出向くことの方が危険、と考えたのかもしれない。あるいは王城に残ることに拘った、ルフレイドの考えを読んでサロモンの工作にわざと乗ってみせたのかもしれない。

「どうした? 何か気になるのか」

 リフィアが面白そうな顔をして声をかけてきた。

 いつもの、「わたしも混ぜろ」という顔だ。

「いや、何でもない」

 イシュルは少し歯切れの悪い感じで、かぶりを振った。



「そろそろ塔上です。足元にお気をつけください」

 大き目のランタンを掲げ、先ほど話に出たジレーが振り返り、後ろへ声をかけた。

 城内で最も大きく高い塔のひとつ、その内部の幅広の螺旋階段を、ジレーの先導でイシュルたちが登っていた。

 夜空に開け放たれた扉を出ると、ジレーが見張り番の城兵に声をかけ、彼らを引き連れ下へ降りて行った。

 ジレーはイシュルの横を通る時、「どうかお手柔らかに」と皮肉でもなんでもなく、柔和な笑顔で冗談を言ってきた。

「さてと。今晩はしばらく、ここで待機だ」

 イシュルはジレーらが階下に消えると、周囲を見渡して言った。

「涼しい風だな。過ごしやすい夜だ」

 リフィアが両手を上げ、大きく伸びをしながら言った。

 イシュルたちは夕食後、打ち合わせ通りに城塔に登って、市街の北部、ルフレイドの示した商人街の周辺を見張り、レニたちと黒尖晶の逃亡者の戦闘がはじまればすぐ、介入できるようにした。

 イシュルにはヨリクから断続的に、無言の知らせが届いていた。

 心の淵に何か異物が当たるような形で、ヨリクが言語ではない、思考そのものを伝言としてイシュルに連絡をよこしていた。

 ヨリクは何が原因か、微かな焦りを見せながら、今晩にもさっそく黒尖晶か、レニら追っ手が動くと睨んでいた。でなければヨリク自身が黒尖晶の逃亡者を刺激して、ことを起こそうと考えていた。

 イシュルはヨリクがなぜ焦燥を、不安を抱えているのか気になったが、早めに決着をつけることには賛成で、彼の考えに異議を唱えることはしなかった。

 それでイシュルは、ミラたちに以前にかるく知らせてあったヨリクのことや、黒尖晶の動きを伝え、打ち合わせた作戦を実行に移すことにした。

 まずは城市全体を見渡せる城の塔に登り、見張りをしつつ待機し、ことが起こればミラとシャルカ、リフィアとニナのふた組が、イシュルの支援をする形で搭上から同時に行動を起こす手筈になっていた。

 ミラとシャルカが空中からイシュルの後方をカバーし、リフィアとニナは市街の北端に回り込み河港側を押さえ、イシュル自身はレニと黒尖晶がやり合う場に、直接介入する段取りだった。

「まだ動きはない。相手は気配を殺しているようだ」

 皆揃って搭上の四方を囲む鋸壁(のこかべ)の裏に背を預け、座り込むと、シャルカが誰に言うともなく呟いた。

 イシュルは鋸壁の狭間から商人街の方を見つめた。

 そろそろ街も寝静まる頃合いで、歓楽街の灯りも減り、外を出歩く人の気配もほとんど感じなくなっている。

 相変わらず、ヨリクからのそれとわかる強い接触はない。時折、彼の心の一端が何となく、自分の意識に波のように伝わってくる。

 もちろん彼がどこに潜んでいるのか、イシュルにもわからない。

 あれだけ強面なのに、恐ろしく用心深い精霊だった。

 ヨリクの思考からは、黒尖晶はすでに闇商人の住居の傍に隠れ潜んでいるのが読み取れた。

 ……黒尖晶は隠れ身の仮面を持っている。おそらくその魔法具で気配を消し、闇商人に密着する形で舟に乗り、東岸に渡るつもりなのだろう。

 ヨリクからは、レニや支援の白尖晶も近くに潜んでいるのがわかったが、レニの契約精霊の一つ目の化け猫、ルカトスがどこに隠れているか、それはわからなかった。

 やつは、俺たちの存在に気づいているだろうな……。

 イシュルがそう考えると、ヨリクが否定するようなことを伝てきた。

 ルカトスは己の気配を殺し、黒尖晶の逃亡者の動向に集中しているから、今の距離でじっとしていれば大丈夫だとヨリクは考えていた。

「ふむ」

 イシュルはひとり小さく頷くと、日中から今も曇っている夜空を見上げた。

 月は雲に隠れ、姿が見えない。そもそも新月に近い月齢の筈で、雲を透けてくるそれらしい明かりもない。

 ……まさかな。

 月神、レーリアがここで介入してくることはないだろう。

 やつが動くのなら、水神の神殿跡に近づいた、深い森の中ではないだろうか。

「イシュル、どうした──」

 不安そうな顔になって夜空を見上げるイシュルに、リフィアが声をかけようとした瞬間、青い魔法が夜空を煌めいた。ルカトスが突然動き出し、レニが、黒尖晶が、すべてが動き出した。

「イシュルさま!」

「行きますっ」

 ミラとニナが鋭い声を上げる。

「むっ」

 イシュルは北の、街の方へ振り返った。

 商人街の一角を、地面から空中に向けて青く輝く魔法が発動した。

 あれは風の魔法……。ルカトスか。

「イシュル、行くぞ」

 リフィアがニナを背負い、イシュルに声をかける。

「頼む」

「ひっ」

 イシュルが頷く間もなく、リフィアとニナが目の前から消えた。網膜にほんの一瞬、抑えられた赤い閃光が走った。ネリーの腕輪が反応する間もなかった。

 同じく一瞬、耳許に聞こえた変な声は、リフィアにおぶられたニナの声だろう。

 彼女らはリフィアの加速の魔法で、城壁を伝い河港側へ高速で移動、回りこむことになっている。

 と、青い光に下から照らされた建物の屋根が吹っ飛んだ。同じ風の魔法だ。少し離れた隣の街区から、鋭い魔力を煌めかせレニと白尖晶が空中に飛び出した。

 ……下方から上に向かって青い魔力光を展開、家屋の屋根を吹き飛ばし、上から攻撃か。

 みんな、考えることは同じだな。

 イシュルは微笑を浮かべるとミラに顔を向け短く言った。

「後ろを頼む」

「はい」

 ミラの返事を背に、空中へ飛び上がる。

 直後、屋根を飛ばされた建物から一瞬オレンジ色の光が垂直に走り、すぐに消えると隣の三階建ての建物の屋根に黒い人影が立った。

 手前の街路の影から、ルカトスが半透明の巨体を現し黒い人影に飛びかかる。

 ……レニ、ルカトス。悪いがそいつは俺がやる。

 ヨリクから明確な反応はない。何か、緊張している感じは伝わってくる。

「青い炎よ、暗き迷妄を照らし出せ」

 イシュルは空中で呪文のような言葉を呟くと、片手を横に振った。

 その瞬間、城市全体が明るい、水色の輝きに覆われた。オーロラが逆転し地上から吹き出したような、冷たい炎の揺らめきが夜空に向かって放射された。

 城塞都市のすべてが青く燃えるように輝き、あらゆる影が、闇が消え去った。

 ルカトスの風の魔力を遥かに超える、巨大な火の魔法だった。

 黒尖晶の逃亡者は、影踏みの魔法を発動する術(すべ)を失った。何びとであろうと青い炎の光の先、夜空の闇を掴むことはできない。

 イシュルは続いてその影働きの者、一点に意識を集中した。音が消え、空間が後退し視界が暗転する。

 瞬間移動の魔法、“風鳴り”を発動する。

 死を超越し地獄の苦しみを耐えれば、次の瞬間にはやつは目の前だ。

 イシュルの口角が笑みに歪むその時、 

「!!」

 夜空を巨大な月が、のようなものが覆った。

 イシュルの火の魔法に対抗するように、頭上から奇妙な光で地上を照らし出す。

 時が止まった。

 ……このっ!

 イシュルだけが、時間を奪われる。

 周りのものすべてがゆっくりと、速度を落として動き続ける。

 加速の魔法を使った時と同じだ。だが自分は動けない……。

 レニが、ルカトスが空を翔け、屋根上の黒尖晶が、助けを求めるように頭上に手を挙げた。

 闇に沈んでいた天空は今や、巨大な光体に覆われていた。

 視界いっぱいに広がる円盤状の光。それは古い蛍光灯のような、奇妙な輝きだ。黒尖晶の差し出された掌の先に、小さな黒点が現れた。その影が徐々に拡大しひとの形になる。

 巨大な蛍光灯の月を背負って、小さな人影が空に浮いている。新たな黒い影が生まれたのだ。

 少女のはためくスカート、揺れる髪。

 ……メリリャだ。

 黒尖晶の、伸ばした手の先。狂った逃亡者は、彼女の影を求めていた。

  


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