逆命 1
ぎこ、ぎこ、とただ櫓の軋む音だけが聞こえる。
何も見えない暗闇。
川面(かわも)は闇夜を映す鏡か、夜空とどこが境界かわからない。
時おり無気味な光点が現れ、瞬きながらゆらりと揺れて消えるのは、蛍の類いか。
遠く近く、微かな水音は水面(みなも)を跳ねる川魚か。
月も星も闇に沈み、風も無い。
櫓を漕ぐ水夫は何を見ているのだろう。
川の流れも夜闇に隠れ、何もかも閉じ込められてしまっているではないか。
向かいに座る男に、傍らの者が耳打ちする。
何と言ったか、聞こえない。ただ櫓を漕ぐ音だけがする。
耳打ちされた男は小さくひとつ頷くと、膝元のカンテラに被せていた布を持ち上げた。
「そろそろよかろう」
イシュルが眩しそうに眸をすぼめると、男は「ふふ」と短く笑った。
船上に灯った明かりに、野趣あふれる髭ずらの男の顔が浮かんだ。
「あまり大きな声で話してはならん。気をつけるように」
髭の男は声を落とし、イシュルたちをゆっくり見回し言った。
同じ船にミラとシャルカ、リフィア、ニナが乗っている。そのためか、男の声は常よりあらたまった、多分に威厳を感じさせるものだった。
「それで、どうしてこんなことしてるんですか?」
イシュルは男の注文どおり、低い声で言った。
が、その口調はおざなりで、いささか脱力感を伴うものだった。
「……」
ルフレイドは、悪戯な含み笑いを浮かべると言った。
「だから先ほど申したであろう。そなたらを迎えに参った、と」
「わざわざ王弟であるあなたが、そんな海賊の格好をしてですか」
「ん? 海賊ではないぞ。……あえて言うなら河賊、だな」
ルフレイドはそう言うと顎鬚を、続いて口髭をむしり取った。
その顔から髭がなくなると荒々しさがすっかり消えて、夜目にもわかる瑞々しい青年の顔が現れた。
同時にイシュルの背後から、ミラたちの当惑し切った、ざわめくような気配が押し寄せてきた。
それは十分に抑制されたものだったが、要は「どうしてこの方が、こんな格好をしてあんなことをしていたのか、わたしたちを代表してあなたが訊いてくれ」と、イシュルを後ろから急き立てる圧力、でもあった。
……俺たちを“迎い入れる”ために偽装工作するのはいいとしても、なぜ盗賊の真似事をしなければならないのか、そこがわからない……。
イシュルもミラたちと同感だったが、誰もルフレイドに訊こうとしないので、結局自分がルフレイドに質問するしかなかった。確かに訊きにくい話だが、知っておかなければならないことだった。
「その、殿下直々のお出迎えですか。……それはとても光栄で、えーと、ありがたいことだと思いますが、なぜ河賊なんですかね」
ディレーブ川とも接続する沼地の村、カルピニを襲う賊がいるということで、足の速いイシュルとリフィアが急遽、村の救援に向かったが、村長宅の前で遭遇した夜盗はなんと、新しくソレール大公となったルフレイド自ら変装し、率いていた盗賊団だった。
驚きのあまりイシュルは呆然と、目の前に立つルフレイドとお見合い状態になったが、そこへ後方に回り込んで突入してきたリフィアが加わり、場は一層混乱し騒然となった。
リフィアは、村長宅本邸の屋根上に立つと定石どおり、
「カルピニ村を襲う賊はその方らか? 訳あって今宵はわたし自ら成敗いたす。大人しく退けば、命だけは助けてやろう。さもなくば己が首を──」
と派手にやった。さすがに「我こそは……」などと名乗ることは控えたが、盗賊団の頭(かしら)がルフレイドと知って混乱したイシュルに、さらなる追い打ちをかける結果となった。
ルフレイドはそこで、どこで捕まえたか数名の村娘を人質にして「貴様こそ大人しく投降しろ、さもなくばこの娘たちの命はないぞ」とやった。
縄で縛った村娘のひとりを前に突き出し、リフィアに脅しをかけるルフレイドを、彼女に見せつけるようにして他の盗賊たちが松明で煌々と照らし出した。
「……!!」
それを見たリフィアも不審な顔になり、次の瞬間にはその盗賊がルフレイドだと気づいたか、驚きのあまり棒立ちになった。
彼女はイシュルを連れ戻すため聖都に赴き、その時にサロモンの弟のルフレイドとも、何度か顔を合わせている。それで髭を生やし変装していたがその顔に見覚えがあったか、片足が義足であったことや、呆然として戦意を無くしたイシュルの異変も見て取ったか、その盗賊がルフレイドだとすぐ気づいたようだった。
「さぁ、早く降りて来い。この娘がどうなってもいいのか」
盗賊のお頭、ルフレイドはノリノリでリフィアを脅しつけた。
その隣ではイシュルがリフィアを見上げ、切ない顔をして首を何度も縦に振ってみせた。イシュルの眸は、「この盗賊の格好をしたひとの言うことを黙って聞いてくれ。お願いだから暴れないで」というようなことを訴えていた。
「な、なんと! 卑怯だぞ!」
リフィアは逡巡も一瞬、屋根の上でそれらしく驚愕してみせ、ルフレイドに勝るこれもノリノリの演技を披露した。
「ははっ、盗賊に卑怯もクソもあるか! さぁ、大人しく降りて来い」
「むむっ、おのれぇ」
「ひっ、ひいい」
ベタベタの演技を続けるふたりの間に、これはどうやら演技ではない、人質になった村娘の本気の悲鳴が混じる。
「……」
あの娘は本物の、この村の子らしい。可哀相に……。
イシュルは早くもうんざりして、胸焼けするような嫌な気分になった。
思わず深い溜息が漏れる。
「くっ、何ということだ! ……仕方がない。今すぐ降りるから、村娘に手を出すのはやめてくれ」
リフィアは、肩をすくめて脱力するイシュルの様子を見ても何のその、夜空に向かって思いっきり嘆息すると身を翻し、空中で華麗に一回転するとルフレイドの目の前に降り立った。
「よしっ、こいつらに縄をかけろ。娘どもと一緒に連れて行くぞ」
盗賊のお頭であるルフレイドは、機嫌よく周りの子分たちに命じた。
「……」
「むむっ」
イシュルは引きつった笑みを浮かべ、リフィアは本当に悔しそうな顔をして、太い縄で胴体をぐるぐる巻きにされた。
盗賊団はイシュルとリフィア、それに村娘を連れて意気揚々とカルピニ村を引き上げた。
誰も追いかけてくる者はいず、それは良かったが、盗賊どもは不思議なことに娘たち以外に何も奪わず、家々に火をつけることもせずに退散し、村を出ると延々と続く葦原を南下していった。
さすがに船の在り処は知られたくないのか、彼らは途中から松明をすべて消し、口も閉ざし暗がりのなかを黙々と歩き続けた。周辺の地形はすべて頭に入っているのか、暗闇の中でも沼や川にはまることなく、歩速も落とさず半刻ほど行くと、上から布を被された薄暗いカンテラの灯りが、群生する葦の隙間から見えてきた。
近づくと数名の人影が立っているのが見えた。どうやら河賊の一味らしい。彼らの足許、奥の方には十数名は乗れる中型の川船が二艘、沼だか川だかわからない水面に浮いている。他に人の気配も、魔獣の気配もない。月も星々も厚い雲に隠れ、周囲は深い闇に包まれている。
「しばらく待機だ」
少し離れたところからルフレイドの声が聞こえてくる。
イシュルとリフィアは盗賊どもに縄で縛られ、悄然とその場に立ち続けるという、何ともいたたまれない愚にもつかない時間を過ごすことになった。
しばらくすると、東の方から複数のひとの気配が近づいてきた。
葦の間からはやはり小さな灯り。暗闇から現れたのは盗賊団の別動隊だった。彼らも多くの虜囚を連れていた。
「あら」
「イシュルさんっ」
「……」
後ろから槍を突きつけられたミラとシャルカ、ニナの姿が見えた。その後ろにはロミールや、セーリアとノクタの顔も見えた。
男だからかロミールだけが後ろ手に縛られ、呆けた間抜け面(づら)で立っていた。
「ミラ」
イシュルはミラに声をかけた。
「このこと、前から知っていたな?」
「いえ」
ミラは落ち着いた様子でゆっくり首を横に振った。
「ルフレイドさまにご助力を賜るよう願い出ておりましたが、このようなことは……」
ミラはそこでイシュルの横を見て腰を落とし、頭を垂れた。
ルフレイドがイシュルの傍にやってきた。彼は別働隊を率いてきた男に小声で何事か話すと、すぐイシュルとミラの許へやって来た。
「ミラ・ディエラード、久しぶりだな。こんなところで会うことになるとは」
「ご無沙汰しております。大公さま」
ルフレイドはソレール大公となったから、かつてアンティオス大公であった現ラディス王国国王、ヘンリク・ラディスと被ってしまう。ただ、ミラが「大公」という言葉を使うのは新鮮な感じがした。
「イシュルはもちろん、そなたらにも大恩がある。ここはしっかり報いてやろうと思ってな」
「ありがとうございます……」
ミラもこの状況に困惑しているのか、硬い口調で、元気がない。
「一緒にいた行商の人たちは?」
イシュルはすぐ気づいてミラに質問した。
周りは盗賊団に、村からさらってきた娘らも合わせて数十名ほどに膨れ上がっている。だがその中に、先ほどまで同道していた行商の者はひとりもいなかった。
「あの者らは、金目のものを奪ってから追い返しましたが」
ルフレイドの斜め後ろに立つ盗賊の男が、妙に折り目正しい口調でイシュルに答えた。
「はっ?」
「心配は無用です。怪我はさせていませんし、奪い取った金は後日返しますから」
「カルピニ村の者もあの者たちも、今晩起きた災難を派手に触れ回ってくれると良いのだがな。村娘を人質に取られ我らに従ったそなたらも、疑う者はいまい」
……まぁ、そういうことなんだろうが、どうも腑に落ちない……。
なぜ盗賊なんだ? あんな派手な真似をして。
もっと目立たず、秘密裏に俺たちと接触し、ソレール入りすることだってできた筈だ。
リフィアもミラたちも、先ほどのカルピニ村襲撃が何か訳ありの偽装工作だと気づいたのはいいとして、その工作に何の意味があるかまでは、わからないだろう……。
イシュルがミラやリフィアの顔を見回し話しかけようとした時、横からルフレイドが遮るように言ってきた。
「詳しくは我が砦に着いてから話そう。こんなところで立ち話もなかろう。さっ、乗れ」
男たちが小声で声を掛け合いながら船を寄せ、次々と乗り込んでいく。
イシュルは暗闇の中で、眸を細めルフレイドの横顔を見た。
髭に覆われたジョン・シルバーは明らかに今、この時を楽しんでいた。
「……それでさっき、確か“砦”と言いましたよね」
船尾で櫓を漕ぐ音以外何もない、動くものもない、一瞬の間。
イシュルの質問はこの活劇、いや茶番劇か──の核心をついたようだった。
ルフレイドは薄く笑みを浮かべ、鉄製の義足の先で船底を何度か小突いた。
「さぁ、そろそろディレーブ川に出るぞ」
と、その瞬間、ぎぎぎっと船が苦しげな音を立てた。
周りの葦が消え、急に視界が広く、暗闇が深くなったような気がした。川の流れが変わり、わずかに早くなった。
遠く、西の方から風が吹いてきた。
イシュルたちを挟み、船の前後に分かれて座っていた盗賊たちが、櫂を持って一斉に漕ぎはじめた。
船はディレーブ川の西岸、上流に向かって進みはじめた。後ろの船もぴったり、付いてくる。
「西……」
イシュルは呆然と、短く呟いた。
ミラやニナ、リフィアたちも暗く沈む水面を、西の、アルサール大公国の方を見つめていた。
「ふふ。そうだ。わたしたちはアルサールに向かっているのだ」
ルフレイドは何度目か、楽しそうな声を上げた。
「……」
イシュルはむっつり押し黙って夜の川を見渡した。
この辺はもうディレーブ川の下流域だ。両岸ともに湿地が続き、大小の沼や小川が入り乱れ、どこまでが川か陸地か判然としない。雨期も後半に入り水嵩(みずかさ)は増している。川の流れは相変わらず緩やかで、水の流れる気配がしない。ただ周囲の暗闇は広く、果てのないものに変わった。
……砦と西岸、アルサール。
まったく、嫌な予感しかしない。
それからルフレイドも無言を通し、ミラたちもひと言も発しなかった。
だが決してその場の者がみな、イシュルのように不快な、あるいは不安な思いを抱いたわけではない。リフィアは今にも鼻歌を歌い出しそうにご機嫌だったし、ルフレイドもまだ冒険の続きを味わっているように、快活な笑みを浮かべていた。
やがてどれほど時間が経ったか、東の空が微かに明るくなりはじめた頃、西岸の葦原にこんもりと木々が固まって茂る、小さな島のような影が浮き上がってきた。
……うん?
イシュルはふと視線をさらに、もっと遠くの方へ向けた。
島影はいい。それより、あれは……。
イシュルが鋭い顔つきになってルフレイドを見ると、彼はそこでよっくりと立ち上がり、イシュルに手を差し伸べて言った。
「さぁ、我が隠れ家に到着だ。友よ、歓迎しよう」
年季の入った白壁に焦げ茶の床。
開け放たれた窓からは、濃い緑の木々に囲まれよく手入れされた芝生の、程よい広さの中庭が見える。
今日はめずらしく良く晴れた強い日差しが、木々の間から聞こえてくる小鳥のさえずりが、すべてを忘却の彼方に消し去るような、うららかな昼下がりだ。
鼻先を茶葉の香りが流れてきて、その方へ顔を向けると、籐椅子に深く腰掛け茶を飲むルフレイドと目が合った。
「この世の楽園のようなところですね」
……こんな、人の踏み込まない場所であるならなおさらだ。
「ふん。それはまた、気の利いた皮肉だな」
ルフレイドは複雑な笑みを浮かべると視線をその横の長椅子に腰かけるミラに向けて言った。
「まぁ、ほほ」
ミラが口につけていたカップを胸元まで下げると、お淑やかに笑った。
リフィアやニナは昼食後、この隠し砦の周りを散策に出かけた。
といってもそれほど大きい規模の砦ではないが。
ふたりはラディス王国の貴族、宮廷魔導師だ。これからはレニと黒尖晶の話になるので、あえて席を外したのかもしれない。
この水塞というべきか、ディレーブ川の西岸、アルサール大公国寄りにある隠し砦は表向き、「フィオアの泉」と称する河賊のアジトになっている。ルフレイドの話では数百年ほど前、アルサールと聖王国が激しく争っていた頃に、互いに出城として取り合っていたということで、昔から水辺に浮かぶ岩礁のような場所だったのだろう。
両国の紛争が一段落してからは長い間、この水塞も無人となり打ち捨てられていたが、数年ほど前から「フィオアの泉」と冗談にもならない、愚にもつかない名前の盗賊団が住みつき、ディレーブ川を往来する舟を襲いはじめた。
しばらくして、両国の領主らはフィオアの泉の隠れ家をつきとめたが、場所が場所だけにまともな軍勢を指し向けるわけにもいかず、少数の部隊では、かつて出城として使われただけに防備が固く攻め落とすこともできず、他に理由もあって誰も手出しできずにいた。
場所が場所だけに、とは当然ディレーブ川両岸の湿地が両国の係争地であり、大規模な討伐隊を出せば相手国を刺激し、何度も繰り返されてきた本格的な紛争が勃発しかねない怖れがあった、ということである。
他に理由もあって、というのがまた問題で、この水塞から数里長(スカール、2km前後)ほど南西に下った沼地に、百匹ほどの蜥蜴人(リザードマン)の群れが巣を作っていたのだった。
蜥蜴人は大陸南部の河川、湿地帯などに群れごとに巣をつくり、中海沿岸部に生息するものは、雨期には増水を避け北方へ移動する場合が多い。北とはいっても、大陸全体から見れば南部の範疇だが、彼らの生息する北限がちょうど、ソレール周辺の緯度に相当する。
砦の南西に群居する蜥蜴人は、季節により多少の増減はあるものの、冬場でも一定数が生息し、一年を通じていなくなることはない。
彼らにとって砦の存在は気になるところだが、縄張りを侵すほど近くではない。そのため、蜥蜴人の方から盗賊団を襲ってくることはなかった。
一方、蜥蜴人の巣、というより集落の存在は、両国からすれば長大な城壁がひとつ増えたようなものであり、特に南西方向からは攻めるどころか近づくこともできず、より盗賊団のアジトを潰すことが困難になった。
ただ、盗賊団も河賊として砦からディレーブ川に出てくれば、少数の部隊でも何とか取り押さえることは可能だ。
そういうことで、河賊の勢力を抑え、かつ水運の安全をそこそこのレベルで保つ状況が長らく続くことになり、今も一応、表向きは変わっていない。
このいささか面倒な存在の河賊に、先代のソレール城主が手をつけた。河賊に少しずつ、聖王家の影の者、尖晶石の者を潜り込ませていき、三年ほどかけて味方の者を、新しい賊の頭(かしら)に挿げ替えることに成功したのである。
ちょうどその頃、ソレール城主も、新しく大公の位についたルフレイドに代わった。彼は先代城主の工作を引き継ぎ、盗賊団に残っていた“本物の盗賊”どもを一掃し、そこで何と自ら河賊の頭領となって、聖王家の影の者に騎士団の精鋭も加え、「フィオアの泉」河賊団を率いることにした。
前のソレール城主は、蜥蜴人を刺激しないよう、大規模な戦闘なしにフィオアの泉を解体、砦は周囲の土塁や石積みを崩し放棄し、敵方に渡らないよう、新しい住処として蜥蜴人らに与えてしまおうと考えていた。
だが、ルフレイドはそれで済まさず、フィオアの泉を存続させ、盗賊としての活動もそれとなく継続しながら、時に大公国側の交易を妨害し、周辺のさまざまな情報を収集することにした。さらに水塞の防備を増強、武具や兵糧を備蓄し、いざという時は昔のように聖王国軍の重要な出城として活用できるようにしたのだった。
彼が村娘を人質にしてイシュルたちを連行したのは、この砦がソレール行きをなくして大公国の監視を欺き、かつアルサールに密入国する中継地として、非常に都合の良い場所だったからだ。
ルフレイドは兄のサロモンやミラから、イシュルが大公国領にある水神の神殿跡に行くことを知らされ、また助力を乞われて、この水塞を利用することを思いついたのだった。
「イシュルが大公国に潜入するのはいいのだ」
何も心配することはない、とルフレイドは続けて言った。
イシュルやミラたちの実力であれば、たとえ大公国側が彼らの動きを把握しても、そう簡単に手を出せるものではない。確かに彼らに知られないよう、穏便に水の神殿跡に向かうことができればそれがベストなので、こうして手間をかけて工作したわけだが、いざとなれば力づくでごり押しすることも可能なのだ。
弛緩して、気だるそうに椅子に座るルフレイドの眸はのんびりと、草木に降り注ぐ陽光とその影の間を漂っている。
彼らがくつろいでいる部屋は、木々に囲まれた砦の中央にある、平屋の何の変哲もない民家の居間である。
以前住み処にしていた盗賊団は、まさか故郷を懐かしんだのか、砦の中心部にひと息つける小さな庭と、ありふれた民家を建てた。周囲はこんもりと茂った常緑樹に覆われ、その頂部には隠蔽された見張り楼が随所に設けられ、下部には根気よく集められた大小の石が積み上げられている。木々の間には兵舎や倉庫が散在し、井戸が掘られ、下水路も整備され、砦の外縁部には密生する葦の間に大小の川船が隠されていた。
「問題は、そなたらの友人のレニ・プジェールの件だ。兄上は逃亡者とプジェール家の風使いも、そなたらもソレールに向かうだろうことがわかっている。イシュルがレニ嬢を助けようとすることもお見通しだろう。それはいいのだが、追跡している相手が曲者だ。強力な精霊神の魔法具を複数もつ、腕利きの黒尖晶の生き残りを追い詰め、始末するか捕縛するのはかなり難しい。たとえ兄上が並々ならぬ関心を寄せる、アレハンドロの孫娘であってもだ」
ルフレイドは上半身を起こし、厳しい顔をして言った。
「イシュルは早速、今晩にでもわたしと同道して、秘密裏にソレールに入城するのが良かろう。レニ・プジェールと白尖晶の捕縛隊と裏切り者が現れるまで、一時我が城に身を潜めておればよい」
「……」
うむ。それがいいだろう。カルピニ村で一旦足跡を消し、誰にも知られずソレールに移動し待ち受ける。……最善策だ。
イシュルは小さく頷くと椅子から立ち、ルフレイドの前に膝を折り、あらためて礼を述べた。
「ありがとうございます、ルフレイドさま」
「ありがとうございます、大公さま」
「うん、イシュルはわたしの命の恩人だからな。これくらいやって当然だ。気にするな」
ルフレイドは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
それからイシュルは、ルフレイドの相手をミラに任せ、砦の周りを散策しているリフィアとニナを探しに出た。
中庭を通り抜け、周囲の木立の中に足を踏み入れる。木々の間には木材や縄、樽などが積み上げられ、石積みや煉瓦、木造の小屋などが散在していた。昨晩、砦に一緒に帰還した盗賊たち、中身はルフレイドに仕える騎士ら──は、まだ兵舎の方で休んでいるのか、あまり姿を見かけなかった。西から南の方へ回っていくと、途中木立が切れて、よく陽のあたる空き地に出た。傍に井戸があり、ロミールが本人とイシュルの、ノクタとセーリアが女性らの衣類を、それから昨晩連れてこられた村娘が、盗賊団の者らの衣類を洗濯していた。ノクタとセーリアはもちろん、村娘たちにものんびりした明るい雰囲気が漂い、とても盗賊団に拉致されてきたようには見えなかった。
今日は久しぶりによく晴れ、確かに洗濯日和だ。ロミールやノクタたちも、この好機を逃すまいと村娘たちに頼み、一緒に洗濯させてもらっているのだろう。
「あっ、イシュルさん」
近づくと樽の前に屈んでいたロミールが顔を上げた。
「お疲れさん、ロミール」
イシュルはロミールをねぎらうと村娘の方を見て小声で言った。
娘たちは木々の間に渡した紐に衣類を干している。
「彼女たちの様子はどう?」
昨晩聞いたところによれば、この偽盗賊団は聖王国の村々から定期的に、まだ子どものような歳の娘たちを攫ってきて、砦の雑用、家事などをやらせているのだという。ちゃんと給金を出しいかがわしい仕事は一切なし、それで半年ほど働いてもらい、ソレールの商人を通してさらってきた村に送り届けているということだった。
「いや、楽しそうですよ。お金がたくさんもらえるみたいで」
「ふーん」
確かに掃除洗濯など家事をやらせ、人攫(ひとさら)いということで偽装にもなるので一石二鳥だが、たとえ口止めしても、いずれは噂になって近隣の村々へ広がるだろう。それが大公国側に伝わると、この砦の盗賊団がどういう存在か、疑われることになる。
ただ、それならそれでこの砦の防備をさらに高め、聖王国側の出城として維持し続ければいいだけのことではある。
何と言っても、砦の南西側には蜥蜴人(リザードマン)の村があるのだ。周辺の地形と相まって、攻めにくいことこの上ない立地である。
……そういえば、蜥蜴人か。
まだイシュルは直に蜥蜴人を見たことがない。
「蜥蜴人の巣でも見てこようかな」
「何かまた小難しい魔法とか使って、刺激しちゃ駄目ですよ」
「そんなことわかってるよ」
「そういえばリフィアさまとニナさまも見に行くって言ってました」
……まぁ、そうだろうな。ラディス王国に蜥蜴人はない。彼女らも見たいと思うだろう。
イシュルはロミールにひと声かけると、砦の南西側の木々の間に入って行った。
下草を踏み分け、幾重にも重なる木枝を避けて進んで行くと、すぐに砦の外側に広がる湿地とよく晴れた広い空が見えてきた。
草木の匂いに、日差しと川の匂い。
それは前世の、子どもの頃に何度か嗅いだことのある匂いだった。遥か遠くに去っていた記憶が今、すぐ目の前にあるように感じた。
叢林が切れると周囲は葦に覆われ、その上を野鳥が何羽も、騒がしい鳴き声をあげて飛び回っていた。
ぱっと見、蜥蜴人の集落は見えない。
「……」
ふと右手、西側に人の気配を感じると少し離れてリフィアとニナの姿が見えた。
「イシュルも見にきたのか?」
ふたりの傍まで歩いていくと、リフィアが幾分声を落として訊いてきた。
「ああ。ところで蜥蜴人の巣って、どこにあるの?」
「そういえば、わかりづらいですよね。……あそこです。葦原の向こう側にちらちら見えます」
ニナが指差し、丁寧に教えてくれた。
蜥蜴人の集落は、葦を束ね重ねた、テントのような巣が寄り集まったものだった。視界を左右いっぱいに、葦原の間に枯れた灰色のそれらしいものが見える。
蜥蜴人は基本的には夜行性で、この時間帯はみな寝ているのか、はっきりと感知できない。
「おい、見ろ、あそこにいる」
リフィアが横から顔を寄せてきて、声を落として言ってきた。
「おっ」
彼女の指差す先に、直立したコモド大蜥蜴のような黒いシルエットが見える。やはり人間より大きい。
蜥蜴人は知能は小悪鬼(コボルト)と同じ程度で、群れをつくり集団で生活し、社会性のレベルもよく似ている。ただし膂力ははるかに上で、一対一の近接戦闘では人間に勝ち目はない。
武神の魔法具を使うとか、槍剣術に優れた者でないとまともに戦える相手ではなかった。だが小悪鬼と違い火を使わず、武器も棍棒や石くらいしか使わないのは、人間側にとっては防ぎやすい相手だった。
「面白い……」
イシュルは誰にも聞こえない小声で呟いた。
前の世界でいえば爬虫類が直立し、首をキョロキョロ回しながら歩く姿は、なかなかに不条理に見えた。
夜もだいぶ更けてから、ルフレイドは川船を一艘用意し、水塞を出発した。
ソレールに入城するのはイシュルとリフィア、ニナ、それにミラとシャルカで、ロミールたちは砦に待機することになった。
ルフレイドはその夜は海賊の格好ではなく、くたびれた上着にくすんだ緋色のスカーフ、ブーツという若い商店主のような服装をしていた。
「ディレーブ川を少し下ったところで、薄明時を狙ってもっと大きい商船に乗り込む。ソレールには昼過ぎに着くから、その時に船荷の木箱に一人づつ隠れて上陸、城の中に入るという寸法だ」
まさかルフレイド本人が考えたのか、当人自ら説明があった。
「ああ、まぁ、なんというか、毎日暇でな。こういうちょっとした冒険は、いい息抜きになるんだ」
イシュルたちの間に流れる微妙な空気をさすがに察したか、ルフレイドは少し恥ずかしそうに弁明した。
それから予定どおり明け方に、ディレーブ川の東寄りで停泊する一本マストのスループに移乗、抜錨して南下を続け、昼過ぎにソレールに到着した。
イシュルは船荷に隠れる前に、帆柱の傍でリフィアたちとともにやや低めの城壁で四方を囲まれた城塞都市、ソレールの街を見つめた。平坦な城壁は船上からは城塔も、街中の建物も見えず、唯一川辺の方に城館らしき影が見えるだけだった。
「ふーむ、あれがソレールか、なかなか立派な城壁だ」
リフィアはさすが武人といったところか、距離があってもソレールの城壁の高さがわかるらしく、そんなことを言った。
「ふふ。久しぶりですわ」
「懐かしいな」
ミラと、珍しくシャルカも明るい声で言った。
「……」
だがその横で、ニナは少し不安そうな顔をしていた。
「むっ」
イシュルはそんなニナの顔を漫然と見やった時、誰かが心の底を、扉を叩くように知らせてくるのを感じた。
……これは……。
そう、この感じはレニの護衛につけた風の精霊、ヨリクのものだ。
あいつが近くにいる……。
ヨリクは誰にも、高位の精霊にも魔法使いにも気づかれないよう、そっと接触してきたのだ。
あの黒尖晶も、レニたちも近くにいるのだ。もう、街の中に入っているかもしれない。
「ふふ」
……ちょうど良い。いいタイミングじゃないか。
イシュルは心のうちに熱く暴力的な衝動、闘争心が湧き上がってくるのを感じた。
思わず小さく、笑いが出た。
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