隘路



 血を吐くように呪文を唱えた。

 だからだろうか。目の前の精霊はほとんど実体化して、その異形を現した。

 硬質の、鎧のような皮膚。鋭角の、猛禽類の頭部。

 精霊らしい、煌めき透き通るような美しさは微塵もない。

 無機質な眸がじっと、こちら見ている。

 火龍のような翼に、尖った足の三本の爪。

 重く、硬そうな、だが明らかに風の精霊なのだ。

 ……オ呼ビカ。

 それは人の声ではない。

 瞬時に、心のうちに冬の荒野の夕日が、そんな風景が広がった。

 荒んだ、冷えた風が吹きつけてくる。

 目の前の精霊の心象が、押し寄せてくる……。

 いや、これはきっと、遠い昔の記憶が呼び起こされたのだ。

 ……御方(オンカタ)。

 ……おんかた?

 鎧の鳥人は微動だにしない。

 はじめて“剣(つるぎ)”以外の名で呼ばれたような気がする。

 荒野の映像が消えて、夜闇が戻ってきた。

「……強そうだ」

 口角が歪み、自分が笑っているのがわかる。

 一つ目の猫の精霊、ルカトスを見たからだろうか。俺の呼んだ精霊も、人間の形をしていなかった。

「ふふ」

 笑いが声に出た。

 ……いいじゃないか。

 イシュルは満足そうに頷いた。 

 ……俺ニ何ヲ望ム。

 鳥人の無機質な声が脳裏に響く。

 これは使えそうな精霊だ。

「まずは名を聞こうか」

 イシュルは白い歯を剥き出しにして、今度は唇まで歪めて笑みを浮かべた。



 デルベールの市街で起こった火災は大方鎮火し、今は暗く沈んだ街影に、火事の煙が霧のように薄くたなびいている。

 切迫した人々の叫声もまばらになり、郊外の草原に夜更けの静寂が戻ってきた。

 どこか遠くで、虫の鳴く音がする。

 異形の精霊は「ヨリク」と名乗った。

 かなり強そうな精霊なのはイシュルでもわかる。前例からすると、強い精霊は長く発音しにくい名前であることが多い。

 今回召喚した精霊はその姿形といい、登場の仕方、異様な魔力の発散、名前まですべてが異例づくめと言えた。

 イシュルはその、目の前に浮かぶ精霊の名をもう一度確認すると、さっそく状況を説明しはじめた。

「敵は精霊神の、それも複数の魔法具を持つ猟兵だ。気の触れた狂人でなかなかの遣い手だ」

 イシュルは声を低くし、ゆっくりと念押しするように話した。

「だが忘れるな。最も優先しなければならないのはレニの安全だ。敵を殺(や)るのは二の次、三の次。彼女の契約精霊、ルカトスがちょっかいを出してきてもやり過ごせ。相手にするな」

 イシュルはヨリクにレニたちを追跡し、正体不明の黒尖晶の反撃から彼女を守護することを最優先事項とし、そのほかにも細々と指示を出した。

「状況によりもし可能なら、俺の元に帰って報告しろ。敵が捕まらず、ディレーブ川沿岸まで逃げ続けるようなら、大事になるかもしれない。その時は何とかして俺に報告してくれ。やばい時、緊急時はその場で大声で叫べ。吠えろ」

 ディレーブ川を渡河し、アルサール大公国に逃げ込まれると面倒なことになる。それはレニも、支援の白尖晶も当然、よくわかっている筈だ。その時の戦闘はおそらく、最も激しいものになるだろう……。

 イシュルは顎を引きやや上目にヨリクを見つめた。口端が引き上げられ、薄っすらと笑みが浮かんでいる。

「どんなに距離が離れていても、俺の耳まで届く筈だ。すぐ、飛んで行く」

 レニと黒尖晶の追跡劇。その様子をかなりの距離から俺は感知していた。それが夢に現れていた。四つの魔法具と一体化したことが、まさしく神々のような別次元の力をこの身にもたらしているのだ。──つかみどころのない、はっきりと認識できないものではあるが。

「……」

 ヨリクは小さく、無言で頷く。

「俺は、彼女たちに力を貸してはいけないことになっている。表立って助けることはできないんだ。敵はもちろん、レニとルカトスにもぎりぎりまで気づかれないようにしろ。手助けして誰何されるようなことになっても、無視して何も話すな」

 ……ワカッタ。

 鳥人の、水色の宝石のような眸が細められた。

「うむ」

 イシュルは何度目か、満足そうに頷いた。

 自分の召喚した精霊とは、互いに心の、意識の表層を感じ取ることができる場合がある。相性の良い精霊だと、口に出して会話しなくとも、相手の考えていることの一端を知ることができる。

 ……こいつは頭も悪くない。十分な観察眼や推理力を持ち、慎重でかつ、勇気も兼ね備えている。

 とびきり優秀な精霊なのだ。

「頼んだぞ。いざとなったら、おまえの命を差し出してもレニを守るのだ」

 実際には精霊は死ぬことはない。一定期間、この人の世に居続けることができなくなるだけだ。

 とはいえ、ここまで厳しく命令したことは今までなかった筈だ。

 ……オマカセヲ。

 風の大精霊ヨリクは、何の動揺も逡巡も見せず簡潔に答えると実体を失い、徐々に透明になっていった。最後はわずかな魔力も残さず、暗闇に消えた。

「ふふ」

 イシュルは薄く笑い、ふと風を感じて西の空を見上げた。

 遠く高い空を轟音が鳴り、少し遅れて頭上を突風が吹き抜けた。

 ヨリクが、恐るべき速度で南西に飛んでいくのがわかった。



 雲は多いが空は明るく、遠くまで見渡せる。

 イシュルは窓際に立って、眼下に広がるデルベールの街を見渡した。

 北に伸びる市街を、黒ずんだ火災の跡が東西に横断し、切り裂いている。

 だが目を凝らすと、焼け跡には早くも木材で足場が組まれ、多くの職人がせわしなく動き回っているのが見えた。もうすでに街の再建がはじまっていた。

 被災した街の住民に多くの資金や資材が、領主であるディエラード家から供されていた。城主代理のサンシーラは、異様とも思える早さで自ら直接、被災した住民を慰撫し炊き出しを行い、街の再建を指揮した。

 本来、領主はこの程度のことで領民に対し、ここまで厚く援助することはない。しかも被害の原因は聖王家の影働きが起こした荒事であり、ディエラード家に直接の責任はない。聖王家から領主や領民に対し、何かひと言くらいあっても良いくらいである。

 だが領主代理のサンシーラは、王家の使者を待って無為に時を費やすことをしなかった。彼女が迅速に対応したのはもちろん理由があった。それは家屋の倒壊や火災が、“魔法”によるものだったからだ。

 住民を盾にデルベールの街に逃げ込んだ黒尖晶の逃亡者と、レニの精霊、ルカトスの容赦ない攻撃により、家屋の被害だけでなく数名の死傷者もでたが、問題はその被害が強力な魔法によるものだと、誰の目から見ても明らかなことだった。

 魔法に対しまともな知識を持たない一般の領民にとって、家屋が吹き飛ぶような攻撃魔法を受けたことは、まさしく驚天動地の出来事であり、なぜデルベールがそんな災いを受けたか、住民の間で無用な憶測を呼ぶことになるのは確かだった。

 やがてそれは大きな不安となって街全体に広がり、あっという間に公爵領全域に、その外へと拡大していくことなるだろう。サンシーラは何よりそのことを怖れたのだった。

 聖都で王権をめぐって争乱が起こり、前王によって古代の魔物が召喚され、風神が降臨した一方、大聖堂が丸ごと消えてしまった。国内では前王に与(くみ)した貴族や商人、神官らが次々と失脚している。

 聖王国はまだ先の政変から安寧を取り戻しておらず、この時点で国内にさらに動揺が広まるようなことは、絶対に避けねばならなかった。

 サンシーラはそこで被災住民を援助、慰撫し不穏な噂の拡散を防ごうとしたのだった。もちろん、そのことには折良く帰郷していたミラも協力した。

 彼女もまた、街の住民に直接声をかけて元気づけた。ミラは集まった人々の前に出て、城に滞在していた高名な魔法使いの力を借りて、街を襲った悪者を懲らしめ追い払ったと、話を少し膨らませて一席ぶった。

 公爵家のお姫さまが一般の群衆を前に演説するなど、それこそ戦(いくさ)の時くらいしかあり得ないことだったが、ちょうど公爵領にも赤帝龍が討ち取られた噂が広まりはじめていたので、その赤帝龍を斃した同一人物が悪者を追い払ったと時宜にかなった説明を、イシュルの偉功を心を込めて話して聞かせたのだった。

 ミラの演説は効果覿面で民心の動揺を抑え、公爵領に不穏な噂が広まるのをうまく防ぐことができた。

 公爵家も街の住民もこれでひと安心、という形になったが、イシュルは先日のあの夜から、一瞬たりとも心の安らぐことがなかった。

 街を横切る黒く焼けた傷跡は、自身の焦燥そのものに見えた。

「イシュルさま、もう少しお待ちくださいませ」

 肩越しに、ミラの柔らかい声が聞こえた。

「……」

 イシュルは窓から目を離し、固い表情のまま彼女に顔を向けた。

「さっ、どうぞお座りになって。お茶を入れますから」

 ミラがいつもよりやや柔らかい表情をつくって言った。

「そろそろ聖都から報告が届く頃合いです。もうしばらくの辛抱ですわ」

「ああ」

 イシュルは低い声で頷いた。ミラの座る長椅子の、向かいの椅子に座る。前かがみになって、両手をきつく握りしめた。

 ミラは事件のあったその夜のうちに、情報収集のため聖都のディエラード邸へ早馬を出していた。彼女は、その使いの者が新たな情報を持ってそろそろ帰還する頃だと、イシュルを宥(なだ)めたのだ。

「先を急ぐなら、ソレールの街に着いたら城主のルフレイド殿下に面会するか、しないか、今のうちに決めておいた方がいいんじゃないか。細かいことは現地に着いてから決めればいいだろうが、ソレール公と会う会わないは重要だぞ? その辺はおまえの考えを聞いておかないと」

 ミラの後ろの椅子に座り、茶を飲みながらイシュルを目で追っていたリフィアが、待ちかねたように話しかけた。

「……っ」

 イシュルは、「レニを助けるのが先じゃないか!」と叫びそうになるのをぐっと堪えた。

 リフィアの発言が他人ごとで、薄情に過ぎると思ったのだ。だが、すぐにそういうわけではないと気づいた。

 ……リフィアはレニを助けるのに、ソレール大公となったルフレイドの力を借りたらどうか、と言っているのだ。黒尖晶の逃亡者は、聖都から西に向かって逃げていた。逃亡先は言わずもがな、アルサール大公国だ。裏切り者は同国に亡命しようとしているのだ。

 それなら黒尖晶とレニたちも、ソレールに向かう公算が高くなる。なぜその地が要衝で、城塞が置かれているのか。それは聖都まで多くの湿地帯や、大小の河川を避けて往き来できる街道が通り、当地の地盤が周辺の、ディレーブ川沿岸でも群を抜いて安定しているからである。

 つまりアルサール大公国からすれば、聖都へもっとも侵攻しやすい渡河点、ということになる。

 聖王国は南部全域と、西部のディレーブ川一帯に湿地が多く、周辺は陸路のみで移動することができない。ソレールのみが陸路で聖都と繋がりっており、特に守りを厚くする必要があった。

 それはアルサール側の沿岸も同様で、同国の城が築かれたソレール南西の対岸以外は、聖王国側よりむしろ広い湿地が続いていた。

 水の主神殿跡のある森林地帯の南西、その湿地帯の外縁にロネーの街があった。大公国側の城はロネーの東南、聖王国により近い位置にある。

 黒尖晶はソレールの街中に潜伏し、機を見てその大公国の城塞か、ロネーの街へディレーブ川を渡河し、湿地帯を踏破し入国するかも知れず、たとえソレールが警戒の厳重な城塞都市であるとしても、その可能性を無視することはできなかった。

 警戒が厳重である一方、多くの人々の中に紛れ込み、衣食住に恵まれた街中に潜むのも、相応の利点があるのは明白である。

「それなら……」

「わたくしは、ルフレイドさまにお会いしないのはとてもまずいと思いますわ」

 ミラが珍しく、イシュルを遮るように言ってきた。

「挨拶はおろか、一言もなくルフレイドさまの眼前を横切り、アルサール大公国に入国する──そんなことが露見したら、たとえサロモンさまの許可を得ていようと、後々禍根を残すことになりかねません」

「まぁ、それはそうだろうな」

 リフィアが重々しく頷いてみせた。

 イシュルはやや顔を俯け顎に手をやった。

 ……確かにミラの言うとおり、ルフレイドの面子が潰れるだけでは済まないだろう。向かう先は敵国、アルサール大公国だ。彼に挨拶なしに秘密裏に敵国に入国したとなれば、少なからぬ不審を持たれることになるだろう。聖王国の貴族であるミラはもちろん、第三国のラディス王国の貴族であるリフィアやニナの立場も、かなりまずいことになるだろう。ニナは宮廷魔導師、リフィアは辺境伯当主代理だ。軽い身分ではない。聖王国とラディス王国の外交問題にまで発展するかもしれない。

 ルフレイドはソレール大公である前に、サロモンの弟、王弟である。ルフレイドをなだめることができるのは兄のサロモンだけだ。もし、そのサロモンもこちらの行動を問題視したら、甚だ面倒なことになる。

 ルフレイドに挨拶していけば、逆に様々な援助も期待できるだろう。だが、かわりにこちらの動きが、大公国に筒抜けになる可能性が出てくる。ソレールには、城の内外にさまざまな目がある筈だ。ルフレイドに近寄れば、すぐ彼らに気づかれるだろう。

 そこにレニと黒尖晶の件も絡んでくると、さらに面倒なことになるかもしれない……。

「殿下に会わないわけにはいかないだろう。何とか騒ぎにならないように、極力秘密裏に会えるよう、取り計らってもらうしかないな」

 イシュルはミラに、固い口調で言った。

「もちろんですわ、イシュルさま」

 ミラはイシュルの焦燥を和らげようと、とびきり優しい笑顔で頷いた。

 彼女もイシュルと同様に、レニと浅からぬ親交があった。何もしないで見過ごすことなど有り得ないことだった。

「たぶんソレール大公にも、あの影働きをレニ殿が追っていることは伝わっているだろう。聖都もあの裏切り者がアルサールに逃げるため、ソレールを経由すると踏んでいる筈だ」

 と、リフィア。

「その反逆者がディレーブ川を渡るなら、わたしも少しは役に立てそうです」

 イシュルに入れ替わるようにして窓際に立ち、外を見ていたニナが話に入ってくる。

 皆が集まっている一室は、城館の二階にある談話室(サロン)だ。ところどころレリーフの施された明灰色の壁に薄茶の柱、華麗な文様の絨毯に繊細な細工の椅子やテーブル。大きな窓は北西から南西を向いている。デルベールの街全域を見渡せる位置にある。

「ソレール周辺も湿地ばかりで水が多い。ニナ殿も力を発揮できるだろうが……」

「あの夜、黒尖晶が使った逃走魔法のことですわね」

 リフィアの言に反応したミラは、イシュルの魔法障壁を突破した精霊神の魔法を「逃走魔法」と称した。「逃走」という言葉には、「卑怯者」という侮蔑の意味が込められている。名誉を重んじる貴族らしい表現だ。

 ……だが、相手は頭のいかれた影働きだ。他人の嘲りなど、気にもかけないだろう。 

 皮肉に唇を微かに歪めたイシュルに、ニナが爽やかな笑みを浮かべて言った。

「自信はあります。水辺なら、あの逃走魔法の発動を邪魔できます」

「ん?」

「ふーむ」

「まぁ、ニナさん」

 珍しく、はっきりとした物言いのニナに、イシュル、リフィア、ミラがそれぞれ三者三様の反応を見せた。

 かるく感心を示しただけのイシュルに対し、リフィアとミラは何か思い当たる節があるのか、笑みを浮かべ意味あり気な顔をした。

「ニナ殿もおわかりのようだ」

 リフィアがにっこり、ニナに微笑みかける。ミラも笑顔になった。

「何だ?」

 イシュルだけがわからず、呆然とニナたちを見渡す。

「盾さま、影だ」

 今までイシュルやニナと同様に、西側の窓の傍に立って外を見ていたシャルカが振り向き、話しかけてきた。以前はイシュルのことを「金の魔法具を持つお方」と呼んでいたが、他の金の精霊が盾殿や盾さまと言うのを聞いて、最近は同じように「盾さま」と呼ぶようになった。やはり短くて言いやすい方が良いのだろうが、ならばなぜ最初は「金の魔法具を持つお方」と呼んだのか、そこはよくわからない。イシュルと親しいミラの契約精霊だからか、はっきりしない。

「影……」

「あの精霊神の魔法を発動するには、魔法具に加えて自らの影も必要になる」

「あの魔法は、術者自身の影を自ら踏むことで発動するのだと思います。その動作が己の影に飛び込むことになるのでしょう」

「その瞬間を、やつが己の影を踏む瞬間を、狙うんだ。影の底は、あの魔法具屋の老婆の呪いの闇と一緒だ。影に溶け込む瞬間は無防備で、とても不安定になるに違いない」

 イシュルがひと言呟くと、シャルカ、ミラ、リフィアが被せるように続けて言った。

「ああ、なるほど」

 イシュルはそこで何度か頷き、にやりと笑みを浮かべた。

 ……ところ変われど、か。確か忍術にも、似たような技があったような。

「影が魔法に変わるのを、妨害すればいいわけだ。だが、夜はどうなるんだ?」

 夜間、月齢や天候によっては影ができない場合もある。それは昼間でも同じだ。曇りや雨の日には、はっきりと影が見えない時もある。

「夜は、自らの影につながる闇はすべて扉になりうる、ということじゃないか。本来は夜に使う魔法なんだろう」

「ふむ」

 イシュルは顎に手をやり、視線を宙に漂わせた。

 ……サロモンが使った、人の心を読む魔法と何となく似ているところがある。あれも精霊神の魔法具だった。 

「夜だろうと昼だろうと、水面に落ちた影ならどうとでもなります」

 魔法で水を掻き回せば影が乱れて、とても移動できる状態ではなくなる。

「たとえ夜でも、術者の周囲の影を消してしまうことはできる。火の魔法を使えばな」

「複数の火球を生み出して、四方八方から光を当てるわけか。うまくやれば影が消せるな」

 リフィアも顎に手をやり、イシュルのように視線を漂わせた。

「そうだ。複数の光源があれば、地面に落ちる影を消すことはできる」

 ……完全に消せなかったとしても、目視できないほどの薄さになればあの転移魔法は発動しないだろう。精霊神の魔法具なのだ。いろいろと使い勝手が悪いところがあるだろう。

 そうだ、使い勝手が悪いといえば……。

「わたしはあの魔法が発動する時に、影に向かって金の魔力を撃ち込めば邪魔できるのでは、と考えていましたの」

「わたしもだ。影踏みの魔法というのなら、その影に向かって槍でも打ち込んでしまえば良い、と考えていた」

 イシュルが疑問を口にしようとすると、ミラとリフィアが続けて自らのアイデアを話した。

「そのやり方でも邪魔できそうですね」

 ニナが機嫌よく頷く。

 ……まさしく「忍法何々」ってやつだな。おそらくニナの言うとおり、ミラとリフィアのやり方は通用するだろう。だが……。

「そういえばあの魔法は当然、転移先を指定できるんだよな」

 当たり前のことなので見落としていたが、何といっても精霊神の魔法具なのだ。魔法発動に関し、ほかにもっと、思いもよらない面倒な制限が課せられているのではないか。

「転移先、ですか?」

「思いどおりに移動できるんだよな? という意味だ」

 ニナが人差し指を頬に当て、疑問を口にする。転移、という言葉は、一般にはあまり使われてない。

「……たぶん、影のある所ならどこへでも移動できるんだろうが、移動先を詳細に決めることはできないし、長距離の移動はほぼ間違いなく、無理だろう」

 リフィアが考え考え、言葉を選びながら言った。

「精霊神の魔法具とは、そういうものだ」

「それに一度使うとかなり消耗してしまい、連続使用はできないと思います。何度でも簡単に使えて、しかも長距離移動できるのなら、賊は早々にアルサールに逃げてしまい、追跡さえもできなかったでしょう」

「ふむ」

 イシュルは満足げに頷いた。

 ……だいたい、どんな障壁でも突破できる転移魔法が無条件に、自由に使えるのならそれだけで絶対不敗、神の魔法具と比肩できるような代物になってしまう。

 だが、ぼやぼやしていると黒尖晶が大公国に逃げてしまうのは確かだ。それはレニが追跡に失敗したことを意味し、とても容認できることではない。

 イシュルは一同を見回し、最後にミラの顔を見て言った。

「影踏みの魔法の、使いでの悪さは間違いないだろうけど、それでも油断はできない。聖都からの使いを待たずにソレールへ出発しよう。どこか、途中で落ち合えるように手配してくれるかな?」 




・レニを助けるため、雨季の終わりを待たずにデルベールを出発、ソレールに向かう。

・ディエラード公爵家の影働きを使い、移動中も引き続き聖都やソレールで黒尖晶とレニたちに関する情報収集を進める。

・アルサール大公国に、ディレーブ川を渡河し同国に潜入しようとしていることを、できるだけ知られぬよう配慮する。

・ルフレイドには内密に面会し、レニの追跡とアルサールへの潜入に助力を乞う。ソレールにはあらかじめ使者を立て、当方の希望を伝えておく。


「これが決まったことですか」

 その日の午後、イシュルは寝室を掃除していたロミールを捕まえ、談話室(サロン)でミラたちと決めたことをメモした紙片を見せた。

「ああ、セーリアとノクタにも、それぞれミラとリフィアが同じ説明をしている筈だ」

「わかりました」

 ロミールは小声で頷くと、イシュルに顔を寄せ、さらに声を落として囁くように言った。

「実はイシュルさんに見せたいものが」

「なに?」

「これです」

 そこでロミールは懐から上等の絹の小袋を取り出し、中から指輪をひとつ摘まんで見せてきた。

 特に何の変哲もない、唐草のレリーフの銀の指輪だ。

「おっ」

 だがイシュルは、すぐに何かを感じて驚きの声を上げた。

「魔法具か。疾き風の……」

「ええ。いざという時まで使うなと言われていたのですが、さすがイシュルさん。こんなに早くその日がこようとは」

「なんだよ」

「イシュルさんと一緒にいると本当にいろいろ、冒険できますよね」

「……」

 イシュルはむすっとした顔になって、ロミールを睨みつけた。

「これ、セーリアとノクタにも渡されたのか」

 出所はエバンかマーヤか、とにかくラディス王家から特別に下賜されたということだ。

「はい。ですからこれからは荒事にもしっかり、役立てると思います」

「うん」

 ……今までの三人の功労だけではない。この処置は聖王国への出向を考えてのことだろう。今は両国の関係は小康状態だがこの先はどうなるか、アルサールに渡ってからも何が起こるかわからない。用心に越したことはないのだ。

 イシュルは頷くと笑みを浮かべ、ロミールの肩をたたいた。



 それから数日後の、小雨の降る早朝。

 イシュルたち一行はデルベールを出発し、ソレールに向かった。

「気をつけてね。ミラをお願い」

「わたしもだ。ミラのことをよろしく頼みます」

 出発前にイシュルはサンシーラと彼女の娘婿、クレトにつかまり、ミラのことを頼まれた。

 ミラと公爵家の人々は、この数日間も聖都やソレールに使いを出し、近隣に影働きを放ち何か異変が起きていないか、情報を集めていた。ミラ付きのメイド兼護衛のルシアも、どこかへ出向き姿を消していた。

 残念ながら、レニと黒尖晶の追跡劇があったあの夜から、近隣で類似の騒動は起きていなかった。彼女らの消息は杳(よう)として知れなかった。

 ひとけのない城の北門には、外に数頭の荷馬を率いた小さな隊商が待っていた。女性たちはみな、ミラさえも髪をまとめて外套のフードを深くかぶり、目立たない服装をしていた。イシュルやロミールは護衛役の傭兵、女たちは同行する巡礼者やその下女として隊商に加わった。

 雨の日は街道に人の姿はなく、渡し船を使う者もいない。

 イシュルたちは川や沼を渡し船で、街道を徒歩で移動し、行商人の一行とともに村々を泊まり、聖王国を南西に、ソレイユへ向け隘路を進んだ。

 デルベールを出発し四日目、沼畔の村カルピニに差し掛かったところで、異変に出くわした。

 その日は昼間、雨を避け木陰で長い間休憩をとったため、村に到着するのが予定より遅れ、夜半過ぎになりそうだった。

 日が沈み辺りが夜闇に覆われたころ、イシュルは街道の先、カルピニの方向に火の爆ぜる気配と、多くの人々が叫び、走り回る様子を感じ取った。

 レニの護衛につけた風の精霊、ヨリクからはここ数日、特段の連絡はない。

「俺が様子を見に先行する。みんなはそのまま、徒歩で向かってくれ」

 イシュルは隊列の前に進み出ると、一同を見回し言った。中には、公爵領で商いをする本物の商人もまざっている。

「リフィアは単独で、南側から周りこんで村の西側を押さえてくれるか。少し遅れてもかまわないから、目立たないように魔法の発動は控えめにしてくれ」

 ……精霊は魔法を使えば居所がバレる。魔力を抑えても、十分な戦闘力と機動力を持つリフィアを使って、背後を押さえる。

「わかった。まかせろ」

 リフィアは上機嫌で、力強く答えた。

 そして瞬く間に、道端から闇の中へ姿を消した。

 イシュルは彼女の消えた先を目で追うとおもむろに、道の先をまっすぐ進みはじめた。

 ネリーの腕輪の加速の魔法は使わず、控えめに全身に風のアシストをつけ速度を上げ、途中で街道からそれて、深い葦原の中へ進入した。

 前方に小さく尖った風の魔力の障壁をつくり、目の前に連続して現れる葦を左右にかき分け走り続けた。

 近づくにつれ、村の様子がより細かく感じとれるようになる。村人が戸外に出て逃げ回り、野盗らしき者たちが村長の家か、屋敷の周りを囲んでいるようだ。火事はおきていない。だが賊はみな松明(たいまつ)を持ち、それも時間の問題のようだ。

 集落の外縁で立ち止まり、家の影から村長宅の方を窺う。

 紅い炎が、湿気を含んだ夜闇をねっとり照らしている。粗暴な男たちの叫声が不気味に響く。

 村人の姿は見えないが、家々の中に気配は感じる。

 この状況は、レニと黒尖晶とも関係なさそうだ。

 ……何か、変な感じがするが。

「あれか。片足の? ……海賊か」

 松明に照らされた盗賊の頭目らしき男の影は、一本棒の物々しい義足をつけた片足の男だった。

「陸の、ジョン・シルバーか?」

 イシュルはふふ、と低く笑うと闇夜に飛んだ。もう魔法を隠さない。

 盗賊どもの真ん中に突っ込み、彼らの注意を自分に向ける。結界で固めることはしない。屋内にいる村人を巻き込みたくない。

「!!」

「おっ」

「なにっ」

 風が鳴り、男どもの驚く声が聞こえる。頭目らしき者の前に降り立った。

「おお」

 盗賊のお頭は松明の炎をイシュルにかざして、なぜか感嘆の声を上げた。

「イシュルか! 久しぶりだ」

「へっ?」

 イシュルはその男の顔を見て愕然と、棒立ちになった。

 義足の盗賊、ジョン・シルバーはなんと、王弟にしてソレール大公、ルフレイド・オルストそのひとだった。

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