真夏の夜の

 


 給仕の少女が背後を横切った。

 蝋燭の炎が微かに揺らめく。

 大皿が回され、杯が重なる。カチカチと食器の鳴る音がやまない。

 卓上を盛んに声が行き交い、人々が笑いさざめく。

 と、突然踏み込んできた。

「もう少しおさえてね、ミラ。イシュルさんも」

「あれはさすがに街の者も不審に思うだろう。イシュル君も抑えているんだろうけどね」

 その日の晩餐はサンシーラ夫人とクレト夫妻も同席し、イシュルたちも全員参加、賑やかな宴(うたげ)となった。

 そこで夫人がやんわりと、クレトがはっきりと、イシュルとミラ、リフィアが昼間に郊外でやりあった件を窘(たしな)めてきた。ただ、場はまだ楽しげな空気が残っていて、それほど重苦しくはなっていない。

 ……サンシーラもクレトも魔法使いという感じはしないが、それなりの魔法具を身につけているようだ。城から相当な距離があった筈だが、あの魔力のせめぎ合いをしっかり感知していた。実際は、彼らでも気づくほど大きな力だった、というだけかもしれないが。

 ともかく、いずれにしても彼らに、俺の神の御業まで感じ取ることができたとは思えない。

 俺はリフィアやミラのように、魔法を全力で使っていない。元々、あれはそれほど目立つ種類の魔法ではないのだ。……威力を抑えて発動する限りは。

「すいません、これからは気をつけます」

 イシュルは控えめな笑みを浮かべ、素直に詫びた。

 知らないなら知らないでいい。こちらから話す必要はないだろう。

「まぁ、叔母さまとクレトには気づかれてしまったのね」

 ミラは暢気に、少しとぼけた口調で言った。

「これは……、申しわけない。どうかお許しを」

 リフィアは恐縮した顔で、頭を深く下げて謝った。

 彼女はラディス王国の貴族だ。異国で、しかも賓客として滞在している以上、正当な理由なく魔法を使うのは、著しく礼を欠く危険な行為とみなされる。何の身分もないイシュルとは扱いが違うのだ。

「いいのよ、そんなに気になさらないで。あなたは大聖堂で、マレフィオアと戦った勇者のひとりなのですから」

 サンシーラは「ちょっと気になったから、お話しただけよ」と続けて微笑んだ。

「お心遣い痛みいります」

 リフィアは硬い表情を崩さず、武人らしく簡潔に謝意を述べた。

「まぁ、ほほ」

 ミラが手の甲を口許に当て笑い声を上げた。

「リフィアさん、残念ね。これでイシュルさまをお相手に、一緒に修練を積む計画がご破算になってしまったわ」

「うっ」

 リフィアは唖然とし、続いてばつが悪そうな顔をした。

 ……リフィアとミラはまさかあれを、これからも続けようと考えていたのか。

 もちろん、サンシーラもクレト夫妻も驚いていた。だがイシュルはさらに呆れかえって、大きな溜息を吐いてリフィアとミラを見やった。

 視界の隅に、口許に手を当て笑いを隠す、ニナの慎ましい姿が見えた。



 漆黒に染まった意識野に、もうひとつの自我がぽつんと浮かんでいる。

 周りは暗闇だが決して怖しいものではない。苦しみも悲しみもない。微かな温もりの漂う、ほぼ空虚な闇の広がりだ。

 ここは閉じた世界。夢の狭間の、眠りの底だ。

 なのにあろうことか、その暗幕の向こう、遥か彼方で遠雷のような轟音が聞こえてきた。

 雷か、何かが近づいてくる。

 ……やがてこの帷(とばり)も破かれるのか。

 暗闇に浮かぶもうひとりの自分が脅える。だがそれもすぐ怒りに変わって、一度、二度と身じろぎした。

 より激しくなる轟音。

 ……ふむ、どこかで聴いたような……。

 この夢、前にも見ている。

 もうひとりの自分が呟く。

 明滅する光点。どこか遠くで起こったこと。

 ついこの前のことなのに。ぼんやりした記憶を手繰り寄せる。

 ……そうだ、思い出したぞ。でも、こんな音はしなかった筈……。

 あれはもう、終わった話なのだ。

 確かミラとリフィアがふたりで、魔法の修練をしていたのだ。

 その巨大な力の放射が余韻となって時を超え、自らの夢にこだましたのではなかったか。

 覚醒していく、もうひとりの自我。

 ……いや、まさか違うのか? 彼女たちが何かをしているのは、昼間でも感じていた。

 てっきり、ミラとリフィアのことだと思ったのに。昨日、戦って、力を試してそれで終わったのではなかったか。

 終わってないなら、この轟音は、帷の向こうの閃光は何なのか。

 不審が緊張を生み、覚醒へ導く──。

 だが一瞬早く、その衝撃は自我の暗幕を突き破り、己の意識野に降り注いだ。

 強烈な魔力の砲弾が、連続して着弾し爆発する。

 火花が自我を焦がし、驚愕が巨大なハンマーとなって己を打ちつける。

 これはなんだ? 異様に早く、強い魔法。鋭さ。

 ……ヨーランシェ。

 以前ともに戦った、弓使いの風の大精霊を思い出す。

 まるであいつの、風のや弓矢の連射のようだ。こんなの、彼以外に見たことがない……。

 夢と現実。ふたつの轟音が重なる。

「!!」

 イシュルは目覚めた。

 天井に施されたレリーフの飾りが、微かな星明りに浮かんで見える。

 ……何か、異変が起きたのだ。危険なものが近づいてきている。

 イシュルは風の魔力を使った。

 ベッドから横になった姿勢のまま全身を浮かせ、からだを起こし背筋を伸ばした。その場を動かず手を使わず、魔力で隣の部屋のチェストからマントを取り出し羽織った。

 目を向けただけで窓が開き、宙に浮いたまま、まるで精霊のように外へ飛び出した。

 わずかに湿った夜風が頬に当たり、すり抜けてマントの裾をはためかせる。眼下を塔屋や城壁などデルベールの城郭が後方へ流れていく。

 ……思ったよりも風が冷めたい。

 イシュルは眸をすぼめて前方を凝視した。

 複雑な明暗のコントラストを織り成す街並みが、北へ街道沿いに伸びている。高度はおよそ五〇〇長歩(スカル、約三〇〇m)ほど。それほど遠くまで見渡せるわけではない。視界に入りさえすれば、夜中であろうと“見る”ことはできるのだが。

 イシュルは高度を上げながら、ふと東の方を見やった。

 暗闇に沈む地平線に閃光が走り、ひと息おいて轟音がやってくる。

「あれか」

 あの夢は、リフィアとミラが街から離れた野原で修練していた、その強力な魔力のぶつかりが時空を超え、自らの心象にこだましているのかと考えていた。

 四つの魔法具、特に風と並んで感知能力を級数的に引き上げる土の魔法具を得てから、時間や空間に関係なく、天候気象や魔力、魔物や人の殺気のようなものを感知できるようになった。常に、というわけではないが、野生の動物や魔物、精霊が持つ、あの不思議な直感を得ることができるようになったのだ。

 リフィアとミラの魔力の反響ではなかった。この鋭い魔力の光芒は、もっと遠くで起きていたのではないか。

 ……それが近づいてきたのだ。

 どういうわけかこのデルベールへ。

「ただの偶然か」

 考え過ぎか。

 イシュルは頭を振るとからだを捻り、東の地平に煌めく魔力光へ向かい、速度を上げた。

「なにっ」

 と、瞬く間にその魔力が流星のよう尾を引き接近、街はずれの野原に落下し爆発した。

 眼(まなこ)に閃光が焼きつき、轟音とともに爆風が叩きつけてくる。

 ……早い。間違いなく風の魔法だ。

「これは強いぞ。誰だ?」

 ヨーランシェの射撃に引けを取らない早さ、威力だ。

 こんな実力者、いたか?

「いや、人じゃない。精霊か」

 大精霊だ。

 イシュルはさらに速度を上げた。だがまだ、風の矢を放った相手の位置がつかめない。

「まちがいない、精霊だ」

 こんな芸当、人間にはできない。

 風が鳴る。マントが激しくはためく。

 ……どうする? 力づくで抑え込むか。

 風の魔力を広域に、無理やり展開して風獄陣のように相手を封じ込める。どこにいるか、絞り込めないならそれでいくしかない。

「むっ」

 まずい!

 風の矢は矢継ぎ早に、まるで誘導弾のような閃光を放ち次々と地上に激突、連続して爆発した。強烈な魔力光の煌めきが、デルベールの街並みを横に貫いた。

 まるで空爆を受けているようだ。魔力が輝くと同時に、炎も吹き上がり家々が燃えはじめる。

 風の砲弾は横一文字に、街を引き裂いた。

 ……しまった。

 一瞬の逡巡が、デルベールの街に危害を及ぼす結果になった。

 強力な風の魔法を使う相手は街を、人間を目標に攻撃しているわけではなさそうだが、少なくとも被害が出るのを気にしている様子はない。

「このっ」

 街の火災も、正体不明の存在も、同時に押さえ込む。

 イシュルは自らの視界の及ぶ全域に風の魔力を降ろした、いや降ろそうとした。

「あ、ああ」

 呆然と、呻き声が漏れる。

 その時突然、市街の西側の丘からあの光が、オレンジ色の光線が天に向かって立ち上ったのだ。

 かつて何度となく見た仇敵の、精霊神の魔法具。

 黒尖晶の、隠れ身の魔法の光だった。


 

 心のうちを、熱いものが込み上げてくる。

 怒り、闘志。そして暴力への衝動だ。

 夏なのに、低い高度なのに、思いのほか涼しい。乾いている。

 下方から、街の住民の騒ぐ声が聞こえだした。街を突っ切た風の矢は、明らかのその先の暗闇を揺れ動く、暖色の光を追っている。

 天上に上る光線は明滅を繰り返し、その度にランダムに位置を変え、西の方へ逃れていく。そこへ強力な風魔法が炸裂し、大地を抉り草木を跳ね飛ばす。だが黒尖晶の生き残りか、隠れ身の魔法を使う者の動きに一歩遅れ、仕留めることができない。

 風の矢を放った者は相手の動きを把握しているようだ。なのに命中させることができない。相手に追いつくこともできる筈なのに、距離を詰めようとしない。

 ……何かを、警戒しているのか。あの隠れ身のやつをか?

 あるいはわざとどこかへ追い込み、誘導しているのだろうか。

 イシュルは魔力の発動を一旦止め、追跡者と逃走者の動きを観察し、その意図を見極めようとした。

 使う時一気にやる。一瞬で捕らえ、終わらせる。街の火災はしばらくの間、放置するしかない。

 もう、こちらの存在は知られているかもしれないが、中途半端に魔法を使うのはなしだ。

「ん?」

 そこへ折りよくニナの精霊、エルリーナが姿を現した。

 街の火災の炎にぼんやり照らされた夜空を背景に、清廉な水の魔力が輝き、その美しい姿を浮き上がらせる。

「……」

 エルリーナは微笑を浮かべたまま、しゃべらない。彼女はニナ以外の人間とは話をしない。だが、何となく話したいことはわかった。

「きみはニナと合流して、街の火事を消してくれないか。いいかな?」

 イシュルは下方の、炎を吹きあげる家々を見て言った。

 ……ちょうど良い。俺はあいつらを捕らえるのに集中させてもらおう。

 ディエラード家の領民を助けないわけにはいかないし、ミラやリフィアと比べ戦闘力の劣るニナを前に出したくない。風の魔法を使うやつに黒尖晶の生き残りか、あれは彼女にとって手強い相手だ。

 小さく頷いたエルリーナが姿を消すと、イシュルは点滅を繰り返し東方へ逃げていくオレンジ色の光を追った。無作為に隠れ身の魔法を発動し、止め、気配を殺して移動するやり方は、手練れの影働きの典型的な動きだ。

 一方、強烈な風の矢を放った存在は、相変わらず気配がつかめずどこにいるのかはっきりしない。今は風の矢を放つのをやめている。

 ……俺の存在に気づいたか。先ほどエルリーナが姿を現し、会話している。

 ミラとリフィアの参陣は少し遅れる筈だ。あの風の矢の連射がはじまるまで誰も気づかず、それまでずっと平穏な日が続いていた。しかもディエラード家の居城に滞在していた。みな、寝間着を着てぐっすり眠っていたに違いない。シャルカはミラと行動を共にするから、精霊らしい機敏な動きは期待できない。

 手駒が使えず、巧みに逃げる影働きらしき人物。それを追う、おそらくは風の大精霊。

 ……影働きの方はもう、デルベールの市街からだいぶ離れている。やつを中心に、地中も含め周囲を魔力で固め、まずは動きを止めてしまおう。

 それからじっくり相手の正体を確かめる。問題ないなら、影働きは殺してしまおう……。

 イシュルは前方に進みながら少しずつ高度を上げ、おもむろに右手を上げた。

 月は雲間に隠れ、広い夜空に星々の光点がまばらに見える。鋭敏になった火の知覚は、背後に街の燃える炎の熱をしっかりととらえている。

 まだエルリーナは、ニナと合流できていないようだ。

 世界を隔てる、その先の場所から風や土の魔力掴んで一気に降ろす。神の御業の大結界の、一歩手前のレベルのものだ。

「おおいっ、やめろ!」

 その瞬間、頭上の空間が乱れ、突然風が吹き出し青白い魔力が煌めいた。

 イシュルの前に何か大きなものが、滑るように落ちてきた。

「!!」

 強風が足下を抜けていく。

 ……半透明の白い姿、大な精霊だ。

 イシュルは呆然と、目に前に現れた異形を見上げた。

 その口角が皮肉に歪んでいく。

「これはびっくりだ、はじめて見た。おまえがあの魔法を撃った、風の精霊なのか」

 イシュルは笑みを浮かべ、大げさに驚いてみせた。

 ……確かにこいつは見た目以上に強そうだ。俺でもわかる。

 その巨体から風の魔力が四方へ吹き出し、ぎらぎらと輝いている。

「おまえは手を出すな。あれは俺様の獲物よ」

「ほう?」

 イシュルは口の端をさらに引き上げると、僅かに眸を細めて化け物を睨めつけた。

「シャーッ」

 化け物は恐怖に毛を逆立て、身を低くして威嚇してきた。

「ふふ、見たまんまだな」

 イシュルはその姿を見て声に出して笑った。

 大精霊クラスの化け物はめずらしい、巨大な猫の姿をしていた。大きくとも獅子でも豹でもない。猫そのものだった。

 一つ目だったが。

「う、うう。おまえええ」

 化け猫は悔しそうに低い唸り声を上げた。

 その大きな眸に、余裕しゃくしゃくのイシュルの姿が映りこむ。

 この男はイヴェダの、風の魔法具を持っているのだ。巨大な化け猫だろうと、脅えてしまうのも仕方がないことだった。

「それよりいいのか? あれ、逃げてしまうぞ」

 イシュルは顎でしゃくって、東の野原に点滅するオレンジ色の光、夜空に瞬く光線を指し示した。

「お、おまえの知ったことじゃない」

 弱々しくとも、ざらざらした獣の声は変わらない。

 このひとつ目の化け猫は、ヨーランシェに劣らない魔法を使う大精霊なのだ。

「おまえの飼い主は誰だ? いるんだろう? 近くに」

 ……黒尖晶の残党らしき者を、はぐれの精霊が追いかけるなんてありえない。

 聖王家の魔道師だろうか。こいつを召還したか、契約している者がいる筈だ。

 イシュルは化け猫越しに、遠ざかっていくオレンジ色の光点を見やった。

 こいつを使役している者はどこにいる。

 俺に気取られないとは、どんなやつなのか。あるいは相当、離れたところにいるのか……。

「仕方がない。あの、精霊神の魔法を使うやつを逃がすわけにはいかない。勝手にやらせてもらうぞ」

 イシュルは片手を上げ前方にかざした。

「ぐっ!」

 化け猫がより激しく脅え、全身を硬直させる。

 その背後の夜闇に、鈍く暗赤色に輝く魔力の壁が現われた。遠い地平を、土の魔力の障壁が南北に伸びていく。不思議なことに、深い赤色の壁は上へ伸びるにしたがい白くなって色を失い、そこから徐々に青く色づき紺碧となって、最後は夜空に消えていた。

 イシュルは東方向、十里長(スカール、六~七km)ほど先に、土と風の魔力を繋ぎ合わせた障壁を張ったのだった。

 魔力の壁は万里の長城のように、南北へ延々と伸張されていた。長く鋭く伸びた魔力の輝きが地平線を薄っすらと照らし出していた。

「むぅ」

 化け猫は耳だけを動かし後方の様子を確かめると何度目かの唸り声を発した。

「これではあの影働きは逃げられない」

 イシュルは自らの顎先を掴んで薄く笑った。

 精霊神の隠れ身の魔法を使う者は、その気配を見せたり消したりしながら、それでもイシュルの張った障壁に向かっている。

 ……わかるぞ。あいつの気配が消える時は魔法を切り、忍者のように木々の枝の上にでも登っているのだろう。

 おまえには絶対、俺の張った壁は通り抜けられない。

 そんなことのできる者など、この世にはいまい。

「さて、次はおまえだ。契約者はどこにいる? それとも呼ばれたか、誰がに召還しされたんだ?」

 イシュルはゆっくりと胸の前で腕を組んだ。

「そんなこと言うかよ」

 弱々しい声だが、屈服したわけではない。

 化け猫の眸は夜なのに、鋭利な刃物のように細められている。

「じゃあ仕方ないな。おまえも拘束する」

 ……やはりこいつと同じ系統の、風の魔力でいいだろう。火や金の魔力で無理やり固めると、死んで(消滅して)しまうかもしれない。

 イシュルは腕組みを解き、再び右手を上げた。

 ──その時。

 切れ切れながらも、その位置をしっかり把握していた影働きの気配が、奇妙な余韻を残し不意に消失した。不可解な、今までとは違う気配の消え方だった。

「ん?」

 イシュルは視線を化け猫からはずし、自らの魔力の壁の輝く地平を見つめた。

 影働きの気配が現われない。消えたままだ。オレンジ色の光線も、隠れ身の魔力も感じない。

「……なに?」

 やつが消えたのは障壁の手前、すぐ傍だ。木の上に登り、息を殺して不動でいるのだろうか。

 イシュルは呆然と前方を見やった。目の前の化け猫を気にしている場合ではなかった。

「それなら」

 魔力の波を吹きつけ、アクティブで捜索すればよい。

 風に加え地の魔力も使って、上下から当ててやる。

 イシュルは魔力の障壁を消し、街の東側一帯に風と土の微細な魔力線を無数に出現させた。一瞬、魔力の煌めきが雨脚のように夜空を覆った。

「い、……ない?」

 人間らしき存在を感じない。本当に消えたのか。

 まさか、あの壁を通り抜けたというのか。そんな馬鹿な。

 イシュルは捜索の魔力を消す寸前、その西側の端の方、デルベールの市街のはずれに人の気配を感じた。

 火事で逃げ出した街の住民かと思ったが、その気配はふたつに別れ、片方は空に飛び上がり、もう片方は加速の魔法を発動して動きだした。

 両者とも、イシュルの方へ向かってくる。

 風の魔法使いと猟兵、影働きか……。

 魔法使いの方は杖に乗り、かなりの速度であっという間に近づいてくる。

 加速の魔法により早いくらいだ。

「ルカトス!」

 魔法使いの柔らかい声が響いてくる。女の声だ。

 この声は……。

「きみはあれを追いかけて」

 少女の指示が化け猫に飛ぶ。彼女が契約者なのだ。

「レニ!」

 イシュルは驚愕に大きな声で叫んだ。

「……」

 だが。

 レニは化け猫の手前で止まり、イシュルを無視して再び己の精霊に話しかけた。

「言いつけは守ってね。むやみと風矢を討たないで、気をつけて」

「ちっ」

 化け猫、ルカトスは不満を隠そうともせず唸るように言うと、素早くその巨体を消した。

 イシュルには、声をかけるどころか一瞥もくれなかった。

「レニ……」

 イシュルは声を落とし、呟くように言った。離れて、暗闇に浮かぶ風の魔女をじっと見つめた。

 きみはどうしてここに……。

「なぜなんだ」

 あの黒尖晶の生き残りか、なぜきみがやつを追いかけているのか。

「あの生意気な風の精霊、きみの契約精霊なんだ?」

 イシュルは焦燥を押し殺し、動揺する心を何とか立て直して問いかけた。

「うん」

 レニが少し近づき、元気のない小声で頷いた。

「はじめて見たよ」

 作り笑いを浮かべているのがわかる。

「うん。あいつ、あれでもイシュルのこと怖がっていたから」

 それで、俺がいるときは姿を見せなかった、隠れていたと、そういうことか。

「あの影働きは黒尖晶の残党か。どうしてきみが追いかけてる?」

 イシュルは表情を硬くし、真剣な顔になって言った。

「それは降りてから話そう?」

 レニは小さな笑みを見せ、下を指差し言った。

 イシュルが見下ろすと牧場のような草地に、先ほどの加速の魔法を使った者が立っているのが見えた。

 ぼんやりと、白っぽい衣服が浮かび上がって見えた。

 街の方に目を向けると、エルリーナとニナ、それにディエラードの騎士団兵が消火に加わったか、火の勢いもだいぶおさまり、間もなく鎮火できそうな状況になっていた。

 今まで気づかなかった人々の叫声が、さまざまな物の燃える異臭が、微かに漂ってきた。

 そしてミラとシャルカが空中を、リフィアが時折大きな跳躍をしながら、城の方から近づいてくるのが見えた。



「……あの後、国王に見つかっちゃったんだ」

 レニはらしくない、力ない笑みを浮かべて言った。

「野営地で陛下に謁見してさ。それから──」 

 彼女の説明を聞くとイシュルは肩を落として嘆息した。ミラも困惑をあらわにし、互いに名乗り、紹介された初見のリフィアも難しい顔をした。

 レニの話によれば、イシュルが赤帝龍を滅ぼした翌日、イシュルに会いに行った帰りに、サロモン自らの直率する聖王国の軍勢とかち合い、見つからないよう避けてやり過ごそうとしたが、凄腕の風の宮廷魔道師に捕捉され、連行されるようにしてサロモンの御前に引き出され、拝謁することになったという。

 レニと空中戦を演じた魔道師は二人組みで、何とイシュルからその手ほどきを受けたベリンとセリオだった。

 サロモンはその戦闘を見てレニを気に入り、いや、もうオルトランド男爵から急報を受けていたか、イシュルのいる方向から飛んできたところを捕らえ、事情を聞くと彼女を宮廷魔導師に加えるべく、ある取り引きを持ちかけてきたのだった。

「あの、話の腰を折るようで申しわけないが、プジェール殿は聖王家の宮廷魔導師ではなかったということかな?」

 リフィアが質問を挟んできた。

「うん。……レニでいいよ」

 大陸全土に威名を轟かせた風の大魔導師、ベントゥラ・アレハンドロの孫娘であるレニだが、母方のプジェール家出身ということもあって、今まで世間から大きな注目を浴びることがなかった。

 栄達に興味がなく、堅苦しい宮仕えを嫌う本人の性格もあり、宮廷魔導師になることはぜず、領地の安定のため魔獣退治に精を出していたのだ。

 レニは親しみやすい笑顔でリフィアに答えると、今まで野に隠れるようにしてきた理由を話した。

「その、レニさんの追いかけていた黒尖晶の生き残りというのは……」

「あの裏切り者を捕らえるか、始末して隠れ身の仮面を奪うのが我らの目的です」

 そこでレニの背後に控えていた、白いローブに白い覆面の女が割り込んできた。全身白装束は白尖晶の代名詞だ。

 その女はレニを援護し、また監視するために、サロモンから付けられた者のひとりだった。加速の魔法を使ってイシュルに近づいてきた者だった。

「サロモンさまは、わたしに取引を持ちかけてきたの。あの黒尖晶は、隠れ身の仮面を私して同輩を殺し、騒動を起こして逃亡したんだけど、かなりの使い手で追っ手をみんな返り討ちにしちゃったんだって」

 白尖晶の女が補足した説明では、精霊神の魔法具である隠れ身の仮面を多用すると、時折気が触れる者が現れるのだという。

「それで追っ手の人選に困っていたところで、わたしを見つけて」

 レニは自嘲の混じった苦笑を浮かべた。

「その逃亡者を捕らえるか始末したら、宮廷魔道師や騎士団をパレデスに派遣し、たくさんの傭兵を雇うお金も出してくれるって」

「それはどうかな」

 今までむっつりと無言でいたイシュルが、厳しい声音で言った。

「サロモンがそんな甘い取引をするものか」

「王宮では陛下をはじめ、東方の大山塊へ進出する気運が高まっています」

 レニに代わって白尖晶の女が答えた。

「大山塊にはカハールやクシムのような金銀の鉱脈が豊富と言われています。イシュルさまが赤帝龍を滅ぼし、真に怖れる存在はいなくなりました。いよいよ東方山地に進出する機会が訪れたのです」

 白い女はなかなか雄弁だった。

「……とにかく」

 イシュルは相変わらず不機嫌な口調で言った。

「あの黒尖晶は危険だ。俺がレニの代わりに倒す」

 ……あの逃亡者は俺の障壁をくぐり抜けたのだ。そんなやつがいるなんて、信じられない。

「それは駄目だよ。国王さまとの約束を破ることになる」

 そもそも、レニのこの苦難は俺も深く関わっているのだ。彼女は赤帝龍との戦闘で、俺を心配して見に来てくれたのだ。しかも、彼女を捕らえたのはあのベリンとセリオというではないか。

 あいつらに空の戦い方を教えたのは俺だ。レニを苦境に追い込んだのは俺ではないか。

 イシュルは拳を硬く握って歯噛みした。

 心に深い傷跡を残した、全てを失った故郷の惨劇を思い出さずにいられなかった。

 ……俺が風の魔法具を得てしまったために、俺がベルシュ村を出てしまったために、家族もメリリヤも、皆死んでしまったのだ……。

 イヴェダが介在したとはいえ、神の御業を教えてくれたレニの恩に、今こそ報いなければならない。

「イシュルさま。陛下との約定を反故にすることはできませんわ。これはむしろ、レニさんにとって故郷の窮状を救う絶好機だと考えるべきです」

 ミラが後ろからイシュルの袖を引き、諌めた。

「ふむ。そのイシュルが逃したという者、面白そうだ。どうかな、プジェール殿。わたしが助太刀いたそうか」

 リフィアが何か考えがあるのか、気前よく助力を申し出た。

「ありがとう。でも、これはわたしがやらないといけないことだから」

 レニはにこにこと柔らかい笑みを浮かべて謝絶した。

 聖王家が、パレデスを起点に東方山地に進出すると決めたなら、それはレニとってもこれ以上はない朗報なのだ。彼女がサロモンとの約束にこだわるのも最もなことだった。

「イシュル」

 レニはあらためてイシュルに向き直ると、きっぱりとした口調で言った。

「あの黒尖晶のことが気になるんでしょう? あの凄い結界を抜けたらしいことは気にしなくてもいいよ。あれも精霊神の魔法具を使ったんだと思う」

「なに?」

 イシュルは視線鋭く、レニを見つめた。

「どんな結界も通り抜け、完全に姿を隠し、どれだけ遠くとも瞬時に移動できる、そんな魔法具があるって、お爺さんから聞いたことがあるんだ」

「それは」

「まぁ」

「むむっ」

 イシュルとミラ、リフィアが互いに目を見合わせた。

 それはあの魔法具屋の老婆、チェリアの呪いではないか。

 ……確かに似ているが、少し違う。チェリアの呪い、転位魔法は固定されたものだった。

 だが同じ類いの魔法具、と言えないことはないかもしれない。

「影踏みの魔法、って言ったかな」

「ふふ。影踏み、か。いかにもありそうな名だ」

 自らの影を踏んで奈落に落ちる、といったところか。

 確かに奈落に落ちれば、俺の結界も抜けられよう……。

「ごめんね、みんな。もう行かなくちゃ」

 イシュルが皮肉な想念に浸っていると、レニが突然別れの言葉を口にした。

「……」

 イシュルも背後の動きを感知した。レニの視線の先には、火の大方消えた街の方から、ニアやダリオら公爵騎士団の者たちが駆け寄り、近づいてきていた。

 ……イシュルさま、ここは行かせましょう。後で策を……。

 ミラが袖を強く引っ張り、耳許に囁いてくる。

「またね、イシュル」

 レニが夜空に飛び上がり、白装束の女が背後の闇へ溶けるように消えた。

「おーい」

「イシュルさーん」

 背後からニナたちの呼ぶ声が聞こえた。


 

 まだ夜は明けない。

 イシュルはひとりその場に残り、ひと息つくと風の精霊を呼ぶことにした。

 ……レニを危険な目に合わすわけにはいかない。

 あの黒尖晶は何か怪しい。気になる。

 もう誰も、身の回りの者を死なすわけにはいかない……。

 彼女を窮地から救い出すのだ。

 真夏の夜の夢は、悪夢で終わらない。必ず、大団円にしてみせる。

 イシュルは背筋に寒気を、肺腑に熱情を抱え、苦渋を吐くように召喚呪文を唱えた。


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