【幕間】 レニ・プジェールの受難
……早い。もう来たの?
行く手に浮かぶ夏雲が、地平線を隠している。
その雲の下から突然、夥しい数の軍旗が現われた。大軍勢が南から北へ、赤帝龍の墜ちたソネトへ向かっているのだ。
遠くからでもわかる、ひときわ大きな一旒は聖王家の旗。
街道から外れ、複数に分かれた聖王国軍の隊列が、蟻の行列のように長く伸びて草原を進んでいる。
レニは跨いだ杖の先を前に押すように下げ、急降下に移った。
心地よい涼風が頭上へ去り、地上から暖気が吹きつけてくる。瞬く間に地上近くまで降りて、木々の梢を触れんばかりにぎりぎりに飛んだ。
東側に連なる深い山々の裾野を、濃い緑の中に隠れるようにして南へ向かう。
「むっ」
レニはふと、魔力の煌めきを感じて西の空を見やった。
……ああ、だめか。
このまま、聖王家の軍勢に見つからず行き違うことができれば、何事もなくパレデスに帰ることができたのに。
西側の草原を行く軍勢の彼方から、雲下すれすれに風の魔法使いがひとり、飛んでくる。
背を丸め、魔法の杖に全身を密着させて飛ぶその姿は、かなりの遣い手だ。並みの魔法使いとは、早さが違う。
その風の乗り手はレニの行く手を遮るように、かなり先の方へ矢のように一直線に飛んでいく。
……あの早さでは無理だ。
高度差は、空の戦いの帰趨を決める。相手の方が、やや高い空を飛んでいる。しかもあの早さだ。これから上昇をはじめても間に合わない。優位に立てない。
見つからないよう、高度を下げたのが間違いだった。逆に高度を上げるべきだった。
聖王家の宮廷魔導師に、あんな優秀な風の乗り手がいたとは。いつからだろうか? 誰だろうか?
このままでは逃げられない。
でも、つかまるわけにはいかない。
レニは唇をかみしめると、相手の風遣いのように身を縮め、風の抵抗を減らして一気に速度を上げた。
そして周囲に四つの風球をつくり、自身に追従させた。
聖王家の魔導師はレニの行く手を遮るべく、さらに速度を上げ彼女の前方を高速で横切ろうとしている。
……、……!
普段はあまり話しかけてこない、姿どころか気配も見せない彼女の契約精霊が、言葉にならない感情をぶつけてくる。
レニのミスを嘲笑し、あいつを俺にやらせろ、戦わせろと訴えてくる。
……我儘であまり言うことを聞かないのはいつものことだ。こういう時だけ声をかけてくる。
「ダメだよ。そんな簡単に殺していいわけじゃない」
相手は宮廷魔導師だろう。今は会いたくない、顔や名前を知られたくないだけだし、別に“敵”と決まっているわけじゃない。それにあの軍勢を率いるのは王家の者か、国王に近い大貴族だろう。そんな人たちの見ている前で、あの魔導師を血祭りにあげたら大変なことになる。
「ここは何とか躱して、逃げ切る」
ちょっとは遣り合うことになるだろうが、大怪我させなければ何とかなるだろう。今の彼らの目的は、赤帝龍の死骸と“イシュル”なのだから。
……、……。
先ほどからレニに突っかかってきた彼女の精霊が、不満そうな声を上げ、それでも大人しく引っ込み気配を消していく。あっさり引いたのは、レニがイシュルのことを考えたからだろう。彼女の契約精霊はイシュルを怖れているのか、以前から接触することを避けていた。
「それじゃあ、はじめようかな」
レニはかるく笑みを浮かべると、杖を捻りながら引き上げ、急上昇に移った。
意外な方向へ、聖王家の軍勢が北進する草原の方に向かって上昇をはじめた。
彼女の正面に出て、進路を塞ごうとしていた魔導師はその動きを見てびっくり仰天、慌てふためいて踵を返し、レニを後ろ下方から追いかける形になった。
「あの雲へ!」
レニの飛ぶ先には大きな、真っ白な雲が浮かんでいた。
……あの中に逃げ込む。
雲の中に入っても上昇を続け、高度をとってから勢いをつけて急降下、その時には風の魔力を一旦切る。落下し、加速しながら相手の感知も無力化し引き離す。
「さぁ、わたしについてこれるかな?」
レニは頭を下げ、さらに姿勢を低くすると不敵に笑った。
天地がひっくり返るような大異変が起きたのは、一昨日の夜中のことだった。
レニの実家に当たるプジェール男爵の居城パレデス城は、パレデスの市街から東の山間へ数里長(スカール、約2km)ほど入った、ニムスと呼ばれる小集落近くの山上にあったが、付近ではその数日前から予兆があり、レニは一日中、領地の山野を駆け回ってその対策に追われた。
かつてラディス王国のクシムに赤帝龍が出現した時、多くの魔物が人里に押し出されてきたが、それはパレデスも例外ではなかった。
あの時と同じ、小悪鬼(コボルト)や赤目狼の群れ、大牙熊や悪魔も現れ、やがて火龍も姿を見せるようになった。レニはある時は自家の騎士らとともに、ある時は単独でそれらの魔物たちを退治して回った。
その日の夜遅く、レニは魔物討伐から帰城した。彼女の部屋は、城館の南側に高く突き出た塔上にあり、領主である叔父にも報告せず、空中から直接自分の部屋に入った。風の魔法で窓の鍵を、続いて窓枠も開けて、杖に跨いだまま中に入った。
室内の床に足をついて杖を持ち変え、ふと自分の入ってきた窓から外を見ると、東から北へ広がる空が、まるで日の出のように明るく輝いていた。
「ついさっきまで、なんともなかったのに……」
まだ夜が明けるような時間ではない。
「おかしい」
レニはイシュルがやるように風の魔力を全身に添わせ、窓枠の上部に手をかけるとからだを持ち上げ跳躍、外側へ向け一回転し、機敏な動きで城塔の屋根の上に降り立った。
眼下の谷川とニムス村、その東側に南北に連なる山並み。この素晴らしい眺望がまるで朝日を浴びたように明るく輝き、所どころ鋭角の影を刻んでいる。
……けれど、晴れた朝につきものの、喧(かまびす)しい小鳥の鳴き声がしない。
何もかもが死んだように、生きるものの気配がない。
「あの輝きは、火の魔法?」
山奥を南北に走る日の出のような輝き。
レニは早くもその光が火の魔法ではないかと、感じ取った。
「ああ……」
それならば、あの光は絶望の徴(しるし)だ。
……魔獣が急に増えだした、ここ数日の異変。まさかとは思ったが、これは間違いなく赤帝龍が再び、里に下りてきたに違いない。
しかも、この途方もなく巨大な火の魔力は、以前にクシムにやってきて、イシュルに追い払われた時には感じなかったものだ。もっともっと、恐ろしいものだ。
「どうしよう」
驚きと興奮。そこへ恐怖が襲ってきた。
疲れたなどと言っている場合ではない。まだまだ、この異変は続くだろう。明日あたりからは地龍が出没しはじめ、さらに多くの火龍の群れがやってくるだろう。
レニは恐れよりも無力感に落胆し、肩をすくめた。
……もう魔獣退治など続けても意味がない。領民たちをまとめて、避難した方がいい。
逃げた方がまだ助かる可能性が高い。
「でも、どこへ?」
山を下った、南西の森の多い辺りか。
「……」
視線を落としてお城を、その下に広がる村の家々に目をやった時だった。
頭上、どこか遠くの空を、何かが横切ったのを感じた。
ものすごく速い何かが、夜空を西から東へ飛んでいった……。
「!!」
思わず空を見上げると、薄雲のまばらに浮かぶ全天を幾つもの鋭い光の筋が横断していく。
「流星だ」
だが呆然と呟くレニの顔が、すぐ驚愕に覆われた。
流星雨? ……違う。おかしい。何でこんなに多くの流星が、みな揃って西から東へ飛んでいくのか。
「はは。まさか、これは」
レニはひとり虚ろな笑声を上げた。
彼女は知っていた。この稀有な大魔法が何か。
「地の大魔法、大流星雨(メテオフォール)だ」
夜空を駆ける流れ星はやがてありえないほどにその数を増し、銀色に輝く無数の光の線を描いた。
空を覆う光線はすべて、夜明けのように明るく、より毒々しく紅く染まった東の空に集中し落下していく。その瞬間、炎の色が消えて真っ白に染まっていく。
……何か。
遠くでたくさんのものが暴れ、叫び、消えていく。……そんな感覚。
と、広く深く地響きが鳴り、地震のように山野が、城が揺れた。大気が激しく振動し、聞いたこともないような轟音が迫ってきて、後方へ吹き抜けていった。
「凄い……」
赤帝龍だけでない、多数の目標に対する広域無差別攻撃。おそらく赤帝龍に帯同した、無数の火龍の群れも攻撃したのだと思われた。
さっきのたくさんの魔物の消えていく感じ……。あれは多分、大流星雨をくらった火龍たちの最後を感じ取ったのだろう。
「むっ」
レニは一瞬、ぴくっと全身を硬直させたが、すぐにその緊張を解いた。
……あの業(わざ)を放ったのが神々でないのなら、赤帝龍と戦っている者はイシュル以外にありえない。
できるなら、わたしもあそこに行きたい。一緒に戦いたい。
「ふう」
レニは大きなため息を吐くとその場に、薄い石材のスレート屋根に腰を下ろした。
「あそこにわたしが行っても、邪魔になるだけ」
……何もできず、死んでいくだけだ。
それから僅かな間をおいて始まった戦いは、天地を焦がすような大魔法の応酬となり、最後に“風の剣”と思われる、夜空を引き裂く巨大な閃光の輝きをもって終わりを告げた。
山間を何度も風が吹き抜け、大地が揺れた。激しく明滅を繰り返した夜空に、ようやく平穏が訪れた頃には城の者も村の者も皆、異変に目を覚まし戸外に飛び出し、北の空を見上げていた。
レニも起きてきた男爵家の者に声をかけられたが、適当に返事をしてごまかし、そのまま再び北の空へ飛び立った。
あまりのことに興奮し、イシュルと赤帝龍の放った魔力に当てられたか、妙に元気が出て疲れも忘れ、居ても立ってもいられず彼の許へ向かうことにした。
風の剣が放たれたこと、その後の静寂でイシュルが勝ったことはほぼ確実と思われたが、本人は重い怪我を負っているかもしれず、魔力が尽きて危険な状態かもしれず、心配で見過ごすことができなかった。
ミラのような優秀な魔導師が同行していたとしても、あの激しい戦闘では参加するどころかとても近寄れなかったろうし、少しでも早く現地に向かわなければと気が急いた。
北へ飛びはじめてすぐ、しとしとと小雨が降り出した。しばらくそのまま飛び続けたが、日の出頃には雨脚も強くなり、森の中に降りて雨宿りをしつつ仮眠をとった。周囲は静かで、降雨のせいか大型の獣や魔獣の気配はしなかった。
雨は夜になっても降り続け、明け方になって小止みになった。十分な休憩をとったレニは再び、北へ向かって飛び立った。
人目につき、どこかの領主に仕える魔導師と鉢合わせするのは嫌だったので、人家のない東寄りの、広大な山麓に続く森の上を飛んだ。
陽が昇り二日目の朝になってようやく、ラディス王国との国境も近い草原地帯に、真っ黒に焼けた巨大な赤帝龍の死骸を見つけた。
周囲にはすでに、見覚えのある貴族の旗を掲げた聖王国の一隊と、ラディス王国のクベード伯爵が率いる軍勢が睨み合っていた。
まだ距離のある両軍の中間、赤帝龍の死骸の西側に十名ほどの人と騎馬が数騎、寄り集まっているのが見えた。
その中に間違いない、イシュルの姿があった。
「イシュルっ!」
……周りの人たちには見られたくない。でももう、だめだ。
レニは懐かしさで、喜びで胸がいっぱいになり、気づくと彼に向かって一直線に急降下していた。
杖から降りて片手に持ち、手足を大きく広げてイシュルの胸に飛び込んでいった。
里にはまだ、多くの魔物が現れるだろう。
そんなにゆっくりはしてられない。それに、オルトランド男爵に仕える魔導師の視線が気になる。自分がどれほどの風の魔法使いか、力量を見極めようとしている……。
レニはイシュルと昼食を共にし、楽しいひとときを過ごすとすぐ、早々にパレデスに帰ることにした。
イシュルとは、まだまだたくさん話したいこともあったし、その場にとどまり付き添って、何か役に立てればとも考えたが、それは諦めるしかなかった。
でも彼女は名残惜しい、寂しいとは思わなかった。風の魔法使いなのだ、風の乗り手なのだから、いざとなったらどこへでも飛んで行ける。だからまたいつか必ず、イシュルと会えると固く信じていた。
帰りは嫌な予感が的中し、聖王家の軍勢とかち合い、同じ風の魔法使いに見つかってしまった。
進行方向を押さえこもうと、速度をあげて前方を斜行するその魔法使いの裏をかき、西側に浮かぶ雲中に逃げ込もうとしたが、彼はとんでもない速さで踵を返し、レニを追いかけてきた。
……仕方がない。
レニは後ろを振り返えると、用意した風球を二発、後方へ放った。
相手はまだ若い少年のように見えたが、直接攻撃する気はない。目の前まで飛ばして惑わせ、進路を邪魔できれば十分だった。
二つの風球は互いに螺旋を描きながら、少年魔導師に向かって飛んでいった。少年はその面倒な動きをする風球を大きく避け、叫び声を上げた。
「ベリンっ!」
「!!」
その叫声と同時。
レニの前上方、雲の中から、もうひとりの風の魔導師が滑るように出てきた。
その風の乗り手はベリンというのか、風の魔力を殺し、やっと浮いているような状態で雲壁からゆらりと、横滑りしながら姿を現した。
そこで完全に風の魔法を切って、くるっと下に横転し、杖の先が下を向くと、一気に魔力を込めて加速、レニに向かって急降下してきた。
「ええっ?」
……うまい。凄い発想をする子だ。雲の中に隠れ魔力を抑えて気配を殺し、出てきた瞬間風の魔力を完全に消して、落下する力を利用し捻り込むように方向転換して突っ込んできた。
「あっ」
一瞬の逡巡の後、ベリンの急降下を避けると今度はすぐ後ろに少年魔導師、セリオが迫っていた。
「くっ」
レニはからだを右に倒すと一気に加速し、ベリンとセリオの二人の挟撃から逃れた。
その時、前方に精霊の気配がして、レニは残った二つの風球をお見舞いし、右側へ急旋回した。
……ふたりの、どちらかの契約精霊だ。
厄介だな。
相手は精霊も入れて三人。空中での戦闘に熟練し、息もぴったり合っている。
レニは回る視界の先を見て、苦笑を浮かべた。
旋回を終わるとその先に、すでにふたりの魔導師が待ち構えていた。
「やっほー」
少女の魔導師の方が、素っ頓狂な声を上げた。
「誰だか知らないけど、凄い乗り手だね」
ベリンは時折鼻歌を歌いながら、暢気にレニに話しかけてくる。
セリオと名乗った少年の方はむすっと、無言のままだ。
ふたりはやはり、聖王国の宮廷魔導師だった。避けたい相手だが、敵ではない。
レニは、本気を出さなければふたりから逃げられないと判断し、抵抗するのをやめた。本気を出すと、まだ若い子供のようなふたりの魔導師を殺してしまうかもしれない。
そんなことをしたら大罪人になる。レニだけでなく、プジェール家にも累が及ぶのは間違いない。
レニは諦めて大人しくふたりに従い、早めに進軍を止め、野営の準備に入った聖王国軍の本陣に向かった。
聖王家の軍勢は、その御旗から国王サロモンが自ら、直々に率いていた。
赤帝龍が死に、現地にはイシュルもいる。これは国王直々のお出ましになるのも、当然だと思えた。
レニは多くの貴族たち、魔導師、騎士団長らに誰何され、サロモンの元に連れてこられた。
美貌の新国王は野営にもかかわらず、豪奢な玉座に、まるで王宮にいるように腰掛けていた。
威厳も賢明さも損なわず、しかし何よりも優美にくつろいでいた。
周りにはミラの兄たちと思われるディエラード公爵家の双子をはじめ、錚々たる面々が控えていた。
サロモンはレニを見ると優しげに甘く、微笑を浮かべた。
国王はとても機嫌がよさそうに見えた。
「きみは素晴らしい風の乗り手だ。遠くからでもはっきりと見えたよ」
その形の良い唇が引き上げられ、笑みがさらに大きくなる。
「きみは北の、ソネトの方から飛んできた。……もしや、イシュルと会ってきたのかな?」
おまえはイシュルの何なのか?
これは、とても良いものを見つけたぞ。
レニには、サロモンの考えていることが手に取るようにわかった。
そんな気がした。
国王の妖しい微笑みに、その声音に震撼した。
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