秘密会 3


 

 馬車の車輪の小刻みな振動に、間のあいた馬蹄の音が重なる。

 まるで誰かが、打楽器を叩いて演奏しているようだ。

 ガラガラガラ、ポカ、ポカ、ポカ、シャッシャッ……。

 だが残念ながら、そこに旋律はない。

 ただかわりに、音になって聞こえそうなほど美しいものが、すぐ目の前にある。

 薄暗い車内に差し込む陽光が、少女たちの顔貌をあざやかに浮き上がらせている。

 ……ほんとうに、美神の歌声が聞こえてきそうじゃないか。

 イシュルは薄っすらと苦笑を浮かべ、対面に座るリフィアとミラを見つめた。

 そのまま物言わず、美しいだけならいいんだが。

 ふたりはともに計って、「秘密の、面白い趣向を用意している」と言ってきた。今までになかったことだ。

 横目に、隣に座るニナの顔を盗み見る。

「……」

 もちろん、断定はできない。だが彼女の表情から察するに、今回はあのよく分からない、女子どうしの一方的な取り決めはしてないようだ……。

 ニナはただ単純に、疑問の表情を浮かべている。リフィアの言った“趣向”が何なのか、知らないのだ。

「何でしょう……。うーん」などと、ぼそぼそ呟いている。

「それはデルベールに着いてからのお楽しみ、ですわ」

 ミラもいつもと変わらない笑みを浮かべた、ように見えた。

 しかしその細められた眸に、今まで何度か見てきた、あの不穏な色が見え隠れしている。そんな気がする。

「……」

 彼女がこういう顔をする時は、その後でかならずといっていいほど騒動を起こすのだが、今回はまた違う、ただならぬ雰囲気が感じられた。

 リフィアを見ると彼女も顔をそらし窓外を見て、何も話す気がないようだ。その唇にほんの少し、微かに笑みを浮かべているのがわかる。

 ……少女の微笑みは、いつも不可思議な謎に満ちている……。

 馬蹄の音が、車輪の回る振動が、心を直に叩いてくる。

 本当に美神の、いやもっと恐ろしい、何者かの歌声まで聞こえてきそうだ。

 イシュルは胸がざわつくのを、はっきりと感じた。



 穏やかな林野を行くこと数日、一行はディエラード公爵領の、主城のあるデルベールに到着した。

 イシュルたちが通って来た、ハルンメルから伸びる街道は、公爵領ではその首府の名と同じデルベール街道と呼ばれる。

 同街道はデルベールの市街地で、聖都、ロバーノとテオドールを結ぶ北街道と接続する。つまり北街道から二股に、ハルンメルに向かって東に分かれる道がデルベール街道となる。

 デルベールの街はディエラード公爵領の首府である以前に、聖王国の主要な街道が分岐する宿場町として発展した。したがって同市は北街道とデルベール街道の分岐点を中心に、主に北街道に沿って南北に細長く市街地を形成した。デルベール城は市街地の東側、やや南よりの山上にあり、街そのものを防衛する城壁は存在しない。古代ウルク王国が滅亡した後、戦乱の時代が終わった後になって発展した街だった。

 いつ、誰が知らせたものか、イシュルたちがデルベールの市街に入るとすぐ、十騎ほどの公爵家騎士団の騎馬隊が待機していて一行を出迎えた。

 街中では多くの人々の好奇の目にさらされ、騎士団の先導のもとデルベール城に入城した。

 同市はそれほど大きな街ではない。宿場町に特有の活気もあったが、街並みは赤やオレンジ色の華やかな屋根に、石積みや煉瓦、真っ白な洋漆喰の瀟洒な建物が寄り集まり、まるで御伽(おとぎ)の国のようで、賑やかさよりむしろ逆の、落ち着いた素朴な印象を強く受けた。

 人々は好奇心もあらわに、イシュルたち一行の車列を見物したが、無用に騒ぎ、囃(はや)し立てるような者はいなかった。

「ふむ。街も領民どもも、良い感じがする。今年は麦をはじめ作物の出来が良い。それに」

 車窓から外を見ていたリフィアがそこで、イシュルに続きを振ってきた。

「ミラの家が善政を敷いている、ということだな」

 イシュルは苦笑を浮かべ、そう決まり文句を言った。

 デルベールの住民はみな朗らかな明るい顔で、イシュルたち馬車の一行と騎士団を見ても怖れることはなく、ただ興味本位だけでない、領主の客人を歓迎するような空気さえ感じることができた。

「まぁ、おほほ」

 ミラはかるく口許に左手の甲を当てて笑うと、街の住民に向かって窓越しに手をひらひらと振ってみせた。

「……!」

 外からどれだけ見えたのか、ただそれだけで、周囲の人混みから小さくない歓声が上がった。

「すごいな。さすがミラ」

 ……彼女はいわば街の住民のアイドル、あるいは崇拝の対象なのだ。そういう空気は、聖都の公爵邸の使用人や兵士らの間にも感じられた。

 イシュルが真面目に感嘆の声を上げると、リフィアが即座に反応した。

「うむ。ミラ殿もわたしと同じくらい、領民どもに人気があるようだ」

 一体何なのか。リフィアもミラに負けじと、形の良い鼻をうごめかしていた。

 一行は市街を南下し、街道を東にそれ緩やかな山を登って、城の南側にひとつだけある城門から入城した。

 


 城門はもとから開かれ、中に入ると何もない草地が広がっていた。周囲は城壁で囲まれ、良く見ると草叢の中に古い建物の土台や井戸の跡などが残っていた。

「ここは、今は練兵場として使われておりますのよ。昔は武具庫や厩(うまや)などがありましたの」

 ……ミラの説明によると、当時は複数の城塔を備えた外郭部の防御拠点、出丸があったらしい。城の南側はなだらかな丘と接続しているから、当然の備えであったろう。それも聖王国や周辺国の国情が安定期に入ると不要になり、今は空き地のようになっているわけだ。

 イシュルたちが馬車から降り、城の奥、内郭の方へ歩いて行くと、正面の城門棟から、数名の衛兵を従えた身分の高そうな男女が三名、それからイシュルも見慣れた顔がひとり、姿を現した。

「ディエラードの居城へようこそ。大陸随一の英雄にお会いできてうれしいわ」

 ……はは、なんかつらい。

 城主代理を務めるサンシーラ・ディエラードが、腰をかがめ右手を胸に当て、イシュルに神妙に頭を下げてきた。

「過分なお言葉、恐れ入ります。イシュル・ベルシュです。しばらくお世話になりますが、どうかよろしく」

 サンシーラはミラの父オルディーノの妹、つまり叔母に当たる。ふんわりと柔らかい、人の良さそうな婦人だが、やはり一般の領民には近寄りがたい、独特な気品を漂わせている。

 イシュルも多くの貴族、領主らと顔を合わせ、彼らの礼儀作法を身につけていたが、前世のマナー要素も混ぜ合わせた独自のやり方を貫き、安易に貴族階級の作法を真似するようなことはしなかった。

 所詮は田舎の農村出身だし、形だけ上流階級の礼儀作法をなぞってもしょうがない。前世の現代日本のビジネスマナーを、生まれる前から身についた振る舞いをした方が、まだ良いだろう、と考えた。

 そのシンプルで、(前世の)現代的な仕草や言動が周りの者の興味を引いてきたのだが、この時もイシュルの見慣れぬ仕草や言葉遣いが、サンシーラの目にとまった。

「……」

「叔母さま、久しぶりです」

 一瞬、微笑んだ顔を強張らせたサンシーラに、ミラがすかさず割って入った。

「はじめまして、ご城主殿。ラディス王国はアルヴァの領主代理、リフィア・べームです」

 リフィアも畳み掛けるように挨拶してくる。

「まぁ、ミラ。あいかわらず元気そうね。それから」

 サンシーラはまた柔らかい微笑に戻って、リフィアに顔を向けた。

「あなたがあの、ラディス王国の“武神の矢”ね。ほんとうにお美しい方。こちらこそよろしく」

 その次にニナ、続いて従者を代表しロミールが挨拶したが、サンシーラは終始柔らかな表情をくずさず、公爵家の城主代理とラディス王国側一行の対面は、極めて和やかに進んだ。

 ──イシュルをのぞいて。

「噂どおり、きみはとても変わっているね。特別だ」

 サンシーラに続いて彼女の息子のクレトと、彼の妻であるアマダと挨拶を交わした。

 やや小太りのこれも柔和な風貌の青年クレトは、イシュルの耳許でそう囁いたが、当人は何も答えず、微笑をうかべたまま無言で流した。

 誰も知らない仕草をわざと見せて煙に巻くのは、最近のイシュルのいわば処世術と化していた。

 大陸中を騒がす大英雄となったイシュルは、人と会うたびに美辞麗句を並べた追従や、面倒な質問を受けたりするのにいささかうんざりしていた。だからさっさとその場を流し、早々に切り上げることを心がけていた。

 ……だが、最後のこの男は別だ。

 イシュルは、サンシーラたちの後ろに控える、長身で整った外見の男の前に立った。

「久しぶりじゃないですか。こんな所でまた会うなんて」

 言いながら男の背後の内郭の城門へ、その鉄扉の影に一瞬、目をやる。 

 扉の裏側に、誰かひとの気配がした。

「やぁ、久しぶり。イシュル殿」

 精悍な、黒く焼けた顔にわざとらしい微笑が浮かぶ。

「えーと、聖都から帰って来て、今は領地詰めってことですか、ダリオさん」

 ……ダリオは少し気障(きざ)な、遊び人風の中年男だ。この男は公爵家の騎士団長だが、武神の魔法具を持つ手練れの剣士でもある。

 確か以前、ミラから公爵家の騎士団は、団長と副団長が数年ごとに聖都の屋敷と領地のデルベールを往き来し、指揮を交替していると聞いている。今はダリオが領地の騎士団を指揮している、ということになる。

「騎士団長はいつ帰ってきたの?」

 ダリオが何か答える前に、ミラから声がかかった。

「はっ、お嬢さま。ふた月ほど前でございます。」

 騎士団長は声音をがらりと変え、威儀を正して堅苦しい挨拶をはじめた。

「姫君におかれましては、本日もご機嫌麗しく……」

「あなたの奥さまは? 一緒に帰郷したのでしょう?」

 ミラはまた騎士団長を遮り、揶揄するような声で言った。

 イシュルも再び、城門の扉の方へ素早く視線を走らせた。

「ラベナは元気ですか」

「はは」

 ミラとイシュルの質問にダリオは苦笑すると、城門の扉の方へ振り向き声をかけた。

「さっ、ラベナ。恥ずかしがってないで、出ておいで」

 ……ほう。

 イシュルはわずかに眸を細めて、あらためてダリオの顔を見た。

 ずいぶんと慣れた感じの、愛情のこもった口調だ。

 ラベナは、エミリアの率いるハンターのパーティにいた風の魔法使いだ。山間部の領主の家に嫁いだが、そこで夫を謀殺され、犯人だった夫の一族を皆殺しにして聖都のアデール聖堂に逃げてきた。美貌だが、いや美貌故に辛酸をなめてきた女だった。

「……」

 そのラベナが頬を染め、夫に催促されて扉の奥から出てきた。

「あら」

「まぁ、ラベナさん!」

 ミラが、そしてルシアが驚きの声を上げた。

「やぁ、おめでとう」

 イシュルはラベナを見て微笑み、めずらしく朗らかな、やさしい顔をした。

「ありがとう、イシュルさん」

 ラベナは大きく膨らんだお腹に手を当て、わずかに羞恥を含んだ笑みを浮かべた。

 ……前世から何度か見てきた、幸せな女の顔。

 ラベナは充実した喜びがいっぱいの、こぼれ落ちそうな笑みを湛えていた。

「医者の見立てでは、早ければ来月には産まれるそうだよ」

 先ほど紹介されたサンシーラの息子、ミラの従兄弟に当たるクレトが言った。

「やぁ、めでたいですね、ダリオさん(このちょい悪オヤジが。ほんと、手が早いな)」

「いやいや、ありがとう。イシュル殿(ラベナは今、とても幸せだ。あんたにとやかく言われる筋合いはない)」

 イシュルとダリオは表向きにこやかに、心のうちで皮肉、雑言の応酬を交わした。

「ふむ。いや、わたしも早く、貴女のように幸せな身になりたいものだ」

「まぁ、わたくしもですわ。おほほほ」

「……」

 リフィアが背後から、イシュルに強烈な一太刀を浴びせてきた。続いてミラもだ。ニナはただ顔を赤く染めて、何も言えないでいる。

 イシュルは一瞬で表情を凍らせ固まった。ダリオも殺気を感じたか、そんなイシュルを笑うどころか全身を硬直させている。

「ふふっ」

 ラベナは顔いっぱいの笑みをさらに輝かせ、弾んだ声をあげた。



 デルベールの公爵家の面々と、イシュルたち一行の挨拶もつつがなく終わり、各々城の本館の客室に案内され、その夜は晩餐会が開かれた。 

「いいところですよね、静かだし。フロンテーラと比べても、夜風が何だか柔らかく感じます」

 晩餐も終わって部屋に戻ってきたイシュル。窓際に外を眺めていると、寝台まわりを整えていたロミールが話しかけてきた。

「けっこう南だからな。風が柔らかいのは気温に加え、湿度も高いからだ」

「えっ、ええ?」

 “気温” や“湿度”など、聞きなれない言葉にロミールが困惑した声を上げる。

「この風の温もりが変わりはじまたら、夏も終わりだ。南方の雨期も終わる。ソレールに向かう時だ」

「ああ。はい、そうですね」

 ロミールは今度はしっかりと、力を込めて頷いた。

「……」

 イシュルは再び窓外の夜闇に目をやった。

 夜空に浮かぶ薄雲が、月光を透かしぼんやりと光っている。

 そのわずかな光に照らされ、眼下に広がる木立や草原が、街道沿いに並ぶ家々が、闇の底から浮き上がって見える。

 目に見えない、遠い空を吹く風を辿っていくと、自ずと地上に存在するすべてのもの、葉擦れの音や夜鳥の鳴き声、夜道を急ぐ人の息遣い──が心のうちを掠めていく。

 その底の、地下を流れる水脈や希少な鉱石の微かな気配、微動が脳裡を一瞬、天啓のように輝き明滅する。

 風の魔力に土の、火の、金の魔力の知覚が重なると、次第に目の前の現実が、自己の心象と一体化していくのがわかる。

 その途上で突然、新たな世界創造の力が発現するのだ。すべての魔法を、いやすべての事象を知覚し、支配する力だ。

 すぐ目に前に、手を伸ばせば掴めるほど近くに、いま自分はいる。

 ……きっとその力を手にしたとき、太陽神が、月神が目の前に姿を現すのではないか。

 彼女たちと同じ場に、土俵に立つことになるのだ。

 もう少しだ。あとは“水”だけだ。

「静かな、平穏な夜だ」

 イシュルは双眸を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。

「もう寝るよ、ロミール」

「はい、イシュルさん。僕も寝ます。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 ロミールはイシュルの着替えた衣服を抱え、部屋を出ていった。

 イシュルはその夜眠りについてからしばらく、夢うつつに何かの光を、その明滅を、激しい動きを感じた。

 ……夜鳥の声でもない、鉱石の煌めきでもない。どこか遠くで起きたこと……。

 翌朝起きてみると、夜中に何が起きたか、自分が何を感じたのか、はっきりと思い出すことができなかった。夢の中で起きた、そういう夢を見たのだと思った。

 それですませてしまった。

 

 

 退屈や、あるいは寂しさを感じるほどではない。

 街道の宿場町から丘上の城まで昇ってくる喧騒に、館の周りを戯れる小鳥の囀り。そして高い空を吹き流れる、幾つもの風の音。

 上品な女城主サンシーラとその家族、そしてミラ。お淑やかなニナに、大人しくしていればこれも麗しい美少女のリフィア。公爵家に仕える者も皆穏やかで、デルベールでの休息は安らぎに満ちたものだった。

 朝から馬乗りに、近くの街や牧場にお忍びで散策に出かけ、午餐は城に残った者たちで気軽に、晩餐は人が増え少しだけ賑やかに。夜は高所からの眺望に見惚れ、星空に長い時間思索をめぐらせた。

 そんなある日、イシュルは朝食の席でミラとリフィアから、街の東側に広がる野原の散策に誘われた。

「今日は少し、遠出しましょうか? イシュルさま」

 いつもと同じ何気ない言葉。だがその奥底に冷たい、張り詰めたものが潜んでいる。

 イシュルはそれをはっきりと感じた。

「わたしも行こう」

 ともに食卓を囲むリフィアが何気なく、短く言った。

 ナイフや二股のフォークが時折、カチカチと高い音を立てる。

「……」

 ミラとリフィアの視線が瞬間、ニナに走る。

 まさか、ふたりの視線に気づかない筈がないのに、彼女の眸は朝食の皿に落ちたままだ。誰も、イシュルの顔も見ない。

 サンシーラは息子夫婦と楽しげな会話を続けている。

 先月デルベールに現れた、おかしな吟遊詩人の胡散臭い小噺だ。イシュルたちの微妙な空気に気づいていない。

「ふふ。いいぜ」

 ……もう、ニナとは談合済みなのだ。

 イシュルはとぼけているニナをちらっと横目に見ると、ミラとリフィアに微笑み小さく頷いた。

 夜逃げするようにハルンメルを出発した時、馬車の中でミラとリフィアが思わせぶりに話してきた、“面白い趣向”というのがこの誘いなのだ。

 いつもの会話に仕込まれた、微かな違和感。この繊細な、緊張した空気がそれをはっきりと教えてくれた。

 イシュルとミラ、リフィアの三人は朝食後、ゆっくりと茶を喫し昼前に城を出て街に降りた。ニナはもちろん付いてこず、ロミールたちも同行しなかった。

 三人はなるべく街の住民に見られぬよう、人通りの絶えた瞬間を狙って街道を東に横切り、街を抜けて畑や牧草地の広がる丘の連なりを超え、やがて人気のまったくない、雑木林の点在する野原にやってきた。

 ……空気が変わった。

 イシュルはふたりの後についていきながら、眸だけしきりと左右に振った。

 丘の上は北風が吹き抜け、思いのほか涼しい。周囲の草叢が、遠くの木々が、途絶えることなく葉音を鳴らしている。

 広い空は大きな雲がいくつも並び、目に見える速さで南へ吹き流れていく。夏の盛りだというのに、陽はどういうわけか早くも西に傾き、紅く色づきはじめている。

 無限の色相を成す緑の大地。雲間に、わずかに紅く色成す夏の空。

 そして前を行くふたりの少女。

 視界に入るすべてのものが、絶妙な均衡をもってイシュルを眩惑する。

 その痛苦に堪えると、微かな異変が野原の奥底に隠れているのが見えてくる。

 不自然に窪んだ草原。林間に垣間見える、大小の枝が上に折れ曲がった奇妙な木々。いったい何があったのか、草叢の転がる小さな鉄の塊。

 ミラとリフィアは横風に髪をなびかせ、ひたすら無言で歩いていく。イシュルも何も言わない。

 ふと視線を遠く前方にやると、彼女らの影に隠れていたのか、忽然とひとり、大柄な人物が姿を現した。

 シャルカが横向きに、赤く染まりはじめた西の空を見ていた。

 ミラたちが近寄ると、彼女はいつもの表情のない顔で振り向き、挨拶も、何も言わずただ右手を腹部に当てた。

 すると、彼女の着ているメイド服の、その部分だけが消えて透明になり、まるで奇術師のように腹部から銀色に輝く長剣を取り出した。

 その刺さるような十字鍔の剣は、リフィアの得物だった。彼女は今まで無腰だったのだ。

 シャルカはその剣をリフィアに投げた。

「さて、と。……ふむ。落ち着いているな、イシュル」

 リフィアは慣れた手つきで、シャルカの投げた抜き身の剣を掴むと、イシュルにわずかに首を傾け、微笑んでみせた。

「この野原は、わたしとシャルカが子供の頃から、魔法の修練に励んだ場所ですの」

ミラもイシュルに微笑む。

「ここまで街から離れれば、誰も気づきませんわ」

「そうかな?」

 イシュルもふたりに笑みを返す。

「ミラが派手に魔法を使えば、街の者にも見えてしまうんじゃないか?」

「そんなことはありませんわ」

 ミラは片手の甲を口許に当て、軽く笑い声を上げた。シャルカが彼女の後ろへ回り込む。

「街の住民は皆、いつもの遠雷かと思うだけです」

「はは、雷か。それは恐ろしい」

 イシュルは彼女に聞こえぬよう、口の中で呟いた。

 その横で、リフィアの少し拗ねた声。

「さすがに気づくか。面白くない」

 彼女は剣を握り直し、何度かかるく振るとその切っ先をイシュルに向けた。

「我が精霊よ、汝が鋼(はがね)の力を我に与え給え……」

「我が神ヴィロドよ。鉄心の鎧を我とひとつに合し給え……」

 彼女の背後では、ミラとシャルカがあの、特別な呪文を唱えはじめる。

 続いて煌めく閃光。シャルカの姿が消え、一瞬あらわになる“鉄神の鎧”。

 その鎧も宙に透け光の塊となって変形し、ミラの全身を覆っていく。そして瞬く間にふたりは一つになった。黄金色に輝く全身鎧を装着した、見目麗しく恐ろしい女騎士がひとり、そこに立っていた。

「イシュル、ソネト村を出発してから精霊を召喚してないな?」

 リフィアはミラの変身に全く注意を向けず、イシュルを正面に見て言った。

「ああ」

 イシュルの笑みが深くなる。

「今回の旅は、確かに危険が少ない。だが用心深いお前なら、風の精霊くらいは呼ぶかと思ったんだがな」

 リフィアの向ける剣先が微動して、陽光をきらきらと反射した。

「少し、変わったんだ。なんて言うかな……。赤帝龍を斃し火の魔法具を得てから、少しずつ、また感覚が鋭くなって……、いろんな気配や、予兆のようなものまで感じるようになった」

 イシュルはあやふやな感じで手を振りながら話した。

「ふむ。この前のあの異質な感じも、それと同じか」

「草いきれ、ですわね」

 ミラも進み出て会話に加わる。

 ……彼女が言っているのは、草原で世界創造の力に“手をかけた”時のことだ。あの時、俺はみんなに「草いきれ」と言ってごまかしたのだ。真夏の暑気のせいだと嘘をついた。

 いや、似たようなものか。かりそめとはいえ、“世界”そのものを出現させるのだから。

「ああ、そうだな。だから、今回はまだそんなに警戒する必要はないし、精霊の力を借りなくてもいいと判断したんだ」

「……ふう。我が愛しきイシュルも、いよいよ人間ばなれしてきたな。精霊と変わらない」

 リフィアはわざとらしく両手を上げ、首を左右に振った。

「いや、そんなことはないよ」

 俺は人間だ。弱いままだ。月神に、これから起こることに怯えている。また誰か、命を失うのではないかと怖れている。

「イシュルさまのそのお言葉が謙遜かどうか、そろそろ試させていただきましょう」

 ……これが、“面白い趣向”なのだ。

 ふたりは、俺が新たに手にした“神の御業”が何か、もう一度はっきりと見極めたかったのだろう。ともに歩み、戦うのなら当然、知っておかなければならないことだ。

「ここしばらく、ふたりともここで鍛錬していたんだろう? 何となく感じていたんだ」

 地形を変えたりしないよう、気をつかってやっていたのだろう。それが所々窪んた地面であり、枝の折れ曲がった木々に、辺りに散らばる鉄塊だったわけだ。

「お城からこんなに離れているのに、わかるのか? ……はは。もうイシュルには、隠し事はできないな」

 リフィアの眸が、なぜか輝きを増す。その後ろでミラがじっと見つめてくる……。

 ふたりとも、これから行われることに期待を膨らませているのだ。

 リフィアが剣の柄を握り直した。ミラも長剣を抜く。彼女の剣はリフィアのものより、やや刀身に厚みがある。

「では、はじめましょうか。よろしい? イシュルさま」

 ミラが微笑んだその瞬間、視界を強烈な光の奔流が覆った。

 真紅の閃光が全身を突き抜け、金色に煌めく魔力が双眸を眩惑する。

 赤はリフィアの、金はミラの魔力だ。凄まじい闘気だ。

「くくっ」

「むっ!」

 その闘気、いや魔力の先端がイシュルの胸元で静止し、震えている。ミラとリフィアの、ふたつの剣がイシュルの心臓を突き刺そうとしている。

 ふたりは歯を食いしばり唸り声を上げ、その全力を剣先に注いでいる。だが、イシュルの風、火、土、金の魔力の編まれた結界に妨げられ、前に進めない。

 ……ここまではあの時と同じだ。

 かつて、聖都にやってきたリフィアとディエラード邸で決闘をした時、風の魔力で防壁を張って、彼女の攻撃を防ぎきったことがある。

 それに今回はミラが加わって、威力が倍増しているわけだが……。

 あの時とは、こちらの守りも違う。

 ぶつかり合う三人の強力な魔力は、天地を突き破るような勢いで四方を吹き荒れているが、それがなぜか空を穿つことも、大地を削ることもなく、その途中で宙に溶けるように、風のように消えて無くなる。

 ……どんなに強力な魔力であろうと、どんな存在であろうと、 “異物”である以上は俺の結界には通用しない。これは、かりそめであっても神の力と同等なのだ。

「ふふ」

「やはりこいつの魔力の壁は破れないか」

 全力でぶつかっていたふたりは、そこでやや力を抜くと互いに顔を見合わせ、笑みを浮かべて同時に頷いた。

 そこで再び、さらに強力な魔力を解き放つ。

「やぁっ!」

 ミラが剣を突き立て、今まで聞いたことのない叫声を発した。

 刃先から火花が散り、周囲の空気が振動して像が歪む。

 と、リフィアは後ろに下がって、自らの剣を捨ててしまった。

「行くぞ!」

 そこでリフィアが吼えるように叫ぶ。

 両目がつり上がり、紅い魔力が輝きを増す。

「やあああっ」

 ミラが渾身の力を込めた。

「!!」

 次の瞬間、その剣だけが残されミラの姿が消える。金の魔力が刃先に集中する。と、リフィアは無音の気合いを発し、剣の柄(つか)に足裏で蹴り込んできた。

 一瞬、イシュルの結界が微かに揺れる。

 金の魔法の貫徹力が臨界を迎え消失すると同時に、無数の閃光を放ち武神の魔力が炸裂した。

 神の結界が消し去ることができなかった、リフィアの魔力の一部が跳ね返り、彼女自身を後方へ吹き飛ばした。

「……」

 少し、揺れただけ。

 他に何も起きなかった。

 膨大な魔力が目の前から消え、戦いは瞬く間に終わってしまった。

 僅かに遅れ、夕雲を遥か遠雷のように轟音が渡っていく。

 ミラとリフィア、ふたりの魔法の響きだ。

 イシュルは眉ひとつ動かさず、神の御業を解いた。

「草木も夕空も、何も変わらない。あれだけの魔力が放たれ、ぶつかりあったのに」

 地面に倒れていたミラが、上半身を起こし辺りを見回して言った。

「これがイシュルさまの力……」

「うーん」

 少し離れた草叢から、リフィアの呻く声が聞こえる。

「ミラが全力で剣を突き刺した瞬間、リフィアが蹴ってさらに押し込んだのか」

 イシュルはミラを起こし、リフィアを介抱した後、城へ帰る前にふたりに聞いた。

「そうだ」

「わたしが剣を離した瞬間、リフィアさんの力を加えたのです」

「なるほどな」

 一部の精霊神の魔法具など特殊な例をのぞき、基本的には神の魔法具以外、違う系統の魔法は同時に使えない。あるいは合成することができない。

 ミラが己の剣に全力を注ぎこんで「離した」瞬間、リフィアが絶妙なタイミングで武神の矢の力を叩き込んだのだ。

「あれがふたりで秘密に訓練した成果、というわけか」

 ……彼女たちの思いつく最も強い“力”を使って、俺の新しい神の御業を試したのだ。

 イシュルは紅く燃えるような夕日を仰ぎ見ると、すぐリフィアとミラに顔を向け微笑んだ。

 地平に沈む太陽が眩しかった。

 陽を浴びて、ふたりの顔も輝いていた。

 

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