秘密会 2
振り返ると東の草原にラディス王国とオルスト聖王国、両国の陣営の灯火が無数に折り重なって見える。
小さな光点が、夜空に沈む山影を背景に、南北に一直線に広がっている。
「行こうか」
イシュルがその光を見つめていると、耳許でリフィアの声がした。
「この先の、南へ半刻ほど歩いた辺りに、ソネト村の西外れの集落があります。そこで朝まで休みましょう」
リフィアの後ろからロミールが顔を出して言ってくる。
村の東端、反対側にぽつんと一軒だけあった酪農家が、赤帝龍を斃(たお)し火の魔法具を手に入れたあの日、イシュルが軒下で休んだ家だ。ソネト村は、この草原地帯に広く散らばる家々を強引に一括りにした、境界もはっきりしない茫漠とした村だった。
「ああ、そうしよう」
イシュルが頷くとみな無言で、草原を南へ思い思いに歩きはじめた。
星明かりに微かに浮かぶ彼らの顔には、にこにこと微笑む陽気な様子が確かに見てとれた。
新たな目標が定まった。向かう先もはっきりしている。
まだ冒険の日々は終わらない。
イシュルは両方の拳を固く握りしめた。この者たちの笑顔を、曇らすことがあってはならない。
……彼女らはともに死線を乗り超えてきた、俺に力を与えてくれる仲間なのだ。
今しばらくは。
まだ、月神との争闘は話せない……。
道もない夜の草原を、虫の鳴き声とともに渡った。
東の地平を僅かに薄明が訪れる頃、一行はロミールの言った小さな集落に到着した。
予想に反し、周囲に聖王国の人馬の姿をまったく見なかった。先に通り過ぎた気配さえも、感じられなかった。
……ディエラード家など諸侯の軍勢は、皆揃って違う道を南下している……。
イシュルは大地の先に、木が根を張るように土の魔法の感知を伸ばした。
多くの大小の軍勢が、遠く南の草原で野営し、あるいは移動している。無数の人馬の土を踏む地響きが伝わってくる。
「この村に軍勢がいないのは、聖王国の誰かが、気を効かしてくれたからかな」
「……」
イシュルがミラへ声をかけると、彼女は無言で微笑んだ。
翌日も草原を南西へ進み、村人から聞いた小川を見つけてその場で野営、三日目にカハールからハルンメルに伸びる街道に突き当たった。
この二日間、聖王国の軍勢を一切見ず、街道に出てもそれらしい兵馬の集団に会うことはなかった。もちろんこの辺りまで来ると、街道をはずれ森の奥にでも行かないかぎり、魔物と遭遇することもほとんどない。
一行は聖王国中北部の要衝、ハルンメルを経由し、ディエラード公爵家の居城のあるデルベールに向かった。ミラのはからいで聖王国南部の雨期が終わるまで、半月ほどデルベールに滞在することになっていた。
街道に軍兵の物々しい姿は見かけなかったが、木材や石材、食料雑貨などさまざまな物資を積んだ荷車の往来が盛んで、日に何度も、数え切れないほど行商人や、領主らの輜重らしき車列とすれ違った。
また、ハルンメルとソネトを行き来する、伝令らしき騎馬もたびたび目にした。ソネト村周辺では多くの軍勢や人夫、聖堂教会の神官らが集り、今も城塞や神殿の工事が続いている。ソネトと周辺の街では人の往来や物流が活発になり、それがしばらく続くと思われた。
イシュルたちはのんびり徒歩で、まずハルンメルを目指した。街道沿いの家々や木立の木陰で夏の陽射しを避け、日に何度もこまめに休憩をとった。野宿はせず、宿屋のない村落でも、ルシアたちが走って村人と交渉し、かならず屋根つきの立派な宿舎を用意した。
馬車も馬もないひたすら徒歩の旅でも、大貴族であるリフィアとミラは道中まったく不満をもらさず、常に機嫌よく供の者たちとおしゃべりに興じた。
イシュルは、ハルンメルに数日ほど滞在する用事があり、あらかじめみんなに話して了解を得た。
かつてリフィアの父、辺境伯を誅した後、聖王国に逃れ、ハルンメルでマントや上着など衣服を一式、新調したことがあった。
その時にはいろいろとこだわって、ギルドで紹介してもらった腕利きの職人に細かく注文をつけ、特別に仕立ててもらったのである。
あれから幾多の冒険、そして戦いの日々が続き、それらお気に入りの特注品も所どころ傷み、あるいは紛失し、直せるものは自ら繕いごまかしてきたが、いよいよプロの職人の手でしっかり直してもらうか、再び新調しなければならない状態になっていた。
今は夏場で生成りのシャツに袖なしベスト、焦げ茶のズボン、それに麦藁帽──といったありきたりの格好だが、夏場以外は前の世界のような、細身のシルエットの黒革のハーフコートにおそろいのズボン、ブーツといった出で立ちだった。
イシュルはロミールの曳く馬に積まれたそれらの衣類を、ハルンメルに寄ったついでに、当時と同じ職人に直してもらおうと考えたのだった。
今回は急ぐ旅ではない。ミラたちに不服があろう筈もなく、みなでイシュルにつきあい、デルベールに向かう前に、ハルンメルで数日ほど過ごすことになった。
「リフィアはハルンメルに行ったことがあるか?」
柔らかい曲線を描く丘の連なり、行く手には木々が減り、牧草地や畑が見えだした。いずれ人家も姿を現すだろう。少々暑いが、気持ちの安らぐ牧歌的な景色だ。
「ああ、聖都に逃げたおまえを王国に連れ戻しに行く途中でな。その時一泊している」
「げっ」
イシュルはぎゃふんと首をすぼめた。
……やばい。これは地雷を踏んだ。
リフィアが妙ににこにこと、屈託のない笑みで見つめてくる。
「ラディス王国からの巡礼者はみな、テオドールからハルンメルを経由して聖都に向かいます。わざわざ質問するようなことではありませんわ、イシュルさま」
「はは」
イシュルを挟んでリフィアと反対側を歩くミラが、かるく咎めるような口調で言ってくる。自ら墓穴を掘るようなことを言うな、もうちょっと考えろ、というわけである。聖都でリフィア主従と再会したのも、確かに大陸全土から巡礼者が集る、収穫祭の時だった。
「ハルンメル、わたしははじめてだから楽しみです」
イシュルが溜息を吐くと、後ろからニナがすかさずフォローを入れてくる。
「ハルンメルは、ラディス王国のフロンテーラのような位置づけですが、賑わいからすると一段落ちますわね。でもその分、落ち着いた雰囲気はあるかしら」
ミラがニナに振り返り、やさしい表情を浮かべて丁寧に説明する。
そこからリフィアと三人で、魔法使いの女どうし話が盛り上がる。
「……」
イシュルはその様子を横目に、ミラのさきほどの言動はニナを会話に巻き込むためだったかと、つい勘ぐってしまう。リフィアの矛先がイシュルからそれ、しっかり別の話題に移っている。
ミラはまだ若いのに、こういう気遣いというか、人をうまくコントロールできるところが何気に凄い。公爵家の生まれというだけでなく、元から賢いのだ。
「ん」
しばらく少女たちの柔らかい声、耳にやさしい会話を聞きながらのんびりと歩いていると、街道の向かいの、丘の影から十名ほどの人々の集団が現われた。
ひとりだけ乗馬し、数頭の荷馬を連れている。乗馬しているのは薄いスカーフを被った女で、物々しい兵装の騎士や兵士はいないが、男たちは平服でもみな剣を差している。
……商人ではない。馬上の女は、どこぞの領主家に連なる者だろう。
一団には侍女も何人かいる。見た目の雰囲気は、こちらと似ているかもしれない。
ただ、こちらはミラが頭にスカーフを巻いてその派手な髪型を隠しているものの、リフィアはそのまま、長い銀髪を派手になびかせ、比較にならないほど目立ってしまっている。
イシュルたち一行が近づきすれ違う段になると、下級貴族か小領主家か、向かいの一団に小さな動きがあった。
馬上の女が、馬を曳く供の者に声をかけるとその場で下馬し、イシュルたちに向かって頭を下げてきた。同行する者たちもみな、女の行動を見て立ち止まり、左手を胸に当てより深く頭を下げてきた。
「……」
イシュルは彼らの前まで来ても無言で、視線も合わさず何事もなかったように通り過ぎた。ニナも同じだ。リフィアはやや顎を上向け、尊大というよりは高位の貴族として、傅(かしず)かれる側の者として振る舞った。イシュルにはそのように見えた。
シャルカはいつものごとく、ルシアやロメオらは目線を下げ急ぎ足に通り過ぎた。
ミラだけが馬から降りた女に対し、微笑を浮かべ会釈を返した。
馬上の女は、聖王国の大貴族であるミラに対して下馬し頭を下げたのだ。彼女はあるいは、ミラのことを知っていたのかもしれなかった。
「こちらにはひとり、やたらと目立つやつがいるからな」
イシュルは貴族家の一行か、彼らとすれ違うと、横目にリフィアを見て言った。
……立派な長剣を差し、銀髪をなびかせ颯爽と歩く美貌の女剣士。騎乗でなくとも、卑しからぬ身分の者であることは誰の目にも明らかだ。
「ふん」
リフィアはつんと澄まし顔になると、ミラの方に顔を向けて言った。
「彼の者はミラ殿に気づいて目礼したのであろう。聖王国で、赤い魔女を知らぬ貴族などいないのだ」
「いえ……」
ミラはそこでなぜか、浮かない顔になってイシュルを見た。
「あの者たちは私よりも、イシュルさまに頭を下げたのかもしれません」
「はっ? 俺?」
イシュルは己を指差し、叫ぶように言った。
「ふむ。そろそろおまえの活躍が下々の者にも広まる頃合いだな」
「えっ」
「あの赤帝龍と戦って勝ったんですからね。夏が終わる頃には連合王国やベルムラの方にも広まりますよ」
と、後ろからはニナ。
「イシュルさまのお歳や外見も、広く伝わっていくことでしょう」
「……」
イシュルは難しい顔になって、視線を遠く彷徨わせた。
畑地や雑木林、草原がまだらに広がる丘の彼方、地平線は薄く霞んでいる。
……俺ひとりじゃない。ミラとリフィアも一緒だから、特定しやすいだろう。
今回は戦(いくさ)でも、人外魔境の探検でもない。ただの旅行と変わらない。
アルサールに入国し、湿地や森の中にでも入らなければ、常に人々の往来のなか、彼らと間近に接しながら移動することになる。
時には行き交う人々の、好奇の目にさらされるようなことさえあるかもしれない。
まさか、ソレールに到着する前に、アルサール大公国の連中に知られてしまうかもしれない。
行く手は視界不良、というわけか……。
イシュルは眸を細め、夏の湿気に霞んだ空を見やった。
付き合いの煩わしい貴族や領主を避け、街道沿いの村落の取次ぎや小豪族の屋敷、街の宿屋などに泊まりながら街道を行くこと八日目、イシュルたちはハルンメルに到着した。
ハルンメルは聖王国北部では最も大きな街だが、ラディス王国南部の要衝、フロンテーラと比較するとかなり、ひと回り以上小さい。両市とも街道の四通八達しているところは同じだが、ハルンメルにはフロンテーラのような大きな川が流れていない。河川水運の有無が、街の発展に関係しているように思われた。
……とはいっても、ハルンメルが大きな、賑やかな街であるのは確かだ。腕利きの職人も多い。傷んだ上着やブーツは何としても、作ってもらった同じ職人に直してもらいたい。
イシュルは古い城門の前にできた行列に並んで、背筋を伸ばし前方を見た。
「かなり厳しくやっているな」
リフィアも行列の前の方を見て、誰にともなく呟くように言った。
「ソネト村であんなことが起きましたからね」
ミラが続けて「多くの軍勢や人夫たちが集って、大騒ぎになりましたから。念のため、検問を厳しくしているのでしょう」と言い、ルシアに顔を向けて目配せした。
「……」
ルシアはミラに無言で頷くと、前方の城門の方へ足早に歩いて行った。
幅の広くなった道の先には、蔦の絡まった古い門塔を備えた城門が、左右を二階建ての民家ほどの高さの城壁が途切れ途切れに続いている。市城の門前は石畳の広場になっていて、洋漆喰や石積みの建物で囲まれている。昔の城壁の外側に立派な市街が形成されているのだが、検問はその城壁の内側、旧市街に立ち入る者に対してのみ、行われているのだった。
ハルンメルは古くからある街で、旧市街の中央にはさらに古い、ウルクの頃から続く街区があった。今は聖王家騎士団から分派された小部隊が駐屯し、騎士団本部や宿舎、王家の代官が常駐する行政府や主神殿があり、一般の領民は住んでいない。
ハルンメルの市政は変わっていて、旧市街は聖王家が、新市街は東西南北に四分割され、近隣の領主たちによって統治されていた。ただ、領主が違っても、街の住民はそれぞれの街区を自由に行き来でき、住まいを変えるのも比較的簡単にできた。
しばらくすると列の前の方がざわつき、聖王家騎士団の正騎士だろう、身なりの良い若い男が二名の従兵を引き連れ、イシュルたちの前にやってきた。
騎士の男は目端がきく方か、リフィアやニナはもちろん、一瞥しただけでイシュルにもお辞儀をし、最後にミラの前に来て、左手を胸に当て片膝立ちになった。
「お待たせしました、ディエラードさま。こちらへどうぞ」
男はさっと立ち上がると左手を城門に向け、腰をかがめてミラに笑顔を向けた。
「ありがとう、騎士殿」
若い正騎士は容姿もよく颯爽として、少しキザな印象を受ける。
だがミラは男に手を差し出すことはせず、イシュルに声をかけた。
「では参りましょう、イシュルさま」
「……」
あまり人前で、俺の名を呼ばないでほしいのだが……。
しかしソネトで何が起きたか、少しでも事情を知る者なら、ミラ・ディエラードの傍に佇む同年代の若者が誰か、容易に想像がつくというものだ。
イシュルは苦笑を浮かべ、ほんの少しおどけてミラの差し出された手をとった。
宿は旧市街でも中心部に近い「月雲亭」、豪商や貴族が私用、お忍びで宿泊するのによく使われるという。ハルンメルでも古くからある街区の、比較的静かな一角にあった。
イシュルは早速、翌日にはロミールを連れ、以前に上着を特注した仕立て屋に出向いた。商人ギルドの事務員になんと、王金貨(ラディス王国金貨)を握らせて教えてもらった、街一番の腕利きと触れ込みの工房だった。
場所は職人街のど真ん中、表側は馬車がしっかり通行できる幅広の道に面していた。
「じゃあ、これを直すってことで」
その工房のまだ三十手前くらいか、職人頭が作業台の上に広げられた黒革の上着を見ながら言った。
「ああ。それと厚手の綿布で、同じ形で作れるか?」
「できるが……、今、混んでるからひと月ほどかかるけど」
「一ヶ月?」
イシュルは驚いた声を出した。
「あんたも聞いてるだろ? 東の山の方で最近、あの赤帝龍が聖堂の風の大魔法使いに斃されたんだ。それで諸侯軍や聖都の神官さまがたくさん現地に集ってる」
職人頭はソネト村での騒動をイシュルに説明した。彼はラディス王国も出張ってきて、両国で宝の山である赤帝龍の死骸を取り合っていることも知っていた。
「それで聖堂の魔法使いというのは?」
イシュルは男の口にしたある言葉に、あえてその意味を質問した。
……“聖堂の風の大魔法使い”というのが誰を指しているか、百も承知なんだが。しかし、はじめて聞いたぞ……。
「ああ、それはさ、前の悪い王様を倒して、風神さまが誉めてくれたっていう……名前は何て言ったけ」
「いや、いい」
イシュルはそこでぴしゃりと男を遮ると、背後から視線を感じて振り返った。
壁際のテーブルに向かって座り、お茶を飲んで待っていたロミールが曰くありげな視線をイシュルに向けていた。
「ロミール。おまえも服、何かつくるか?」
「い、いえ」
ロミールはイシュルの押し殺した低い声に、顔を強張らせて何度もかぶりを振った。
「この街も景気がいいみたいですね」
工房を出て宿へ帰途につくと、ロミールが声をかけてきた。
結局、職人らが忙しく、上着を新調するのは取りやめになった。
「まぁ、そういうことになるよな」
ソネト平原であれだけの兵馬や人夫、神官らが集り、城や神殿が建設されているのだ。
周辺の他の街や村も、さぞ潤っていることだろう。
「しかし、聖堂の魔法使い、とは」
イシュルは呆然と呟き、深い溜息を吐いた。
だがこれも仕方がないことだった。大聖堂でビオナートを倒し、風神イヴェダが降臨したのだ。このことを聖堂教会が喧伝しない筈がなかった。
しかも、イヴェダが一瞬で消し去った大聖堂の再建費用を、その風神の名をもって集めたらどうかと、大神官のリベリオ・アダーニに提案したのは、他ならぬイシュル本人だった。
直しに出した黒革の上着は、粘り強く交渉を重ね、五日後に上げてもらうことになった。
その日は続いてロミールとともに、靴職人の工房、金物、小物屋などに寄って旅の必需品、消耗品をとりそろえた。
女性陣も同じように日用品を取り揃え、リフィアとニナは出来合いのドレスなどもサイズを直し、購入したということだった。しばらく滞在するミラの領地、デルベールでは晩餐会なども催されることになる。彼女たちには欠かせないものだった。
イシュルはその手の衣服は持ち合わせていなかったが、ミラの方でいくらでも手配できるということで、あえて購入することはなかった。
デルベール城にはミラの兄弟をはじめ、公爵家の男子の着古しがたくさん残されていた。
ハルンメルに滞在中はミラたちでまた取り決めがなされたのか、イシュルは初日にリフィア、続いてミラ、ニナと日替わりで“デート”に出掛けた。市街の市場を見て神殿前の広場で買い食い、郊外の牧場や果樹園などに出向いた。
主人がイシュルと出掛けた日には、ルシアやロミール、セーリアとノクタらも買い物に出掛けた。シャルカも一緒だったか、彼女が何をしていたかはわからない。
そうして数日が経った日の朝、イシュルは泊まっている三階の部屋の窓から、外の通りを見下ろし眉をひそめた。
「うーむ」
薄く曇りのあるガラスの向こう、街路にひとり、ふたりと七、八名の住民が立ち止まって、イシュルたちの宿泊している月雲亭を見上げている。
……昨日はせいぜい二、三名くらいだった。意識し過ぎかな、と思っていたのだが。
道端に突っ立ってこちらを見ている連中は、明らかに俺たちの、俺の噂を耳にして来たのではないか。
聖都での政変に風神の降臨、そして今度は北の国境付近で赤帝龍が滅ぼされた。聖王国の人々にとっては特に、驚天動地の出来事が連続して起こった。その中心人物が今、ハルンメルに滞在している。
さすがにネットやテレビ、新聞さえない、まともな情報媒体のないこの世界でも、その噂はあっという間に広まるだろう。
……少し油断した。甘く見ていたかもしれない。
今日は直した上着を取りに行く日だ。
なるべく早くハルンメルから退散するべきだが、もう、のんびり徒歩で街道を行くことはできないかもしれない……。
その日、イシュルはひとりで工房に出掛けたが、月雲亭を出た途端、街路に佇む住民の目がいっせいに自分に向けられるのが、はっきりとわかった。
「裏から出るといい」
工房では去り際、いつも応対に出ていた職人頭の師匠か父親の老人が、奥の仕事場から出てきてイシュルに声をかけてくれた。
上着を受け取り、金を払って外に出ようとすると、十名に満たないがやはり道端で足を止め、工房の方を見ている通行人の姿が見えた。
「あんたこそはもしや、聖堂の魔法使いじゃろう」
「そ、そうだな。人目につくのがいやなら、裏から帰った方がいい」
職人頭は露骨に緊張して、引きつった顔で言ってきた。
「悪いな。そうさせてもらおう」
イシュルは老人に案内され、幾つもの部屋を通って工房の裏側に出た。街の裏側はどこも同じ、井戸があり、ベンチがあり、たまに木が生え、そして多くのがらくたで埋もれ雑然としている。
イシュルは親方に小さく頷き、目で挨拶すると音もなく跳躍し、周りの建物の赤い屋根向こうに消えた。
翌日の朝には、さらに多くの人々が宿の前に集っていた。
「これはまずいですわね」
ミラはルシアと計って馬車を二台、荷車一台と馬を数頭、その日のうちにあらたに用意し、翌早朝、人出の少ないうちに月雲亭を出発、ハルンメルからデルベールに向かった。
馬車と騎馬には主従の関係なく、互いに交替して乗り換えた。イシュルも馬に乗った。
ハルンメルの市街地を抜け、まだ人影のない街道に出ると、ミラは同じ馬車で隣に座るリフィアを見て微笑み、ついで正面に座るイシュルに顔を向けた。
「デルベールでは、ハルンメルのようなことは起きませんわ」
確かに彼女の領地では、公爵家の居城に滞在することになっている。
「それに、向こうについたら面白い趣向を用意しているんだ」
リフィアも笑顔になって言った。
……いったい何を思いついたのか。ふたりとも、妙に機嫌が良い。
「それは何だ?」
「はは」
「ふふ。それは秘密、ですわ」
その時、馬車の屋根の上、高い空を一陣の風が西に向かって吹いた。
イシュルだけが、それを感じとった。
──何の兆しか。
ミラとリフィアは楽しげに笑顔を見合わせた。
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