秘密会 1


 

「じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい。きっ、気をつけて」

 外出するイシュルの声が震えている。

 見送る側のロミールの声も怯えている。

「……」

 イシュルはほんの僅かの間、揺れるロミールの眸を見つめると即座に身を翻し、夜闇の中へ踏み込んだ。自らの起居するテントを出て、昼間の喧騒からようやく静寂の訪れた夜の草原を北へ、ラディス王国の陣地へ向かった。

 夜露に濡れた草葉が、足裏にしっとりと柔らかい音を立てる。

 その時ふと、心中に脈絡のない想念が浮かんだ。

 ……女には、不可解な二面性がある。

 イシュルは心の底を這い回る恐怖を鎮めるために、その怖れから目を背け、気を紛らすためだけに、向かう先の用件とまったく異なることを考えた。

 ……いや、人の心は複雑で、絶えず変化している。不可解という表現は的確ではないし、単純に二面性などと言い切ることはできない。ある人物が思わぬ一面を、心のうちを見せてくることは普段、日常においても往々にしてあることだ。

 そんなことは前世で、いやというほど経験してきたじゃないか。

 辺りの丘上に瞬く大小の灯火。その明かりに熔(と)けるように、星々が頭上を覆っている。

 足下の草むらは水気を含み、昼間と感触がまったく違う。

 ……つまり、これから向かう先で彼女たちがどんな言動をするか、それが問題なのだ。

 長いつき合いで気心の知れた相手でも、ある日突然、豹変することだってある。

 こんなあらたまった、極秘の夜会を催すのだ。彼女たちが、今まで知らなかったまったく違う一面を見せることも、話し合いがとんでもない方向へそれて破綻してしまうことも、何だって起こり得るのだ。

 ──そう、ふと気づくと結局はまたそのこと、向かう先のことを考えているのだった。すべての思考はその目前に迫った危機に、直結していくのだった。

 この恐怖から、逃れることはできないのだ。

「この誘い。今までの彼女らの言動を考えても、何事もなく終わることなどありえない」

 彼女達のもうひとつの顔を、きっと地獄の底を垣間見ることになるに違いない。

 イシュルは溜め息とともに独り言を呟いた。

「断ればよかったかなぁ」

 だが、この夜に彼女たちと話し合う案件には、絶対外せない重要な事柄が含まれている、筈である。

 それは数日前、新しい神の御業(みわざ)──イシュルが仮に“世界”と呼ぶ一種の結界魔法──を試したところを、ペトラやリフィア、ミラたちに見られた後、彼女たちにロメオとパオラ・ピエルカも交え、太古の水の主神殿探索の相談をしたことから端を発した。

 イシュルの相談は、水の神殿がロネー周辺の森のどこら辺にあるのか、ラディス王国側からか、それとも聖王国側か、どちらからアルサール大公国に入国すべきか、その二点だった。

 ペトラとマーヤ、リフィアにニナ、そしてミラとシャルカは、互いに視線を交わし沈思黙考、いや牽制し合ったのか──誰もすぐに答えず、特段の発言もなく、その日は各々よく考え、検討することになった。

 当日、夜になってからペトラたちはイシュルを外して彼女たちだけで集まり、何度目かの話し合いを持った。当然、イシュルはその内容を知ることができず、ただ気を揉み、あるいは闇雲に怯えることしかできなかった。

 クラウから、ペトラのテントでまた同じ面子で会合が持たれたことを知らされ、イシュルはたまらず彼に命じて、そのまま彼女らが何を話し合うか調べさせようとした。要は盗み聞きをしろということで、非常に下劣な、恥知らずな行為であったが、それでも知らずにいられなかった。恐怖に打ち克つことができなかった。

 だがイシュルの命令はクラウにあっさり拒否された。

 彼は、「王女の契約精霊であるウルオミラの目を欺くのは難しい」と言った。ロルカに頼んでも答えは同じで、イシュルはその夜、ペトラたちが何を話し合ったか知ることができなかった。

 マレフィオアが滅び“神の呪い”が解けたか、本来の姿に戻ったウルオミラは風神イヴェダの奏者、使者役であるクラウと同等以上の力を持っていた。もちろん彼女ともペトラとも敵対しているわけではないが、あの土の大精霊はこういう時、なかなか面倒な存在になったのは確かだった。

 これから先、ペトラやマーヤの動きを掴み、先手を取るようなことはできなくなるだろう……。

 それでイシュルは、不安と恐怖で悶々と眠れぬ一夜を過ごすことになった。

 ……彼女たちの何度目かの秘密の会合は、今回は間違いなく、自分の相談した件について話し合われた筈だ。そして今まで繰り返されてきた、俺自身をどう扱うか、どう接していくかの取り決めについても、今後の予定が具体化してきたことで、再び議論されたのではないか。

 つまり、水の主神殿跡を調べるにあたって、その道程や時期、参加メンバーなどについて、彼女たち個々の思惑も絡んだ熾烈な駆け引きが行われ、概略が決められたわけだ。きっとそうに違いない……。

 その駆け引きの内容が、概略の中身が問題だった。それがイシュルを一晩悩ました、恐怖させた原因だった。

 朝になると王家のメイド頭(がしら)であるクリスチナの訪問を受け、イシュルはロミールに無理やり起こされた。

「おはようございます、クリスチナさん。それで、何でしょうか?」

 ……昨晩はほとんど眠れなかった。

 しょぼしょぼする目(まなこ)をこすりながら、イシュルはいささか行儀悪くクリスチナに挨拶し、訪ねてきた理由を聞いた。

「ペトラさまからの手簡にございます」

 クリスチナは普段の厳かな表情をまったく変えず、イシュルに向かって真鍮の盆を差し出した。その上に金糸で縛られた小さな巻き紙が載っていた。

「……」 

 このあらたまった口調。この演出。……とっても危険な感じがする。

 イシュルはにわかに目を覚まし、クリスチナの顔と盆の上の書付を見比べた。

 だが、老練な女中頭の顔からは何も読み取れない。イシュルは仕方なく、巻紙をそのまま手に取って中を見た。

「本日、日没二刻(午後十時頃)に我が天幕において夜会を催すこととなった。イシュル・ベルシュ殿にはぜひご出席賜りたく、宜しくお願い申し上げる。──ペトラ」

 それはかなり端折って書かれてあったが、まさしくペトラの直筆であり、追伸として恐るべき一文が書き添えてあった。

「この件に関してはくれぐれも他言無用のこと」

 イシュルは両目を見開き、あんぐり口を開けた。顔を上げると、クリスチナの無慈悲な視線とかち合った。

 ……この、「他言無用」とはどういうことなのか。“夜会”と言いながら、まさか彼女以外に出席する者がいない、二人きりの逢瀬を意味するわけではあるまい。

「夜会、というのは……」

「詳しいことはわたくしも存じません」

 クリスチナの答えはにべもないものだったが、ペトラの側近とも言える彼女が、何も知らないというのはありえない話だった。

「じゃあ、俺はパスで」

 こんなものは危険過ぎる。とても承諾できない。

 やはり昨晩は、身の毛がよだつような恐ろしいことが話し合われたに違いない。

「……パス?」

 クリスチナは聞きなれない言葉に、らしくない間の抜けた声を上げた。イシュルはわざと、この世界で誰も知らない言葉を使った。

「今回は遠慮させていただきます」

 イシュルはそう言いながら少し悪戯な顔をして、笑みを浮かべた。

 ……この誘いがどれほど恐ろしいものか、何としてもその中身を知らなければならない。

「ご出席されない、ということですか?」

 クリスチナは眸を僅かに細め、確認してきた。

「それは困ります」

 彼女はそう言いながらもまったく動揺を見せない。ただ、何かを諦めたような顔をした。少し固さが取れたように見えた。

 イシュルに警戒され出席を断られると、ペトラに怒られるのはクリスチナだ。

 この駆け引きは圧倒的に彼女に分が悪かった。

「クリスチナさんは知ってるんでしょ? この“夜会”というのが何なのか。……なんであいつは、こんな手の込んだ真似をしたんです?」

 イシュルはさらに笑みを深くして続けた。

 ペトラを「あいつ」呼ばわりしても、クリスチナは表情をまったく変えず、咎めたりしなかった。イシュルは連合王国の侵攻から王国を救い、赤帝龍も滅ぼした大英雄であったが、それより前から王女の数少ない友人のひとりだった。

「そもそも、あなたがわざわざお出ましになるなんて、他言無用も何もあったもんじゃないですよね?」

 イシュルは片手をひらひらと振ってにっこり、クリスチナに催促した。

 ペトラの近侍筆頭である彼女が動けばそれは当然、何事かと注目を集めることになる。ペトラはそのことを知りながら彼女を使者に寄越し、一方その書付けには「他言無用」と記した。

 ……これはいつものペトラの悪ふざけなのだろうが、だからこそその事情を知らなければならない。

「この書付けを用意したのはマーヤさまなのです」

「!」

 イシュルは虚を突かれ、少し驚いた顔になった。

「マーヤが?」

「はい、そうなのです」

 ……これでペトラとふたりっきりの夜会、という線は消えたな。

 この一連の仕掛け、つまりメイド頭のクリスチナにわざわざメッセージを届けさせ、その文面には「他言無用」と書く──が、マーヤのやったことならこれは間違いなく、水の主神殿跡の件が絡んでくると考えていい。

 そして……。

「んぐっ」

 イシュルは喉をならして胃のあたりをさすった。

 マーヤがやった小細工にしてはこの捻くれた感じ。

「これはまさに地獄の夜会だ」

 イシュルはクリスチナの面前にもかかわらず、思ったことを何ら糊塗せず口にした。

 マーヤの苛立ちが、これでもかと伝わってくる。本来、彼女は素直で合理的である。それがわざわざこんなことをしてくるのである。あるいは今晩の夜会は荒れるよ、辛い目にあうよ、などと警告しているのかもしれない。

 昨晩の彼女たちの話し合いは相当に紛糾したのだろう。修羅場になって、何も決められなかったのではないか。

 だから俺に声がかかったのだ。

 とは言ってもそれは、決して俺が頼られているわけではない。今回は、今回も、俺は彼女たちの不満の的にされ、一方的に非難され、いわば弾劾される側──死刑囚のような立場に立たされるのだ。この誘いは俺に話をまとめてもらおうと、助けを請うような性格のものではない。

 これはやはり警告なのだ。心して夜会に出席せよという、マーヤのメッセージなのだ……。

「イシュルさま──」

 クリスチナはイシュルの顔を見ると、そこで押し黙った。彼女はその後に続く「なんと不憫な」という言葉を、ぎりぎりのところで飲み込んだ。

「ううっ」

 イシュルのその顔は泣きそうになっていた。

 今度は両手で胃のあたりを押さえた。

 


 朝に、そんなことがあったのだ。

 だからその“夜会”とやらに出かけるイシュルと、見送るロミールのやりとりが、あんな悲壮感あふれるものになってしまったのである。

 夜の草原をしばらく、北に向かって歩く。

 ラディス王国側の篝火が少しずつ大きく、明るくなっていく。その炎に照らされた歩哨の姿が暗闇に浮かび上がる。

 その前をイシュルが横切っても、彼らはひとりとして誰何しない。

 丸太を地面に突き立て、並べられた砦の開かれた城門を抜けると、正面に造営中の石積みの城壁が現れた。手前には空堀も掘り進められていた。

 ちらほらと見かける見張りの兵隊も、イシュルを見ても誰も声をかけてこなかった。

「ずいぶんと徹底しているな」

 ……怪しい魔法や精霊の気配もない。穏やかな夜だ、今のところは。

 イシュルが呟くとクラウの声が心の隅の方をこだました。

「ふむ、ウルオミラは?」

 ……おとなしくしているようだ。

「そうか」

 イシュルは城壁に組まれた足場の下を抜け、続いて正面に現れた緩やかな丘を見上げた。

 その視線の先、丘上にある六角形の大きなテントが、ペトラの今の仮寓だった。

 周囲はちらちらと篝火が焚かれ、歩哨が立っていたが、やはり誰も声をかけてこなかった。丘を登る途中で風向きが変わり、急に虫の鳴く声が聞こえてきた。時折混じる無粋な低音は、蛙の声だろう。

 テントの前に立つと、星明りの影になった暗がりから、リリーナ・マリドが姿を現わした。

「今晩は」

「……」

 イシュルが小声で言うと、リリーナは無言で微笑みかるく会釈してきた。

 大人の女性が、困った時に見せる本心を隠した笑みだった。

 夜目にもはっきりとそれがわかった。

「どうぞ、みなさまお待ちかねよ」

 リリーナは囁くような小声で言うと背後の垂れ幕をめくり、イシュルを中に通した。

「奥に入ったら真ん中、手前の椅子に座ってくれ」

 中には妹のアイラがいた。

 アイラもごく小さな声で短く言うと、さらに奥の、垂れ下がった布をめくった。

 イシュルはアイラにかるく頭を下げると、何も話さず奥の部屋へ進んだ。中は妙に明るく感じられ、入った瞬間かるい眩暈に襲われた。室内は複数のカンテラや燭台に火が灯され、隅の方まで明かりが回っていた。

「……」

 イシュルは小さく溜め息を吐くと、アイラに言われたとおり正面の椅子に腰を下ろした。

 目の前には年代物の、六人掛けほどの食卓があり、真正面にペトラが座っていた。銀製の燭台の照明の向こうに、機嫌の悪そうなふて腐れた顔が見え隠れする。

 彼女の向かって右にマーヤが、その手前にニナが座り、左側には奥にリフィア、手前にミラが座っていた。ミラの後ろには、メイド姿のシャルカが立っていた。彼女はいつもと同じ微動だにせず、巨大な人形のように見えた。

「でははじめようかの」

 ペトラがボソッと言う。

 この雰囲気は剣呑、と言い表してもよいだろう。皆揃って表情が固い。

「えーと、何をはじめるんだ?」

 イシュルは勇気を振り絞って声を上げた。

「夜会、ということだったが」

 ……予想通りか、最悪の展開だ。お茶も酒も出てないし、書物やカードのような大人向けの遊具の類いも用意されていない。

 一体何の夜会だというのか。

「イシュル、そなたには発言は許されておらん。静かにいたせ」

「……!?」

 はっ? どういうことだ?

「イシュルは傍聴人だから」

 呆然とするイシュルに、マーヤがさらにわけのわからないことを言ってきた。

 ……えーと、傍聴人というのは何? この場は何だ? 裁判みたいものか? これからの話し合いに、オブザーバーとして黙って聞いていろと、そういうことか。それともやはり、俺は被告人のように扱われるのか。

「……」

 イシュルは薄く笑みを浮かべ、ゆっくり無言で頷いた。

 これからどんなことが起こるか知らないが、今はまだ、俺は“被告人”にはなっていないようだ。この場は従順に振る舞い、無用に彼女らを刺激してならない。

「では水神フィオアの、古代ウルク時代の主神殿跡への探検について、二回目の審議をはじめる」

 ……審議、だと?

 イシュルは額に手を当て出てもいない汗を拭った。

 大げさな。この子らは何を考えているんだ? 王家の政(まつりごと)ではないんだぞ。

「まずは、前回のおさらいから」

 横からマーヤがぼそっと声を出す。

「……」

 リフィア、ミラ、ニナはまるで人形のように、眉ひとつ動かさない。

 ……この空気。また胃がキリキリしてくる。

「わたしはラディス王国側からアルサールに入国したい。その方が、神殿跡まで距離は遠くなるけど、道中は安全」

 マーヤがいきなり、本題から入ってきた。

 やはり昨晩の話し合いは、水の主神殿跡に関することだった。そしてまだ彼女たちの間で、意見がまとまっていないのだ。

「妾はどのみち、行けんからの」

 ペトラは口を尖らし、思いっきりいじけた口調で言った。

「ならばマーヤが同行でき、安全にロネールまで行ける、王国側から入国する案に賛成じゃ」

「ところで、マーヤが同行できない、というのは?」

「……」

 イシュルが思わず割り込むと、多少の温度差はあったが皆がイシュルを冷たい、咎めるような視線で睨んできた。

「だから言ったであろう、今は静かにしておれと」

 と、ペトラのわざと面倒くさそうに装った口調。

「それはあまりに酷い言われようですわ。イシュルさまが可哀想」

 と、ミラが傷心のイシュルを慰めようとする。確かに彼女の視線が一番、やさしかった。

「……ミラ殿」

 彼女の隣に座るリフィアが胸の前で腕を組み、ミラの発言を嗜める。

 ペトラはなだめるようにか、ミラをちらっと見やって目配せし、少し力を抜いた口調で言った。

「聖王国を縦断してのアルサール行きは、我が王国の魔導師にとって多少の危険を伴う。聖王国は本来、決して我が国の友好国ではないからの」

 ペトラに続いてニナ、そしてマーヤが発言する。

「ヘンリクさまは、わたしの聖王国入国は許すでしょうが、マーヤさまの場合はとても無理だと……」

「ニナは水の魔導師。今回は欠かせないし、水の魔法具の探索なら、こちらも魔導師を一人くらいはつけたい。でもわたしはペトラの乳姉妹だからちょっと無理。聖王国内をそんなに長い距離、移動するのは危険」

 ……なるほど、これが“おさらい”というわけか。

「マーヤ殿には本来の、王女殿下を補佐する重要な役目がある。いつまでもイシュルの面倒をみていられない、ということだな」

 リフィアが揶揄するようにつけ加えた。その眸に悪戯な色が浮かんでいる。

「おまえこそどうなんだ? そろそろアルヴァに帰らないといけないんじゃないか? 当主代理なのにいつまでサボっているつもりだ」

 イシュルは、リフィアのからかいには皮肉を込めて言い返した。

「わたしの方は大丈夫だ」

 ソネトのラディス王国の陣には、築城や輜重に従事する人夫で編成された辺境伯家の部隊も派遣されていた。クシムで赤帝龍と戦い、多くの兵馬を失った辺境伯軍は未だ再編の途上にあり、正規軍を送る余力がなかった。リフィアはその部隊の指揮官を通じてアルヴァの家族や家令のルマンドに書簡を出していた。

「……」

 つまらん。

 イシュルはリフィアの説明を聞くと唇を尖らし押し黙った。

「でも、アルサール大公国の北部、ラディス王国側からの入国となると、今度はわたしが危険な立場に置かれます。ラディス王国から入国すれば、大公国は皆さまを歓待するでしょう。とても内密に、とは参りませんわ。イシュルさまが同行していることも知られてしまい、わたしもたとえ変装して身分を偽っても、いずれ大公国側にばれてしまうでしょう」

 ミラは眉間に皺を寄せて悲しそうに言った。

 ……ミラは美人な上に、くるくるの金髪だからなぁ。変装したって意味がない。シャルカも同行するわけだし、どうしたって“聖王国の赤い魔女”と相手に気づかれてしまうだろう。目立ち過ぎるのだ。

 大公国側にバレれば、その場で早速大立ち回りがはじまるだろう。

 聖王国とアルサール大公国は仲が悪いが、特にアルサールの聖王国に対する敵意は激しいものがある。ディエラード公爵家の“赤い魔女”と知れたら、是が非でも討ち取るか、捕えようとするだろう。

「それだけではない。ミラ殿がいようがいまいが関係なく、大公国のお歴々にイシュルの入国が知られれば、また何ぞ仕掛けてくるかもしれん。こやつは、それはそれは貴重な魔法具をたくさん持っているからな」

 と、これはリフィア。

 ……こいつ。今晩は妙に俺に絡んでくるな。

「まぁ、そういうわけでどちらからアルサールに入るか、妾たちでは決められなかったわけじゃ」

「ラディス側から入国すると、イシュルはまた面倒なことに巻き込まれるかも知れない。それは嫌だよね?」

 マーヤがいつもの感情の薄い、黒い眸を向けてくる。

「ああ」

 当然だ。そんなの決まってる。面倒事はごめんだ。また何かに巻き込まれるなんて、絶対に嫌だ。

「だから今晩、呼んだの。本当はわたしたちで意見をまとめてから、イシュルに検討して、決めてもらおうと思っていたんだけど」

 マーヤの視線が離れない。

「イシュルとしては王国側からアルサールに入国するより、聖王国のソレールから潜入する方に賛成だよね、やっぱり」

 マーヤの声が心なしか沈んで聞こえる。

「まぁ、そうだが……」

 マーヤ、そんな顔するな。

 彼女だって当然、行きたいだろう。連れていってあげないと可哀想だ。

「……」

 その時ふと、この場にいない誰かの視線を感じた。これは……。

 ペトラの顔。その眸の奥に人影が浮かぶ。

 俺でも、他の誰でもない。

 ……ペトラは王女であるから、杖殿と同道できぬ。この娘のただひとりの朋輩、マーヤは残していって欲しいのじゃがな。

 その声とともに、ペトラの背後に美しい貴婦人が姿を現した。ペトラの精霊、ウルオミラだ。

 ……杖殿、そのまま。

 声をかけようとしたイシュルに、ウルオミラが待ったをかけた。

 周りを見ると皆、ペトラでさえ彼女に気づいていないようだ。

 ……本当に恐ろしい精霊だ。この気配の消し方と現し方の巧みな使い分けは、風の大精霊のそれと変わらない。

 ウルオミラはイシュルにだけ姿を見せ、その心に話しかけてきた。

 ……ペトラも杖殿と一緒に行きたいであろうに、不憫なことよ。マーヤがいないとこの娘も寂しいであろう。それにこの火の魔女は、政(まつりごと)においてもペトラの力になってくれる。

 ……ああ、わかったよ。

 イシュルが心の中でウルオミラに頷き同意すると、ほぼ同時にリフィアが話しかけてきた。

「イシュル、厄介だからと逃げてはだめだぞ。神の魔法具など、そう簡単に手に入るものではない。揉め事、荒事おおいに結構ではないか。冒険とはそういうものだ」

 リフィアの目が笑っている。俺をからかい、挑発しているのか。

「おまえも、王国側からアルサールに入国するのがいいのか?」

「いや、わたしはどちらでも良いぞ。特に拘りはない」

 イシュルが問うと、リフィアはミラに微笑み、次にペトラに向かって丁寧に会釈し、イシュルに答えた。

「どうせおまえのことだ、聖王国からアルサール領に入っても、何か面倒ごとに巻き込まれるに決まっている」

「……はは」

「むっ」

 ニナが小さく、脱力した笑い声を上げる。

 他の者も皆、ニナと同じように苦笑している。イシュルだけがむすっと不機嫌な顔になって微かに呻き声を発した。

「リフィアさんの言うとおり、困難を乗り越えてこそ、大切なものを手にすることができるのかもしれません」

 ミラはどこか遠くを、宙を見つめて言った。

「でもわたしは、大聖堂でビオナートさまと戦った時に風神が降臨したように、イシュルさまにしか起こせない奇跡を、神秘をこの目で見たいのです。その場に臨み、体験したいのです。ならば無用なことに関わらず、力を温存しておかなければなりません」

「水の主神殿跡に着いたら、何かまた、とんでもないことが起きるかもしれない。だから無駄なことに関わっているヒマはない、ということだな。……もっともな話だ」

「……」

 イシュルは顔を俯けて薄っすらと笑みを浮かべた。

 ……ということで、基本に戻ったな。リフィアの言ったように、冒険に胸を踊らせるのも結構だが、目的は水の魔法具を得ることだ。その時に何か起こるかもしれない、備えておかないといけない、というミラの考えは、まず最初に考えておかなければならないことだ。

 そして……。

 水の主神殿か、その手前のどこかで月神が罠を張っている、というわけだ。

「ミラの考えはもちろん、リフィアの冒険を求める気持ちもよくわかるよ。赤帝龍やマレフィオアも、……神の魔法具も、そうそうお目にかかれるものじゃないからな」

 イシュルはそこで言葉を切って一同の顔を見渡した。

 彼女らは俺と一緒に行きたいだけ、ただそれだけを考えているわけじゃない。

 皆、自分の命をかけるほどの意気込みで、この冒険に挑もうとしているのだ。

 未だかつて俺以外に、複数の神の魔法具を持った人間はいない。少なくとも記録は残されていない。そしてウルク王朝以後、神々が人々の前に姿を現したことはなかった。王朝以前の伝承さえ、本当かどうかはわからない。だが昨年、大聖堂に風神イヴェダが降臨した。

 ミラの言うように今この時、大いなる神秘の扉が開き、その奥へ足を踏み入れる、その先を覗き見ることができる、千年に一度としてない一大事が起きているのだ。

 魔法使いである彼女たちにとって、この機会を逃すことなど有りえない。皆、その神秘を追求する力を、資格を有しているのだ。それだけの魔法具を持ち、魔法を学び、その身分にふさわしい教養を持ち、正義を信奉している……。

 リフィアの言動はそういうことだ。彼女にとってはどこからアルサールに入ろうが、どのルートで水の主神殿跡に向かおうが、大した意味はないのだ。水の魔法具が絡むのなら、どうしたって平穏無事にことは進まない、そう考えているのだろう。

 彼女が妙に俺に突っかかってきたのも、そのことを伝えたかったからだろう。俺に知って欲しかったのかもしれない。

 これでリフィアは中立、ニナはペトラとマーヤの意見に従うと決めているようだ。聖王国側からアルサールに入り、水の神殿跡に向かうことを推しているのはミラだけだ。

 そして俺もミラと同じ、聖王国側から入国する方に賛成だ。そちらの方が、面倒ごとに巻き込まれる可能性が格段に低い。

 これだと両論ともほぼ拮抗して決着がつかない。昨晩の話し合いで、ミラは自らの意見だけでなく俺の考えも考慮し、結論を出すのに強硬に反対したのだろう。それで議論は紛糾し、彼女たちで意思統一することができず、俺が予定より早く呼ばれた。ペトラとマーヤの計画、つまり彼女たちの決定したラディス王国側からの入国を、俺に無理やり飲ませ思惑どおりに進めること──は、うまくいかなかった。

 本当はマーヤの気持ちも無下にできないところだが……。

「……」

 ちらりとペトラの背後に浮かぶウルオミラを見ると、彼女は興味深そうにこちらを見ている。

 やはりあの威厳たっぷりの精霊の言うとおり、ペトラの許にマーヤを置いていった方がいいだろう。水の神殿跡に行くのもまた、どんな危険が潜んでいるかわからないし、二人を引き離すのはお互いに不幸だ。

「どちらの経路を選んでも、面倒ごとがついて回るのは確かだろう。だがその中身を考えると、俺はやはり聖王国を南下し、ソレール周辺からアルサール大公国に入るのがいいと思う」

 イシュルはマーヤを見て笑みを浮かべた。

「マーヤはペトラと一緒にいてやれ」

 ペトラは王都に帰ってからも忙しい日々が続く。マーヤが傍にいて本来の役目、ペトラを補佐することができるのならそれに越したことはない。

「うん……」

 マーヤは仕方がないか、という顔で小さく頷いた。

 どういう顔をしていいかわからない、と固まっているペトラの頭上で、ウルオミラが薄い笑みを浮かべた。

「ふん。ならば聖王国、ソレール経由で決まりだな」

「良かったですわ」

「ニナ、後でわたしのところに来て」

「は、はい……」

「うーむ、仕方がないかの」 

 リフィアにミラ、ついでマーヤとニナ、最後にペトラが呟くように言った。

 そこへウルオミラがイシュルの心の中へ、かぶせるように言ってきた。

 ……せいぜい気をつけることだ、杖殿。

「!!」

 イシュルは視線鋭く、ウルオミラを見つめた。

 正面のペトラ以下、皆おしゃべりをはじめて、緊張した顔つきになったイシュルに誰も気づかない。

 ……妾もそなたの役には立てぬ。ただ杖殿の無事を祈るだけ、じゃ。

 ……ウルオミラ、何を知っている?

 ……何も知らん。フィオアのことも、レーリアのことも。

「こいつ」

 イシュルは口の中で呻いた。

 ……しっかり、知っているじゃないか。

 ……他の神々のことは埒外じゃ。妾でもよく知らん。いずれにしても、杖殿にしかできぬことじゃ。

「むっ……」

 目の前を少女たちの賑やかな会話が飛び交う。その奥に浮かぶ貴婦人の姿を、イシュルは恨めしそうに見上げた。

 ウルオミラは、イシュルのこの先の苦難を思い、ペトラの大切な乳姉妹のマーヤを彼から遠ざけたのだ。

 ……こいつはそのように、俺を誘導したのか。

 ウルオミラが言ったこと。

 俺にしかできないこと、か……。

 イシュルは肩の力を抜くと、椅子の背にもたれかかった。

 その唇がわずかに歪む。

 ……さすが地の大精霊、よくわかってるじゃないか。

 水の神フィオアと、運命の神レーリア。

 相手が相手なのだ。これだけの力を手にしても、なおその隔たりは大きく、はるかに遠かった。





 北へラディス王国の旗が、南へ聖王国とディエラード公爵家の旗が、薄曇りの空を切り裂くように動いていく。両軍の兵馬が列を組み、草原を南北に分かれ静々と進んでいく。

「うーむ、なかなか壮観じゃな」

「ふむ、当家の旗はいつ見ても麗しく猛々しい。やはりいいものだな」

 イシュルの両脇に佇むペトラと、ディエラード家の双子の兄、ルフィッツオがわけのわからない感嘆の声を上げている。

「あのー、そろそろ出発した方がいいんじゃないですかね? ペトラ、おまえもだ」

 イシュルは片手で額を押さえ重い溜息を吐くと、ルフィッツオに、続いてペトラに顔を回し剣呑な声で言った。

「まぁ、大丈夫だよ、イシュル君。そんなに気を揉まなくても」

「心配ない。後で追いつくから」

 対して気の抜けた口調で答えたのは、ルフィッツオの隣に立つ弟のロメオと、同じくペトラの隣にいるマーヤだ。

「なんじゃ、イシュルは。厄介払いかえ? そなたは妾のこと、そんなふうに思っておるのか? ん?」

「……」

 イシュルは無言で、さらに顔を歪めた。

 どいつもこいつも……。妙に絡んできやがる。

 絶対に相手しないからな。

「いや。わたしたちも、最後にもう一度、ミラに挨拶していかなければ」

 反対側からはルフィッツオがごく真面目な顔で、独り言のように誰にともなく言う。

「まぁ、お兄さま。もう何度もお別れの挨拶を致しましたのに。まだ足りませんの?」

 苦笑するロメオの傍で、ミラが「おほほ」と口許に手の甲を当て、上品に笑っている。彼女の後ろにはシャルカが日傘をさして、ミラの頭上に傾けている。シャルカはいつもの仏頂面だ。

「ルフィッツオ殿、そんなに妹君(いもうとぎみ)と別れるのが名残惜しいのなら、どうでしょう? わたしたちとハルンメルあたりまで同道しませんか?」

「はっ?」

 イシュルは思わず声のした方、真後ろへ振り向いた。

 面倒なことを言い出したのはリフィアだ。当人の顔を見ると、にやにやと笑っている……。

「いえ、けっこうですわ。戦(いくさ)でもないのに、そんな大所帯で移動するなんて」

 ミラはミラで何か魂胆があるのか、双子の兄を嫌っているわけでもないのに、らしくない剣幕でリフィアの提案に異を唱える。

「騒がしい旅はイシュルさまの望むところではありません。お兄さま、ここはご遠慮ください」

 ミラは勝手にイシュルの名まで出して、ディエラード公爵軍との同行を断った。

「ふふ、わかったよ。ミラ」

「わたしたちが一緒では邪魔してしまう、か」

 ロミオが笑うと、ルフィッツオもすぐ察して苦笑を浮かべた。

「はは」

 イシュルはごく小さな声で、力なく笑った。

 ……そういうわけか。

 ふたりの兄が同行するとなると、ミラは彼らの相手もしなければならない。それに自らの行動を、常時見張られるような状況になる。それは彼女としても避けたいところだろう、多分。

 ……リフィアは一見、堅物な印象を受けるが、こうやって他愛もないことで誰かをからかったり、悪戯することが意外に多い。

「ん」

 ミラとリフィアへ視線を向けると、その後ろから複数の荷馬を曳く一団が近づいてくるのが見えた。

 メイド服に帯剣し、上に薄地のマントを羽織った旅装のルシアを先頭に、ロミールとセーリア、ノクタがそれぞれ馬を曳いてやってくる。

 先日の夜会、というより夜の談合で、聖王国のソレールを経由してディレーブ川を渡河し、水の主神殿跡に向かうコースに決まったが、大陸南部は夏は雨期で、ソレール周辺も雨の日が続きディレーブ川もかなり増水する。そのため神殿跡に向かうのは雨期が終わった後が望ましく、その時期は初秋、秋の一月(九月)の初旬ごろになるので、急ぐ必要がない。

 そこでソレールに向かう途中、ミラの公爵家の領地デルベールに半月ほど滞在し、旅程も基本徒歩で移動することとなった。

 徒歩に決まったのは、乗馬が苦手なイシュルの意向が強く働いからだが、それだけはでなく、当然用いる馬の数を少なくした方が費用も手間もかからずにすむ、ということもあった。

 デルベールでの滞在に関しては、ミラとイシュル以外のすべての参席者が反対したが、ミラが「大人しくしている」「謀(はかりごと)をしない」などと真剣に誓うことで、一応の決着をみた。

 これも決定の理由に、滞在の費用や気安さ、警備上の安全性など幾つかの利点が考慮されたのは言うまでもない。

 また冒険の旅に同行できるのがうれしいのか、にこにこと満面の笑みのロミールやセーリアたちを、イシュルは苦笑を浮かべて見やった。

 そこで横から、ペトラの呟く声が聞こえた。

「参ったか。そろそろお別れじゃの」

 小さな、少し寂しそうな声音だった。



「気をつけてね」

「かならず王都に戻ってくるのじゃぞ」

 もう後方に大きな道がついたのか、真っ白の二頭立ての馬車がイシュルのテントの前まで運び込まれた。

 ペトラとマーヤが、イシュルたちに別れの挨拶をしてその馬車に乗り込み、マリド姉妹ら近衛の騎士らとともに造営中の城の城門に消えると、リフィアがことさら元気な声で言った。

「ではイシュル、わたしたちも出発するか」

「いや、ちょっと待って」

 「おう」と気勢を上げる面々に、イシュルは鼻白むようなことを言って、東の空を、丘の方を見やった。

 もうミラの双子の兄、ルフィッツオとロメオも、麾下の部隊を率いて聖都に出発している。

 人が減り喧騒の幾分収まった草原の、イシュルの視線の先に、陽に黒く染まった巨大な赤帝龍の死骸が横たわっている。

 その手前に、地面から浮き出たような小さな人影と、宙に浮かぶ半透明の、身分の高そうな格好をした男の人影が見える。

 土の精霊のロルカと風の精霊のクラウだ。

「みんな先に行ってくれるか? 後で追いつくようにするから」

 イシュルはリフィアに、そしてミラやニナの顔を見回すと、かるくごまかすような笑みを浮かべた。

「赤帝龍に別れの挨拶をしてくる」

 実体化しているロルカの姿は全員に見えた。みな、イシュルが召還した精霊と別れの挨拶をするものと思って、何も言わずに先に出発していった。

「そろそろお役ごめんかな、剣殿」

 ……もうお別れ? 杖さま。

 イシュルがロルカとクラウの傍まで歩いていくと、ふたりの精霊がそれぞれ話しかけてきた。

 心の中に響くロルカの声は、気のせいか召還したころと比べると、随分と人間らしさが感じられるものになっていた。

「うん、ふたりともありがとう」

 イシュルは彼らに穏やかな笑みを浮かべ礼を言った。

「クラウには今回、あまり手ごたえがなかったかな? すまなかった」

「いや、そんなことはない。あの南の国の国王と、北の国の王女の契約精霊とやり合うこととなったのだ。仕方なかろう」

 クラウは何度か、重々しく頷きながら言った。

「……」

 イシュルは苦笑を浮かべると、彼らに帰るよう、心の中で命じた。

「では剣殿」

 ……また呼んでね、杖さま。さようなら。 

 クラウは微かな魔力を煌めかせて、ロルカは微細な土の粒子を辺りに薄く漂わせ、静かに姿を消した。

「ありがとう」

 イシュルは再び、小さな声で彼らに感謝すると、視線をゆっくりその先ヘ向けた。

 五○長歩(スカル、30m強)ほど離れた正面に、巨大な骨と鱗の折り重なった山のような塊が盛り上がっていた。南側には少し離れて聖堂教会の神殿の建築が進められている。

 陽はいつのまにか西に傾き、赤帝龍の遺骸の表面を所どころ、燃えるような紅色に染めている。一方、影になった部分はより暗く、重く沈んで見えた。

 辺りは神殿建設に従事していた人夫らも去り、人気がない。山の方の森から、ひぐらしによく似た蝉の鳴き声が聞こえてくる。あの、物寂しい鳴き声だ。

「ほんとうに死んだのか」

 ……この巨大な化け物と戦った夜、あの灼熱の炎の中で火の魔法具、燃える杯(さかずき)を手にした。

 そのことを忘れられる筈もないのに、今の赤帝龍のあまりに変わり果てた姿に、己の記憶にさえ確信がもてなくなる。

「おまえがいなければ父も母も弟も、メリリャもみんな、死ななくてすんだのに」

 リフィアの父の辺境伯も動かず、ブリガールもベルシュ村を襲わず、誰も死なずにすんだのだ。

「そして風の魔法具がなければ、おまえが人里に出てくることはなかった」

 大陸の西側にはブレクタス山塊にマレフィオアが棲み、赤帝龍はあの神の呪いを警戒していた。風の魔法具が現われなければ、やつが人里に降りてくることはなかったかもしれない。人類を滅ぼし火龍の楽園を築くには、マレフィオアにも勝たなければならない。でなければ土の魔法具が手に入らない。あの化け物に勝つのは、赤帝龍でも厳しかった。だからやつはマレフィオアと戦う前に複数の魔法具を、手に入れやすい風の魔法具を欲した。

「すべては結局、老いたレーネにかわり、俺が風の魔法具を得たところからはじまったのだ」

 紅く染まった草原を風が渡っていく。虫の音(ね)が吹き飛ばされ、紺碧に沈む東の空に消えていく。

 ……赤帝龍を滅ぼしても、火の杯を得ても、何も変わらない。

「先を目指そう」

 イシュルは伝説の龍だったものに背を向け、草原を西に向かって歩き出した。



 途中、まだ現地に残るラディス王国側のルースラ・ニースバルドとパオラ・ピエルカ、聖王国側のオルトランド男爵、聖堂教会のデシオ・ブニエルらとも別れの挨拶を交わし、イシュルはひとり、草原を南西へ向かった。

 もう日は完全に暮れて、周囲は暗闇に覆われている。

 両軍の陣も背後の闇に消え、今は虫の鳴き声もしない。

 どれだけ歩いたか、やがて前方に幾つかの光点が見えてきた。それは松明(たいまつ)の明かりだ。

 小さな灯火に微かに浮かぶ人馬の影。

 皆、イシュルが追いつくのを待っていたのだった。


 

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