【幕間】草いきれ

 


 ここ数日はよく晴れて暑い日が続いている。もう初夏も終わりだ。

 聖王国ではもっとも北にあり、東山地が近くそこそこの標高があるこの草原一帯も、真夏の猛暑から免れることはできない。

 緩やかな起伏の続く草原に森や集落は見えず、夏の日差しを避けるには点在するわずかな叢林に駆け込むしかない。

 少し南へ行った聖王国側に以前、雨宿りした牧畜農家があり、周囲は両王国の砦というより城──が造営中だが、もちろんどちらの国の建物にも気安く足を踏み入れるべきではない。

 今は表向き両陣営を均等に扱い、しっかり中立を保った方が良い……。

 イシュルの陣取る辺りも木立はなく、したがって彼のために張られたテント以外は、あの巨大な赤帝龍の遺骸の、腹部だった空洞にこもるしか強い日差しを避ける術(すべ)がなかった。

「ふぅ……」

 そのテントの前に並べられた豪奢な食卓に肩肘をつき、背を丸めていささかだらしない姿勢で座るイシュルは、気だるげに視線を周囲に巡らすと、ため息をひとつ短く吐いた。

 ……この暑さをしのぐのに、テントの他に赤帝龍の死骸しかないとは、まったくもって皮肉な話だ。

「ふふ。何黄昏てるの、イシュルさん」

 右からパオラ・ピエルカが、茶々を入れてくる。

「今日はミラがまだ顔を出さない。それで元気がないのかな?」

 と、今度は左側からロメオが、冗談だか真面目なのかよくわからないことを言ってくる。

 ラディス王国の宮廷魔導師、パオラ・ピエルカとミラの次兄、ロメオ・ディエラードはふたりとも、水の魔法を使う。

「違いますよ、もちろん」

 イシュルはわざと、うんざりしたような口調で答えた。

「ところでイシュル君はミラが今、どこにいるか知ってる? まだ寝ているのかな? 昨晩はそちらの国の、新しくできた友人方と晩餐を共にしたと聞いているが」

「ディエラードさま、それならわたくしが存じております。御家のお嬢さまはマーヤ殿やリフィア殿と一緒に、ペトラさまのテントで仲良く寝ていますわ。……ちょうど今頃、目覚めたあたりかしら」

 ロメオが、「そちらの国」のところでイシュルからパオラに視線を移すと、彼女はすぐに反応してミラの居所を話した。

「うっ……」

「……ふむ」

 腕組みし、難しい顔をして嘆息するイシュルとロメオが、まるで鏡で写したかのように同じ格好だ。

 ……ミラたちは明らかにアレだ。昨晩はまた何か不穏な話し合いを、取り決めをしたのではないか。

 イシュルは彼女らが今後さらに過激な行動に出て、その度に修羅場を繰り広げるのではないかと考え、底知れぬ恐怖に怯えた。

 いっそロミールだけ連れて、二人だけで水の魔法具探索に行こうかと思ったが、この先何が起こるか、何が必要になるか、後々のことを考えるとやはり彼女たちは外せない。それに黙って置いて行ったら後でどんな目に合うか、そちらの方が恐ろしい……。

 パオラはふたりの様子を見て、かるく笑みを浮かべた。イシュルの方がより深刻な顔に見えた。それで彼女は、少しは心安そうなロメオに話しかけた。

「ふふ。イシュルさんだけでなく、ロメオさまも楽しい方ね」

「いやぁ」

 パオラの言にロメオはだらしなく相好を崩し、後頭部に手をやり上下にさすった。

 ……パオラはなかなかの美人だ。ロメオの反応も最も、だが……。

「ずいぶんと楽しそうじゃないですか、ロメオさん。ところでピューリは元気ですか。あ、ピルサの方も」

 かつてクレンベルで出会った、エミリア率いる訳ありのパーティにいた双子の少女、ピルサとピューリ。ミラの兄のルフィッツオとロメオが一目で恋に落ちて、今はそれぞれ彼らの婚約者になっている。

「うぐっ」

 イシュルの突っ込みにロメオは露骨にたじろぐと、「コホン」とわざとらしく咳払いをしてごまかした。

 そして少し間をおき表情をあらため、真剣な顔になって言った。

「……で、今日ぼくらを呼び出したのは何の用かな?」

 ロメオはイシュルからパオラに視線を移すと続けて言った。

「彼女もぼくも、水の魔法を使うが……」

「前に水の魔法具について聞いてきたわね? そのことと関係のある話かしら」

 パオラは眸を細め、少し緊張した面持ちになって言った。囁くような小声だった。

「そうです。あれからまた確認したいことが出てきましてね」

「何かしら」

「水の魔法具に関しては、相変わらず情報がないんですが」

 イシュルはそこで一旦、言葉を切った。

 ……嘘をついた。

 水の魔法具の在り処についてはつい先日、月神レーリアが久しぶりに現れ、古代ウルク王朝時代の水の神殿跡へ向かえと言ってきたのだ。

 今までと何ら変わらず、メリリャの姿をして挑発してきた。

「いや。何も手がかりがないので、まずはウルクの頃の水の主神殿跡にでも行ってみようかと思いまして」

「そうね、それはいいかもしれないわ。確かレーネは大昔の風の神殿跡で、イヴェダから直接風の魔法具を授けられたのよね?」

 パオラが神妙な表情で何度か頷き言った。

 ……そうだ。俺も水の神殿跡に行けば、フィオアが現れ水の魔法具をもらえるかもしれない。

 月神の誘いもそういうことを言っているのだろう。

 だが間違いない。今度も連合王国の主将だった、金の魔法具を所持していたユーリ・オルーラの時と同じく、完全に仕組まれた “罠”だ。

 相変わらず俺は奴らの敷いたレールの上に乗っかっている。運命神の掌の上で踊っている……。

「はい、俺もご先祖の例にならおうかと」

 イシュルは顔を少し俯かせ、口端を歪めて薄く笑った。

 二百年前か、森の魔女レーネのようにうまくいくことは絶対にない……。

「……あ、暑くなってきたね」

 イシュルから漂う緊迫した空気に当てられたか、ロメオは上着の間から覗くブラウスの首に指先を突っ込み、息苦しそうに弄った。

「それでお二方なら、水の神殿跡の場所もご存知じゃないかと思いまして」

「ああ、……大体の場所なら見当がつくよ」

 ロメオが薄く笑みを浮かべ、少し緊張した顔で頷いた。

「確かアルサール大公国のロネーの辺りだ」

「ロネー?」

 ……知らない地名だ。

 イシュルは首を横に傾け視線を彷徨わせた。

「アルサールのロネール地方ね」

 とパオラが補足してくれる。

「はぁ」

 それでもよくわからない。少なくともアルサールのラディス王国寄り、北方ではない。

 だが、太古の水の主神殿跡がアルサールの中部辺り? にあるのは何となくわかる。ウルク王朝の時代、風の主神殿がベルシュ村の南東の森の中、太陽神の主神殿がアルヴァの辺りにあったわけだが、これら各神殿の位置関係はそのまま、聖都に存在する今の聖堂教会の各主神殿の位置に引き継がれている。レニが滞在していた風の主神殿は聖都の北にあり、水の主神殿は確か、太陽神の主神殿に相当する大聖堂の南西にあった筈だ。アデール聖堂の近く、南側だ。それを考えれば、ウルク時代の水の神殿が聖都の南西方向、アルサール領内にあるのもおかしいことではない。

「ちょうどソレールの真西、二百里長(スカール、約120km)ほどの距離かな」

「ロネーはそんな大きな街ではないと思うわ。水の主神殿跡は、正確にはロネーの聖王国側、東側に広がる森林地帯にある筈よ」

「ソレール……」

 イシュルは顎に手をやり、眸を左右にせわしなく、ロメオとパオラの顔を見やった。

 ソレールはオルスト聖王国のやや南より、西端に位置する城塞都市である。聖都の南側を流れるディレーブ川はそのまま南方へ湾曲していき、途中から聖王国とアルサール大公国の国境線となっているが、ソレールの街はそのディレーブ川の東岸に面し、聖王国中南部の国境を守る拠点となっている。聖王家にとっては対アルサール大公国防衛の要衝で、同市街とその周辺は王領となっている。

「うむ。少し前にルフレイド殿下が、サロモンさまから“ソレール大公”の名を戴き、赴任されたばかりだ」 

「そうですか」

 サロモンの弟、ルフレイドはあの時、王城の白路宮から救出する時、右足の膝下を失った。

 だが彼の命を救えたことは、自分の両親や弟をはじめ多くの者を失い、救うことができなかったイシュルにとってはじめて人の命を守ることができた、忘れることのできないとても大事な出来事だった。

「ソレールから行くのなら確かに近いけど……」

 パオラが難しい顔になって続けた。

「ラディス王国側から大公国領に入るのと違って、聖王国からだと問題になるかもしれないわ」

「我が聖王国とアルサール大公国は争いが絶えないからな」

 ロメオも表情を曇らす。

 聖王国と大公国は昔から国境線をめぐって紛争が絶えず、大きな戦争はしばらく起きていないものの、小さな諍いは毎年のように起きていた。

 そんな敵対関係にある聖王国側から大公国領へ入国するのは、確かに危険かもしれない。

 ……パオラの言うとおり、ラディス王国側からアルサールに入る方が安全だが、そうなると水の神殿があったロネーまでの距離が遠くなり、それはそれで面倒なことになるかもしれない。

 絶対にということはないが、大公国の領主らにこちらの動きを知られるのは、出来るだけ避けたいところだ。それに聖王国の大貴族であるミラの身分がバレると、間違いなく荒事になるだろう。

 中盆地のカナバルでは盗賊団を城ごと制圧したが、アルサールはさすがに国が大きく、ロネーとかいう街を制圧しても維持するのが大変だ。それに一行には俺だけでなく、ロミールやリフィア、ミラたちがいるのだから、明らかに三国を跨いだ外交問題になるだろう……。

「ちょっと難しい問題ですね。みんなが起きてきたら意見を聞いてみますよ」

 とりあえず神殿跡の正確な位置は後で調べるとして、場所が場所だけに、今回もペトラは同行できないだろう。ミラも無理かもしれない……。

「大変だろうが、今回も僕らの妹を何とか、連れて行ってもらえないかな?」

 何だかんだ言って妹が可愛く、彼女の気持ちを一番に思っているのか、ロメオが顔を寄せて言ってきた。眸の色が思いのほか真剣だ。

「あのね」

 そこで珍しく、パオラ・ピエルカが少し強引に割り込んできた。

 彼女はより真剣に、低い声で言った。

「今回もニナを連れて行きなさい。絶対にね」

「ええ、それはもちろん」

 ……水の魔法具探索なんだから、もちろん水の魔法使いは連れて行きたい。

 イシュルは気圧されるように頷いた。



「ちょっと散歩してくる」

「はーい」

 イシュルがテントの裏の方へ声をかけると、洗濯でもしているのかロミールのくぐもった返事が聞こえた。

 先ほどパオラとロメオはそれぞれ、自分の陣営に帰って行った。ミラやリフィアたちはまだ姿を見せない。

 イシュルはテントの前に並べられた、場違いに豪奢な食卓の横を通り、西側に広がる草原へ向かって歩き出した。

 太陽はそろそろ中天に昇り、草叢に落ちる自身の影は短く、足下に澱(おり)のように溜まって見える。

 辺りは北にラディス王国の砦、南に聖オルスト王国の砦が築かれ、東の赤帝龍の死骸の前には仮の祭壇だけでなく、教会の正規の火の神殿の建立がはじまった。

 周囲には大小の様々な家屋が建ち、道や石垣、井戸や排水路などが造られ、多くの人々が立ち働いている。

 もうこの草原に静寂は訪れない。火の神殿が建てば両国の軍兵だけでなく、一般の領民も集い、門前町が形成されていくだろう。

 聖堂教会の有力な神殿ができれば、赤帝龍の遺骸をめぐって今後、両国がこの地で争うことはなくなるかもしれない。

「……」

 イシュルは唯一視界の開けた、草原の西の方を見やった。

 深みを増した緑に、陽光に薄く霞む水色の空が広がっている。

 風はなく、草いきれが鼻先まで立ち上ってきた。

「次のレーリアの罠は何か」

 イシュルは声に出して言ったが、他に人は誰もいないのに、ロルカもクラウも姿を見せない。何の反応もない。

「ふふ」

 ……彼らだって、月神の罠が何か聞かれても答えに窮するだけだ。

 水の主神殿跡がアルサール大公国領にあったことはともかく、レーリアが何を企んでいるのか、それが一番の問題だ。相手はあの運命の、冥府の神なのだ。

 だが、今の俺はユーリ・オルーラと戦った時よりも、赤帝龍と戦った時よりも強くなっている。

 三つ、四つと神の魔法具が揃うことによって生まれた、新しい力。おそらくそれは、主神へレスの持つ力に近いものだ。

 結界魔法と似ている、だが決定的に違う神の御業。それは新たな世界を創造する魔法だ。

 誰も、五系統の神々でさえも行使できない、世界創造。

 その力の渦に、この世のすべての魔法は、いやすべての事象は飲み込まれ、無力化され、同化され消えていく。

「レーリアに勝つために。奴の敷いたレールの先、その掌の上から飛び立つために」

 ……この業(わざ)の修練を積む、この業を磨くのだ。

「まずはこの草いきれにそって、世界を成そう」

 小さな俺の世界。へレスの模倣。

 イシュルは今までやってきたように、目を瞑って息を整えると、おもむろに右手を前に突き出した。

 そして何かをつかむように、なぞるように指先を動かすと、その中心に新しい何かが生まれる。

 風を、火を、金を、土を。

 世界を掴み、その中心にある自分の心をなぞるように、編んでいく。

 どこかで四つの魔法具がりん、と鳴った。

 この、目に見えない新しい世界。それがもう少しで完成しようとしている。

 あとひとつ。水の魔法具が加われば、自らの“世界”がこの実世界と同じものになる。

 その時こそ神々と相見える時だ。

 また魔法具が鳴って、掌(てのひら)に“世界”が揺らめく。

 ……無窮の大地に風が吹き、水が流れる。

 炎が煌めき、鉄が打ち鳴らされる。

 繰り返される、永遠の流転。

 世界は晴れて、その先にヘレスの姿が浮かびあがる。

 太陽神のつくる影。この力の源に差す影がある。それこそは“名もなき神”なのか。

「ああ」

 ……新しい、別世界。

 俺の中の、小さな世界。神々の力の、模倣。

 それが“新世界”ならば。

 シェイクスピアかハクスリーか。皮肉に彩られたユートピア、デストピア。

 いや……。 

 文学的修辞に堕してはだめだ。意味がなくなる。

「……」

 ひとの、近づく気配がする。

 この場は今は、俺のつくった世界だ。

 自分の意志の、精神力がもつ間だけ、創られる世界。

 この力があれば、水神フィオアと同じ場に立てるだろう。

 水の魔法具を得てもう一度、己の魂をぶつけるのだ。そうすればきっと……。

「イシュル、何をしている」

 後ろで突然、声がした。

 ……俺に近づいてきた者。

 イシュルは右手を引っ込め、後ろへ振り向いた。

 その新しい力、赤帝龍の神の御業さえ飲み込んだ“世界”は、彼の拳から周囲に拡散していく。

 広がっても弱まることはない。静かな、目に見えない至上の力。

「ふーむ、これはすごい……のか?」

「……」

 イシュルに声をかけてきたのはリフィア。そしてペトラが独り言のように呟き、マーヤやミラ、ニナは無言でイシュルの周りの“何か”を見つめている。

「ふふ」

 イシュルは小さく笑うと、その力を急速に弱め消してしまった。

「それは何ですの?」

 ミラが視線を彷徨わせ、呆然と口にする。

 未知の力の残滓が、彼女たちの前を漂い、消えていく。

「ただの熱気さ。暑いだろ? 草いきれ、ってやつだな」

 イシュルの笑みが大きくなる。

 陽が眩しい。

 確かにそこにはもう、草いきれが、草叢の燃え立つ匂いが漂うだけだった。


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