【幕間】 風を追う



「イシュルが帰ってこない」

 地下神殿最奥部にて見事マレフィオアを滅ぼした、イシュルたち討伐隊一行が地上に帰還したその日。

 彼らは地上で待機していたフリッド・ランデルとリリーナ・マリドから、東の山向こうで起きた異変の知らせを聞いた。そこでイシュルは休む間もなく自身の召喚した風と金、二体の精霊を引き連れ飛び立った。

 ブレクタス山塊東側の高峰へ空を飛んで直行し、自分の目で直接確認するためである。

 イシュルたちが地上に到着する少し前、東の山に入っていた木樵(きこり)や狩人らが、夜間に山向こうの空が不気味に赤く色づくのを目撃した。それが前日あたりから、カナバルの街で怪異の噂となって、広がりはじめたのだった。

 その情報をいち早く入手したフリッドが、帰還した討伐隊の面々に相談した結果、とりあえずイシュルが単独で東の山へ確認に向かったのだが、結局その日の晩、彼は一行の許へ帰ってこなかった。

「あいつの空を飛ぶ速さなら、もういい加減帰ってきてもいい頃だ。これは絶対、おかしい……」

 その日の夜、就寝前になってとうとう我慢できなくなったか、リフィアがすこぶる不機嫌な調子で叫ぶように言った。

「……うん」

 あのイシュルのことだから大丈夫、と言おうとしてマーヤが口ごもる。リフィアの不安は、実は彼女も強く感じていたことだった。

 縦穴の傍に建てられた家屋。その一室でマーヤ、ミラとシャルカ、それにリフィアとニナが簡易ベッドを並べ、眠りにつこうとしている時だった。

「……」

 ミラも心配そうな顔になって、胸元で両手を握りしめた。

「だ、大丈夫ですよ。あのイシュルさんですよ?」

 ニナが自らを励まし、マーヤの言おうとしてやめた台詞を口にした。

「と、とにかく、ひと晩、今夜は待つ」

 マーヤは少し自信なさ気に、口ごもって言った。

 ……今はまだ、騒ぐのは早い。

 フリッドが街の猟師を雇い、“髭”の者たちとともに東の山に向かわせている。イシュルも山上のどこかで、休んでいるかもしれない。彼は土の魔法具も手に入れた。金と土の魔法が使えるのなら、冷える山上でも暖をとるのは容易い。

「む〜」

 リフィアは不安でいっぱいの顔で、自らを抑えつけるように拳を握って低い唸り声をあげた。

 少女たちは頭を寄せしばらく議論していたが、結局その夜は大人しく寝ることにした。

 その夜の明け方、空が白みはじめた頃になって、今度はミラの精霊、シャルカが異常を口にした。彼女はミラを起こし、イシュルの召喚した金の大精霊、ルカスの身に何かまずいことが起きたようだ、と知らせてきたのだった。

「……ミラ殿、どうした? 何かあったのか」

 ミラとシャルカが小声で話していると、横からリフィアが上半身を起こし、声を潜めて聞いてきた。

「あら、うるさかったかしら。ごめんなさい」

「いや、その……」

 薄闇にぼんやり浮き上がった人影が、頭に手をやり恥ずかしそうにする。

「なかなか寝つけなくて」

 リフィアの自嘲の声にはだが、隠すことのできない強い焦燥が混じっていた 。

「まぁ。イシュルさまのこと、そんなに心配ですのね?」

 ミラは口許に手を当て少し大げさに驚いてみせると、「ふふ。そんなにイシュルさまのことを想えるなんて、羨ましいですわ」とくすりと笑いながら小声で言った。

「そ、それはミラ殿とて同じであろう」

 リフィアは羞恥にわずかに身じろぎすると、その形の良い唇を尖らせ言い返した。

「ほほほ」

 ミラはかるく笑ってリフィアの言を流すと続けて言った。

「リフィアさんもこちらへいらっしゃいな。シャルカが気になることを言ってるの」

「……」

 リフィアは一瞬気まずそうな顔になると、言われたとおりに寝台から下り、ミラとシャルカの傍に寄っていった。

 彼女はミラが、己の焦る気持ちをうまくそらして、和らげてくれたことに気づいたのだった。

「金の魔法具を持つお方、盾さまが召還したルカストフォロブとは、古くからの知り合いなのだが」

 シャルカは慎重に言葉を選んで、囁くような小声で話す。

 精霊同士の関わりなど、むやみに人間に話すべきではない。マーヤやニナにまで、聞かれたくはない。

「先ほど、どこか遠くからあの者が何か叫んだような、あいつの声が微かに聞こえたような気がしたんだ」

「それは……」

「あの大精霊さまはきっと、シャルカに何か伝えたかったのね」

 リフィアが呆然と呟き、ミラが自らの頬を指先でなぞって何事か考え込む仕草をした。

「それはつまり、イシュルに身に何か起きたということだ」

 リフィアは右の拳を強く握りしめ、いきりたって鋭い声音で吠えるように言った。

「しっ」

 ミラが唇に人差し指を当てて注意する。

「静かに。マーヤさんたちが起きてしまいますわ」

「す、すまん」

 ミラとリフィアはマーヤとニナのベッドの方へ、素早く視線を走らせた。

「まぁ、ルカストフォロブの身に何か起きたのは確かだ」

「イシュルさまは金の魔法具をお持ちです。シャルカは何も感じないの?」

「うむ、盾さまの方は何も。近くにはいない、としか」

「もう我慢ならん! 物見に出した“髭”の者と街の猟師たちだったか? 彼らの帰りを待っている場合じゃない」

「リフィアさん、静かに」

「うつ、……すまん」

 リフィアはミラから再び注意され、首をすくめて小さくなった。

「……!」

 その時、シャルカがびくっとからだを震わせた。

 同時に窓外から、青色の不思議な光が差し込む。

「なに?」

 リフィアたちは窓際へ駆け寄った。

 青白く輝く室内の壁を、複数の人影が2横切る。

「空が……」

 窓から外を仰ぎ見ると、木々の梢の先に垣間見える夜空が、白夜のような薄明に変わっている。

 リフィアはいの一番に身を翻し、屋外に走り出た。ミラとシャルカが後に続く。

「これは」

「まぁ」

 リフィアとミラが、空を見上げて感嘆の声を上げた。

 周囲の草木が、家屋や地面がすべて、青白く染まって輝いている。

 空を覆う光はやがて天頂に向かって収斂していき、一文字の尖鋭な直線の輝きになった。

 夜空を真二つに引き裂く銀色の光芒は、やがて少しずつ細く短くなっていき、星々の間に完全に姿を消した。

 気づくと虫の鳴く音が、夜風のさざめきが周りに満ちて、いつもの夜に戻っていた。

 かりそめの薄明は、夜空に溶けるように消えていた。

「この異変はまさしく風の剣」

 リフィアは呆然と夜空を見上げ、唸るように言った。

 ……何か大変なことがどこかで、たぶん東の地の果てで起きたのだ。

「確かにこれは、寝ている場合ではありませんわね」

 隣でミラが、低い声で言った。

「うん。これからフリッド隊長と交渉して、すぐにもカナバルを出発することにしよう」

 後ろからの声に振り向くと、マーヤとニナが並んで立っていた。

 いつからそこにいたのか、ふたりも結局、眠ることができなかったようだ。

「あれはきっと、イシュルさんが勝ちましたね」

 ニナが確信に満ちた声で言った。

「そうですわね」

「うむ」

 ミラとリフィアも、自信たっぷりに笑みを浮かべて頷いた。

 イシュルの身に何が起きたのか、彼が誰と戦ったのか、今はまだ何もわからない。

 だが風の剣が振るわれた以上、抗する者はもはやこの地上に存在しない。それだけは確かだ。

「ではさっそく、出発の準備をはじめようか」

 一刻も早くイシュルの無事を確かめ、何が起きたか知らねばならない。

 リフィアは東の空に連なるブレクタスの山影に、その先に視線をめぐらせた。



 それからリフィアたちは今まで経験したことのない強行軍を、大陸を西から東へ、猛烈な早さで移動することになった。

 風の剣の閃光が天空を覆ったその夜、彼女たちは遅れて外に出てきたフリッド・ランデルを捕まえその場で直談判し、本隊と分離し王都へ先行することを承知させ、日の出前にカナバルを出発した。

 討伐隊から分かれ、先に王都に帰還することになったのは、マーヤとニナ、リフィアとミラ主従、マーヤの護衛役でもあったリリーナ・マリドに髭の小頭(こがしら)のエバン、それからイシュルの従者のロミールと、リフィアとミラにつけられた侍女兼目付け役のノクタとセーリアだった。

 カナバルに残ることになったのは隊長のフリッドと土の魔道師のベニト、それにエバン配下の髭の男たちで、彼らの方が人数が少なくなった。

 フリッドらはもう半月ほど滞在し、カナバルを治めることになったトビアスを、セグローやバストルたちとともに支援し、街の治安をより安定させることになっていた。

 よって戦利品の魔法具の大半はマーヤたちが所持し、先に王都に届けることになった。

 彼女ら一行は往路の何倍もの早さで王都へ向け、同じ道を引き返した。

 まずその日のうちにアゴニャ村を、続いて“土神の腰掛け”と呼ばれる峠も越え、パラゴ村の手前で野営し、翌日深夜にアルム湖畔の街、リバレスに到着した。

 復路は火龍や小悪鬼(コボルト)の群れに襲われることもなかったが、それにしても異様な早さだった。体力の劣るマーヤはエバンが、時にはリフィアまでが替わっておぶり、各自が身分に関係なく荷物を分担し運んだ。メイドのノクタとセーリアも剣の心得があり、普段から鍛えているのか、男のロミールに負けない健脚ぶりを示した。

 大陸東方の異変はリバレスでも知られ、街の一部で騒ぎになっており、深夜にもかかわらず城主のシベール男爵本人がマーヤたちを出迎えた。そして朝一番で王都に向かう船を手配してくれた。

 男爵は王都からまだ詳しい知らせを受けていず、終始不安な面持ちだった。マーヤは、ラディス王国自体に大きな災厄は起きていないだろうと、自身の見立てを男爵に話し城の者たちを安心させた。彼らが危惧していたのは、連合王国との戦争で疲弊したラディス王国に対し、王位継承の内紛を収めた聖王国が満を持して攻め込んできたのではないか、ということだった。一時、東の夜空を紅く染めた異変が、大きな戦(いくさ)の所為(せい)ではないかと考えていたのである。

 翌朝にリバレスを出発した一行は何ごともなくアルム湖を縦断、王都の目の鼻の先、ダクロフの砦に到着した。

 ダクロフからは全員騎乗し、夜を徹して王都に向かった。

 早朝、王城の南門から入城したマーヤたち一行に対し、ヘンリクの近侍の実力者、ドミル・フルシークが自ら出迎えた。王宮にはダクロフ砦からすでに早馬が出され、マーヤたちの到着が知らされていた。

「……あの日、イシュルが消えたの。東の方で、何があったの?」

 マーヤは帰還の挨拶もそこそこに、ドミルにかいつまんで事情を話し、ただ一点、簡潔に質問した。

「まだはっきりわからんのだが……」

 ドミルはそこで言葉を濁すといつもの皮肉な、さらに自嘲の混じった笑みを浮かべた。

「あの夜、どうも彼(か)の少年が突然アルヴァ南方に現われ、再び里に下りて来た赤帝龍と戦い、その場で斃してしまったらしい」

 かの少年とはイシュルのことだ。ドミルはとんでもない、摩訶不思議なことを口にした。

 彼の言うとおりなら、イシュルはほんの僅かな時間で千里の道を走り、一晩で伝説の火の巨龍を滅ぼしたことになる。

「!!」

「まぁ」

「……そう、なんだ」

「赤帝龍が……」

 ドミルを囲む者、ニナやミラ、そしてマーヤらが揃って驚愕し、あるいは得心がいった声を上げるなか、リフィアだけは顔を真っ青にして、震える声で呟いた。

 ……あの赤帝龍が死んだのか? イシュルがやった? なぜ今、人里に姿を現したのか。

 一瞬、視界のすべてを紅い炎が包み、自軍の兵らが消えていったあの時の記憶が甦った。

 いつまでも忘れることのない、忘れてはならない罪咎。クシムの山で起こった悲劇、悔恨の記憶。

「王宮で陛下がお待ちだ。身なりを気にする必要はない。ついて参れ」

 ドミルはマーヤたちに有無を言わせず、鋭い視線で睨めつけるように一同の顔を見て言った。



「よくやった。無事で何よりだ」

 王宮一階の大広間の隣室。王家の者や身分の高い貴族のみが入室できる控えの間に、国王のヘンリクが待っていた。

 室内には他に侍従長と彼の懐刀、トラーシュ・ルージェクのふたりしかいなかった。

 南窓から差す陽の角度がまだ浅く、白い壁面の部屋の中を奥まで水平に照らしている。ヘンリクはめずらしく真剣な表情で、トラーシュはあの著名な吸血鬼そっくりの顔貌に、露骨に苦渋の色を浮かべていた。

「トラーシュ」

 ヘンリクはマーヤたちの帰還の挨拶もそこそこに、いきなり本題に入った。近侍のトラーシュに説明を促した。

「アルヴァの南西百里(スカール、約65km)ほど、ケネシュの南の聖王国との国境付近に、山のように大きな火龍が落ちた、とのことです」

 トラーシュの声はいつにも増して沈痛、いや厳かに聞こえた。

「まだ領民からの伝聞ばかりですが、その大きな火龍は赤帝龍と断定してもよいようです」

「あの夜、風の剣らしき巨大な閃光が天空を覆った。その後、東の空の強烈な魔力光は消えた。マーヤ殿の報告とも併せ、このことからイシュル殿が当地に移動し、赤帝龍と闘いこれを討ち滅ぼしたと推察するのが妥当と思われる」

 ドミルがトラーシュの説明を引き継いだ。そのざらついた声が、聞く者にことの重大さをより強く印象づけた。

「というわけで、ペトラがケネシュに向かった」

 と、そこですべてをぶち壊すようにヘンリクが苦笑を浮かべ、バツの悪そうな声で言った。

「はっ?」

「えーと、それはどういうわけでしょうか」

 リフィアが思わず素っ頓狂な声で、ミラが波風を立てぬよう、小声で独り言のように呟いた。

「おじさま……」

 マーヤが周囲の目も気にせずヘンリクを睨みつけ、低い声で言った。

「また止められなかったんだね」

「はは、マーヤ。……すまん」

 マーヤの「また」が何を意味するのかはわからなかったが、ヘンリクは動揺を隠しもせず両手を上げてマーヤをなだめ、ぼそっと謝罪を口にした。

 それから「コホン」と咳払いをすると、わざとらしく表情を取り繕って言った。

「ペトラにはルースラとパオラ・ピエルカ、それにアイラとクリスチナも付けた。もちろん、わたしが命じたのだ」

 アイラはリリーナの妹、ペトラの護衛役でクリスチナは後宮も差配する王家のメイド長だ。バルスタール城塞線に滞在していた水の魔導師パオラ・ピエルカは、築城が進捗したか、他の魔導師と交代してか、王都に帰還していたらしい。

「ペトラが行きたいと騒いだのね」

 マーヤが案外に大きな声で、誰にともなく呟いた。

「……」

 微妙な笑みを浮かべるトラーシュ・ルージェクと、彫像のように固まった侍従長とドミル・フルシークの姿が、マーヤの呟きが正しいことを如実に示した。

 ヘンリクは、もう勘弁してくれといった感じで苦笑を浮かべ、マーヤに小さく頷いてみせたが、すぐに口角をぐいっと引き締めた。

「……マーヤ。もし赤帝龍がケネシュの南に墜ちたのなら、聖王国と戦争になるかもしれない」

 宮殿の一室、その白亜の壁を陽光の輝きが増していく。

 いつの間にか、陽が高く昇っているのが窓から見えた。

 ヘンリクはさらに真剣な顔になって、決定的なことを言った。

「赤帝龍の途方もなく硬い鱗は、強い牙は、イシュル君の攻撃にもすべて消えて無くなることはないだろう。……それは我々にとって計り知れない、巨大な宝となるのだ」



 ヘンリクはそれからもちろん、イシュルを追うリフィアたちに様々な便宜を図った。彼女らがケネシュに少しでも早く到着するよう、自らの名で王都街道沿いの諸侯に触れを出した。

 詳細はヘンリクから命じられた、トラーシュとその下僚たちが実行した。リフィアらが出発の準備を整えている間に各所に早馬を出し、彼女らの乗る馬や食糧などを手配した。引き続きエバンを同行させ“髭”の者たちを増員し、移動中も赤帝龍とイシュル、あるいは聖王国の動向などさまざまな情報を入手できるようにした。

 ヘンリクにとってはペトラの安全と、赤帝龍に勝利したであろうイシュルを確保し、コントロールするのに、マーヤたちの力が必要だった。

 イシュルと彼女たち、そしてルースラの三者がうまく連携できれば、懸念される聖王国との激発を回避し、あるいは厄介な駆け引きにも後れをとることはないと思われた。

 カナバルを出発した時と同じ面子で王都を出発した一行は、街道沿いの領主や取り次ぎ(村長など)の用意した替え馬に小刻みに乗り換え、全速で先発したペトラたちを追いかけた。

 フロンテーラまではちょうど、連合王国の侵攻時にイシュルとともに王都に向かった道筋と、真逆に進むことになった。

 王都を出たその日の夜半にはオークランスに到着、同地のオベリーヌ公爵家の居城で一泊し、ヨルリン、スクバリ等の街を経て三日後にはフロンテーラに到着した。

 ペトラの率いる一隊も相当な速度で行軍しているのか、かつての彼女の居城、大公城にもその姿はなく、フロンテーラに到着しても1追いつくことはできなかった。

 マーヤたちは、今は王家の代官コルンド男爵が起居するアンティオス宮殿に一泊し、バーリクから南東方向へ伸びる名もない道に入り、一路ケネシュ村を目指した。

 バーリクから先は、ケネシュ村まで複数の替え馬を手配できる領主はいない。大きな集落も存在しない。

 人気ない道はひたすら草地や雑木林が続く。初夏の、まだそこかしこに柔らかい緑を残す野中を一列になって進んでいく。

 フロンテーラを出発してから、一行を覆う空気が変わった。同じ焦燥に駆られ、緊張に満ちた彼女らの心に、それぞれ違う想いを抱く余裕ができた。

 宮殿の仮の主人であるコルンド男爵は、赤帝龍と新しい王国の剣の消息、ペトラのこと、そしてケネシュ近隣の状況をマーヤたちに報告した。

 男爵はまず、ケネシュの先の国境地帯で巨大な龍が燃えながら空から墜ちてきたこと、その巨大な龍の遺骸が赤帝龍のものであること、そしてイシュルがその赤帝龍を斃したことも、ほぼ確実だと彼女らに伝えた。

 それからオルスト聖王国側でも、近隣の領主が現地に急行していること、さらに聖堂教会や聖王家も動き出し、ヘンリクが指摘したように事態が混迷し、より深刻な状況になりつつあることを知らせてきた。

 赤帝龍が滅び、イシュルの無事が確実視されたことでみな一様に安堵したが、聖王国の動向に関してはそれぞれの立場からまったく違うことを思った。

 たとえばマーヤは、ペトラの身の安全と紛争回避、そして貴重な赤帝龍の死骸の確保と、すべての鍵となるイシュル本人を聖王国に渡さないよう考え、ミラはイシュルを守るために、ラディス王国との紛争をどう回避し、聖王家や聖堂教会の干渉をどう退けるか思案していた。

 そして赤帝龍が死んだことに、誰よりも切実に複雑な感慨を抱く者がいた。イシュルと同じ、赤帝龍に大切なものを奪われた者がいた。

 それはかつて多くの兵馬を率い、赤帝龍と戦ったリフィア・ベームだった。

 王都から仮眠のみで、まともな休息も取らずにやってきた一行に対し、コルンド男爵はペトラやイシュル宛に手紙を書くことを提案した。マーヤたちは大公城に一泊する。その間に“髭”の者たちに運ばせれば、彼女たちが現地に到着するより丸一、二日ほど早く、ペトラやイシュルのもとに届けられるだろう、ということだった。

 皆が思い思いにイシュルに、マーヤはペトラにも手紙を書いたが、リフィアは一瞬、何を書いたら良いかわからなかった。自分の気持ちを言葉にすることができなかった。そこで彼女はあまり深く考えることはせず、ただイシュルに会いたい、話したい、この高ぶる感情を彼に知って欲しいと思い、今度は置いて行いくなという意味を込めて、ただ「待っていろ」と記したのだった。

 一行の中で、赤帝龍と因縁のある者はリフィアだけではない。マーヤも己が組織した傭兵隊を失い、ぎりぎりの状況でイシュルに助けられた。だが、自らの失態で多くの兵を失い、クシムに住む多くの領民を失い、あげく父親までも仇として討たれ、深く傷つき悔恨に苛まれたのは彼女だけ、リフィアだけだった。

 バーリクから小さな街道に入るとすぐ、周りは深い草木に覆われ人家も畑も消え、人の住む気配がなくなった。行き交う者の姿もまったく、見えなくなった。

 馬上を吹き抜ける風が初夏のあの、濃い緑の匂いを運んでくる。

 水色の空は奇妙なほどに澄み渡り、行く手に遠く大山塊の青い山並みが見えた。

 みな無言で小径を、ただ馬蹄の音だけを残し進んで行く。

 リフィアはイシュルが消えてからずっと、焼けるるような焦燥にとらわれていた。

 イシュルの無事を知り、赤帝龍の死に接してからは、言葉にならない喜びと哀しみが、怒りと恐怖がこみ上げてきた。

 心の中を燃え上がる炎の色が濃く、強くなっていくのがわかった。

 クシムの山上で、巨大な炎に飲まれるように消えていった兵(つわもの)たちの姿が甦った。

 そこに何もできなかった、自分がいた。

 夕陽に浮かぶイシュルの影。紅い光を背負って微笑む少年の顔。

 生きながらえ、彼におぶって連れてきてもらったあの場所、クシムの山上でイシュルは自分に再生の道を、生き抜く力を示してくれたのだった。

 それからはずっと、彼を追い求めてきた。父を殺されても、その想いを失うことはなかった。

 その頃からずっと、心の中に燃える炎があったのだ。

 馬のひづめが土を蹴る振動が伝わってくる。小道に土ぼこりが舞い上がり、後ろへ流れて消えていく。

 見上げると太陽は、中天にある。

 その消えることのない炎で、ずっとイシュルを照らすのではなかったか。その暖かさで、彼を抱くのではなかったか。何のために、父の死を乗り越えたのか。

 ……赤帝龍と戦う時、わたしもイシュルの横にいたかった。ともに戦いたかったのだ。

 失われた兵らのために、父のために。互いの哀しみのために。

 リフィアはその、心の中に燃える炎をじっと見つめた。

 夕刻に一度、近くを流れる小川の傍で休息し、それから先は明け方までにケネシュに着くよう、休みなしで夜を徹して進むことになった。

 名もない裏街道に他に往来する者の姿はなかったが、エバンはいつ連絡がつくのか、ケネシュの先の、現地の最新の状況を手に入れていた。

 彼によればペトラはすでに、ケネシュ村の南方に布陣していたクベード伯爵軍と合流し、聖王家の者と接触しているということだった。イシュルの働きもあってか、とりあえず両国の間で矛を交えるような状況にはなっていないという。

 聖王家の者とはいったい誰か。そこまではエバンにも知らされていなかった。王弟のルフレイドはすでにのディレーブ川東岸の要衝、ソレールに赴任している。サロモンの腹違いの妹のニッツアはまだ幼い。他の王家の女性たちは、ビオナートの失脚後大半が後宮を去っている。

 もし、国王のサロモン本人が出張ってきているのなら、謀略渦巻く、全く油断ならない危険な状況になっているかもしれない。

 陽が完全に沈み、辺りが深い闇に閉ざされることになっても、一行は昼間と変わらず道を急いだ。

 先頭を行くリリーナ・マリドのさらにその先を、マーヤの精霊、ベスコルティーノが頭上に明るい炎を灯し、皆を導いた。

 マーヤによればベスコルティーノも赤帝龍の死を、火の魔法具の所有者が変わったらしいことを感じ取っているという。もうケネシュの近くまで来ているのだ。うまくすれば明日中にはイシュルに会うこともできるだろう。

 夜道を進むにしたがい、リフィアは胸中に波打つ心の振幅が大きくなっていくのがわかった。

 赤帝龍を斃したイシュルと再会する時が近づいている。赤帝龍の死骸を目にする時が近づいている……。

 たくさんの想いが胸を突き上げ、今にも溢れ落ちそうだ。

「うっ」

 不意に、泣いている自分に気づいた。

 夜風が涙をさらっていく。

 馬蹄の響きに隠れ、ひとり泣き声を上げた。

 ……なぜ涙がこぼれるのかわからない。

 クシムの山で多くの者たちが死んでいった。多くの兵らを殺してしまった。

 弱かった自分。何をしても許されない、重い罪を背負った。

 その時、奈落の底で出会った少年。

 絶望の底から、引き上げてくれたひと……。

 リフィアは命を落とした兵らを想って泣いた。己の弱さを想って泣いた。溢れる涙の底に、イシュルの顔が揺らめいた。

 ……仇敵、赤帝龍との戦いに立ち会えなかった。いっしょに戦えなかった。

 もう、二度とやり直せない。

 ああ、イシュルよ。

 わたしがもっと、ほんの少しでも強ければ。

 ともに並んで戦えたろうか。

 教えてほしい、答えてほしい……。

 うねる心のざわめき。

 リフィアは鎧を踏みしめ、鞍から立ち上がって前を見た。

 そして暗闇に吼えた。

 その情念は闇に轟き、風の中に消えていった。





 予定どおり、明け方になって一行はケネシュに到着した。

 薄明の中、その村は異様な空気に包まれていた。そこかしこに無数の人馬がうごめき、荷車や川船が折り重なるようにして寄り集まっていた。

 リフィアはケネシュ村へ向かうのにまともな街道がなく、人を見なかったのもこれで納得がいった。同村はアルヴァからフロンテーラに流れるベーネルス川の、南を流れる支流沿いにあった。

 ケネシュ村は水運で成り立つ、周辺では破格の大きな村落だった。

 とは言え、国境近くに位置し水路の通ずる村、となればなかなかの要衝の筈だが、面する河川もそれほど大きくなく、聖王国側と同じで近隣に大きな街もない。強いてあげるならラディス王国側がアルヴァ、聖王国側が南東のカハールと西にグダールがあるが、どちらもケネシュからは距離があり、聖王国側も近くに街道は通っていない。

 東山地から続く丘陵地帯が西の平野部に消える辺りで、微妙に高低差のある丘が入り組み、開墾が進まず、周辺に集落は少なく、国境地帯とは言っても草深い田舎であった。

 それが今はラディス王家の王女をはじめ多くの領主らがしゅう集い、兵馬が集中し、食糧雑貨はもちろん、築城の資材となる木材や石材も集められつつあった。

 村全体を覆う雑踏の中、一行は馬に水をやり、食事をとり、仮眠して小休止した。ケネシュ村に駐在する領主らとは、エバンとリリーナが応対した。

 そして夜明けとともに村を横切る支流を南岸へ渡河し、いよいよイシュルと両国の王家が集う、聖王国がソネトと呼ぶ地に向かった。

 ケネシュ村の対岸からは真新しい、複数の道が南に伸びていた。行く先のソネト村周辺は、一部が牧草地として使われている草原地帯で、そこに赤帝龍の死骸が山のように横たわっている、ということだった。

「まぁ、これは大変」

「凄い、です」

「お祭りさわぎ、だね」

 陽が高く昇りはじめた頃、リフィアたちはラディス王国側の諸侯が張った陣を見渡す丘に登った。

 千を超える人夫や兵らが地面を掘り、丸太を立て、砦を築いていた。周辺には無数の六角形の軍用テントが張られ、各所で他の兵士らが櫓や小屋を建てたり、井戸を掘ったりしていた。そこかしこで今日の昼食を用意しているのか、薄い灰色の煙が立ち昇っていた。その間を大小の諸侯の軍旗がはためいていた。

 ミラたちは皆、感嘆の声を上げたが、リフィアだけは無言でじっと、辺りを見渡していた。

 心中では変わらず、言葉にならない様々な感情が嵐のように渦巻いていた。

「あの霞んで見えるあたりに、聖王国の陣があるみたい」

 マーヤが魔法の杖を、南の地平線の方に向けて言った。

「そうですわね。……きっとあそこには、サロモンさまがいらしてると思うわ」

 ミラが眸を細め、遠くを見つめて静かな声で言った。

「行こう。イシュルがびっくりするぞ」

 リフィアはたまらず、声に出して一同を急かした。

「うん」

「では参りましょう」

「はい!」

 マーヤ、ミラ、ニナが返事をして馬の腹を蹴った。

「イシュル……」

 走り出す彼女らを追って、リフィアも馬を巡らした。そして思わずイシュルの名を呼んだ。

「おまえはどうだ?」

 このわたしの気持ちを、おまえならわかる筈だ。

 悲しみ、怒り、悔恨、憐憫、そして……。

 ──熱く、燃え上がるもの。

 今はまだこの激情が何か、わからない。だがきっとイシュルに会えば、赤帝龍の死骸を目にすればすぐにわかるだろう。

 馬の蹄が地を蹴り、土塊が、草が宙を舞う。行く手は多くの人馬が蝟集し、喧騒に満ちている。

 振り返れば悲哀、悔恨ばかりだ。

 あの喧騒を超えた先に、イシュルがいる。

 次は必ず、あいつの横にいる。

 ……絶対離すものか。

 胸中にうねる感情の正体は、きっとそれだ。

 リフィアは馬上にあって、再び叫びそうになるのをぐっと堪えた。

 ……この苦渋を、この悲しみをともに、イシュルと生きて、戦うのだ。

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